サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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一人暮らし

 昼休みの教室は、窓から差し込む陽射しのせいで妙に眠気を誘っていた。冬の名残がまだ空気に残っているのに、日向だけが先に春へ進もうとしている。生徒たちは弁当を広げ、雑談があちこちで小さく弾けている。

 

 リュウジは机に肘をつき、買ってきたブラックコーヒーの缶を指先で転がしていた。授業の間の“何も起きない時間”に、まだどこか慣れない。サヴァイヴの頃は、生きるだけで忙しかった。帰ってきてからは、忙しさの質が変わっただけだ。

 

 その静けさを、勢いよく破る声がした。

 

「リュウジ! ちょっと聞いていいか!」

 

 ハワードが弁当袋を片手に、机を回り込んでくる。やけに真剣な顔だ。いつもの調子の軽さが薄い。

 

「……何だよ」

「一人暮らしの秘訣を教えてほしい!」

 

 リュウジは缶を置き、間抜けな声を漏らした。

 

「は?」

「だから! 一人暮らしの秘訣!」

「断る」

「早い! なんでだよ!」

「何で俺なんだ」

 

 リュウジは椅子の背にもたれ、面倒くさそうに目を細めた。ハワードは食い下がる。

 

「だってリュウジ、一人暮らし長いだろ! もうプロじゃん!」

「……プロって何だよ」

 

 リュウジはため息をついた。大きく、わざとらしく。

 

「俺は一人暮らしが長いって言っても、ほとんど家にいなかった」

「え?」

「仕事で出っぱなしだった。寝に帰るか、荷物置きに帰るか、そんなもんだ。生活の秘訣も何もない」

「でもさ、生活してたんだろ?」

「生活してた“ことにしてた”だけだ」

 

 ハワードがじっと見つめてくる。諦めない目。演技の練習の成果か、こういう時だけ妙に集中力がある。

 

「じゃあ誰ならいいんだよ」

「……俺より適任がいるだろ」

 

 リュウジは缶コーヒーを一口飲み、苦味で口をゆがめた。

 

「誰だよ」

「ルナがいるだろ」

 

 その名前を出した瞬間、ハワードの顔がぱっと明るくなる。周りで聞いていたメノリが「なるほど」という顔をし、ベルが「確かに」と小さく頷いた。シンゴは目を輝かせて身を乗り出す。

 

「ルナって、一人暮らしの達人だもんね!」

「達人って」とルナが笑いながら突っ込む声が、少し離れた席から飛んできた。

 

 リュウジは視線をルナへ向ける。ルナは弁当箱を閉じたところで、頬に少しだけご飯粒がついていた。本人は気づいていない。

 

「ルナは……八歳の頃からチャコと一緒だが、それでも一人で生きてきた」

 リュウジは淡々と言う。

「生活の回し方も、やりくりも、俺よりずっと分かってる。適任だ」

 

 ルナは目を瞬かせた。リュウジが自分を“適任”と言うのが、意外だったのかもしれない。

 

 ハワードは「おお!」と声を上げ、勢いよく立ち上がった。

 

「確かに! ルナに聞けばいいじゃん!」

「……気づくの遅い」

 リュウジが呆れたように呟く。

 

 ハワードは弁当袋を抱えたまま、ルナの席へ突進した。途中で椅子の脚に引っかかりそうになって、ベルが軽く腕を伸ばして止める。

 

「落ち着け、ハワード」

「大丈夫! いま人生の岐路なんだ!」

「大げさだろ」とメノリが眉を上げた。

 

 ルナの机の前に到着すると、ハワードは姿勢を正し、やけに改まった声を出した。

 

「ルナ! 一人暮らしの秘訣を教えてくれ!」

「いいわよ」

 

 ルナは思っていたよりも肯定的で、嬉しそうに頷いた。ハワードの方が拍子抜けした顔になる。

 

「……え? 意外」

「何が?」

「てっきり、笑われるかと思ってた」

「笑わないよ。だって、ハワードがちゃんと考えてるってことだもん」

 

 ルナの声は柔らかい。からかう気配がない。だから余計に、ハワードが照れくさそうに鼻をこすった。

 

「……なんか、褒められるとムズムズする」

「いいことよ」

 ルナが笑う。

 

 その背後から、リュウジが淡々と追い打ちをかけた。

 

「サヴァイヴの時に食事、洗濯、一通りやってきただろ」

「う……」

 ハワードが視線を泳がせる。

「いや、あれは……必要に迫られて……」

「必要に迫られてできたなら、平時でもできる」

 リュウジは容赦がない。

 

 ルナが頷く。

「ええ。勝手は違うだろうけど、ハワードなら大丈夫よ」

「ほんとか?」

「うん。だってハワード、やる時はしっかりやるじゃない」

「……褒められてる?」

「褒めてる」

 

 ルナが苦笑する。

「でも、節約とか生活の回し方は一緒に考えよう」

 

 ハワードが急に真剣な目になる。

「じゃあ、何から始めればいいんだ?」

「そうね……」

 

 ルナは指を顎に当て、少し考えた。

 

「やっぱり節約として、買い物からかな」

「買い物?」

「うん。まず“何を買うか”じゃなくて、“何を買わないか”を決めるの」

「なにそれ、難しい」

「難しくないよ。たとえばね」

 

 ルナは机の横に置いてあった自分の水筒を指した。

「毎日飲むものを外で買うと、それだけで結構お金が消えるの。だから私は家で作れるものは家で作る」

「水筒か……」

「それから、冷蔵庫の中を把握する。賞味期限切れを作らない」

「え、期限ってそんなに大事?」

「大事だよ。食材を捨てるのは、お金を捨てるのと同じだよ」

 

 ハワードは、まるで授業を受けるみたいに頷いた。

「なんかルナ、先生みたい」

「だって、生活って意外と“仕組み”だから」

 ルナは軽く笑う。

「仕組みを作れば、ラクになるの」

 

 リュウジは少し離れた席からそのやり取りを眺めていた。

 ルナが“教える”側になると、声が一段落ち着く。小さい頃から一人で回してきたのだと、こういう瞬間に伝わってくる。

 

 ――適任。

 

 口にした言葉が間違っていないことを、リュウジは内心で確認していた。

 

 ルナが続ける。

「あと、ハワードの場合は……まずは無駄遣いのクセを知ること」

「うっ」

「ほら、顔に出た」

「いや、僕は無駄遣いなんて……」

「ハワード財閥の系列店で気軽に買うの、あれクセでしょ」

「う……」

「でも、悪いことじゃないよ。癖を“自覚”できたら直せるから」

 

 ハワードは悔しそうに口を尖らせ、でもすぐに肩を落として笑った。

「くそ……図星」

「でしょ」

 

 ベルが弁当を畳みながら、穏やかに言う。

「ルナの言う通りだと思う。俺も、食材は無駄にしたくないし」

「ベルはサヴァイヴの頃からしっかりしてるよね!」とシンゴ。

「しっかりしてるっていうか……慣れてただけだ」

 ベルは照れたように視線を逸らした。

 

 メノリは腕を組み、ハワードを一瞥する。

「結局、生活も“習慣”だ。お前は派手な習慣を地味に変える必要があるだけだろ」

「メノリ、手厳しい!」

「事実だ」

「でも……ありがとな」

 

 ハワードは最後に、もう一度ルナへ向き直った。

「じゃあさ、ルナ。今度、買い物付き合ってくれ」

「いいわよ。いつがいい?」

「えっと……放課後とか?」

「うん、都合が合えば」

 

 ルナの返事が軽いのが、ハワードには意外だったらしい。

「ほんとにいいのか? 面倒じゃない?」

「面倒じゃないよ。だって、ハワードがちゃんと生活しようって思うの、嬉しいもの」

「……なんか、ルナってズルいな」

「何が?」

「そういう言い方されたら、やるしかなくなるだろ」

 

 ルナはふっと笑って、少しだけ胸を張った。

「じゃあ、頑張ってね」

 

 

 笑いが起きる。

 

 リュウジはその空気の中で、缶コーヒーをもう一口飲んだ。

 ルナの声が、教室の雑音の中でもはっきり届く。

 “誰かを生かすために”走り続けてきた時とは違う、日常の役割。

 それでもルナは、同じように自然に人を支える。

 

 ハワードがルナに教わることで、少しでも地に足がつくならいい。

 そして――ルナが誰かのために動く姿を見るたび、リュウジは自分の中の“区切り”が、ただの終わりじゃなく、確かに“次”へ繋がっている気がした。

 

「……ルナ」

 思わず小さく呼ぶと、ルナが振り返る。

「なに?」

「……頼んだ」

「うん、任せて」

 

 ルナの笑顔は、余計な言葉を必要としないくらい、まっすぐだった。

 

ーーーー

 

 放課後の空はまだ明るかったが、風はきっぱり冬の匂いを残していた。学園の門を出た途端、ハワードが肩をすくめながら歩調を早める。

 

「寒いな。だからこそ、温かいものを買うべきだ。……つまりおしるこだ」

 

「スーパーでおしるこを買う話にすり替えるな」

 リュウジが即座に切り捨てる。

 

「買い物は買い物だろ?」

「目的が違う」

 

 横でルナがクスッと笑って、シャアラはマフラーの端を指に巻きながら小さく頷いた。

 

「でも、温かいものがあると安心するよね」

「ほら、シャアラも賛成だ」

「賛成じゃなくて、話の筋を戻して」

 ルナがやんわり叱る。

 

 四人が着いたのは学園から歩いてすぐの、地元のスーパーだった。入口の自動ドアが開くたび、暖房と焼きたてパンの匂いが混ざった空気が流れ出てくる。照明の白さと店内アナウンスが、どこか平和で、逆に落ち着かない。

 

 カゴを取ろうとしたハワードが、リュウジを振り返って笑う。

 

「結局、リュウジも来たんじゃないか」

 

「来るに決まってるだろ」

 リュウジは店のカートに手をかけたまま、面倒そうに言った。

「俺もこれからは、一人暮らしをちゃんと考えなきゃいけないしな」

 

 ハワードは目を丸くして、次にニヤッとする。

 

「おお、いいね。生活の人、リュウジ」

「その呼び方やめろ」

 

 ルナがリュウジの横顔をちらっと見て、軽く笑った。

 “ちゃんと考えなきゃ”――その言い方が、区切りをつけた日の表情と繋がっている気がして。ルナの胸の奥が、ほんの少し温かくなる。

 

「じゃあ、まずは基本ね」

 ルナがカートの持ち手に手を添える。

「今日は“節約の買い物”だから、買う順番が大事。最初に野菜とお肉、次に乾物、最後に冷凍とお菓子。逆にすると、余計なものを入れちゃうから」

 

「お菓子を最後にするのは分かる。空腹で入ると死ぬ」

 リュウジが淡々と言うと、シャアラが小さく頷いた。

 

「分かる……甘い匂いで判断力が落ちる」

「判断力が落ちるって、シャアラらしい」

 ルナが笑う。

 

「え? 僕は最初からお菓子に行ってもいい?」

「ダメ」

 ルナとリュウジが同時に言って、ハワードが肩をすくめた。

 

「厳しい。二対一は反則だ」

 

 ルナはハワードを先に行かせないよう、カートを半歩前に出す。

「今日は実践だよ。ハワード、まず“献立”を決めて。何を作るつもりなの?」

 

「えっと……」

 ハワードは天井を見上げ、わざとらしく考えた。

「シェフが作ったみたいな……」

 

「自分で作る前提で」

 ルナが即座に釘を刺す。

 

「……じゃあ、簡単で、見栄えがして、失敗しにくくて、あったかいやつ」

「欲張り」

 シャアラが小さく笑った。

 

 ルナは指を折って提案する。

「それなら、野菜たっぷりスープ。あと、炒め物。どっちも応用きくし、余っても次の日に回せるわ」

 

「余ったら次の日に回す……」

 ハワードが呟く。

「僕は余ったら捨てるものだと思ってた」

「……それが一番もったいないわ」

 ルナは真面目な顔になる。

「余りじゃなくて“ストック”だよ。作り置きは、未来の自分を助ける」

 

 リュウジはその言葉を聞きながら、ふとサヴァイヴの木の上の生活を思い出す。

 未来の自分を助けるために、火を絶やさない。水を確保する。食料を干す。

 やってきたことは同じなのに、ここでは“節約”と呼ばれる。平和だ。

 

「よし。じゃあ食材売り場に行こう」

 ルナがカートを押し出す。

 

 そこで、シャアラが小さく手を挙げた。

「私、調味料も見ていい? この前、ルナの家で見たら、在庫管理がすごかった」

「うん、調味料は大事だよね。シャアラ、チェック頼むわ」

 

 ルナとシャアラが並んで食材売り場に向かうと、ハワードが慌ててついて来ようとする。

 

「僕も行く!」

「ハワードは……」

 ルナは一瞬考えて、ニコッと笑った。

「ハワードは、リュウジと一緒に“値段の見方”を覚えて。特売の罠に引っかからないように」

 

「罠!?」

「罠だ」

 リュウジが即答する。

「“安い”は正義じゃない。使い切れなければ損だ」

 

 ハワードは口を尖らせながらも、素直にリュウジの隣へ移動した。

「……じゃあ、僕はリュウジと罠を解除する」

「言い方」

 

 ルナとシャアラは野菜コーナーの前で止まり、色とりどりの棚を眺めた。冬の根菜、袋詰めの葉物、鮮やかなミニトマト。霧吹きの水滴が照明を反射している。

 

「まず、旬のもの。旬は安いし美味しい」

 ルナはカゴの中に玉ねぎを入れる。

「玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。これがあると、何でも作れるわよ」

 

「万能三兄弟だね」

 シャアラが言って、ルナが笑う。

 

「あとキャベツ。スープにも炒め物にもできるわ」

「キャベツって、外側の葉を捨てがちだけど、スープに入れると甘くて好き」

「うん、捨てないで使うと得だよ」

 

 シャアラは値札を見て首をかしげる。

「同じキャベツでも値段が違う」

「重さと産地と、あとカットの有無。カットは便利だけど、割高」

 ルナが丁寧に説明する。

「それに、カットは傷みやすい。使い切る自信がないなら、丸ごと買って冷蔵庫で管理した方がいいわ」

 

 シャアラはメモのように心の中で反芻し、頷いた。

「なるほど。使い切る前提で選ぶ」

 

 その頃、少し離れた通路では、リュウジとハワードが肉売り場の前で睨み合っていた。正確には、ハワードが値札と睨み合っている。

 

「……これ、すごく安い。買うべきだよな」

「安い理由を見ろ」

 リュウジがパックの端を指でトンと叩く。

「量が多い。あと、今日が消費期限だ」

 

「期限って……今日!?」

「今日食うならいい。食わないなら冷凍だ」

「冷凍って、どうやるんだ?」

「ラップして、空気抜いて、日付書いて入れる」

「日付を書くの!?」

「お前はそういうのが必要なタイプだ」

 

 ハワードは悔しそうに唸った。

「僕、冷凍庫の中がカオスになりそう」

「なる」

「断言した!?」

 

 リュウジはパックを戻し、別の棚から少量の鶏肉を取った。

「まずはこのくらい。自分がどれだけ食うか分かってから増やせ」

「鶏肉か……」

 ハワードが眺め、急に思い出したように言う。

「唐揚げ、食べたい」

「……お前はまず作れ」

 

 そこへルナがキャベツを抱えたまま戻ってきて、笑った。

「聞こえてたよ。唐揚げは“作り置き向きじゃない”から、まずはスープからね」

「スープかぁ……」

 ハワードが渋い顔をする。

「スープって地味じゃない?」

「地味じゃない。生き延びるために一番強い」

 リュウジがぼそっと言うと、ルナが頷く。

 

「そう。温かいスープは、体も気持ちも立て直してくれる」

 ルナはカートの中に鶏肉を入れ、付け足す。

「あと、失敗しにくいのが大事。ハワード、まず成功体験を積むところからよ」

 

 シャアラが横から、控えめに笑う。

「成功すると続く。失敗すると心が折れる」

「……二人とも怖いくらい的確だな」

 ハワードが小声で言って、リュウジは「お前が分かりやすいだけだ」と返す。

 

 四人は次に乾物コーナーへ向かった。米、パスタ、缶詰、だし、味噌。ルナは味噌の棚で足を止める。

 

「味噌は、合うやつを一つ決めるといいよ。あれこれ買うと使い切れない」

「味噌にもタイプがあるの?」

「あるわよ。甘い、辛い、香り。迷ったら無難なの」

 ルナは一つ手に取って、ハワードに見せた。

「これ、使いやすいよ。味噌汁にも、炒め物にもいける」

 

「炒め物に味噌?」

「味噌バターとか、味噌炒めとか。簡単だよ」

「……急に料理が難しく聞こえてきた」

「難しくない。混ぜるだけ」

 リュウジが淡々と言う。

 

 ハワードがむっとする。

「リュウジは料理できるからいいよな」

「できるわけじゃない。エリンさんから教わっただけだ」

 リュウジは呆れながら呟いた。

 今思えば、エリンに料理を叩き込まれたのが、こうして役に立っているのは、良かったと思った。

 

 ルナはその微かな沈黙を、聞き逃さなかった。でも、追及はしない。ただ、カートの持ち手を握る指先に少し力を入れて、隣に立つ。

 

「次、冷凍ね」

 ルナが言うと、ハワードの目が光った。

「冷凍餃子!」

「それは最後」

 ルナが笑いながら言う。

「冷凍野菜とか、冷凍うどんとか。忙しい日は助かるわよ」

 

 シャアラが静かに頷く。

「冷凍うどん、私も好き。お腹が落ち着く」

「確かに、落ち着くんだよな。こういうのが」

 リュウジが小さく同意する。

 

 買い物が一通り終わり、カートの中は“派手じゃないけど確実”な中身になった。野菜、鶏肉、卵、味噌、米、冷凍うどん。ハワードの手が伸びそうになった菓子コーナーは、ルナの視線一つで封じられている。

 

「……ねえ、ルナ」

 会計へ向かう途中、ハワードがぽつりと言った。

「僕、こういう買い物、初めてかもしれない」

「初めて?」

「いつも誰かが用意してくれてた。自分で選ぶって、なんか……ちょっと怖い」

 

 ルナは歩みを緩め、ハワードの横に並んだ。

「怖いのは普通だよ。でも、今日のカゴの中身、ちゃんと“自分で選んだ”でしょ」

「……そうだな」

「それが一歩。大丈夫」

 

 ハワードは照れくさそうに鼻を鳴らした。

「ルナ、やっぱり先生だ」

「先生じゃない」

「先生だよ」

「先生って言ったら、もう買い物付き合わない」

「えっ、やめて」

 

 そのやり取りに、シャアラがくすりと笑い、リュウジは苦笑して視線を逸らした。

 

 レジに並ぶ。前の客のカゴには派手な菓子と飲み物が山積みで、ハワードがそれを見て目を奪われる。ルナは何も言わず、ただ肩を軽く叩いた。ハワードが「あ、うん」と我に返る。

 

 会計が終わると、袋詰め台でルナが素早く重いものから順に詰めていく。シャアラが卵を大事そうに両手で支え、リュウジは黙って米を持つ。ハワードは袋を持ちながら、なぜか誇らしげだった。

 

「……なんか、ちゃんと生活してる感じがする」

「今までも生活してただろ」

 リュウジが言うと、ハワードは首を振る。

 

「違う。これは、僕が“やってる”感じだ」

 

 ルナが小さく頷いた。

「そう。それが大事。ハワード、自分の生活は自分で作るの」

 

 スーパーの外に出ると、夕焼けが建物のガラスに反射して、空の端が淡い橙色になっていた。冷たい風が頬を撫でる。

 

「じゃあ、まずはスープだな」

 ハワードが袋を握り直す。

「ルナ、作り方、あとで送って」

「ええ。分量も簡単なのにするわね」

「よし。僕、やる」

 

 その横でリュウジは、袋の重みを感じながら、ふとルナの横顔を見る。

 ルナは当たり前みたいに誰かの背中を押す。押された相手が“自分で進んだ”と思えるように。

 それは、リュウジが区切りをつけた理由――“やりたい事”に向かうために必要な、静かな強さに似ていた。

 

「……ルナ」

「なに?」

「頼りになるな」

「今さら?」

 

 ルナがいつもの調子で笑って返す。

 その言葉が軽いのに、胸の奥が少しだけ熱くなるのを、リュウジは誤魔化すように前を向いた。

 

 四人は袋を下げ、学園の近くの道を並んで歩いた。

 買い物袋の擦れる音が、冬の夕暮れの中でやけに穏やかに響いていた。

 

ーーーー

 

 スーパーから戻って、玄関で靴を脱いだ瞬間、部屋の静けさがじわりと沁みた。

 誰かの笑い声も、カートの軋む音もない。あるのは暖房の低い唸りと、買い物袋が床に置かれる鈍い音だけ。

 

 リュウジは袋を一つずつ持ち上げ、キッチンへ運ぶ。野菜を冷蔵庫へ、冷凍うどんを冷凍庫へ、米を棚へ。卵は一番奥で転がらないように置く。味噌は目につく位置に。

 ――こういう“生活”を、今さら真面目にやる日が来るとは思わなかった。

 

「……さて」

 

 独り言は誰に届くでもなく、天井に吸われた。

 

 時計を見ると、まだ夕方に近い。けれど腹はちゃんと空いている。昼は何となく済ませたし、今日は妙に体が温かいものを欲しがっていた。スーパーのレジ横で見た“即席おでん”の棚が頭をよぎるが、すぐに打ち消す。

 

 ハワードに偉そうに言っておいて、自分が適当なもので済ませるのも癪だ。

 

「何作るかな……」

 

 冷蔵庫を開ける。鶏肉、卵、キャベツ、玉ねぎ。

 最初は炒め物とご飯――そう考えたが、包丁を手に取る前に、ふっと別の記憶が差し込んだ。

 

 湯気。

 淡い黄色の雲が浮かぶスープ。

 口に入れた瞬間、卵がほどけて、喉の奥がふっと緩む。

 

『卵の雲のスープよ。疲れてるときにいいの』

 

 エリンの声が、妙に鮮明だった。

 まだサヴァイヴから帰る前、あるいは帰った直後だったか。どちらにせよ、今みたいな、風が冷たくて、胸のどこかが落ち着かない日に作ってくれた。

 

 あのスープは、難しい料理じゃない。味も派手じゃない。

 なのに、体の芯に残る。

 

「……あれ、作るか」

 

 言った途端、少しだけ背中が軽くなる。

 リュウジは鍋を出し、水を張り、コンロに置いた。だしはどうする。顆粒だしでいい。塩、醤油、少しの胡椒。味噌でもいいが、今日は違う。あれは澄んだスープだった。

 

 水が温まる間に卵を割る。ボウルに二つ。箸で溶き、できるだけ滑らかにする。

 “雲”にするなら、卵は細く流す――頭では分かっている。見たこともある。動画だって山ほどある。

 

 だが、問題は“ふわふわ”だ。

 

 湯が立ち始め、だしを入れる。香りが立つ。塩で整え、醤油をほんの少し。

 リュウジは火加減を中火にし、箸でスープをゆっくりかき混ぜた。

 

「……ここで入れる」

 

 卵を細く。細く――

 ボウルを傾け、箸で卵を伝わせるようにして落とす。

 

 鍋の中で卵がふわっと広がる……はずだった。

 

 だが実際は、卵が沈んで、固まり、鍋の底でぐにゃりとまとまる。

 いびつな“布”みたいな塊が、スープの中で漂った。

 

「……違う」

 

 口に出した声が、やけに冷たかった。

 

 もう一度。

 卵を追加で割って溶く。スープを温め直し、今度は火を弱めてみる。かき混ぜる速度も変える。

 卵を細く――

 

 今度は散った。散ったが、ふわふわではない。

 粒が小さすぎて、まるで卵の砂みたいに沈む。

 口に入れると、舌にざらっと残った。

 

「……なんでだ」

 

 リュウジは眉間を押さえた。

 こんなことで悩む自分が信じられない。操縦なら、計算なら、判断なら、瞬時に組み立てられる。

 なのに、卵は思い通りにならない。

 何より腹が立つのは、自分が本気で悩んでいることだった。

 

 鍋の蓋を閉めて火を止め、リュウジはキッチンの椅子に腰を落とした。

 冷めかけた湯気が、沈黙を作る。

 

 ――エリンさんは、どうやってた?

 

 記憶の中のエリンは、手際がよかった。慌てず、淡々と、でも柔らかく。

 卵を入れるタイミングは一瞬で、鍋の中は雲が漂ったみたいに見えた。

 

 リュウジはスマホを手に取り、連絡先を開く。

 エリン。

 ふと指が止まる。

 

 こんなことで電話するのか?

 忙しいのは分かってる。ハワード財閥の旅行会社は、今まさにフライトと訓練の時期だ。

 ――でも、今日は非番かもしれない。

 いや、それでも。

 

 リュウジはため息をつき、通話ボタンを押した。

 

 呼び出し音が一回、二回。

 出なかったら切る、と決めた三回目の直前。

 

『はい、エリンです』

 

 落ち着いた声が返ってきた。

 その声だけで、なぜか肩の力が少し抜ける。

 

「お疲れさまです、エリンさん。今、お時間よろしいでしょうか」

 

『どうしたの、そんな改まって。珍しいわね』

 電話越しに、笑っている気配がした。

『体調は大丈夫? また熱出したわけじゃないでしょうね』

 

「いえ、熱ではありません。……その、すみません。料理のことで」

 

『料理?』

 声が一段上がる。

『リュウジが?』

 

「はい。」

 言いながら、リュウジは自分が何をしているのか分からなくなる。

 だが続けた。

「昔、エリンさんが作ってくれた卵の雲のスープを思い出して、作ろうとしたんですが……」

 

『……ふふっ』

 笑いが漏れた。悪意じゃない。単純に意外で、可笑しい、そんな笑い。

 

「笑わないでください」

 

『ごめん、ごめん。だって想像したら……あなたが鍋の前で卵と格闘してるんでしょう?』

 言いながら、エリンはまた笑う。

『それで、どうなったの?』

 

 リュウジは鍋の方を見た。蓋の隙間から、かすかに湯気が逃げる。

 

「卵が……ふわふわになりません。固まって塊になります。もしくは粉みたいに散って沈みます」

 

『ああ、それはね』

 エリンの声が急に仕事モードになる。

『火加減と、かき混ぜ方と、入れる速度。たぶん全部が少しずつ違う』

 

「全部ですか」

 

『うん。順番に確認しましょ。今、スープは沸騰してる?』

 

「沸騰させました。今は火を止めています」

 

『止めてるなら、まず温め直して。沸騰直前、ふつふつ小さい泡が出るくらい。ぐらぐら沸かさない』

『それと、箸で混ぜるのは“渦”を作るため。激しく混ぜると卵が細かく砕ける』

 

「渦……」

 

 リュウジはコンロの火をつけ、鍋を温め直す。

 エリンの言葉通り、泡が小さく立ち始める程度にする。

 

『スープに渦を作って、その渦の中心に卵を細く落とすの。卵はボウルから直接じゃなくて、箸に伝わせると細くなる』

『入れたら、すぐ混ぜない。卵が固まるまで、数秒待つ』

 

「……数秒待つ」

 

『そう。焦って混ぜると、粉みたいになる』

 

 リュウジは箸を持ち、ゆっくり鍋をかき混ぜた。確かに渦ができる。

 卵を溶いたボウルを傾け、箸に伝わせる。

 

 ――落ちろ。

 細く。細く。

 

 卵がスープに落ち、渦に巻かれて広がる。

 リュウジは言われた通り、すぐに混ぜない。

 数秒――一、二、三。

 

 ふわりと、卵が浮いた。

 塊にならず、粉にもならず、薄い雲みたいに広がっていく。

 

 リュウジの眉が、少しだけ緩む。

 

「……できました」

 声が、自分でも驚くくらい小さかった。

 

『ほら、できるじゃない』

 エリンの声が柔らかくなる。

『味はどう? 塩気、薄くない?』

 

「……ちょうどいいと思います」

 リュウジはスプーンで少しすくい、口に入れた。

 卵がほどける。湯気が喉を温める。

 

 あの日の味には届かない。

 でも、近い。

 

「……ありがとうございます。助かりました」

 

『ふふ。こんな電話、初めてかも』

 エリンは嬉しそうに笑う。

『でも、いいわね。生活してるって感じ』

 

「……からかわないでください」

 

『からかってない。えらいと思ってるの』

『それに、あなたが“やりたい事”を見つけたなら、生活も必要でしょ。体が資本なんだから』

 

 その言葉が、胸に静かに落ちた。

 エリンは知っているのだ。リュウジが区切りをつけた理由も、そこに向かう覚悟も。

 

「……はい。そうですね」

 

『で、卵の雲のスープを作ったのはいいけど、ちゃんと主食も食べなさいよ。スープだけじゃ足りない。ご飯ある? 冷凍うどんでもいい。お腹が空くと治りも遅い』

 

「治り……って、俺は病気じゃありません」

 

『病気じゃなくても。疲れてるときの食事は大事』

 エリンはさらっと言う。

『“大丈夫”って言う人ほど、抜けがちなんだから』

 

 リュウジは返す言葉を探して、結局、短く答えた。

 

「……分かりました」

 

『ふふ。素直』

『じゃあ、私はこれで。何かあったらまた連絡して。卵だけじゃなくても、何でも聞きなさい』

 

「……はい。忙しいところすみませんでした」

 

『忙しくないわよ。今日はちょうど休憩してたところ。それと――敬語、そんなに堅くしなくていいのに』

 

 エリンが冗談めかして言う。

 リュウジは少しだけ口元を動かした。

 

「癖です」

 

『知ってる。じゃあ、またね』

 

 通話が切れる。

 キッチンに戻った静けさは、さっきより温かかった。

 

 リュウジはスープを器によそい、冷凍うどんを一玉だけ温める。

 湯気の向こうで、卵の雲がふわりと揺れた。

 

 そして、鍋を覗き込みながら、ふと思う。

 あのスープを作ってくれたエリンの手は、いつも誰かを支えるために動いていた。

 今も、きっとそうだ。

 

 リュウジは器を持ってテーブルに座り、ゆっくり息を吐いた。

 今日のスープは、思ったより、ちゃんと温かかった。

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