昼休みの教室は、窓から差し込む陽射しのせいで妙に眠気を誘っていた。冬の名残がまだ空気に残っているのに、日向だけが先に春へ進もうとしている。生徒たちは弁当を広げ、雑談があちこちで小さく弾けている。
リュウジは机に肘をつき、買ってきたブラックコーヒーの缶を指先で転がしていた。授業の間の“何も起きない時間”に、まだどこか慣れない。サヴァイヴの頃は、生きるだけで忙しかった。帰ってきてからは、忙しさの質が変わっただけだ。
その静けさを、勢いよく破る声がした。
「リュウジ! ちょっと聞いていいか!」
ハワードが弁当袋を片手に、机を回り込んでくる。やけに真剣な顔だ。いつもの調子の軽さが薄い。
「……何だよ」
「一人暮らしの秘訣を教えてほしい!」
リュウジは缶を置き、間抜けな声を漏らした。
「は?」
「だから! 一人暮らしの秘訣!」
「断る」
「早い! なんでだよ!」
「何で俺なんだ」
リュウジは椅子の背にもたれ、面倒くさそうに目を細めた。ハワードは食い下がる。
「だってリュウジ、一人暮らし長いだろ! もうプロじゃん!」
「……プロって何だよ」
リュウジはため息をついた。大きく、わざとらしく。
「俺は一人暮らしが長いって言っても、ほとんど家にいなかった」
「え?」
「仕事で出っぱなしだった。寝に帰るか、荷物置きに帰るか、そんなもんだ。生活の秘訣も何もない」
「でもさ、生活してたんだろ?」
「生活してた“ことにしてた”だけだ」
ハワードがじっと見つめてくる。諦めない目。演技の練習の成果か、こういう時だけ妙に集中力がある。
「じゃあ誰ならいいんだよ」
「……俺より適任がいるだろ」
リュウジは缶コーヒーを一口飲み、苦味で口をゆがめた。
「誰だよ」
「ルナがいるだろ」
その名前を出した瞬間、ハワードの顔がぱっと明るくなる。周りで聞いていたメノリが「なるほど」という顔をし、ベルが「確かに」と小さく頷いた。シンゴは目を輝かせて身を乗り出す。
「ルナって、一人暮らしの達人だもんね!」
「達人って」とルナが笑いながら突っ込む声が、少し離れた席から飛んできた。
リュウジは視線をルナへ向ける。ルナは弁当箱を閉じたところで、頬に少しだけご飯粒がついていた。本人は気づいていない。
「ルナは……八歳の頃からチャコと一緒だが、それでも一人で生きてきた」
リュウジは淡々と言う。
「生活の回し方も、やりくりも、俺よりずっと分かってる。適任だ」
ルナは目を瞬かせた。リュウジが自分を“適任”と言うのが、意外だったのかもしれない。
ハワードは「おお!」と声を上げ、勢いよく立ち上がった。
「確かに! ルナに聞けばいいじゃん!」
「……気づくの遅い」
リュウジが呆れたように呟く。
ハワードは弁当袋を抱えたまま、ルナの席へ突進した。途中で椅子の脚に引っかかりそうになって、ベルが軽く腕を伸ばして止める。
「落ち着け、ハワード」
「大丈夫! いま人生の岐路なんだ!」
「大げさだろ」とメノリが眉を上げた。
ルナの机の前に到着すると、ハワードは姿勢を正し、やけに改まった声を出した。
「ルナ! 一人暮らしの秘訣を教えてくれ!」
「いいわよ」
ルナは思っていたよりも肯定的で、嬉しそうに頷いた。ハワードの方が拍子抜けした顔になる。
「……え? 意外」
「何が?」
「てっきり、笑われるかと思ってた」
「笑わないよ。だって、ハワードがちゃんと考えてるってことだもん」
ルナの声は柔らかい。からかう気配がない。だから余計に、ハワードが照れくさそうに鼻をこすった。
「……なんか、褒められるとムズムズする」
「いいことよ」
ルナが笑う。
その背後から、リュウジが淡々と追い打ちをかけた。
「サヴァイヴの時に食事、洗濯、一通りやってきただろ」
「う……」
ハワードが視線を泳がせる。
「いや、あれは……必要に迫られて……」
「必要に迫られてできたなら、平時でもできる」
リュウジは容赦がない。
ルナが頷く。
「ええ。勝手は違うだろうけど、ハワードなら大丈夫よ」
「ほんとか?」
「うん。だってハワード、やる時はしっかりやるじゃない」
「……褒められてる?」
「褒めてる」
ルナが苦笑する。
「でも、節約とか生活の回し方は一緒に考えよう」
ハワードが急に真剣な目になる。
「じゃあ、何から始めればいいんだ?」
「そうね……」
ルナは指を顎に当て、少し考えた。
「やっぱり節約として、買い物からかな」
「買い物?」
「うん。まず“何を買うか”じゃなくて、“何を買わないか”を決めるの」
「なにそれ、難しい」
「難しくないよ。たとえばね」
ルナは机の横に置いてあった自分の水筒を指した。
「毎日飲むものを外で買うと、それだけで結構お金が消えるの。だから私は家で作れるものは家で作る」
「水筒か……」
「それから、冷蔵庫の中を把握する。賞味期限切れを作らない」
「え、期限ってそんなに大事?」
「大事だよ。食材を捨てるのは、お金を捨てるのと同じだよ」
ハワードは、まるで授業を受けるみたいに頷いた。
「なんかルナ、先生みたい」
「だって、生活って意外と“仕組み”だから」
ルナは軽く笑う。
「仕組みを作れば、ラクになるの」
リュウジは少し離れた席からそのやり取りを眺めていた。
ルナが“教える”側になると、声が一段落ち着く。小さい頃から一人で回してきたのだと、こういう瞬間に伝わってくる。
――適任。
口にした言葉が間違っていないことを、リュウジは内心で確認していた。
ルナが続ける。
「あと、ハワードの場合は……まずは無駄遣いのクセを知ること」
「うっ」
「ほら、顔に出た」
「いや、僕は無駄遣いなんて……」
「ハワード財閥の系列店で気軽に買うの、あれクセでしょ」
「う……」
「でも、悪いことじゃないよ。癖を“自覚”できたら直せるから」
ハワードは悔しそうに口を尖らせ、でもすぐに肩を落として笑った。
「くそ……図星」
「でしょ」
ベルが弁当を畳みながら、穏やかに言う。
「ルナの言う通りだと思う。俺も、食材は無駄にしたくないし」
「ベルはサヴァイヴの頃からしっかりしてるよね!」とシンゴ。
「しっかりしてるっていうか……慣れてただけだ」
ベルは照れたように視線を逸らした。
メノリは腕を組み、ハワードを一瞥する。
「結局、生活も“習慣”だ。お前は派手な習慣を地味に変える必要があるだけだろ」
「メノリ、手厳しい!」
「事実だ」
「でも……ありがとな」
ハワードは最後に、もう一度ルナへ向き直った。
「じゃあさ、ルナ。今度、買い物付き合ってくれ」
「いいわよ。いつがいい?」
「えっと……放課後とか?」
「うん、都合が合えば」
ルナの返事が軽いのが、ハワードには意外だったらしい。
「ほんとにいいのか? 面倒じゃない?」
「面倒じゃないよ。だって、ハワードがちゃんと生活しようって思うの、嬉しいもの」
「……なんか、ルナってズルいな」
「何が?」
「そういう言い方されたら、やるしかなくなるだろ」
ルナはふっと笑って、少しだけ胸を張った。
「じゃあ、頑張ってね」
笑いが起きる。
リュウジはその空気の中で、缶コーヒーをもう一口飲んだ。
ルナの声が、教室の雑音の中でもはっきり届く。
“誰かを生かすために”走り続けてきた時とは違う、日常の役割。
それでもルナは、同じように自然に人を支える。
ハワードがルナに教わることで、少しでも地に足がつくならいい。
そして――ルナが誰かのために動く姿を見るたび、リュウジは自分の中の“区切り”が、ただの終わりじゃなく、確かに“次”へ繋がっている気がした。
「……ルナ」
思わず小さく呼ぶと、ルナが振り返る。
「なに?」
「……頼んだ」
「うん、任せて」
ルナの笑顔は、余計な言葉を必要としないくらい、まっすぐだった。
ーーーー
放課後の空はまだ明るかったが、風はきっぱり冬の匂いを残していた。学園の門を出た途端、ハワードが肩をすくめながら歩調を早める。
「寒いな。だからこそ、温かいものを買うべきだ。……つまりおしるこだ」
「スーパーでおしるこを買う話にすり替えるな」
リュウジが即座に切り捨てる。
「買い物は買い物だろ?」
「目的が違う」
横でルナがクスッと笑って、シャアラはマフラーの端を指に巻きながら小さく頷いた。
「でも、温かいものがあると安心するよね」
「ほら、シャアラも賛成だ」
「賛成じゃなくて、話の筋を戻して」
ルナがやんわり叱る。
四人が着いたのは学園から歩いてすぐの、地元のスーパーだった。入口の自動ドアが開くたび、暖房と焼きたてパンの匂いが混ざった空気が流れ出てくる。照明の白さと店内アナウンスが、どこか平和で、逆に落ち着かない。
カゴを取ろうとしたハワードが、リュウジを振り返って笑う。
「結局、リュウジも来たんじゃないか」
「来るに決まってるだろ」
リュウジは店のカートに手をかけたまま、面倒そうに言った。
「俺もこれからは、一人暮らしをちゃんと考えなきゃいけないしな」
ハワードは目を丸くして、次にニヤッとする。
「おお、いいね。生活の人、リュウジ」
「その呼び方やめろ」
ルナがリュウジの横顔をちらっと見て、軽く笑った。
“ちゃんと考えなきゃ”――その言い方が、区切りをつけた日の表情と繋がっている気がして。ルナの胸の奥が、ほんの少し温かくなる。
「じゃあ、まずは基本ね」
ルナがカートの持ち手に手を添える。
「今日は“節約の買い物”だから、買う順番が大事。最初に野菜とお肉、次に乾物、最後に冷凍とお菓子。逆にすると、余計なものを入れちゃうから」
「お菓子を最後にするのは分かる。空腹で入ると死ぬ」
リュウジが淡々と言うと、シャアラが小さく頷いた。
「分かる……甘い匂いで判断力が落ちる」
「判断力が落ちるって、シャアラらしい」
ルナが笑う。
「え? 僕は最初からお菓子に行ってもいい?」
「ダメ」
ルナとリュウジが同時に言って、ハワードが肩をすくめた。
「厳しい。二対一は反則だ」
ルナはハワードを先に行かせないよう、カートを半歩前に出す。
「今日は実践だよ。ハワード、まず“献立”を決めて。何を作るつもりなの?」
「えっと……」
ハワードは天井を見上げ、わざとらしく考えた。
「シェフが作ったみたいな……」
「自分で作る前提で」
ルナが即座に釘を刺す。
「……じゃあ、簡単で、見栄えがして、失敗しにくくて、あったかいやつ」
「欲張り」
シャアラが小さく笑った。
ルナは指を折って提案する。
「それなら、野菜たっぷりスープ。あと、炒め物。どっちも応用きくし、余っても次の日に回せるわ」
「余ったら次の日に回す……」
ハワードが呟く。
「僕は余ったら捨てるものだと思ってた」
「……それが一番もったいないわ」
ルナは真面目な顔になる。
「余りじゃなくて“ストック”だよ。作り置きは、未来の自分を助ける」
リュウジはその言葉を聞きながら、ふとサヴァイヴの木の上の生活を思い出す。
未来の自分を助けるために、火を絶やさない。水を確保する。食料を干す。
やってきたことは同じなのに、ここでは“節約”と呼ばれる。平和だ。
「よし。じゃあ食材売り場に行こう」
ルナがカートを押し出す。
そこで、シャアラが小さく手を挙げた。
「私、調味料も見ていい? この前、ルナの家で見たら、在庫管理がすごかった」
「うん、調味料は大事だよね。シャアラ、チェック頼むわ」
ルナとシャアラが並んで食材売り場に向かうと、ハワードが慌ててついて来ようとする。
「僕も行く!」
「ハワードは……」
ルナは一瞬考えて、ニコッと笑った。
「ハワードは、リュウジと一緒に“値段の見方”を覚えて。特売の罠に引っかからないように」
「罠!?」
「罠だ」
リュウジが即答する。
「“安い”は正義じゃない。使い切れなければ損だ」
ハワードは口を尖らせながらも、素直にリュウジの隣へ移動した。
「……じゃあ、僕はリュウジと罠を解除する」
「言い方」
ルナとシャアラは野菜コーナーの前で止まり、色とりどりの棚を眺めた。冬の根菜、袋詰めの葉物、鮮やかなミニトマト。霧吹きの水滴が照明を反射している。
「まず、旬のもの。旬は安いし美味しい」
ルナはカゴの中に玉ねぎを入れる。
「玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。これがあると、何でも作れるわよ」
「万能三兄弟だね」
シャアラが言って、ルナが笑う。
「あとキャベツ。スープにも炒め物にもできるわ」
「キャベツって、外側の葉を捨てがちだけど、スープに入れると甘くて好き」
「うん、捨てないで使うと得だよ」
シャアラは値札を見て首をかしげる。
「同じキャベツでも値段が違う」
「重さと産地と、あとカットの有無。カットは便利だけど、割高」
ルナが丁寧に説明する。
「それに、カットは傷みやすい。使い切る自信がないなら、丸ごと買って冷蔵庫で管理した方がいいわ」
シャアラはメモのように心の中で反芻し、頷いた。
「なるほど。使い切る前提で選ぶ」
その頃、少し離れた通路では、リュウジとハワードが肉売り場の前で睨み合っていた。正確には、ハワードが値札と睨み合っている。
「……これ、すごく安い。買うべきだよな」
「安い理由を見ろ」
リュウジがパックの端を指でトンと叩く。
「量が多い。あと、今日が消費期限だ」
「期限って……今日!?」
「今日食うならいい。食わないなら冷凍だ」
「冷凍って、どうやるんだ?」
「ラップして、空気抜いて、日付書いて入れる」
「日付を書くの!?」
「お前はそういうのが必要なタイプだ」
ハワードは悔しそうに唸った。
「僕、冷凍庫の中がカオスになりそう」
「なる」
「断言した!?」
リュウジはパックを戻し、別の棚から少量の鶏肉を取った。
「まずはこのくらい。自分がどれだけ食うか分かってから増やせ」
「鶏肉か……」
ハワードが眺め、急に思い出したように言う。
「唐揚げ、食べたい」
「……お前はまず作れ」
そこへルナがキャベツを抱えたまま戻ってきて、笑った。
「聞こえてたよ。唐揚げは“作り置き向きじゃない”から、まずはスープからね」
「スープかぁ……」
ハワードが渋い顔をする。
「スープって地味じゃない?」
「地味じゃない。生き延びるために一番強い」
リュウジがぼそっと言うと、ルナが頷く。
「そう。温かいスープは、体も気持ちも立て直してくれる」
ルナはカートの中に鶏肉を入れ、付け足す。
「あと、失敗しにくいのが大事。ハワード、まず成功体験を積むところからよ」
シャアラが横から、控えめに笑う。
「成功すると続く。失敗すると心が折れる」
「……二人とも怖いくらい的確だな」
ハワードが小声で言って、リュウジは「お前が分かりやすいだけだ」と返す。
四人は次に乾物コーナーへ向かった。米、パスタ、缶詰、だし、味噌。ルナは味噌の棚で足を止める。
「味噌は、合うやつを一つ決めるといいよ。あれこれ買うと使い切れない」
「味噌にもタイプがあるの?」
「あるわよ。甘い、辛い、香り。迷ったら無難なの」
ルナは一つ手に取って、ハワードに見せた。
「これ、使いやすいよ。味噌汁にも、炒め物にもいける」
「炒め物に味噌?」
「味噌バターとか、味噌炒めとか。簡単だよ」
「……急に料理が難しく聞こえてきた」
「難しくない。混ぜるだけ」
リュウジが淡々と言う。
ハワードがむっとする。
「リュウジは料理できるからいいよな」
「できるわけじゃない。エリンさんから教わっただけだ」
リュウジは呆れながら呟いた。
今思えば、エリンに料理を叩き込まれたのが、こうして役に立っているのは、良かったと思った。
ルナはその微かな沈黙を、聞き逃さなかった。でも、追及はしない。ただ、カートの持ち手を握る指先に少し力を入れて、隣に立つ。
「次、冷凍ね」
ルナが言うと、ハワードの目が光った。
「冷凍餃子!」
「それは最後」
ルナが笑いながら言う。
「冷凍野菜とか、冷凍うどんとか。忙しい日は助かるわよ」
シャアラが静かに頷く。
「冷凍うどん、私も好き。お腹が落ち着く」
「確かに、落ち着くんだよな。こういうのが」
リュウジが小さく同意する。
買い物が一通り終わり、カートの中は“派手じゃないけど確実”な中身になった。野菜、鶏肉、卵、味噌、米、冷凍うどん。ハワードの手が伸びそうになった菓子コーナーは、ルナの視線一つで封じられている。
「……ねえ、ルナ」
会計へ向かう途中、ハワードがぽつりと言った。
「僕、こういう買い物、初めてかもしれない」
「初めて?」
「いつも誰かが用意してくれてた。自分で選ぶって、なんか……ちょっと怖い」
ルナは歩みを緩め、ハワードの横に並んだ。
「怖いのは普通だよ。でも、今日のカゴの中身、ちゃんと“自分で選んだ”でしょ」
「……そうだな」
「それが一歩。大丈夫」
ハワードは照れくさそうに鼻を鳴らした。
「ルナ、やっぱり先生だ」
「先生じゃない」
「先生だよ」
「先生って言ったら、もう買い物付き合わない」
「えっ、やめて」
そのやり取りに、シャアラがくすりと笑い、リュウジは苦笑して視線を逸らした。
レジに並ぶ。前の客のカゴには派手な菓子と飲み物が山積みで、ハワードがそれを見て目を奪われる。ルナは何も言わず、ただ肩を軽く叩いた。ハワードが「あ、うん」と我に返る。
会計が終わると、袋詰め台でルナが素早く重いものから順に詰めていく。シャアラが卵を大事そうに両手で支え、リュウジは黙って米を持つ。ハワードは袋を持ちながら、なぜか誇らしげだった。
「……なんか、ちゃんと生活してる感じがする」
「今までも生活してただろ」
リュウジが言うと、ハワードは首を振る。
「違う。これは、僕が“やってる”感じだ」
ルナが小さく頷いた。
「そう。それが大事。ハワード、自分の生活は自分で作るの」
スーパーの外に出ると、夕焼けが建物のガラスに反射して、空の端が淡い橙色になっていた。冷たい風が頬を撫でる。
「じゃあ、まずはスープだな」
ハワードが袋を握り直す。
「ルナ、作り方、あとで送って」
「ええ。分量も簡単なのにするわね」
「よし。僕、やる」
その横でリュウジは、袋の重みを感じながら、ふとルナの横顔を見る。
ルナは当たり前みたいに誰かの背中を押す。押された相手が“自分で進んだ”と思えるように。
それは、リュウジが区切りをつけた理由――“やりたい事”に向かうために必要な、静かな強さに似ていた。
「……ルナ」
「なに?」
「頼りになるな」
「今さら?」
ルナがいつもの調子で笑って返す。
その言葉が軽いのに、胸の奥が少しだけ熱くなるのを、リュウジは誤魔化すように前を向いた。
四人は袋を下げ、学園の近くの道を並んで歩いた。
買い物袋の擦れる音が、冬の夕暮れの中でやけに穏やかに響いていた。
ーーーー
スーパーから戻って、玄関で靴を脱いだ瞬間、部屋の静けさがじわりと沁みた。
誰かの笑い声も、カートの軋む音もない。あるのは暖房の低い唸りと、買い物袋が床に置かれる鈍い音だけ。
リュウジは袋を一つずつ持ち上げ、キッチンへ運ぶ。野菜を冷蔵庫へ、冷凍うどんを冷凍庫へ、米を棚へ。卵は一番奥で転がらないように置く。味噌は目につく位置に。
――こういう“生活”を、今さら真面目にやる日が来るとは思わなかった。
「……さて」
独り言は誰に届くでもなく、天井に吸われた。
時計を見ると、まだ夕方に近い。けれど腹はちゃんと空いている。昼は何となく済ませたし、今日は妙に体が温かいものを欲しがっていた。スーパーのレジ横で見た“即席おでん”の棚が頭をよぎるが、すぐに打ち消す。
ハワードに偉そうに言っておいて、自分が適当なもので済ませるのも癪だ。
「何作るかな……」
冷蔵庫を開ける。鶏肉、卵、キャベツ、玉ねぎ。
最初は炒め物とご飯――そう考えたが、包丁を手に取る前に、ふっと別の記憶が差し込んだ。
湯気。
淡い黄色の雲が浮かぶスープ。
口に入れた瞬間、卵がほどけて、喉の奥がふっと緩む。
『卵の雲のスープよ。疲れてるときにいいの』
エリンの声が、妙に鮮明だった。
まだサヴァイヴから帰る前、あるいは帰った直後だったか。どちらにせよ、今みたいな、風が冷たくて、胸のどこかが落ち着かない日に作ってくれた。
あのスープは、難しい料理じゃない。味も派手じゃない。
なのに、体の芯に残る。
「……あれ、作るか」
言った途端、少しだけ背中が軽くなる。
リュウジは鍋を出し、水を張り、コンロに置いた。だしはどうする。顆粒だしでいい。塩、醤油、少しの胡椒。味噌でもいいが、今日は違う。あれは澄んだスープだった。
水が温まる間に卵を割る。ボウルに二つ。箸で溶き、できるだけ滑らかにする。
“雲”にするなら、卵は細く流す――頭では分かっている。見たこともある。動画だって山ほどある。
だが、問題は“ふわふわ”だ。
湯が立ち始め、だしを入れる。香りが立つ。塩で整え、醤油をほんの少し。
リュウジは火加減を中火にし、箸でスープをゆっくりかき混ぜた。
「……ここで入れる」
卵を細く。細く――
ボウルを傾け、箸で卵を伝わせるようにして落とす。
鍋の中で卵がふわっと広がる……はずだった。
だが実際は、卵が沈んで、固まり、鍋の底でぐにゃりとまとまる。
いびつな“布”みたいな塊が、スープの中で漂った。
「……違う」
口に出した声が、やけに冷たかった。
もう一度。
卵を追加で割って溶く。スープを温め直し、今度は火を弱めてみる。かき混ぜる速度も変える。
卵を細く――
今度は散った。散ったが、ふわふわではない。
粒が小さすぎて、まるで卵の砂みたいに沈む。
口に入れると、舌にざらっと残った。
「……なんでだ」
リュウジは眉間を押さえた。
こんなことで悩む自分が信じられない。操縦なら、計算なら、判断なら、瞬時に組み立てられる。
なのに、卵は思い通りにならない。
何より腹が立つのは、自分が本気で悩んでいることだった。
鍋の蓋を閉めて火を止め、リュウジはキッチンの椅子に腰を落とした。
冷めかけた湯気が、沈黙を作る。
――エリンさんは、どうやってた?
記憶の中のエリンは、手際がよかった。慌てず、淡々と、でも柔らかく。
卵を入れるタイミングは一瞬で、鍋の中は雲が漂ったみたいに見えた。
リュウジはスマホを手に取り、連絡先を開く。
エリン。
ふと指が止まる。
こんなことで電話するのか?
忙しいのは分かってる。ハワード財閥の旅行会社は、今まさにフライトと訓練の時期だ。
――でも、今日は非番かもしれない。
いや、それでも。
リュウジはため息をつき、通話ボタンを押した。
呼び出し音が一回、二回。
出なかったら切る、と決めた三回目の直前。
『はい、エリンです』
落ち着いた声が返ってきた。
その声だけで、なぜか肩の力が少し抜ける。
「お疲れさまです、エリンさん。今、お時間よろしいでしょうか」
『どうしたの、そんな改まって。珍しいわね』
電話越しに、笑っている気配がした。
『体調は大丈夫? また熱出したわけじゃないでしょうね』
「いえ、熱ではありません。……その、すみません。料理のことで」
『料理?』
声が一段上がる。
『リュウジが?』
「はい。」
言いながら、リュウジは自分が何をしているのか分からなくなる。
だが続けた。
「昔、エリンさんが作ってくれた卵の雲のスープを思い出して、作ろうとしたんですが……」
『……ふふっ』
笑いが漏れた。悪意じゃない。単純に意外で、可笑しい、そんな笑い。
「笑わないでください」
『ごめん、ごめん。だって想像したら……あなたが鍋の前で卵と格闘してるんでしょう?』
言いながら、エリンはまた笑う。
『それで、どうなったの?』
リュウジは鍋の方を見た。蓋の隙間から、かすかに湯気が逃げる。
「卵が……ふわふわになりません。固まって塊になります。もしくは粉みたいに散って沈みます」
『ああ、それはね』
エリンの声が急に仕事モードになる。
『火加減と、かき混ぜ方と、入れる速度。たぶん全部が少しずつ違う』
「全部ですか」
『うん。順番に確認しましょ。今、スープは沸騰してる?』
「沸騰させました。今は火を止めています」
『止めてるなら、まず温め直して。沸騰直前、ふつふつ小さい泡が出るくらい。ぐらぐら沸かさない』
『それと、箸で混ぜるのは“渦”を作るため。激しく混ぜると卵が細かく砕ける』
「渦……」
リュウジはコンロの火をつけ、鍋を温め直す。
エリンの言葉通り、泡が小さく立ち始める程度にする。
『スープに渦を作って、その渦の中心に卵を細く落とすの。卵はボウルから直接じゃなくて、箸に伝わせると細くなる』
『入れたら、すぐ混ぜない。卵が固まるまで、数秒待つ』
「……数秒待つ」
『そう。焦って混ぜると、粉みたいになる』
リュウジは箸を持ち、ゆっくり鍋をかき混ぜた。確かに渦ができる。
卵を溶いたボウルを傾け、箸に伝わせる。
――落ちろ。
細く。細く。
卵がスープに落ち、渦に巻かれて広がる。
リュウジは言われた通り、すぐに混ぜない。
数秒――一、二、三。
ふわりと、卵が浮いた。
塊にならず、粉にもならず、薄い雲みたいに広がっていく。
リュウジの眉が、少しだけ緩む。
「……できました」
声が、自分でも驚くくらい小さかった。
『ほら、できるじゃない』
エリンの声が柔らかくなる。
『味はどう? 塩気、薄くない?』
「……ちょうどいいと思います」
リュウジはスプーンで少しすくい、口に入れた。
卵がほどける。湯気が喉を温める。
あの日の味には届かない。
でも、近い。
「……ありがとうございます。助かりました」
『ふふ。こんな電話、初めてかも』
エリンは嬉しそうに笑う。
『でも、いいわね。生活してるって感じ』
「……からかわないでください」
『からかってない。えらいと思ってるの』
『それに、あなたが“やりたい事”を見つけたなら、生活も必要でしょ。体が資本なんだから』
その言葉が、胸に静かに落ちた。
エリンは知っているのだ。リュウジが区切りをつけた理由も、そこに向かう覚悟も。
「……はい。そうですね」
『で、卵の雲のスープを作ったのはいいけど、ちゃんと主食も食べなさいよ。スープだけじゃ足りない。ご飯ある? 冷凍うどんでもいい。お腹が空くと治りも遅い』
「治り……って、俺は病気じゃありません」
『病気じゃなくても。疲れてるときの食事は大事』
エリンはさらっと言う。
『“大丈夫”って言う人ほど、抜けがちなんだから』
リュウジは返す言葉を探して、結局、短く答えた。
「……分かりました」
『ふふ。素直』
『じゃあ、私はこれで。何かあったらまた連絡して。卵だけじゃなくても、何でも聞きなさい』
「……はい。忙しいところすみませんでした」
『忙しくないわよ。今日はちょうど休憩してたところ。それと――敬語、そんなに堅くしなくていいのに』
エリンが冗談めかして言う。
リュウジは少しだけ口元を動かした。
「癖です」
『知ってる。じゃあ、またね』
通話が切れる。
キッチンに戻った静けさは、さっきより温かかった。
リュウジはスープを器によそい、冷凍うどんを一玉だけ温める。
湯気の向こうで、卵の雲がふわりと揺れた。
そして、鍋を覗き込みながら、ふと思う。
あのスープを作ってくれたエリンの手は、いつも誰かを支えるために動いていた。
今も、きっとそうだ。
リュウジは器を持ってテーブルに座り、ゆっくり息を吐いた。
今日のスープは、思ったより、ちゃんと温かかった。