サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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バレンタイン

 2月に入ると、コロニーの空気は相変わらず冷たいのに、街の色だけが少しずつ浮き立って見えた。

 ショーウィンドウには赤やピンクのリボンが増え、店先には「期間限定」「予約受付中」の文字が躍る。甘い香りがどこからか漂ってくる気がして、ルナは歩くたびに胸の奥がそわそわした。

 

 ――2月14日。バレンタインデー。

 

 今年は、作ろう。

 そう決めたのは数日前だった。皆に配る分も作りたい。メノリ、シャアラ、ベル、シンゴ、ハワード、カオル、それにチャコにも。

 そして――リュウジにも。

 

 「今年は作る」

 と言うと、チャコがやけに嬉しそうに「ほぉ〜?」とニヤニヤしたのを、ルナはちゃんと覚えている。

 

 放課後、ルナとチャコはデパートへ向かった。

 ソーラ・デッラ・ルーナの中心部にある大きな商業施設は、いつもより人が多い。エスカレーターに乗るだけで、手提げ袋の紙がこすれる音があちこちで鳴る。バレンタイン特設コーナーへ近づくにつれ、甘い匂いが濃くなり、ルナは思わず深呼吸した。

 

「うわぁ……すごい……」

 

 売り場には、チョコレートが山みたいに積まれていた。

 カカオの産地別、甘さ別、香り別、見た目別。

 ギフト用の箱が並ぶ横に、手作り用の材料もずらりと揃っている。

 粉糖、ココアパウダー、アーモンド、ナッツ、ドライフルーツ、バター、卵、型、ラッピング用のリボンと袋。

 

 チャコは関西弁で「ほな、材料見るで」と言いながら、売り場をぐるりと見渡した。

 ルナは胸の前で手を握りしめる。気合いを入れないと、目移りして決められなくなりそうだ。

 

「今年は……皆の分と、リュウジの分も作る」

 

「お、言うたな」

 

 チャコが楽しそうに尻尾……ではなく、腰を揺らすようにしてルナを見上げた。

 ルナは頬を少し赤くしながら、そっぽを向く。

 

「……何よ」

 

「別に〜? ルナ、偉いなぁ思うただけや」

 

「からかわないでよ」

 

「からかってへんって」

 

 チャコは口笛でも吹きそうな調子で、手作りコーナーの棚を覗き込む。

 ルナも同じように、材料が並ぶ棚へ向かった。

 

 まずはベースになるチョコ。

 板チョコのコーナーには、ビター、ミルク、ホワイト、さらにカカオ分の違うものまである。

 ルナは手を伸ばしかけて、途中で止めた。

 

(……リュウジ、どんなのが好きなんだろう)

 

 分からない。

 サヴァイヴの時は、食べ物に好き嫌いなんて言っていられなかった。

 みんなで分け合って、必死に生きていた。

 だから「好きな味」なんて、今さら聞くのも照れくさい。

 

 ルナはちらっとチャコを見た。

 

「ねぇ、チャコ。リュウジって、どんなチョコが好きかな?」

 

 チャコは即答する。

 

「ビターやないか?」

 

「……だよね」

 

 ルナは頷き、ビターチョコの板を手に取った。

 包装紙の黒い色が、なんだかリュウジらしい気がする。

 派手じゃなくて、無駄がなくて、少し苦くて――でも、しっかりしてる。

 

 ただ、ルナはそのまま棚に戻せず、手の中でじっと見つめた。

 “らしい”だけで決めていいのかな、と迷いが生まれる。

 

 チャコが、わざとらしく咳払いをして言った。

 

「案外、甘いのが好きやったりするかもしれへんで?」

 

「え……」

 

 ルナの指が止まる。

 

「そう言われると……サヴァイヴの時、好んで炎果食べてたしね」

 

 炎果。甘くて、どこか懐かしい味がする果実。

 あの時、リュウジは黙って食べていた。

 でも、よく見ると、ほんの少しだけ表情が柔らかくなっていたような気もする。

 

 ルナは眉を寄せた。

 

「ビターが好きって決めつけるのも、違うかも……」

 

「せやろ。人間、見た目と味の好みは別や」

 

「チャコ、変なこと言うの上手になったよね……」

 

「誰が変やねん」

 

 チャコがツッコミながらも、ルナの悩みを面白がっているのが分かる。

 ルナは棚の前で、ビターとミルクを交互に見比べた。

 カカオの強い香りか、甘い香りか。

 どっちがリュウジに合うんだろう。

 

 ルナの胸の中に、ふっと不安が差し込む。

 

(もし、甘いの苦手だったら?)

(もし、ビターが嫌いだったら?)

 

 “嫌い”なんて言うリュウジは想像しづらい。

 でも、だからこそ、ルナは悩んでしまう。

 喜んでほしい。

 ほんの少しでいいから、嬉しそうな顔を見たい。

 

 チャコが、急に真面目な声で言った。

 

「なんやったら、エリンに聞いてみたらどうや?」

 

「エリンさんに?」

 

「せや。昔から一緒やったやろ。好みくらい知っとるんちゃうか」

 

 ルナはその名前を聞いた瞬間、少しだけ背筋が伸びた。

 エリンは、リュウジのことをよく知っている。

 ラスぺランツァのメンバーだし、引っ越し先だって探してくれた。

 頼りになるし、優しい。

 

 だけど――

 

(エリンさんに聞くって、なんか……)

 

 胸がきゅっとなる。

 嫉妬、と言い切るほどじゃない。

 でも、リュウジの“昔”を知っている人に、今の自分が踏み込む感じがして、少し怖い。

 

 ルナは手元のビターチョコを見つめながら、ぽつりと言った。

 

「……聞くの、変じゃないかな」

 

「変ちゃうやろ。プレゼントの相談や」

 

「そうだけど……」

 

「ルナ、そんなに悩むほど、リュウジのこと大事なんやな」

 

「ちょっと!」

 

 ルナが頬を赤くして抗議すると、チャコは「はいはい」と笑った。

 からかわれているのに、嫌じゃない。

 むしろ、言葉にされると余計に意識してしまう。

 

 ルナは深呼吸して、決めたように頷いた。

 

「……うん。聞いてみる」

 

「よっしゃ」

 

 チャコは満足そうに頷き、ルナの肩を軽く叩く。

 

「でも、その前に材料は決めとこや。皆の分も作るんやろ?」

 

「そうだった!」

 

 ルナは慌てて切り替えた。

 まずは皆に配る分。ここは迷わない。

 定番のミルクチョコをベースに、少しだけアレンジして、食べやすいものを作る。

 メノリにはシンプルで上品に。

 シャアラには可愛い形のものを。

 ベルには甘さ控えめで香りのいいもの。

 シンゴにはナッツ多め。

 ハワードには――形だけは凝ったものを作っておかないと、絶対に騒ぐ。

 

「ハワードは、見た目派手にしとこ」

 

「それ正解や。派手やと喜ぶ」

 

「カオルは……どうしよう」

 

「カオルは何でも食うやろ。あいつ、味より量や」

 

「チャコ、失礼!」

 

 ルナは笑いながら、次々とカゴに材料を入れていく。

 計量用のスケール、型、ラッピング袋、リボン。

 手に取るたびに、バレンタインが“現実”になっていく。

 

 そして――最後にもう一度、ルナはチョコの棚の前に戻った。

 ビターとミルクを手に取る。

 どちらも捨てがたい。

 

 ルナは少し考えた後、両方をカゴに入れた。

 

「両方?」

 

 チャコが眉を上げると、ルナは小さく笑った。

 

「うん。エリンさんに聞く前でも、どっちも試せるように。ビターとミルクで、二種類作って……どっちがいいか選んでもらうのも、ありかも」

 

「ほぉ〜。やるやん」

 

 チャコがニヤリと笑う。

 

「それ、実質デートの口実にもなるで? 『どっちが好き?』って聞けるやん」

 

「もう! そういうこと言わないで!」

 

 ルナは顔を真っ赤にしながらも、カゴを抱える手に力が入った。

 チャコの言葉が、頭から離れない。

 

 レジへ向かう途中、ルナは端末を取り出し、エリンの連絡先を開いた。

 画面の文字が少し眩しい。

 

(……聞くだけ。うん、聞くだけ)

 

 ルナは心の中でそう言い聞かせながら、メッセージ画面を開いた。

 指先が、少し震える。

 

 ――リュウジがどんなチョコを好きでもいい。

 大事なのは、作った気持ちが伝わること。

 でも、できるなら、ちゃんと喜んでもらいたい。

 

 ルナは小さく息を吐き、ゆっくり文字を打ち始めた。

 チャコはその横で、面白そうに覗き込みながらも、珍しく何も言わずに歩調を合わせていた。

 

ーーーー

 

 ハワード財閥旅行会社――宇宙航路部門。

 ソーラ・デッラ・ルーナのエアポートに隣接する訓練区画では、今日も緊急時対応シミュレーションが組まれていた。

 

 実機を模した客室モックアップ。座席列、通路、荷物棚、非常口。

 壁面には点滅する警告灯、床下には振動装置。スピーカーからはエンジン音と警報音が流れ、人工的に煙も焚かれる。

 乗務員にとっては日常の延長だが、緊張感だけは本番そのものだ。

 

「――では、始めます。状況は“航行中の機関部トラブル、軽度の減圧警報”。各員、役割を確認」

 

 チーフパーサーの声が響く。

 訓練参加者は十数名。新人もいれば、数年選手もいる。

 その中に、ひときわ落ち着いた気配の女性がいた。

 

 エリン。

 緑色の長い髪を後ろでまとめ、制服の袖口をきっちり整えたまま、表情は穏やか。

 だが眼差しは鋭く、客室全体を一瞬で把握していた。

 

 訓練が始まった瞬間、空気が変わる。

 

 警報音。

 床の振動。

 乗客役のスタッフがざわめき、席を立とうとする。

 

 ――その混乱の中でも、エリンの動きは“速い”のではなく、“無駄がない”。

 

 走らない。大声を出さない。

 それでも、彼女が一歩通路に出るだけで、周囲の乗務員が自然と動きやすくなる。

 客室が“秩序”を取り戻していく。

 

「皆さま、落ち着いてください。安全確認のため、席にお戻りくださいね」

 

 声は柔らかいのに、揺るぎがない。

 その一言だけで、乗客役のスタッフの動きが止まる。

 指示ではないのに、従ってしまう。

 

 エリンは通路を進みながら、視線をさりげなく他の乗務員に投げた。

 合図はほとんど“目”だけ。

 新人が戸惑っているのを見つけると、彼女はすぐ隣を通り過ぎるふりをしながら、床に落ちた備品を拾い上げて手渡した。

 

 だが、誰も“助けられた”とは気づかない。

 新人は、自分で立て直したような顔で次の動作に移る。

 

 エリンはそれを、当たり前のように繰り返す。

 

 別の乗務員がアナウンス手順を一瞬だけ迷った時も、エリンは近くの計器パネルに視線を落とし、タイミングよく頷いた。

 その頷きが「今、いける」という合図になる。

 乗務員はそのまま腹を括って声を通した。

 

 煙が少し濃くなる。

 乗客役が咳き込み、不安そうな声を上げる。

 

 エリンは微笑んだまま、毛布を差し出す。

 咳をしている乗客役の背中を一度だけ撫で、呼吸を整えさせる。

 それだけで、客室の“不安”が一段落ち着く。

 

 ――完璧だった。

 

 いや、“完璧”という言葉は、まだ足りない。

 彼女は自分が完璧に動くだけじゃない。

 周りの乗務員を、完璧に見せてしまう。

 

 チーフパーサーは訓練を見守りながら、無意識に息を吐いた。

 

(……やっぱり、レベルが違う)

 

 噂だけではない。映像で見たこともある。

 だが現場で見ると、もっとはっきり分かる。

 “この人がいると、客室の温度が変わる”。

 

 訓練が一区切りついた瞬間、警報音が止み、照明が通常に戻った。

 乗務員たちは汗を拭き、互いに確認し合う。新人の顔には安堵と自信が混ざっていた。

 

「お疲れさま。今の判断、すごく良かったわ」

 

 エリンが新人に声をかけると、新人は顔を赤くして頷いた。

 

「い、いえ……エリンさんが……」

 

「私は何もしてないわよ。あなたがちゃんとできたの」

 

 さらりと言ってのける。

 そこがまた、信頼を積み重ねる。

 

 訓練が終わると、チーフパーサーはそのまま訓練室の奥へ歩いた。

 関係者用の打ち合わせスペース。ガラス越しに客室モックアップが見える場所だ。

 

 そこに、宇宙開発部部長がいた。

 ハワード財閥旅行会社の宇宙航路部門を束ねる男。現場を知り、数字も知る。

 しかし今は、机の上の資料と現場の“熱”の間で、眉間に皺を寄せていた。

 

 チーフパーサーは、遠慮なく言った。

 

「部長。エリンをチーフパーサーに上げた方がいいわ」

 

 部長は「またか」という顔をして、ため息を吐く。

 

「……君もそう言うか」

 

「当然よ。はっきり言って、レベルが違う」

 

 チーフパーサーはガラスの向こうを指した。

 エリンがまだ乗務員たちと短い振り返りをしている。笑顔で、的確に、相手を潰さない言い方で改善点だけを残していく。

 

「彼女がいるだけで、他の乗務員が落ち着く。新人も中堅も関係ない。客室の空気が整う。――それがチーフの仕事でしょう?」

 

 部長は苦笑いを浮かべた。

 

「君の言いたいことは分かる。だが……彼女自身が“乗務員からやり直す”と言ったんだ」

 

「……やり直す?」

 

 チーフパーサーは眉を上げた。

 

 「現場から離れて一年経っており、前回の捜索任務で、自分の力不足を彼女は、感じたそうだ。だから一から現場で鍛え直したいと。最初からチーフとして戻る気はない、と」

 

「でもこのままじゃ示しがつかないわ」

 

 チーフパーサーの声が強くなる。

 

「現場の士気にも関わる。皆が思ってる。“なんでエリンが乗務員なの?”って。実際、声が上がってる」

 

 部長は指で机を叩き、資料の束を示した。

 

「……数字もな。エリンが来てから、売り上げは右肩上がりだ。広告を打ったわけでもないのに、予約が増えている」

 

 チーフパーサーは即答した。

 

「エリン目当てね」

 

 部長は苦笑した。

 

「そうだ。『あの人が乗っている便に乗りたい』という問い合わせが来る。冗談みたいだが、本当だ。安全への信頼がそのまま商品価値になる」

 

 チーフパーサーは腕を組む。

 

「その信頼を、肩書きで固定しない理由がないわ」

 

「……分かってる」

 

 部長は困ったように目を伏せた。

 現場が求めるのは、正しい。

 しかし、本人の申し出も無視できない。

 “自分から下りた”者を、無理やり上げるのは、逆に傷になることもある。

 

「彼女は、あくまで『一から現場で学び直さなければならない』と言う。過去の実績で立つのではなく、今の組織の一員として積み上げたいと」

 

「……真面目ね」

 

「真面目すぎる」

 

 部長は苦笑して、椅子にもたれた。

 

「だから悩む。上げれば、現場は納得する。だが彼女の信念を折ることになるかもしれない。上げなければ、現場は不満を抱く。示しがつかない」

 

 チーフパーサーは少し黙った。

 そして、視線をガラスの向こうのエリンに戻す。

 

 エリンは、まだ笑顔で周囲に声をかけている。

 まるで何も背負っていないみたいに。

 でも、背負っていないわけがない。

 

 チーフパーサーは静かに言った。

 

「ねえ、部長。彼女は“やり直す”と言ったのよね」

 

「ああ」

 

「なら、やり直しの“段階”を用意すべきだわ。いきなりチーフにしろと言ってるんじゃない。――副チーフ、もしくは訓練担当。名目でもいい。肩書きが目的じゃない。現場が納得できる形が必要なの」

 

 部長はゆっくり頷いた。

 

「……確かに。副チーフなら、本人も拒否しづらいかもしれない」

 

「拒否したら、その時はその時よ。現場は彼女を必要としている。彼女も、現場を必要としている」

 

 部長はしばらく考え込み、そして苦笑した。

 

 その時、ガラスの向こうで、エリンが軽く頭を下げて訓練室を出てきた。

 廊下を歩きながら、端末を確認し、何かをメモしている。

 疲れた様子は見えない。むしろ、訓練後の乗務員たちの表情が明るい。

 

 部長はその姿を見て、困ったように笑った。

 

「……彼女が来てから、会社の空気も変わった。売り上げだけじゃない。誇りを思い出したような顔をしてる」

 

「でしょ」

 

 チーフパーサーは頷く。

 

「だからこそ、示しが必要なの。エリンが“特別”なんじゃない。彼女のやり方を“皆のもの”にしないと」

 

 部長は決断するように頷いた。

 

「分かった。今夜、本人と話す。副チーフ案でいく。訓練担当も兼ねて――現場と本人、両方の顔が立つ形を探る」

 

「ええ」

 

 チーフパーサーは静かに息を吐いた。

 ようやく、道筋が見えた気がした。

 

 その瞬間、ガラスの向こうでエリンがふと振り返った。

 まるで視線を感じたかのように。

 そして、いつも通りの穏やかな微笑を浮かべ、軽く会釈してから歩いていった。

 

 ――彼女はきっと、何も言わない。

 自分の評価にも、肩書きにも。

 ただ、客室を守り、仲間を守ることだけに、全てを注ぐ。

 

 だからこそ、周囲が放っておけないのだ。

 

ーーーー

 

 訓練区画の警報音が止み、照明が通常に戻ったあとも、エリンの耳の奥にはまだ微かな残響が残っていた。

 緊急時対応シミュレーション。煙、振動、乗客役の叫び声――すべて“作り物”なのに、身体は本番と同じ速度で動いていた。

 

 ロッカールームへ戻る廊下は、冷房が効いていて少しだけ肌寒い。制服の襟元を指で整えながら扉を押すと、ロッカーの金属音と、誰かの小さな笑い声が跳ね返ってきた。

 

「お疲れさまでしたー」

 

 ククルが先に戻っていて、ポニーテールを揺らしながらタオルで髪を拭いている。燃えるような赤髪が、汗で少しだけ濃く見えた。

 

「お疲れさま。大丈夫? 酸素マスクの手順、焦ってたわね」

 

「いやー、焦りました! でも、エリンさんが……」

 

「私は何もしてないわよ」

 

 エリンは笑って、ロッカーを開けた。

 タオルを取り出し、首筋から頬まで丁寧に汗を拭う。訓練とはいえ、集中して動けばちゃんと汗をかく。肌の熱が少しずつ落ち着いていくのを感じた。

 

 その時、ポケットの端末が軽く震えた。

 画面に表示された通知の名前を見て、エリンは一瞬だけ目を瞬かせる。

 

(ルナ……?)

 

 メッセージを開くと、丁寧な文面が並んでいた。

 

『エリンさん、お疲れさまです。突然すみません。

 リュウジが好きなチョコの味って、もしご存じでしたら教えていただけませんか?

 バレンタインに作ろうと思っていて……』

 

 エリンは思わず、口元をタオルで隠したまま小さく笑った。

 

(そっか、もうバレンタインか)

 

 忙しさに追われていると、そういう季節の行事がふっと抜け落ちる。

 でも、ルナが“作ろう”と思って、その相手をリュウジに決めた――その事実が、エリンの胸の奥をじんわりと温かくした。

 

 エリンは端末を握り直し、ロッカーにもたれながら親指で文字を打つ。

 返事は簡潔に、でも、ちゃんと伝わるように。

 

『連絡ありがとう。

 リュウジは甘いチョコが好きだよ。コーヒーと合うからって言ってた。

 きっと喜ぶと思う』

 

 送信ボタンを押すと、画面の文字がふっと消え、送信済みの表示になる。

 エリンはタオルを肩にかけ、息を吐いた。

 

「……甘いチョコ、かぁ」

 

 隣で靴を履いていたカイエが、耳に掛けた黒髪を揺らして呟いた。

 

「え?」

 

 エリンが顔を上げると、カイエは端末ではなく、エリンの表情を見ていた。鋭い目元なのに、表情は柔らかい。

 

「今、誰かと連絡してました?」

 

「ルナ。バレンタインで、リュウジの好みを聞かれたの」

 

「ふーん」

 

 カイエは意味ありげに頷いたあと、少しだけ口元を上げた。

 

「リュウジ、甘党なんですね」

 

「意外でしょ」

 

「意外っていうか、想像はできます。あの人、疲れてる時ほど無言で糖分取りそうです。」

 

 カイエの言い方に、エリンは小さく笑ってしまった。

 確かにそうだ。リュウジは“甘いものが好き”なんて自分から言わない。けれど、机の端に置かれた小さなチョコや飴を、いつの間にか消している。コーヒーを片手に、何も言わずに。

 

 エリンの脳裏に、少し前の光景が浮かぶ。

 任務の合間、休憩室。端末の画面を睨みながら、ブラックコーヒーを飲んでいたリュウジ。そこに置いた小さなチョコを、無意識に摘まんでいた。

 「甘いの好きなの?」と聞いたら、彼は目も上げずに「コーヒーに合うだけです」とだけ返した。

 

 ――あれを覚えていて良かった。

 エリンはそう思いながら、もう一度タオルで汗を拭う。

 

「ルナちゃん、頑張るんだね」

 

 ククルが嬉しそうに言って、肩を揺らした。

 

「うん。いいことよ」

 

 エリンはロッカーを閉め、髪を指で整える。

 そして端末をポケットに戻しながら、心の中でそっと願った。

 

(うまく渡せますように)

 

 ***

 

 同じ頃。

 ソーラ・デッラ・ルーナのデパート、バレンタイン特設コーナー。

 

 ルナはカゴを抱え、端末を手にしたまま立ち尽くしていた。

 画面に表示された返信を、何度も読み返してしまう。

 

『リュウジは甘いチョコが好きだよ。コーヒーと合うからって言ってた』

 

「……甘いチョコ……!」

 

 思わず声が漏れ、ルナは慌てて口を押さえた。

 隣のチャコが、すぐにニヤリとする。

 

「返ってきたんか?」

 

「う、うん……!」

 

 ルナは端末をチャコに見せた。

 チャコは画面を覗き込み、目を細める。

 

「ほぉ〜。甘いチョコかいな。意外やな」

 

「だよね……! 私、ビターだと思ってた」

 

「ウチもや。見た目、絶対ビターやろ」

 

「でも、コーヒーと合うからって……」

 

 ルナはその言葉を噛みしめるように呟いた。

 リュウジがコーヒーを飲む姿は、簡単に想像できる。ブラックで、余計なものは入れない。

 その隣に甘いチョコ。

 なんだか、“本人は言わないけど、ちゃんと好きなもの”って感じがして、ルナの胸がきゅっとした。

 

「ほな、ミルク系か? それともホワイト?」

 

 チャコが棚を指す。

 ルナは視線を巡らせながら、少し考えた。

 

「甘いって言っても、くどいのは嫌かもしれないし……コーヒーに合う甘さ……」

 

「……つまり、甘いけど、しつこくないやつやな」

 

「うん。例えば、生チョコとか……ガナッシュとか……」

 

「ルナ、やる気満々やん」

 

 チャコが嬉しそうに言うと、ルナは頬を赤くしてカゴを抱え直した。

 

「だって、せっかく作るなら……ちゃんと喜んでほしいし」

 

「せやなぁ」

 

 チャコはわざとらしく小指を立てるのを我慢して、代わりに肩をすくめた。

 

「で? 甘いチョコって分かったら、次は何作るんや?」

 

「……二種類にしようかな」

 

 ルナは、さっきまで迷ってカゴに入れたビターとミルクの板チョコを見下ろした。

 

「皆に配る分は食べやすいミルクで、リュウジには……コーヒーに合う、少し濃厚な甘さのやつ。あと、形もちゃんとしたい」

 

「おぉ、急に職人みたいやん」

 

「もう、からかわないでってば」

 

「からかってへん。応援しとるんや」

 

 チャコが言うと、ルナは少しだけ胸の奥が軽くなった。

 好みが分かっただけで、こんなに安心するなんて自分でも驚く。

 

 ルナは棚から、ミルクチョコと生クリーム、ココアパウダーを追加で取った。

 それから、コーヒーエッセンスの小瓶を見つけて、指先でラベルを撫でる。

 

「これ……入れたら、コーヒーに合うかも」

 

「お、ええやん。リュウジっぽい」

 

 チャコが頷く。

 ルナは小瓶をカゴに入れて、ふっと笑った。

 

「エリンさん、教えてくれて助かった……」

 

「そらそうや。エリン、仕事できるもんな」

 

「うん。……私も、ちゃんと作ろう」

 

 ルナはそう呟いて、もう一度端末を見た。

 短いメッセージなのに、そこには確かに“背中を押される”感じがあった。

 

 そしてルナは、顔を上げる。

 甘い香りが漂う売り場の中で、やることはもう決まっていた。

 

 今年のバレンタインは、皆の分と――リュウジの分。

 コーヒーに合う、甘いチョコ。

 

 ルナはカゴを抱え直し、チャコと一緒に次の棚へ歩き出した。

 心の中には、さっきよりずっとはっきりした“楽しみ”が、芽を出していた。

 

ーーーー

 

  デパートの紙袋を下げて家に戻ると、外の冷たさとは違って部屋の空気が少しだけ柔らかく感じた。

 ルナは玄関で靴を揃え、袋を抱えたままリビングへ入る。

 

「……よし。やるか」

 

「気合い入っとるなぁ、ルナ」

 

 ソファの背もたれにちょこんと乗ったチャコが、機嫌よさそうに首を振った。手にはすでに端末。年末特番の時みたいに、画面を眺めながらもこちらの様子はばっちり見ている。

 

「当たり前でしょ」

 

「顔がもう“勝負”やって顔しとる」

 

「もう! からかわないでよ!」

 

「からかってへん。応援や」

 

 ルナはぷくっと頬を膨らませてから、キッチンのカウンターに材料を並べた。

 ミルクチョコ、ビター、ココアパウダー、生クリーム、バター、ナッツ、ラッピング袋、リボン、そして小さな瓶――コーヒーの香り付けのエッセンス。

 

 エリンの返信の言葉が、今も頭の中に残っている。

 

(リュウジは甘いチョコが好き。コーヒーと合うから)

 

 その“甘い”が、ただ甘いだけじゃないのがリュウジらしい気がして、ルナは少しだけ笑ってしまう。

 無駄がなくて、簡単で、それでいてちゃんと味がある。そんな感じ。

 

「まず、皆の分は簡単に。食べやすいの」

 

「ほぉ。ハワードの分もな」

 

「もちろん。ハワードは派手にしないと絶対騒ぐもんね」

 

「正解や」

 

 チャコがうんうん頷いたところで、ルナはエプロンを着け、髪を結んだ。手を洗って、作業台を拭いて、計量スケールを出す。

 タブレットを開き、手順を確認しながら、まずは小さな型を並べる。星形、ハート形、丸。友達用はこれで十分。

 

 チョコを刻む。

 包丁がまな板に当たる音が、思ったより軽快で、ルナの緊張も少しほどけた。

 湯せん用の鍋に湯を張り、ボウルを重ねる。焦らないように温度を気にしながら、ゆっくり溶かしていく。

 

 ミルクチョコが艶を出して、とろりと形を変えた瞬間、甘い香りがキッチンいっぱいに広がった。

 

「うわ……いい匂い……」

 

「腹減ってきたわ」

 

「チャコは食べちゃだめ!」

 

「言うと思ったわ」

 

 ルナは笑いながら、溶かしたチョコを型に流し込んでいく。

 ナッツを散らすもの、ココアを振るもの、ドライフルーツを乗せるもの。

 “みんなが喜びそう”を頭に並べながら作る作業は、楽しい。

 

 けれど――。

 

 ルナの手が、ふっと止まった。

 視線が、カウンターの端に置いたビターとエッセンスに移る。

 

(リュウジの分)

 

 そこだけ、急に呼吸が変わる。

 胸の奥が、少しだけ熱くなる。

 

「……次、リュウジの作るわ」

 

「お、来た来た」

 

「静かにして」

 

「はいはい」

 

 チャコが口を押さえる仕草をして、わざとらしく黙った。

 

 ルナは深呼吸して、ボウルを新しく用意した。

 ミルクチョコだけだと甘すぎるかもしれない。

 でもビターだけだと、エリンの言う“甘い”から外れる。

 

 だから――配合を変える。

 

 ミルクを多めに、ビターを少しだけ混ぜる。

 甘いのに、後味がくどくならないように。

 コーヒーに合わせた時に、香りが立つように。

 

 溶かしたチョコに、生クリームを少しずつ入れて混ぜる。

 最初は分離しそうになって、ルナは焦ってスプーンを止めた。

 

「え、あれ……」

 

「慌てたらあかん。混ぜすぎると逆にあかんで」

 

 チャコが急に真面目な声で言った。

 ルナは「え?」と振り向く。

 

「……チャコ、知ってるの?」

 

「動画で見たことあるだけや。混ぜる時は中心からや。ゆっくり、や」

 

「……分かった」

 

 ルナは言われた通り、中心から円を描くように混ぜた。

 すると、さっきまでざらついていた表面が、ふっと滑らかになっていく。

 艶が出て、ガナッシュがまとまった。

 

「……できた」

 

「やるやん」

 

 ルナは少しだけ胸を撫で下ろし、そこにコーヒーエッセンスをほんの数滴落とした。

 香りが立つ。甘い中に、ほろ苦い匂いが一本通った。

 

(これなら、コーヒーと合う)

 

 味見をするのは本当はもう少し冷ましてからだけど、ルナは小さくスプーンの先でほんの少しだけ舐めた。

 甘い。だけど、甘すぎない。

 舌の上に残る余韻が、ふっとコーヒーみたいに引いていく。

 

 ――なぜか、それだけで顔が熱くなった。

 

(リュウジがこれ食べるんだ)

 

 想像しただけで、胸がきゅっとなる。

 どういう顔をするだろう。

 「うまい」って言う? それとも、いつもみたいに短く「悪くない」って言う?

 どっちでもいい。どっちでも、きっと嬉しい。

 

「……顔赤いで」

 

「赤くない!」

 

「赤い」

 

「赤くないってば!」

 

 ルナはムキになりながらも、手を止めなかった。

 ガナッシュを冷やして、丸められる固さになったら、小さな球にする。

 それをココアで転がす。

 さらにもう少しだけ特別にしたくて、上に小さな飾りを乗せることにした。

 

 砂糖で作った小さな三日月のパーツ。

 型抜きで抜いただけの簡単なものだけど、胸元のネックレスと同じ形。

 

「ルナ、なんやそれ」

 

「……三日月」

 

「……おぉ。自分のマーク付けたんか」

 

「違うわよ! ただ、可愛いかなって思っただけ!」

 

「はいはい」

 

 チャコがニヤニヤするのを無視して、ルナは三日月をそっとチョコに乗せた。

 ココアの茶色の上に、白い三日月が浮かぶ。

 夜空みたいで、綺麗だった。

 

 出来上がったチョコは、小さな箱に詰める。

 友達用は袋にまとめて、名前が分かるようにタグを付ける。

 でもリュウジの分だけは、箱を別にした。

 

 余計な飾りは付けない。

 派手なリボンも付けない。

 ただ、きちんとした箱に、落ち着いた色の紐を結ぶ。

 

 ――その代わり、カードを一枚入れた。

 

 ペンを持つと、急に手が震える。

 ルナは唇を噛んでから、短く書いた。

 

『コーヒーと一緒に食べて。

 無理しすぎないで。

 ルナ』

 

 書き終えた瞬間、自分で書いた文字が恥ずかしくて、ルナはカードを裏返した。

 でも、結局また表に戻して、箱の中にそっと滑り込ませた。

 

「よし……完成」

 

 ルナが小さく呟くと、チャコがわざとらしく拍手した。

 

「おめでとさん。これでバレンタイン作戦は第一段階クリアや」

 

「作戦って何よ」

 

「次は渡す段階やろ?」

 

「……う」

 

 ルナの胸がまた、きゅっとする。

 作るのも緊張したけど、渡す方がもっと緊張する。

 だって、相手はリュウジだ。

 ぶっきらぼうで、何でもない顔をして、でも――時々、優しい。

 

「……明日、渡せるかな」

 

「渡せるやろ。逃げへん限り」

 

「逃げないよ!」

 

「ほな、逃げるなよ。ルナが」

 

「もう!」

 

 ルナは怒ったふりをしながら、箱を両手で抱えた。

 不思議と、心は軽かった。

 

 キッチンの明かりの下で、箱の中のチョコは静かに艶を帯びている。

 甘い香りの中に、ほろ苦いコーヒーの匂い。

 

 ルナはその匂いを胸いっぱいに吸い込んで、そっと笑った。

 

(喜んでくれたらいいな)

 

 ただそれだけを願いながら、ルナは明日のために箱をそっと棚の上へ置いた。

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