卒業式の前の日。
ソリア学園の空気は、朝からいつもと違って落ち着かない。廊下にはガムテープの匂いがうっすら漂い、職員室前には「式典用備品」「来賓席」「花台」と書かれた段ボールが積まれ、掲示板には進行表が何枚も貼られている。
生徒会はその中心で、文字通り走り回っていた。
「次、体育館入口の誘導ロープ! 固定が甘い!締め直しだ!」
「舞台袖のコード、踏まれないように養生テープ追加!」
「来賓席の札、順番間違ってる! 作り直しだ!」
指示を飛ばすメノリの声は落ち着いているのに、手元の端末はずっと忙しなく光っている。確認、修正、再確認。式典は一度始まれば止められない。だから前日が一番忙しい。
体育館の扉を開けると、木床の冷たさと、ほこりっぽい匂いが鼻をくすぐった。暖房は入っているが、広い空間のせいで足元はひんやりする。天井の高い体育館に、椅子の脚が床を擦る音が響いて、音だけが何倍にも増幅されるみたいだった。
「ルナ、シャアラ。こっちだ」
メノリが腕を上げて合図する。
ルナとシャアラはそれぞれ軍手をつけ、後輩たちの列に合流した。
「了解。えっと、ここから並べるんだよね?」
シャアラが確認すると、メノリは頷いた。
「前から十列。左右の通路幅は一定。ズレると全部崩れるからな」
「分かった」
ルナも頷き、すぐ後輩に声をかける。
「みんな、焦らなくて大丈夫。ゆっくりでいいから、真っすぐね」
後輩たちは「はい!」と返し、椅子を運び始めた。
椅子は金属の脚が冷たく、両手で持つと指先がじんとする。ひとつひとつは軽いのに、数十回繰り返すと腕がじわじわ重くなる。
「椅子って、こんなに数あるんだね……」
シャアラが息を吐くと、隣の後輩が苦笑した。
「毎年、数えるたびに絶望します」
「でも、その絶望を乗り越えた先に卒業式があるんだよね」
ルナが笑うと、後輩は少し安心したように頷いた。
ルナは椅子を一脚ずつ置き、目で線を合わせていく。横列の端と端を見比べる。少しでもズレると列が波打つから、最初が肝心だ。
サヴァイヴで木の上の拠点を整えた時のことがふっと浮かぶ。資材を揃え、床板を並べ、固定して、真っすぐを作った。あの時も「最初が肝心」だった。
「シャアラ、その列、右に一センチ」
メノリの声が飛ぶ。
「えっ、そんなこと分かるの?」
シャアラが驚くと、メノリは淡々と答えた。
「ズレると来賓の視線が揃わない。あと、写真が崩れるだろ」
「写真……なるほど」
シャアラは苦笑して椅子を軽く押し、線を合わせた。
ルナは後輩たちに混じって、淡々と椅子を運びながらも、時々声をかけていた。
「腰、痛くならないように膝で持ち上げてね」
「通路は確保して。人が通れなくなるから」
誰かが「はい!」と返すたび、体育館の空気が少しずつ整っていく感じがした。雑然としていた空間が、“式典の場所”に変わっていく。
しばらくして、メノリが一度列の間を歩き、目視で確認する。指で通路の幅を測り、列の歪みを見つけると、すぐに小さく指示を出す。
後輩の一人が感心したように言った。
「会長、どうしてそこまで分かるんですか?」
「慣れだ」
メノリは短く言って、端末を見た。
「……あと十五分で舞台袖の確認が入る。ここ、優先で終わらせるぞ」
ルナはその横顔を見て、少しだけ胸が温かくなった。
メノリは相変わらず厳しい。けれど、後輩たちの動きが鈍れば休憩を挟ませるし、迷えばすぐに指針を出す。
サヴァイヴの時、皆をまとめた“メノリ”が、ちゃんとここにもいる。
「メノリ、舞台袖の確認って……何するの?」
ルナが尋ねると、メノリは椅子の列から目を離さずに答えた。
「卒業証書の動線。椅子の角度。壇上への段差の確認。転んだら終わりだからな」
「そんなのまで……」
シャアラが目を瞬かせると、ルナが柔らかく笑った。
「式って、当たり前に進むけど、当たり前にするために色んな人が走ってるんだね」
「うん……」
シャアラは頷き、また椅子を置く作業に戻った。
列が増えていく。
体育館の真ん中が椅子で埋まり、通路が一本、二本と綺麗に伸びる。
後輩たちの動きも次第に揃ってきて、椅子を運ぶ足取りが軽くなった。終わりが見えてくると、人は少し強くなる。
「最後の列、あと五脚!」
誰かが叫ぶ。
そこに小さな拍手が起きた。
ルナも、つい笑ってしまう。
こんなことで拍手してしまうのは、サヴァイヴで小さな達成に歓声を上げていた時の癖が残っているからかもしれない。
「よし。椅子は一旦ここまで」
メノリが言った。
そして、少しだけ声を柔らかくする。
「よくやった。次は床のマークと、卒業生の動線確認だ」
「まだあるんだ……」
ルナが呟くと、メノリは当然のように言う。
「これだけじゃ終わらない」
シャアラがくすっと笑った。
「メノリ、今日だけはちょっと優しいね」
「優しくない」
「優しいよ。今、『よくやった』って言ったもの」
ルナが指摘すると、メノリは一瞬だけ黙った。
そして、少しだけ視線を逸らす。
「……事実を言っただけだ」
「それを優しいって言うんだよ」
ルナが笑うと、メノリは返さず、次の作業場所を指示するために端末を操作した。
後輩たちが床のテープの位置を確認し始める。
ルナとシャアラもしゃがみこみ、テープの端を押さえ、剥がれないように念入りに指でなぞった。
体育館の床は少し冷たく、手のひらがひんやりする。
その時、体育館の入口側が少し騒がしくなった。
誰かが台車を押している音。段ボールが揺れる音。
ルナが顔を上げると、別班が花台を運び込んできたところだった。
「花、綺麗だね……」
ルナがぽつりと言う。
シャアラが頷いた。
「卒業式って、ちょっと寂しいけど、綺麗でもあるよね」
「うん」
ルナは小さく笑う。
卒業――別れと始まり。
サヴァイヴから帰った自分たちは、強制的に“始まり”へ押し戻された。でも今は、それを自分の足で迎えている。
メノリが花台の位置を確認しながら言った。
「明日は、ここに卒業生が座る。泣いても騒いでも、式は進む。だから、今日できることは全部やる」
その言葉に、後輩たちが背筋を伸ばした。
「……ルナ」
シャアラが小さく呼ぶ。
「なに?」
ルナが振り向くと、シャアラは微笑んだ。
「明日、ちゃんと見届けようね。先輩たちの背中」
「うん。ちゃんと見届ける」
ルナは頷き、テープを押さえる指に力を込めた。
体育館の中で、椅子の列は整然と並び、花台が静かに置かれ、来賓席の札が次々に揃っていく。
生徒会が走り回る足音が、広い空間に何度も反響する。
そのすべてが、明日の“一瞬”のためだ。
たった数時間の式典を、当たり前に、美しく、滞りなく進めるために。
ルナは椅子の列を見渡し、ふっと息を吐いた。
汗で少しだけ額が熱い。けれど、胸は不思議と清々しかった。
ここまで来た。
みんなで、ここまで来た。
「……よし、続きやろう」
ルナが小さく言うと、シャアラが「うん」と頷き、メノリが端末を閉じて指示を出した。
「動線確認。列を崩すな。時間はないぞ」
生徒会の前日が、まだ続いていく。
ーーーー
体育館の準備は、息をつく暇もなく続いていた。
椅子の列はすでに整い、通路幅も揃い、床のテープも何度も押さえ直した。けれど「整った」から終わりじゃない。舞台袖の動線、花台の配置、来賓席札の照合、音響の配線――前日ほど、やることが増える日もない。
「次、壇上の段差マーク確認! 剥がれてるところあったら貼り直しだ!」
「来賓席の札、名簿と照合! 順番違えたら明日詰むだろ!」
「後ろの列、角度ズレてる!」
メノリの声が体育館に反響し、後輩たちが走る。
ルナは椅子の端を指先で揃え、シャアラは床のテープを膝で押さえながら位置を確認していた。
「ルナ、そこ一列、右に一センチ寄せてくれ」
「うん、分かった」
ルナが素直に動かすと、シャアラが小さく笑う。
「メノリ、ほんと目がいいよね」
「ズレは写真に出る。式の“当たり前”を崩したくないだけだ」
メノリは端末を片手に答え、後輩へ視線を投げる。
「無理して走るな。転んだら意味がない」
厳しいのに、ちゃんと守る言葉が混ざる――そのバランスに、ルナは少しだけ胸が温かくなった。
そのときだ。体育館入口の自動扉が開く音がして、外気の冷たさがふわっと流れ込んだ。
「おーい! 運び込むよ!」
元気な声。シンゴだ。
次いで、台車の車輪が床を転がる金属音が響く。
入口に、リュウジ、カオル、シンゴ、ベルの四人が現れた。腕や肩に荷物を抱え、台車には大きな段ボール箱がいくつも積まれている。梱包材がはみ出して、がさがさ揺れた。
「来たか」
メノリが遠くから声を投げる。
リュウジが台車を押したまま短く返す。
「ああ。店頭受け取り、全部済ませた」
「ありがとう。思ったより早いな」
「シンゴが無駄に張り切るからな」
「えっ、無駄って何!?」
シンゴは目を丸くして、すぐ笑顔になる。
「でもさ、こういう準備ってワクワクするよ! 祭りの前みたいで!」
ベルが肩に担いだ箱を持ち替え、穏やかな声で言った。
「俺も運ぶのは嫌いじゃないけど、シンゴのテンションは元気すぎるよ」
「ベルも結構楽しそうだよ?」
「……まあ、手伝いになるならいいかな」
カオルは余計なことは言わず、箱のラベルを見てメノリへ確認する。
「どこに置けばいい?」
「舞台袖の右奥。『卒業証書』『来賓贈呈品』『掲示物』って書いてある区画があるだろ。ラベル見て分類してくれ」
メノリは即答し、続けて真顔で言う。
「間違えると私が死ぬだろ」
「死なない」
リュウジが淡々と返す。
「死ぬ」
メノリも淡々と返す。
そのやり取りに、ルナとシャアラ、後輩たちの肩から少し緊張が抜けた。忙しさの中の、ほんの小さな笑いだ。
四人は指定された舞台袖へ向かう。
椅子の列の横を通る時、リュウジは自然に速度を落とし、台車の角度を微調整して通路に当てないようにした。ルナはその動きに、サヴァイヴの頃の“物資運び”を思い出す。彼はいつも、余計な言葉はなくても、場の安全を先に確保した。
舞台袖に到着すると、カオルが手早く分類して積み上げ、ベルが箱の角を揃えて固定する。シンゴはラベルの読み上げと、緩衝材のはみ出しチェックまでやっている。
「これ、『掲示物』だよね? 上に積むと折れそう」
「下だ」カオルが短く言う。
「了解!」シンゴが元気よく頷く。
リュウジは伝票の束をメノリに差し出した。
「伝票。全部ここに入ってる」
「助かる」
メノリは素早く目を通し、端末と照合する。
「……問題ない。よし」
そこへ、入口からさらに騒がしい声が響いた。
「おーい! 差し入れも買ってきたぞー!」
ハワードだ。両手に大きな紙袋を提げ、勝ち誇ったように体育館へ入ってくる。甘い香りがふわっと漂い、作業で乾いた喉が反射的に“休憩”を欲しがった。
「差し入れ?」
ルナが顔を上げると、ハワードは胸を張る。
「シュークリーム! 人数分! ……いや、足りないと困るから多め!」
「多めって曖昧だな」
メノリが眉をひそめる。
「だってさ、こういう時って“足りない”が一番悲惨じゃん?」
ハワードは当然の顔で言って、紙袋を軽く揺らし――
「揺らすな」
リュウジが即座に止めた。
「え、なんで?」
「クリームが偏る」
「……確かに!」
シンゴが妙に真剣な顔で頷く。
「シュークリームって、揺れると中が大惨事になるよね!」
ベルが穏やかに追い打ちをかける。
「袋ごと傾けたら潰れるかもしれない」
「う、うん……」
ハワードが急に丁寧に紙袋を抱え直すのが可笑しくて、ルナは思わず笑ってしまった。
メノリは端末で時刻を確認し、短く言う。
「……五分だけ休憩しよう。ゴミはちゃんとまとめる。作業は止めすぎるな」
「はい会長!」
後輩たちが揃って返事をして、ばたばたと動き出す。
体育館の隅に即席の休憩スペースができた。紙コップ、飲み物、そしてシュークリームの箱。ふたが開くと、甘い匂いがさらに広がる。
「うわ……本当にいっぱい……」
「いいんですか!?」
後輩たちが目を輝かせる。
「いいに決まってるだろ!」
ハワードが得意げに腕を組む。
「僕が買ってきたんだから、遠慮すんな!」
「……買ったのは財閥のカードだろ」
リュウジの冷静な突っ込みに、ハワードがむくれる。
「細かいこと言うなよ!」
ルナはシュークリームを受け取り、シャアラにも渡す。
「はい、シャアラ。甘いもの、好きでしょ?」
「うん、嬉しい。ありがとう」
シャアラは柔らかく笑った。
メノリは立ったまま全体を見渡し、後輩が食べ過ぎて動けなくならないかまで目で管理している。厳格だけど、ちゃんと“守り”がある。
リュウジはコーヒーを受け取ると、シュークリームを一つ手に取った。
ルナが小さく言う。
「ちゃんと食べなよ。今日は休まないと」
「……分かってる」
リュウジは短く返し、シュークリームに口をつけた。
カオルは無言で一口食べ、ふっと息を吐く。
「……こういうの、懐かしいな」
「サヴァイヴの時の差し入れって、月梨や炎果とかだったよね!」
シンゴが笑うと、ベルが穏やかに頷いた。
「今はシュークリームになっただけだな」
ルナはその会話を聞きながら、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
明日は卒業式。前日は走り回って、今は甘いもので息をついて――こうやって“当たり前”を皆で作っている。
「五分終わり」
メノリが容赦なく言った。
「えー!」
「えーじゃない。次だ」
メノリは端末を閉じ、指示を飛ばす。
「舞台袖の動線、最終確認。リュウジ、カオル、ベル、シンゴ。荷物の配置、このまま固定で問題ないか確認して。ハワードは……紙コップとゴミ、回収しろ。散らかしたら私が許さない」
「僕、回収係かよ!」
「そうだろ」
「……はいはい!」
笑いが小さく残る中で、また皆が動き出す。
体育館の空気は忙しいまま――でも、さっきより少しだけ柔らかかった。
ーーーー
体育館の空気は、甘いシュークリームの匂いが薄れていくのと入れ替わるように、また作業の音で満ちていった。椅子の足が床を擦る音、段ボールが積み替えられる音、テープを剥がして貼り直す音。卒業式の前日――「当たり前」を作る作業は、地味で、細かくて、そして妙に落ち着かなかった。
ルナは通路の角に立って全体を見渡した。列は整っている。来賓席の札も、メノリが何度も照合している。舞台袖の荷物も、リュウジたちが運び込んだものがきっちり分類され、カオルとベルが動線に干渉しない角度まで揃えて固定していた。
「この辺は問題ないな。次、壇上の下、段差テープをもう一回確認する」
メノリが端末を指で滑らせながら言う。
「了解。俺、左側見るよ」
ベルが穏やかに答えて歩き出す。
「俺は右」
カオルが短く続いた。
シンゴは舞台袖の掲示物箱を開けて、折れやすい紙類を一枚ずつ確認している。準備に対する集中力だけは、いつも妙に大人びている。
「ね、これ……明日用の案内板、予備も入ってるよ!」
「予備がないと何かあった時、困るだろ」
メノリが即答し、後輩に目を向ける。
「焦るな。ゆっくりでいい。丁寧にやれ」
その間にも、リュウジの携帯が鳴る。
短いバイブ音が、作業の隙間を縫って何度も響いた。
最初は気のせいかと思った。けれど、三度目、四度目と続くと、誰の耳にも入る。リュウジはそのたびに一瞬だけ表情を変え、端末を見て、体育館の隅へ歩いていく。ときには入口の外に出て、戻ってくる頃にはいつもより無口になっていた。
ルナは椅子の列を直しながら、背中の方で聞こえる足音を数えてしまう。戻ってきた。――また出た。戻ってきた。
その繰り返しが、心臓に小さな棘みたいに刺さった。
「……忙しいやつだな」
メノリが、壇上の段差テープを押さえ直しながら呟く。口調は淡々としているが、目は鋭い。
「忙しいんだろ」
カオルはそれだけ言って、舞台袖の箱を持ち替えた。
ルナは、言うべきか迷った。こんな場で、皆が走り回っている時に。しかも、リュウジ自身が口にしていないことを。
でも、誰かが言葉にしないと、空気のざわつきが余計に膨らむ気がした。
「……ほら、リュウジは明日、S級パイロットを返上するから」
言った瞬間、空気が一拍だけ止まった。
作業の音が消えたわけじゃない。椅子の擦れる音も、テープの音もある。けれど、近くにいたメノリとカオルの視線が、同時にルナへ向いた。
「……そういえば、そうだったな」
メノリが顎に手を当てる。
「卒業式は欠席か?」
「欠席するって言ってた」
ルナは小さく頷いた。胸のあたりが、じわっと冷える。
カオルは、どこか遠い場所を見るように言った。
「区切り、か」
その短い言葉に、ルナは喉の奥が詰まりそうになった。
“区切り”という言葉が、あまりにも重くて。S級パイロットを返上する――それが、単なる肩書きを手放すだけのことじゃないのは、皆わかっている。悲劇のフライト。そのあと、閉じた心。今のリュウジが少しずつ取り戻してきたもの。全部が絡みついている。
メノリはルナをじっと見たまま、淡々と続けた。
「なら、ルナも欠席するのか?」
「え?」
ルナは思わず首を傾げる。
「私は卒業式に出席する予定だけど」
メノリの指が止まった。端末を握る手も止まる。
そして、まるで確認するみたいに、ゆっくり言った。
「……いいのか? リュウジが新しく区切りを決める瞬間に、立ち会わなくて」
ルナは言葉が出なかった。
大袈裟だよ、と言いかけて、引っ込めた。大袈裟じゃない。多分、メノリが言っているのは、リュウジにとっての「意味」の話だ。自分がそこにいるかどうかが、彼の心にどう響くか――そんなことを、メノリは真面目に考えている。
「そんな……大袈裟な」
ルナは困惑したように笑ってみせた。けれど、その笑いは自分でも薄いと分かった。
カオルが、少しだけ目を細める。
「ルナ。お前が迷うのは分かる」
「迷ってないよ」
ルナは反射みたいに言った。
でも、声が少しだけ上ずってしまい、自分で気づいてしまう。
メノリはため息を吐かなかった。ただ、いつもの口調で、静かに言う。
「ルナは、いつも“みんな”を優先するだろ。卒業式は“みんな”の場だ。欠席するのは簡単じゃない」
ルナは服を無意識に握りしめた。
サヴァイヴの頃、ルナは何度も“みんな”を優先してきた。自分の不安も、怖さも、隠して。リーダーだから。自分が崩れたら、皆が崩れると思って。
でも今は――今は、一人で背負わないって決めたはずなのに。
「……リュウジが欠席するのは、私がどうこう言って変わることじゃないよ」
ルナは、言葉を探しながら続けた。
「それに、卒業式の準備だって、私たちがやってる。ここまで頑張ったのに、私が当日いないのは……」
口にしながら、ルナは自分の胸の中の二つの気持ちを確かめていた。
“リュウジのそばにいたい”と、“皆と卒業式に出たい”。
どちらも本当で、どちらも譲れない。
カオルは、少しだけ目線を落とし、短く言った。
「……どっちか選ぶ必要があるのか?」
ルナは、その言葉に救われた気がした。
選ぶ必要がある、と勝手に決めていたのは自分かもしれない。
メノリはカオルの言葉に一瞬だけ眉を動かし、すぐに言い返す。
「現実的に、同じ時間に二つの場所には居られないだろ」
「時間をずらせばいい」
カオルはあっさり言う。
「卒業式が終わってから行く。あるいは、前に会う。連絡すればいい」
ルナは、はっとした。
そうだ。連絡すればいい。前に会えばいい。終わってから駆けつけてもいい。
どうしてそれが、思いつかなかったんだろう。
きっと、ルナの中で“重要な瞬間”という言葉が膨らみすぎて、今この場で決断しなければならない気持ちになっていた。
メノリは端末を再び動かしながら、淡々と言う。
「リュウジは連絡を嫌がることもあるだろ。用件以外の電話を取らない時がある」
ルナは小さく苦笑する。
「それは……そうかも」
ちょうどその時、また携帯が鳴った。
リュウジは端末を見て、少しだけ眉を寄せる。それから視線だけルナたちに向け、何も言わずに体育館の外へ出ていった。
ルナの胸が、またちくりとした。
だけど、さっきまでみたいに、沈み込むだけの痛みじゃない。今度は、ちゃんと“やること”が見えた痛みだった。
「……私、あとでリュウジに聞く」
ルナは言った。自分でも驚くほど、声がまっすぐ出た。
「卒業式の後に会えるのか、明日の朝少し時間あるのか。ちゃんと確認する」
メノリはルナを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それがいいだろ。勝手に背負って、勝手に潰れるのは最悪だ」
「……うん」
ルナは頷いた。
“皆と共に歩むリーダー”――その言葉が、今やっと自分の中で形になった気がした。悩みを隠すんじゃなくて、必要なことは聞く。助けてと言う。自分の気持ちを、ちゃんと相手に届ける。
「よし、次だ」
メノリが声を上げる。
「来賓席の位置、最終確認。ルナとシャアラは通路幅測ってくれ。ベル、壇上の横の花台、固定できてるか見てほしい。カオルは舞台袖の動線、もう一回歩いて問題ないか確認だ」
「分かった」
ベルが穏やかに答え、花台へ向かう。
「了解」
カオルも短く返し、舞台袖へ歩く。
「シャアラ、メジャーこっち!」
ルナが呼ぶと、シャアラが軽く手を挙げた。
「うん、分かった。ルナ、こっちの列、少し寄ってるよ」
作業は続く。
体育館の「当たり前」を作る手は止まらない。けれど、ルナの胸の中はさっきより整理されていた。
――卒業式は出る。
――でも、リュウジの“区切り”から目を逸らさない。
――私一人で決めない。ちゃんと聞いて、ちゃんと会いに行く。
ーーーー
体育館の外に出ると、冬の空気が肺の奥まで刺さるみたいに冷たかった。扉の向こうでは椅子の足が床を擦る音が続いている。来賓席の札、壇上の花台、動線の養生テープ――“式”の形を作る作業は、地味なのに、やたらと神経を使う。
ルナは廊下の端に目をやった。
そこに、リュウジがいた。
壁にもたれて、携帯端末を耳に当てている。背中はまっすぐなのに、影だけがどこか重い。口元は固く、声は短い。
「……書類は今夜中に送る」
「……検査? 受ける。問題はない」
「……明日の時間は把握してる。……分かった」
“問題はない”――その言い方が、ルナの胸に引っかかった。サヴァイヴの頃、怖いことを怖いと言わない時の言い方だ。
声をかけようとして、ルナは一瞬だけ迷った。
でも、今日は決めた。勝手に抱えない。ちゃんと聞く。
リュウジが通話を切り、端末をポケットへしまう。息を吐く。
ルナは一歩踏み出した。
「リュウジ」
リュウジの視線が鋭く動き、ルナを認めると少しだけ緩んだ。
「……どうした。作業中だろ」
「うん。でも……さっきから、携帯すごく鳴ってた」
リュウジは目を逸らした。
「用件があるだけだ」
「明日のこと?」
ルナが言い切ると、リュウジの眉がわずかに寄る。
「………」
ルナは息を整えた。
「さっき、メノリとカオルが心配してた。リュウジ、明日S級パイロット返上するって、私が言ったの」
リュウジは小さくため息を吐く。
「……余計なことを」
「余計じゃないよ」
ルナはすぐ返した。
リュウジは言い返さない。ルナの言葉を切らない。
それだけで、ルナは少しだけ落ち着けた。
「明日、どうするの? ……どこに行くの?」
「宇宙管理局の手続き。返上の最終確認。検査。署名。……それだけだ」
“それだけ”のわけがない。
肩書きは鎧でもあり、枷でもあった。その鎧を脱ぐのは、きっと痛い。
ルナは喉の奥が熱くなるのを感じながら、慎重に言った。
「……明日、先輩たちの卒業式、リュウジは来ないんだよね」
「ああ」
ルナはそこで、言い方を変えた。
“私たちの卒業式”じゃない。自分たちは準備する側で、見送る側。だからこそ、欠けたら穴が開く。
「私たち、明日は在校生代表で動くでしょ。生徒会も、受付も、誘導もある。欠席できない」
ルナは自分に言い聞かせるように続ける。
「でも……それでも、リュウジの区切りから目を逸らしたくない」
リュウジの視線が戻る。真正面から見られると、ルナは少しだけ息が止まる。
「……区切り?」
「うん。大袈裟かもしれないけど」
ルナは手を握った。
「リュウジが何かを終わらせるなら、私は……ちゃんと、それを知っていたい」
リュウジは一瞬だけ黙った。
その沈黙の間、ルナは“言い過ぎたかな”と心が揺れた。でも、引っ込めない。
「俺は、誰かに見られながら区切りをつけるのが得意じゃない」
リュウジは声を落とした。
「手続きなんて、ただの事務作業だ。……見ても、面白くない」
「面白いとかじゃないよ」
ルナは首を振る。
「一緒に行きたいわけじゃなくて……“終わった後”に会いたい」
リュウジが僅かに目を細める。
「明日、式の準備と本番が終わったら、夕方には解放されると思う」
ルナは自分のスケジュールを頭の中で組み立てながら言った。
「そのあと、少しだけでいい。会える? どこでもいいから、顔を見たい」
リュウジはすぐに答えなかった。
でも、拒否もしない。視線を逸らしながら、短く息を吐いた。
「……夕方なら、時間は作れる」
その言葉に、ルナの胸がふわっと軽くなる。
「本当?」
「ああ。ただ――」
リュウジは言い淀み、少しだけ表情を固くした。
「俺の方が、遅くなる可能性がある。検査が長引くかもしれない」
「待つよ」
ルナは即答した。
「私、待つの得意だもん。サヴァイヴでいっぱい待ったし」
言ってから、ルナはしまったと思った。
“待った”なんて、あの頃の痛みを引っ張り出す言葉だ。
でもリュウジは、怒らなかった。
むしろ、ほんの僅かに口元を緩めた。
「……そういう意味じゃないだろ」
「え?」
「お前、待つのが得意なんじゃなくて――」
言いかけて、リュウジは止めた。
代わりに、いつものぶっきらぼうな声に戻る。
「……無理するな。明日は先輩の卒業式だ。お前らが回さないと崩れる」
“お前ら”って言い方が、ルナには少し可笑しくて、少し嬉しかった。
自分たちが、今度は誰かを送り出す側にいる。サヴァイヴでは、ただ生きるために必死だったのに。
「うん。ちゃんとやる」
ルナは頷いた。
「でも、終わったら連絡する。リュウジも、終わったら連絡して」
「……分かった」
リュウジは短く答えた後、少し困った顔で付け足す。
「携帯、見ない時がある」
「その時は……」
ルナは言いかけて、ふっと笑った。
「その時は、玄関まで行く。インターホン押す」
「やめろ」
即答が返ってきて、ルナは吹き出した。
「冗談だよ」
「……冗談に聞こえない」
二人の間の空気が、少しだけ柔らかくなる。
体育館の中の忙しさとは別の場所で、ほんの短い“休憩”みたいな時間が生まれた。
その時、体育館の扉が開いて、メノリの声が飛んできた。
「ルナ! どこ行った!」
「今行く!」
ルナはすぐ返し、リュウジに向き直った。
「……じゃあ、明日。終わったら、会おうね」
ルナが“ね”をつけたのは、たぶんズルかった。
約束にしてしまえば、逃げられないから。
リュウジは一瞬だけ目を逸らして、低く答えた。
「……ああ。会う」
それだけで、ルナは胸がいっぱいになった。
ルナは頷いて、体育館に駆け戻る。
椅子の列、来賓席、動線、掲示――やることは山ほどある。
でも、さっきまでの不安は違う形になっていた。
“先輩たちの卒業式をちゃんと成立させる”
“そして、その後でリュウジに会う”
どちらも、ルナの今日の役目だ。
リュウジの携帯がまた鳴っても、ルナはもう過剰に怯えない。聞ける。約束がある。
ルナは父の形見のリュックを背負い直し、メノリの指示に返事をしながら、体育館の中央へ戻った。
明日、先輩たちを送り出したあと。
リュウジの“区切り”の終わった場所へ、ルナはちゃんと向かう。