サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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区切り

 宇宙管理局のエントランスは、朝の光がガラス越しに白く反射して、冬の冷たさをそのまま磨き上げたみたいに見えた。床に映る人影さえ、輪郭がくっきりしている。

 

 リュウジは、受付の前で立ち止まった。

 制服ではない。いつもの黒っぽい上着に、手袋。マスクはしていない。風邪はもう治った。けれど、喉の奥に残る乾いた感覚だけが、妙に現実を強めていた。

 

 名を告げる前に、奥から足音が近づいてくる。

 ヒールの音。早い。迷いがない。

 

「おはよう、リュウジ」

 

 振り返ると、ペルシアが腕を組んで立っていた。相変わらず、目が笑っていないのに口元だけが楽しそうだ。髪を払って、わざとらしくため息をひとつ。

 

「ブライアンも復活したし、とうとうS級パイロットのリュウジを見るのも、これで見納めか」

 

 言い方が軽い。軽く言って、重く刺す。

 ペルシアらしい。

 

「……朝から縁起でもない」

 リュウジは淡々と返した。

 

「縁起? 縁起いいじゃない。区切りってやつでしょ」

 ペルシアは肩をすくめ、カードキーを翳してゲートを開ける。

「今日は長いわよ。覚悟して」

 

「覚悟はしてる」

「してる顔じゃない」

「元からこういう顔だ」

 

 ペルシアはふっと笑った。

 笑ってから、ほんの少しだけ真顔に戻る。

 

「でも、まあ……来てくれてよかった。逃げられたら、私は合鍵の件で一生いじれなくなるところだったもの」

 

「合鍵は渡さないって言っただろ」

「言ったわね。だから今も言い続けてるのよ。寄こしなさいって」

 

「帰れ」

 

「ここ私の職場」

 

 短い応酬が、廊下の冷えた空気を少しだけ緩める。

 だが今日、ここにいる理由は冗談で包めるほど軽くない。

 

 リュウジは、深く息を吸い込んだ。

 金属と消毒液と、ほんの少しの機械油――宇宙管理局特有の匂いがした。

 サヴァイヴの匂いとは違う。あの土や湿った葉の匂いではない。

 でも、同じくらい身体が覚えている匂いだった。

 

「まず、最終確認」

 ペルシアが歩きながら言う。

「そのあと検査。身体、反射、認知、ストレス耐性。最後が署名。……一日仕事よ」

 

「分かってる」

「分かってるなら、眉間の皺やめなさい」

 

「皺じゃない」

「皺よ。ほら、ここ」

 

 ペルシアが指先で自分の眉間を示す。

 リュウジは無言で視線を外した。

 

 ――この手の、軽口の裏にある配慮を、リュウジは知っている。

 ペルシアは“重い”を直視させないために、わざとふざける。

 そして、本当に必要な瞬間だけ真面目になる。

 

◇◇◇◇

 

 会議室の扉の前で、ペルシアが立ち止まった。

 ガラス越しに、数名の職員の影が見える。法務、運用管理、飛行資格部門。

 “返上”は、本人の意思だけで完結しない。管理局の承認と記録が残る。

 

「入るわよ」

 ペルシアがノックもせずに開ける。

 

 中の空気が、一段と硬い。

 視線が集まる。リュウジが入った瞬間に、誰かが息を飲むのが分かった。

 

 S級パイロット。最年少。悲劇のフライト。生還者。

 名札がなくても、彼だと分かる。

 

「本人、到着」

 ペルシアが短く言う。

 そして、そのまま自然に椅子を引く。

「座りなさい。逃げないで」

 

「逃げない」

 リュウジは椅子に腰を下ろした。

 

 正面に座るのは、飛行資格部門の責任者――白髪混じりの男だ。

 低く、淡々とした声で進む。

 

「本日は、S級資格返上の最終意思確認および関連手続きの実施となります」

「……はい」

 

「まず確認します。あなたは、強制や圧力によらず、自らの意思で返上を希望しますか」

「希望します」

 

 短い。

 迷いがないように聞こえるように、リュウジは声の高さを一定にした。

 感情を乗せると、揺れるから。

 

「返上後、S級パイロットとしての権限・待遇・責務は消失します。再取得は原則として再審査が必要であり、過去の実績が自動的に復元されるものではありません」

「理解しています」

 

「また、過去にあなたに付与されていた特例運用権、緊急発進優先権も同様に無効となります」

「はい」

 

 ペルシアが、横で足を組み替える。

 いつもなら茶々を入れるタイミングなのに、今は黙っている。

 

 責任者は、淡々と続けた。

 

「返上理由は“個人的事情”として記録します。詳細を提出しますか」

 リュウジは一瞬だけ瞼を伏せる。

 “悲劇のフライト”と書けば、また紙がひとり歩きする。

 “心的外傷”と書けば、また勝手に病名が踊る。

 どれも違う。どれも同じ。言葉にした瞬間、切り取られる。

 

「提出しません」

 それだけ言った。

 

「承知しました」

 責任者は頷き、書類を一枚ずつ揃える。

「最終確認として――返上後の進路について、宇宙管理局として支援窓口を案内できます。希望しますか」

 

 リュウジは答えようとして、口を閉じた。

 “支援”という言葉に、胸の奥が少しだけざわつく。

 必要だ。でも、頼るのが怖い。

 サヴァイヴで学んだのは、頼っても崩れない関係があるということなのに。

 

 その沈黙を破ったのは、ペルシアだった。

 

「こいつ、必要な時は自分から来るわよ」

 軽く言いながら、視線だけは鋭い。

「ね、リュウジ」

 

 リュウジは、わずかに口角を上げた。

「……必要なら来ます」

 

「では、本日の検査結果を踏まえ、最終署名に進みます。検査に移動してください」

 責任者がそう告げると、同席していた職員が立ち上がった。

 

 会議室を出た瞬間、リュウジは息を吐いた。

 空気が薄いわけじゃないのに、呼吸が浅くなっていた。

 

「顔、硬い」

 ペルシアが言う。

 

「元からだ」

「それ、便利よね。何でも“元から”で済む」

 ペルシアは歩調を合わせながら続ける。

「でも、今日くらいは硬くてもいいわ。硬いのが嫌なら、途中で折れる」

 

 その言い方が、妙に優しかった。

 

◇◇◇◇

 

 検査フロアは、静かだった。

 白い壁、白い床。足音すら吸い込まれる。

 リュウジは案内の通り、順に検査室へ入っていく。

 

 最初は、身体計測と血液検査、心電図。

 機械に指を挟まれ、腕にバンドを巻かれ、センサーを貼られる。

 

「緊張してます?」

 若い検査員が、冗談めかして言う。

 

「してません」

 リュウジは即答した。

 

 検査員は苦笑いを浮かべる。

「してない人ほど、数値が跳ねるんですよね」

 

 ペルシアが横から口を挟む。

「跳ねたら私のせいにしなさい。私の顔がうるさいからって」

 

「あなたの顔はいつも同じでしょ」

 検査員がつい言ってしまい、ペルシアがニヤッと笑う。

「言ったわね。覚えときなさい。私に“同じ”は褒め言葉よ」

 

 リュウジは小さく息を吐き、視線を天井へやった。

 軽口があるだけで、救われる瞬間がある。

 

 数値は安定していた。

 風邪の後だが、肺の状態も回復傾向。

 医師が「気を付けてね」とだけ言い、次へ回される。

 

◇◇◇◇

 

 次は反射テスト。

 光点が点滅し、視線追跡、手の動き、反応速度。

 数字や図形が浮かび、即座に判別して答える。

 

 リュウジは淡々とこなした。

 サヴァイヴで、目と耳と皮膚で危険を拾い続けた。

 訓練室の光点は、優しすぎる。

 

 それでも、ペルシアは横でじっと見ていた。

 ただの付き添いではない。

 “最後のS級としてのリュウジ”を、目に焼き付けている。

 

「反応速度、基準値上位ですね」

 検査員が驚く。

「……返上、もったいないくらい」

 

 リュウジは答えない。

 “もったいない”の言葉は、いつも他人の尺度だ。

 

 ペルシアが代わりに言う。

「もったいないかどうかは、本人が決めるのよ」

 

 検査員は頷き、次の項目へ進めた。

 

◇◇◇◇

 

 最も時間がかかったのが、認知・ストレス耐性のテストだった。

 映像と音、計算、状況判断。

 わざと判断を迷わせる情報が入る。

 反復する警報音。

 “重大トラブル”を想定したシナリオ。

 

 リュウジは、呼吸を一定に保った。

 考え過ぎない。感じ過ぎない。

 ただ、次の一手を確認する。

 

 ふと、ペルシアの言葉が脳裏をよぎる。

 ――比較に囚われるな。宇宙では自分の次の一手を確認しろ。

 

 その言葉は、いつだって正しい。

 だけど今日は、少しだけ違う意味で刺さった。

 

 “次の一手”は、操縦桿を握ることだけじゃない。

 生き方のことでもある。

 

 最終段階、画面に“緊急脱出”の選択肢が出た。

 残るか、離脱か。

 救うか、守るか。

 正解はない。状況次第。

 それを、あえて時間制限付きで問う。

 

 リュウジは、一秒だけ迷って、離脱を選んだ。

 “全員を救う”より、“確実に生き残る”方を選ぶ。

 サヴァイヴで学んだ現実。

 そして、悲劇のフライトで突きつけられた代償。

 

 テストが終わり、ヘッドセットが外される。

 

「……お疲れさまでした」

 担当医が書類を見ながら言う。

「問題ありません。むしろ良好です」

 

 リュウジは頷いた。

 良好。

 それが嬉しいのに、胸のどこかが空っぽになる。

 

 ここまで完璧にできるのに、手放す。

 それは矛盾ではなく、選択だ。

 だが、選択はいつだって、少し痛い。

 

◇◇◇◇

 

 昼を挟んで、最後のフロアへ移動する。

 途中、ペルシアが自販機でコーヒーを買って、リュウジに押し付けた。

 

「飲みなさい。顔色悪い」

「悪くない」

「悪い。……ほら、甘いやつにしておいた」

 

「……ブラックでいい」

「今日は甘いの。今日は“甘い日”」

 ペルシアは勝手に決める。

 

 リュウジは渋々一口含んだ。

 確かに甘い。

 甘さが喉に残り、少しだけ呼吸が楽になる。

 

「……ペルシア」

 リュウジが言うと、ペルシアが眉を上げた。

「なによ。今さら感謝とか言うなら、先に合鍵」

 

「言わない」

「でしょ」

 

 リュウジは一度、言葉を探した。

 冗談で逃げたい気持ちと、逃げたくない気持ちがぶつかる。

 

「……今日は、付き添いありがとう」

 結局、それだけ言った。

 

 ペルシアは一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに鼻で笑う。

「何よ、急に。気持ち悪い」

 

「言うと思った」

「でも、まあ……」

 ペルシアは視線を逸らし、コーヒーの缶を軽く振る。

「最後まで付き合うわ。見納めだもの」

 

 “見納め”

 その言葉が、さっきよりも柔らかく聞こえた。

 

◇◇◇◇

 

 再び会議室。朝と同じ部屋。

 書類の束は増え、項目は埋まり、検査結果が添付されている。

 

 飛行資格部門の責任者が、淡々と確認する。

 

「検査結果、問題なし。意思確認、再度行います」

「はい」

 

「あなたは、自らの意思でS級資格を返上しますか」

「返上します」

 

「返上後、当該資格に基づく権限・待遇・責務は失効します。理解していますか」

「理解しています」

 

 机の上に、署名欄が示される。

 ペンが置かれた。

 

 ――たった一つの署名。

 でも、その一筆で、世界の見え方が変わる。

 

 リュウジはペンを取った。

 指先が少しだけ冷たい。

 握り直す。

 息を吸う。

 吐く。

 

 その間、ペルシアは黙っていた。

 いつもなら何か言って、空気を崩す。

 でも今は、崩さない。

 崩したら、リュウジが“逃げ”を選ぶと分かっているから。

 

 リュウジは、署名した。

 自分の名前を、いつもの字で。

 乱れず、飾らず。

 

 ペン先が紙から離れた瞬間、胸の奥が少しだけ空洞になる。

 しかし同時に、別の感覚が生まれる。

 

 ――軽い。

 肩の上に乗っていた、見えない鉄の板が、少しだけ外れた気がした。

 

「手続きは完了しました」

 責任者が言う。

「本日付で、あなたのS級資格は失効します。記録は保管されます。……お疲れさまでした」

 

 “お疲れさまでした”

 それは労いであり、送別でもある。

 リュウジは頷いて立ち上がった。

 

 会議室を出ると、廊下の空気が朝よりも温かく感じた。

 夕方の光がガラスを橙に染めている。

 

 ペルシアが隣を歩きながら、ぽつりと言う。

 

「……終わったわね」

「ああ」

 

「意外と、泣かないのね」

「泣くわけないだろ」

 

「そうね。泣くなら、ルナの前で泣きなさい」

 ペルシアはさらっと言って、リュウジの横顔を盗み見る。

「……もう連絡したの?」

 

 リュウジは少しだけ間を置いた。

 連絡――ルナ。

 先輩の卒業式の準備と本番。終わったら会う約束。

 

「……これからする」

「しなさい」

 ペルシアが即答する。

「こういう時に黙ってるのが、一番ダメ。あんたはそれで誤解される」

 

「分かってる」

「分かってない顔」

「……うるさい」

 

 リュウジは携帯を取り出した。

 画面には、溜まった通知。

 でも、今はそれを全部見る必要はない。

 

 必要なのは一つだけ。

 “終わった”と伝えること。

 そして、“これから”を始めるための合図。

 

 リュウジは短くメッセージを打ち込んだ。

 

――終わった。夕方、約束通り会える。連絡くれ。

 

 送信。

 携帯を握ったまま、リュウジは息を吐く。

 

 ペルシアが満足そうに頷いた。

「はい、よくできました」

 

「子ども扱いするな」

「子どもみたいなことするからよ」

 

 その言い方は相変わらずだ。

 でも、今日は不思議と刺さらない。

 むしろ、支えに聞こえる。

 

 宇宙管理局のエントランスに戻ると、外はもう夕暮れだった。

 透明な空の下、コロニーの街が淡い光をまとっている。

 

 リュウジは足を止め、振り返った。

 管理局の建物を見上げる。

 ここは、肩書きをくれた場所。

 そして、肩書きを返した場所。

 

 ペルシアが隣で言う。

 

「さあ、行きなさい。あなたの“次の一手”は、ここじゃない」

「……分かってる」

 

「ルナ、待ってるわよ。卒業式の片付けもあるんでしょ。走らせるんじゃないわよ」

「走らせない」

 

「走らせたら、合鍵問題とは別で、私は怒る」

「だから合鍵は渡さない」

 

「しつこい!」

 

 ペルシアが笑い、リュウジも小さく鼻で笑った。

 笑ってしまったことに、自分で少し驚く。

 

 区切りは、終わった。

 でも、“終わり”は空白じゃない。

 

 リュウジは外へ歩き出した。

 冷たい風が頬を撫でる。

 それでも足取りは、朝より軽い。

 

 夕方のどこかで、ルナが待っている。

 先輩たちを送り出したその手で、自分の新しい一歩を迎えてくれる。

 

 そのことが、今のリュウジには――

 不思議なくらい、怖くなかった。

 

ーーーー

 

 夕暮れのコロニーは、ガラスの壁面に薄桃色の光を残していた。卒業式の片付けを終えた帰り道、ルナは自然と足を速めていた。体育館の熱気が抜けた身体に、冷たい風が入り込む。それなのに胸の内側だけは、ずっと温かいままだった。

 

 ――リュウジに会える。

 

 約束は短い言葉だった。

 けれど、短いほど重い時もある。

 

 通りの角を曲がると、そこにリュウジがいた。街灯の下、手袋をしたまま、壁にもたれて空を見上げている。

 いつもの無表情に見える――はずなのに。

 

 ルナは、思わず息を止めた。

 

 違う。

 どこか違う。

 

 目つきが柔らかいわけじゃない。笑っているわけでもない。

 それでも、表情の奥の“張り”が少しだけ抜けていた。肩の位置が、ほんの僅かに落ちている。

 重い鎧を、いったん床に置いたみたいな、そんな気配。

 

「リュウジ」

 

 呼ぶと、リュウジの視線が降りてくる。

 ルナを認めた瞬間、ほんの少しだけ口元が動いた。笑う寸前で止めたみたいに。

 

「……遅い」

「ごめんね。片付けが思ったより長引いちゃって」

「……分かってる」

 

 ルナは近づいて、リュウジの顔をじっと見た。

「終わった……んだよね?」

「ああ。区切りはつけてきた」

 

 その言葉の“区切り”が、ルナの胸の奥に静かに落ちる。

 喜ぶべきなのか、寂しがるべきなのか、分からない。

 でも今、リュウジがここにいる。それだけは確かだ。

 

「……顔、変」

 ルナが言うと、リュウジは眉を寄せた。

「変って何だ」

「いつもと違う」

「……それは、褒めてるのか」

「うん。たぶん」

 

 ルナがそう言うと、リュウジはわずかに息を吐いた。

 それが、答えの代わりみたいだった。

 

 ルナは、少しだけ迷ってから言った。

「ねえ、今日は――私の家で夕飯食べていって」

「……急だな」

「急じゃないよ。だって、会えたんだもん」

 ルナは自分でも言いながら照れてしまって、頬を掻く。

「今日は唐揚げよ! いっぱい作る!」

 

 リュウジが一瞬、目を瞬かせる。

「唐揚げ……」

「嫌?」

「嫌じゃない」

「じゃあ決まり」

 

 ルナが笑うと、リュウジは小さく頷いた。

 “行く”と同じ意味の頷き。

 それだけで、ルナの足取りが軽くなる。

 

 帰り道、ルナはいつもよりよく喋った。

 先輩の卒業式がどうだったか、壇上の花が崩れかけてメノリが焦っていたこと、ハワードが来賓の前で変な顔をして怒られたこと。

 リュウジは「ふうん」「そうか」と短く返すだけなのに、聞いていない感じはしなかった。

 

 途中、ルナがふと横を見る。

 リュウジの歩幅は、ルナに合わせて少しだけ狭い。

 それが妙に嬉しくて、ルナは前を向いたまま口元だけで笑った。

 

 家の前まで来ると、玄関灯が暖かい色で二人を照らした。

 ルナが鍵を開ける前に、リュウジがぼそっと言う。

 

「……世話になる」

「世話じゃないって。今日は、ただの夕飯」

 

 玄関を開けると、すぐにチャコの声が飛んできた。

 

「おっ、帰ってきたんか――って、リュウジもおるやないか!」

 

 チャコは相変わらず関西弁で、まるで自分の家の客を迎えるみたいに胸を張った。

 旧式のボディが小刻みに揺れて、嬉しそうなのが分かる。

 

「邪魔する」

 リュウジが靴を揃えると、チャコがニヤニヤする。

 

「邪魔する言う割に、ちゃんと来るんやなぁ。ほれ、上がりぃ」

「ああ」

「まぁ、リュウジの家みたいなもんやしな」

「違う」

「細かいこと言うなや」

 

 ルナはそのやり取りに笑って、キッチンへ向かった。

「私、作ってくるね。二人はリビングで待ってて」

 

「手伝おうか?」

 リュウジが言うと、ルナは首を振る。

「大丈夫。リュウジは今日は休んで」

 

 “今日は”という言葉に、ルナの優しさが滲む。

 リュウジは何も言わず、頷いた。

 

 キッチンに立つと、油の匂いが立ち上がる。

 下ごしらえは朝のうちに済ませておいた。

 鶏肉に下味をつけて、片栗粉をまぶして、揚げるだけ。

 

 ジュワッ、と音が鳴った瞬間、ルナは妙に安心した。

 料理の音は、生活の音だ。

 “生きてる”音。

 

 背後のリビングでは、リュウジとチャコの話し声が聞こえる。

 

「で、ほんまに返上したんか?」

 チャコの声が少しだけ低い。冗談じゃなく、本気で聞いている。

 

「ああ。今日で終わった」

 リュウジの声は静かだ。

 でも、どこか硬さが抜けている。

 

 チャコはしばらく黙った。

 その沈黙が、サヴァイヴの夜を思い出させる。焚き火のそばで、言葉を選びながら話していた夜。

 

「やりたい事はなんや?」

 チャコがぽつりと言った。

 

 油の音が、ルナの耳にはやけに大きく響いた。

 ルナは箸を止めず、でも耳はそちらに向ける。

 

「言わない。」

 リュウジは、短く答えた。

 その一言が意外で、ルナの胸がきゅっとなった。

 

「ちゃんと形になってから言う」

 リュウジは続ける。

 

「……ほぉ」

 チャコは小さく頷いた気配がした。

「リュウジがそんなこと言うようになるとはなぁ」

 

「うるさい」

「褒めとるんや。褒めとる」

 

 少しだけ、間が空く。

 チャコがわざと明るく言った。

 

「ほな、明日からは“元S級パイロット”って呼んだろか?」

「やめろ」

「ほな“元悲劇のフライトの英雄”?」

「もっとやめろ」

「ほな……ただのリュウジでええか」

 チャコの声が、柔らかくなった。

 

 リュウジはしばらく黙って、やがて言った。

 

「……それでいい」

 

 ルナは揚げ油の前で、知らないうちに目が潤んでいるのを感じた。

 慌てて瞬きをして、唐揚げを網に上げる。

 カリッと揚がった衣が、黄金色に光る。

 

 ――ただのリュウジ。

 その“ただ”が、どれほど難しいことか。

 ルナは知っている。

 

「できたよー!」

 

 ルナが皿を運ぶと、リビングの空気がさっきより少し軽くなっていた。

 チャコはソファの端で偉そうに座っていて、リュウジはその隣で腕を組んでいる。

 

「唐揚げ、山盛りやな!」

 チャコが目を輝かせる。

「今日は勝ちや」

「何の勝ちだよ」

「食卓の勝ちや!」

 

 ルナは笑いながら、唐揚げの皿と、サラダと、味噌汁と、ご飯を並べた。

 今日は特別だから、少し奮発して卵のスープも作った。

 

「いただきます」

 ルナが言うと、リュウジもチャコも続く。

 

「いただきます」

「いただきまーす!」

 

 リュウジが唐揚げを一つ取って、静かに齧る。

 衣の音が小さく鳴り、湯気が立つ。

 

「……うまい」

 それだけ言って、もう一つ取った。

 

 ルナは思わず笑ってしまう。

「いっぱい食べて。今日はね、リュウジの区切りの日だから」

「区切りはもう終わった」

「でも、終わったら始まるでしょ?」

 ルナは箸で唐揚げを指し示す。

「これは“始まりの唐揚げ”!」

 

 チャコが腹を抱えるように笑った。

「なんやそれ! ルナ、変な名前つけんの上手いな!」

「いいじゃない。ね、リュウジ」

 ルナが覗き込むと、リュウジは少しだけ困った顔をする。

 

「……好きにしろ」

 でも、その声は柔らかかった。

 

 食卓はにぎやかだった。

 チャコがテレビの特番の話をし、ルナが学校の準備の苦労を話し、リュウジが短い言葉で突っ込む。

 時々、リュウジが黙り込む瞬間があると、ルナは気づかないふりをして唐揚げを皿に足した。

 “食べる”は、立派な回復だ。

 

 やがてチャコが箸を置き、わざとらしく言った。

「リュウジ、ペルシアは何か言うとったんか?」

「何かって?」

「返上の時とか、こう……泣いたり暴れたり」

「するわけないだろ」

「せやなぁ」

 チャコはニヤリとする。

「でも、抱きついたりはするやろ」

「流石にない」

「ないんかい!」

 チャコが楽しそうに笑うと、ルナも吹き出してしまった。

 

「でも、抱きつかれた時のリュウジ、嫌そうな顔してるのが目に浮かぶ」

「浮かべるな」

「だって、分かりやすいもん」

 

 リュウジはむっとした顔をしたのに、すぐに諦めたように息を吐いた。

 その息の吐き方が、今日だけは“負け”じゃなく“緩み”に見えて、ルナは胸が温かくなる。

 

 食後、ルナが片付けようとすると、リュウジが立ち上がった。

 

「皿、運ぶ」

「え、いいよ」

「運ぶだけだ」

 

 運ぶだけ。

 それでも十分だった。

 ルナは「ありがとう」と言って、リュウジに皿を渡した。

 

 キッチンで並んで洗い物をするわけではない。

 リュウジはあくまで“運ぶだけ”で、シンクの前には立たない。

 でも、ルナの隣に立っている時間が増えるだけで、今日は特別になった。

 

 片付けが終わり、ルナがリビングに戻ると、チャコが欠伸をした。

 

「ほな、ウチは先に寝るわ。年寄りは早寝早起きや」

「旧式が何言ってるの」

 ルナが笑うと、チャコは肩をすくめる。

「ほな、二人は仲良うやりぃ」

 

「待て」

 リュウジがすぐ止める。

「変なこと言うな」

「変なことちゃうやろ」

 チャコはわざとらしく小指を立てる。

「ほれ、テーマパークも行ったんやろ? 順調やん」

 

「順調とかじゃない」

「順調やな」

 チャコは勝手に結論を出し、寝室へ消えていった。

 

 リビングに残ったのは、ルナとリュウジだけ。

 急に静かになる。

 さっきまでの笑い声が引いた分、心臓の音が少しだけ大きく聞こえた。

 

 ルナはソファの端に座り、リュウジを見上げる。

「……今日、疲れた?」

「疲れた」

 リュウジは正直に言った。

 それがまた、いつもと違う。

 

「じゃあ、少しだけ……休んでいって」

 ルナは言ってから、慌てて続ける。

「帰らないで、じゃないよ! 帰るのは帰るんだけど、ほら、夜は寒いし……」

 

 リュウジはルナの言い訳を黙って聞いて、ふっと息を吐いた。

「……分かった。少しだけな」

 

 ルナの胸が、また軽くなる。

 少しだけでも、今日のリュウジは“ここにいる”ことを選んだ。

 

「ねえ、リュウジ」

 ルナは声を落とした。

「区切り、つけてきたって言ったでしょ。……痛くなかった?」

 

 リュウジは、しばらく黙った。

 そして、窓の外の街灯を見ながら答える。

 

「痛い」

 短く。

 でも、はっきりと。

 

「でも、痛いまま持ってると、いつか別の誰かを傷つける」

 リュウジの声は、いつもの冷たさじゃなく、低い静けさだった。

「俺は……もう、そういうのは嫌だ」

 

 ルナは胸の奥が熱くなって、言葉が出なかった。

 代わりに、そっと言う。

 

「……そっか」

 それしか言えないのに、リュウジはそれで分かったみたいに頷いた。

 

 ルナは、ひとつだけ勇気を出した。

 

「じゃあさ」

「ん」

「“ただのリュウジ”になったなら……これからは、もっと私に頼っていいよ」

 

 リュウジが視線を向ける。

 ルナは逃げずに見返した。

 心臓が跳ねる。けれど、目は逸らさない。

 

 リュウジは少しだけ困った顔をして、でも――

 小さく、頷いた。

 

「……考えとく」

「今、うんって言った!」

「言ってない」

「頷いた!」

「……うるさい」

 

 ルナは笑った。

 笑いながら、胸の奥で静かに思う。

 

 今日ここに来てくれたこと。

 唐揚げを“うまい”と言ってくれたこと。

 “痛い”と認めてくれたこと。

 

 それだけで、ルナにとっては十分だった。

 

 リュウジが立ち上がる。

「そろそろ帰る」

「うん。送る?」

「いらない。近い」

「じゃあ……気をつけてね」

 

 玄関まで見送りに行く。

 靴を履いたリュウジが、扉を開ける前に一瞬止まる。

 

「……ルナ」

「なに?」

 

「今日は……助かった」

 たったそれだけ。

 

 ルナは息を飲んで、すぐに笑って頷いた。

「どういたしまして。明日も、ちゃんと食べてね。唐揚げ、まだあるから」

 

 リュウジは小さく鼻で笑った。

「……太らせる気か」

「太らないよ。リュウジはいっぱい動くから」

「もうS級じゃない」

「関係ない。リュウジはリュウジ」

 

 その言葉が、玄関灯の下でふっと温かく漂った。

 リュウジは何も言わず、扉を開ける。

 

「じゃあな」

「うん。またね」

 

 扉が閉まる。

 ルナはしばらくその場に立っていた。

 

 区切りの日の夕飯。

 ただの唐揚げのはずなのに、今日は特別だった。

 

 そしてルナは思う。

 “区切り”は終わりじゃない。

 誰かと笑って食卓を囲むことが、きっと次の始まりになるのだと。

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