ソーラ・デッラ・ルーナ宇宙管理局――その一角にあるシミュレーションルームは、放課後になると別の顔を見せた。
学園の喧騒から切り離された静かな廊下、厚い防音扉、淡い光を落とす天井灯。機械の低い駆動音が常にどこかで鳴っていて、空気には金属と冷却剤の匂いが混ざっている。
リュウジに一度“操縦の癖”を見てもらってから、カオルはここに通うようになった。
最初は週に数回のつもりだったのが、気づけば毎日だ。
学園が終わると真っ先に教室を抜け、誰かに捕まる前にここへ来る。言い訳も、飾りもなく、ただ黙々と。
設定はマリがやる。
再現する航路、気象(というより宇宙環境)条件、トラブルの種類、警報の遅延設定、操縦席の反応の遊び――細部まで調整し、カオルの“弱いところ”だけを狙って突いてくる。
それは意地悪ではなく、訓練だった。宇宙では、優しさは命綱にならない。だからこそ、マリは躊躇しない。
「今日も、いくぞ」
マリが端末を操作し、壁面の表示が切り替わる。
コロニー外縁部からの離脱、軌道投入、途中での小規模デブリ群、そして最後に“判断を迫る状況”が仕込まれているのが、カオルには何となく分かった。
「……了解」
カオルはシミュレーション用の操縦席に腰を下ろし、ハーネスを締めた。
指先がスロットルと姿勢制御の感触を確かめる。
呼吸は落ち着いている。目の奥も冷静だ。
その落ち着きは、武器だった。サヴァイヴで身につけた“生き延びるための冷静さ”が、今は操縦に乗っている。
開始。
画面が広がり、視界が星に変わる。
機体が離脱の加速を開始し、揺れが身体に伝わる。
警報――軽微。
カオルは眉一つ動かさず、最短の操作で修正を入れる。必要以上にハンドルを切らない。焦りがない。
デブリ群が映った時も、あえて“ギリギリ”を攻めず、余裕を残すラインで抜けた。安全と速度のバランスが、回数を重ねるごとに洗練されていく。
途中、エンジン出力の一部低下。
推力が落ちる。いつもなら、心拍が上がる瞬間だ。
だがカオルは、いったん速度計を見たあと、視線を視界全体に広げた。
周囲の物体の相対速度、軌道のズレ、復帰に必要な最小操作。
頭の中で、情報が整理されていくのが見ている側にも分かる。
(……上手い)
マリは心の中で短く呟いた。
“天才”というより、“吸収が異常に早い”。
しかも、吸収した技術を自分の癖と混ぜずに、“使える形”で出してくる。普通はそこに時間がかかる。
カオルはそれを、日々の反復で削っている。
最後のトラブルは、フェイクに見せかけた本命だった。
回避軌道を選ぶか、推力を絞って静かに抜けるか。
一見どちらでも正解だが、選んだ後に“次の危険”が来る。
カオルは選択を迷わない。
そして、次の危険にも迷わない。
結果は、成功。
終了のアナウンスが流れ、表示が通常モードに戻った。
カオルはハーネスを外し、短く息を吐いた。額に薄い汗が浮いている。けれど、乱れはない。
マリは端末をオフにし、控室の棚から紙カップを二つ取り出した。
「ほら」
差し出されたのは温かいお茶。
カップから立つ湯気が、部屋の冷たい空気にすっと溶ける。
「……お疲れ様」
マリが言うと、カオルは受け取って頷いた。
「ありがとうございます」
二人は壁際の簡易ベンチに並んで腰を下ろした。
操縦席に座っている時の張り詰めた空気が、ここでは少しだけほどける。
それでも完全には緩まない。カオルの“仕事モード”は、簡単には外れない。
お茶を一口。
熱が喉を通り、身体の芯に落ちていく。
しばらく沈黙。
その沈黙が気まずくないのが、ここでの時間の不思議なところだった。
やがてカオルが、カップを見つめたまま小さく言う。
「……いつも、ありがとうございます」
マリは目を細めた。
カオルのこの言い方は、照れでも社交でもない。純粋な礼だ。
だからこそ、妙に心に残る。
「気にするな」
マリは短く返し、肩をすくめる。
「上の許可は取ってあるし。未来の宇宙飛行士を育てるのも、宇宙管理局の仕事だ」
その言葉は、カオルを安心させるためのものでもあった。
“毎日来る”というのは、普通なら気が引ける。
だが、カオルは引け目よりも“必要”を優先するタイプだ。だから、支える側が線を引いてやらないといけない時がある。
「……」
カオルは小さく頷き、もう一口お茶を飲んだ。
そして、少し間を置いて、唐突に問いを落とした。
「……リュウジと比較して、俺の操縦はどうですか?」
カップを持つマリの手が、一瞬だけ止まる。
予想していなかったわけではない。
カオルは“比べる”ことに意味を持ちやすい。自分の位置を確かめたがる。
ただ、それを口にしたのが意外だった。
「どうって言われてもな」
マリは困惑したように眉を寄せる。
「リュウジの実力は知ってる。……でも、シミュレーションの操縦と、実戦を比較するには状況が違うだろう」
淡々と、事実だけを返す。
嘘は言わない。過剰に持ち上げもしない。
そのバランスが、マリの“上の人間”らしさだった。
「そうですね」
カオルは苦笑した。
自分でも分かっている。分かっているのに、聞いてしまう。
比べたいわけじゃない、と言いながら、比べたい。
その矛盾が、自分の中でうるさく鳴る。
マリは、カオルの横顔をちらりと見た。
そして心の中で思う。
(……それでも、成長速度は異常だ)
最初に来た時は、操作が固かった。安全寄りでもなく危険寄りでもなく、“迷いがそのまま手に出ている”操縦だった。
今は違う。選択が速い。修正が少ない。恐怖を押し殺すのではなく、“恐怖が入り込む隙間”を作らない。
それは、カオルの唯一の武器かもしれない。
冷静さ。
心の揺れを操縦に乗せない。
――それが、どれだけ危うい武器かも含めて。
マリは、話題を少しだけ変えるように言った。
「リュウジと比較したいなら……再来週になら、ペルシアさんがこっちに来る」
カオルの目が、わずかに動いた。
「ペルシアさんなら、リュウジとの操縦経験も長い。立ち会ってもらうか?」
カオルはカップを握ったまま、少し考える素振りを見せた。
ペルシア――宇宙管理局の中でも“癖の強い”人間だ。
言葉は遠慮しない。評価も容赦しない。
でも、必要だ。
「……タイミングが合えば、お願いしたい」
カオルの声は静かだった。
だが、その奥に確かに覚悟がある。
マリはそれを聞いて、頷いた。
「分かった。ペルシアさんには話をしておこう」
「……頼みます」
「任せろ」
マリは立ち上がり、空になったカップを回収しながら言った。
「それと、今日のログは私が整理しておく。明日は“判断遅延”を少し上げる。慣れてきた頃に、足元をすくわれるからな」
カオルは小さく息を吐いて、口元をわずかに引き上げた。
「……容赦ないですね」
「宇宙はもっと容赦ない」
マリが言い切ると、カオルは短く「そうですね」と返す。
そのやり取りが、どこか心地よかった。
窓の外では夕暮れがコロニーの街を薄く染めている。
学園の時間はもう終わっているのに、ここでは“明日”に向けての時間がまだ続いている。
カオルはカップを持った手を膝の上に置き、視線を正面に固定した。
再来週、ペルシア。
“比較”ではなく、“確認”。
自分がどこまで届いているのか。どこが足りないのか。
そして――リュウジに見せたくない弱さが、まだ操縦席のどこかに残っていないか。
マリは扉の前で振り返り、いつもの軽い口調で言った。
「じゃあ、今日はここまで。無理するなよ」
「無理はしていません」
カオルは即答した。
その言葉に、マリは苦笑する。
「……そういうところだ」
扉が閉まる。
残ったカオルは、静かな部屋の中でひとり、お茶の温度が下がっていくのを感じながら、次のシミュレーションを頭の中で反復し始めていた。
ーーーー
カオルが帰ったあとも、シミュレーションルームの空気はすぐには冷えなかった。
椅子の背に残る体温、操作パネルの微かな熱、そしてモニターに焼き付いた軌道線の残像。マリは端末を抱えたまま、ログのタイムラインを指でなぞった。
――今日も、修正が少ない。
――判断が速い。
――迷いが“操作”に出ていない。
それがどれだけ稀なことか、マリはよく分かっている。
宇宙管理局で見てきた訓練生は何十人もいるが、伸びる者ほど最初は“荒い”。勢いで突破したり、恐怖で縮こまったり、無駄な入力が多かったりする。
カオルは違う。伸びるのに、静かだ。伸びるのに、波がない。
それは才能の形としては、美しい――だが同時に、ひどく危うい。
静かすぎる成長は、何かを押し殺して成立していることがある。
マリはログに添付するメモ欄へ短く打ち込んだ。
『判断速度:良
回避線:余裕あり
出力低下時の復帰:最適
情動の揺れ:観測なし(逆に要注意)』
“逆に要注意”の一文に、マリは一瞬だけ指を止めた。
余計なお世話かもしれない。だが、宇宙管理局の仕事は余計なお世話をすることでもある。
事故が起きてから「気づかなかった」では済まない。
マリは端末の画面を閉じ、廊下へ出た。
夕方の管理局は人が少ない。だがゼロではない。別室では別の班が夜間航行のチェックをしていて、誰かが無線で短い報告を繰り返している。
マリは自室――と言っても簡素な机と棚があるだけの小部屋――へ戻り、椅子に座った。
そして、端末の連絡先を開く。
“ペルシア”。
カオルに「再来週なら来る」と言ってしまったのは、半分は確度の高い情報だった。上から流れてきた予定表に、その名前が載っていた。
ただ――予定表は、予定表だ。
宇宙管理局の予定ほど当てにならないものもない。現場は、いつでも予定を裏切る。
マリは喉を鳴らし、呼び出しのボタンを押した。
数回のコール音。
繋がるまでの間、マリは言葉を整える。相手が誰であれ、敬意を欠けば会話が崩れる。まして相手はペルシアだ。崩れた会話は、すぐに火花になる。
『――はい?』
低い電子ノイズの向こうで、ペルシアの声が聞こえた。いつもの調子だ。忙しさをごまかさない声。余裕がある時ほど、ペルシアは軽口を叩く。今の声には、刃が混ざっている。
「お疲れさまです、ペルシアさん。マリです」
『……珍しいじゃない。何、トラブル? それとも恋愛相談?』
「いえ、どちらでもありません。業務の件でご連絡しました」
『つまんない。……で?』
ペルシアの即答はいつも容赦がない。
マリは姿勢を正し、言葉を丁寧に積み上げた。
「再来週、こちら――ソーラ・デッラ・ルーナへお越しになるご予定があると伺っておりますが、現在もその予定でお変わりありませんでしょうか」
『……あー。あれね』
向こうで紙をめくる音がする。誰かに指示する短い声も混ざった。
ペルシアは今、どこかの会議の合間か、現場の詰所か。落ち着いて電話できる環境ではなさそうだった。
『予定は入ってた。入ってたけど、たぶん崩れるわ』
「崩れる、というのは……」
『忙しいのよ。監査対応が重なってる。訓練計画の見直しも。あと面倒な事故報告が一本。』
ペルシアの声が少しだけ低くなる。面倒の種類が透けて見えた。
マリは短く息を吸い、用件の核心へ入る。
「承知しました。その上で、もしお時間が確保できるようでしたら……カオルの操縦シミュレーションを一度、見ていただけないかと考えております」
『カオル? あのカオル?』
「はい。学園の放課後に、こちらのシミュレーションルームへ通っており、操縦の癖の確認と、訓練の蓄積を続けています。伸び方が非常に早く、評価の視点を増やしたいと判断しました」
『評価の視点って、マリが見てるんでしょ?』
「はい。ただ……私はリュウジの操縦と並べて見る経験が、ペルシアさんほど多くありません。カオル自身も、比較というより“確認”をしたがっています」
『……ふぅん』
ペルシアが鼻で笑った気配がした。
あざ笑うというより、状況を飲み込んだ時の癖だ。
『で、あたしに“立ち会い”を頼む、と』
「はい。可能であれば、再来週の来訪時に」
『無理』
返事は、早すぎるほど早かった。
マリは一瞬、言葉が止まる。電話越しでも、はっきりと“断る”圧がある。
「……差し支えなければ、理由を伺ってもよろしいでしょうか」
『理由? 忙しいって言ったでしょ。時間が取れない。取れたとしても“見るだけ”じゃ済まないじゃない。あたしが立ち会ったら、あんたもカオルも、結論を求める。評価を書けってなる。責任が乗る。今、その責任を増やす余裕がないの』
言い方はぶっきらぼうだが、内容は合理的だった。
ペルシアは単に面倒だから断っているのではない。自分が関わることで起きる連鎖を、瞬時に計算して切っている。
「承知しました。ただ、カオルの訓練は――」
『分かってるわよ。未来の宇宙飛行士、でしょ? マリの口からその言葉が出るってことは、カオルが本気なんでしょうね』
ペルシアの声がほんの少しだけ柔らかくなった。
それが逆に、断りが本気だという証拠だった。
「……はい。本気です。だからこそ、私としては一度、外部の目を入れたいのです」
『外部って言っても、あたしは外部じゃないけどね』
「ええ。承知しております。ただ、現場でリュウジと長く組んだ方の視点は貴重です」
『褒めても無理なものは無理』
ぴしゃり、と切られた。
マリは端末を握る手に力が入るのを感じ、ゆっくり緩めた。ここで押せば押すほど、ペルシアは引く。
それでも、マリは諦めきれず、代案を探す。
「では……短時間でも構いません。開始から終了までではなく、特定シナリオの一部だけでも――」
『無理って言ってるでしょ』
ペルシアの声が再び鋭くなる。
向こうで誰かが「ペルシアさん、次です」と呼ぶ声がした。会議の呼び出し。時間がない。
『マリ。あんた、今“カオルのため”って顔してるけど、たぶん半分は“自分の安心”のためよ。責任を分散したい。分かる。分かるけど、今あたしは受けられない』
「……」
痛いところを突かれた。
否定はできない。マリはカオルを見ている。見ているからこそ、背負いたくない不安がある。
それをペルシアは見抜いている。
『どうしてもって言うなら、ログだけ送って。見る“かもしれない”。でも約束はしない。こっちは明日どうなるかも分からないの』
「ログの送付ですね。承知いたしました。可能な範囲で――」
『“可能な範囲で”って言い方、あんたらしい。そういうところ嫌いじゃないけど、今は時間ない。切るわよ』
「お忙しいところ、失礼いたしました。ありがとうございます」
『……あ、マリ』
「はい」
『カオルに言っときなさい。“比較”に囚われると操縦が鈍る。誰かと比べて自分を測るのは、地上だけでやれって。宇宙は、比較の暇があったら確認しろ。自分の“次の一手”を』
その言葉は、ペルシアらしく乱暴で、でも的確だった。
マリは胸の奥で小さく頷く。
「承知いたしました。伝えます」
『じゃ』
通話が切れた。
しん、と静かな部屋に戻る。端末の画面だけが淡く光っている。
マリはしばらく、そのまま動かなかった。
断られた事実そのものより、ペルシアの指摘が刺さっている。
(……自分の安心のため)
確かに、そうだ。
マリはカオルの成長を喜びながらも、同時に怖がっている。成長の速さの裏にある“何か”を見落としたくない。
その恐れは責任感でもあるが、逃げでもある。
マリは端末を開き、ログ送付の準備を始めた。
必要な部分を抽出し、注釈を付ける。特に、判断の速さと、情動の揺れが見えない点。そこだけは、ちゃんと記録しておくべきだ。
最後に、カオルへ送る短いメッセージを作った。
“ペルシアが立ち会えない”という事実を、そのまま投げれば、カオルは黙って飲み込むだろう。だが黙って飲み込むことこそ、危うい時がある。
マリは文面を何度か消して、書き直した。
そして結局、シンプルにまとめる。
『再来週の立ち会いは難しい。ペルシアさんは多忙。
代わりにログを送る。返答は約束できないが、見てもらえる可能性はある。
それと――比較に囚われるな。宇宙では自分の次の一手を確認しろ。』
送信。
小さな通知音が鳴り、メッセージが飛んでいく。
マリは背もたれに体を預け、天井を見上げた。
きっとカオルは「分かりました」と返すだろう。いつも通りに。
それでも、今日だけは――その“いつも通り”が少しだけ心配だった。
窓の外では、コロニーの夜が静かに降りてきていた。
ーーーー
次の日も、放課後になるとカオルは迷いなく宇宙管理局へ足を向けた。
学園の廊下のざわめきが背中で遠ざかり、管理局の無機質な空気が肌にまとわりつく。ここの静けさは、嫌いじゃない。余計な言葉も、余計な視線も、全部削ぎ落とされていく。残るのは“次の一手”だけだ。
受付を通り、いつもの通路を曲がると、マリが端末を片手に待っていた。昨日と同じ場所、昨日と同じ姿勢。けれど、視線だけは昨日より鋭い。ログ整理を終えた人間の目をしている。
「来たな」
「……来た」
カオルは短く答え、シミュレーションルームの扉の前で立ち止まった。
昨日、マリから送られてきたメッセージが頭の中をよぎる。立ち会いは難しい。ログを送る。返答は約束できない。――そして、最後の一行。
カオルは息を整え、マリへ視線を向けた。
「比較に囚われるな。宇宙では自分の次の一手を確認しろ」
言葉を、一つずつ噛むように口にした。
それはただの忠告ではなく、刃物みたいにまっすぐな一文だった。
「……ペルシアの言葉ですね」
マリは一瞬だけ眉を動かし、そして頷いた。
「そうだ」
肯定は短い。余計な感情を足さないのも、マリらしい。
カオルは口元を僅かに緩めた。どこか苦笑に近い。
「……あいつらしい」
“あいつ”と呼ぶのが無礼だと分かっていても、口から出た。ペルシアの口調と同じ温度が、その言葉にはあった。
マリは咎めない。ただ、端末を掲げて淡々と言う。
「今日の設定は少し上げる。判断遅延は昨日より重い。視界の情報も減らす」
「……了解」
カオルは扉を開け、シミュレーションルームへ入った。
操縦席はいつも通り、冷たい。金属の匂いと、微かなオゾン臭。ハーネスを締める音が、部屋に乾いた響きを残す。
マリが操作端末を叩く。
壁面の表示が切り替わり、コロニー外縁部の映像が広がった。
「開始する。コロニーから火星航路。途中で“交差”を入れる」
「交差……隕石群か」
「そうだ。あとはやってからのお楽しみ」
マリが言い、最後のチェックを終える。
――開始。
視界が星に変わった。
機体が静かに加速し、重力に似た圧が体にかかる。ここまでは“普通”だ。普通に見せて、普通じゃないものを混ぜてくるのがマリのやり方だと、カオルは知っている。
そして、来た。
軌道表示に赤い線が走る。警告音。
隕石群との交差予測。回避ウィンドウは狭い。しかも遅延――入力してから反映されるまでの間が長い。焦ると手が先に動き、機体が後から追いついて暴れる。
(比較に囚われるな)
頭の中で言葉が響く。
比べるな。リュウジの癖と、自分の癖を並べるな。誰かの操縦を思い浮かべるな。
今この瞬間に必要なのは、次の一手を確認すること。
カオルは、視界を狭めた。
情報を全部拾おうとするのをやめる。必要なものだけを掬い上げる。相対速度、距離、回避角、推力の余裕。
入力は最小限。
反映遅延を織り込んで、先に先に手を置く。
隕石が視界を横切る。
警告音が重なる。
だが、カオルの指はぶれない。手首の角度も、呼吸のリズムも、一定だ。
回避。
再回避。
回避の途中で、別の群れが横から差し込んでくる。
ここで焦ると終わる。
“次の一手”を、確認する。
カオルは出力を絞った。速度を殺すのではない。必要な分だけ落とし、回避線を少しだけ膨らませる。
その判断は遅延に強い。入力が遅れても、機体が暴れにくい。
隕石群を抜けた。
視界がひらけ、警告音がひとつ、またひとつと止んでいく。
マリの側から、小さく息を吐く音がした。感情を出さないマリが、無意識に息を抜くほどの操縦だった。
最後に仕込まれていたトラブルは、エンジンの一部不調。
推力低下。航路の微妙なズレ。
カオルは修正を入れ、火星航路へ再収束させる。余計な操作はしない。結果だけを取る。
――終了。
室内に終了アナウンスが流れ、映像が暗転した。
カオルはハーネスを外し、背中を軽く動かした。汗はある。だが、手の震えはない。心臓も落ち着いている。
マリが端末を置き、紙カップを二つ持ってきた。
湯気が立つ。お茶だ。
「……お疲れ」
「ありがとう」
二人は並んで座り、カップを傾けた。
しばらく、言葉はない。沈黙が、音として心地いい。
マリが、端末のログ画面を見ながら口を開きかけた。
「さっきの回避線だが――」
言いかけた、その時だった。
ガチャ、と扉の開閉音。
シミュレーションルームの重い扉が、外側から押し開かれた。
「いい腕だ」
低い声。乾いた評価。
マリもカオルも、同時に顔を上げた。
扉の向こうに立っていたのは、見覚えのある男だった。
背が高い。姿勢がいい。どこか“現場”の匂いがする。視線が、鋭い。
そして何より、カオルが最初に感じ取ったのは――同類の圧だった。
「……ブライアン」
カオルが名前を口にすると、男は口角を上げるでもなく、ただ頷いた。
リュウジと同じS級パイロット。
――ブライアン。
マリは反射的に立ち上がり、相手の足元から視線を引き上げた。
西の未探索領域で消息不明になり、ラスぺランツァのメンバーで救出にいった。消息不明時に腰の骨折。復帰まで時間がかかると言われていたはずだ。
「腰の骨折は大丈夫なんですか?」
マリの声は自然と丁寧になった。
ブライアンは軽く肩を回し、痛みを確かめるみたいに息を吐いた。
「ああ。回復は早い方だ」
平然と言う。
その平然さが、逆に怖い。痛いはずだ。無理をしている気配が薄すぎる。
「……どうしてここに」
カオルが問いかけると、ブライアンは視線をマリに向け、次いでカオルへ戻した。
「用があるのは、お前だ。カオル」
空気が、一段冷えた気がした。
カオルは背筋を伸ばし、真正面から受け止める。
「理由は?」
ブライアンは短く息を吐き、言った。
「ペルシアに頼まれた」
マリの喉が小さく鳴った。
さっきまで“忙しいから無理”と断っていたペルシアが、別の手を回してきた――その事実が、マリの頭の中で素早く組み上がる。
「……ペルシアさんが?」
マリが確認するように言うと、ブライアンは淡々と頷いた。
「ああ。本人は来れない。だから代わりに“目”を寄越せってさ」
そしてブライアンは、室内を一瞥した。操縦席、ログ端末、カオルのカップ。
視線が最後に止まったのは、カオルの目だった。
「比較したいんだろ?」
言い当てられて、カオルは一瞬だけ黙った。
マリも、息を止める。
ブライアンは続ける。
「だが、比較の仕方を間違えると――宇宙で死ぬ」
その言葉は、ペルシアの忠告と同じ方向を向いていた。
そして、言い方だけが違う。より直截で、より冷たい。
マリは唇を引き結び、カオルはカップを置いた。
部屋の中の空気が、訓練の空気に戻る。お茶の時間は終わった。
ブライアンが顎で操縦席を示した。
「もう一回やれ。今度は俺が見る」
カオルは短く頷いた。
「……分かった」
マリは端末へ手を伸ばしながら、胸の奥で思った。
ペルシアは、ただ断ったわけじゃない。
“最適な刃”を、代わりに寄越してきた。
そしてその刃は、今、目の前に立っている。
ーーーー
ブライアンが腕を組んで壁際に立つと、シミュレーションルームの空気が一段重くなった。
マリは端末の前に戻り、設定画面を開いたまま手を止めている。普段なら淡々と指を動かすのに、今日は無意識に様子をうかがっていた。
「準備できたら、始めるぞ」
ブライアンの声は低く、短い。命令というより“確認”に近いのに、逆らう余地がない圧がある。
カオルは操縦席に座り、ハーネスを締め直した。肩紐が胸に食い込む感覚が、妙に現実味を増す。
「……いつも通りでいいのか?」
「いつも通りでいい。だが――」
ブライアンは一瞬、目を細めた。
「“見られてる”って意識は捨てろ。操縦は見せるもんじゃない。生き残るためにやる」
「分かってる」
カオルは短く返した。言い返す必要もない。ブライアンの言葉は正しいし、カオル自身も同じ結論に辿り着いている。
マリが喉を鳴らし、端末を操作する。
「開始します。航路はコロニー外縁から火星。途中、交差――隕石群。遅延設定あり」
「いい」
ブライアンの返答に合わせるように、開始アナウンスが流れた。
視界が星に変わる。
機体が加速し、人工の揺れが身体に伝わる。遅延のせいで、入力と反応の間にわずかな“間”が生まれる。その間が、人を焦らせる。焦りは、操縦を崩す。
カオルは呼吸を一定に保った。
視界の端に赤い警告。交差予測。隕石群が迫ってくる。
――来た。
カオルは最小の操作で姿勢を整え、回避線を引く。ギリギリを攻めない。余裕を残す。遅延がある以上、余裕が命綱だ。
隕石が視界を横切り、影が走る。警告音が増える。だが、カオルの指先は静かだった。
回避。
再回避。
さらにもう一段、密度の高い群れ。
ここで“派手”な操作をすれば、機体は遅れて暴れる。
カオルは出力を絞り、速度を落とし、回避角をわずかに広げた。綺麗な曲線。危険を遠ざけるというより、自分の行動の余白を増やす操縦だ。
抜けた。
警告が止み、視界がひらける。
マリが息を呑む気配がした。
そして――壁際で見守っていたブライアンが、ほんの僅かに口元を歪めた。
笑ったのか。嘲ったのか。
どちらとも取れる、微妙な歪みだった。だが、少なくとも“退屈”ではない顔だ。
最後にエンジンの一部不調。推力低下。微妙なズレ。
カオルは焦らず、必要な分だけ修正を入れて航路へ戻す。余計な入力はしない。結果だけを取りにいく。
――終了。
映像が暗転し、室内灯が少し明るくなった。
カオルはハーネスを外して立ち上がり、肩を軽く回した。汗はある。だが、震えはない。
ブライアンは操縦席から数歩離れた位置で、カオルを見たまま言った。
「……悪くない」
短い評価。だが、その一言が逆に重い。
マリは端末に視線を落としたまま、メモを打つ手を再開した。カオルの耳には、キーを叩く音がやけに大きく聞こえる。
ブライアンはふっと息を吐き、口元の歪みを消さないまま、カオルに問いを投げた。
「お前、養成学校に入るつもりか?」
「ああ。来年から編入するつもりだ」
「養成学校は?」
「どこか受かった所だ」
カオルの答えは簡潔だ。
まだ“どこへ行くか”は確定していない。受かった場所の中から選ぶ段階だし、自分が選べる立場だとも思っていない。
ただ、行く。進む。それだけは決まっている。
ブライアンは小さく鼻で笑った。
そして、次の瞬間、空気の温度を変えるように言った。
「なら、俺が運営する学校に来い」
マリの手が止まった。
カップを置く音さえ聞こえそうな静けさが落ちる。
「……は?」
カオルが眉を動かすと、ブライアンは平然と続けた。
「入学金もいらん。特待生としてだ」
その言い方は“提案”なのに、拒否を想定していない。
カオルは一瞬、言葉が出なかった。
ブライアンの脳裏に、別の声が浮かぶ。
――次に台頭してくるパイロットが現れて、時代の舵を渡す。
リュウジが、どこか乾いた笑みで言った言葉。
(……まさか、今ここでそれを見るとはな)
ブライアンは胸の奥で舌打ちに近い感情を噛み殺した。
気に食わない。だが、嫌いじゃない。
自分が積み上げてきたものを、次の世代が奪っていく感覚。苦いのに、どこか誇らしい。
ブライアンは、カオルを真っ直ぐ見据えた。
「俺が必ず、リュウジ以上のパイロットにしてやる」
言葉に嘘がない。
自信というより、執念の音がした。
それは“教える側”の目ではなく、“同じ空を競う側”の目でもある。
カオルはブライアンの視線を受け止めたまま、しばらく黙った。
リュウジ以上――その響きに、胸の奥がわずかに揺れる。
比べるな、と言われたばかりなのに、比べる言葉が目の前に置かれる。
だが、カオルは“比較”で動かなかった。
必要なのは、次の一手の確認だ。自分が進む道を、より確かなものにする選択肢が目の前にあるだけだ。
マリは言葉を挟みかけた。
しかし、カオルの横顔を見て、黙った。ここは、本人が決める場面だ。
カオルは一度だけ呼吸を深くし、そして――ゆっくりと頷いた。
その頷きは、強くも弱くもない。柔らかいのに、芯がある。
「……分かった。話は聞く」
ブライアンが口元をさらに歪める。今度は確かに“笑い”だった。
勝った笑いではない。面白いものを見つけた時の笑いだ。
「いい返事だ。今度、詳細を送る。逃げるなよ」
「逃げない」
カオルが即答すると、ブライアンは肩を軽くすくめた。
「なら決まりだ」
マリはようやく息を吐いた。
ペルシアが来られない代わりに寄越した“目”は、ただの目じゃない。
未来を引っ張るための、鋭い刃だ。
そしてその刃が、カオルを“次”へ押し出した。
カオルはまだ知らない。
この頷きが、彼の一年を――いや、その先の人生を決める一歩になることを。