サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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宇宙飛行士

 ソーラ・デッラ・ルーナ宇宙管理局――その一角にあるシミュレーションルームは、放課後になると別の顔を見せた。

 学園の喧騒から切り離された静かな廊下、厚い防音扉、淡い光を落とす天井灯。機械の低い駆動音が常にどこかで鳴っていて、空気には金属と冷却剤の匂いが混ざっている。

 

 リュウジに一度“操縦の癖”を見てもらってから、カオルはここに通うようになった。

 最初は週に数回のつもりだったのが、気づけば毎日だ。

 学園が終わると真っ先に教室を抜け、誰かに捕まる前にここへ来る。言い訳も、飾りもなく、ただ黙々と。

 

 設定はマリがやる。

 再現する航路、気象(というより宇宙環境)条件、トラブルの種類、警報の遅延設定、操縦席の反応の遊び――細部まで調整し、カオルの“弱いところ”だけを狙って突いてくる。

 それは意地悪ではなく、訓練だった。宇宙では、優しさは命綱にならない。だからこそ、マリは躊躇しない。

 

「今日も、いくぞ」

 

 マリが端末を操作し、壁面の表示が切り替わる。

 コロニー外縁部からの離脱、軌道投入、途中での小規模デブリ群、そして最後に“判断を迫る状況”が仕込まれているのが、カオルには何となく分かった。

 

「……了解」

 

 カオルはシミュレーション用の操縦席に腰を下ろし、ハーネスを締めた。

 指先がスロットルと姿勢制御の感触を確かめる。

 呼吸は落ち着いている。目の奥も冷静だ。

 その落ち着きは、武器だった。サヴァイヴで身につけた“生き延びるための冷静さ”が、今は操縦に乗っている。

 

 開始。

 

 画面が広がり、視界が星に変わる。

 機体が離脱の加速を開始し、揺れが身体に伝わる。

 警報――軽微。

 カオルは眉一つ動かさず、最短の操作で修正を入れる。必要以上にハンドルを切らない。焦りがない。

 デブリ群が映った時も、あえて“ギリギリ”を攻めず、余裕を残すラインで抜けた。安全と速度のバランスが、回数を重ねるごとに洗練されていく。

 

 途中、エンジン出力の一部低下。

 推力が落ちる。いつもなら、心拍が上がる瞬間だ。

 

 だがカオルは、いったん速度計を見たあと、視線を視界全体に広げた。

 周囲の物体の相対速度、軌道のズレ、復帰に必要な最小操作。

 頭の中で、情報が整理されていくのが見ている側にも分かる。

 

(……上手い)

 

 マリは心の中で短く呟いた。

 “天才”というより、“吸収が異常に早い”。

 しかも、吸収した技術を自分の癖と混ぜずに、“使える形”で出してくる。普通はそこに時間がかかる。

 カオルはそれを、日々の反復で削っている。

 

 最後のトラブルは、フェイクに見せかけた本命だった。

 回避軌道を選ぶか、推力を絞って静かに抜けるか。

 一見どちらでも正解だが、選んだ後に“次の危険”が来る。

 

 カオルは選択を迷わない。

 そして、次の危険にも迷わない。

 結果は、成功。

 

 終了のアナウンスが流れ、表示が通常モードに戻った。

 カオルはハーネスを外し、短く息を吐いた。額に薄い汗が浮いている。けれど、乱れはない。

 マリは端末をオフにし、控室の棚から紙カップを二つ取り出した。

 

「ほら」

 

 差し出されたのは温かいお茶。

 カップから立つ湯気が、部屋の冷たい空気にすっと溶ける。

 

「……お疲れ様」

 

 マリが言うと、カオルは受け取って頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

 二人は壁際の簡易ベンチに並んで腰を下ろした。

 操縦席に座っている時の張り詰めた空気が、ここでは少しだけほどける。

 それでも完全には緩まない。カオルの“仕事モード”は、簡単には外れない。

 

 お茶を一口。

 熱が喉を通り、身体の芯に落ちていく。

 

 しばらく沈黙。

 その沈黙が気まずくないのが、ここでの時間の不思議なところだった。

 

 やがてカオルが、カップを見つめたまま小さく言う。

 

「……いつも、ありがとうございます」

 

 マリは目を細めた。

 カオルのこの言い方は、照れでも社交でもない。純粋な礼だ。

 だからこそ、妙に心に残る。

 

「気にするな」

 

 マリは短く返し、肩をすくめる。

 

「上の許可は取ってあるし。未来の宇宙飛行士を育てるのも、宇宙管理局の仕事だ」

 

 その言葉は、カオルを安心させるためのものでもあった。

 “毎日来る”というのは、普通なら気が引ける。

 だが、カオルは引け目よりも“必要”を優先するタイプだ。だから、支える側が線を引いてやらないといけない時がある。

 

「……」

 

 カオルは小さく頷き、もう一口お茶を飲んだ。

 

 そして、少し間を置いて、唐突に問いを落とした。

 

「……リュウジと比較して、俺の操縦はどうですか?」

 

 カップを持つマリの手が、一瞬だけ止まる。

 予想していなかったわけではない。

 カオルは“比べる”ことに意味を持ちやすい。自分の位置を確かめたがる。

 ただ、それを口にしたのが意外だった。

 

「どうって言われてもな」

 

 マリは困惑したように眉を寄せる。

 

「リュウジの実力は知ってる。……でも、シミュレーションの操縦と、実戦を比較するには状況が違うだろう」

 

 淡々と、事実だけを返す。

 嘘は言わない。過剰に持ち上げもしない。

 そのバランスが、マリの“上の人間”らしさだった。

 

「そうですね」

 

 カオルは苦笑した。

 自分でも分かっている。分かっているのに、聞いてしまう。

 比べたいわけじゃない、と言いながら、比べたい。

 その矛盾が、自分の中でうるさく鳴る。

 

 マリは、カオルの横顔をちらりと見た。

 そして心の中で思う。

 

(……それでも、成長速度は異常だ)

 

 最初に来た時は、操作が固かった。安全寄りでもなく危険寄りでもなく、“迷いがそのまま手に出ている”操縦だった。

 今は違う。選択が速い。修正が少ない。恐怖を押し殺すのではなく、“恐怖が入り込む隙間”を作らない。

 

 それは、カオルの唯一の武器かもしれない。

 冷静さ。

 心の揺れを操縦に乗せない。

 ――それが、どれだけ危うい武器かも含めて。

 

 マリは、話題を少しだけ変えるように言った。

 

「リュウジと比較したいなら……再来週になら、ペルシアさんがこっちに来る」

 

 カオルの目が、わずかに動いた。

 

「ペルシアさんなら、リュウジとの操縦経験も長い。立ち会ってもらうか?」

 

 カオルはカップを握ったまま、少し考える素振りを見せた。

 ペルシア――宇宙管理局の中でも“癖の強い”人間だ。

 言葉は遠慮しない。評価も容赦しない。

 でも、必要だ。

 

「……タイミングが合えば、お願いしたい」

 

 カオルの声は静かだった。

 だが、その奥に確かに覚悟がある。

 マリはそれを聞いて、頷いた。

 

「分かった。ペルシアさんには話をしておこう」

 

「……頼みます」

 

「任せろ」

 

 マリは立ち上がり、空になったカップを回収しながら言った。

 

「それと、今日のログは私が整理しておく。明日は“判断遅延”を少し上げる。慣れてきた頃に、足元をすくわれるからな」

 

 カオルは小さく息を吐いて、口元をわずかに引き上げた。

 

「……容赦ないですね」

 

「宇宙はもっと容赦ない」

 

 マリが言い切ると、カオルは短く「そうですね」と返す。

 そのやり取りが、どこか心地よかった。

 

 窓の外では夕暮れがコロニーの街を薄く染めている。

 学園の時間はもう終わっているのに、ここでは“明日”に向けての時間がまだ続いている。

 

 カオルはカップを持った手を膝の上に置き、視線を正面に固定した。

 再来週、ペルシア。

 “比較”ではなく、“確認”。

 自分がどこまで届いているのか。どこが足りないのか。

 そして――リュウジに見せたくない弱さが、まだ操縦席のどこかに残っていないか。

 

 マリは扉の前で振り返り、いつもの軽い口調で言った。

 

「じゃあ、今日はここまで。無理するなよ」

 

「無理はしていません」

 

 カオルは即答した。

 その言葉に、マリは苦笑する。

 

「……そういうところだ」

 

 扉が閉まる。

 残ったカオルは、静かな部屋の中でひとり、お茶の温度が下がっていくのを感じながら、次のシミュレーションを頭の中で反復し始めていた。

 

ーーーー

 

 カオルが帰ったあとも、シミュレーションルームの空気はすぐには冷えなかった。

 椅子の背に残る体温、操作パネルの微かな熱、そしてモニターに焼き付いた軌道線の残像。マリは端末を抱えたまま、ログのタイムラインを指でなぞった。

 

 ――今日も、修正が少ない。

 ――判断が速い。

 ――迷いが“操作”に出ていない。

 

 それがどれだけ稀なことか、マリはよく分かっている。

 宇宙管理局で見てきた訓練生は何十人もいるが、伸びる者ほど最初は“荒い”。勢いで突破したり、恐怖で縮こまったり、無駄な入力が多かったりする。

 カオルは違う。伸びるのに、静かだ。伸びるのに、波がない。

 それは才能の形としては、美しい――だが同時に、ひどく危うい。

 

 静かすぎる成長は、何かを押し殺して成立していることがある。

 マリはログに添付するメモ欄へ短く打ち込んだ。

 

『判断速度:良

 回避線:余裕あり

 出力低下時の復帰:最適

 情動の揺れ:観測なし(逆に要注意)』

 

 “逆に要注意”の一文に、マリは一瞬だけ指を止めた。

 余計なお世話かもしれない。だが、宇宙管理局の仕事は余計なお世話をすることでもある。

 事故が起きてから「気づかなかった」では済まない。

 

 マリは端末の画面を閉じ、廊下へ出た。

 夕方の管理局は人が少ない。だがゼロではない。別室では別の班が夜間航行のチェックをしていて、誰かが無線で短い報告を繰り返している。

 マリは自室――と言っても簡素な机と棚があるだけの小部屋――へ戻り、椅子に座った。

 

 そして、端末の連絡先を開く。

 “ペルシア”。

 

 カオルに「再来週なら来る」と言ってしまったのは、半分は確度の高い情報だった。上から流れてきた予定表に、その名前が載っていた。

 ただ――予定表は、予定表だ。

 宇宙管理局の予定ほど当てにならないものもない。現場は、いつでも予定を裏切る。

 

 マリは喉を鳴らし、呼び出しのボタンを押した。

 数回のコール音。

 繋がるまでの間、マリは言葉を整える。相手が誰であれ、敬意を欠けば会話が崩れる。まして相手はペルシアだ。崩れた会話は、すぐに火花になる。

 

『――はい?』

 

 低い電子ノイズの向こうで、ペルシアの声が聞こえた。いつもの調子だ。忙しさをごまかさない声。余裕がある時ほど、ペルシアは軽口を叩く。今の声には、刃が混ざっている。

 

「お疲れさまです、ペルシアさん。マリです」

 

『……珍しいじゃない。何、トラブル? それとも恋愛相談?』

 

「いえ、どちらでもありません。業務の件でご連絡しました」

 

『つまんない。……で?』

 

 ペルシアの即答はいつも容赦がない。

 マリは姿勢を正し、言葉を丁寧に積み上げた。

 

「再来週、こちら――ソーラ・デッラ・ルーナへお越しになるご予定があると伺っておりますが、現在もその予定でお変わりありませんでしょうか」

 

『……あー。あれね』

 

 向こうで紙をめくる音がする。誰かに指示する短い声も混ざった。

 ペルシアは今、どこかの会議の合間か、現場の詰所か。落ち着いて電話できる環境ではなさそうだった。

 

『予定は入ってた。入ってたけど、たぶん崩れるわ』

 

「崩れる、というのは……」

 

『忙しいのよ。監査対応が重なってる。訓練計画の見直しも。あと面倒な事故報告が一本。』

 

 ペルシアの声が少しだけ低くなる。面倒の種類が透けて見えた。

 マリは短く息を吸い、用件の核心へ入る。

 

「承知しました。その上で、もしお時間が確保できるようでしたら……カオルの操縦シミュレーションを一度、見ていただけないかと考えております」

 

『カオル? あのカオル?』

 

「はい。学園の放課後に、こちらのシミュレーションルームへ通っており、操縦の癖の確認と、訓練の蓄積を続けています。伸び方が非常に早く、評価の視点を増やしたいと判断しました」

 

『評価の視点って、マリが見てるんでしょ?』

 

「はい。ただ……私はリュウジの操縦と並べて見る経験が、ペルシアさんほど多くありません。カオル自身も、比較というより“確認”をしたがっています」

 

『……ふぅん』

 

 ペルシアが鼻で笑った気配がした。

 あざ笑うというより、状況を飲み込んだ時の癖だ。

 

『で、あたしに“立ち会い”を頼む、と』

 

「はい。可能であれば、再来週の来訪時に」

 

『無理』

 

 返事は、早すぎるほど早かった。

 マリは一瞬、言葉が止まる。電話越しでも、はっきりと“断る”圧がある。

 

「……差し支えなければ、理由を伺ってもよろしいでしょうか」

 

『理由? 忙しいって言ったでしょ。時間が取れない。取れたとしても“見るだけ”じゃ済まないじゃない。あたしが立ち会ったら、あんたもカオルも、結論を求める。評価を書けってなる。責任が乗る。今、その責任を増やす余裕がないの』

 

 言い方はぶっきらぼうだが、内容は合理的だった。

 ペルシアは単に面倒だから断っているのではない。自分が関わることで起きる連鎖を、瞬時に計算して切っている。

 

「承知しました。ただ、カオルの訓練は――」

 

『分かってるわよ。未来の宇宙飛行士、でしょ? マリの口からその言葉が出るってことは、カオルが本気なんでしょうね』

 

 ペルシアの声がほんの少しだけ柔らかくなった。

 それが逆に、断りが本気だという証拠だった。

 

「……はい。本気です。だからこそ、私としては一度、外部の目を入れたいのです」

 

『外部って言っても、あたしは外部じゃないけどね』

 

「ええ。承知しております。ただ、現場でリュウジと長く組んだ方の視点は貴重です」

 

『褒めても無理なものは無理』

 

 ぴしゃり、と切られた。

 マリは端末を握る手に力が入るのを感じ、ゆっくり緩めた。ここで押せば押すほど、ペルシアは引く。

 それでも、マリは諦めきれず、代案を探す。

 

「では……短時間でも構いません。開始から終了までではなく、特定シナリオの一部だけでも――」

 

『無理って言ってるでしょ』

 

 ペルシアの声が再び鋭くなる。

 向こうで誰かが「ペルシアさん、次です」と呼ぶ声がした。会議の呼び出し。時間がない。

 

『マリ。あんた、今“カオルのため”って顔してるけど、たぶん半分は“自分の安心”のためよ。責任を分散したい。分かる。分かるけど、今あたしは受けられない』

 

「……」

 

 痛いところを突かれた。

 否定はできない。マリはカオルを見ている。見ているからこそ、背負いたくない不安がある。

 それをペルシアは見抜いている。

 

『どうしてもって言うなら、ログだけ送って。見る“かもしれない”。でも約束はしない。こっちは明日どうなるかも分からないの』

 

「ログの送付ですね。承知いたしました。可能な範囲で――」

 

『“可能な範囲で”って言い方、あんたらしい。そういうところ嫌いじゃないけど、今は時間ない。切るわよ』

 

「お忙しいところ、失礼いたしました。ありがとうございます」

 

『……あ、マリ』

 

「はい」

 

『カオルに言っときなさい。“比較”に囚われると操縦が鈍る。誰かと比べて自分を測るのは、地上だけでやれって。宇宙は、比較の暇があったら確認しろ。自分の“次の一手”を』

 

 その言葉は、ペルシアらしく乱暴で、でも的確だった。

 マリは胸の奥で小さく頷く。

 

「承知いたしました。伝えます」

 

『じゃ』

 

 通話が切れた。

 しん、と静かな部屋に戻る。端末の画面だけが淡く光っている。

 

 マリはしばらく、そのまま動かなかった。

 断られた事実そのものより、ペルシアの指摘が刺さっている。

 

(……自分の安心のため)

 

 確かに、そうだ。

 マリはカオルの成長を喜びながらも、同時に怖がっている。成長の速さの裏にある“何か”を見落としたくない。

 その恐れは責任感でもあるが、逃げでもある。

 

 マリは端末を開き、ログ送付の準備を始めた。

 必要な部分を抽出し、注釈を付ける。特に、判断の速さと、情動の揺れが見えない点。そこだけは、ちゃんと記録しておくべきだ。

 

 最後に、カオルへ送る短いメッセージを作った。

 “ペルシアが立ち会えない”という事実を、そのまま投げれば、カオルは黙って飲み込むだろう。だが黙って飲み込むことこそ、危うい時がある。

 

 マリは文面を何度か消して、書き直した。

 そして結局、シンプルにまとめる。

 

『再来週の立ち会いは難しい。ペルシアさんは多忙。

 代わりにログを送る。返答は約束できないが、見てもらえる可能性はある。

 それと――比較に囚われるな。宇宙では自分の次の一手を確認しろ。』

 

 送信。

 小さな通知音が鳴り、メッセージが飛んでいく。

 

 マリは背もたれに体を預け、天井を見上げた。

 きっとカオルは「分かりました」と返すだろう。いつも通りに。

 それでも、今日だけは――その“いつも通り”が少しだけ心配だった。

 

 窓の外では、コロニーの夜が静かに降りてきていた。

 

ーーーー

 

 次の日も、放課後になるとカオルは迷いなく宇宙管理局へ足を向けた。

 学園の廊下のざわめきが背中で遠ざかり、管理局の無機質な空気が肌にまとわりつく。ここの静けさは、嫌いじゃない。余計な言葉も、余計な視線も、全部削ぎ落とされていく。残るのは“次の一手”だけだ。

 

 受付を通り、いつもの通路を曲がると、マリが端末を片手に待っていた。昨日と同じ場所、昨日と同じ姿勢。けれど、視線だけは昨日より鋭い。ログ整理を終えた人間の目をしている。

 

「来たな」

 

「……来た」

 

 カオルは短く答え、シミュレーションルームの扉の前で立ち止まった。

 昨日、マリから送られてきたメッセージが頭の中をよぎる。立ち会いは難しい。ログを送る。返答は約束できない。――そして、最後の一行。

 

 カオルは息を整え、マリへ視線を向けた。

 

「比較に囚われるな。宇宙では自分の次の一手を確認しろ」

 

 言葉を、一つずつ噛むように口にした。

 それはただの忠告ではなく、刃物みたいにまっすぐな一文だった。

 

「……ペルシアの言葉ですね」

 

 マリは一瞬だけ眉を動かし、そして頷いた。

 

「そうだ」

 

 肯定は短い。余計な感情を足さないのも、マリらしい。

 カオルは口元を僅かに緩めた。どこか苦笑に近い。

 

「……あいつらしい」

 

 “あいつ”と呼ぶのが無礼だと分かっていても、口から出た。ペルシアの口調と同じ温度が、その言葉にはあった。

 マリは咎めない。ただ、端末を掲げて淡々と言う。

 

「今日の設定は少し上げる。判断遅延は昨日より重い。視界の情報も減らす」

 

「……了解」

 

 カオルは扉を開け、シミュレーションルームへ入った。

 操縦席はいつも通り、冷たい。金属の匂いと、微かなオゾン臭。ハーネスを締める音が、部屋に乾いた響きを残す。

 

 マリが操作端末を叩く。

 壁面の表示が切り替わり、コロニー外縁部の映像が広がった。

 

「開始する。コロニーから火星航路。途中で“交差”を入れる」

 

「交差……隕石群か」

 

「そうだ。あとはやってからのお楽しみ」

 

 マリが言い、最後のチェックを終える。

 

 ――開始。

 

 視界が星に変わった。

 機体が静かに加速し、重力に似た圧が体にかかる。ここまでは“普通”だ。普通に見せて、普通じゃないものを混ぜてくるのがマリのやり方だと、カオルは知っている。

 

 そして、来た。

 

 軌道表示に赤い線が走る。警告音。

 隕石群との交差予測。回避ウィンドウは狭い。しかも遅延――入力してから反映されるまでの間が長い。焦ると手が先に動き、機体が後から追いついて暴れる。

 

(比較に囚われるな)

 

 頭の中で言葉が響く。

 比べるな。リュウジの癖と、自分の癖を並べるな。誰かの操縦を思い浮かべるな。

 今この瞬間に必要なのは、次の一手を確認すること。

 

 カオルは、視界を狭めた。

 情報を全部拾おうとするのをやめる。必要なものだけを掬い上げる。相対速度、距離、回避角、推力の余裕。

 入力は最小限。

 反映遅延を織り込んで、先に先に手を置く。

 

 隕石が視界を横切る。

 警告音が重なる。

 だが、カオルの指はぶれない。手首の角度も、呼吸のリズムも、一定だ。

 

 回避。

 再回避。

 回避の途中で、別の群れが横から差し込んでくる。

 

 ここで焦ると終わる。

 “次の一手”を、確認する。

 

 カオルは出力を絞った。速度を殺すのではない。必要な分だけ落とし、回避線を少しだけ膨らませる。

 その判断は遅延に強い。入力が遅れても、機体が暴れにくい。

 

 隕石群を抜けた。

 

 視界がひらけ、警告音がひとつ、またひとつと止んでいく。

 マリの側から、小さく息を吐く音がした。感情を出さないマリが、無意識に息を抜くほどの操縦だった。

 

 最後に仕込まれていたトラブルは、エンジンの一部不調。

 推力低下。航路の微妙なズレ。

 カオルは修正を入れ、火星航路へ再収束させる。余計な操作はしない。結果だけを取る。

 

 ――終了。

 

 室内に終了アナウンスが流れ、映像が暗転した。

 カオルはハーネスを外し、背中を軽く動かした。汗はある。だが、手の震えはない。心臓も落ち着いている。

 

 マリが端末を置き、紙カップを二つ持ってきた。

 湯気が立つ。お茶だ。

 

「……お疲れ」

 

「ありがとう」

 

 二人は並んで座り、カップを傾けた。

 しばらく、言葉はない。沈黙が、音として心地いい。

 

 マリが、端末のログ画面を見ながら口を開きかけた。

 

「さっきの回避線だが――」

 

 言いかけた、その時だった。

 

 ガチャ、と扉の開閉音。

 シミュレーションルームの重い扉が、外側から押し開かれた。

 

「いい腕だ」

 

 低い声。乾いた評価。

 マリもカオルも、同時に顔を上げた。

 

 扉の向こうに立っていたのは、見覚えのある男だった。

 背が高い。姿勢がいい。どこか“現場”の匂いがする。視線が、鋭い。

 そして何より、カオルが最初に感じ取ったのは――同類の圧だった。

 

「……ブライアン」

 

 カオルが名前を口にすると、男は口角を上げるでもなく、ただ頷いた。

 

 リュウジと同じS級パイロット。

 ――ブライアン。

 

 マリは反射的に立ち上がり、相手の足元から視線を引き上げた。

 西の未探索領域で消息不明になり、ラスぺランツァのメンバーで救出にいった。消息不明時に腰の骨折。復帰まで時間がかかると言われていたはずだ。

 

「腰の骨折は大丈夫なんですか?」

 

 マリの声は自然と丁寧になった。

 ブライアンは軽く肩を回し、痛みを確かめるみたいに息を吐いた。

 

「ああ。回復は早い方だ」

 

 平然と言う。

 その平然さが、逆に怖い。痛いはずだ。無理をしている気配が薄すぎる。

 

「……どうしてここに」

 

 カオルが問いかけると、ブライアンは視線をマリに向け、次いでカオルへ戻した。

 

「用があるのは、お前だ。カオル」

 

 空気が、一段冷えた気がした。

 カオルは背筋を伸ばし、真正面から受け止める。

 

「理由は?」

 

 ブライアンは短く息を吐き、言った。

 

「ペルシアに頼まれた」

 

 マリの喉が小さく鳴った。

 さっきまで“忙しいから無理”と断っていたペルシアが、別の手を回してきた――その事実が、マリの頭の中で素早く組み上がる。

 

「……ペルシアさんが?」

 

 マリが確認するように言うと、ブライアンは淡々と頷いた。

 

「ああ。本人は来れない。だから代わりに“目”を寄越せってさ」

 

 そしてブライアンは、室内を一瞥した。操縦席、ログ端末、カオルのカップ。

 視線が最後に止まったのは、カオルの目だった。

 

「比較したいんだろ?」

 

 言い当てられて、カオルは一瞬だけ黙った。

 マリも、息を止める。

 

 ブライアンは続ける。

 

「だが、比較の仕方を間違えると――宇宙で死ぬ」

 

 その言葉は、ペルシアの忠告と同じ方向を向いていた。

 そして、言い方だけが違う。より直截で、より冷たい。

 

 マリは唇を引き結び、カオルはカップを置いた。

 部屋の中の空気が、訓練の空気に戻る。お茶の時間は終わった。

 

 ブライアンが顎で操縦席を示した。

 

「もう一回やれ。今度は俺が見る」

 

 カオルは短く頷いた。

 

「……分かった」

 

 マリは端末へ手を伸ばしながら、胸の奥で思った。

 ペルシアは、ただ断ったわけじゃない。

 “最適な刃”を、代わりに寄越してきた。

 

 そしてその刃は、今、目の前に立っている。

 

ーーーー

 

 ブライアンが腕を組んで壁際に立つと、シミュレーションルームの空気が一段重くなった。

 マリは端末の前に戻り、設定画面を開いたまま手を止めている。普段なら淡々と指を動かすのに、今日は無意識に様子をうかがっていた。

 

「準備できたら、始めるぞ」

 

 ブライアンの声は低く、短い。命令というより“確認”に近いのに、逆らう余地がない圧がある。

 カオルは操縦席に座り、ハーネスを締め直した。肩紐が胸に食い込む感覚が、妙に現実味を増す。

 

「……いつも通りでいいのか?」

 

「いつも通りでいい。だが――」

 

 ブライアンは一瞬、目を細めた。

 

「“見られてる”って意識は捨てろ。操縦は見せるもんじゃない。生き残るためにやる」

 

「分かってる」

 

 カオルは短く返した。言い返す必要もない。ブライアンの言葉は正しいし、カオル自身も同じ結論に辿り着いている。

 

 マリが喉を鳴らし、端末を操作する。

 

「開始します。航路はコロニー外縁から火星。途中、交差――隕石群。遅延設定あり」

 

「いい」

 

 ブライアンの返答に合わせるように、開始アナウンスが流れた。

 

 視界が星に変わる。

 機体が加速し、人工の揺れが身体に伝わる。遅延のせいで、入力と反応の間にわずかな“間”が生まれる。その間が、人を焦らせる。焦りは、操縦を崩す。

 

 カオルは呼吸を一定に保った。

 視界の端に赤い警告。交差予測。隕石群が迫ってくる。

 

 ――来た。

 

 カオルは最小の操作で姿勢を整え、回避線を引く。ギリギリを攻めない。余裕を残す。遅延がある以上、余裕が命綱だ。

 隕石が視界を横切り、影が走る。警告音が増える。だが、カオルの指先は静かだった。

 

 回避。

 再回避。

 さらにもう一段、密度の高い群れ。

 

 ここで“派手”な操作をすれば、機体は遅れて暴れる。

 カオルは出力を絞り、速度を落とし、回避角をわずかに広げた。綺麗な曲線。危険を遠ざけるというより、自分の行動の余白を増やす操縦だ。

 

 抜けた。

 警告が止み、視界がひらける。

 

 マリが息を呑む気配がした。

 そして――壁際で見守っていたブライアンが、ほんの僅かに口元を歪めた。

 

 笑ったのか。嘲ったのか。

 どちらとも取れる、微妙な歪みだった。だが、少なくとも“退屈”ではない顔だ。

 

 最後にエンジンの一部不調。推力低下。微妙なズレ。

 カオルは焦らず、必要な分だけ修正を入れて航路へ戻す。余計な入力はしない。結果だけを取りにいく。

 

 ――終了。

 

 映像が暗転し、室内灯が少し明るくなった。

 カオルはハーネスを外して立ち上がり、肩を軽く回した。汗はある。だが、震えはない。

 

 ブライアンは操縦席から数歩離れた位置で、カオルを見たまま言った。

 

「……悪くない」

 

 短い評価。だが、その一言が逆に重い。

 マリは端末に視線を落としたまま、メモを打つ手を再開した。カオルの耳には、キーを叩く音がやけに大きく聞こえる。

 

 ブライアンはふっと息を吐き、口元の歪みを消さないまま、カオルに問いを投げた。

 

「お前、養成学校に入るつもりか?」

 

「ああ。来年から編入するつもりだ」

 

「養成学校は?」

 

「どこか受かった所だ」

 

 カオルの答えは簡潔だ。

 まだ“どこへ行くか”は確定していない。受かった場所の中から選ぶ段階だし、自分が選べる立場だとも思っていない。

 ただ、行く。進む。それだけは決まっている。

 

 ブライアンは小さく鼻で笑った。

 そして、次の瞬間、空気の温度を変えるように言った。

 

「なら、俺が運営する学校に来い」

 

 マリの手が止まった。

 カップを置く音さえ聞こえそうな静けさが落ちる。

 

「……は?」

 

 カオルが眉を動かすと、ブライアンは平然と続けた。

 

「入学金もいらん。特待生としてだ」

 

 その言い方は“提案”なのに、拒否を想定していない。

 カオルは一瞬、言葉が出なかった。

 

 ブライアンの脳裏に、別の声が浮かぶ。

 ――次に台頭してくるパイロットが現れて、時代の舵を渡す。

 リュウジが、どこか乾いた笑みで言った言葉。

 

(……まさか、今ここでそれを見るとはな)

 

 ブライアンは胸の奥で舌打ちに近い感情を噛み殺した。

 気に食わない。だが、嫌いじゃない。

 自分が積み上げてきたものを、次の世代が奪っていく感覚。苦いのに、どこか誇らしい。

 

 ブライアンは、カオルを真っ直ぐ見据えた。

 

「俺が必ず、リュウジ以上のパイロットにしてやる」

 

 言葉に嘘がない。

 自信というより、執念の音がした。

 それは“教える側”の目ではなく、“同じ空を競う側”の目でもある。

 

 カオルはブライアンの視線を受け止めたまま、しばらく黙った。

 リュウジ以上――その響きに、胸の奥がわずかに揺れる。

 比べるな、と言われたばかりなのに、比べる言葉が目の前に置かれる。

 

 だが、カオルは“比較”で動かなかった。

 必要なのは、次の一手の確認だ。自分が進む道を、より確かなものにする選択肢が目の前にあるだけだ。

 

 マリは言葉を挟みかけた。

 しかし、カオルの横顔を見て、黙った。ここは、本人が決める場面だ。

 

 カオルは一度だけ呼吸を深くし、そして――ゆっくりと頷いた。

 その頷きは、強くも弱くもない。柔らかいのに、芯がある。

 

「……分かった。話は聞く」

 

 ブライアンが口元をさらに歪める。今度は確かに“笑い”だった。

 勝った笑いではない。面白いものを見つけた時の笑いだ。

 

「いい返事だ。今度、詳細を送る。逃げるなよ」

 

「逃げない」

 

 カオルが即答すると、ブライアンは肩を軽くすくめた。

 

「なら決まりだ」

 

 マリはようやく息を吐いた。

 ペルシアが来られない代わりに寄越した“目”は、ただの目じゃない。

 未来を引っ張るための、鋭い刃だ。

 

 そしてその刃が、カオルを“次”へ押し出した。

 カオルはまだ知らない。

 この頷きが、彼の一年を――いや、その先の人生を決める一歩になることを。

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