サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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メノリとハワード

 冬の夕方は、音が少ない。

 ソーラ・デッラ・ルーナの街路樹に取り付けられた小さなライトが、薄暗い空気を縫うように点っている。吐く息は白くならない程度だが、頬がひりつく冷たさは確かにあって、コートの襟を少し立てたくなる。

 

 メノリは細長いケースを肩に掛け、歩幅を崩さないまま帰路を進んでいた。

 ヴァイオリンのレッスン帰り。指先はまだ少し熱を持っていて、弓の重さや、弦の震えが身体のどこかに残っている。練習したフレーズが頭の中で反芻され、音の“角”だけが少し気に入らず、無意識に眉が寄る。

 

 その角を、別の声が削り落とすみたいに割り込んできた。

 

「……メノリ?」

 

 聞き覚えのある、少し軽い声。

 メノリが顔を上げると、歩道の向こうからハワードが手を振っていた。マフラーをぐるぐる巻きにして、コートの前をきっちり閉じ、手には紙の束――台本のようなものを抱えている。いつもの制服姿じゃない。放課後の“別の顔”のハワードだった。

 

「珍しいところで会うな」

 

「そっちこそ。ヴァイオリンのレッスン帰り?」

 

「見れば分かる」

 

 メノリがケースを顎で示すと、ハワードは「確かに」と笑って頷いた。

 ハワードの方は、どこか疲れた顔をしているのに目だけが妙に生き生きしている。充実しているのか、必死なのか――その両方が混ざったような目。

 

「演技指導の帰りだよ」

 

「……もう始めてたのか」

 

「編入までの間、時間を無駄にしたくないからね。パパの知り合いで、昔舞台に立ってた人がいてさ。今は隠居みたいな感じだけど、教え方がすごく厳しい」

 

 ハワードは肩をすくめた。

 “厳しい”と言いながら、どこか誇らしげなのが分かる。メノリはその表情を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「良かったな。投げ出してないなら」

 

「投げ出すわけないだろ。……って言いたいところだけど、正直、心が折れそうになる時もある」

 

 ハワードは台本の束を持ち替え、苦笑した。

 

「でもさ、あれだけサヴァイヴで酷い目に遭って生き延びたんだ。今さら“先生の声が怖い”くらいで逃げるのは、悔しい」

 

「逃げるかどうかは、お前が決めることだ」

 

「うん。だから、決めてる」

 

 その言い方が、以前のハワードよりずっとまっすぐだった。

 メノリは目を細めた。変わった、と素直に思う。変わったのに、変わらないところもある。そういう“成長”は嫌いじゃない。

 

 ふいにハワードが立ち止まり、近くの公園を指さした。

 

「なあ、寄っていかない?」

 

「寄るって、どこに」

 

「自動販売機。……おしるこ飲もうぜ」

 

「唐突だな」

 

「こういうのは勢いが大事なんだよ」

 

 意味が分からない、と言いたげなメノリの視線を、ハワードは気にせず公園へ入っていった。

 冬の公園は人が少なく、ブランコが揺れる音もない。ベンチだけが整然と並び、足元の砂利が小さく鳴る。

 

 自動販売機の前で、ハワードは迷いなくボタンを押した。

 温かい缶が二本、がこん、と落ちる。片方をメノリに差し出した。

 

「奢り。今日はたまたま機嫌がいい」

 

「……奢りの理由が雑すぎる」

 

「いいじゃん。ほら、暖かい。手が冷たいだろ」

 

 そう言われて、メノリは黙って受け取った。

 缶の熱が掌に移る。指先に残っていた練習の疲れが、じわりとほどけていく気がした。

 

「……で? 何か用か」

 

 メノリがベンチに腰を下ろすと、ハワードも隣に座った。

 距離は近いが、馴れ馴れしくはない。ハワードが余計な距離感を覚えたのは、つい最近だ。演技指導のせいか、それとも“選ぶ”ことを学んだせいか。

 

「用っていうほどじゃない」

 

 ハワードはおしるこを一口飲み、ふっと息を吐いた。

 

「……久しぶりに、メノリのヴァイオリンが聴きたい」

 

 メノリは缶を口につける手を止めた。

 甘い。熱い。舌がびっくりする。

 

「突然だな」

 

「突然じゃない。ずっと思ってた」

 

「いつ」

 

「サヴァイヴから帰ってから、ずっと」

 

 ハワードはさらりと言った。照れをごまかすような軽さがあるのに、言葉自体は真剣で、メノリは少しだけ目を逸らした。

 

「……あの頃、聴かせてたのは状況が状況だったからだ」

 

「分かってる。でも、帰ってからは聴いてない」

 

 ハワードは指で台本の角をとんとん叩く。

 

「メノリのヴァイオリンの良さは、かつてピアニストを目指した僕にしか分からないのさ」

 

 得意げに言う、その口調。

 メノリは、思わず鼻で笑った。

 

「大方、途中で挫折して諦めた口だろ」

 

「……痛いところ突くなあ」

 

「図星か」

 

「図星だけど、全部が全部そうじゃない」

 

 ハワードは、少しだけ真面目な顔になった。

 

「ピアノはね、僕の“逃げ場”だったんだ。上手くいかないことがあると、鍵盤の前に座って、同じフレーズを何回も弾いて……それで落ち着く。だけど――僕は結局、“逃げ場”以上にできなかった」

 

 メノリは黙って聞いた。

 ハワードがこういう話を自分からするのは、珍しい。だからこそ、茶化さない。

 

「でも、メノリのヴァイオリンは違う。逃げ場じゃなくて、前に出ていく音だ。……あれは、僕には出せない」

 

 ハワードはそう言って、少しだけ笑った。

 その笑みは、いつもの軽薄さじゃない。羨ましさと、尊敬と、少しの悔しさが混ざっている。

 

「……褒めても何も出ない」

 

「出してほしいのは音だよ」

 

 ハワードが即答すると、メノリは小さく息を吐いた。

 

「ここで弾けと言うのか」

 

「うん」

 

「迷惑だろ。近所の人が」

 

「この時間、人いないし。……それに、少しだけ。ワンフレーズでいい」

 

 ハワードの言い方が、妙に真剣で、メノリは負けた。

 メノリはケースを膝の上に置き、金具を外す。ぱちん、と小さな音が冬の空気に響いた。蓋を開けると、ニスの匂いがふわりと立つ。

 

 ヴァイオリンを取り出し、肩に当てる。

 顎を軽く乗せ、弓を持つ手の指を整える。

 

 公園の空気が、静かに張り詰めた。

 

 メノリは、弾いた。

 レッスンで仕上げたばかりのフレーズ。冬の空に馴染む、澄んだ音。

 最初は控えめに、次第に息を入れて、音を前へ押し出す。弓が弦を捉える感触が指先に返ってくる。

 冷たい風の中でも、音は温かい。熱を持って広がる。

 

 ハワードは黙ったまま聴いていた。

 いつもの彼なら、途中で何か言いそうなのに、今日は言わない。

 ただ、目を逸らさず、音の行方を追っている。

 

 ワンフレーズ、のつもりだった。

 けれど、メノリはもう少し弾いた。ハワードの呼吸が落ち着いていくのが分かったからだ。

 そして、最後の音をふっと消すように終わらせた。

 

 沈黙。

 公園の空気が、ゆっくり緩む。

 

 さっきまでメノリのヴァイオリンが空気を震わせていたのに、今はその余韻だけがベンチの上に残っているみたいに、音のない時間がゆっくり流れている。

 

 ハワードは少し照れたようにおしるこの缶を握り、メノリはケースの留め金を確かめながら、何でもないふうを装っていた。

 けれど、メノリの耳はまだ“自分の音”の内側にいる。弓の圧、指の角度、最後の音の消し方――全部がまだ身体の中に残っている。

 

 ハワードがようやく息を吐き、いつもの調子に戻ろうとする。

 

「いやぁ、やっぱりいいね。メノリのヴァイオリン。僕、ちょっと感動――」

 

「次はお前の番だ」

 

 メノリが淡々と言った。

 

「……へ?」

 

 ハワードが間抜けな声を出す。

 その反応があまりに“ハワード”で、メノリは一瞬だけ口元を緩めた。

 

「ハワードの演技を見せてくれ」

 

「……え」

 

 ハワードは缶を持った手を止め、目をぱちぱちさせた。

 まるで、自分が試される側に回ることを想定していなかったみたいに。

 

「さっき、演技にも必要だとか言っていたな。なら、見せろ」

 

「……」

 

 ハワードの喉が小さく動く。

 それから、少しだけ頬を赤くして、視線を逸らした。

 

「笑うなよ」

 

「笑わない」

 

 即答すると、ハワードは「絶対だぞ」と念押しするように言った。

 

「絶対だからな? 僕、今、真面目なんだからな?」

 

「分かった」

 

 メノリはベンチに腰を下ろし、腕を組んだ。

 その姿勢は審査員というより、ただ“逃げ道を与えない”姿勢だった。

 

 ハワードは公園の砂利を一歩踏み、少し離れた場所に立つ。

 台本の束を抱えたまま……に見えたが、ふっと気づくとそれをベンチの端に置いていた。

 深呼吸。肩を落とす。目線を上げる。

 

 ――空気が変わった。

 

 メノリは自分でも驚いた。

 さっきまでのハワードの軽さが、すっと引く。表情が“役”のものへ滑っていく。

 ほんの数秒で、それが起きた。

 

(……演技のスイッチ)

 

 メノリは眉を寄せた。

 ハワードは、よく喋り、よく笑い、場を回すタイプだ。けれど、その軽さの裏で、“場の空気を読む”ことが得意だった。

 今の切り替えは、その才能の延長線にあるのかもしれない。

 

 ハワードが口を開く。

 最初は、今にも笑い出しそうなほど真面目な口調が可笑しくて、メノリは笑いを堪えるのに必死だった。

 

(何だその顔は)

 

 そう言いたくなる。

 自信満々に格好つけているわけではない。むしろ、真剣だからこそ少し不格好で――それが、妙に面白い。

 

 メノリは唇の端を噛み、視線を逸らさないようにした。

 笑ったら負けだ。

 ハワードは、見られることに慣れていない。ここで笑えば、きっと二度と見せなくなる。

 

 ハワードは、何かを語る“役”だった。

 内容は完全に台本通りではない。おそらく練習中の課題なのだろう。

 彼は“怒り”から始めた。声を落とし、言葉の端を鋭くする。

 次に“焦り”が混ざる。息が乱れるのを、演技として見せる。

 最後に“諦めたふり”をする。諦めていないのに、諦めたと言う――その矛盾を目で見せる。

 

 メノリの笑いは、いつの間にか消えていた。

 

 ハワードの声が変わるたびに、空気が変わる。

 さっき彼が言っていた“間”が、ここにある。

 台詞の意味だけじゃなく、息を吸うタイミング、目線の揺れ、言葉を置く場所――それが、ちゃんと“音”になって届いてくる。

 

(……上手い)

 

 メノリは自分の中に湧いた感想を、すぐに否定したくなった。

 認めたくないわけではない。

 ただ、簡単に褒めたら、ハワードは得意になって調子に乗る。そういうやつだ。

 

 けれど、今のハワードは違った。

 調子に乗る余裕なんてない。必死だ。

 自分の言葉を、自分の身体で作ろうとしている。

 

 ハワードが一歩、前に出た。

 メノリの目線の高さに合わせるように、少しだけ腰を落とす。

 それだけで距離が近く見えた。

 

 ハワードの声が、急に柔らかくなった。

 怒りも焦りも引いて、残ったのは“静けさ”だった。

 

「……君がいるから、僕は立っていられる」

 

 その台詞は、演技としては分かりやすい。

 けれど、ハワードの目がそれを“本物”に近づける。

 視線が逃げない。笑いで誤魔化さない。自分の言葉に責任を持つように、まっすぐ見ている。

 

 メノリは、喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。

 おしるこの熱とは別の熱だ。

 

(……妙だな)

 

 メノリは心の中で呟いた。

 これは演技だ。

 相手はハワードだ。

 ふざけて、茶化して、騒いで、そうやって場を軽くするやつだ。

 

 なのに。

 

 ハワードは、そこで止まらなかった。

 最後の仕上げのように、ほんの少しだけ笑みを作る。

 その笑みは、いつものケラケラした笑みじゃない。

 静かで、柔らかくて、真似事じゃない“優しさ”の形をしていた。

 

「……愛してる」

 

 言葉が、落ちた。

 冬の空気の中に、ぽとりと。

 わざとらしさがないわけではない。台詞だと分かる。

 でも、それでも――心臓が跳ねた。

 

 メノリの胸が、どくん、と熱く鳴る。

 おしるこの缶を握る指に、力が入った。

 顔が熱くなるのが分かる。

 そんな反応を自分がするとは思わなかった。

 

(……演技だ)

 

 分かっている。分かっているのに。

 ハワードの“間”が、目が、声が――その全部が、メノリの防御を一瞬だけ外した。

 

 ハワードが息を吐き、肩の力を抜く。

 演技が終わった、と分かる仕草。

 その途端、ハワードは急に現実へ戻って、顔を真っ赤にした。

 

「……っ、い、今のは練習だぞ!? そういう台本っていうか、課題っていうか! だから、その――」

 

「うるさい」

 

 メノリは即座に言った。

 声が少しだけ硬い。自分の胸の熱を隠すために。

 

「……笑った?」

 

 ハワードが恐る恐る尋ねる。

 

「笑ってない」

 

 メノリは顔を逸らした。

 笑っていない。確かにそうだ。

 けれど、笑えなかった理由は別にある。

 

 ハワードは安堵したのか、へにゃっと肩を落とした。

 

「よかった……。笑われたら死ぬかと思った」

 

「死なないだろ」

 

「死ぬって! 心が!」

 

 ハワードがいつもの調子に戻ろうとして、少しだけ大げさに言う。

 それが“逃げ”だと分かって、メノリは少しだけ安心した。

 さっきの真剣な視線が、まだ続いたら――メノリの方が危なかった。

 

 メノリは缶のおしるこを一口飲んだ。

 甘い。

 その甘さが、さっきの胸の熱と混ざる。

 

 ハワードが照れ隠しに笑いながら、ちらっとメノリを見る。

 

「……どうだった? その、僕の演技」

 

 メノリは即答しなかった。

 褒めたくない。

 でも、嘘はつきたくない。

 

「……悪くない」

 

 それだけ言った。

 ハワードの顔がぱっと明るくなる。単純だ。

 

「ほんと!? 今の、褒めた!? メノリが僕を褒めた! 珍事件だ!」

 

「調子に乗るな」

 

「乗るよ! だって褒められたもん!」

 

 ハワードが笑う。

 メノリも、つられて口元を緩めた。

 

 ――その瞬間、メノリは自分の胸がまだ少し熱いことに気づいた。

 そして、気づいてしまったことが悔しくて、もう一口おしるこを飲む。

 

 ハワードは、台本の束を抱え直し、急に真面目な顔になった。

 

「……ねえ、メノリ」

 

「何だ」

 

「さっきの……“愛してる”の台詞さ」

 

 メノリの心臓が、また小さく跳ねる。

 ハワードは続けた。

 

「演技だって分かってるのに、言う方も恥ずかしいんだよ。……でも、言えるようにならないと、役者になれない」

 

「そうだな」

 

「だからさ。僕、もっと練習する」

 

 ハワードの言葉は、軽いようで重い。

 メノリは頷き、立ち上がった。

 

「なら、急げ。風邪をひく」

 

「メノリ、優しいじゃん」

 

「寒いだけだ」

 

 メノリは素っ気なく言って歩き出す。

 ハワードは笑いながらそれに並び、冬の帰り道を一緒に進んだ。

 

 胸の熱は、歩くたびに少しずつ冷えるはずなのに。

 メノリの中では、さっきの台詞が――演技だと分かっているのに、なぜか小さく残り続けていた。

 

ーーーー

 

 家の玄関を閉めた瞬間、外の冷たさがすっと遠のいた。

 コロニーの空調は安定しているはずなのに、帰宅した直後の室内はやけに温かく感じる。外の空気が指先に残っていたせいかもしれないし、胸の奥がまだ落ち着いていないせいかもしれない。

 

 メノリは靴を揃え、ヴァイオリンケースを壁際に立てかけた。

 いつもなら、すぐにケースを開けて弦の状態を確認する。レッスン帰りは特に、弓の毛の張りを緩めるのを忘れない。

 でも今日は、指が動かない。動くのを、少しだけ躊躇っている。

 

(……何だ、これは)

 

 自分に苛立つほどではない。

 ただ、“自分らしくない”という感覚が、薄い膜のようにまとわりついていた。

 

 上着を脱ぎ、部屋着に着替える。

 台所に立ち、湯を沸かそうとしてやめた。

 お茶を飲めば落ち着く、という習慣はある。でも今日は、飲むより先に身体を温めた方がいい気がした。

 

 浴室のスイッチを押す。

 湯が張られていく音は、いつだって心を静かにする。水面が少しずつ上がり、湯気が立ち、鏡が曇っていく。

 その曇り方さえ、今日は少しだけ遅いように感じた。

 

 服を脱ぎ、髪をまとめ、シャワーで身体を流す。

 指先で頭皮を揉み、シャンプーの泡を落とす。洗い流す水の音が、余計な考えを外へ追い出してくれるはずだった。

 

 ――はずだった。

 

 湯船に浸かった瞬間、力が抜ける。

 肩が落ち、背中が湯に押される。

 ふう、と息を吐くと、胸の奥にあった固さがほどけていく……はずなのに、そこに別のものが残っていた。

 

 公園のベンチ。

 冬の空気。

 自動販売機のおしるこの熱。

 そして――

 

『……愛してる』

 

 ハワードの声が、湯気の向こうから聞こえてくる。

 

 メノリは眉を寄せた。

 湯の中で膝を抱えるようにして、目を閉じる。

 わざと記憶を整理するように、今起きたことを“言葉”にしようとした。

 

(演技だ)

 

 そうだ。演技。台詞。課題。練習。

 ハワード自身が照れて、慌てて、言い訳を並べていた。

 本気で言ったわけじゃない。

 

(分かっている)

 

 頭は冷静だ。

 冷静に理解している。

 なのに、心臓が跳ねた。胸が熱くなった。呼吸が一瞬だけ浅くなった。

 自分で自分を制御できない反応が、確かにあった。

 

 湯の中で、メノリはそっと腹のあたりに手を当てた。

 湯の熱が掌に伝わる。

 けれどその熱は、さっきの“胸の熱”とは違う。

 

(……どうして)

 

 問いが浮かぶ。

 そして、すぐに別の声がそれに答えようとする。

 

(驚いただけだ)

 

 そう。驚いたのだ。

 ハワードがあんな目をするとは思わなかった。

 あんな静かな声で、あんな“間”で、あんなふうに言葉を落とすとは思わなかった。

 だから反射的に心が揺れた――そう説明すれば、筋は通る。

 

 だが、湯船の中では言い訳が薄まる。

 湯が温度を一定にするみたいに、嘘を均してしまう。

 

(驚いただけ、ではない)

 

 メノリは自分の中のその結論を嫌った。

 嫌う、というより、認めたくない。

 “認めたくない”という感情そのものが、すでに答えを含んでいる気がして、余計に苛立つ。

 

 ハワードは軽い。

 おしゃべりで、調子がよくて、茶化して、笑って、場を回す。

 大事なことほど、冗談みたいに言う。

 そういうところがあるから、メノリは距離を保ってきた。

 

(なのに)

 

 今日のハワードは、逃げなかった。

 見られることを怖がりながら、ちゃんと立っていた。

 自分の声を、自分の身体で作っていた。

 それが、演技である前に“努力”だった。

 

 メノリの胸は、その努力に反応したのかもしれない。

 ヴァイオリンだって同じだ。努力が音を変える。

 努力を軽視する人間は、嫌いだ。

 だから、努力する人間には――少しだけ心が動く。

 

(……私は、そういう人間だ)

 

 自分で認めるのは癪だった。

 けれど、湯の中で嘘はつけない。

 

 メノリは湯面を見つめた。

 湯気が天井へ上り、ライトに滲む。水面が揺れ、天井の光が割れる。

 その割れた光の中に、ハワードの目が浮かぶ。

 

 あの目は、演技の目だった。

 けれど、演技の目で“本物”に触れようとしていた。

 上手く言えないが、あれはただの台詞じゃなかった。

 台詞を言うことで、彼自身が何かを掴もうとしていた。

 

(……愛してる)

 

 その言葉は強い。

 強いからこそ、簡単に扱ってはいけない。

 メノリはそう思っている。

 だからこそ、ハワードが演技でそれを口にしたことが、少しだけ怖かった。

 

(彼は、強い言葉を使うことに慣れようとしている)

 

(それは役者として必要だ)

 

(……でも)

 

 もし、いつか。

 ハワードが演技ではなく、その言葉を本当に言う日が来たら。

 その時、私はどうするのだろう。

 

 メノリは、湯の中で目を開けた。

 胸が少しだけ痛い。

 痛いのに、どこか温かい。

 矛盾していて、面倒で、厄介で――それでも、否定できない。

 

(私は、何を考えている)

 

 自分に呆れた。

 ハワードは“悩める子羊”で、今は前に進もうとしていて、メノリはただそれを見守る立場で――そういう“整理”をしてきたはずだった。

 

 けれど、整理していたのは頭だけだったのかもしれない。

 心は、勝手に別の棚を作っていた。

 

 湯船から上がる前に、メノリはもう一度深く息を吐いた。

 湯気が肺の奥まで入って、ゆっくり出ていく。

 

(演技だ)

 

 改めて、自分に言い聞かせる。

 それは真実だ。

 

(……でも、私が揺れたのも真実だ)

 

 湯の中で、その二つを同じ重さで並べるのは苦しい。

 どちらかを軽くしたくなる。

 けれど、軽くした瞬間に“何か”が崩れる気がした。

 

 メノリは湯を手で掬い、顔にかけた。

 熱い。

 その熱さで、頬の熱をごまかすみたいに。

 

 浴室を出て、髪を拭く。

 鏡に映った自分の顔は、少し赤い。湯のせいだと言い聞かせることはできる。

 でも、胸の熱は、湯のせいだけではない。

 

 部屋に戻ると、ヴァイオリンケースが壁際に立っていた。

 メノリはそれを見て、少しだけ落ち着いた。

 音は嘘をつかない。努力も嘘をつかない。

 だから、自分も嘘をつくのはやめようと思った。

 

(揺れた)

 

(……それだけだ)

 

 今は、その“事実”だけを抱えて眠ればいい。

 答えを出すのは、まだ先でいい。

 

 メノリは髪を乾かしながら、ふと小さく呟いた。

 

「……あいつ、調子に乗るなよ」

 

 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。

 ハワードにか。

 それとも、自分にか。

 

 その曖昧さが、今夜のメノリの心を、まだ少しだけ熱くしていた。

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