宇宙管理局のエントランスは、朝の光がガラス越しに白く反射して、冬の冷たさをそのまま磨き上げたみたいに見えた。床に映る人影さえ、輪郭がくっきりしている。
リュウジは、受付の前で立ち止まった。
制服ではない。いつもの黒っぽい上着に、手袋。マスクはしていない。風邪はもう治った。けれど、喉の奥に残る乾いた感覚だけが、妙に現実を強めていた。
名を告げる前に、奥から足音が近づいてくる。
ヒールの音。早い。迷いがない。
「おはよう、リュウジ」
振り返ると、ペルシアが腕を組んで立っていた。相変わらず、目が笑っていないのに口元だけが楽しそうだ。髪を払って、わざとらしくため息をひとつ。
「ブライアンも復活したし、とうとうS級パイロットのリュウジを見るのも、これで見納めか」
言い方が軽い。軽く言って、重く刺す。
ペルシアらしい。
「……朝から縁起でもない」
リュウジは淡々と返した。
「縁起? 縁起いいじゃない。区切りってやつでしょ」
ペルシアは肩をすくめ、カードキーを翳してゲートを開ける。
「今日は長いわよ。覚悟して」
「覚悟はしてる」
「してる顔じゃない」
「元からこういう顔だ」
ペルシアはふっと笑った。
笑ってから、ほんの少しだけ真顔に戻る。
「でも、まあ……来てくれてよかった。逃げられたら、私は合鍵の件で一生いじれなくなるところだったもの」
「合鍵は渡さないって言っただろ」
「言ったわね。だから今も言い続けてるのよ。寄こしなさいって」
「帰れ」
「ここ私の職場」
短い応酬が、廊下の冷えた空気を少しだけ緩める。
だが今日、ここにいる理由は冗談で包めるほど軽くない。
リュウジは、深く息を吸い込んだ。
金属と消毒液と、ほんの少しの機械油――宇宙管理局特有の匂いがした。
サヴァイヴの匂いとは違う。あの土や湿った葉の匂いではない。
でも、同じくらい身体が覚えている匂いだった。
「まず、最終確認」
ペルシアが歩きながら言う。
「そのあと検査。身体、反射、認知、ストレス耐性。最後が署名。……一日仕事よ」
「分かってる」
「分かってるなら、眉間の皺やめなさい」
「皺じゃない」
「皺よ。ほら、ここ」
ペルシアが指先で自分の眉間を示す。
リュウジは無言で視線を外した。
――この手の、軽口の裏にある配慮を、リュウジは知っている。
ペルシアは“重い”を直視させないために、わざとふざける。
そして、本当に必要な瞬間だけ真面目になる。
◇◇◇◇
会議室の扉の前で、ペルシアが立ち止まった。
ガラス越しに、数名の職員の影が見える。法務、運用管理、飛行資格部門。
“返上”は、本人の意思だけで完結しない。管理局の承認と記録が残る。
「入るわよ」
ペルシアがノックもせずに開ける。
中の空気が、一段と硬い。
視線が集まる。リュウジが入った瞬間に、誰かが息を飲むのが分かった。
S級パイロット。最年少。悲劇のフライト。生還者。
名札がなくても、彼だと分かる。
「本人、到着」
ペルシアが短く言う。
そして、そのまま自然に椅子を引く。
「座りなさい。逃げないで」
「逃げない」
リュウジは椅子に腰を下ろした。
正面に座るのは、飛行資格部門の責任者――白髪混じりの男だ。
低く、淡々とした声で進む。
「本日は、S級資格返上の最終意思確認および関連手続きの実施となります」
「……はい」
「まず確認します。あなたは、強制や圧力によらず、自らの意思で返上を希望しますか」
「希望します」
短い。
迷いがないように聞こえるように、リュウジは声の高さを一定にした。
感情を乗せると、揺れるから。
「返上後、S級パイロットとしての権限・待遇・責務は消失します。再取得は原則として再審査が必要であり、過去の実績が自動的に復元されるものではありません」
「理解しています」
「また、過去にあなたに付与されていた特例運用権、緊急発進優先権も同様に無効となります」
「はい」
ペルシアが、横で足を組み替える。
いつもなら茶々を入れるタイミングなのに、今は黙っている。
責任者は、淡々と続けた。
「返上理由は“個人的事情”として記録します。詳細を提出しますか」
リュウジは一瞬だけ瞼を伏せる。
“悲劇のフライト”と書けば、また紙がひとり歩きする。
“心的外傷”と書けば、また勝手に病名が踊る。
どれも違う。どれも同じ。言葉にした瞬間、切り取られる。
「提出しません」
それだけ言った。
「承知しました」
責任者は頷き、書類を一枚ずつ揃える。
「最終確認として――返上後の進路について、宇宙管理局として支援窓口を案内できます。希望しますか」
リュウジは答えようとして、口を閉じた。
“支援”という言葉に、胸の奥が少しだけざわつく。
必要だ。でも、頼るのが怖い。
サヴァイヴで学んだのは、頼っても崩れない関係があるということなのに。
その沈黙を破ったのは、ペルシアだった。
「こいつ、必要な時は自分から来るわよ」
軽く言いながら、視線だけは鋭い。
「ね、リュウジ」
リュウジは、わずかに口角を上げた。
「……必要なら来ます」
「では、本日の検査結果を踏まえ、最終署名に進みます。検査に移動してください」
責任者がそう告げると、同席していた職員が立ち上がった。
会議室を出た瞬間、リュウジは息を吐いた。
空気が薄いわけじゃないのに、呼吸が浅くなっていた。
「顔、硬い」
ペルシアが言う。
「元からだ」
「それ、便利よね。何でも“元から”で済む」
ペルシアは歩調を合わせながら続ける。
「でも、今日くらいは硬くてもいいわ。硬いのが嫌なら、途中で折れる」
その言い方が、妙に優しかった。
◇◇◇◇
検査フロアは、静かだった。
白い壁、白い床。足音すら吸い込まれる。
リュウジは案内の通り、順に検査室へ入っていく。
最初は、身体計測と血液検査、心電図。
機械に指を挟まれ、腕にバンドを巻かれ、センサーを貼られる。
「緊張してます?」
若い検査員が、冗談めかして言う。
「してません」
リュウジは即答した。
検査員は苦笑いを浮かべる。
「してない人ほど、数値が跳ねるんですよね」
ペルシアが横から口を挟む。
「跳ねたら私のせいにしなさい。私の顔がうるさいからって」
「あなたの顔はいつも同じでしょ」
検査員がつい言ってしまい、ペルシアがニヤッと笑う。
「言ったわね。覚えときなさい。私に“同じ”は褒め言葉よ」
リュウジは小さく息を吐き、視線を天井へやった。
軽口があるだけで、救われる瞬間がある。
数値は安定していた。
風邪の後だが、肺の状態も回復傾向。
医師が「気を付けてね」とだけ言い、次へ回される。
◇◇◇◇
次は反射テスト。
光点が点滅し、視線追跡、手の動き、反応速度。
数字や図形が浮かび、即座に判別して答える。
リュウジは淡々とこなした。
サヴァイヴで、目と耳と皮膚で危険を拾い続けた。
訓練室の光点は、優しすぎる。
それでも、ペルシアは横でじっと見ていた。
ただの付き添いではない。
“最後のS級としてのリュウジ”を、目に焼き付けている。
「反応速度、基準値上位ですね」
検査員が驚く。
「……返上、もったいないくらい」
リュウジは答えない。
“もったいない”の言葉は、いつも他人の尺度だ。
ペルシアが代わりに言う。
「もったいないかどうかは、本人が決めるのよ」
検査員は頷き、次の項目へ進めた。
◇◇◇◇
最も時間がかかったのが、認知・ストレス耐性のテストだった。
映像と音、計算、状況判断。
わざと判断を迷わせる情報が入る。
反復する警報音。
“重大トラブル”を想定したシナリオ。
リュウジは、呼吸を一定に保った。
考え過ぎない。感じ過ぎない。
ただ、次の一手を確認する。
ふと、ペルシアの言葉が脳裏をよぎる。
――比較に囚われるな。宇宙では自分の次の一手を確認しろ。
その言葉は、いつだって正しい。
だけど今日は、少しだけ違う意味で刺さった。
“次の一手”は、操縦桿を握ることだけじゃない。
生き方のことでもある。
最終段階、画面に“緊急脱出”の選択肢が出た。
残るか、離脱か。
救うか、守るか。
正解はない。状況次第。
それを、あえて時間制限付きで問う。
リュウジは、一秒だけ迷って、離脱を選んだ。
“全員を救う”より、“確実に生き残る”方を選ぶ。
サヴァイヴで学んだ現実。
そして、悲劇のフライトで突きつけられた代償。
テストが終わり、ヘッドセットが外される。
「……お疲れさまでした」
担当医が書類を見ながら言う。
「問題ありません。むしろ良好です」
リュウジは頷いた。
良好。
それが嬉しいのに、胸のどこかが空っぽになる。
ここまで完璧にできるのに、手放す。
それは矛盾ではなく、選択だ。
だが、選択はいつだって、少し痛い。
◇◇◇◇
昼を挟んで、最後のフロアへ移動する。
途中、ペルシアが自販機でコーヒーを買って、リュウジに押し付けた。
「飲みなさい。顔色悪い」
「悪くない」
「悪い。……ほら、甘いやつにしておいた」
「……ブラックでいい」
「今日は甘いの。今日は“甘い日”」
ペルシアは勝手に決める。
リュウジは渋々一口含んだ。
確かに甘い。
甘さが喉に残り、少しだけ呼吸が楽になる。
「……ペルシア」
リュウジが言うと、ペルシアが眉を上げた。
「なによ。今さら感謝とか言うなら、先に合鍵」
「言わない」
「でしょ」
リュウジは一度、言葉を探した。
冗談で逃げたい気持ちと、逃げたくない気持ちがぶつかる。
「……今日は、付き添いありがとう」
結局、それだけ言った。
ペルシアは一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに鼻で笑う。
「何よ、急に。気持ち悪い」
「言うと思った」
「でも、まあ……」
ペルシアは視線を逸らし、コーヒーの缶を軽く振る。
「最後まで付き合うわ。見納めだもの」
“見納め”
その言葉が、さっきよりも柔らかく聞こえた。
◇◇◇◇
再び会議室。朝と同じ部屋。
書類の束は増え、項目は埋まり、検査結果が添付されている。
飛行資格部門の責任者が、淡々と確認する。
「検査結果、問題なし。意思確認、再度行います」
「はい」
「あなたは、自らの意思でS級資格を返上しますか」
「返上します」
「返上後、当該資格に基づく権限・待遇・責務は失効します。理解していますか」
「理解しています」
机の上に、署名欄が示される。
ペンが置かれた。
――たった一つの署名。
でも、その一筆で、世界の見え方が変わる。
リュウジはペンを取った。
指先が少しだけ冷たい。
握り直す。
息を吸う。
吐く。
その間、ペルシアは黙っていた。
いつもなら何か言って、空気を崩す。
でも今は、崩さない。
崩したら、リュウジが“逃げ”を選ぶと分かっているから。
リュウジは、署名した。
自分の名前を、いつもの字で。
乱れず、飾らず。
ペン先が紙から離れた瞬間、胸の奥が少しだけ空洞になる。
しかし同時に、別の感覚が生まれる。
――軽い。
肩の上に乗っていた、見えない鉄の板が、少しだけ外れた気がした。
「手続きは完了しました」
責任者が言う。
「本日付で、あなたのS級資格は失効します。記録は保管されます。……お疲れさまでした」
“お疲れさまでした”
それは労いであり、送別でもある。
リュウジは頷いて立ち上がった。
会議室を出ると、廊下の空気が朝よりも温かく感じた。
夕方の光がガラスを橙に染めている。
ペルシアが隣を歩きながら、ぽつりと言う。
「……終わったわね」
「ああ」
「意外と、泣かないのね」
「泣くわけないだろ」
「そうね。泣くなら、ルナの前で泣きなさい」
ペルシアはさらっと言って、リュウジの横顔を盗み見る。
「……もう連絡したの?」
リュウジは少しだけ間を置いた。
連絡――ルナ。
先輩の卒業式の準備と本番。終わったら会う約束。
「……これからする」
「しなさい」
ペルシアが即答する。
「こういう時に黙ってるのが、一番ダメ。あんたはそれで誤解される」
「分かってる」
「分かってない顔」
「……うるさい」
リュウジは携帯を取り出した。
画面には、溜まった通知。
でも、今はそれを全部見る必要はない。
必要なのは一つだけ。
“終わった”と伝えること。
そして、“これから”を始めるための合図。
リュウジは短くメッセージを打ち込んだ。
――終わった。夕方、約束通り会える。連絡くれ。
送信。
携帯を握ったまま、リュウジは息を吐く。
ペルシアが満足そうに頷いた。
「はい、よくできました」
「子ども扱いするな」
「子どもみたいなことするからよ」
その言い方は相変わらずだ。
でも、今日は不思議と刺さらない。
むしろ、支えに聞こえる。
宇宙管理局のエントランスに戻ると、外はもう夕暮れだった。
透明な空の下、コロニーの街が淡い光をまとっている。
リュウジは足を止め、振り返った。
管理局の建物を見上げる。
ここは、肩書きをくれた場所。
そして、肩書きを返した場所。
ペルシアが隣で言う。
「さあ、行きなさい。あなたの“次の一手”は、ここじゃない」
「……分かってる」
「ルナ、待ってるわよ。卒業式の片付けもあるんでしょ。走らせるんじゃないわよ」
「走らせない」
「走らせたら、合鍵問題とは別で、私は怒る」
「だから合鍵は渡さない」
「しつこい!」
ペルシアが笑い、リュウジも小さく鼻で笑った。
笑ってしまったことに、自分で少し驚く。
区切りは、終わった。
でも、“終わり”は空白じゃない。
リュウジは外へ歩き出した。
冷たい風が頬を撫でる。
それでも足取りは、朝より軽い。
夕方のどこかで、ルナが待っている。
先輩たちを送り出したその手で、自分の新しい一歩を迎えてくれる。
そのことが、今のリュウジには――
不思議なくらい、怖くなかった。
ーーーー
夕暮れのコロニーは、ガラスの壁面に薄桃色の光を残していた。卒業式の片付けを終えた帰り道、ルナは自然と足を速めていた。体育館の熱気が抜けた身体に、冷たい風が入り込む。それなのに胸の内側だけは、ずっと温かいままだった。
――リュウジに会える。
約束は短い言葉だった。
けれど、短いほど重い時もある。
通りの角を曲がると、そこにリュウジがいた。街灯の下、手袋をしたまま、壁にもたれて空を見上げている。
いつもの無表情に見える――はずなのに。
ルナは、思わず息を止めた。
違う。
どこか違う。
目つきが柔らかいわけじゃない。笑っているわけでもない。
それでも、表情の奥の“張り”が少しだけ抜けていた。肩の位置が、ほんの僅かに落ちている。
重い鎧を、いったん床に置いたみたいな、そんな気配。
「リュウジ」
呼ぶと、リュウジの視線が降りてくる。
ルナを認めた瞬間、ほんの少しだけ口元が動いた。笑う寸前で止めたみたいに。
「……遅い」
「ごめんね。片付けが思ったより長引いちゃって」
「……分かってる」
ルナは近づいて、リュウジの顔をじっと見た。
「終わった……んだよね?」
「ああ。区切りはつけてきた」
その言葉の“区切り”が、ルナの胸の奥に静かに落ちる。
喜ぶべきなのか、寂しがるべきなのか、分からない。
でも今、リュウジがここにいる。それだけは確かだ。
「……顔、変」
ルナが言うと、リュウジは眉を寄せた。
「変って何だ」
「いつもと違う」
「……それは、褒めてるのか」
「うん。たぶん」
ルナがそう言うと、リュウジはわずかに息を吐いた。
それが、答えの代わりみたいだった。
ルナは、少しだけ迷ってから言った。
「ねえ、今日は――私の家で夕飯食べていって」
「……急だな」
「急じゃないよ。だって、会えたんだもん」
ルナは自分でも言いながら照れてしまって、頬を掻く。
「今日は唐揚げよ! いっぱい作る!」
リュウジが一瞬、目を瞬かせる。
「唐揚げ……」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ決まり」
ルナが笑うと、リュウジは小さく頷いた。
“行く”と同じ意味の頷き。
それだけで、ルナの足取りが軽くなる。
帰り道、ルナはいつもよりよく喋った。
先輩の卒業式がどうだったか、壇上の花が崩れかけてメノリが焦っていたこと、ハワードが来賓の前で変な顔をして怒られたこと。
リュウジは「ふうん」「そうか」と短く返すだけなのに、聞いていない感じはしなかった。
途中、ルナがふと横を見る。
リュウジの歩幅は、ルナに合わせて少しだけ狭い。
それが妙に嬉しくて、ルナは前を向いたまま口元だけで笑った。
家の前まで来ると、玄関灯が暖かい色で二人を照らした。
ルナが鍵を開ける前に、リュウジがぼそっと言う。
「……世話になる」
「世話じゃないって。今日は、ただの夕飯」
玄関を開けると、すぐにチャコの声が飛んできた。
「おっ、帰ってきたんか――って、リュウジもおるやないか!」
チャコは相変わらず関西弁で、まるで自分の家の客を迎えるみたいに胸を張った。
旧式のボディが小刻みに揺れて、嬉しそうなのが分かる。
「邪魔する」
リュウジが靴を揃えると、チャコがニヤニヤする。
「邪魔する言う割に、ちゃんと来るんやなぁ。ほれ、上がりぃ」
「ああ」
「まぁ、リュウジの家みたいなもんやしな」
「違う」
「細かいこと言うなや」
ルナはそのやり取りに笑って、キッチンへ向かった。
「私、作ってくるね。二人はリビングで待ってて」
「手伝おうか?」
リュウジが言うと、ルナは首を振る。
「大丈夫。リュウジは今日は休んで」
“今日は”という言葉に、ルナの優しさが滲む。
リュウジは何も言わず、頷いた。
キッチンに立つと、油の匂いが立ち上がる。
下ごしらえは朝のうちに済ませておいた。
鶏肉に下味をつけて、片栗粉をまぶして、揚げるだけ。
ジュワッ、と音が鳴った瞬間、ルナは妙に安心した。
料理の音は、生活の音だ。
“生きてる”音。
背後のリビングでは、リュウジとチャコの話し声が聞こえる。
「で、ほんまに返上したんか?」
チャコの声が少しだけ低い。冗談じゃなく、本気で聞いている。
「ああ。今日で終わった」
リュウジの声は静かだ。
でも、どこか硬さが抜けている。
チャコはしばらく黙った。
その沈黙が、サヴァイヴの夜を思い出させる。焚き火のそばで、言葉を選びながら話していた夜。
「やりたい事はなんや?」
チャコがぽつりと言った。
油の音が、ルナの耳にはやけに大きく響いた。
ルナは箸を止めず、でも耳はそちらに向ける。
「言わない。」
リュウジは、短く答えた。
その一言が意外で、ルナの胸がきゅっとなった。
「ちゃんと形になってから言う」
リュウジは続ける。
「……ほぉ」
チャコは小さく頷いた気配がした。
「リュウジがそんなこと言うようになるとはなぁ」
「うるさい」
「褒めとるんや。褒めとる」
少しだけ、間が空く。
チャコがわざと明るく言った。
「ほな、明日からは“元S級パイロット”って呼んだろか?」
「やめろ」
「ほな“元悲劇のフライトの英雄”?」
「もっとやめろ」
「ほな……ただのリュウジでええか」
チャコの声が、柔らかくなった。
リュウジはしばらく黙って、やがて言った。
「……それでいい」
ルナは揚げ油の前で、知らないうちに目が潤んでいるのを感じた。
慌てて瞬きをして、唐揚げを網に上げる。
カリッと揚がった衣が、黄金色に光る。
――ただのリュウジ。
その“ただ”が、どれほど難しいことか。
ルナは知っている。
「できたよー!」
ルナが皿を運ぶと、リビングの空気がさっきより少し軽くなっていた。
チャコはソファの端で偉そうに座っていて、リュウジはその隣で腕を組んでいる。
「唐揚げ、山盛りやな!」
チャコが目を輝かせる。
「今日は勝ちや」
「何の勝ちだよ」
「食卓の勝ちや!」
ルナは笑いながら、唐揚げの皿と、サラダと、味噌汁と、ご飯を並べた。
今日は特別だから、少し奮発して卵のスープも作った。
「いただきます」
ルナが言うと、リュウジもチャコも続く。
「いただきます」
「いただきまーす!」
リュウジが唐揚げを一つ取って、静かに齧る。
衣の音が小さく鳴り、湯気が立つ。
「……うまい」
それだけ言って、もう一つ取った。
ルナは思わず笑ってしまう。
「いっぱい食べて。今日はね、リュウジの区切りの日だから」
「区切りはもう終わった」
「でも、終わったら始まるでしょ?」
ルナは箸で唐揚げを指し示す。
「これは“始まりの唐揚げ”!」
チャコが腹を抱えるように笑った。
「なんやそれ! ルナ、変な名前つけんの上手いな!」
「いいじゃない。ね、リュウジ」
ルナが覗き込むと、リュウジは少しだけ困った顔をする。
「……好きにしろ」
でも、その声は柔らかかった。
食卓はにぎやかだった。
チャコがテレビの特番の話をし、ルナが学校の準備の苦労を話し、リュウジが短い言葉で突っ込む。
時々、リュウジが黙り込む瞬間があると、ルナは気づかないふりをして唐揚げを皿に足した。
“食べる”は、立派な回復だ。
やがてチャコが箸を置き、わざとらしく言った。
「リュウジ、ペルシアは何か言うとったんか?」
「何かって?」
「返上の時とか、こう……泣いたり暴れたり」
「するわけないだろ」
「せやなぁ」
チャコはニヤリとする。
「でも、抱きついたりはするやろ」
「流石にない」
「ないんかい!」
チャコが楽しそうに笑うと、ルナも吹き出してしまった。
「でも、抱きつかれた時のリュウジ、嫌そうな顔してるのが目に浮かぶ」
「浮かべるな」
「だって、分かりやすいもん」
リュウジはむっとした顔をしたのに、すぐに諦めたように息を吐いた。
その息の吐き方が、今日だけは“負け”じゃなく“緩み”に見えて、ルナは胸が温かくなる。
食後、ルナが片付けようとすると、リュウジが立ち上がった。
「皿、運ぶ」
「え、いいよ」
「運ぶだけだ」
運ぶだけ。
それでも十分だった。
ルナは「ありがとう」と言って、リュウジに皿を渡した。
キッチンで並んで洗い物をするわけではない。
リュウジはあくまで“運ぶだけ”で、シンクの前には立たない。
でも、ルナの隣に立っている時間が増えるだけで、今日は特別になった。
片付けが終わり、ルナがリビングに戻ると、チャコが欠伸をした。
「ほな、ウチは先に寝るわ。年寄りは早寝早起きや」
「旧式が何言ってるの」
ルナが笑うと、チャコは肩をすくめる。
「ほな、二人は仲良うやりぃ」
「待て」
リュウジがすぐ止める。
「変なこと言うな」
「変なことちゃうやろ」
チャコはわざとらしく小指を立てる。
「ほれ、テーマパークも行ったんやろ? 順調やん」
「順調とかじゃない」
「順調やな」
チャコは勝手に結論を出し、寝室へ消えていった。
リビングに残ったのは、ルナとリュウジだけ。
急に静かになる。
さっきまでの笑い声が引いた分、心臓の音が少しだけ大きく聞こえた。
ルナはソファの端に座り、リュウジを見上げる。
「……今日、疲れた?」
「疲れた」
リュウジは正直に言った。
それがまた、いつもと違う。
「じゃあ、少しだけ……休んでいって」
ルナは言ってから、慌てて続ける。
「帰らないで、じゃないよ! 帰るのは帰るんだけど、ほら、夜は寒いし……」
リュウジはルナの言い訳を黙って聞いて、ふっと息を吐いた。
「……分かった。少しだけな」
ルナの胸が、また軽くなる。
少しだけでも、今日のリュウジは“ここにいる”ことを選んだ。
「ねえ、リュウジ」
ルナは声を落とした。
「区切り、つけてきたって言ったでしょ。……痛くなかった?」
リュウジは、しばらく黙った。
そして、窓の外の街灯を見ながら答える。
「痛い」
短く。
でも、はっきりと。
「でも、痛いまま持ってると、いつか別の誰かを傷つける」
リュウジの声は、いつもの冷たさじゃなく、低い静けさだった。
「俺は……もう、そういうのは嫌だ」
ルナは胸の奥が熱くなって、言葉が出なかった。
代わりに、そっと言う。
「……そっか」
それしか言えないのに、リュウジはそれで分かったみたいに頷いた。
ルナは、ひとつだけ勇気を出した。
「じゃあさ」
「ん」
「“ただのリュウジ”になったなら……これからは、もっと私に頼っていいよ」
リュウジが視線を向ける。
ルナは逃げずに見返した。
心臓が跳ねる。けれど、目は逸らさない。
リュウジは少しだけ困った顔をして、でも――
小さく、頷いた。
「……考えとく」
「今、うんって言った!」
「言ってない」
「頷いた!」
「……うるさい」
ルナは笑った。
笑いながら、胸の奥で静かに思う。
今日ここに来てくれたこと。
唐揚げを“うまい”と言ってくれたこと。
“痛い”と認めてくれたこと。
それだけで、ルナにとっては十分だった。
リュウジが立ち上がる。
「そろそろ帰る」
「うん。送る?」
「いらない。近い」
「じゃあ……気をつけてね」
玄関まで見送りに行く。
靴を履いたリュウジが、扉を開ける前に一瞬止まる。
「……ルナ」
「なに?」
「今日は……助かった」
たったそれだけ。
ルナは息を飲んで、すぐに笑って頷いた。
「どういたしまして。明日も、ちゃんと食べてね。唐揚げ、まだあるから」
リュウジは小さく鼻で笑った。
「……太らせる気か」
「太らないよ。リュウジはいっぱい動くから」
「もうS級じゃない」
「関係ない。リュウジはリュウジ」
その言葉が、玄関灯の下でふっと温かく漂った。
リュウジは何も言わず、扉を開ける。
「じゃあな」
「うん。またね」
扉が閉まる。
ルナはしばらくその場に立っていた。
区切りの日の夕飯。
ただの唐揚げのはずなのに、今日は特別だった。
そしてルナは思う。
“区切り”は終わりじゃない。
誰かと笑って食卓を囲むことが、きっと次の始まりになるのだと。