ソーラ・デッラ・ルーナのエアポートは、朝から人の流れが途切れなかった。
自動ゲートの開閉音、アナウンスの穏やかな声、荷物カートの車輪が床を擦る音――それらが混ざり合い、どこか落ち着かない空気を作っている。吹き抜けの天井から落ちる光は冷たく澄んでいて、ガラス越しに見える外の桟橋には、点検を終えたばかりのシャトルが静かに眠っていた。
その一角、出発ロビーの端に、カオルとハワードが並んで立っている。
カオルはいつも通り無駄のない姿勢で、手荷物は最小限。視線は真っ直ぐ前を向き、口数も少ない。
対してハワードは、同じように荷物を持っているはずなのに、妙に落ち着かず、肩が小刻みに揺れていた。胸元のストラップを弄っては、足のつま先で床を軽く叩く。いつものハワードなら「僕が行くんだぞ!」と大声で宣言していそうなのに、今日はやけに静かだ。
「……カオルは木星。ハワードは火星の小惑星のコロニーだったな」
メノリが、少しだけ確認するように呟いた。
口調は淡々としているが、その声には、いつもより柔らかい温度が混ざっている。
「うん」
ルナが小さく頷き、息を吐く。
目の前の二人が、今にも手の届かない距離へ行ってしまうようで、胸の奥が少しだけ、きゅっと縮んだ。
見送りに来たのは、ルナ、チャコ、メノリ、シンゴ、シャアラ、リュウジ――そしてベルだ。
ベルは人混みの中でも目立つ大柄な体を少しすぼめるようにして立ち、いつも通り穏やかな目をしている。けれど、手にした小さな紙袋をぎゅっと握る指先が、どこか落ち着かなかった。
チャコはいつものようにルナのそばで、しれっと腕を組んでいる。
シンゴは目を輝かせて、出発ロビーの情報ディスプレイを何度も見上げながら、興味を隠せない。
シャアラは両手でマフラーを握りしめ、何か言いたいのに言葉が出ない様子で、視線をあちこちに揺らしていた。
リュウジは少し後ろに立ち、皆の背中を静かに見守っている。表情はいつもと変わらない――ようで、目だけが少し真剣だった。
「二人とも、ほんとに行くんだね……」
ルナが言うと、ハワードが咳払いを一つした。
「当たり前だろ。……僕は、決めたんだ」
ハワードは照れ隠しみたいに鼻先を掻き、続ける。
「役者になる。演技だけじゃなくて、アクションも――全部、僕のものにする。で、いつか……」
「いつか?」
シンゴが身を乗り出す。
「いつか、僕が舞台に立ったら、必ず見に来いよ。席、最前列でな」
ハワードは得意げに言いながらも、最後だけ少し声が揺れた。
「……当たり前だ」
メノリがすぐに返した。
その即答に、ハワードが一瞬だけ目を見開き、次に、嬉しそうに口元を緩める。
「……メノリ、変に優しいじゃん」
「変じゃない」
メノリはすぐに言い切って、視線を逸らした。
「努力するなら、応援する。それだけだろ」
ハワードは「それだけ、ねぇ」と小声で笑って、少しだけ胸を張った。
カオルはそのやり取りを黙って見ていたが、やがてゆっくり口を開く。
「俺は……木星の養成学校だ」
それだけ。
余計な言葉はない。けれど、いつもより一拍だけ、間が丁寧だった。
「ブライアンさんのところ?」
ルナが尋ねると、カオルは頷く。
「ああ。……俺が宇宙飛行士になるのに必要な存在だ」
その言葉は、誰に言うでもないようで――誰かに聞いてほしいようでもあった。
リュウジが、短く息を吐く。
「ブライアンなら大丈夫だろ」
リュウジはカオルを見た。
「お前の“冷静さ”は武器だ。なくすな。増やせ」
「増やすって、どうやってだ」
カオルが、ほんの少しだけ眉を動かす。
「経験で」
リュウジは短く答えた。
「それと……誰かの声を、ちゃんと聞け。宇宙で自分の次の一手を確認しろって、言われただろ」
カオルの視線が、一瞬だけ揺れた。
ペルシアの言葉。
マリの部屋。
毎日のシミュレーション。
あの時間が、遠くへ繋がっていく感覚が、今、ここで現実になる。
「……分かってる」
カオルは小さく言い、目を伏せた。
そして、ほんの少しだけ笑う。
それは「分かってる」だけじゃなく、「ありがとう」も混ざった笑い方だった。
そこでベルが、一歩だけ前に出た。
大柄な体が動くと、周囲の人が自然に避ける。
「カオル」
ベルは呼び捨てで言い、少し間を置いた。
「……無茶するなよ。」
「ああ」
カオルが短く返すと、ベルは紙袋を差し出した。
「これ……飛行機の中で食べてくれ。」
ぶっきらぼうに言いながらも、手の動きは不器用なくらい丁寧だった。
「……ありがとう」
カオルは受け取り、少しだけ目を伏せる。
ベルはそれ以上何も言わなかった。言うと、喉の奥が詰まりそうだった。
シャアラが、やっと声を出した。
「カオル……ちゃんと、食べてね。あっちで無茶して、倒れないで」
語尾が震えた。泣きそうなのを必死で堪えている。
「……無茶はしない」
カオルは即答した。
だが次に、少しだけ言葉を足す。
「……しないようにする」
「うん、それでいい」
ルナが笑って頷く。
「完璧じゃなくていい。ちゃんと戻ってきて」
その言葉に、シンゴも元気よく頷いた。
「僕もいつか行くからね!宇宙工学の学校、ちゃんと卒業して、追いつく!」
シンゴは拳を握りしめる。
「だから、二人とも先に行って、待ってて!」
ハワードが「おー、言ったな」と笑い、カオルは「待つ」とだけ答えた。
チャコが鼻を鳴らし、腕を組んだまま言う。
「ほんま、みんな飛んでいくなぁ。ウチ、置いてかれへん?ルナ」
「置いていかないよ」
ルナはチャコを見て、柔らかく笑う。
「私たちは、ここでちゃんとやるから」
その言葉は、見送る側の決意でもあった。
アナウンスが流れる。
『木星方面便、搭乗開始のご案内です』
続けて『火星小惑星コロニー方面便』の案内。
カオルとハワードが、同時に手荷物を持ち直す。
その動きが重なった瞬間、ルナの胸がまたきゅっとなる。
出発という言葉が、いよいよ現実になった。
「じゃあ……行く」
カオルが言った。
「じゃあな!僕がいなくても寂しがるなよ!」
ハワードはいつもの調子で言い、けれどその声は少し高かった。
「寂しがるのはハワードだろ」
メノリが言うと、ハワードは「うるさい!」と笑って返した。
ルナは一歩前に出た。
言いたいことは山ほどある。
でも、言葉にすると涙が出そうで、結局、短くまとめる。
「二人とも、いってらっしゃい」
ルナは笑った。
笑っていないと、胸が崩れそうだったから。
「……いってきます」
カオルが小さく言い、ハワードも「行ってくる!」と大きく言った。
搭乗ゲートへ向かう背中が、少しずつ遠くなる。
その背中を見送る一同の中で、リュウジだけが、最後まで無言だった。
ただ、視線の奥が静かに熱い。
カオルとハワードがゲートをくぐり、姿が見えなくなる。
残った空気が、ふっと軽くなるようで、逆に重くもなる。
「……行っちゃったね」
シャアラが小さく呟いた。
「行ったな」
メノリが言う。
それだけで、言葉の端に、誇らしさと寂しさが両方混ざっていた。
ルナは、胸の前で手を握りしめる。
――私たちも、変わっていかなきゃ。
置いていかれないためじゃなく、同じ空を見上げるために。
チャコがルナの横で、ぽつりと言った。
「なぁルナ。ウチらも、負けてられへんな」
「うん」
ルナは頷いた。
笑って、目元をこっそり擦った。
「負けてられない」
リュウジが、口を開く。
「……帰ってくるさ」
短い一言。
だが、それは確信に近かった。
ルナはリュウジを見上げ、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
「そうだね」
ルナは小さく言い、もう一度、ゲートの方向を見た。
人の流れは変わらない。アナウンスも変わらない。
けれど、彼らがいない世界は、確かに少しだけ違って見えた。
――それでも私たちは、歩いていく。
いつかまた、同じ場所で、笑って再会するために。
ーーーー
植物園。
ガラス張りのドーム越しに落ちる陽光は、まだ春の冷たさを少し残しているのに、桜の淡い色だけが先に季節を追い越していた。通路に沿って植えられた樹々は満開で、花びらが風に舞うたび、ほんのり甘い香りが鼻先をくすぐる。
リュウジは、無意識に深く息を吸っていた。
サヴァイヴから帰還してから、どうにもこうにも、こういう場所に足が向く。整えられた自然でも、人工の温度管理でも関係ない。緑があって、土の匂いがして、風がある――それだけで、胸の奥のざらつきが少し薄くなる。
「……満開、か」
呟いた声は花に吸われて消えた。
枝先の白に近い淡桃色を見ていると、惑星のあの森を思い出す。あの頃は、花を見て綺麗だと思う余裕なんてほとんどなかったのに、今はこうして立ち止まっている。変わったのか、変わらされたのか。どちらでもいい。ただ、こういう静けさが、今の自分には必要だと分かっている。
ゆっくり歩き出そうとして、視線の先に、見覚えのある二つの背中があった。
ベルとシャアラ。
ベルは大柄な体をいつもより少しだけ丸めて、周囲に溶け込むように歩いている。
シャアラはマフラーを軽く持ち上げて、花びらが髪に落ちないように気をつけながら、ベルの隣で小さく笑っていた。
――いや。
リュウジは、そこでもう一つ気づく。
二人の手が、しっかり繋がれている。
仲がいい、なんて言葉じゃ足りない。
指と指の間に隙間がなく、握り方が“自然”すぎる。照れも、迷いも、隠しきれない嬉しさも、そのまま繋いだ手に全部出ている。
リュウジは反射的に、近くの桜の幹の影へ身体を寄せた。別に、見てはいけないものを見たわけじゃない。けれど、あの空気を壊すのは野暮だろう、と咄嗟に思った。
木肌に背を預け、枝の隙間から二人を見つめる。
ベルが何か言い、シャアラが少し口を尖らせ、次の瞬間には笑っている。ベルは困ったように頭をかきながら、でも優しい目で見下ろしていた。
……良かったな。
それが一番に浮かんだ感想だった。サヴァイヴの時、あの二人は、それぞれ別の形で“自分の弱さ”を抱えていた。だからこそ、今こうして寄り添っているのを見ると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
その時だった。
「ほほぉ〜……あの二人、付き合うとるなぁ」
背後から、聞き慣れた関西弁が落ちてきた。
リュウジは肩だけ動かして振り向く。
「……チャコか。驚かすな」
「驚いとる顔には見えへんな」
チャコは腕を組み、いつもの調子で鼻を鳴らした。
「相変わらず冷めとるわ。もっとこう、うわぁ〜って驚いてええ場面やろ?」
「うわぁ〜って柄じゃない」
リュウジは短く返し、目線で前方を示す。
「見つかったら面倒だ。場所変えるぞ」
「了解や」
チャコは妙に楽しそうに言い、二人は桜並木の通路を外れて、植栽の陰へ回り込んだ。
少し奥へ行くと、人通りが減って静けさが戻る。ガラスドームの外側に近いベンチがあり、花びらが風に吹かれて足元に溜まっていた。
リュウジはベンチの背に軽く手を置いて立ち止まり、チャコも隣で立つ。
「で、どうしてここに?」
リュウジが尋ねると、チャコはケロッと答えた。
「偶然や。ウチもよう来るんや」
チャコは周囲を見回し、桜を仰ぐ。
「ここ、落ち着くやろ。自然ってええなぁ。……サヴァイヴ思い出すし」
「同じこと思ってた」
リュウジは花びらを一枚指先で掴み、すぐに手放す。
「帰ってきてから、たまに来る。……気づいたら足が向いてる」
「やっぱりな」
チャコはニヤリと笑う。
そしてすぐに表情を変えた。
「なぁ、リュウジ。エリンの話、聞いたか?」
「ああ。メッセージ見た」
リュウジは頷く。
「副パーサーに上がったんだろ」
「せや!」
チャコは急に身振りが大きくなる。
「たった数ヶ月で、もう副パーサーやで?ホンマ凄いわ。どういう脳みそしとるんやろな。ウチ、同じチームやったら毎日置いてかれるで」
「置いてかれるのは今に始まったことじゃないだろ」
リュウジはさらっと言って、チャコを見た。
「ひどいこと言うなや」
チャコがわざとらしく胸を押さえる。
「今のは心が折れるやつや!」
「折れるほど繊細じゃない」
リュウジは息を吐き、桜の向こうを見た。
「……エリンさんが副パーサーなら、現場は助かるだろうな。あの人がいるだけで空気が落ち着く」
「それは分かる」
チャコも珍しく素直に頷く。
「乗客も安心するし、周りの乗務員も安心する。なんやろな、強いねん。怖い強さやなくて、“任せてもええ”強さ」
「任せられる強さ、か」
リュウジは言葉を反芻した。
エリンは強い。けれど、ただ強いだけじゃない。誰かを押しのける強さじゃなく、周囲が自然と動けるように整える強さ。支えるだけじゃなく、背中も押す。そういうタイプだ。
「それにや」
チャコが声を落とし、少しだけ真面目な顔になる。
「副パーサーって、責任も増えるやろ?エリン、無理しすぎへんか?」
リュウジの視線が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「……無理しがちだな」
認めたくないが、事実だ。
エリンは“できる”。だから周りも頼る。本人も応える。結果、限界まで走る。あいつはそういうところがある。
「見に行ったらええやん」
チャコが軽く言う。
「リュウジ、最近“やりたい事”見つけたって言うてたやろ?そのためにS級返上までしたんやし。……でもや、仲間の様子見るくらいの時間は作れるやろ」
リュウジは一瞬だけ口を閉ざした。
やりたい事。
だからこそ、動き始めた。
だからこそ、“今までの自分”を整理した。
けれど、整理したからと言って、全部を切り捨てるつもりはない。
「……タイミングが合えばな」
リュウジはそれだけ言った。
「素直やないなぁ」
チャコは笑い、次に視線を前方へ滑らせた。
「それより、さっきのベルとシャアラ。あれ、ほんまにええ感じやったな」
チャコは腕を組んで得意げに言う。
「ウチ、観察力だけはええねん。あの二人、最初はぎこちなかったけど、今はもう“隣が当たり前”って感じや」
リュウジは、さっきの二人の背中を思い出した。
ベルが戸惑いながらも守ろうとする姿。
シャアラが小さく笑って、ベルの歩幅に合わせる姿。
……守る側と守られる側じゃない。二人で並んで歩いている。そう見えた。
「ルナは知ってるのか?」
リュウジがふと尋ねると、チャコは肩をすくめた。
「薄々気づいとるやろな。でも、本人が言うまで言わへんと思うで」
チャコはルナの口調を真似して、わざと優しく言う。
「“二人が幸せならそれでいいよ”ってさ」
「……それ、ルナっぽいな」
「せやろ?」
チャコは笑って、急に顔を近づけてくる。
「で?リュウジはどう思うんや。恋愛とか」
「どうって……」
リュウジは目を逸らした。
「別に。本人たちが良ければいい」
「ほら出た、模範解答」
チャコが呆れたように言う。
「ほんまはもっと色々思うとるくせに」
「思ってない」
即答。
「嘘つけ」
チャコはニヤニヤして、桜の花びらが舞う道へ顎をしゃくる。
「ルナのこと、ちゃんと見といたれよ。強いけど、たまに勝手に一人で抱えるからな」
リュウジは返事をしなかった。
けれど、胸の奥に“その通りだ”が落ちる感覚があった。ルナは笑う。前を向く。皆を引っ張る。だからこそ、弱さを見せるのが下手だ。
自分だって同じだが――ルナは、誰かに気づからないといけないタイプだ。
遠くで、誰かの笑い声が聞こえた。
ベルとシャアラだろうか。
花の香りが風に混ざって流れてくる。
「……なぁチャコ」
リュウジがぽつりと呼ぶ。
「ん?」
チャコが振り向く。
「見なかったことにしとくか」
ベルとシャアラの手を繋ぐ姿を、だ。
チャコは一瞬目を丸くして、次ににやりと笑った。
「ええやん。ウチらは“見守り隊”や」
そう言って、チャコは胸を張る。
「ほな、今日の報告は心の中にしまっとく。……でもルナにはいつか言うたろ。絶対、ニヤニヤするで」
「言うな」
リュウジは即座に言い、チャコは「冗談や冗談」と笑う。
桜の花びらがまた舞い、二人の足元に落ちた。
リュウジはそれを見下ろし、静かに息を吐く。
帰ってきた日常は、相変わらず忙しくて、相変わらず騒がしい。
でも、こうして一つずつ、皆の“これから”が形になっていくのを見ていると、悪くないと思える。
「……カオルも、ベルも、シャアラも、ハワードも」
リュウジが呟く。
「ん?」
チャコが首を傾げる。
「進んでる」
それだけ言った。
「そらそうや」
チャコは当然のように返した。
「みんな、サヴァイヴで生き延びたんや。進むしかないやろ」
その言葉が、胸の奥で静かに鳴った。
進むしかない。
進みたいから進む。
進むことで、あの日々に意味が生まれる。
リュウジは桜の枝先を見上げ、花びらの向こうにある空を見た。
どこまでも広く、明るい。
「……帰るか」
リュウジが言うと、チャコはすぐに頷いた。
「せやな。ほら、ウチら、見守り隊の仕事終わったし」
チャコは得意げに言って、先に歩き出す。
「勝手に隊を作るな」
リュウジは小さく呆れながらも、足を踏み出した。
桜の並木道の向こうで、ベルとシャアラの背中がもう一度だけ見えた。
繋いだ手は、そのまま。
リュウジは視線を逸らし、ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。
――悪くない。
こんな春も。