サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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バレンタイン2

 2月14日。

 朝の空気はいつもより冷たいのに、街の気配だけが妙に甘かった。デパートの袋を抱えて歩く人、制服のポケットを何度も確認する人、どこか落ち着かない視線。

 バレンタインデーは、コロニーの中でもちゃんと“特別な日”として息をしている。

 

 ルナも、その例外じゃなかった。

 

 いつもなら玄関を出た瞬間に「今日のHR何だっけ」とか「昨日の宿題」とか、そんなことを考えるのに。

 今日は違う。

 頭の中の大半が、ひとつの箱で埋まっていた。

 

(……ちゃんと、持った。リボン、ほどけてない。カードも入れた)

 

 鞄の中の小さな箱を、歩きながら何度も思い浮かべてしまう。

 落としたらどうしよう。潰れたらどうしよう。

 いや、それより――渡せるのか。

 

 ルナは校門をくぐった瞬間から、心臓が落ち着かない。

 普段なら真っ直ぐ教室へ向かうのに、今日は足取りが変にゆっくりになる。呼吸も浅い。

 廊下を歩く女子生徒たちの手元には、可愛い袋や小箱がちらほら見えた。

 それを見るたび、ルナは鞄の中の“自分の箱”が重くなる気がした。

 

「ルナ!」

 

 背後から声をかけられ、ルナはびくっと肩を跳ねさせた。

 振り返ると、シャアラが小走りで近づいてくる。頬が少し赤く、手には小さな紙袋が二つ。

 

「おはよう。どうしたの、そんなにびっくりして」

 

「ち、ちょっと考え事してただけ!」

 

 ルナが慌てて笑うと、シャアラは「あ、もしかして」と目を輝かせた。

 

「今日のこと?」

 

「……うん」

 

 ルナが小さく頷くと、シャアラは嬉しそうに頷き返す。

 

「私も作ったよ。ベルと……あと、みんなの分」

 

「偉いね」

 

「ルナだって作ったんでしょ?」

 

「……うん。みんなの分と」

 

 そこで言葉が止まる。

 “リュウジの分”と続けたいのに、口が勝手に恥ずかしがってしまう。

 

 ちょうどその時、メノリが教室の入口で二人を見つけ、手を軽く上げた。

 

「おはよう。……二人とも、落ち着きないな」

 

「そ、そんなことないよ!」

 

 ルナが反射的に言うと、メノリは目を細めた。

 

「バレンタインか」

 

「う……」

 

 直球すぎて、ルナは言葉を失う。

 シャアラが助け舟を出すように笑った。

 

「メノリは? 作った?」

 

「作ってない」

 

 即答だった。

 メノリは淡々と続ける。

 

「私はもらう側だ。手作りは、衛生管理が面倒だろ」

 

「ええ……」

 

 ルナが思わず声を漏らすと、メノリは「冗談だ」と短く付け足した。

 冗談のようで、半分本音にも聞こえるのがメノリらしい。

 

「でも、もらったらちゃんと礼は言う」

 

「それは当然だわ」

 

 ルナが言うと、メノリは口元だけ少し緩めた。

 

「……ルナ、渡す相手で悩んでる顔だな」

 

「え!?」

 

 ルナは思わず背筋を伸ばした。

 メノリは淡々と、でも確信を持った目で言う。

 

「シャアラと違って、手元の袋を何度も確認してる。しかも鞄の方を」

 

「……っ」

 

 図星だった。

 シャアラが「メノリ、鋭い……」と小声で呟く。

 

 ルナは咳払いして、話題を逸らすように机に鞄を置いた。

 

「そ、その……今日は、みんなの分もあるし」

 

「それでいい。渡すのは、渡せる時に渡せばいい」

 

 メノリの言葉は意外に優しかった。

 ルナは少しだけ肩の力が抜ける。

 

 教室の空気は、いつもと同じようで、どこか浮ついていた。

 窓際の席で誰かが小箱を隠すように鞄にしまう。

 廊下からは「渡せた?」「まだ!」と小声が聞こえる。

 そんなざわめきの中、ルナは何度も時計を見た。

 

(……リュウジ、まだ来てない)

 

 いつもなら少し遅れても「まあ、リュウジだし」で済む。

 でも今日は違う。

 来ない時間が長いほど、ルナの中の不安が増えていく。

 “渡す”前に終わってしまいそうで。

 

 ――やがて、教室の扉が開いた。

 

 リュウジが入ってきた。

 いつものように無駄のない歩き方。

 けれど、今日は明らかに違った。

 

 顔色は悪くない。

 でも目の下に薄い影がある。

 表情が少し疲れている。

 何より、肩の力がほんの少し落ちていた。

 

 ルナは反射的に立ち上がりそうになって、慌てて指先を机に押し付けた。

 

(疲れてる……?)

 

 声をかけたい。

 でも、周りの目もある。

 “今日”は特別だから、下手に動くと余計に意識されてしまう。

 

 リュウジが席に向かうより先に、いつもの二人が飛びついた。

 

「リュウジー!」

 

「おはよ! 今日さ、チョコくれよ!」

 

 ハワードとシンゴだ。

 シンゴは目を輝かせ、ハワードは堂々と腕を広げている。

 リュウジは面倒くさそうに眉を寄せた。

 

「……朝からうるさい」

 

「いいじゃん! 今日ぐらい!」

 

「そうそう、今日ぐらい!」

 

 二人が口を揃える。

 ルナは少しだけ笑ってしまいそうになったが、その瞬間――胸の奥がちくりと痛んだ。

 

(……今日ぐらい、って)

 

 自分も同じ気持ちのはずなのに。

 言葉にされると、急に怖くなる。

 “今日ぐらい”で済ませていいのか、分からなくなる。

 

 リュウジは小さくため息をつき、机の横に置いていた紙袋を持ち上げた。

 それを、そのままハワードに差し出す。

 

「ほら」

 

「え、何それ」

 

 ハワードが受け取り、口を開ける。

 そこへシンゴが覗き込み、勢いよく中身を漁った。

 

「うわっ、いっぱいある!」

 

 紙袋の中には、綺麗に包装されたチョコがいくつも入っていた。

 箱、袋、リボン付き。

 明らかに、市販のもの。

 

「すご……やっぱリュウジってモテるんだ……!」

 

 シンゴが素直に言うと、ハワードは肩を揺らして笑う。

 

「だろ? 違うなぁ〜、モテるやつは!」

 

 その瞬間だった。

 ルナの胸が、またちくりと痛んだ。

 さっきより、はっきり。

 

(いっぱい……ある)

 

 もちろん、分かっていた。

 リュウジはS級パイロットで、顔も良くて、目立つ。

 だから、こういう日にはもらう側になる。

 それでも、“目の前で袋いっぱい”を見せられると、思っていた以上に心が揺れる。

 

 ルナは唇を噛んだ。

 鞄の中の小さな箱が、急にちっぽけに感じてしまう。

 

(私のは……手作りだし……)

 

 しかも、リュウジはきっと気を遣う。

 受け取ってくれるだろう。

 でも、“多い中のひとつ”になってしまうのが、どうしようもなく寂しい。

 

 リュウジは、シンゴが袋を漁るのを見て、低い声で釘を刺した。

 

「食べるのは市販のだけだ」

 

「え?」

 

 ハワードが首を傾げる。

 

「手作りは受け取らないんだ?」

 

「……面倒が増える」

 

 リュウジは短く言って、視線を逸らした。

 それは照れなのか、本心なのか。

 ルナには分からない。

 

 でも、その言葉は――ルナの心に刺さった。

 

(……手作り、だめ?)

 

 鞄の中の箱が、急に重くなる。

 ルナは背中が冷たくなるのを感じた。

 シャアラが心配そうにルナの横顔を見る。メノリも、ルナの変化を見逃さなかった。

 

 ハワードは相変わらず笑っている。

 

「やっぱりモテるやつは違うなぁ〜。選り好みまでできる」

 

「うるさい」

 

 リュウジは机に鞄を置き、椅子に腰を下ろした。

 その動きが少しだけ重い。

 疲れているのは間違いない。

 

 ルナは、胸の痛みを押し込めて、深呼吸した。

 今、焦って結論を出す必要はない。

 渡すのは放課後でもいい。

 それに――リュウジは“市販だけ”と言ったけれど、それが“誰の手作り”のことなのかは、まだ分からない。

 

 ルナはそっと鞄の口を押さえた。

 中の箱を、誰にも見られないように。

 

 ――大丈夫。

 まだ、何も終わってない。

 

 そう自分に言い聞かせながら、ルナは疲れた表情のリュウジを遠くから見つめた。

 今日は特別な日。

 だからこそ、ほんの少しの言葉で、心が大きく揺れる。

 

 そしてルナは、決めきれないまま、小さく手を握りしめた。

 

ーーーー

 

 チャイムが鳴って休み時間になると同時に、教室の空気がふっと軽くなった。

 椅子を引く音、笑い声、机を叩く乾いた音――いつもの昼前のざわめき。けれど今日だけは、そこにもうひとつ、甘い緊張が混ざっていた。

 

 バレンタインデー。

 

 ルナは席に座ったまま、鞄の口を指先で押さえていた。

 中には小さな箱。昨日の夜、最後にリボンの結び目を確かめた時の自分の手の震えまで思い出す。

 胸の奥がそわそわして、落ち着かない。

 

 そして――その落ち着かなさは、ルナだけじゃなかった。

 

 気づけばリュウジの席の周りに、女子生徒の輪ができていた。

 一人、また一人と近づいてきて、教科書の陰から小さな袋を取り出す。

 紙袋の音、リボンの擦れる音。

 誰もが少しだけ頬を赤くしながら、勇気を振り絞っているのが分かる。

 

「リュウジ、これ……よかったら」

 

「……ありがとう」

 

「こっちも、受け取って」

 

「ああ」

 

 リュウジは無碍な対応をしなかった。

 面倒そうに眉を寄せることもない。

 むしろ、作り笑いではない程度の、ちゃんとした笑顔で頷いていた。

 

 その笑顔は、ルナが知っている“仲間に向ける笑顔”とは少し違う。

 丁寧で、角が立たないように丸めた表情。

 たぶん、昔から彼が身につけてきた“外の顔”。

 

 ルナはそれを見て、分かっているのに胸の奥がまたちくりと痛んだ。

 

(……笑ってる)

 

 笑っているのに、どこか遠い。

 輪の中心にいるのに、そこに“いない”みたいに見える。

 

「リュウジ、ほんと人気だね」

 

 シャアラが小声で言った。

 ルナは「……うん」としか返せなかった。

 

 ベルは少し離れた席からその光景を眺め、やれやれという顔をする。

 

「今日のリュウジは大変だね。」

 

「自業自得だろ」

 

 ハワードがケラケラ笑う。

 シンゴも「すごいなあ……」と純粋に感心していた。

 

 メノリは腕を組み、淡々と眺めている。

 

「輪が広がるほど、危ないな」

 

「え?」

 

 ルナが首を傾げると、メノリは顎でリュウジを示した。

 

「逃げるぞ、あれは」

 

 その言葉が終わるより先に、次のチャイムが鳴った。

 授業が始まれば、一時的にその輪も散る。

 しかし休み時間になればまた戻る。

 まるで潮が満ちて引くみたいに。

 

 そして――昼休み。

 

 授業が終わって椅子の脚が一斉に床を鳴らすと、また女子生徒たちが動き始めた。

 さっきより数が多い気さえする。

 ルナは自分でも驚くほど、心臓の音がうるさく感じた。

 

 その時、リュウジがカオルの席に身を乗り出し、短く何かを告げた。

 カオルは一瞬だけ目を細め、それから小さく頷く。

 

 リュウジは立ち上がり、鞄を持った。

 女子生徒の輪が「え?」と揺れる。

 誰かが声をかけようとした瞬間、リュウジは笑って手を軽く上げた。

 

「悪い。用事」

 

 それだけ言って、彼は教室を出ていった。

 背中は真っ直ぐなのに、歩き方が少しだけ速い。

 逃げるみたいに。

 

 いつもなら昼休みは皆で机を寄せて、騒がしくご飯を食べる。

 サヴァイヴの時みたいに、食べ物を分け合って、他愛もない話をする。

 なのに今日は、中心がぽっかり抜け落ちたみたいに感じた。

 

「……行っちゃった」

 

 ルナが呟くと、シャアラが困ったように笑った。

 

「仕方ないよ、あの数じゃ……」

 

 ベルが軽く肩をすくめる。

 

「逃げたくもなるよ。リュウジ、ああいうの苦手そうだし」

 

 ハワードは面白がっていたが、カオルの表情を見て少しだけ落ち着いた。

 カオルは机に肘をついて、いつもより静かな声で言った。

 

「リュウジは身を隠すそうだ」

 

「身を隠すって……どこに?」

 

 シンゴが首を傾げると、カオルは肩をすくめた。

 

「さあな。俺も場所までは聞いてない。聞いても教えないだろうし」

 

 メノリが小さく息を吐く。

 

「賢い判断だ」

 

「え、メノリもそう思うのか?」

 

 ハワードが意外そうに言うと、メノリは淡々と答えた。

 

「断るのも受け取るのも面倒だろう。受け取るなら、丁寧に対応しないと角が立つ。

 なら、一度消えるのが一番早い」

 

 ベルが頷いた。

 

「うん。あの様子じゃ、仕方ないね」

 

 ルナは、自分の鞄に触れた。

 中の箱が、今日に限ってやけに重い。

 

(……渡せないまま、終わるのかな)

 

 そんな不安が顔を出しそうになった瞬間、シャアラがルナの肩を軽く叩いた。

 

「ルナ。私たち、先にみんなに配ろう?」

 

「……うん、そうだね」

 

 ルナは頷き、気持ちを切り替えるように鞄を開けた。

 まずは皆の分。

 いつもの仲間へ渡すチョコだ。

 それなら、迷わずにできる。

 

 ルナは小さな袋を取り出し、メノリの机の上に置いた。

 

「メノリ、これ。みんなの分、作ったの」

 

 メノリは袋を見て、少しだけ目を細めた。

 

「……手作りか」

 

「うん。嫌だったら――」

 

「嫌じゃない」

 

 言い切るのが早い。

 メノリは袋を受け取り、短く頷いた。

 

「ありがとう。ちゃんと食べる」

 

 ルナは胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

 次はシャアラが、ベルに手編みの袋に入れたチョコを差し出す。

 ベルは嬉しそうに受け取り、目尻をふわっと下げた。

 

「シャアラ、ありがとう」

 

「ううん。喜んでくれたならよかった」

 

 ルナはシンゴにも渡す。

 シンゴは両手で受け取り、目を輝かせた。

 

「えっ、僕にも? すごい! ルナ、ありがとう! 大事に食べる!」

 

「喜んでくれたなら良かったわ」

 

 ハワードにも渡すと、ハワードは待ってましたとばかりに袋を掲げた。

 

「よっしゃ! 俺の分もあるじゃん! さすがルナ!」

 

「騒がないの」

 

「無理!」

 

 ハワードがケラケラ笑うと、皆もつられて笑った。

 その笑い声が教室の空気を少しだけ柔らかくしていく。

 

 ――チャコの席は空いている。

 チャコは今、どこか別の用事でいないのかもしれない。

 カオルにも、ルナは袋を差し出した。

 

「カオルも。よかったら」

 

「……ああ」

 

 カオルは少し照れたように受け取り、すぐに視線を逸らした。

 

「ありがとう。こういうの、慣れてない」

 

「私だって慣れてないよ」

 

 ルナが小さく笑うと、カオルもふっと口元を緩めた。

 

 皆に配り終えると、ルナの手元に残った袋は――あと一つ。

 リュウジの分。

 

 落ち着こうとしても、胸の鼓動が速くなる。

 ルナはその袋をそっと握りしめた。

 紙袋越しでも、箱の角が指先に当たって、現実を突きつけてくる。

 

 シャアラがそっとルナの顔を覗き込む。

 

「……ルナ、大丈夫?」

 

「うん……大丈夫。大丈夫だけど……」

 

 ルナは教室の扉の方を見た。

 リュウジは戻ってこない。

 戻ってくる気配もない。

 

 ルナはぎゅっと袋を握って、心の中で自分に言い聞かせた。

 

(焦らない。今日じゃなくてもいい。無理に追いかけない)

 

 そう思うのに、胸の奥では別の声が囁く。

 

(でも、今日渡したかった)

 

 その矛盾が、ルナをじわりと苦しくさせた。

 

 昼休みの教室には、チョコの甘い匂いと、笑い声が残っている。

 けれどルナの視線は、どうしても“空いた席”に引き寄せられた。

 

 いつもそこにいるはずの人がいないだけで、こんなに落ち着かないなんて。

 ルナは自分でも不思議に思いながら、手元の袋を胸元に引き寄せた。

 

 ――まだ、終わらせたくない。

 

 そう思ったところで、昼休みの残り時間を告げるチャイムが遠くで鳴り始めた。

 

ーーーー

 

 次の授業が始まっても、リュウジは教室に姿を見せなかった。

 チャイムが鳴り、先生が淡々と授業を進める。いつもならノートを取る音が揃うのに、今日はどこか視線が落ち着かない。――空いている席が一つあるだけで、教室のバランスが崩れる。

 

 ルナは黒板を見つめながら、鞄の中の小さな箱の存在を意識してしまう。

 昼休みに渡せなかった、リュウジのためのチョコ。

 “手作りは食べない”と聞こえたあの言葉が、まだ胸の奥で引っかかっている。

 

(……本当に、食べないのかな)

 

 気になって仕方ないのに、今は聞けない。

 授業の途中、教室の扉が静かに開いた。

 

 遅れて入ってきたのは、リュウジだった。

 息は乱れていない。けれど、いつもの無駄のない動きより少しだけ硬い。視線を上げずに先生へ短く頭を下げ、空いている席へ向かう。

 椅子を引く音が小さく鳴って、リュウジは席に腰を下ろした。

 

 その瞬間、前の席から低い声が飛ぶ。

 

「どこ行ってた?」

 

 カオルだ。振り返らずに、けれど確かにリュウジへ向けて尋ねた声。

 リュウジはノートを開きながら、短く答えた。

 

「……エリンさんの所」

 

 それだけで、周囲の空気が一瞬止まった気がした。

 ハワードが「え?」と声を漏らしかけ、シンゴも目を丸くする。メノリは眉を少しだけ動かし、ベルとシャアラは顔を見合わせた。

 

 ルナの胸が、またちくりと痛んだ。

 エリン――緑髪の、あの落ち着いた女性。頼れる大人。リュウジの近くにいる人。

 そこへ行った、と。

 

(どうして……?)

 

 理由を聞きたいのに、授業中だ。

 ルナは唇を噛み、黒板へ視線を戻した。ペン先が紙の上で一度止まり、また動き出す。書いているのに、頭に入ってこない。

 

 ――その“エリンの所”で何があったのか。

 

 ***

 

 リュウジが向かったのは、ソーラ・デッラ・ルーナのエアポート近く。

 ハワード財閥旅行会社の本社ビルだった。

 

 巨大なガラス壁面に映る空。エントランスの床は磨かれた石材で、足音がやけに響く。

 制服姿の乗務員や、スーツの社員が行き交うロビーの空気は、学園のそれとは別物だった。

 

 ――そして、リュウジが一歩入った瞬間。

 

 視線が集まる。

 

 顔を上げた受付スタッフが一瞬固まり、通りすがりの社員が足を止め、乗務員が小さく息を呑む。

 それは“珍しい来客”への視線ではなく、“知っている有名人”への視線だった。

 

(……面倒だな)

 

 リュウジは内心でため息をつき、手に持った紙袋を少しだけ持ち替えた。

 中身はチョコ。今日の朝から増え続け、さすがに持ち歩くのが鬱陶しくなってきた。ロッカーに突っ込むのも嫌だし、捨てるのも違う。

 誰かに押し付けるのも……押し付ける相手を間違えると、さらに面倒が増える。

 

 その点、エリンなら話が早い。

 仕事の線引きができていて、段取りもいい。何より、口が堅い。

 

 受付へ向かう前に、社員の一人が「あの……」と声をかけそうになった瞬間。

 

「リュウジ?」

 

 背後から、聞き慣れた声がした。

 

 振り返ると、エリンがエントランスに立っていた。

 緑のロングヘアをきちんとまとめ、制服ではなく社内用の落ち着いた服装。仕事中の顔だ。

 周囲の社員や乗務員が「エリンだ」と空気を変えるのも分かる。彼女が歩くだけで、その場が整う。

 

「……すみません、急に」

 

「いいえ。連絡くれたから来られたのよ」

 

 エリンは微笑んで、周囲をさりげなく見回した。

 それだけで、集まっていた視線が少し散る。彼女の“圧”は、声を荒げなくても効く。

 

「こっち。会議室、空いてる」

 

 エリンはそう言って、リュウジをロビー奥へ導いた。

 社員たちは道を空ける。リュウジはその視線の残滓に、さらに面倒を感じながら歩いた。

 

 会議室は静かだった。

 ガラスの壁、長机、椅子。資料の匂い。

 エリンが扉を閉めると、外のざわめきがすっと遠のいた。

 

「で、どうしたの? 顔が疲れてる。」

 

「体調は平気です」

 

「平気って顔じゃないわ」

 

 エリンは椅子に座るよう促し、自分も向かいに腰を下ろした。

 仕事の合間に時間を割いてくれたのだろう。端末を机の端に置きながらも、目は真っ直ぐリュウジを見ている。

 

「理由、聞いていい?」

 

「……これです」

 

 リュウジは紙袋を机の上へ置いた。

 エリンが中を覗き、ふっと眉を上げる。

 

「チョコ?」

 

「バレンタインです。学園、朝から凄くてですね」

 

「ふふ。想像つく」

 

 エリンは笑った。

 リュウジは肩をすくめる。

 

「処分してほしい。ここの社員で食べてください。捨てるのは嫌だ」

 

「“処分”って言い方」

 

 エリンが苦笑する。

 

「分かりやすいですよね」

 

「まあ、そうね」

 

 エリンは袋の中をもう一度確認し、丁寧に戻した。

 

「全部、市販?」

 

「ええ。市販のだけにしてあります」

 

 リュウジは淡々と言った。

 そこには理由がある。手作りをどうこう言うつもりはない。相手の気持ちも分かる。

 でも、受け取った時点で“責任”が生まれるのが面倒だ。

 味がどうとか、食べたかどうかとか、礼を返す順番とか、そういう細かい波が、どこまでも広がる。

 それに手作りだと、何が入っているか分からない。

 

 エリンはリュウジの言葉の裏を読むように、少しだけ目を細めた。

 

「手作りは受け取ってないの?」

 

「受け取っていません。……というか、受け取ると話が増えますから」

 

「増えるわね」

 

 エリンは頷いた。否定しない。

 それが救いだった。叱られたくて来たわけじゃない。理解してもらえる相手に預けたいだけだ。

 

「でも、わざわざここまで持ってくる必要あった?」

 

「ここなら確実に捌けますよね。仕事で人数いるでしょうし」

 

「確かに。うちの事務所は甘いもの好きが多いもの」

 

 エリンは立ち上がり、紙袋を持ち上げた。

 重さを確かめるように軽く揺らし、笑う。

 

「分かった。私が配る。休憩室に置いておけば、夕方には消えるわ」

 

「助かります」

 

 リュウジが短く言うと、エリンは一瞬だけ表情を柔らかくした。

 

「……それで、リュウジ」

 

「何だ」

 

「今日、学園で変なことになってない? 嫌な絡まれ方とか」

 

「絡まれるのは毎年です。今日は数が多いだけです」

 

「数が多いって言い方、ひどい」

 

「事実です」

 

 リュウジが言うと、エリンは小さく笑った。

 そして、少しだけ真面目な目になる。

 

「ルナは?」

 

 その名前が出た瞬間、リュウジは首を傾げた。

 

「……別に、何も」

 

「そう」

 

 エリンはそれ以上踏み込まなかった。

 

「無理して笑顔作るの、得意よね。あなた」

 

「……仕事の癖です」

 

「分かってる。でも、息が詰まるなら逃げていい。今日くらい」

 

 エリンの声は、叱るでも甘やかすでもない。

 ただ、当たり前の選択肢を差し出す声だった。

 

 リュウジは椅子にもたれ、短く息を吐いた。

 

「……だから来ました」

 

「ふふ。正解」

 

 エリンは紙袋を抱え直し、会議室の扉へ向かった。

 

「じゃあ、私は配ってくる。あなたは――学園に戻る?」

 

「授業がありますから」

 

「ちゃんと出なさいよ」

 

「言われなくても分かってます」

 

 リュウジが立ち上がると、エリンは振り返って目を細めた。

 

「……あと。チョコ、食べなさい。コーヒーだけじゃ体がもたない」

 

「ここに置いてきました」

 

「それじゃ意味ない」

 

 エリンが呆れたように言って、扉を開ける。

 廊下の気配が戻る。

 視線がまた集まる前に、エリンが先に出て、自然に盾になるように歩き出した。

 

 リュウジはその背中を一瞬だけ見つめ、すぐに目を逸らした。

 

(……厄介な人だ)

 

 でも、その“厄介さ”が、ありがたい時もある。

 リュウジはそう思いながら、学園へ戻るために足を速めた。

 

 ***

 

 ――そして、教室。

 授業の途中で戻ってきたリュウジは、前の席のカオルに「エリンの所」と答えた。

 

 それだけで、皆の頭の中にいろんな想像が走っただろう。

 けれどリュウジは、それ以上何も説明しない。

 

 ルナは横目でリュウジの背中を見た。

 彼の机の横に、あの紙袋はもうない。

 

(……チョコ、どうしたんだろう)

 

 聞きたい。

 でも聞けない。

 

 そして何より――自分の鞄の中の小さな箱が、まだ“渡されていない”ことが、ルナの胸を静かに締めつけていた。

 

ーーーー

 

 放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気にほどけた。

 椅子を引く音、鞄を閉じる音、誰かが笑う声。バレンタインのざわめきは昼で一度落ち着いたはずなのに、今度は“今日の締め”みたいな熱が戻ってくる。

 

 リュウジが席を立ち、鞄を肩に掛けたところで、左右から飛びつくように影が差した。

 

「リュウジ!」

 

「ねえ、なんでエリンさんの所に行ったの!?」

 

 ハワードとシンゴだ。

 昼の間に一度落ち着いたはずの好奇心が、放課後になって復活したらしい。ハワードは腕を組んで詰め寄り、シンゴは目を輝かせて身を乗り出す。

 

「旅行会社だろ? なに、仕事の相談? それとも――」

 

「エリンさんと秘密のデート!?」

 

「バカ言うな」

 

 リュウジは即座に切って捨てた。けれど、二人の顔は引かない。

 ルナは少し離れた席で、そのやり取りを見ていた。胸の奥が、また小さくきゅっとなる。――“エリンの所”の言葉が、まだ心の中でくすぶっていたから。

 

「で、結局なんで行ったんだよ!」

 

「別に」

 

 リュウジは短く答えた。

 それ以上は言わない、という態度がはっきりしている。ハワードはむっとするが、そこがリュウジだと分かっているから、強く押しきれない。

 

「別にってなんだよ別にって!」

 

「別に、だ」

 

 リュウジはため息をつき、話を切り替えるように鞄の口を開いた。

 

「そんなことより」

 

 その言葉に、ハワードとシンゴが同時に止まる。

 リュウジが鞄の中から取り出したのは、小さな包みだった。個包装で、丁寧に封がされている。しかも数が多い。

 見慣れた市販の箱や派手なリボンじゃない。手作りの雰囲気がある、落ち着いた包み。

 

「……それ、なに?」

 

 シンゴが恐る恐る覗き込む。

 リュウジは包みを机の上に並べていく。淡々とした動きが、逆に妙に目を引いた。

 

「エリンさんから預かった。皆に配れって」

 

「ええっ!? エリンさんの!?」

 

 ハワードの声が裏返った。

 その驚きの大きさに、周囲のベルやシャアラ、メノリ、カオルも視線を向ける。

 

 リュウジは包みを一つつまみ、ハワードの胸に軽く押し付けた。

 

「ほら」

 

「やったぁぁぁ!!」

 

 受け取った瞬間、ハワードは子どもみたいに跳ねた。

 シンゴも「すごい! エリンさんのチョコ!? 絶対おいしいやつだ!」と手を伸ばす。

 

「落ち着け。まだ配ってる途中だ」

 

 リュウジは面倒そうに言いながらも、手は止めない。

 その包みを配る指先は、どこか慣れている。――それがまた、ルナの胸を少しだけくすぐった。

 

 ***

 

 少し前。

 ハワード財閥旅行会社のビルから出た時のことだ。

 

 エントランスの回転扉を抜け、外の冷たい空気を吸い込んだ瞬間、背後から声がかかった。

 

「リュウジ」

 

 振り返ると、エリンがいた。

 忙しいはずなのに、わざわざエントランスまで降りてきたのだろう。緑の長い髪をまとめ、仕事の顔のまま、でも目だけは柔らかい。

 

「これ」

 

 エリンは小さな箱――いや、小包の束を差し出した。

 リュウジが受け取ると、ほんのり甘い香りがした。手のひらの上で感じる、軽い重さ。

 

「皆に配ってあげて」

 

「……これ、エリンさんが?」

 

「そう。バレンタインだから、私も作ったのよ」

 

 エリンはさらりと言って、笑った。

 作った――その言葉が自然すぎて、リュウジは一瞬だけ目を瞬かせた。

 

「チャコの分もあるから、リュウジから渡してあげて」

 

「……分かりました」

 

 リュウジが頷くと、エリンは満足そうに目を細めた。

 まるで当然のように“渡す役”をリュウジに任せるのが、エリンらしい。

 

「中身は……生チョコですか?」

 

 リュウジが尋ねると、エリンは小さく肩をすくめた。

 

「ええ。私の得意チョコ料理」

 

 さらりと言うのに、自信があるのが分かる。

 リュウジは苦笑し、少しだけ口元を緩めた。

 

「ペルシアとよく作ってましたよね」

 

「ああ……」

 

 エリンの視線が一瞬だけ遠くへ飛んだ。

 すぐに笑みが戻る。

 

「まあ、ペルシアが“食べたい!”って騒ぐから作り始めたのがきっかけだけどね」

 

 その言い方があまりにも想像できて、リュウジは小さく息を吐く。

 

「分かりました。ありがとうございます」

 

「はい。じゃあ、学園戻るんでしょ? 遅刻しないようにね」

 

「もう遅刻してますけど」

 

「まったく…」

 

 エリンは笑い、手をひらりと振った。

 リュウジは小包の束を抱え直し、冷たい風の中へ歩き出した。

 

 ***

 

 そして、放課後の教室。

 

 リュウジは包みを一つずつ配っていく。

 まずは近くにいたカオルへ。

 

「カオル」

 

「……ん」

 

 カオルは短く返事をして受け取り、包みを手の中で確かめるように握った。

 その仕草が妙に丁寧で、リュウジは少しだけ笑った。

 

「大事そうだな」

 

「……こういうの、慣れてない」

 

「笑えるな」

 

 リュウジが言うと、カオルはふっと視線を逸らした。

 でも、包みを潰さないように持つ手は、驚くほど優しかった。

 

 ベル、メノリ、シャアラへも渡す。

 

「ベル」

 

「ありがとう。後でゆっくり食べるね」

 

 ベルはふんわり笑う。

 メノリは包みを受け取り、視線を上げずに言った。

 

「……エリンさん、仕事の合間に作ったのか」

 

「たぶんな」

 

「相変わらずだな」

 

 それが褒め言葉だと分かる言い方だった。

 シャアラは受け取って、両手で包みを包むように持つ。

 

「嬉しい……。エリンさん、優しいね」

 

「優しいというか、手際がいい」

 

 リュウジが言うと、シャアラはくすっと笑った。

 

 最後に、ルナの前にリュウジが立った。

 ルナは自分でも驚くほど、背筋が伸びた。胸がどきどきして、手のひらにじわりと汗が滲む。

 

「……ルナ」

 

 名前を呼ばれるだけで、身体の中の何かがふっと跳ねる。

 リュウジは包みを差し出した。

 

「エリンさんから」

 

「……ありがとう」

 

 ルナは両手で受け取った。

 包みは温かくないのに、指先から熱が上がってくる気がした。

 

 そして、リュウジは言葉を続ける。

 

「チャコにも渡すよう頼まれてる」

 

「うん。チャコ、後で渡しておくね」

 

「いや」

 

 リュウジは小さく首を振った。

 その仕草が、いつもより少しだけ迷っているように見えた。

 

「この後、邪魔していいか?」

 

 ルナは一瞬、息を止めた。

 “邪魔していいか”――それはつまり、ルナの家に行くということだ。チャコに渡すために。

 つまり、放課後、一緒にいる時間が生まれる。

 

 ルナの胸の奥で、さっきまで沈みかけていた希望が、急に浮かび上がった。

 鞄の中の小さな箱――自分が作った、リュウジのためのチョコ。

 渡すチャンスが、目の前にちゃんと形を持って現れた。

 

「ええ、もちろん」

 

 ルナは嬉しそうに頷いた。

 笑顔を作ったわけじゃない。自然に頬が緩む。

 

「ありがとう」

 

 リュウジは短く言って、視線を逸らした。

 けれど、その声はどこか柔らかかった。

 

 ルナは包みを胸元でそっと握りしめた。

 心臓の鼓動が、さっきより少しだけ優しい速度になる。

 

(放課後、一緒にいられる)

 

(家に来るなら――渡せる)

 

 ルナはそう思うだけで、胸の奥が温かくなった。

 バレンタインの一日はまだ終わっていない。

 むしろ、ここからが――ルナにとっての本番だった。

 

ーーーー

 

 夕方の空気は、昼間より少しだけ冷たかった。

 ソーラ・デッラ・ルーナの通りを抜け、ルナの家の前に着くころには、息が白くなりそうな気配がある。コロニーの人工空調でも、冬は冬らしく“冷える”。その冷えが、バレンタインの甘さを妙に引き締めてくるから不思議だ。

 

ルナは玄関の鍵を開けた。

 

「どうぞ。」

 

「お邪魔します」

 

 いつものやり取りなのに、今日は少し違う。

 リュウジが家の中に入ってくるだけで、ルナの心臓が落ち着かない。鞄の中には、まだ渡せていない小さな箱――自分が作ったチョコがある。

 それを思い出すたび、喉の奥がきゅっと縮む。

 

「お、リュウジやん」

 

 居間から顔を出したチャコが、いつもの調子で言った。

 テレビは消えていて、テーブルの上には洗い終えたマグカップが並んでいる。何か準備をしていたらしい。

 

「ほら」

 

 リュウジは鞄から、個包装の小さな包みを一つ取り出し、チャコへ差し出した。

 丁寧な包み。きれいに折られた紙。ほんのり甘い香りがする。

 

「エリンさんが作った生チョコだ。チャコの分も渡してくれって」

 

「エリンの生チョコ!? ええやん!」

 

 チャコは目を輝かせ、包みを両手で受け取った。

 その瞬間、ルナは小さく息を吐く。リュウジがちゃんと約束を守ってくれたことに、どこか安心したのかもしれない。

 

「ありがとな、リュウジ。あとでゆっくり食べるわ」

 

「勝手にしろ」

 

 素っ気ない言い方なのに、嫌な感じがしないのがリュウジらしい。

 ルナはその空気を振り払うように、台所へ向かった。

 

「今、飲み物淹れるわね。コーヒーでいい?」

 

「ああ」

 

「チャコは?」

 

「ウチはあとでええ」

 

 ルナは棚を開け、コーヒーの豆を出す。

 湯気が立ち始めると、部屋にほのかな香りが広がった。甘いチョコの匂いと混ざって、今日という日を一層“それらしく”する。

 

 淹れたコーヒーをマグに注ぎ、ルナはリュウジの前へ置いた。

 

「はい」

 

「ありがとう」

 

 受け取る手が、いつもより少しだけ丁寧に見えた。

 ルナはそれだけで、胸の奥がくすぐったくなる。

 

 その時、チャコが急に得意げに腕を組んだ。

 

「せや、ルナ。ウチな、エリンにチョコ持ってくわ」

 

「……え?」

 

 ルナが思わず手を止める。

 

「エリンさんに? チャコが?」

 

「そうや。お返しやお返し」

 

「いつ作ったの?」

 

 ルナが驚いて尋ねると、チャコは何でもないことみたいに言った。

 

「ルナが学校行ってる合間にや」

 

「え、そんな時間あったの?」

 

「あるに決まっとるやろ。ウチを誰やと思っとんねん」

 

 チャコはふん、と鼻を鳴らし、冷蔵庫を開けた。

 そして奥から、タッパーのような容器を取り出す。中には――歪な形のチョコがゴロゴロ入っていた。丸くしたつもりが角ばっていたり、表面が少し割れていたり、艶がなかったり。

 でも、妙に“手作り感”がある。チャコなりに頑張ったのだと分かる。

 

「……それ、チョコ?」

 

「そうや。見た目は……まぁ、ちょいアレやけどな」

 

 ルナは思わず笑いそうになって、口元を押さえた。

 

「ちょいアレどころじゃ――」

 

「味で勝負や」

 

 チャコは容器から一つ取り出して、リュウジの方へ差し出した。

 

「まずはリュウジが食べてぇな」

 

「俺が?」

 

「せや。毒見役や」

 

「毒見って言うな」

 

 リュウジは渋い顔をしたが、拒否はしなかった。

 ルナはその様子を見ながら、ふと昼間の会話が頭をよぎる。

 

(リュウジ、手作りは受け取らないって――)

 

 でも、今リュウジは、目の前の歪なチョコを受け取っている。

 

「いただきます」

 

 リュウジは淡々と言って、チョコを口に入れた。

 噛む。少し間があって、眉が動く。

 

「……どや?」

 

 チャコが身を乗り出す。

 

「苦い」

 

 リュウジは即答だった。

 渋い顔をして、コーヒーを一口飲む。苦さが苦さを追いかけて、余計に苦そうだ。

 

「うわ、あかんのか」

 

「カカオの分量が多いんじゃないか」

 

 リュウジが淡々と言うと、チャコは容器を覗き込む。

 

「カカオ……? 分量……? 入れたで、いっぱい」

 

「いっぱい入れたら苦くなるだろ」

 

「そんなん知らんわ! だってカカオ入れたらチョコっぽくなるやろ!」

 

「チョコにするんだよ」

 

 淡々とツッコむリュウジに、チャコは「なんやねんその正論」と頬を膨らませた。

 

 その会話を聞いていたルナが、思わず「あー!」と声を上げた。

 

 二人の視線が同時にルナへ向く。

 ルナは慌てて両手を上げた。

 

「ち、違うの! 違うんだけど……!」

 

「何やねん」

 

「どうした」

 

 リュウジとチャコの声が重なる。

 ルナは胸元のあたりを押さえながら、目をぱちぱちさせた。

 

「リュウジ……手作りチョコは受け取らないんじゃないの?」

 

 言ってしまった。

 ルナの声は驚きと、ほんの少しの――何か別の感情を含んでいたかもしれない。

 

 リュウジは一瞬だけ目を丸くし、そして「ああ」と納得したように頷いた。

 

「そういうことか」

 

「そういうことって……」

 

 ルナは言葉を探す。

 チャコは「せやせや!」と勢いよく頷いた。

 

 リュウジはコーヒーのマグを机に置き、視線をルナへ向けた。

 その目は、からかっているわけでも、冷たくもない。

 ただ、淡々としているのに、どこか“分かってほしい”という色がある。

 

「知らない人の手作りは受け取らないだけだ」

 

 ルナは一瞬、息を止めた。

 

「……え?」

 

「知らない人の、だ」

 

 リュウジは繰り返した。

 当たり前のことみたいに言うのに、その言葉の破壊力は大きい。

 

 ルナの胸の奥が、すっと軽くなる。

 同時に、熱くなる。

 昼間から引っかかっていた棘が、抜けていく感覚。

 

「じゃあ……」

 

 ルナは言いかけて止まった。

 続きが喉の奥で絡まる。

 “私のは?”と聞きたい。

 でも、聞いたら――それはもう、告白みたいに聞こえてしまう。

 

 ルナが言葉を飲み込むと、チャコがニヤニヤしながら肘でルナをつついた。

 

「ほらほら、ルナ。聞きたいことあるんちゃうん?」

 

「な、ないわよ!」

 

 ルナが顔を赤くして言い返すと、チャコは声を上げて笑った。

 

「あるやろ〜。なあリュウジ?」

 

「さあな」

 

 リュウジはそっぽを向いた。

 でも、口元がほんの少しだけ緩んでいるように見えて、ルナはさらに恥ずかしくなる。

 

 ルナは鞄のある方へ視線を落とした。

 まだ、そこに小さな箱がある。

 渡すチャンスは、今ここにある。

 

 けれど――今、無理に動くのは怖かった。

 せっかく軽くなった胸が、また重くなるのが嫌だった。

 

 だからルナは、コーヒーの湯気を見つめながら、笑ってごまかした。

 

「……チャコのチョコ、次は私が一緒に作ってあげる。カカオの分量、ちゃんと計ろうね」

 

「ええ!? ウチのチョコ、改造されるんか!?」

 

「改造じゃない、改善!」

 

 ルナが言うと、チャコは「改善て」とぶつぶつ言いながらも、どこか嬉しそうだった。

 

 リュウジは苦いチョコをもう一つだけ口に入れ、ため息混じりに言う。

 

「……改善しろ。これは罰ゲームだ」

 

「失礼やな!」

 

 チャコがぷんすか怒る。

 そのやり取りを見て、ルナは笑った。

 

 胸の奥はまだ落ち着かない。

 でも、さっきまでの不安とは違う。

 今は――渡したい、という気持ちが、ちゃんと前を向いていた。

 

(……知らない人の手作りは受け取らないだけ)

 

 その言葉が、ルナの心に小さな灯りをともす。

 いつかじゃなくて、今日。

 この家で。

 この放課後で。

 

 ルナはそっと、鞄の中の小さな箱のことをもう一度思い出した。

 

ーーーー

 

 ルナは笑ってごまかしたまま、立ち上がってキッチンへ逃げるように向かった。

 “逃げる”なんて言葉を使うのは大げさかもしれない。けれど、胸の内側に灯った小さな火が、今にも顔に出てしまいそうで――それが怖かった。

 

 食器棚を開ける手が、ほんの少しだけ震える。

 コーヒーの粉を片付けるふりをして、スプーンを洗うふりをして、落ち着け、落ち着けと心の中で繰り返す。

 

(渡すなら今やろ、ルナ)

 

 チャコの声が背中越しに聞こえる気がして、余計に恥ずかしくなる。

 

 居間からは、相変わらずチャコとリュウジの会話が続いていた。

 

「しかし苦いな。これ、ほんまにチョコか?」

 

「チョコだ。カカオ入れすぎなだけだ」

 

「なんやねんその冷静な分析……腹立つわ!」

 

「事実だろ」

 

 淡々と言い返すリュウジに、チャコが「もう一個食べぇ!」と容器を差し出している気配がする。

 ルナは思わず口元を押さえて、くすっと笑った。

 

(……こういうところ、変わらないな)

 

 サヴァイヴの時もそうだった。

 危ない目に遭いながら、皆で笑って、軽口を叩いて、喧嘩みたいなやり取りをして――それで、なんとか心を保っていた。

 

 でも今日のルナは、それだけじゃない。

 胸の奥に別の“ひっかかり”がある。

 鞄の中にある、あの小さな箱。

 

 ――リュウジに渡す、チョコ。

 

(知らない人の手作りは食べないだけ)

 

 その言葉が、ルナの中で反芻されるたびに、嬉しさがじわりと滲んだ。

 “知らない人”じゃない。

 少なくとも、ルナはそう思っている。サヴァイヴで一緒に生き抜いた仲間で、隣に座る同級生で、そして――最近は、少しずつ距離が変わり始めた相手。

 

 ルナは深呼吸して、鞄を取りに行く決心をした。

 

 キッチンを出ようとした瞬間、チャコの声が飛ぶ。

 

「ルナ! こっち来てみぃ! リュウジの顔、渋すぎて笑えるで!」

 

「どれどれ」

 

 ルナは慌てて居間に戻る。

 そこには、苦味の残る顔を隠しもしないリュウジと、勝ち誇ったように笑っているチャコがいた。

 

「ほら見てみ。これが“カカオいっぱい入れたら強そうやろ”の結果や」

 

「強そうってなんだ」

 

「強いチョコや!」

 

「意味が分からない」

 

 リュウジが苦笑し、コーヒーを一口飲んだ。

 

 その様子を見てルナはふっと力が抜けた。

 今なら、渡せる。

 この笑いの流れのまま、自然に。

 

 ルナは居間の隅に置いた鞄へ歩き、そっと開けた。

 箱は、ちゃんとそこにある。

 小さくて、シンプルで、でも精一杯丁寧に包んだもの。

 

(……よし)

 

 ルナは箱を手に取って、背中を伸ばした。

 そして、いつもの口調で――リュウジに近づいた。

 

「ねえ、リュウジ」

 

「ん?」

 

 リュウジが視線を上げる。

 ルナはその瞬間、少しだけたじろいだ。

 目が合うと、息が詰まる。イルミネーションの夜に見惚れた横顔とは違う、今ここで向けられる現実の眼差し。

 近い。思ったより、近い。

 

 ルナは箱を両手で差し出した。

 

「……はい。これ」

 

 言葉が少しだけ震えた。

 でも、引っ込めない。

 引っ込めたら、たぶん次はもっと難しくなる。

 

 リュウジは箱を見て、少しだけ目を見開いた。

 そして、ほんの短い間――迷ったように視線を揺らした。

 

 ルナの胸がどくんと鳴る。

 

(やっぱり、嫌だった?)

 

 不安が顔を出しそうになった瞬間、リュウジが手を伸ばした。

 箱を受け取る。その指先は、乱暴じゃない。

 

「……俺に?」

 

「うん」

 

 ルナは頷いた。

 頷きながら、恥ずかしさで頬が熱くなる。

 

 リュウジは箱を持ったまま、少し困ったように眉を寄せた。

 

「……手作りか」

 

「……うん。嫌なら、無理に――」

 

「嫌じゃない」

 

 メノリの時みたいに、短くはっきり言い切られた。

 ルナは一瞬、言葉を失った。

 

「……ほんと?」

 

「本当だ」

 

 リュウジは淡々としているのに、その言葉の端に妙な誠実さがある。

 ルナの胸の奥が、じんと温かくなる。

 

「それに」

 

 リュウジが続ける。

 

「お前のは……ちゃんと食べる」

 

 “お前”の、という言い方が、胸にすとんと落ちた。

 ルナは思わず笑ってしまう。笑うと同時に、目が少し潤みそうになるのが怖くて、慌てて視線を逸らした。

 

「……今、食べる?」

 

 ルナが小さく尋ねると、チャコが即座に乗ってくる。

 

「そうやそうや! 今食べぇ! ウチのは罰ゲーム扱いしといて、ルナのは食べへんとか言うたら許さんで!」

 

「お前のは苦いだけだ」

 

「うるさいわ!」

 

 チャコが机を叩く。

 ルナはくすくす笑いながら、リュウジを見た。

 

 リュウジは箱を開けるのをためらうように、ほんの少しだけ指を止めた。

 その様子が意外で、ルナは首を傾げる。

 

「……どうしたの?」

 

「……いや」

 

 リュウジは短く言って、箱のふたを開けた。

 中には、ルナが作ったチョコが並んでいる。

 エリンに聞いた“甘いチョコが好き”という情報を頼りに、甘さとコーヒーに合う香りを意識して作った。

 形は不揃いじゃない。焼きも溶かしも丁寧に。けれど、手作りだから完全に同じにはならない。その小さな違いが、ルナの“気持ち”そのものみたいで、ルナは目を逸らしたくなる。

 

「……ちゃんとしてるな」

 

 リュウジがぽつりと呟いた。

 

「ちゃんとしたよ。だって……」

 

 ルナはそこで言葉を止めた。

 “だって、リュウジにあげるんだもん”と続けたら、あまりにもまっすぐすぎる。

 言ってしまったら、きっと取り返せない。

 

 リュウジは一粒をつまみ、口に入れた。

 噛む音が小さく響く。

 ルナは息を止めたまま、リュウジの表情を見つめた。

 

 数秒。

 

 リュウジは、少しだけ目を伏せて――そして、口元を緩めた。

 

「……甘いな」

 

「え、だめだった?」

 

 ルナが慌てると、リュウジは首を横に振った。

 

「違う。……甘いけど、しつこくない。コーヒーに合う」

 

 ルナの胸がふわっと軽くなった。

 ほっとして、思わず笑ってしまう。

 

「よかった……!」

 

 チャコは「ほら見ろ!」と勝ち誇ったように胸を張る。

 

「ウチのは苦い! ルナのはコーヒーに合う! つまりルナの勝ちや!」

 

「勝ち負けじゃない」

 

 リュウジが呆れたように言うと、チャコはさらに笑う。

 

「ええやん、今日ぐらい勝ち負けつけたって!」

 

 そのやり取りの中で、ルナはそっとリュウジの手元を見た。

 リュウジはもう一粒、当たり前のようにチョコをつまんでいる。

 その仕草が嬉しくて、胸がきゅっとなる。

 

(ちゃんと食べるって言った)

 

(ちゃんと食べてる)

 

 ルナはテーブルの端に手を置き、少しだけ身を乗り出した。

 今なら言える気がした。

 

「……ありがとう」

 

 ルナの声は小さかった。

 でも、リュウジは聞き取ったらしく、顔を上げた。

 

「礼を言うのは俺だろ」

 

「え?」

 

「……わざわざ作るの、面倒だったろ」

 

 リュウジの言い方は不器用だ。

 “嬉しい”と言わない。

 けれど、ルナには分かった。リュウジなりの、最大限の言葉なのだと。

 

 ルナは頬を赤くして、笑った。

 

「面倒じゃないよ。……楽しかった」

 

「そうか」

 

 リュウジは短く答えて、またチョコを一粒口に入れた。

 その横顔が、さっきより少しだけ柔らかく見える。

 

 チャコはエリンの生チョコを眺めながら、急に真面目な声を出した。

 

「……ほなウチ、これエリンさんに持ってくわ。お返しな。……ルナ、片付け頼むわ」

 

「え、今行くの?」

 

「今行った方がええやろ。熱意は鮮度や」

 

「なんだそれ」

 

 リュウジがツッコむ。

 チャコはニヤリと笑って、立ち上がった。

 

「ほな、二人、邪魔したな〜?」

 

「ちょ、チャコ!」

 

 ルナが慌てて声を上げるが、チャコはもう玄関へ向かっている。

 

「すぐ戻るわ! ……たぶん!」

 

「たぶんって何よ!」

 

 ドアが閉まり、家の中が静かになった。

 突然、空気が変わる。さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、二人きりの静寂が訪れる。

 

 ルナは自分の心臓の音が聞こえそうで、落ち着かなくなった。

 リュウジはコーヒーを一口飲み、視線をルナへ向ける。

 

「……あいつ、わざとだな」

 

「……うん。絶対わざと」

 

 ルナが小さく笑うと、リュウジも短く息を吐いた。

 そして、箱の中のチョコを指先で軽く整えながら言う。

 

「……ありがとな、ルナ」

 

 その言葉に、ルナの胸がきゅっと締まる。

 嬉しくて、恥ずかしくて、でも逃げたくない。

 

「……うん」

 

 ルナは頷き、コーヒーの湯気を見つめた。

 今日という日が、静かに形を変えていく。

 バレンタインの“本番”は、確かにここにあった。

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