サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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シュミレーション

 風邪が治って、数日。

 リュウジはいつものように教室の席に座り、ノートを開いて授業を受けていた。

 

 ――ただし、いつも通りとはいかない。

 

「おーい、病み上がりの英雄さま~」

 

 ハワードが後ろから椅子を引き、わざとらしく声を張る。

 

「もう肺炎寸前だったんだろ? すごいなあ。普通の人なら“危険”って札を付けられて隔離だぞ?」

 

「うるさい。」

 

 リュウジは視線も上げずに返す。

 だが、声に棘は少ない。

 あの夜を思い出すと、揶揄われている程度で腹を立てる気力が湧かないのもあるし――何より、あれだけ心配をかけた手前、強く言い返すのも違う気がした。

 

「いや~、でもさぁ、ルナに看病されてたんだろ?」

 

 ハワードがにやにやしながら、わざと周りに聞こえる声で言う。

 

 ルナがぴくりと肩を震わせた。

 机に向かうふりをしつつ、頬がほんのり赤い。

 

「ハワード」

 

 ルナが小さく言う。

 リュウジに向けるのと同じ、距離の近い言い方だ。

 

「だって気になるじゃん! お粥、あーんってやったのか!?」

 

「やってない」

 

 ルナが即答するより早く、リュウジが低い声で遮った。

 

「ちぇー」

 

 ハワードが残念そうに言うと、メノリが前から振り向いた。

 

「授業中にくだらない話をするな。死にたいのか」

 

「死にたくない!」

 

 ハワードが即座に姿勢を正す。

 教室の空気が少し和らいで、シンゴとベルがクスクス笑った。

 

「でも、リュウジが普通に来てくれて良かったよ」

 

 ベルがほっとしたように言う。

 

「うん、熱が三十九度って聞いた時、本当にびっくりした!」

 

 シンゴも大きく頷く。

 

「……悪かった」

 

 リュウジが小さく言うと、ルナが「もういいよ」と言うように軽く首を振った。

 そのやり取りを見て、シャアラが優しく微笑む。

 

「元気になってよかったね」

 

 授業が始まり、先生の声が教室を満たす。

 モニターの文字音が一定のリズムを刻む。

 リュウジはいつものようにノートを取りながら、ふと自分の机の端に置いてある小さな袋に視線を落とした。

 

 無病息災のお守り。

 ルナが渡してくれたもの。

 

(……結局、効いたのかもしれんな)

 

 そんなことを思ってしまって、すぐに自分で苦笑する。

 そういう“縁起担ぎ”を信じるタイプじゃない。

 でも――ルナの手から渡された、という事実が、少しだけ違う意味を持っている。

 

 その時だった。

 

 前の席のカオルが、ふと振り返った。

 授業中、先生が板書に集中している隙を狙うように、短く声を落とす。

 

「リュウジ」

 

「何だ」

 

 リュウジも同じくらい小さな声で返す。

 

 カオルは一瞬だけ迷うように視線を揺らした。

 普段なら迷わず言う奴が、言葉を選んでいる。

 それだけで、リュウジは少しだけ背筋が伸びた。

 

「……可能であれば、一度、俺の操縦を見てもらいたい」

 

 カオルの言葉は静かだった。

 けれど、いつもの“軽口”とは違う。

 真剣で、真面目で、少しだけ“頼る”色が混じっていた。

 

 リュウジは瞬きして、カオルを見た。

 

「カオルの操縦?」

 

「そうだ」

 

 カオルは頷く。

 目の奥が、固い決意を持っている。

 

「来年から訓練学校に行く。宇宙飛行士になるなら、今のうちに……自分の癖を知っておきたい」

 

 言葉の端に、焦りが見える。

 いや、焦りというより、“置いていかれたくない”という感情だ。

 みんながそれぞれ進路を決めて動き始めた中で、カオルは自分をもっと高める必要があると理解している。

 

 「どうせ見るなら、ちゃんとした環境がいい。俺の技術がどれだけ通用するかも知りたい」

 

 リュウジはその言い方に、ひとつの案を思いついた。

 

「なら、宇宙管理局のシミュレーションを使うか」

 

 カオルが目を見開く。

 

「宇宙管理局の?」

 

「ああ。あそこなら、環境も設定も細かく弄れる。重力の変化、推力の遅れ、視界の制限、通信遅延……事故パターンだって作れる」

 

 リュウジの声は、いつの間にか少しだけ熱を帯びていた。

 自分が得意な領域――操縦の話になると、自然に言葉が増える。

 

「ただ、勝手には使えない。俺が話を通す」

 

 リュウジがそう言うと、カオルは一瞬だけ口元を緩めた。

 

「……頼めるのか」

 

「話しておく。ペルシアか、マリか……どっちかに連絡すれば早い」

 

 ふっと、ルナの視線を感じた。

 後ろのルナが、気になるようにこちらを見ている。

 リュウジは目線だけで「大丈夫」と伝えるように、ほんの少しだけ頷いた。

 

 カオルも頷き返す。

 

「なら、放課後に頼む」

 

「分かった」

 

 短い返事。

 それだけで、カオルの肩がほんの少しだけ軽くなるのが見えた。

 

 ちょうどその時、先生が振り返った。

 

「そこ、私語しない。今の説明、聞いてたか?」

 

 全員が一斉に姿勢を正す。

 ハワードが慌てて「聞いてました!」と元気よく返事し、先生に「うるさい」と叱られて、また教室に小さな笑いが広がった。

 

 リュウジはノートに視線を戻しながら、心の中で静かに考える。

 

(カオルが俺に頼る、か)

 

 悪い気はしない。

 ただ――その頼り方が、どこか引っかかる。

 “癖を知りたい”という言葉の奥に、何か別のものがあるような気がした。

 

 でも、今はそれを追及するより先に、やることがある。

 

 放課後。

 宇宙管理局のシミュレーション。

 カオルの操縦。

 

 リュウジは小さく息を吐き、ペンを走らせた。

 

 ――今度は、俺が見る番だ。

 

ーーーー

 

 放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気がふわりと弾んだ。

 冬休み明けのだるさも消え、みんなそれぞれの予定へと動き出す。――そして、動き出す前に誰かが誰かを捕まえる。いつもの流れだ。

 

「なあなあリュウジ! 今日さ――」

 

 ハワードの声が飛んだ瞬間、リュウジは机から立ち上がると同時にカオルへ視線を投げた。

 言葉は要らない。

 

「行くぞ」

 

「おう」

 

 カオルも即座に席を立つ。

 

 二人は、教室の熱が“捕獲モード”に切り替わるより早く、するりと廊下へ抜けた。

 背後でルナが「え? ちょっと」と言いかける気配がしたが、メノリが何か察したようにルナの肩を軽く押さえたのが視界の端で見えた。

 

 階段を下り、学園の外へ。

 冷たい冬の空気が頬に刺さる。だが、走るほどではない。急ぐ必要はあるが、焦る必要はない。

 

「……誰にも言ってないのか」

 

 カオルが歩きながら小声で聞く。

 

「言ったら面倒だ。ハワードが付いてくる」

 

「確かに」

 

 二人は短く笑い、ソーラ・デッラ・ルーナの街並みを抜けた。

 夕方の光がガラスの建物に反射し、コロニー特有の人工空が淡くオレンジに染まる。

 宇宙管理局の施設は、その中心寄り――警備の目も厳しく、入口には認証ゲートが並んでいる。

 

 ゲートの前でリュウジが端末をかざすと、無機質な音が鳴り、ロックが解除された。

 カオルも続いて通る。

 施設の中は外より少しだけ空気が乾いていて、消毒薬の匂いが薄く漂っていた。

 

「こっち」

 

 案内板を見ずとも、リュウジの足は迷いなく進む。

 何度も出入りした場所だ。

 細い通路を曲がり、奥へ奥へと進むと、ひとつの扉の前で足が止まった。

 

 扉の横のプレートには、簡素にこう書かれている。

 ――Simulation / Training Room

 

 リュウジがノックをしようとした、その直前。

 

「お、来たね」

 

 扉の向こうから、楽しそうな声がした。

 まるで、こちらが来るのを待っていたみたいに。

 

 扉が開き、マリが姿を現す。

 いつもの宇宙管理局の制服。背筋が伸びていて、目は鋭いのに、口元だけがほんの少し愉快そうに上がっている。

 

「……マリ」

 

 リュウジが一礼すると、マリは軽く頷き返した。

 

「早いね。君たち、学校終わった瞬間に逃げてきただろ」

 

「悪いが、シミュレーションをやりたい」

 

 リュウジが要件だけを端的に言うと、マリはすぐに答えた。

 

「上の許可は取ってある。リュウジから連絡が来た時点で、必要書類も回しておいた」

 

「助かる」

 

「当然だ。……それより」

 

 マリは視線をカオルに向ける。

 

「カオル、私も見学させてもらっていいか?」

 

 カオルは一瞬だけ戸惑うように目を瞬かせた。

 だが、それは拒否の戸惑いではない。

 “宇宙管理局の人間”に見られることの緊張だ。

 

「……大丈夫です」

 

 カオルが言うと、マリは満足そうに目を細めた。

 

「よし。こっちだ」

 

 マリに先導され、廊下のさらに奥へ。

 セキュリティゲートをもう一つ抜けると、空気が変わる。

 ここは実務フロアというより、訓練と研究の区画だ。

 

 そして辿り着いたのは、丸みを帯びた厚い扉――防音と振動制御のための扉の前だった。

 マリが認証を通すと、低い駆動音がして扉が開く。

 

 中は薄暗い。

 天井に走る配線、壁面に並ぶモニター、床の中央には、実機に近い操縦席ユニットが鎮座している。

 周囲にはセンサーアーム、各種ログを取る端末、緊急停止の赤いレバー。

 まるで、小さな宇宙船のコックピットだけを切り取ってきたような部屋だった。

 

「……なるほど」

 

 カオルが思わず漏らす。

 声が自然と小さくなるほど、空気に圧がある。

 

「座ってくれ」

 

 マリが顎で操縦席を指す。

 

 カオルはゆっくり操縦席に腰を下ろした。

 シートが身体を包み込むようにフィットし、肩と腰が固定される。

 目の前にはホログラムの投影窓――視界一面に宇宙が映し出される準備が整っている。

 

 一方、リュウジは壁側の操作卓に立ち、端末を起動した。

 指が素早く走り、設定画面が次々に切り替わる。

 

「リュウジ、設定は?」

 

 マリが聞く。

 

「基本は標準。補助は最低限。推力遅れは実機寄りに。通信遅延は……」

 

 リュウジは一瞬、カオルを見た。

 “いきなり厳しくしすぎると、癖を見る前に崩れる”。

 その判断が、リュウジの目に浮かぶ。

 

「……まずは無しでいい」

 

 マリが頷く。

 

「賢明だ」

 

 端末に入力が完了すると、壁のモニターにコロニーの外縁部が映し出された。

 発進ポイント、航路ライン、推奨加速曲線、燃料計算。

 宇宙船の種類は中型の旅客対応型――訓練用に調整されたモデルだ。

 

 リュウジが口を開く。

 

「まずはコロニーから火星までの航路だ」

 

 それは単純な移動に見える。

 だが、単純なものほど“癖”が出る。

 離脱角度、加速の滑らかさ、姿勢制御、微調整の頻度。

 宇宙は、誤差を容赦なく増幅させる。

 

「目的は“速さ”じゃない」

 

 リュウジは続けた。

 

「航路を守ること。燃料を無駄にしないこと。機体にストレスをかけないこと。あと……」

 

 リュウジは少しだけ間を置いた。

 

「自分の癖を隠さないこと」

 

 カオルがシートの中で息を吐く。

 

「……分かった」

 

 マリは腕を組み、壁際のモニターの前に立った。

 口元には、薄い笑みがある。

 

「じゃあ、始めようか」

 

 リュウジがシステムの最終チェックをし、指を止める。

 最後に緊急停止の解除を確認し、カオルに視線を向けた。

 

「準備は?」

 

「いつでも」

 

 カオルの声は落ち着いている。

 だが、指先だけが微かに緊張しているのが見えた。操縦桿に触れる前の、ほんのわずかな震え。

 

 リュウジはその震えを見逃さない。

 見逃さないまま、何も言わない。

 それもまた“癖”の一部だからだ。

 

「……シミュレーション、開始」

 

 リュウジが端末をタップした瞬間――

 

 部屋の照明がさらに落ち、操縦席の前面ホログラムが一気に展開する。

 視界いっぱいに、コロニー外縁の光景。

 人工の大地と空が途切れ、そこから先は真空の黒。

 星々が点のように瞬き、遠くに火星の赤が小さく浮かんでいる。

 

 「発進準備完了」の表示。

 姿勢制御ユニット、推力制御、酸素、通信、航法――すべて正常。

 

 カオルが深く息を吸った。

 

(……ここからだ)

 

 操縦桿に指を添え、スロットルに手を置く。

 目は真っ直ぐ、前方の航路ラインに固定された。

 

 ゆっくりと推力を上げる。

 発進角度は良い。

 姿勢は安定している。

 コロニーの外縁を離脱し、真空へ――。

 

 リュウジは無言でモニターを見つめていた。

 表情は薄い。だが、目だけが鋭く、ログの数値とカオルの動きを同時に追っている。

 

 マリもまた、楽しそうにその様子を眺めていた。

 まるで、これから何が起きるか分かっているみたいに。

 

 カオルは航路に乗せる。

 速度を上げる。

 その瞬間、彼の指が僅かに強く操縦桿を握り――

 

 リュウジの目が、わずかに細くなった。

 

(癖が出た)

 

 まだ序盤だ。

 けれど、序盤だからこそ、誤魔化しが効かない。

 

 火星への航路は、静かに始まった。

 そして同時に、“カオルの内側”を映す試験もまた、動き出していた。

 

ーーーー

 

 真空へ抜けた瞬間、音は消えた。

 ――正確には、音が消えたように“錯覚”する。シミュレーションルームの防音が効き、操縦席の中に残るのは計器の電子音と、ヘルメット内に響く自分の呼吸だけだ。

 

 カオルは視界の中央に浮かぶ航路ラインへ機首を合わせた。

 推力を滑らかに上げ、加速曲線に乗せていく。姿勢制御は安定。コロニーの管理領域を離脱し、外縁部の制限が外れる。

 外の星が、わずかに伸びる。

 

 リュウジは壁側の操作卓で、ログの数値を見ていた。

 加速度の波形、姿勢角の変化、微推力の噴射回数。

 表情は動かないが、目の動きだけが忙しい。

 

 マリは腕を組んだまま、壁面モニターとカオルの手元を交互に見ていた。

 その視線は、評価というより観察に近い。面白いものを見る目だ。

 

 加速フェーズが安定すると、カオルは一度、推力を落とし、姿勢を微調整した。

 その瞬間――操縦桿が僅かに揺れた。ほんの数ミリ。だが、リュウジは見逃さない。

 

(握りが強い)

 

 カオルは無意識に操縦桿を“掴む”癖がある。

 宇宙では、掴んだ分だけ過剰な入力になりやすい。特に微調整でそれが出る。

 

 案の定、カオルは補正の後に、すぐもう一度補正を入れた。

 必要以上の“二手”。

 航路ラインにぴたりと合わせたい気持ちが先に出る。

 

 マリが小さく息を吐く。

 

「几帳面だな」

 

 評価とも皮肉とも取れる言い方。

 リュウジは返さない。今は黙って、癖を確かめる時間だ。

 

 中間航行に入り、視界の火星が少しだけ大きくなる。

 ここからは加速よりも、維持と調整。

 何も起きなければ退屈な区間だが、何も起きない時間ほど“本質”が見える。

 

 カオルは定期的に計器を確認し、航路と照合し、姿勢を整える。

 やることは正しい。手順も合っている。

 

 だが――微噴射の回数が多い。

 数値がそれを示している。

 

 リュウジが小さく口を開いた。

 

「カオル」

 

 操縦席のヘッドセットに、リュウジの声が落ちる。

 

「何だ」

 

「今、噴射が多い。合わせすぎだ。航路ラインは“中心に居続けるための鎖”じゃない」

 

 カオルは視線を動かさないまま、短く答えた。

 

「分かってる」

 

「分かってても手が出るのが癖だ」

 

 リュウジの言葉に、カオルの指先が一瞬止まる。

 そして、呼吸を一つ深くした。

 

「……じゃあ、どのくらい許容する?」

 

「誤差は“幅”で見る。中心から少し外れても、戻すのは一回。二回やるなら最初からやるな」

 

「……了解」

 

 カオルは言い方を変えた。

 それだけで、頭が切り替わったのが分かる。

 

 次の微調整。

 カオルは噴射を一度だけに抑えた。航路ラインの中心には戻りきらない。だが、許容範囲内。

 機体が静かに“落ち着く”。

 

 マリがふっと笑った。

 

「素直だな」

 

「素直じゃない」

 

 リュウジが即答すると、マリはさらに楽しそうに肩を揺らした。

 

「言い方が悪かった。吸収が早い、だ」

 

 その言葉に、カオルは返事をしなかった。

 集中している。言葉を返さないのもまた、彼の強さだ。

 

 火星が近づく。

 進入角、減速、姿勢の取り方。

 コロニーとは違い、火星周辺は軌道上の交通も多い。航法は忙しくなる。

 カオルは事前計算を確認し、減速開始ポイントでスロットルを落とす。

 

 ここでも癖が出た。

 減速が少し急だ。

 “余裕”を持って早めに落とすより、ギリギリまで速度を残して一気に落とすタイプ。

 

 リュウジは画面に出る機体ストレスの警告を見て、眉をわずかに寄せた。

 

「減速、荒い」

 

「遅れたら怖い」

 

 カオルが吐き出すように言う。

 怖い、という単語がカオルの口から出るのは珍しい。

 リュウジはそれを聞き、反射的に言い返すのをやめた。

 

「……怖いなら、早めに落とせ。早めに落としても遅れはしない」

 

 カオルは一瞬だけ口を結び、次の区間で減速のタイミングを前倒しにした。

 機体の揺れが減り、ストレス警告も消える。

 火星の赤が視界いっぱいに広がり、薄い大気の層が光を滲ませた。

 

 コロニーの無機質な光景とは違う。

 荒野の赤、砂嵐の名残のような霞、遠くに見える基地群のライト。

 

 操縦席のカオルが小さく息を吐く。

 

「……火星、久しぶりだ」

 

「そうか」

 

 リュウジが短く返す。

 カオルの横顔は真剣だが、その目の奥には懐かしさがある。

 

 進入が安定し、指定されたエアポートの誘導ビーコンが見えてくる。

 最後の姿勢調整。

 着陸――ではなく、今回はドッキングシーケンスまでのシミュレーションだ。

 

 カオルは速度を落とし、誘導ラインに合わせる。

 ここでも、合わせすぎる癖が顔を出しかける。

 だが今度は、カオル自身が気づいたのか、噴射を抑えた。

 

 少し外れる。

 しかし、外れたままでも“収束する”のを待つ。

 そして一回の補正で、すっと戻す。

 

 リュウジは内心で小さく頷いた。

 

(今のは良い)

 

 モニターに「ドッキング許可」の表示が出る。

 カオルは最終速度を微細に合わせ、機体をゆっくりと寄せた。

 接触――固定――ロック。

 

 ピッ、という完了音。

 視界がフェードし、シミュレーションが終了する。

 

 照明が少し明るく戻り、現実の部屋が輪郭を取り戻した。

 カオルは操縦桿から手を離し、背もたれに深く体を預ける。

 肩の力が抜けた瞬間、呼吸が一気に戻る。集中の反動だ。

 

 マリが拍手を一度だけした。

 

「十分上手い。……けど、癖は分かったな」

 

 カオルが視線だけでマリを見て、それからリュウジに向けた。

 答えを聞く目だ。

 

 リュウジは操作卓を離れ、操縦席の横へ歩いた。

 カオルの正面に立つのではなく、少し斜め――相手を詰めない位置。

 

「癖は三つ」

 

 リュウジは指を一本立てる。

 

「一つ。合わせすぎる。中心に居たい気持ちが先に出る。だから噴射が増える」

 

 二本目。

 

「二つ。操縦桿の握りが強い。過剰入力になりやすい。特に微調整」

 

 三本目。

 

「三つ。減速がギリギリ寄り。遅れが怖いなら、早めに落とせ。余裕は武器だ」

 

 カオルは黙って聞いていた。

 そして、少しだけ口元を歪める。

 

「……全部、当たってる」

 

「当たってるから言った」

 

 リュウジは淡々と返す。

 

 「噴射が増えると燃料が減る。減速が荒いと機体にストレスが溜まる。握りが強いと、焦った時に大きく外す」

 

 カオルはゆっくり頷いた。

 

「どうすればいい?」

 

「最初に言っただろ。幅で見る。中心に居るんじゃなく、幅の中に居ろ。あと……」

 

 リュウジは操縦桿を軽く指で叩いた。

 

「握りは“支える”程度。掴むな。掴むと、心も掴む。焦る」

 

 カオルがふっと笑う。

 

「……変な言い方だな」

 

「俺は教官じゃないからな」

 

「でも、分かりやすい」

 

 カオルがそう言うと、リュウジはわずかに視線を逸らした。

 褒められるのは慣れていない。

 

 マリが口を挟む。

 

「もう一回やるか? 今度は条件を変えて。通信遅延、視界制限、微故障――色々あるよ」

 

 カオルの目が少しだけ鋭くなる。

 挑戦したい気持ちが湧いている。

 

 だが、同時に不安もある。

 さっきの操縦は、成功だった。成功のまま終わらせた方がいいと考える自分もいる。

 それが“怖がり”の一面だと、今は自覚できる。

 

 リュウジはカオルを見た。

 

「……どうする」

 

 カオルは少しだけ考えた。

 

「もう一回だ」

 

 カオルは短く言った。

 

 その言葉にリュウジは口角を上げた。

 

「分かった。ただし、目的を変える。成功じゃない。“崩れた時に戻す”のを見たい」

 

 カオルの瞳が揺れ、それから静かに定まった。

 

「……分かった」

 

 マリが嬉しそうに頷き、操作卓へ戻る。

 

「じゃあ、私が条件を用意翔。リュウジ、設定は任せるよ。君は相手の癖を読むのが上手い」

 

「上手くない」

 

「上手い」

 

 マリは断言した。

 その確信に、リュウジは反論をやめた。

 

 リュウジは端末に向かい、次の設定画面を開く。

 通信遅延は軽め。視界は一段階低下。推力系統に微細なブレ――“よくある故障”を混ぜる。

 

 カオルが操縦席で再び姿勢を正す。

 さっきより呼吸が落ち着いている。

 癖を指摘された後の操縦は、たいていの人間が乱れる。だがカオルは、むしろ静かになった。

 

 リュウジは最後に確認し、指を止めた。

 

「準備は?」

 

「いつでも」

 

 カオルの声が、少し低くなる。

 今度は“試される”のを分かっている声だ。

 

 リュウジは画面をタップした。

 

「――開始」

 

 照明が落ち、視界が宇宙に塗り替わる。

 次の航路が立ち上がり、火星行きのラインが再び伸びる。

 

 癖を知った操縦。

 癖を見抜いた観察。

 そして、崩れた時に戻すための訓練。

 

 カオルの指が操縦桿に触れた。

 その触れ方は、さっきより少しだけ“軽い”。

 

 リュウジは無言で、ログを見つめた。

 マリは楽しそうに、しかし真剣に、その背中を見守っていた。

 

ーーーー

 

 照明が落ち、操縦席の前面ホログラムが切り替わる。

 火星行きの航路ライン――さっきまでの落ち着いた“移動”ではない。画面の端に、赤い警告色が滲んだ。

 

 「軌道交差 / 隕石群接近」

 「回避要求 / 衝突予測 T-180」

 

 モニターに映る宇宙は、静かな黒ではなかった。

 点の星々の間を、砂嵐のように細かな光点が流れている。隕石群。大小の岩塊が、群れをなして航路を横切ろうとしていた。

 速度差は大きい。こちらが少し角度を誤れば、たった一つの欠片でも機体を裂く。

 

 カオルの背中が、わずかに硬くなる。

 それは緊張というより、“切り替え”の姿勢だった。

 

 リュウジは操作卓の前で、ログのウィンドウをいくつも展開していた。

 衝突予測、回避ベクトル、推力残量、機体ストレス、視界補助。

 そして、あえて補助は薄くしてある。全部を機械に任せた操縦なら、癖も心も見えない。

 

 マリは壁面モニターの前で固い表情のまま立っている。

 さっきまでの“楽しそうな見学者”の顔は消えた。

 今の状況は、訓練の皮を被った“試験”だと理解している。

 

 ――リュウジがこのシナリオを選んだのは、単に難易度を上げたいからじゃない。

 

(……ルイ)

 

 リュウジの脳裏に、嫌でも浮かぶ名前がある。

 宇宙の暗闇。警告音。制御不能。

 ルイを失った瞬間――それが、カオルの中にどれだけ残っているか。

 

 引きずっていないか。

 あるいは、引きずったまま“冷静の仮面”で固めているだけか。

 

 それを確かめるには、似た状況に置くしかない。

 残酷かもしれない。けれど、宇宙はもっと残酷だ。実際の現場は、こちらの都合なんて待ってくれない。

 

 カオルが操縦桿に手を置く。

 握りは――さっきリュウジが指摘した通り、掴むというより支える程度。

 呼吸は浅い。だが乱れてはいない。

 

「接近速度、速いな」

 

 カオルが淡々と言った。

 声は落ち着きすぎるほど落ち着いている。

 

「隕石群の密度は中~高。抜けるには三分耐えろ」

 

 リュウジが短く返す。

 目はログから離れない。

 

 T-120。

 衝突予測が一気に増える。

 モニター上の点が線になり、線が束になって迫ってくる。隕石群の“壁”が近づいている。

 

 カオルは最小限の舵で機首をずらし、先頭の塊を避けた。

 大きな回避ではない。ほんの数度、ほんの数秒。

 だがそれだけで、衝突予測が消える。

 

 次。

 次。

 次。

 

 隕石群は、こちらの回避を嘲笑うように軌道を変える。

 正確には、相手は変えない。ただ、こちらが動くと“見え方”が変わり、新しい危険が顔を出す。

 

 カオルはそれを、恐ろしいほど正確に読んでいく。

 

 ――回避が速い。

 しかも、無駄がない。

 

 リュウジは内心で舌を巻いた。

 自分が同じ状況に置かれても、これほど静かに動けるか分からない。

 S級パイロットとしての経験があるとはいえ、隕石群は“読み”が全てだ。

 運動性能の問題じゃない。判断の質だ。

 

 カオルの判断は、刃物みたいに鋭い。

 

 T-60。

 隕石群の密度が上がる。

 小さな欠片が、雨のように流れてくる。視界補助を薄くしたせいで、ホログラム上の危険表示が遅れ、目視で追わなければならないものが増える。

 

 カオルはここで、わずかにスロットルを落とした。

 速度を落とせば、回避の猶予が増える。

 だが、落としすぎれば群れの中に“長く留まる”ことになる。危険は増える。

 

 そのギリギリの落とし方が、完璧だった。

 

 マリが小さく息を呑む。

 

「……今の、迷いがない」

 

 独り言のように漏れた。

 マリの視線は、モニターの数字と、操縦席のカオルの手元を往復している。

 ログが示す“微噴射回数”が、異常に少ない。回避を一発で決めている証拠だ。

 

 さらに――姿勢制御が滑らかだ。

 前なら“合わせすぎる癖”が出る局面なのに、中心に固執していない。

 幅で捉えて、一度で戻す。

 リュウジの言葉を、そのまま身体に落としている。

 

(吸収が早い……いや、違う)

 

 リュウジは思った。

 これは“覚えた”というより、“元々できるのに、抑えていた”動きに近い。

 抑えていたものが、今、必要に応じて解放されている。

 

 隕石群の中で回避を続けるカオルの表情は、硬い。

 だが硬いのは恐怖じゃない。集中の硬さ。

 そしてその集中が、まるで過去の何かに触れていないかのように冷たい。

 

 T-30。

 大きな岩塊が、死角から流れてきた。

 もし現実なら、レーダーの死角、通信遅延、反射ノイズ――そういうものに紛れるタイプの最悪だ。

 

 リュウジは一瞬だけ、わざと警告の出力を遅らせた。

 意地悪ではない。確認だ。

 

(引きずってるなら、ここで一瞬固まる)

 

 ルイを失った時の“あの瞬間”が蘇れば、反射が遅れる。

 迷いが出る。操作が荒れる。

 それがトラウマというものだ。

 

 だが――

 

 カオルは、警告が出る前に動いた。

 

 視界の“流れ”から異物を拾い、僅かな角度の違いを読み取って、機首をずらす。

 推力は最小、姿勢は崩さず、回避。

 衝突予測はゼロに落ちる。

 

 リュウジの背筋に、冷たいものが走った。

 

(……こいつ、見えてる)

 

 怖いほどに、見えている。

 現実でも同じなら、カオルは間違いなく強い。

 だが同時に、その強さが“どこから来ているか”が分からないのが怖い。

 

 マリは完全に言葉を失っていた。

 口が少し開いたまま、瞬きも少ない。

 宇宙管理局の人間として、上手い操縦は何度も見てきたはずなのに、それでも黙るしかない種類の上手さだった。

 

 T-10。

 最後の密集地帯。

 隕石群は、ここで一気に“薄く”なる。

 薄くなる瞬間が一番危険だ。気が緩む。終わったと思う。

 そして最後の一発が来る。

 

 カオルは気を抜かない。

 最後まで呼吸のリズムが変わらない。

 最後の欠片を避ける動きも、同じ温度だ。

 

 「危険域離脱」

 「航路復帰」

 

 表示が切り替わり、宇宙がようやく静かになった。

 星々は点に戻り、隕石群は遠ざかり、機体ストレスの警告も消える。

 

 シミュレーションは続いているが、山は越えた。

 操縦席のカオルが、ようやく小さく息を吐いた。

 それでも、肩の力は抜けきっていない。

 

 リュウジは操作卓の前で、ログを眺めながら呟いた。

 

「……上手い」

 

 それは評価というより、事実の確認だった。

 自分に対して言っているような声でもあった。

 

 マリがようやく言葉を取り戻す。

 

「上手いなんて言葉じゃ足りない。……カオル、君、これ現場でやったことあるみたいな動きだ」

 

 カオルは操縦席のまま、目だけでマリを見る。

 

「一度だけだ」

 

 短い肯定。

 感情の波はない。

 

 リュウジは敢えて、核心に近い質問を投げた。

 

「今の、何か思い出したか」

 

 操縦席の空気が、僅かに重くなる。

 マリがリュウジを見る。

 

 カオルは少しだけ沈黙した。

 だが、沈黙は長くない。

 迷っている沈黙じゃない。言葉を選ぶ沈黙だ。

 

「……思い出す暇がない」

 

 カオルはそう言った。

 

「考えるより先に、手が動く。そうしないと死ぬ」

 

 淡々とした言い方。

 理屈としては正しい。

 でも、その言い方が、まるで“心を置き去りにする方法”を知っているみたいで、リュウジは胸の奥がきゅっと締まった。

 

(引きずってないのか? それとも、引きずる余地がないほど閉じ込めてるのか?)

 

 答えはまだ見えない。

 ただ一つ確かなのは――カオルの操縦は、恐ろしいほど冷静で、完璧に回避し続けたということ。

 

 リュウジでさえ、上手いと思えるほど。

 マリが言葉を失うほど。

 

 そして、リュウジは思った。

 

(この状況下で冷静であり続ける……それがカオルの唯一の武器かもしれない)

 

 武器。

 だが武器は、持ち方を誤れば、自分を傷つける。

 

 リュウジはログを閉じ、短く言った。

 

「今日はここまでだ」

 

 カオルが眉を上げる。

 

「まだやれる」

 

「やれるから止める。今のは綺麗すぎる。綺麗なまま終わらせた方が、次に繋がる」

 

 カオルは一瞬だけ不満そうに口を結び、しかしすぐに息を吐いた。

 

「……分かった」

 

 操縦席から立ち上がる。足取りはしっかりしている。

 マリが腕を組み直し、少しだけ柔らかい声で言った。

 

「カオル、訓練学校に行くなら、君はかなり伸びる」

 

「……伸びるって言い方、嫌だな」

 

 カオルがぼそっと言うと、マリが笑う。

 

「じゃあ、強くなる。これでいいか?」

 

 カオルは小さく頷いた。

 リュウジは、その横顔を見ながら、まだ答えの出ない問いを胸の奥に押し込める。

 

 ――冷静は武器。

 でも、冷静だけでは、いつか折れる。

 

 その“いつか”が来ないようにするのが、今の自分の役目かもしれない。

 リュウジはそう思いながら、シミュレーションルームの照明が戻る音を聞いていた。

 

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