新学期。
久しぶりの教室は、窓から入る光の角度だけが少し変わっていて――それだけで「季節が進んだ」と分かるのが、ルナは不思議だった。
席に鞄を置き、何気なく前と斜め前を見て、胸の奥がきゅっと縮む。
カオルの席が空いている。
ハワードの席も空いている。
分かっている。二人とも、それぞれの道へ進んだのだ。養成学校、演劇学校。あの初詣の日に、笑いながら「じゃあな」と言って別れた。
なのに、教室という“いつもの場所”に戻ってくると、欠けたピースが急に目につく。
(……寂しいな)
ルナは自分の気持ちに気づいて、小さく笑ってごまかした。
寂しいのは、悪いことじゃない。大事だった証拠だ。
そんなルナの横で、シンゴは相変わらず元気に喋っているし、ベルはいつもの穏やかな顔で周囲を見守っている。メノリは生徒会の予定表を確認していて、シャアラは教科書の角を揃えながら「新学期って、やっぱり落ち着かないね」とぽつりとこぼした。
「……カオル、ハワード、今頃どうしてるかな」
ルナが小さく言うと、
「カオルなら、黙々とやってると思うよ」
ベルが、肩をすくめるみたいに穏やかに返した。
「ハワードも、案外まじめにやってるんじゃないか」
「“案外”は余計だろ」
メノリが顔を上げ、口元だけ緩める。
「まあ、あいつはあいつなりに必死だろう。逃げずに行ったんだからな」
「うん! きっとすごいよ!」
シンゴが目を輝かせる。
「カオルの操縦、僕、もう一回見たいなぁ。……でも、今は向こうで毎日やってるんだろうし。羨ましい!」
ルナは頷いた。
羨ましい、と言えるシンゴは強い。自分の“欲しい”を素直に言えるのは、才能だと思う。
そして、ルナは視線を斜め後ろへ向けた。
リュウジは、いつも通りに机に肘をつき、無表情で窓の外を見ている。新学期だろうが、空席があろうが、たぶん彼の呼吸のリズムは変わらない。
(……でも、本当は)
変わっていないように見せるのが上手いだけかもしれない、とルナは思う。
自分と同じで。
授業が始まり、休み時間を挟んで、あっという間に放課後になった。
教室がざわつき始める。
帰り支度、部活の声、廊下の足音。その全部が新学期らしく落ち着かない。
その時、教室の入口から誰かが声を上げた。
「おい、リュウジ! 美少女が来てるぞ!」
からかい混じりの声に、クラスがどっと笑う。
リュウジは面倒くさそうに眉を動かしただけで、立ち上がらない。
――なのに。
なぜか、ルナの肩がほんの少し跳ねた。
自分でも分かるくらい、ぴくりと反応してしまう。
(美少女って……なにそれ)
胸の奥が、ちくりとする。
それが何なのか、言葉にしたくなくて、ルナは咳払いで誤魔化した。
教室の扉が開く。
入ってきたのは、見慣れた顔だった。
長く整えた髪、きりっとした目。
制服ではなく、仕事着の雰囲気を纏ったその人は、まっすぐにリュウジの席へ向かう。
「……サツキさん!?」
シンゴがぱっと立ち上がった。
「久しぶり、シンゴ」
サツキは軽く手を振り、それからリュウジを見る。
「どうしたんだ、サツキ」
リュウジが短く言った。驚きよりも先に、状況を把握しようとする声だ。
「宇宙連邦連盟の仕事でね」
サツキはそう言って、リュウジの机の上に紙束を広げた。
薄いフィルムのような紙に、細い線がびっしり走っている。
「設計図……?」
ルナが思わず覗き込み、メノリもシャアラも席を立つ。ベルは一歩遅れて近づき、シンゴはすでに目が完全に“技術者の目”になっていた。
「探索船の設計を頼まれたんだ」
サツキは指先で図面の一部をトントンと叩く。
「長距離航行を前提にしてる。居住区画は最小、センサーと推進系に比重。……それで、操縦士としての意見が欲しい」
「俺に聞くな」
リュウジは即答だった。
机の上の図面に目も落とさず、淡々と言う。
教室の空気が一瞬止まる。
「え、でも……」
シンゴが口を開きかけると、リュウジが続けた。
「宙から離れて、もう期間が経ってる。サヴァイヴの帰還とブライアンの捜索で操縦はしたが、あれはネフェリスだったからだ」
言葉が切れているのに、説明は的確だった。
「サヴァイヴの技術と、コロニーの現行技術は別物だ。今の常識も現場も知らない俺が助言したら、返って危険だろ」
「でも、サヴァイヴの技術とコロニーの技術が全然違うのは確かだけど……」
シンゴが悔しそうに眉を寄せる。
「基礎の考え方とか、操縦士の“嫌な感じ”って、共通してるところもあるはずだよ! リュウジなら、そこを言語化できると思う!」
「それは現役の操縦士に聞け」
リュウジは譲らない。
ルナは、リュウジの横顔を見つめた。
冷たい言い方。突き放しているように聞こえる。
でも、たぶんこれは“拒絶”じゃない。責任の切り分けだ。
――やりたい事を見つけた。
そのための区切りとして、S級パイロットを返上した。
リュウジは、自分で決めた線を、今は守っている。
中途半端に“過去の自分”を貸して、誰かの未来に傷をつけるのが嫌なんだ。
ルナの胸に、理解と、少しの寂しさが同時に落ちた。
「……」
ルナが何か言おうとして、言葉が見つからない。
その隣で、メノリが腕を組んだ。
「断る理由は筋が通ってるでしょう」
メノリはサツキに視線を向ける。
「“詳しい奴に聞け”ってのは正しい。……ただ、操縦士の感覚は紙の上に出ない。そこを埋めたいなら、別のやり方もある筈です」
「別のやり方?」
シャアラが首を傾げる。
「リュウジに“助言”を求めるんじゃない」
メノリは言い方を選びながら続けた。
「“質問を限定する”んだ。例えば、操作系の配置で危険になりやすいパターン、極限状況で判断を誤るインターフェース――そういう“人間側の落とし穴”だけを聞く」
シンゴがぱっと顔を上げる。
「それ、いい……! 人間工学的な!」
ベルも頷いた。
「俺も、言いたいことは分かる。操縦の上手い下手じゃなくて、事故の起こり方の話なら、経験がある奴ほど強い」
サツキは、少しだけ目を細めた。
「なるほど。……でも、それでもいいかな、リュウジ」
「……」
リュウジは一拍置き、ほんの少しだけ視線を落とした。
机の上の設計図を、ようやく見る。
「限定した質問なら、答えられるかもしれない」
小さく言って、すぐに首を振る。
「でも、俺の発言が設計に反映されるなら、責任が発生する。俺は現役じゃない。やるなら、監修は現役か、設計主任が取れ」
その言葉に、ルナは思わず息を呑んだ。
断っているのに、サツキを突き放していない。
“ここまではできる、ここからはできない”を、はっきり示している。
サツキは苦笑して、肩をすくめた。
「……悪いな。無理を言った」
リュウジが言うと、
「ううん、大丈夫だよ」
サツキは首を横に振った。
「最初から断られる可能性もあると思ってた。……でも、来てよかった」
ルナは、胸の奥がほんの少しだけざわつくのを感じた。
サツキの「来てよかった」が、リュウジに向けられた言葉だからだ。
それが仕事上の意味だと分かっているのに、感情の方が先に反応してしまう。
(私、何やってるんだろ……)
ルナは自分を落ち着かせるために、手を握った。
リュウジが続ける。
「ブライアンなら紹介できる。あと、アズベルト先生」
言いながら、サツキに端末の連絡先を送る動作をした。
「S級パイロットの二人なら現場も知ってるし、責任も取れる」
サツキは端末を確認して、ぱっと表情を明るくする。
「助かる。お願いする時はよろしくね」
サツキが言うと、リュウジは短く頷いた。
周りの空気が、少し緩む。
シンゴが嬉しそうに、設計図の端を指でなぞった。
「サツキさん、その探索船、航続距離ってどのくらい想定ですか!?」
質問が飛ぶ。
ベルも「船体材は?」と続け、シャアラは「宇宙船って、こういう線で描かれてるんだ……」と感心して、メノリは「目的が探索なら、乗員の心理負荷対策も必要だろ」と真面目に言う。
サツキは一つ一つ、丁寧に答えていく。
それは、仕事の場の会話なのに、どこか“サヴァイヴで皆が役割を持っていた頃”の空気に似ていた。
ルナはその輪の少し外側で、リュウジの顔をそっと見た。
彼は、輪に混ざるでもなく、離れるでもなく、必要な時だけ口を開き、あとは静かに聞いている。
その横顔が、ルナには少し大人びて見えた。
――区切りをつけた人の顔。
でも、仲間を捨てた顔じゃない。
サツキが図面を片付けながら言う。
「この後、エリンさんにも意見をもらう予定なんだ。乗務側の視点も必要だからね」
その名前が出た瞬間、ルナの胸がまた小さく跳ねた。
美少女、って言葉に反応した自分を思い出して、余計に恥ずかしくなる。
シャアラがルナの顔色をちらりと見て、そっと耳打ちした。
「ルナ、さっきから表情、忙しいよ」
「え、な、なにが?」
ルナが慌てると、
「分かりやすい」
メノリがぼそっと言い、口元だけで笑った。
「心配するな。お前はお前だろ」
ルナは頬が熱くなるのを感じて、うつむいた。
そのタイミングで、リュウジが小さく息を吐いて言う。
「……ルナ」
名前を呼ばれて、ルナは顔を上げる。
「さっきから変な顔してる」
リュウジは淡々と言った。
からかいではない。心配でもない。事実の確認みたいな声。
「してないよ」
ルナは即座に返し、少しだけ強めに言ってしまった。
「……してない、はず」
リュウジは一瞬だけ目を細めた。
それが笑いなのか、呆れなのか、ルナには判別できない。
「ならいい」
それだけ言って、リュウジはサツキに視線を戻した。
「……紹介の件、進めるなら早めに動け。設計は後から変えるほど金が飛ぶ」
「分かってる」
サツキが頷く。
「ありがとう、リュウジ。……じゃあ、私は行く」
サツキが教室を出ていく。
扉が閉まった後、教室の空気はすっと日常に戻った。
ルナは、胸の奥のざわざわが少し落ち着いていくのを感じた。
“美少女”という言葉に過剰反応した自分が恥ずかしい。
でも、恥ずかしいということは――自分の中に、ちゃんと気持ちがあるということでもある。
「……さて」
メノリが手を叩く。
「新学期だ。生徒会も忙しくなる。寄り道して帰るなら気をつけるんだぞ」
「そうだね」
ベルが穏やかに言って、シンゴが笑う。
「でも、分かる! 新学期って、なんか疲れるもん!」
シャアラが小さくあくびをして、ルナは思わず笑った。
空席は、まだ空席のままだ。
でも、その空席の向こうに、二人の“今”がある。
ルナは、机の端を指でなぞりながら、心の中で小さく呟いた。
(私も、進まなきゃ)
そして、隣にいるリュウジを見た。
彼は彼で、自分の線を引き直して進んでいる。
新学期の風は、少し冷たい。
けれど、その冷たさがあるから、春は確かに始まっていく。
ーーーー
指定された喫茶店は、エアポートの外れにある小さな店だった。ガラス越しに見える夕方の滑走路は、淡い光を反射して静かに輝いている。
サツキが扉を押すと、ベルの音が柔らかく鳴った。
奥の窓際――既にエリンが席に着いていた。長い緑髪を肩に流し、手元の端末で資料を眺めている。制服ではないが、きちんとした装いは乗務員らしい清潔感がある。テーブルの上には、湯気の立つハーブティーと、もう一つ空のカップ。
「……エリンさん」
サツキが近づきながら頭を下げる。
「すみません、忙しいのに。急に呼び出してしまって……」
エリンは端末から顔を上げ、いつもの落ち着いた笑みを向けた。
「大丈夫よ。こっちも、ちょうど休憩を入れたかったところ」
そして空のカップを指さす。
「サツキ、座って。飲み物、何がいい?」
「いえ、私が――」
「いいの。今日は“打ち合わせ”でしょ?」
エリンはそう言って店員を呼び、サツキの注文を先に通した。サツキが席に腰を下ろすと、エリンは自然な動作で端末を横にずらし、テーブルの真ん中に空間を作る。そこにサツキが図面の束を置けるように。
「……それで」
エリンの声が少しだけ仕事のトーンになる。
「探索船の設計、だっけ。操縦側と乗務側、両方の視点が欲しいって」
「はい」
サツキは図面を広げ、指先で要点を示した。
「長距離航行前提で、探索任務にも対応できる。乗員は最小。居住スペースは削って、センサー・推進・補給を優先してます。……ただ、実際に“人が乗る”ってなると、やっぱり不安が残って」
「うん、そこが一番落とし穴」
エリンは頷き、図面を見下ろしたまま言った。
「船は“性能”だけなら強く作れる。でも、運用するのは人間。怖がる人も、焦る人も、空腹の人も、眠い人も乗る。事故は機械より、人の心と習慣のほころびから起きることが多い」
サツキはペンを握り直し、エリンの言葉を逃すまいと姿勢を正した。
「まず、私が見るのは“動線”」
エリンは図面の通路に沿って指でなぞる。
「緊急時に、人がどこへ流れるか。乗員がどこへ走るか。逆流しないか。扉の幅、角、視界。暗闇や煙で視界が悪い状況でも、迷わない構造かどうか」
「動線……」
サツキが呟くと、
「それから“見えるもの”」
エリンは指を止めた。
「表示。光。色。非常灯の位置。非常口の矢印。床面誘導。――乗客は、説明を聞いても忘れる。怖くなると余計に忘れる。だから視界に入る“道しるべ”が必要」
「航宙用だから、乗客は基本乗せない想定なんですけど……」
サツキが言うと、エリンは否定しなかった。
「乗客がいなくても同じよ」
エリンは穏やかに言った。
「乗るのが研究員でも、整備士でも、若いパイロットでも。慣れてない人間が一人混ざった瞬間、船は“旅客機”みたいになる。しかも長距離なら、疲労で判断が鈍る。だから“分かりやすい設計”は絶対に必要」
サツキは小さく息を吐いた。
宇宙連邦連盟の仕事は、数字と規格と成果が優先される。けれど、エリンの言うことは、数字に表れない“現場の真実”だった。
「次は“音”」
エリンが言う。
「警報音は種類を増やしすぎない。緊急か、注意か、復旧か。迷うと人は止まる。止まるのが一番危ない。あと、アナウンスが通る設計――スピーカーの配置、反響、遮音。個室や貨物区画に人がいたら、聞こえる?」
サツキは頷きながら、メモを取った。
エリンは淡々と続ける。淡々としているのに、言葉の端々に現場の熱がある。
「それと“備え”」
エリンが図面の一角を指した。
「医療スペース。最低限の処置ができる場所。隔離できる場所も。感染症だけじゃなくて、パニックも“感染”するから」
「隔離……」
サツキの眉が動いた。
「落ち着ける場所が必要なの」
エリンは言い換えるように微笑む。
「人が怖くなった時、閉じ込めるんじゃなくて、安心できる場所に移せるように。照明、匂い、音。そういうのも設計で変わる」
注文していた飲み物が届き、サツキは一礼してからカップを両手で包んだ。
温かさが指先に伝わる。
「……すごいですね」
サツキが素直に言う。
「設計図って、線の集まりに見えるのに。エリンさんは、そこに人の顔が見えてる」
「見えないと困るのよ」
エリンは軽く肩をすくめた。
「私は乗務員だから。機体の外側じゃなくて、内側の空気を守る仕事」
サツキは図面をめくり、別ページの推進系統に目を落とす。
「推進と電源の冗長性は、技術者がかなり頑張ってくれてて……」
そこで少し言いにくそうに、言葉を止める。
「……操縦士側の意見を聞きたくて、リュウジのところにも行ったんですが、断られました」
エリンの眉が、ほんの少しだけ上がった。
意外だったのは確かだろう。リュウジは、頼られれば何だかんだで動く。そういう人間だと、エリンも知っている。
「……そう」
エリンは短く相槌を打つ。
けれど、すぐに表情が整う。
「リュウジが断るの、意外だけど……どこか“リュウジらしい”気もする」
「私も、そう思いました」
サツキは頷いた。
「“今の現場を知らない自分が助言したら危険だ”って。責任の話をしてました。現役の監修をつけろ、とも」
エリンはカップを置き、指先でテーブルを軽く叩いた。
考えをまとめる癖だ。
「……区切り、つけたんだよね」
エリンがぽつりと言う。
「はい」
サツキは言葉を選びながら続ける。
「S級パイロットを返上して、やりたい事を見つけたからだと思います」
エリンは、少しだけ目を細めた。
その表情は、困惑というより――理解に近い。
「……そういう時のリュウジは、線を引くの」
エリンは静かに言う。
「誰かを突き放す線じゃない。自分が守るべきものを守るための線。曖昧にすると、全部が壊れるって知ってるから」
サツキは頷いた。
その線の引き方は、とてもリュウジらしい。正しい、と思う。正しいが――同時に、寂しくもある。
「でも、紹介はしてくれました」
サツキが言う。
「ブライアンさんと、アズベルトさん。現役と責任の取れる人に、って」
「それが答えね」
エリンは微笑んだ。
「リュウジは断るけど、道は塞がない。……昔からそう」
少し沈黙が落ちる。喫茶店のBGMと、カップに触れる小さな音だけが間を埋めた。
エリンは改めて図面に視線を戻し、話を仕事へ引き戻す。
「操縦士の視点が欲しいなら、私から言えるのは“操縦士が孤立しない設計”」
エリンは操縦席周りの図を指で示す。
「外の情報だけに集中しすぎると、内側が見えなくなる。逆も同じ。だから、通信の窓口を整理して、必要な情報が“押し寄せない”ようにする。特に緊急時、情報が多すぎると判断が遅れる」
「情報量の制御……」
サツキが呟く。
「操縦士は強いけど、人間」
エリンは淡々と言う。
「疲労する。焦る。怒る。怖がる。――その時に、余計な確認を減らす設計が必要。チェックリストが取りやすい場所、手を伸ばす範囲、表示の統一。手袋をしたままでも操作できるボタンの感触。滑り止め。全部、“救命装置”になる」
サツキのペンが止まらない。
エリンの言葉は、設計の箇所箇所に刺さっていく。
「あとね、サツキ」
エリンが声を少し柔らかくする。
「“完璧な船”を目指しすぎないこと。現場は必ず想定外が起きる。だから必要なのは、想定外が起きても“人が立て直せる余白”」
「余白……」
サツキは繰り返し、ふっと笑った。
「設計で余白を作るって、矛盾してるみたい」
「矛盾じゃない」
エリンはきっぱり言った。
「余白はコストじゃない。保険。命のための余白。……私は、その余白に何度も救われた」
サツキは、その言葉の重みを感じて、背筋が伸びた。
エリンは、危険な状況を知っている。生きて帰ってきた人の言葉だ。
「ありがとうございます」
サツキは深く頭を下げた。
「今日の話、全部まとめて、技術班にも共有します。……リュウジの件も、無理を言ったのに、道を作ってくれたって伝えます」
「それがいい」
エリンは頷き、最後にひとつだけ付け足すように言う。
「もし、どうしても操縦士の“感覚”が必要なら、現役に聞いて。ブライアンさんでもいいし、アズベルトさんでもいい。だけど――“過去の英雄”に頼りすぎないで。リュウジが今、そこから降りた理由、あなたも分かってるでしょう?」
サツキは、静かに頷いた。
分かる。
分かるからこそ、胸の奥が少しだけ痛む。
エリンはカップを持ち上げ、柔らかく微笑む。
「大丈夫。船は作れる。人は育つ。道は繋がる」
そう言って、サツキの図面の端を軽く押さえた。
「あなたが真面目に悩んでる時点で、この船はきっと、ちゃんと“生きた船”になる」
サツキは、胸の奥に溜まっていた息を、ゆっくり吐いた。
喫茶店の窓の外、夕暮れの滑走路に、ひとつの光が点る。
それは、これから飛ぶための準備灯みたいに見えた。
ーーーー
カップの底に残った温かさを指先で確かめるように、エリンは両手で陶器を包み直した。窓の外では、夕暮れの滑走路灯がひとつ、またひとつと点っていく。
サツキの広げた探索船の図面は、紙の白さのままでも、どこか“冷たい”匂いがした。金属と真空と、想定外の匂い。エリンはそれをよく知っている。
「……ところで、サツキ」
エリンは視線を図面から外し、ふと軽い調子に戻した。仕事の話をし続けると、相手の肩が固くなるのを分かっているからだ。
「この探索船の話、ペルシアにも聞くの?」
サツキは一瞬、息を呑んでから頷いた。
「あ、はい。声は掛けさせて貰ったんですけど……忙しいからって言われて、断られました」
エリンの眉が僅かに動く。予想外というより、嫌な予感に近い反応だった。
「……そうなのね」
エリンは小さく呟き、カップを置いた。
「最近、ペルシアの様子が変なのよね」
「そうなんですか?」
サツキの声が少しだけ上ずる。
ペルシアはいつも騒がしくて、強くて、勝手で――それでも芯のところで、誰よりも仲間の命を大事にする人間だ。サツキにとっては、遠い大人というより“戦場の先輩”に近い。そんなペルシアが“変”という言葉で語られるのは、胸の奥がざわついた。
「うん」
エリンは頷き、視線を落としたまま続ける。
「連絡しても、繋がらないのよね。既読にもならない時があるし……いつもなら、面倒くさそうにでも返すのに」
サツキは唇を噛む。
「……ペルシアさん、仕事が立て込んでるって言ってました。宇宙管理局の方で、何か大きい案件があるのかも」
「それならそれで、ひと言ぐらい言うでしょ」
エリンは、いつもより少しだけ鋭い声になった。すぐに自分で気づき、息を整える。
「……ごめん。私、ちょっと気にしすぎかも」
サツキは首を横に振った。
「いえ。エリンさんが“変”って言うなら、気にした方がいい気がします」
エリンは苦笑して、軽く肩をすくめた。
「そう言われると、余計に怖くなるわね」
少しの沈黙。喫茶店の奥でスプーンが触れ合う音がした。外からは遠いアナウンスが、ガラス越しにぼんやりと流れてくる。
サツキは話題を戻すように、図面の端を指で押さえた。
「探索船の件は……ペルシアさんに無理に頼むつもりはないです。私の方で、現役の操縦士や整備の人にも話を回して、別ルートで集めます」
エリンはサツキの手元を見て、頷いた。
「それがいい。ペルシアは頼めば来る時もあるけど、来ない時は“来ない理由”がある。そこに無理に踏み込むと、逆に拗れることもあるから」
「拗れる……」
サツキが聞き返すと、
「ペルシアはね」
エリンは言葉を探してから、やわらかく続ける。
「怖い時ほど、強い顔をするの。強く振る舞えば振る舞うほど、誰にも触れられなくなる。……それが長所にも短所にもなる」
サツキは息を飲んだ。
それは“ペルシア”という人物の説明であると同時に、エリン自身が何度も目にしてきた“人が壊れないための癖”の話にも聞こえた。
「でも、繋がらないのは……やっぱりおかしいですね」
サツキが小さく言う。
「うん」
エリンは頷き、今度は迷いなく携帯端末を取り出した。
「……ちょっとだけ、もう一回かけてみる。今なら、忙しくても切るぐらいはできるでしょ」
指先が素早く操作し、発信音。
――コールは鳴る。けれど、繋がらない。
規則的な呼び出し音が、妙に長く感じた。
「……やっぱり」
エリンは通話を切り、画面を見つめる。
“圏外”ではない。着信拒否でもない。ただ、出ない。
サツキはそれだけで、背中に冷たいものが走った。
「メッセージ、送ります?」
サツキが提案すると、エリンは端末を持ったまま少し考えた。
「送るわ」
エリンは短く言い、文字を打ち込む。
――『忙しいのは分かってる。返事はいらないから、無事なら一言だけ。心配してる』
送信。既読はつかない。
エリンは端末を伏せ、深呼吸した。普段の彼女なら、感情を顔に出さない。けれど今は、ほんの僅かに不安が滲んでいる。
「……ごめんね、サツキ。せっかく打ち合わせしてるのに」
「いえ」
サツキは真っ直ぐ首を振った。
「私も、ペルシアさんには……助けられてばかりですから。放っておけないです」
エリンはその言葉に、ふっと笑みを戻した。
「そういうところ、いいわね。……だからあなた、仕事で信頼される」
サツキは頬を掻いて、少しだけ照れたように視線を逸らす。
「信頼、というより……怖いだけです。怖いから、確認したくなる」
「それは、正しい怖さよ」
エリンは断言する。
「怖いのに見ないふりをするのが一番危ない。宇宙船も、人も同じ」
エリンは話を切り替えるように、再び図面へ指先を落とした。
「ペルシアが動けないなら、代案。あなた、もう一つ“窓口”作っておくといい」
「窓口?」
「運用の窓口。現場で指揮を執る人」
エリンは操縦席周りと乗員スペースの境目を示す。
「設計が固まっても、最後は“誰がこの船を使うか”で変わるの。運用ルール、緊急手順、訓練計画。そこまで一緒に考えてくれる人が必要」
サツキは頷く。
「……宇宙管理局の運用班か、宇宙連邦連盟の規程班に当たってみます」
「うん。あと、操縦士の“癖”を吸い上げる役が欲しいなら――」
エリンは少し言いにくそうに、言葉を止めた。
「……リュウジですか?」
サツキが先に口にすると、エリンは苦笑した。
「そう。でも、今のリュウジは“区切り”を守ってる」
エリンは静かに言う。
「だから、無理に引き戻すような頼み方はしない方がいい。もし必要なら、技術の話としてじゃなくて、“安全の話”として、短い確認を一つだけ。そういう頼み方なら、リュウジは応える可能性がある」
「安全の話として……」
サツキは復唱し、メモに落とす。
「リュウジはね、断る時でも“守りたいもの”がある時は、ちゃんと守るの」
エリンはそう言って、少しだけ遠い目をした。
「だから断られたってことは、“今の自分が関わることが危険だ”って、本気で思ったんでしょうね。……責任感が変な方向に尖ってるのよ、あの子」
サツキは小さく笑った。
「そこ、すごく想像つきます」
エリンも笑う。けれど、笑いの後にほんの一拍、影が落ちる。
ペルシアのことだ。
「……ペルシア、どこにいるのかしら」
エリンは独り言みたいに呟いた。
「忙しいって言うなら、声ぐらいは聞きたいのに」
サツキは、カップを握る手に力を入れた。
「私の方でも、宇宙管理局の知り合いに当たってみます。行動予定とか、せめて所属ブロックの状況とか」
「ありがとう」
エリンは、まっすぐサツキを見た。
「……でも、深入りしすぎないで。ペルシアは、踏み込まれるのが苦手。助けを求めるのも下手。だから、こちらから行きすぎると、余計に距離を取る」
「分かります」
サツキは頷いた。
「“無理やり助ける”じゃなくて、“帰ってこれる場所を残す”……そういうやり方ですよね」
エリンは、少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「うん。そう。それ」
窓の外で、またひとつ灯りが点る。
滑走路の光は、飛び立つためでも、降りてくるためでもある。
帰るための道しるべだ。
エリンは深呼吸して、いつもの落ち着いた声に戻った。
「よし。探索船の話、続きましょう。ペルシアのことは……私がもう少し探る。あなたは船を作る。役割分担ね」
「はい」
サツキは姿勢を正した。
「……エリンさん。ありがとうございます」
「礼はいらない」
エリンは図面に指先を置き、仕事の顔になる。
「私は“中の空気”を守るのが仕事。船も、人も。……それに、ペルシアがいない間は、私がうるさくしておかないと、あの人が帰ってきた時に怒られるもの」
サツキは小さく笑って、頷いた。
その笑いの奥に、同じ不安が残っている。
けれど、今はまだ、確かめる術が少ない。
だからこそ――二人は、目の前の図面に向き合った。
“人が戻ってこられる船”を作るために。