2月に入ると、コロニーの空気は相変わらず冷たいのに、街の色だけが少しずつ浮き立って見えた。
ショーウィンドウには赤やピンクのリボンが増え、店先には「期間限定」「予約受付中」の文字が躍る。甘い香りがどこからか漂ってくる気がして、ルナは歩くたびに胸の奥がそわそわした。
――2月14日。バレンタインデー。
今年は、作ろう。
そう決めたのは数日前だった。皆に配る分も作りたい。メノリ、シャアラ、ベル、シンゴ、ハワード、カオル、それにチャコにも。
そして――リュウジにも。
「今年は作る」
と言うと、チャコがやけに嬉しそうに「ほぉ〜?」とニヤニヤしたのを、ルナはちゃんと覚えている。
放課後、ルナとチャコはデパートへ向かった。
ソーラ・デッラ・ルーナの中心部にある大きな商業施設は、いつもより人が多い。エスカレーターに乗るだけで、手提げ袋の紙がこすれる音があちこちで鳴る。バレンタイン特設コーナーへ近づくにつれ、甘い匂いが濃くなり、ルナは思わず深呼吸した。
「うわぁ……すごい……」
売り場には、チョコレートが山みたいに積まれていた。
カカオの産地別、甘さ別、香り別、見た目別。
ギフト用の箱が並ぶ横に、手作り用の材料もずらりと揃っている。
粉糖、ココアパウダー、アーモンド、ナッツ、ドライフルーツ、バター、卵、型、ラッピング用のリボンと袋。
チャコは関西弁で「ほな、材料見るで」と言いながら、売り場をぐるりと見渡した。
ルナは胸の前で手を握りしめる。気合いを入れないと、目移りして決められなくなりそうだ。
「今年は……皆の分と、リュウジの分も作る」
「お、言うたな」
チャコが楽しそうに尻尾……ではなく、腰を揺らすようにしてルナを見上げた。
ルナは頬を少し赤くしながら、そっぽを向く。
「……何よ」
「別に〜? ルナ、偉いなぁ思うただけや」
「からかわないでよ」
「からかってへんって」
チャコは口笛でも吹きそうな調子で、手作りコーナーの棚を覗き込む。
ルナも同じように、材料が並ぶ棚へ向かった。
まずはベースになるチョコ。
板チョコのコーナーには、ビター、ミルク、ホワイト、さらにカカオ分の違うものまである。
ルナは手を伸ばしかけて、途中で止めた。
(……リュウジ、どんなのが好きなんだろう)
分からない。
サヴァイヴの時は、食べ物に好き嫌いなんて言っていられなかった。
みんなで分け合って、必死に生きていた。
だから「好きな味」なんて、今さら聞くのも照れくさい。
ルナはちらっとチャコを見た。
「ねぇ、チャコ。リュウジって、どんなチョコが好きかな?」
チャコは即答する。
「ビターやないか?」
「……だよね」
ルナは頷き、ビターチョコの板を手に取った。
包装紙の黒い色が、なんだかリュウジらしい気がする。
派手じゃなくて、無駄がなくて、少し苦くて――でも、しっかりしてる。
ただ、ルナはそのまま棚に戻せず、手の中でじっと見つめた。
“らしい”だけで決めていいのかな、と迷いが生まれる。
チャコが、わざとらしく咳払いをして言った。
「案外、甘いのが好きやったりするかもしれへんで?」
「え……」
ルナの指が止まる。
「そう言われると……サヴァイヴの時、好んで炎果食べてたしね」
炎果。甘くて、どこか懐かしい味がする果実。
あの時、リュウジは黙って食べていた。
でも、よく見ると、ほんの少しだけ表情が柔らかくなっていたような気もする。
ルナは眉を寄せた。
「ビターが好きって決めつけるのも、違うかも……」
「せやろ。人間、見た目と味の好みは別や」
「チャコ、変なこと言うの上手になったよね……」
「誰が変やねん」
チャコがツッコミながらも、ルナの悩みを面白がっているのが分かる。
ルナは棚の前で、ビターとミルクを交互に見比べた。
カカオの強い香りか、甘い香りか。
どっちがリュウジに合うんだろう。
ルナの胸の中に、ふっと不安が差し込む。
(もし、甘いの苦手だったら?)
(もし、ビターが嫌いだったら?)
“嫌い”なんて言うリュウジは想像しづらい。
でも、だからこそ、ルナは悩んでしまう。
喜んでほしい。
ほんの少しでいいから、嬉しそうな顔を見たい。
チャコが、急に真面目な声で言った。
「なんやったら、エリンに聞いてみたらどうや?」
「エリンさんに?」
「せや。昔から一緒やったやろ。好みくらい知っとるんちゃうか」
ルナはその名前を聞いた瞬間、少しだけ背筋が伸びた。
エリンは、リュウジのことをよく知っている。
ラスぺランツァのメンバーだし、引っ越し先だって探してくれた。
頼りになるし、優しい。
だけど――
(エリンさんに聞くって、なんか……)
胸がきゅっとなる。
嫉妬、と言い切るほどじゃない。
でも、リュウジの“昔”を知っている人に、今の自分が踏み込む感じがして、少し怖い。
ルナは手元のビターチョコを見つめながら、ぽつりと言った。
「……聞くの、変じゃないかな」
「変ちゃうやろ。プレゼントの相談や」
「そうだけど……」
「ルナ、そんなに悩むほど、リュウジのこと大事なんやな」
「ちょっと!」
ルナが頬を赤くして抗議すると、チャコは「はいはい」と笑った。
からかわれているのに、嫌じゃない。
むしろ、言葉にされると余計に意識してしまう。
ルナは深呼吸して、決めたように頷いた。
「……うん。聞いてみる」
「よっしゃ」
チャコは満足そうに頷き、ルナの肩を軽く叩く。
「でも、その前に材料は決めとこや。皆の分も作るんやろ?」
「そうだった!」
ルナは慌てて切り替えた。
まずは皆に配る分。ここは迷わない。
定番のミルクチョコをベースに、少しだけアレンジして、食べやすいものを作る。
メノリにはシンプルで上品に。
シャアラには可愛い形のものを。
ベルには甘さ控えめで香りのいいもの。
シンゴにはナッツ多め。
ハワードには――形だけは凝ったものを作っておかないと、絶対に騒ぐ。
「ハワードは、見た目派手にしとこ」
「それ正解や。派手やと喜ぶ」
「カオルは……どうしよう」
「カオルは何でも食うやろ。あいつ、味より量や」
「チャコ、失礼!」
ルナは笑いながら、次々とカゴに材料を入れていく。
計量用のスケール、型、ラッピング袋、リボン。
手に取るたびに、バレンタインが“現実”になっていく。
そして――最後にもう一度、ルナはチョコの棚の前に戻った。
ビターとミルクを手に取る。
どちらも捨てがたい。
ルナは少し考えた後、両方をカゴに入れた。
「両方?」
チャコが眉を上げると、ルナは小さく笑った。
「うん。エリンさんに聞く前でも、どっちも試せるように。ビターとミルクで、二種類作って……どっちがいいか選んでもらうのも、ありかも」
「ほぉ〜。やるやん」
チャコがニヤリと笑う。
「それ、実質デートの口実にもなるで? 『どっちが好き?』って聞けるやん」
「もう! そういうこと言わないで!」
ルナは顔を真っ赤にしながらも、カゴを抱える手に力が入った。
チャコの言葉が、頭から離れない。
レジへ向かう途中、ルナは端末を取り出し、エリンの連絡先を開いた。
画面の文字が少し眩しい。
(……聞くだけ。うん、聞くだけ)
ルナは心の中でそう言い聞かせながら、メッセージ画面を開いた。
指先が、少し震える。
――リュウジがどんなチョコを好きでもいい。
大事なのは、作った気持ちが伝わること。
でも、できるなら、ちゃんと喜んでもらいたい。
ルナは小さく息を吐き、ゆっくり文字を打ち始めた。
チャコはその横で、面白そうに覗き込みながらも、珍しく何も言わずに歩調を合わせていた。
ーーーー
ハワード財閥旅行会社――宇宙航路部門。
ソーラ・デッラ・ルーナのエアポートに隣接する訓練区画では、今日も緊急時対応シミュレーションが組まれていた。
実機を模した客室モックアップ。座席列、通路、荷物棚、非常口。
壁面には点滅する警告灯、床下には振動装置。スピーカーからはエンジン音と警報音が流れ、人工的に煙も焚かれる。
乗務員にとっては日常の延長だが、緊張感だけは本番そのものだ。
「――では、始めます。状況は“航行中の機関部トラブル、軽度の減圧警報”。各員、役割を確認」
チーフパーサーの声が響く。
訓練参加者は十数名。新人もいれば、数年選手もいる。
その中に、ひときわ落ち着いた気配の女性がいた。
エリン。
緑色の長い髪を後ろでまとめ、制服の袖口をきっちり整えたまま、表情は穏やか。
だが眼差しは鋭く、客室全体を一瞬で把握していた。
訓練が始まった瞬間、空気が変わる。
警報音。
床の振動。
乗客役のスタッフがざわめき、席を立とうとする。
――その混乱の中でも、エリンの動きは“速い”のではなく、“無駄がない”。
走らない。大声を出さない。
それでも、彼女が一歩通路に出るだけで、周囲の乗務員が自然と動きやすくなる。
客室が“秩序”を取り戻していく。
「皆さま、落ち着いてください。安全確認のため、席にお戻りくださいね」
声は柔らかいのに、揺るぎがない。
その一言だけで、乗客役のスタッフの動きが止まる。
指示ではないのに、従ってしまう。
エリンは通路を進みながら、視線をさりげなく他の乗務員に投げた。
合図はほとんど“目”だけ。
新人が戸惑っているのを見つけると、彼女はすぐ隣を通り過ぎるふりをしながら、床に落ちた備品を拾い上げて手渡した。
だが、誰も“助けられた”とは気づかない。
新人は、自分で立て直したような顔で次の動作に移る。
エリンはそれを、当たり前のように繰り返す。
別の乗務員がアナウンス手順を一瞬だけ迷った時も、エリンは近くの計器パネルに視線を落とし、タイミングよく頷いた。
その頷きが「今、いける」という合図になる。
乗務員はそのまま腹を括って声を通した。
煙が少し濃くなる。
乗客役が咳き込み、不安そうな声を上げる。
エリンは微笑んだまま、毛布を差し出す。
咳をしている乗客役の背中を一度だけ撫で、呼吸を整えさせる。
それだけで、客室の“不安”が一段落ち着く。
――完璧だった。
いや、“完璧”という言葉は、まだ足りない。
彼女は自分が完璧に動くだけじゃない。
周りの乗務員を、完璧に見せてしまう。
チーフパーサーは訓練を見守りながら、無意識に息を吐いた。
(……やっぱり、レベルが違う)
噂だけではない。映像で見たこともある。
だが現場で見ると、もっとはっきり分かる。
“この人がいると、客室の温度が変わる”。
訓練が一区切りついた瞬間、警報音が止み、照明が通常に戻った。
乗務員たちは汗を拭き、互いに確認し合う。新人の顔には安堵と自信が混ざっていた。
「お疲れさま。今の判断、すごく良かったわ」
エリンが新人に声をかけると、新人は顔を赤くして頷いた。
「い、いえ……エリンさんが……」
「私は何もしてないわよ。あなたがちゃんとできたの」
さらりと言ってのける。
そこがまた、信頼を積み重ねる。
訓練が終わると、チーフパーサーはそのまま訓練室の奥へ歩いた。
関係者用の打ち合わせスペース。ガラス越しに客室モックアップが見える場所だ。
そこに、宇宙開発部部長がいた。
ハワード財閥旅行会社の宇宙航路部門を束ねる男。現場を知り、数字も知る。
しかし今は、机の上の資料と現場の“熱”の間で、眉間に皺を寄せていた。
チーフパーサーは、遠慮なく言った。
「部長。エリンをチーフパーサーに上げた方がいいわ」
部長は「またか」という顔をして、ため息を吐く。
「……君もそう言うか」
「当然よ。はっきり言って、レベルが違う」
チーフパーサーはガラスの向こうを指した。
エリンがまだ乗務員たちと短い振り返りをしている。笑顔で、的確に、相手を潰さない言い方で改善点だけを残していく。
「彼女がいるだけで、他の乗務員が落ち着く。新人も中堅も関係ない。客室の空気が整う。――それがチーフの仕事でしょう?」
部長は苦笑いを浮かべた。
「君の言いたいことは分かる。だが……彼女自身が“乗務員からやり直す”と言ったんだ」
「……やり直す?」
チーフパーサーは眉を上げた。
「現場から離れて一年経っており、前回の捜索任務で、自分の力不足を彼女は、感じたそうだ。だから一から現場で鍛え直したいと。最初からチーフとして戻る気はない、と」
「でもこのままじゃ示しがつかないわ」
チーフパーサーの声が強くなる。
「現場の士気にも関わる。皆が思ってる。“なんでエリンが乗務員なの?”って。実際、声が上がってる」
部長は指で机を叩き、資料の束を示した。
「……数字もな。エリンが来てから、売り上げは右肩上がりだ。広告を打ったわけでもないのに、予約が増えている」
チーフパーサーは即答した。
「エリン目当てね」
部長は苦笑した。
「そうだ。『あの人が乗っている便に乗りたい』という問い合わせが来る。冗談みたいだが、本当だ。安全への信頼がそのまま商品価値になる」
チーフパーサーは腕を組む。
「その信頼を、肩書きで固定しない理由がないわ」
「……分かってる」
部長は困ったように目を伏せた。
現場が求めるのは、正しい。
しかし、本人の申し出も無視できない。
“自分から下りた”者を、無理やり上げるのは、逆に傷になることもある。
「彼女は、あくまで『一から現場で学び直さなければならない』と言う。過去の実績で立つのではなく、今の組織の一員として積み上げたいと」
「……真面目ね」
「真面目すぎる」
部長は苦笑して、椅子にもたれた。
「だから悩む。上げれば、現場は納得する。だが彼女の信念を折ることになるかもしれない。上げなければ、現場は不満を抱く。示しがつかない」
チーフパーサーは少し黙った。
そして、視線をガラスの向こうのエリンに戻す。
エリンは、まだ笑顔で周囲に声をかけている。
まるで何も背負っていないみたいに。
でも、背負っていないわけがない。
チーフパーサーは静かに言った。
「ねえ、部長。彼女は“やり直す”と言ったのよね」
「ああ」
「なら、やり直しの“段階”を用意すべきだわ。いきなりチーフにしろと言ってるんじゃない。――副チーフ、もしくは訓練担当。名目でもいい。肩書きが目的じゃない。現場が納得できる形が必要なの」
部長はゆっくり頷いた。
「……確かに。副チーフなら、本人も拒否しづらいかもしれない」
「拒否したら、その時はその時よ。現場は彼女を必要としている。彼女も、現場を必要としている」
部長はしばらく考え込み、そして苦笑した。
その時、ガラスの向こうで、エリンが軽く頭を下げて訓練室を出てきた。
廊下を歩きながら、端末を確認し、何かをメモしている。
疲れた様子は見えない。むしろ、訓練後の乗務員たちの表情が明るい。
部長はその姿を見て、困ったように笑った。
「……彼女が来てから、会社の空気も変わった。売り上げだけじゃない。誇りを思い出したような顔をしてる」
「でしょ」
チーフパーサーは頷く。
「だからこそ、示しが必要なの。エリンが“特別”なんじゃない。彼女のやり方を“皆のもの”にしないと」
部長は決断するように頷いた。
「分かった。今夜、本人と話す。副チーフ案でいく。訓練担当も兼ねて――現場と本人、両方の顔が立つ形を探る」
「ええ」
チーフパーサーは静かに息を吐いた。
ようやく、道筋が見えた気がした。
その瞬間、ガラスの向こうでエリンがふと振り返った。
まるで視線を感じたかのように。
そして、いつも通りの穏やかな微笑を浮かべ、軽く会釈してから歩いていった。
――彼女はきっと、何も言わない。
自分の評価にも、肩書きにも。
ただ、客室を守り、仲間を守ることだけに、全てを注ぐ。
だからこそ、周囲が放っておけないのだ。
ーーーー
訓練区画の警報音が止み、照明が通常に戻ったあとも、エリンの耳の奥にはまだ微かな残響が残っていた。
緊急時対応シミュレーション。煙、振動、乗客役の叫び声――すべて“作り物”なのに、身体は本番と同じ速度で動いていた。
ロッカールームへ戻る廊下は、冷房が効いていて少しだけ肌寒い。制服の襟元を指で整えながら扉を押すと、ロッカーの金属音と、誰かの小さな笑い声が跳ね返ってきた。
「お疲れさまでしたー」
ククルが先に戻っていて、ポニーテールを揺らしながらタオルで髪を拭いている。燃えるような赤髪が、汗で少しだけ濃く見えた。
「お疲れさま。大丈夫? 酸素マスクの手順、焦ってたわね」
「いやー、焦りました! でも、エリンさんが……」
「私は何もしてないわよ」
エリンは笑って、ロッカーを開けた。
タオルを取り出し、首筋から頬まで丁寧に汗を拭う。訓練とはいえ、集中して動けばちゃんと汗をかく。肌の熱が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
その時、ポケットの端末が軽く震えた。
画面に表示された通知の名前を見て、エリンは一瞬だけ目を瞬かせる。
(ルナ……?)
メッセージを開くと、丁寧な文面が並んでいた。
『エリンさん、お疲れさまです。突然すみません。
リュウジが好きなチョコの味って、もしご存じでしたら教えていただけませんか?
バレンタインに作ろうと思っていて……』
エリンは思わず、口元をタオルで隠したまま小さく笑った。
(そっか、もうバレンタインか)
忙しさに追われていると、そういう季節の行事がふっと抜け落ちる。
でも、ルナが“作ろう”と思って、その相手をリュウジに決めた――その事実が、エリンの胸の奥をじんわりと温かくした。
エリンは端末を握り直し、ロッカーにもたれながら親指で文字を打つ。
返事は簡潔に、でも、ちゃんと伝わるように。
『連絡ありがとう。
リュウジは甘いチョコが好きだよ。コーヒーと合うからって言ってた。
きっと喜ぶと思う』
送信ボタンを押すと、画面の文字がふっと消え、送信済みの表示になる。
エリンはタオルを肩にかけ、息を吐いた。
「……甘いチョコ、かぁ」
隣で靴を履いていたカイエが、耳に掛けた黒髪を揺らして呟いた。
「え?」
エリンが顔を上げると、カイエは端末ではなく、エリンの表情を見ていた。鋭い目元なのに、表情は柔らかい。
「今、誰かと連絡してました?」
「ルナ。バレンタインで、リュウジの好みを聞かれたの」
「ふーん」
カイエは意味ありげに頷いたあと、少しだけ口元を上げた。
「リュウジ、甘党なんですね」
「意外でしょ」
「意外っていうか、想像はできます。あの人、疲れてる時ほど無言で糖分取りそうです。」
カイエの言い方に、エリンは小さく笑ってしまった。
確かにそうだ。リュウジは“甘いものが好き”なんて自分から言わない。けれど、机の端に置かれた小さなチョコや飴を、いつの間にか消している。コーヒーを片手に、何も言わずに。
エリンの脳裏に、少し前の光景が浮かぶ。
任務の合間、休憩室。端末の画面を睨みながら、ブラックコーヒーを飲んでいたリュウジ。そこに置いた小さなチョコを、無意識に摘まんでいた。
「甘いの好きなの?」と聞いたら、彼は目も上げずに「コーヒーに合うだけです」とだけ返した。
――あれを覚えていて良かった。
エリンはそう思いながら、もう一度タオルで汗を拭う。
「ルナちゃん、頑張るんだね」
ククルが嬉しそうに言って、肩を揺らした。
「うん。いいことよ」
エリンはロッカーを閉め、髪を指で整える。
そして端末をポケットに戻しながら、心の中でそっと願った。
(うまく渡せますように)
***
同じ頃。
ソーラ・デッラ・ルーナのデパート、バレンタイン特設コーナー。
ルナはカゴを抱え、端末を手にしたまま立ち尽くしていた。
画面に表示された返信を、何度も読み返してしまう。
『リュウジは甘いチョコが好きだよ。コーヒーと合うからって言ってた』
「……甘いチョコ……!」
思わず声が漏れ、ルナは慌てて口を押さえた。
隣のチャコが、すぐにニヤリとする。
「返ってきたんか?」
「う、うん……!」
ルナは端末をチャコに見せた。
チャコは画面を覗き込み、目を細める。
「ほぉ〜。甘いチョコかいな。意外やな」
「だよね……! 私、ビターだと思ってた」
「ウチもや。見た目、絶対ビターやろ」
「でも、コーヒーと合うからって……」
ルナはその言葉を噛みしめるように呟いた。
リュウジがコーヒーを飲む姿は、簡単に想像できる。ブラックで、余計なものは入れない。
その隣に甘いチョコ。
なんだか、“本人は言わないけど、ちゃんと好きなもの”って感じがして、ルナの胸がきゅっとした。
「ほな、ミルク系か? それともホワイト?」
チャコが棚を指す。
ルナは視線を巡らせながら、少し考えた。
「甘いって言っても、くどいのは嫌かもしれないし……コーヒーに合う甘さ……」
「……つまり、甘いけど、しつこくないやつやな」
「うん。例えば、生チョコとか……ガナッシュとか……」
「ルナ、やる気満々やん」
チャコが嬉しそうに言うと、ルナは頬を赤くしてカゴを抱え直した。
「だって、せっかく作るなら……ちゃんと喜んでほしいし」
「せやなぁ」
チャコはわざとらしく小指を立てるのを我慢して、代わりに肩をすくめた。
「で? 甘いチョコって分かったら、次は何作るんや?」
「……二種類にしようかな」
ルナは、さっきまで迷ってカゴに入れたビターとミルクの板チョコを見下ろした。
「皆に配る分は食べやすいミルクで、リュウジには……コーヒーに合う、少し濃厚な甘さのやつ。あと、形もちゃんとしたい」
「おぉ、急に職人みたいやん」
「もう、からかわないでってば」
「からかってへん。応援しとるんや」
チャコが言うと、ルナは少しだけ胸の奥が軽くなった。
好みが分かっただけで、こんなに安心するなんて自分でも驚く。
ルナは棚から、ミルクチョコと生クリーム、ココアパウダーを追加で取った。
それから、コーヒーエッセンスの小瓶を見つけて、指先でラベルを撫でる。
「これ……入れたら、コーヒーに合うかも」
「お、ええやん。リュウジっぽい」
チャコが頷く。
ルナは小瓶をカゴに入れて、ふっと笑った。
「エリンさん、教えてくれて助かった……」
「そらそうや。エリン、仕事できるもんな」
「うん。……私も、ちゃんと作ろう」
ルナはそう呟いて、もう一度端末を見た。
短いメッセージなのに、そこには確かに“背中を押される”感じがあった。
そしてルナは、顔を上げる。
甘い香りが漂う売り場の中で、やることはもう決まっていた。
今年のバレンタインは、皆の分と――リュウジの分。
コーヒーに合う、甘いチョコ。
ルナはカゴを抱え直し、チャコと一緒に次の棚へ歩き出した。
心の中には、さっきよりずっとはっきりした“楽しみ”が、芽を出していた。
ーーーー
デパートの紙袋を下げて家に戻ると、外の冷たさとは違って部屋の空気が少しだけ柔らかく感じた。
ルナは玄関で靴を揃え、袋を抱えたままリビングへ入る。
「……よし。やるか」
「気合い入っとるなぁ、ルナ」
ソファの背もたれにちょこんと乗ったチャコが、機嫌よさそうに首を振った。手にはすでに端末。年末特番の時みたいに、画面を眺めながらもこちらの様子はばっちり見ている。
「当たり前でしょ」
「顔がもう“勝負”やって顔しとる」
「もう! からかわないでよ!」
「からかってへん。応援や」
ルナはぷくっと頬を膨らませてから、キッチンのカウンターに材料を並べた。
ミルクチョコ、ビター、ココアパウダー、生クリーム、バター、ナッツ、ラッピング袋、リボン、そして小さな瓶――コーヒーの香り付けのエッセンス。
エリンの返信の言葉が、今も頭の中に残っている。
(リュウジは甘いチョコが好き。コーヒーと合うから)
その“甘い”が、ただ甘いだけじゃないのがリュウジらしい気がして、ルナは少しだけ笑ってしまう。
無駄がなくて、簡単で、それでいてちゃんと味がある。そんな感じ。
「まず、皆の分は簡単に。食べやすいの」
「ほぉ。ハワードの分もな」
「もちろん。ハワードは派手にしないと絶対騒ぐもんね」
「正解や」
チャコがうんうん頷いたところで、ルナはエプロンを着け、髪を結んだ。手を洗って、作業台を拭いて、計量スケールを出す。
タブレットを開き、手順を確認しながら、まずは小さな型を並べる。星形、ハート形、丸。友達用はこれで十分。
チョコを刻む。
包丁がまな板に当たる音が、思ったより軽快で、ルナの緊張も少しほどけた。
湯せん用の鍋に湯を張り、ボウルを重ねる。焦らないように温度を気にしながら、ゆっくり溶かしていく。
ミルクチョコが艶を出して、とろりと形を変えた瞬間、甘い香りがキッチンいっぱいに広がった。
「うわ……いい匂い……」
「腹減ってきたわ」
「チャコは食べちゃだめ!」
「言うと思ったわ」
ルナは笑いながら、溶かしたチョコを型に流し込んでいく。
ナッツを散らすもの、ココアを振るもの、ドライフルーツを乗せるもの。
“みんなが喜びそう”を頭に並べながら作る作業は、楽しい。
けれど――。
ルナの手が、ふっと止まった。
視線が、カウンターの端に置いたビターとエッセンスに移る。
(リュウジの分)
そこだけ、急に呼吸が変わる。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「……次、リュウジの作るわ」
「お、来た来た」
「静かにして」
「はいはい」
チャコが口を押さえる仕草をして、わざとらしく黙った。
ルナは深呼吸して、ボウルを新しく用意した。
ミルクチョコだけだと甘すぎるかもしれない。
でもビターだけだと、エリンの言う“甘い”から外れる。
だから――配合を変える。
ミルクを多めに、ビターを少しだけ混ぜる。
甘いのに、後味がくどくならないように。
コーヒーに合わせた時に、香りが立つように。
溶かしたチョコに、生クリームを少しずつ入れて混ぜる。
最初は分離しそうになって、ルナは焦ってスプーンを止めた。
「え、あれ……」
「慌てたらあかん。混ぜすぎると逆にあかんで」
チャコが急に真面目な声で言った。
ルナは「え?」と振り向く。
「……チャコ、知ってるの?」
「動画で見たことあるだけや。混ぜる時は中心からや。ゆっくり、や」
「……分かった」
ルナは言われた通り、中心から円を描くように混ぜた。
すると、さっきまでざらついていた表面が、ふっと滑らかになっていく。
艶が出て、ガナッシュがまとまった。
「……できた」
「やるやん」
ルナは少しだけ胸を撫で下ろし、そこにコーヒーエッセンスをほんの数滴落とした。
香りが立つ。甘い中に、ほろ苦い匂いが一本通った。
(これなら、コーヒーと合う)
味見をするのは本当はもう少し冷ましてからだけど、ルナは小さくスプーンの先でほんの少しだけ舐めた。
甘い。だけど、甘すぎない。
舌の上に残る余韻が、ふっとコーヒーみたいに引いていく。
――なぜか、それだけで顔が熱くなった。
(リュウジがこれ食べるんだ)
想像しただけで、胸がきゅっとなる。
どういう顔をするだろう。
「うまい」って言う? それとも、いつもみたいに短く「悪くない」って言う?
どっちでもいい。どっちでも、きっと嬉しい。
「……顔赤いで」
「赤くない!」
「赤い」
「赤くないってば!」
ルナはムキになりながらも、手を止めなかった。
ガナッシュを冷やして、丸められる固さになったら、小さな球にする。
それをココアで転がす。
さらにもう少しだけ特別にしたくて、上に小さな飾りを乗せることにした。
砂糖で作った小さな三日月のパーツ。
型抜きで抜いただけの簡単なものだけど、胸元のネックレスと同じ形。
「ルナ、なんやそれ」
「……三日月」
「……おぉ。自分のマーク付けたんか」
「違うわよ! ただ、可愛いかなって思っただけ!」
「はいはい」
チャコがニヤニヤするのを無視して、ルナは三日月をそっとチョコに乗せた。
ココアの茶色の上に、白い三日月が浮かぶ。
夜空みたいで、綺麗だった。
出来上がったチョコは、小さな箱に詰める。
友達用は袋にまとめて、名前が分かるようにタグを付ける。
でもリュウジの分だけは、箱を別にした。
余計な飾りは付けない。
派手なリボンも付けない。
ただ、きちんとした箱に、落ち着いた色の紐を結ぶ。
――その代わり、カードを一枚入れた。
ペンを持つと、急に手が震える。
ルナは唇を噛んでから、短く書いた。
『コーヒーと一緒に食べて。
無理しすぎないで。
ルナ』
書き終えた瞬間、自分で書いた文字が恥ずかしくて、ルナはカードを裏返した。
でも、結局また表に戻して、箱の中にそっと滑り込ませた。
「よし……完成」
ルナが小さく呟くと、チャコがわざとらしく拍手した。
「おめでとさん。これでバレンタイン作戦は第一段階クリアや」
「作戦って何よ」
「次は渡す段階やろ?」
「……う」
ルナの胸がまた、きゅっとする。
作るのも緊張したけど、渡す方がもっと緊張する。
だって、相手はリュウジだ。
ぶっきらぼうで、何でもない顔をして、でも――時々、優しい。
「……明日、渡せるかな」
「渡せるやろ。逃げへん限り」
「逃げないよ!」
「ほな、逃げるなよ。ルナが」
「もう!」
ルナは怒ったふりをしながら、箱を両手で抱えた。
不思議と、心は軽かった。
キッチンの明かりの下で、箱の中のチョコは静かに艶を帯びている。
甘い香りの中に、ほろ苦いコーヒーの匂い。
ルナはその匂いを胸いっぱいに吸い込んで、そっと笑った。
(喜んでくれたらいいな)
ただそれだけを願いながら、ルナは明日のために箱をそっと棚の上へ置いた。