冬が深まるにつれて、スターホールに備えた食料は確実に減っていった。蓄えていた木の実や干した魚はすでに底を尽きかけ、狩猟や採集に出ても、雪に覆われた大地がその成果を大きく制限していた。天候も不安定で、一日中晴れている日などほとんどなく、吹雪に閉ざされることもあれば、短い晴れ間のあとすぐに雪が降り出すことも多い。皆の胃袋を満たすためには、一瞬の好機を逃さず動くしかなかった。
その朝は珍しく、雪が降らず、どんよりと厚い雲が空を覆っているだけだった。灰色の空からは雪も雨も落ちてこない。風も弱まり、音のない静けさが広がっていた。こうした日はめったにない。すぐさま、リュウジとカオルは食料調達に出かけることを決めた。
二人が目指したのは川だった。凍りついた大地の中でも、かろうじて流れを保つ川なら、魚を得られる可能性がある。雪を踏みしめながら進む二人の吐く息は白く長く伸び、足音は雪に吸い込まれていく。
やがて辿り着いた川は、想像通り厚い氷に覆われていた。白く凍りついた川面は鏡のように滑らかで、ところどころ雪に覆われ、どこが深みなのかすら判別できなかった。
「ダメだな、完全に凍っている……」
カオルは川の中央へと慎重に足を運び、手にした槍を構えて氷を突いた。硬質な音が乾いた空気に響き、刃先は弾かれてしまう。氷は厚く、鋭い槍の先すら届かない。
「水は流れているようだが、厚すぎて今の装備じゃ無理だな」
リュウジも川辺にしゃがみ込み、拳で氷を軽く叩いた。コンコンと響く音は分厚い氷の抵抗を物語っていた。しばらく耳を澄ますと、遠くの方でかすかな水の音が響く。だが、それは厚い氷の奥底からの声にすぎなかった。
「やはり獣を狙うか?」
カオルが槍を肩に担ぎながら、険しい表情を見せる。魚が無理ならば、まだ冬眠に入らず活動している小型の獣を仕留めるしかない。しかし、それも確実ではなかった。足跡を追っても見つけられず、見つけても仕留めるのは容易ではない。時間ばかりが過ぎていく可能性が高い。
「いや、獣を捉えるのは時間がかかりすぎる」
リュウジは冷静に首を横に振った。川面を見つめたまま、思考を巡らせる。食料が尽きれば皆の体力が落ち、寒さに耐える力すら奪われる。焦りはあるが、無駄に時間を浪費するのは最悪だ。
「下流に行けば、薄いところがあるかもしれない」
リュウジは視線を遠くへと向け、氷の切れ目を探すように目を細めた。流れの速い場所なら、氷はまだ完全には閉ざされていないはずだ。そこを狙えば魚を捕らえる可能性はある。
「なるほど……やってみる価値はあるな」
カオルはうなずき、再び槍を握り直した。
二人は下流に向けて雪を踏み分けながら歩き出した。雪に覆われた川岸は滑りやすく、慎重に足を進めなければならない。風がないとはいえ、空気は冷えきっており、耳や頬を刺すような寒さがまとわりついてくる。足元の雪がギュッ、ギュッと鳴り、ただその音だけが続く。
スターホールで待つ仲間たちの顔が、二人の脳裏をよぎっていた。暖かい焚き火を囲みながらも、次第に痩せ細っていく食料に不安を募らせるルナやメノリ、無邪気に笑っていても空腹を隠しきれないシンゴやアダム。誰もが笑顔を絶やさないようにしているが、その裏には焦りが確かに存在している。
リュウジとカオルの足取りは重かった。だが、その重さは空腹でも寒さでもなく、「仲間を生かさなければならない」という責任の重さだった。
◇◇◇
下流に向かって雪を踏みしめながら歩く二人の靴底は、冷え切った氷と雪を交互に踏み抜くようにギュッ、ギュッと音を立てていた。川の表面はどこまでも白く凍りつき、二人の視線は鋭く川面をなぞる。どこかに薄い箇所はないか、わずかでも割れ目はないか、流れの気配を見逃すまいと神経を研ぎ澄ます。しかしその望みは叶わなかった。氷は厚く、白く、どこまでも均一で、魚の影ひとつ見えない。
気づいたとき、二人の耳に微かに波の音が届いていた。ゴウ、ゴウと低い響きが風に混じって流れ込んでくる。思わず二人は顔を見合わせた。
「海に出たか……」
カオルは舌打ちしながら、白い息を吐いた。
リュウジも同じように小さく舌打ちをし、雲の垂れ込めた空を見上げる。灰色の雲はさらに厚みを増し、遠くの海の水平線をぼやけさせていた。
「雲が厚くなってきたな……」
リュウジは吐息混じりに呟く。彼の頭の中には、これからの時間配分が瞬時に組み立てられていた。2、3時間もすれば、また雪が降り出す。ここまで来るのにも時間がかかった。下手をすれば吹雪の中で帰り道を見失う危険もある。
「手分けをした方が良さそうだな……」
カオルも同じく空を見上げながら呟く。焦りがじわりと胸に広がるが、顔には出さない。
「カオル、火を起こせるか?」
リュウジが唐突に言った。
「……ああ? 何故そんなことを……」
今さら何を言い出すのかと思い、カオルは視線をリュウジに向けた。そして次の瞬間、目を疑った。リュウジが無造作に上着を脱ぎ始め、その下のシャツまで脱ぎ取っているではないか。冬の海風が肌にまとわりつき、肌色の上に薄い蒸気が立ちのぼっていく。
「おい!」
カオルは慌ててリュウジの腕を掴んだ。
「自殺行為だ!」
声が自然と荒くなる。海に入るなど正気の沙汰ではない。
「30分で戻る。凍死しないように火を焚いておいてくれ」
リュウジは冷静に、しかし決意のこもった声で言い残すと、カオルの腕を振り払った。その目はすでに海を見据えている。
「待て、リュウジ! そんな無茶――」
カオルの叫びは波音にかき消される。リュウジは薄いシャツ姿のまま、雪を蹴り、砂混じりの浜辺を海に向かって駆け出した。足跡が白い砂の上に連なり、次の瞬間、冷たい海水がリュウジの膝を打ち、腰まで飲み込む。彼はためらうことなく潜り込んだ。
カオルは舌打ちをし、両手で頭を抱えた。だが、今は止めても無駄だ。まずは言われた通りに火を起こさねばならない。雪を払い、濡れた木々の中から使えそうな枯れ枝を掻き集める。手はかじかみ、指先の感覚が鈍る。だが、カオルは器用に火打石を打ち、やがて小さな火花が広がっていく。煙が上がり、しばらくしてパチパチと火の粉が跳ねる音が雪に反響した。
30分が経った。火はようやく安定し、オレンジ色の炎が小さな焚き火の周囲を暖めている。カオルは海を見つめながら、不安と苛立ちの入り混じった視線を送り続けた。
その時、海の向こうから黒い影が現れた。濡れた髪を振り乱し、両腕に何かを抱え、波を掻き分けている。
「……生きていたか」
カオルは胸を撫で下ろし、フッと笑みを浮かべた。リュウジが両腕に抱えているのは魚だった。しかも5~6匹、銀色に光る魚体が揺れている。
「持ってろ」
リュウジは短く言って、魚をカオルに渡した。全身が震えているのに、目だけは鋭く光っている。
「どうだった?」
カオルは渡された魚の臓物を取り除きながら尋ねた。手は手早く動くが、その視線はずっとリュウジに向けられている。
「思ったより魚はいたな」
リュウジは焚き火に両手をかざし、指先の感覚を取り戻そうとしている。心の中で、これならしばらくは食料にも困らないだろうと計算していた。
「また潜る気か?」
カオルは魚を捌き終え、震えているリュウジの隣に腰を下ろした。焚き火の赤い光が二人の顔を揺らす。
「いや、今日はやめておく」
リュウジは短く返した。
「今日は、か……」
カオルは小さく笑った。その笑みには安堵と呆れが混じっている。「……ルナに怒られるぞ」穏やかな表情でそう言うと、焚き火の炎に手をかざしたまま、横目でリュウジを見た。
リュウジは一瞬だけ視線をカオルに向ける。彼の声色に、どこか柔らかいものを感じ取っていた。
「お前、ルナと何かあったのか?」
リュウジは疑問を投げかけた。カオルが最近、妙に落ち着き、誰かを信じるような目をするのを感じ取っていたからだ。
カオルは真剣な表情を浮かべた。しばし黙ってから、静かに笑った。
「あいつは俺を救ってくれた」
その言葉には、どこか誇らしさが滲んでいた。
「あの時ルイは俺に生きろと言ってくれたんだ。だから俺は、こんなところで死ぬわけにはいかない」
語るカオルの表情は不思議と嬉しそうで、焚き火の明かりが彼の横顔を温かく照らした。
リュウジは横目でそれを見つめ、「そうか」とだけ返し、立ち上がった。上着を羽織りながら、その言葉の余韻を胸に刻む。
「お前もルナがきっと救ってくれる」
カオルは焚き火を見つめながら小さく呟いた。
リュウジは一瞬だけ動きを止めたが、何も言わず、「戻るぞ」と低く呟いた。その声には、ほんのわずかだが温もりが宿っていた。
◇◇◇
スターホールの入口が見えたとき、二人はようやく張り詰めた呼吸を緩めた。雪の斜面を踏みしめる足音が洞窟の壁に反響し、暖かい橙色の光が薄暗い吹雪の空から浮かび上がる。焚き火の光と、仲間たちの声が微かに聞こえてきた。
「おかえりなさい!」
最初に声を上げたのはシンゴだった。焚き火の近くで何やら木片を削っていたが、二人の姿を認めた瞬間に飛び出してきた。
「魚だ……!」
カオルが背に抱えていた魚を見て、子供のように目を輝かせる。
「すごい……! 本当に捕れたのね」
シャアラが手を胸に当て、息を呑む。
ルナも立ち上がり、彼らを迎えた。
「よかった……無事に帰ってきて」
その声は努めて明るかったが、胸の奥では冷たい恐怖がずっと残っていた。出発してからの時間、雪雲の厚みを見上げるたびに「もう帰ってこないのではないか」と思う瞬間が幾度もあったのだ。
「随分濡れてるじゃない!」
ルナはリュウジの姿を見て、思わず声を上げた。髪の毛からはまだ水滴が滴り落ちている。
「ちょっと海に潜っただけだ」
リュウジは何でもないように返した。
「ちょっと……!? こんな時期に!」
思わず語気が強くなる。ルナの眉間には皺が寄り、震える手でリュウジの濡れた髪を見つめた。危険の大きさを想像すると、言葉にならない焦りが喉の奥に詰まる。
「ルナ、落ち着け。魚を確保できたんだ」
カオルが苦笑しながら魚を掲げた。
「ほらほら、ええもん持ってきたやん!」
チャコも横から覗き込み、関西弁で声を弾ませた。「こりゃ今日はええごちそうやで!」
「これで、しばらくは持ちそうだな」
メノリは腕を組んだまま頷きつつ、安堵を隠そうとはしなかった。
「やった〜! 煮ても焼いてもいいし、スープにしたら絶対おいしいよ!」
シャアラの目が輝き、すでに料理のことを考えている。
「僕、さばくの手伝うよ!」
シンゴもすぐに張り切って手を上げた。
「俺も……運ぶの手伝う」
ベルも不器用ながら、真剣な顔で近づいてきた。
その様子を見て、アダムはぱっと走り出した。
「リュウジ! すごい! すごい!」
小さな体で勢いよく抱きつく。リュウジは思わず片眉を上げたが、振り払うことなく小さく「重い」と呟くだけで受け止めていた。
「……ほんとに、無茶ばかりするんだから」
ルナは小さな声で呟いた。彼の姿に安堵しつつも、怒りと心配がない交ぜになっている。
「おい、俺の取り分はちゃんとあるだろうな!」
ハワードが横から顔を出し、冗談半分に叫んだ。
「あるかどうかは、態度次第だ」
カオルが冷ややかに返し、場に笑いが広がった。
魚は次々に火のそばへ並べられ、腹を裂かれ、串に刺されていく。スターホールに漂う生臭さと、焚き火の匂いが混じり合い、やがて香ばしい煙が洞窟の天井に昇った。
夕食の準備が整うまでの間、ルナは何度もリュウジの方へ視線を送った。彼は焚き火の隅に腰を下ろし、濡れた服を乾かすようにしてじっと炎を見つめている。無言で、何かを考え込むように。
胸の奥で鼓動が強まる。
――あの人は、どうしてあんな危険を。
問いかけたいのに、言葉にできない。もし問い詰めたら、また冷たい瞳で突き放されるのではないか。その不安が、彼女の唇を縫い付けていた。
「ルナ」
シャアラが肩に手を置いた。「もう大丈夫だよ。みんなで食べられる」
「……ええ、そうね」
ルナは無理に笑みを作った。しかし心の奥では、焚き火に映るリュウジの横顔から目を逸らせなかった。
やがて、焼けた魚の香ばしい匂いが満ち、仲間たちの笑い声が洞窟に響いた。寒さも飢えも、今だけは少し遠ざかっていくようだった。けれどルナの胸には、彼がまた次に無茶をするのではないかという、拭えない不安が静かに居座り続けていた。
◇◇◇
魚が焼き上がり、香ばしい匂いがスターホールの中に広がった。仲間たちは笑いながら串を手に取り、温かな身を口に運ぶ。冷え切った体に、久しぶりの豊かな食事が沁み渡っていくようだった。
「おいしい!」
シャアラが目を細め、幸せそうに声を上げる。
「塩があったらもっと最高なんだけどな」
ハワードのぼやきに、カオルが呆れたように肩をすくめる。
笑い声の渦の中で、ルナはひとり焚き火の隅に座るリュウジの姿に目を向けた。濡れた服は火で乾き、蒸気がまだわずかに上がっている。炎に照らされた横顔は影を帯びていて、どこか遠くを見ているようにも見えた。
ルナは迷った末に、静かに立ち上がり、彼の隣に腰を下ろした。周囲の喧噪が少し遠ざかる。
「……ねえ」
声を落として、ルナはリュウジを見上げた。
「なんだ」
返事は素っ気なかったが、その瞳は逃げずにこちらを向いた。
「今日は……無事でよかった。でも、もう二度と海に潜るなんて無茶はしないで」
ルナの声は、焚き火のはぜる音にかき消されそうに小さい。それでも強く震えていた。
リュウジは少し黙り、炎を見つめ直した。
「魚を捕るには、あれしかなかった」
「でも――私、あなたが戻ってこないんじゃないかって……ずっと怖かったの」
ルナは拳を握りしめ、俯いた。
「食料は必要だ」
「それでもよ!」ルナは思わず声を荒げた。「あんな無茶をして、もし帰ってこなかったら……どうするの。私たちは、私が……」と言葉を詰まらせる。
リュウジは黙ったままルナを見つめた。その瞳の奥に、ほんの僅かな揺らぎが映る。
ルナは拳を握りしめ、涙をこらえながら続けた。
「あなたがいなくなるなんて、考えたくもないの。だから、約束して。もう二度と潜らないって」
焚火の明かりに照らされるルナの横顔は、強い決意と不安が入り混じっていた。リュウジはその姿をしばらく見つめ、やがてゆっくりと視線を落とした。
「……わかった」
小さく、それでも確かに頷くリュウジの返事に、ルナはようやく肩の力を抜いた。冷たい夜風の中、焚火の温もりだけが二人を包んでいた。
それは曖昧な答えだったが、今の彼にしては珍しく、拒絶ではなく受け止める響きがあった。
◇◇◇
魚を食べ終え、皆が満腹の余韻に浸っていると、焚き火の火は次第に小さくなり、部屋の空気が静けさを取り戻していった。スターホールの奥には風の唸りが響き、外の厳しい冬を忘れさせない。
「……あったかいね」
シャアラが膝に毛布を抱えたまま、ほっとしたように呟く。
「でも、食料は今日の分でだいぶ減った」
メノリが現実を口にした途端、皆の顔に影が落ちた。
「まだ雪は続きそうだし、狩りや川での漁も難しい状況だ。正直、春までにどれだけ残せるかが勝負になる」
カオルが淡々と告げる。その冷静な声は場をさらに引き締めた。
「備蓄は根菜と干し肉、果実の乾燥品が少し……」
ルナは指を折りながら数を確認していく。「あと一ヶ月……いえ、下手をすれば二ヶ月は雪が続くかもしれないわ」
「二ヶ月……」
ハワードが顔をしかめた。「持つのか?」
「持たせるしかないのよ」
ルナは強い調子で言い返す。しかしその声の奥には、不安が隠しきれなかった。
「俺たちが交代で外に出て、なんとか獲物を仕留めるしかないだろうな」
カオルが腕を組む。
「けど、危険よ。今日だってリュウジが無茶をして……」
ルナの視線が一瞬リュウジに向かう。彼はその視線を受け止めながらも、何も言わず炎を見つめていた。
「・・・・・・」
リュウジは珍しく何も言わなかった。
「……せめて、出る人を決めて順番を作りましょう。全員で交代して少しでもリスクを分散させるの」
ルナは考えをまとめるように言った。
「なるほどな。狩りや漁に出る組と、洞窟で保存や加工をする組に分けるってことか」
カオルがうなずく。
「私も……料理や保存なら手伝える」
シャアラが小さく手を挙げ、隣のアダムも元気に「僕も!」と声を上げる。
チャコが笑いながら「アダムはまだ小さいんやから、無理はせんでええで」と声をかけた。
「無理はしない。けど、やれることはやる」
アダムの瞳は強い光を宿していた。
その様子を見て、ルナは胸の奥にじんと熱いものを感じた。小さな仲間たちも必死にこの冬を乗り越えようとしている。――だから、自分も絶対に弱音を吐いてはいけない。
◇◇◇
翌朝。分担を決めるとき、ルナの声が洞窟に響いた。
「リュウジ、今日はハワードとアダムと三人で食糧集めをお願い」
一瞬、空気が張り詰めた。
「えぇっ!?僕はは保存食班の方が向いてるんだけどな」
ハワードは大げさに肩を落とし、文句を垂れる。
「やったぁ!僕、リュウジと一緒だ!」
反対にアダムは無邪気に跳ね、満面の笑みを浮かべた。
リュウジは眉間を押さえ、深いため息をつく。――なるほど、ルナの考えはよく分かった。自分が再び無茶をしないよう、あえて動きにくい組み合わせを選んだのだろう。
(よく考えたもんだ……)
そう心の中で呟きつつも、背に重い責任を背負わされた気分になり、リュウジは肩をすくめた。
***
雪深い外へ出てしばらく。食料集めを頼まれたはずの二人は、雪玉を投げ合い、丘の上を駆け回っていた。
「くらえ、アダム!」
「やったなぁ、ハワード!」
白い雪玉が宙を舞い、笑い声が澄んだ空気に響く。
リュウジは額に手を当て、無言で天を仰いだ。
(完全に食料のことを忘れてるな……)
ハワードだけなら怒鳴りつけて終わりだ。しかし、アダムまで楽しそうにしていると、怒るわけにもいかない。結局、リュウジは二人を小高い丘に残し、一人で森へと足を運んだ。
しかし森の中は厳しかった。やせ細った木々には実一つついていない。地面を掘っても獲物の足跡すら見つからない。肩を落として森を出たリュウジは、仕方なく二人の元へ戻った。
ところが、先ほどの丘にはもう誰もいなかった。
「……ちっ」
舌打ちして周囲を探すと、さらに高い丘の上で二人の姿を見つけた。雪を転がし、雪だるまを作っては斜面から滑らせ、はしゃいでいる。
(ほんと、疲れる……)
心底呆れ果てた瞬間、地面から低い轟音が響いた。足元がぐらりと揺れる。
「……地震か?」
とっさに目を凝らすと、丘の下に窪みが生まれ、雪が崩れ落ち始めていた。――雪崩だ。
「木に捕まれっ!!」
リュウジの怒声が空気を裂いた。アダムは反射的に近くの木にしがみついた。しかし、ハワードは呆然と立ち尽くし、首を傾げている。
「なんだ、なんだ――」
「危ない!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁ」
リュウジの叫びより早く、雪が崩れ落ち、ハワードの叫び声と姿を呑み込んだ。
「くそっ!!」
苛立ちを露わに、リュウジは迷わず雪崩の中へ飛び込んだ。
***
しばらく後。雪煙がまだ漂う丘のふもとに、ルナが駆け込んできた。
アドムがルナにテレパシーを送ったのだろう。
「アダム!」
泣きそうな声でアダムが木から手を放し、彼女の胸に飛び込む。
「ルナ! ハワードが……雪に飲み込まれて……リュウジが助けに行ったの!」
ルナの顔が青ざめる。喉が詰まりそうになるのを必死に押さえ、雪崩の方向を睨んだ。
その時――。雪の中から一本の手が突き出た。続いてリュウジの顔、肩。そして彼が掴み上げたのは、ぐったりとしたハワードだった。
「リュウジ! ハワード!」
ルナとアダムは駆け寄った。ハワードはブルブルと震え、顔色が青白く染まっていた。
「目立った外傷はないな……」
リュウジは息を吐き、ハワードを雪の上に横たえた。久しぶりに全身の力が抜けるような疲労感が押し寄せた。
「二人とも大丈夫?」
ルナの声に、リュウジは短く「問題ない」と返す。だがハワードは寒さのせいで答えることすらできなかった。
「引きずって帰るか」
リュウジはハワードの襟を掴み、ずるずると引きずり始めた。
安堵に肩を落としたルナとアダムが後ろを歩き出したとき、ふとアダムが声を上げる。
「ハワード、それ何?」
彼の右手には、雪にまみれた一本の蔓が握られていた。リュウジも足を止め、その先に目を凝らす。
「……?」
ルナが蔓をたどり、雪を掻き分けた瞬間、歓声をあげた。
「サツマイモだ!」
「たくさんあるよ!」
アダムも夢中になって掘り進め、雪の下から次々と芋が姿を現す。
「すごい量だな……」
リュウジも思わず目を見張った。
「これでしばらく食料の心配はないわ!」
ルナは喜びに声を弾ませ、震えるハワードに微笑みかける。
「お手柄だね、ハワード」
「……おてがら?」
かすかに動いた唇。次の瞬間、ハワードの顔に精気が戻り、ぱっと目を輝かせた。
「そうだ!僕のお手柄だ!」
雪崩の恐怖など忘れたかのように、胸を張ってはしゃぎ始める。延々と自慢を繰り返す彼に、リュウジは堪えきれず、つい声を荒げた。
「帰るぞ!」
その一言でようやく静かになったハワードを引き連れ、一行はスターホールへと戻った。
***
保存食を作っていたメノリとチャコに事情を説明すると、二人の視線は自然とリュウジへ集まった。哀れむような、労うような目。
その視線を避けるように肩を落としたリュウジは、ルナの耳元に小声で囁いた。
「……もうあの二人とのペアは勘弁してくれ」
それは、彼が初めてルナに「お願い」をした瞬間だった。
◇◇◇
その視線を避けるように肩を落としたリュウジは、ルナの耳元に小声で囁いた。
「……もうあの二人とのペアは勘弁してくれ」
それは、彼が初めてルナに「お願い」をした瞬間だった。
ルナは一瞬、言葉を失った。アダムとハワードをリュウジに付けたのは、彼がまた無茶をして海に潜ったり、危険を顧みずに行動しないようにするためだった。二人が一緒なら、多少はリュウジの足を止めてくれる――そう考えたからだ。
けれど確かにハワードとアダムの面倒を見ながら、食料集めは酷だったかもしれない。
(……私、ちょっと可哀想なことをしちゃったのかも)
胸の奥に小さな後悔が灯る。少しでも気を抜いてもらえればいいとも心の中では思っていたが、結果的にリュウジに余計な負担を背負わせてしまったのだ。
ルナはそっと彼を見つめ、微笑みながら小さく頷いた。
「……わかった。次は考えるね」
焚火の赤い光がリュウジの横顔を照らす。その影を見ながら、ルナは静かに決意を固めた。
――彼に無理をさせすぎないように。これからはもっと、ちゃんと考えないと。
⬜︎
サツマイモの山を前に、リュウジとアダムは保存用に分別作業をしていた。
芽が出ているもの、土付きのもの、大きさもまちまちだ。
「これは大きいから保存向きだな」
リュウジが土を払いつつ積み上げると、アダムは「じゃあ、こっちはすぐ食べられる用だね」と嬉しそうに並べていく。
そのとき、アダムのお腹が「ぐうぅ」と鳴った。
「……あ」
気まずそうに笑ったアダムを横目に、リュウジはため息をつきつつも、一つの芋を手に取った。
「仕方ないな。今日は特別だ」
そう言って芋を水で濡らし、焚き火の下に掘った小さな穴に埋め込む。
しばらく待つと、香ばしい匂いがスターホールに広がってきた。
「もういいだろう」
リュウジが火の中から取り出すと、アダムの目が輝いた。両手をすり合わせ、待ちきれない様子だ。
「熱いから気をつけろよ」
リュウジが渡すと、アダムは「あちっ!」と指先を振りながらも、笑顔のまま頬張った。
「おいしい! あまい!」
その笑顔につられて、リュウジも思わず口元を緩める。
そのとき、外から軽やかな足音が近づき、ルナが帰ってきた。
扉を開けた瞬間、漂う甘い匂いに「わぁ……」と目を丸くする。
「ただいま。なに、このいい匂い」
ルナが問いかけると、アダムが嬉しそうに焼き芋を掲げた。
「リュウジが作ってくれたんだ!」
ルナは思わず微笑む。
「ふふっ、そうなの? いいなぁ」
リュウジは肩をすくめ、気恥ずかしそうに目を逸らした。
「余った芋を焼いただけだ」
そんな彼の横顔に、ルナは優しく笑みを浮かべて腰を下ろす。アダムが嬉しそうにルナに芋を差し出した。
「ルナも食べて!」
「ありがとう」受け取った芋を頬張ると、自然に目を細める。
「……ほんとだ。あまくて美味しい」
三人で焚き火を囲み、熱々の芋を頬張りながら、笑い声がスターホールに満ちていく。
寒さに閉ざされた外の世界が遠くに感じられるほど、そこには小さな家族のような温かさがあった。
⬜︎
その夜のスターホールは、外で吹き荒れる寒風に負けじと焚き火の明かりが揺れ、壁に柔らかな影を映していた。
仲間たちはそれぞれ思い思いに夜の時間を過ごしている。シンゴは木の棒を削って新しい道具を作ろうと奮闘しており、メノリは保存食の点検をしている。シャアラは暖かな毛布に身を包みながら蔓を編み、チャコはその隣で尻尾をゆらゆらさせている。
そんな中、アダムが笑い声とともに駆け寄ってきた。
「ねえねえ、シャアラ!」
「なぁに?」と顔を上げたシャアラに、アダムは胸を張り、今にも弾けそうな笑顔で答えた。
「今日ね、リュウジとルナと三人で焼き芋を食べたんだ!」
その声は洞窟の中に響き渡り、まるで大事な宝物をみんなに披露するかのようだった。アダムの頬は紅潮し、思い出すだけでまた胸がいっぱいになるのか、足先で軽く跳ねている。
「へえ〜三人で焼き芋?」とシャアラはにっこり笑い、編んでいた蔓をひとまず膝の上に置いた。
「うん! すっごく美味しかったんだよ! 甘くて、ホクホクで! ルナとリュウジと一緒にね、あったかい焚き火のそばで食べたんだ!」
アダムの無邪気な語りは止まらない。言葉の端々に「楽しかった」が溢れ、聞いているだけでその場の温かさが伝わってくるほどだった。
「ほぉ〜」と、不意に低い声が響く。
チャコだった。大きな瞳を細め、唇の端をにやりと吊り上げながら、ルナへと視線を向けてきた。
「三人で……か」
その声音は、何気ない会話のようでありながら、明らかに含みを持っていた。焚き火の赤い光がチャコの顔を照らし、その瞳の奥にきらりとした揶揄の色が宿っている。
「ち、違うのよ!」
反射的に声を上げたのはルナだった。
頬に熱が集まり、慌てて両手を振る。思わず周りの視線を集めてしまったことに気づき、さらに心臓が跳ねた。
「その……保存用の芋を作っていて、アダムが……お腹を空かせちゃったから、ちょっと焼いて食べただけで……」
声を早口で並べ立てながらも、ルナの胸の奥では別の感情が静かに渦巻いていた。
――どうして私は、こんなに慌てているの?
ただ焼き芋を三人で食べただけ。それ以上でもそれ以下でもないはず。
なのに、チャコの「三人で」という言葉に、妙に心を掻き乱されてしまう。まるでそれが特別な秘密を暴かれたように。
「ふ〜ん?」
チャコはさらに尻尾をゆらし、追い討ちをかけるように首を傾げた。
「なんや楽しそうだったみたいやなぁ、アダム」
「うん! すっごく楽しかった!」
無邪気な笑顔で頷くアダムに、ルナは「も、もう……」と小さく呻きながら視線を逸らす。
頬の火照りは焚き火のせいだけではなかった。心臓が早鐘のように鳴り、思考はまとまらない。
――私……そんなにリュウジと一緒にいたことを、他のみんなに知られるのが恥ずかしいの?
そんな自分に気づいて、余計に混乱する。
「ルナ、顔が赤いぞ?」とカオルが指摘し、さらに場がざわつく。
「えっ!? そ、そんなことないわ!」
声が裏返り、ルナは慌てて両頬を手で覆った。
笑い声がスターホールに広がる。シャアラは「ふふ」と目を細め、チャコは尻尾をさらに揺らして満足げだ。アダムは状況を分かっていないまま、ただ楽しそうに笑っている。
その輪の中で、ルナだけがどうしていいかわからず胸をざわめかせていた。
――ほんとに、どうしてこんなに心臓が騒いでるの?
答えを出す勇気はまだなかったが、確かなことは一つだけ。
リュウジの存在が、自分にとって「特別」になりつつあるということだった。
⬜︎
東の森は一面雪に覆われ、枝から垂れる氷柱が風に震え、かすかな鈴のような音を立てていた。ルナ、チャコ、ベル、シンゴの四人は、昨夜カオルが報告してきた「遺跡の天頂から何かが吹き出している」という現象を確かめるため、雪を踏みしめながら進んでいた。
やがて木々の切れ目から、古びた石造りの遺跡が姿を現した。白い息を吐きながら近づくと、確かに天頂から淡い蒸気のようなものが立ち昇っている。
「なんやあれ?」
チャコが足を止め、雪の上に手を当てて目を細めた。
シンゴも眼鏡を上げ、じっと観察する。「……噴気に似ているけど、熱は感じないな。成分を調べてみないとわからない」
「とりあえず、持って帰ろうか」
そう言うとチャコは迷わず遺跡の壁をよじ登り、吹き出している蒸気に容器を差し入れた。ふわりと白いもやが中へ吸い込まれていく。
採取を終えて戻ると、空はすでに荒れ模様だった。雪片が風に乗って視界を削り、息を吸うたびに喉が痛むほど冷たい。スターホールへ戻った四人は凍え切った体を抱え込むようにしながら、急いで焚き火のそばへ向かった。
「寒い……」
シンゴは両腕を摩りながら、火の傍に膝を抱え込む。その肩にはいつも以上の疲労がにじんでいる。
ルナがリュックを下ろしたところで、アダムが勢いよく抱きついてきた。
「ルナ、よかった! 遅かったから心配したんだ」
その無邪気な温もりに、ルナの胸の張りつめていた緊張が少しだけほどける。
そこへメノリが駆け込んできた。頬に雪を貼りつけたまま、息を整える間もなく声を上げる。
「リュウジは見なかったか?」
ルナは首を傾げて答えた。「見てないけど……どうしたの?」
「そうか……。食料集めに向かったんだが、生憎の天気でな……」
メノリは不安を隠しきれない声で呟いた。
その頃、リュウジは吹雪の中を駆け抜けていた。雪に足を取られながらも、視線は獲物に釘付けだ。先ほど見つけたワラビーのような小動物──それはこの季節にしては珍しく活動している。肉は貴重なタンパク源。どうしても捕まえたい。
「……くそっ」
吐き捨てる息が白く散る。何度も追いかけ、ナイフを構えて投げ放つが、吹雪で視界が揺らぎ狙いは外れるばかり。獲物は軽快に跳ねて、深い雪の奥へと逃げていく。
舌打ちをして立ち止まると、風が頬を切り裂くように吹きつけた。
「これ以上は無理だな……」
諦めるしかなかった。悔しさと疲労を背負いながら、彼はスターホールへの帰還を決めた。
⬜︎
スターホールの入り口の幕を押し開け、吹雪を背負ったリュウジが戻ってきた。
白い雪を纏った姿に、焚き火を囲んでいた仲間たちの顔が一斉に明るさを取り戻す。
「どうだった?」
心配そうにハワードが身を乗り出した。
リュウジは肩をすくめ、無言で小さく首を横に振る。
その仕草だけで結果は察せられ、場に短い落胆の空気が走った。
「リュウジでもだめだったか……」
隣にいたシンゴが、眼鏡の奥の目を伏せながらぽつりと漏らす。
「そういう日もあるわよ」
すぐにルナが二人の表情を見て宥めるように言葉をかけた。
焚き火の炎に照らされた彼女の声は柔らかく、場の重苦しさを少し和らげたが、それでも空腹の影は消えなかった。
「今日も芋かぁ……もう飽きたよ」
ハワードがうんざりした顔でため息をつき、火の粉を足でつつくようにした。
「僕は肉が食べたいんだ!」
拗ねたように声を張り上げると、シンゴもすかさず乗ってくる。
「肉か……僕もお腹いっぱいステーキが食べたいなぁ……」
両手を組んで妄想に浸り、グフフと笑い出した。
「アカン、完全に壊れとるな」
チャコは呆れ顔で腕を組み、二人を見下ろす。
「芋のスープも美味しいのに」
シャアラがぽつりと呟き、焚き火の鍋を見つめる。
その声は小さかったが、ほんの少しだけ温かさを取り戻した。
しかし、すぐに現実に引き戻す声が響いた。
「しかし、そろそろ魚か肉はほしいところだな」
冷静にメノリが呟く。
「うん、スープは美味しいけど栄養に偏りが出るのは良くない」
ベルも続けた。
備えてある干物も干し肉も、もう残りはわずか。
このままでは栄養失調で倒れる者が出るかもしれない――その現実が、焚き火の明かりに揺れる顔の間に影を落とす。
「けど、海に潜るのは禁止だからね」
ルナが焚き火越しにリュウジへと目を向ける。
その瞳は、彼を心配しての強い意志を宿していた。
「だが、そうも言ってられない時もくるだろう」
カオルが静かに返す。
途端に場が重苦しい沈黙に包まれた。
焚き火の薪がぱちんと弾ける音だけが響く。
その沈黙を振り払うように、ルナが再び口を開いた。
「でも、それは最終手段だからね。今はできることを進めていこう」
皆が小さく頷いたその時、リュウジがすっと立ち上がった。
炎に照らされた背中が、決意を帯びているように見える。
「どこに行くんだ?」
メノリが振り返り、問いかけた。
「食料を探してくる」
リュウジは短く答える。
「えらい! 流石リュウジだ!」
ハワードが勢いよく声を上げたが、すぐにルナがきつく睨んだ。
「茶化さないの」
ルナの声に、ハワードは肩をすくめて口を閉じる。
ルナは立ち去ろうとするリュウジに一歩近づき、声をかけた。
「あんまり遅くならないでね」
だが、リュウジは何も答えず、スターホールの幕を押し開けた。
冷たい風が一気に吹き込んで焚き火の炎を揺らし、その背中は白い吹雪の中へと溶けていった。
⬜︎
スターホールの中は焚き火の明かりに照らされ、皆の影が壁に揺れていた。
ルナが声をかけても、リュウジは振り返ることなく外へと歩き去っていく。その背中を見送ると、冷たい風が吹き込んで、焚き火の火がわずかに揺れた。
ルナは焚き火に手をかざしながら、ふと唇を噛んだ。
――また、彼に頼らせてしまった。
海に潜らないと約束させたのに、今度は吹雪の中を一人で食料探しに行かせている。自分が「最終手段」と釘を刺したばかりなのに、結局はリュウジの足を外に向けてしまったのではないか。
「ルナ……」と、メノリが心配そうに視線を寄越す。
ルナは慌てて首を振った。
「大丈夫よ。リュウジは……ちゃんと帰ってくるから」
そう言い切った声は、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
胸の奥で小さな不安が膨らんでいくのを感じながら、ルナは焚き火の火を見つめ続けた。
――無事に、帰ってきて。
そう願うほか、彼女にできることはなかった。
◇◇◇
吹き荒れる雪の中、リュウジは必死に足を前へと進めていた。息を吐くたび、白い靄のような蒸気が荒れ狂う風に散らされ、すぐに吹雪に飲み込まれていく。追っていたはずの獣の足跡は、いつの間にか雪に覆われて消え失せていた。たとえ数分前に刻まれたものだとしても、この吹雪の中ではまるで最初から存在しなかったかのように跡形もなくなる。
視界は数メートル先すら怪しい。木々の影も、白い幕の向こうにぼんやりと揺れて見えるばかりで、すぐに雪に紛れて形を失う。リュウジは歯を食いしばり、目を細め、少しでも獲物の痕跡を探そうと必死になっていた。吹雪の唸りと雪の粒が顔に叩きつけられる音しかない中、ふと――かすかな「ザクッ、ザクッ」という異質な音が耳に届いた。
リュウジは反射的に立ち止まる。全身を緊張が駆け抜けた。風音の合間に確かに響くそれは、自分の足音ではなかった。雪を掻き分け、何かが動いている音――獣だ。
腰に差していたナイフの柄に静かに手を伸ばす。指先に冷たい金属の感触が伝わる。リュウジは息を潜め、音の方へ慎重に歩を進めた。雪が舞う白の世界の中、徐々に視界が開けていく。
やがて目に映ったのは、雪を掘り返す小柄な生き物の姿だった。丸い耳を立て、前脚で夢中に雪をかき分けている。シャアラが「トビハネ」と名付けた、彼らが食料として狙うワラビーのような獣だ。
胸の奥に熱いものが込み上げる。(やっと見つけた……!)
リュウジは全身の血が巡るのを感じた。獲物を仕留められれば皆の腹を満たせる。少なくとも今夜の食卓に、飢えではなく希望をもたらせる。吹雪も不思議と弱まり、視界が少し広がりつつあった。自然が自分に味方したような錯覚を覚える。
(今なら殺れる)
心の中で呟き、ナイフを構えた。雪に沈み込む呼吸音さえも邪魔に思え、息を押し殺す。腕の筋肉に力を込め、狙いを定め――投擲した。
しかし、その瞬間だった。
トビハネが鋭く顔を上げた。小さな瞳がリュウジの方を射抜く。次の刹那、獣は反対方向へ弾かれたように飛び跳ねた。リュウジの放ったナイフは、空を切り、雪の中に突き刺さるだけだった。
(気がはやったか!)
悔しさに舌打ちし、リュウジは雪を蹴り上げて走る。突き刺さったナイフを片手で抜き取ると、そのまま獲物の逃げた方へ駆け出した。
かんじきを履いた靴は確かに沈み込みを抑えるが、完全に自由に走れるわけではない。雪が深い場所ではどうしても足を取られ、重心がぐらつく。そのわずかな遅れの積み重ねが、じわじわと獲物との距離を広げていく。
白い尾がちらりと見えたかと思えば、すぐに雪と木々の陰に隠れていく。(まずい、このままじゃ……!)リュウジの胸中に焦りが募る。
吹雪は弱まったのは束の間だったのだろう。再び雪が激しさを増し始め、視界が白に閉ざされつつあった。このままでは完全に見失う。焦燥感が心臓を鷲掴みにする。
「くそっ……!」息が荒くなる。だが、足は止まらない。むしろ焦れば焦るほど力を込めてしまう。木々の間を縫うようにして走り、時折、ちらりと見えるトビハネの尻尾だけを頼りに追いすがる。
だが、木々を抜けた先に待っていたのは、さらに強い吹雪だった。突き刺すような雪風が全身を叩きつけ、進むのすら困難になる。リュウジは仕方なく速度を落とし、肩で息をついた。
(見失ったか……)
舌打ち混じりに小さく吐き出す。心臓の鼓動が耳の奥で響いている。気がつけば、スターホールの拠点からかなり離れてしまっていた。雪に覆われた景色はどこも同じに見え、帰る道すら怪しくなってきている。
戻るか――そう頭をよぎる。だが、ここまで来て引き返すことに納得がいかない。獲物を逃したまま手ぶらで帰れば、仲間を失望させる。いや、それ以上に、自分自身が許せなかった。
「……もう少しだけだ」
低く呟き、再び歩みを進める。
しばらく雪の中を彷徨うと、前方に動く影が見えた。耳を立て、首を左右に振り、何かを警戒するように周囲を見回すトビハネの姿だ。
自然と目が合う。リュウジの心臓が跳ね上がる。(チャンスだ!)
彼は迷わずナイフを抜いた。手のひらに馴染む冷たい感触が、再び戦意を煽る。雪を踏みしめ、足に力を込める。
一気に距離を詰めようと走り出す。トビハネもまた、驚いたように反対方向へ跳ねた。
だが――その挙動はどこか不自然だった。追いかけられる獣が、これほど近くにとどまるなどあり得ない。本来ならもっと早く姿を消していたはずだ。トビハネが警戒していたのは、自分以外の「何か」――その可能性に、普段のリュウジなら気づいていただろう。
しかし、焦燥に心を支配された今の彼には、その冷静な判断力は残っていなかった。
(捕まえる……! 今度こそ!)
雪を蹴り、右足を大きく踏み出した瞬間だった。
――ぐしゃり、と嫌な感覚が足裏を走った。
「しまっ――!」
声が喉から絞り出されると同時に、足場が崩れ落ちた。雪に覆われていた地面は実際には崖だったのだ。リュウジの体は宙に浮き、重力に引きずり込まれる。
視界が回転する。真っ白な雪と黒い木々がぐるぐると渦を巻き、上下の感覚が失われる。
先ほどまで自分が立っていた場所が、どんどん遠ざかっていく。空気が凍りつくほど冷たいはずなのに、体は熱を持ったように痺れ、思考が追いつかない。
次の瞬間――。
全身に衝撃が走った。骨がきしみ、肺から空気が無理やり押し出される。意識が暗闇に飲み込まれていく。
雪と風の音すら遠のき、世界が静まり返った。
リュウジの視界は完全に閉ざされ、深い闇の中へ沈んでいった。
◇◇◇
スターホールの内部には、焚火の小さな炎がぱちぱちと音を立てていた。
外は雪嵐。厚い岩壁に守られているこの拠点も、吹き荒れる風の唸りがひときわ強く響き渡り、耳を澄ますまでもなく厳しい自然の猛威を告げていた。
夕食の支度は既に整っている。サツマイモを潰し、干し肉の欠片を少し入れて煮込んだスープ。量は少ないが、身体を温めるには十分だった。
だが肝心の仲間が一人、まだ戻ってきていない。
「もういいだろ、食べようぜ!」
真っ先に痺れを切らしたのはハワードだった。スプーンを片手に持ち、目の前の湯気立つ器をじっと見つめる。腹の虫が鳴いているのか、彼の足元では貧乏ゆすりが止まらない。
だが、冷静な声が彼を制した。
「リュウジが帰ってきてからだ」
メノリである。腕を組んだまま、炎の向こうからじっと睨むように告げた。その声には厳しさと同時に、心配を必死に抑え込む響きが混じっていた。
「あいつ、いったい何やってんだよ……」
ハワードは小さく舌打ちをしながら、落ち着かない様子で言葉を漏らす。
「なにって、食料探しに行くって言うとったやろ!」
チャコが呆れたように声を荒げた。
シャアラもため息をつきながら言葉を継ぐ。
「ハワードったら、期待して送り出したくせに。帰りが遅いって、すぐ不満言うのね」
「そりゃそうだろ。飯の時間に遅れていいなんて、一言も言わなかったぜ」
ハワードの声には、腹の虫と同じくらいの苛立ちが乗っていた。だがその裏には、リュウジを案じる気持ちが混じっていることを、皆も気づいていた。
「……何かあったのかな」
心配そうに眼鏡を押し上げたのはシンゴだった。彼の声は小さかったが、その場にいた全員の胸をざわつかせるには十分だった。
その瞬間、ルナが椅子から勢いよく立ち上がった。
「私、探してくる」
彼女はシーツを縫い合わせて作った簡素な上着を手に取り、蔓で編んだロープを肩に掛ける。
「俺も行こう」
すぐにカオルが声をあげたが、ルナは首を振った。
「ううん、私一人で行ってくる! みんなは先に食べてて」
その声は強く、だがどこか震えていた。
本当は、外に出ることがどれほど危険か、ルナが一番理解していた。だが、それでもじっとしていられなかった。リュウジがどこかで寒さに震えているかもしれない。怪我をして動けないかもしれない。その想像が胸を締めつけていた。
さらに、ルナは冷静に判断もしていた。もし入れ違いになって戻ってきたリュウジが疲れ切っていたら、カオルが待機していなければならない。だからこそ、自分ひとりで行くべきだと思ったのだ。
「念のため、火種と油を持っていった方がいい」
ベルがそう言って、小さな容器をルナのリュックに入れる。
隣でシャアラも、葉に包んだ干物と干し肉を差し出した。
「これも持っていって。エネルギーになるはずだから」
「みんな、ありがとう」
ルナは一度微笑み、決意を胸に扉を押し開けた。
冷気が一気に流れ込み、火の揺らめきが大きく揺れる。外は相変わらずの猛吹雪。だがルナの瞳には恐怖ではなく、探しに行く強い意志が映っていた。
◇◇◇
雪は視界を白で覆い尽くし、世界を飲み込んでいた。
それでも幸いなことに、雪の上にはリュウジの足跡がうっすらと残っていた。まだ完全には埋まっていない。
ルナはかんじきを足に装着し、一歩ずつ足跡を辿っていく。辺りは次第に暗くなり、夜の帳が下りかけていた。だが、雪に照らされた夜は、不思議と明るい。
「雪の夜って……明るいんだね」
ルナは独り言を漏らした。
その声は震えていたが、どこかで自分を落ち着けようとする響きもあった。
リュウジの姿が脳裏に浮かぶ。彼なら大丈夫。あの冷静で、強い彼なら。そう信じたい気持ちが、心細さを打ち消すように繰り返される。
やがて森の入り口にたどり着いた。
「ここを通ったのね……」
暗い森の中へと足を踏み入れる。木々に囲まれた森は、吹雪を遮ってくれる分、いくぶんマシだった。
だが、足跡は消えかけている。ルナは前方に注意を払いながら、必死でその痕跡を追った。
◇◇◇
その頃、スターホールの入り口では、シャアラが外を見つめていた。
「また強い降りになってきたわね」
「ルナ、大丈夫やろか……」
チャコが心配そうに呟く。
アダムも黙ったまま、雪に覆われた世界を見つめていた。
「……リュウジ……ルナ」
小さな声が彼の唇から零れ落ちる。
「やっぱり俺も行ってくる」
カオルが立ち上がった。
「この吹雪の中を!?」
シンゴが驚きの声をあげる。
「やめとけよ!」
ハワードも慌てて声を張り上げる。
「カオル! ウチも行く!」
チャコも立ち上がった。
「俺も行く」
ベルまでが口を開く。
その空気を断ち切ったのは、メノリの冷徹な声だった。
「ダメだ」
その一言に、場の空気が張り詰める。
「ここで誰かが探しに行けば、また遭難してしまう危険がある。ルナとリュウジが心配なのは分かる。だが、みすみす危険な目に合わせる訳にはいかない」
メノリはカオル、チャコ、ベルを一人ずつ見つめながら言った。
「待つんだ。二人が帰ってくるのを」
その拳は固く握られ、白くなっていた。彼自身も行きたくて仕方がないのだ。だが、ルナがいない今、自分が仲間を支える役目としての責任が、彼女を冷徹にさせていた。
◇◇◇
一方その頃、ルナは限界に近づいていた。
吹雪は強まり、リュウジの足跡もついに見えなくなってしまった。
瞼を開けるのもやっと。頬に突き刺さる雪は痛く、指先は感覚を失い始めている。
それでもルナは進んだ。森を抜け、開けた大地へと出た。
「足跡が……消えてる」
そこは遮るもののない白銀の世界。何も手掛かりがなく、ただ果てしなく広がる雪原があるだけ。
(……一度戻ろう)
そう思い、背を向けようとした。
だが――その瞬間、遠くで「キラッ」と光が反射した。
ルナは立ち止まり、目を凝らす。
「……なにかしら」
雪を踏みしめながら近づくと、それは一本のナイフだった。リュウジがいつも腰に差している愛用のナイフ。
「どうしてここに……!?」
ルナはそれを拾い上げ、息を呑んだ。
彼が持っていたはずのナイフの一本が、こんな場所に落ちている。嫌な予感が、胸を締め付けた。
さらに数歩進むと、雪崩の跡のように雪が崩れ落ち、岩肌が剥き出しになっている場所があった。
「こんなところに……崖があったなんて」
呟いた瞬間、悪寒が走る。寒さのせいではない。本能が告げる――危険と、恐怖。
ルナは崖下を凝視した。
何度も瞬きをして、見間違いではないかと確かめた。
――そこにあったのは、見覚えのある布。
雪に半ば埋もれた洋服。もう一本のナイフ。
そして――
「……あ……あ」
喉から声にならない音が漏れた。
次の瞬間、ルナは崖下へ駆け出していた。危険も忘れ、一目散に。
心臓が爆発しそうなほど鳴り響く。耳の奥まで響き渡り、自分の鼓動しか聞こえない。
雪を掻き分ける。手はかじかみ、皮膚は裂けるように痛む。それでも止められない。止めるわけにはいかない。
そして――白い雪の中から現れたのは、見慣れた仲間の顔。
「――リュウジ‼」
ルナの悲痛な叫びが、吹雪の夜に吸い込まれていった。
◇◇◇
――目の前に広がっているのは、かつて自分が「最後に見た光景」だった。
エアポートの滑走路に押し寄せる炎。夜の闇を焼き尽くすように立ち昇る赤い柱。耳を裂くような爆発音。裂け散る機体。折れた翼と、まだ揺れている垂直尾翼の残骸。焦げた繊維と金属の破片が散乱し、そこかしこから滴り落ちる燃料が黒い川のように地面を這っていく。燃え上がる業火の中に、鉄のにおいと焦げた肉の匂いが混じり合い、鼻を突き刺した。息を吸うたびに、肺の奥まで灼けつくような感覚が広がる。
どこからか滴る血。断末魔の叫び。名前を呼ぶ声。助けを求める声。誰かが泣いている。
目を閉じても、その地獄は消えない。むしろ、まぶたの裏の方が鮮明にその光景を映し出してくる。足元で、誰かの手が自分の足首を掴み、引きずりこもうとする。焦げた皮膚の感触。ぬるりとした体温。まるで、そのときの地獄が、今ここで再生されているかのようだ。
引きずりこまれる寸前、空の向こうから強烈な光が落ちてきた。神々しいほどの白い光。それは、腰の奥を、胸の奥を、ぎゅう、と押すようにして、暗闇を切り裂いた。目が痛いほど眩しいのに、視線を逸らせない。光が自分を貫いていく。
(……また、あの光だ)
リュウジは淡々と心の中で呟いた。
東の森に探索に行き、滝から落ちた時に見た光景。あの時以来、この光を見ることはなかった。だが、どうしてまた現れたのか――思考はそこまで行き、すぐに霧散した。考える意味など、もうない。
自分は食料集めの途中で足を滑らせ、落ちた。その記憶は鮮明に覚えている。雪に埋まり、呼吸もできず、暗闇の中で意識が遠のいていったことも。
(ようやく……死ねる)
その言葉は、溜息のように胸の奥で転がった。
自ら命を絶つことは出来た。しかし、それは逃げることだと思った。あの事故――あの空港での惨劇は、自分が一生背負い続けなければならないと決めていた。罰として。それが自分に課せられた罪なのだと。
だが、それもここまでのようだった。
続きは地獄で背負えばいい。あの時に焼けただれた手の感触を、絶叫を、泣き声を、今度は地獄で背負い続ければいい。
リュウジの身体が暗闇に引きずりこまれていく。ここに呑まれれば死ぬことは、なんとなく理解できた。いつもならここで覚める夢も、終わらない。
死を悟った時、その光が一層、激しく輝きだした。一本の腕のように。腕のようであり、羽根のようでもある。
それが一体なんなのか、リュウジには分からない。
その光の「手」は、リュウジの腕を掴み、鮮烈に輝いた。凍りついた心臓に温もりが流れ込み、目の奥が焼けるように痛いのに、涙が出ない。胸の奥で何かがほどける感覚だけがあった。
◇◇◇
――その頃、ルナは必死だった。
ルナはリュウジの胸に耳を当てる。小さいが、僅かに心臓の音が聞こえる。
「……まだ、生きてる」
その言葉は、祈りのようでもあり、叫びのようでもあった。
喜びと同時に、恐怖が押し寄せる。リュウジの身体がどんどん冷たくなっていく。
(このままじゃ、本当に死んじゃう……!)
スターホールまで一人で担いで帰ることは出来ない。吹雪も強まっている。ビバークできる場所を探さなければならない。
ルナは周囲に目を向ける。
小さな岩の窪みがあった。そこなら雪も風も遮ることが出来そうだった。
重たいリュウジを懸命に引っ張りながら、そこまで運ぶ。腕が悲鳴を上げる。腰が軋む。息が切れ、視界が滲む。だが止まらない。
ようやく岩陰にたどり着いたとき、ルナはベルが持たせてくれた火種と油を思い出した。近くにある枯れ木を取り、手慣れた手つきで火を起こす。
小さな炎が、やがて揺らめく光を生んだ。
ルナはリュウジを見つめ、お願い……お願いだから、目を開けて……」
唇が震え、涙が頬を伝う。
凍てつく風の音の向こうに、リュウジの浅い呼吸がかすかに聞こえた。
火のぬくもりが、少しずつ彼の頬に色を戻していくように思えた。
ルナは祈るように両手を握りしめ、その手でリュウジの頬をさすった。
「……リュウジ……戻ってきて……」
炎の光が、二人の顔を照らしていた。
吹雪の白い世界の中に、小さな赤い光が揺れていた。
ルナはひたすら、その光が消えないことを願いながら、眠らぬ夜を過ごすのだった。
◇◇◇
リュウジがゆっくりと瞼を持ち上げると、視界のすぐそばに揺れる影があった。ぼやけた輪郭が徐々に形を結び、やがて涙に濡れたルナの顔が浮かび上がった。彼女は気づいていない――リュウジが目を覚ましたことを。
「……ここは……」と呟く前に、リュウジは自分の姿勢に違和感を覚えた。何故、見上げるようにルナを見ているのか。頭の下には、柔らかい感触。瞬間的に悟る――膝枕だ、と。
心臓が跳ねるように高鳴り、反射的に上体を起こす。勢いよく起き上がった拍子に、ルナがはっと大きく目を見開いた。その瞳にはまだ涙が溜まっていて、次の瞬間にはぽろぽろと溢れ出した。
「リュウジ‼」
思わず叫んだルナは、堪えきれず彼に飛びついた。薄いシートで仕切られた小さな空間で、二人の身体がぴたりと密着する。ルナはその胸に顔を押しつけ、ただ名前を繰り返した。
「リュウジ……リュウジ……よかった……ほんとによかった……」
その必死さに、リュウジは言葉を失った。ただ、抱きつかれていることが息苦しくもあり、同時に奇妙な温かさを伴っていた。どれほどの時間が流れたのか、やがてルナの肩が小さく震えながらも落ち着きを取り戻していく。
「……なぜ来た」
沈黙を破ったリュウジの声は、冷え冷えとした調子だった。ルナは顔を上げ、その瞳をまっすぐに射抜く。
「何故って決まってるでしょ!リュウジを探しに来たのよ!」
涙に濡れた頬を拭う間もなく、彼女は強い調子で言い返した。
「二次災害の恐れもあった」
「あのね!どれだけ心配したと思ってるのよ!」
抑えていた怒りと不安が爆発するように、ルナの声は震えながらも鋭く響いた。リュウジは返答を飲み込んだまま、無理に身体を動かそうとする。しかし次の瞬間、右足に強烈な痛みが走り、顔をしかめた。
「……っ……」
「リュウジ、足を怪我したのね。ちょっと見せて」
「問題ない」
短く言い放つ。だがルナは鋭く睨み、「今は黙ってて」と強い口調で遮った。彼女の手が慎重に足に触れると、そこから伝わる異常な熱。腫れ上がった足首は見るからに不自然で、骨にまで損傷があることを直感で悟る。
「……これ、折れてるかもしれない」
彼女の唇が震える。リュウジは冷静を装い、苦しげに息を吐きながらも言葉を続けた。
「問題ないと言っただろう。明日には良くなる」
その無茶な言葉に、ルナの目から再び涙が溢れる。彼女はぐっと俯き、次の瞬間リュウジの肩を強く押さえつけた。
「バカ! もっと自分の身体心配してよ‼」
声が震え、涙が頬を濡らし続ける。必死に彼を叱るその姿は、怒りよりも痛々しいほどの想いの深さを映していた。
リュウジはその涙を前に、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。普段なら冷たく突き放すはずの言葉が、喉の奥で引っかかって出てこない。ただ、黙ってルナの涙を見つめるしかなかった。
――彼女は自分のために泣いている。
その事実だけが、痛みよりも強烈にリュウジの心を貫いていた。