新学期に入って、最初の大きな活動――木星で行う惑星開拓の体験実習。二泊三日。
ソーラ・デッラ・ルーナのエアポートには、まだ朝の冷えが残っていて、吐く息が白く滲んだ。
集合場所の電子掲示板の前で、ルナは両手でリュックの肩紐を握り直し、小さく笑った。
「……なんだか、懐かしいね」
「去年は“修学旅行”どころじゃなかったもんね」
シャアラが肩をすくめて言う。いつもの落ち着いた声だけど、目は少しだけ弾んでいる。
「流石に同じことは起こらないだろ」
メノリが腕を組み、きっぱり言い切った。
「起こったら学園の責任問題だ。……というか、私たちの心臓がもたない」
「確かに。今年はちゃんと修学旅行ができそうだな」
ベルが穏やかに笑って、荷物のタグを指で揃えた。大きな手の動きが不思議と丁寧だ。
「まあ、油断したら足元すくわれるけどな」
リュウジが短く言って、周囲をぐるりと見渡した。人の流れ、出口の位置、係員の配置――癖みたいに確認している。
「リュウジ、それ言い方!」
ルナがすぐにツッコミを入れると、リュウジは肩を軽くすくめた。
「事実だろ」
その横で、シンゴがパンフレットを広げ、目を輝かせている。
「ねえねえ、実習ってさ、木星の“開拓区画”に入れるんだよね? 地表ドームとか、気象制御とか、観測データセンターとか!」
「宇宙船の機械室に入ったら駄目だよ」
ルナが先手を打って釘を刺す。
「でも、ちょっとだけなら……」
シンゴが悪戯っぽく笑うと、
「駄目だ」
メノリが即座に切り捨てた。
「“ちょっとだけ”が事故の始まりだろ」
「はい……」
シンゴはしょんぼりするが、すぐに顔を上げる。
「でも、見学ツアーならあるよね! 公式の! ね!」
「それなら問題ないね」
ベルが頷く。
「俺も見たい。ドームの内圧管理とか、気になる」
「ベルまで……」
ルナが笑いながら額を押さえた。
そこへ、引率の教員がチェックリストを手にやって来て、点呼が始まった。
名前が呼ばれるたびに返事が飛び、列が整っていく。ルナたちもそれに続いて、荷物の重量確認と持ち込み制限の再チェックを受けた。
「そういえば」
リュウジがふと口を開いた。
「チャコは一緒じゃないのか?」
「ええ。今回はリュックの中も確認済みよ」
ルナは少し得意げに笑う。
「チャコはお留守番してる」
「……そうか」
リュウジは短く頷いた。
「チャコがどうかしたの?」
シャアラが首を傾げる。
「いや」
リュウジは視線を前に戻しながら言った。
「何かあった時に、チャコがいた方がいいだろって思ってな」
「“あんな事”が何度も起きてたまるか!」
メノリが即座に返す。
「……冗談でも洒落にならない」
リュウジは小さく笑った。
「冗談だ」
ルナはそのやり取りを聞きながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
こうして“冗談”が冗談として交わせる。
去年は、そんな余裕すらなかった。
搭乗開始のアナウンスが流れ、列がゆっくり動き始めた。
ゲートの向こうに停泊する実習船は、旅客船よりも実用寄りで、角ばった機体がいかにも“訓練用”という雰囲気を纏っている。けれど、そのぶん堅牢そうで、妙に安心感があった。
「おお……」
シンゴが声を漏らす。
「これ、外装に熱反射層が二重だ。新しいモデルだよ。去年より進んでる」
「シンゴは本当に、見るところが違うな」
ベルが感心したように言う。
「だって、面白いじゃん!」
シンゴは嬉しそうに笑った。
「……でも、機械室は我慢する。今日はね!」
「“今日は”って言ったな」
メノリがじとっと睨むと、
「冗談! 冗談だよ!」
シンゴが慌てて両手を振った。
通路を進み、船内へ。
座席はブロックごとに分けられていて、ルナたちは同じ列にまとめられていた。ルナが窓側、シャアラが隣、通路側にベル。向かいにメノリとシンゴ、そして少し離れた通路側にリュウジ。リュウジは座るなり、シートベルトの留め具を無言で確認して、背もたれに深く身を沈めた。
「緊張してる?」
ルナが小声で聞くと、
「別に」
リュウジは短く返した。
「ただ、習慣だ」
その言葉はいつも通り素っ気ないのに、ルナはなぜか安心した。
“習慣”で守れるものがあるなら、それでいい。
離陸前の安全説明が始まる。
教員がマイクを取り、非常時の行動、点呼、連絡手段、禁止区域――特に“船内施設に勝手に入らないこと”を繰り返し強調する。
シンゴが目を逸らした瞬間、ルナが肘で小さく突いた。
「痛っ」
「聞いて」
「聞いてるよ……」
シャアラがくすっと笑って、ルナの肩に軽く寄りかかる。
「でも、去年と違って、こういう説明ちゃんと聞けるの、いいね」
「うん」
ルナは頷いた。
「去年は、説明どころじゃなかったもん」
ベルが窓の外を見つめ、ぽつりと言った。
「……桜の季節に、木星か。変な感じだな」
「木星の開拓区画は、今の季節は“人工春”らしいよ」
シンゴがパンフレットをめくる。
「桜に似た花も見られるって。遺伝子改変の――」
「説明が長い」
メノリが遮る。
「楽しみにしておく。今は落ち着け」
「はーい」
シンゴは素直に頷く。
エンジンの低い唸りが床から伝わり、機体がゆっくり動き出した。
ルナは窓の外を見ながら、胸の奥で何かがそっと震えるのを感じた。
去年、同じように“旅”の始まりだと思っていた瞬間があった。
そして、あっという間に奪われた。
ルナは無意識に、リュックの肩紐を握り締めていた。
「……大丈夫だ」
リュウジの声が、隣でも向かいでもない距離から飛んできた。
ルナが驚いて顔を上げると、リュウジは窓ではなく、ルナの手元を見ている。
「その握り方、去年と同じだ」
「え」
ルナは自分の手を見て、慌てて力を抜いた。
「私……」
「緊張してるだけだろ」
リュウジはそれ以上言わず、視線を前に戻す。
「離陸する。頭を預けろ」
「う、うん」
ルナは背もたれに頭を預け、深呼吸した。
軽い加速。身体がシートに押し付けられ、窓の外の景色が滑るように後ろへ流れていく。
ぐん、と浮く感覚。
――そして、空へ。
船内が少しだけざわつく。
歓声とも、不安ともつかない声。
けれど去年のような“混乱”ではない。
今は誰もが、同じ目的地へ向かう乗客で、同じ時間を共有しているだけだ。
「……ねえ」
シャアラが小さく言った。
「このまま、何事もなく着くんだよね」
「着く」
メノリが言い切る。
「何事も起こさせない。起きそうなら、私が止める」
「メノリ、それはそれで怖い」
ルナが笑うと、メノリはほんの少し口元を緩めた。
「怖がれ。怖がって、ちゃんと準備しろ」
シンゴが窓に額を寄せ、雲のような大気層の向こうを想像するみたいに目を細める。
「木星……僕、ずっと行ってみたかったんだ。研究施設の映像でしか見たことなかったから」
「楽しみだな」
ベルが頷いた。
「俺も、実習っていうより……普通に見てみたい」
ルナはそれを聞きながら、胸の奥の不安が少しずつ、別の感情に置き換わっていくのを感じた。
期待。
好奇心。
そして――一緒に来られた喜び。
ふと、リュウジが小さく欠伸をした。
ルナは思わず、目を丸くする。
「なんだ」
リュウジが視線だけ寄こす。
「……欠伸するんだ、って思って」
「する」
リュウジは短く返して、少し気まずそうに視線を逸らした。
「寝不足だ」
「珍しい」
ルナが笑うと、リュウジは少しだけ眉を上げる。
「俺だって人間だ」
「知ってる」
ルナは、わざとらしく頷いた。
「でも、リュウジって……いつも平気そうにしてるから」
リュウジは一瞬だけ何か言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。
代わりに、少しだけ柔らかい声が落ちる。
「平気そうにしてるだけだ」
それだけで、ルナの胸が小さく熱くなった。
この人は、ちゃんと“弱さ”を隠す。
去年の自分と、どこか似ている。
だから、隣にいたいと思う。
助けてほしいというより、同じ方向を見たい。
やがて、船内の照明が少し落ち着いた色に変わり、機内サービス――いや、“船内軽食”が配られ始めた。
引率教員が「各自、水分は必ず取ること」と繰り返し、紙コップが行き渡る。
「ちゃんと栄養バーまである」
メノリが包装を手に取って言う。
「去年は……」
「去年は、炎果と月梨だったな」
リュウジがぼそっと言う。
「言わないで」
ルナが即座に返すと、シャアラが笑いながら頷いた。
「私もそれ、思い出しちゃう」
「炎果と月梨、美味かったけどね」
シンゴが悪びれず言うと、
「美味いかどうかの話じゃない」
メノリが冷たく言い、ベルが慌ててフォローする。
「まあまあ……今はちゃんとしたご飯がある」
「そうだな」
リュウジが短く同意した。
ルナは紙コップの温かさを握りながら、窓の外へ目を向けた。
ソーラ・デッラ・ルーナの空が遠ざかっていく。
去年は“帰れる保証”なんてなかった。
でも今は、帰りの予定がある。二泊三日の旅程がある。先生がいて、ルールがあって、みんなが笑っている。
それだけで、胸がいっぱいになる。
「……ねえ、リュウジ」
ルナは小さく呼ぶ。
「なんだ」
「今回、ちゃんと“修学旅行”できるね」
ルナが言うと、リュウジは少しだけ間を置いて、頷いた。
「ああ」
そして、ほんの少しだけ口元が緩む。
「ちゃんと、楽しめ」
ルナはその一言が嬉しくて、思わず笑ってしまった。
「うん。……楽しむ」
機体は安定航行に入り、木星へ向けて静かに加速していく。
新しい学期の始まりは、去年の“漂流”とは違う――ちゃんとした旅の始まりだった。
ーーーー
木星宙域に入った、とアナウンスが流れたのは、船内の照明が夜モードに切り替わった少し後だった。
窓の外は深い藍色の闇で、その中心に――巨大な縞模様の球体が、ゆっくりと姿を現す。
「……でかいな」
ベルが思わず漏らした声は、普段の穏やかさを忘れるほど素直だった。
「映像で見るのと全然違う……」
シャアラが息を呑む。光の帯みたいな雲の筋が幾重にも重なり、渦が、嵐が、遠くからでも“生きている”みたいに見えた。
「木星って……あんなに綺麗だったんだ」
ルナは胸の前で手を握り、視線を離せないまま呟く。
「綺麗、って言葉で片付けるのは勿体ないな」
リュウジがぼそりと言った。窓に映る自分の顔は淡く、けれど目だけが鋭く光っている。
「“巨大な力”だ。人間がどうこうできるサイズじゃない」
「だからこそ、開拓って凄いよね」
シンゴが興奮気味にパンフレットを叩く。
「木星そのものはガス惑星で地面がないけど、周回軌道のコロニーと、衛星の開拓区画で“惑星開拓体験”ができる。大気圏の外に作った気象観測施設も、衛星の資源採掘基地も、全部が……」
「説明が長い」
メノリがいつもの調子で切り、けれど口元だけは少し緩んでいた。
「……でも、興味があるのは事実だ。シンゴ、あとで要点だけまとめてくれ」
「うん!」
シンゴは嬉しそうに背筋を伸ばした。
船は木星本体へ降りるわけではない。目的地は“開拓実習区画”――木星の衛星圏に設けられた訓練用のドーム・キャンプだ。
減速の振動が腹の底に響き、機体がゆっくりと進路を変える。窓の外に、リング状に光る施設群が見えた。点と点が線で繋がり、巨大な円を描く。その内側には、人工的な“昼”が灯っている。
「着いた……」
ルナが思わず呟く。
やがて機体がドッキングし、気密接続の完了音が鳴った。
搭乗口が開くと、冷たく乾いた空気が流れ込んでくる。外は宇宙の真空だが、ここは施設内。薄い金属の匂い、清掃剤の匂い、そしてどこか“新しい設備”の匂いがした。
通路を進むと、広いホールに出る。天井は高く、壁面には木星の気象データが流れる大型パネル。制服姿のスタッフが整列し、引率教員と短い挨拶を交わしていた。
「ようこそ、木星開拓実習区画へ」
スタッフの代表がマイクを持ち、明るい声で続ける。
「これから二泊三日、皆さんには“惑星開拓”の基礎を体験してもらいます。安全第一。ルールは必ず守ってください。」
オリエンテーションが終わり、次はグループ分けだ。
タブレットに表示された班表が壁に投影され、名前が並ぶ。
「ルナ、メノリ、シャアラ、シンゴ、ベル、リュウジ……」
ルナが読み上げると、ベルが「同じ班だね」と頷き、シンゴが「よし、技術系は任せて!」と胸を叩いた。
「任せる前に、勝手に動くなよ」
メノリが即座に釘を刺す。
「はい……」
シンゴはしょんぼりし、ルナが肩を軽く叩いた。
「大丈夫。ちゃんとルールの範囲で活躍してね」
「うん!」
シンゴはすぐに復活した。
班ごとに担当スタッフが付き、移動が始まる。
ルナたちの担当は、短髪で快活そうな女性スタッフ――名札には「イサナ」とある。
「ルナ班の皆さん、こちらへどうぞ」
イサナは笑顔で言い、ホールの奥にあるゲートへ案内した。
「まずは“開拓ドーム”の基本説明と、今日の体験内容を確認します。そのあと、外部作業用の簡易スーツを着用して、ドーム外縁の点検ルートを歩きます。作業というより、体験ですけどね」
「スーツ!」
シンゴが目を輝かせる。
「興奮しすぎるな」
メノリが言う。
「でも、ちょっと楽しみ」
シャアラが珍しく素直に言って、ルナは嬉しくなった。
「ね、ルナ」
「うん!」
ルナは笑って頷いた。
ゲートを抜けると、視界が一気に変わった。
そこは“ドーム内”――人工の空と、人工の地面。淡い青空が広がり、遠くには桜に似た花が咲く並木。地面には土の匂いがあり、湿度もほどよい。風が吹いている。
――宇宙の中なのに、春がある。
「わ……」
ルナが立ち止まると、ベルも足を止めた。
「俺、こういうの……なんか、落ち着くな」
「自然を再現することで精神状態を安定させる効果がある、って資料に――」
シンゴが言いかけ、
「資料は後でいい」
メノリが切る。
「今は、ちゃんと見ろ」
その言い方は厳しいのに、メノリの視線はほんの少し柔らかい。
ルナは、メノリもこの景色に心を動かされているのを感じて、なんだか嬉しくなった。
「ルナ」
リュウジが小さく呼ぶ。
「なに?」
ルナが振り向くと、リュウジは空を見上げたまま言った。
「……この空、ちゃんと作ってるな」
「ちゃんとって?」
シャアラが首を傾げる。
「光の角度と影の落ち方だ」
リュウジは淡々と言う。
「適当に明るくしただけのドームは、目が疲れる。ここは……落ち着く」
ルナは少し驚いた。
リュウジがこういう“生活の感覚”を言葉にするのは、珍しい。
「リュウジって、意外と繊細だよね」
ルナが笑うと、
「意外って言うな」
リュウジはむすっと返した。
でも、その声はどこか照れ隠しみたいで、ルナは胸の奥が温かくなった。
イサナが前に立ち、手元の端末を操作する。
「では、今日の体験内容です。皆さんには“開拓区画の基本”として、三つの仕事を体験してもらいます。
一つ目、ドーム内の作物区画での“栽培管理”。
二つ目、ドーム外縁の“点検ルート巡回”。
三つ目、簡易資源処理施設での“リサイクル工程見学と操作”。」
「栽培管理……」
ルナは小さく呟いた。サヴァイヴでの畑や食料確保が、自然と胸に浮かぶ。
「点検ルートは、危険はありません」
イサナが続ける。
「ただし、ルールを破ったら危険です。勝手に離れない。勝手に触らない。勝手に開けない。――分かりますね?」
全員が頷く。
「特に、君」
イサナはシンゴを見て笑った。
「君は目が輝きすぎてる」
「えっ……」
シンゴは照れたように頬を掻く。
「安心しろ。見学できる範囲は十分ある」
イサナが優しく言うと、シンゴは「はい!」と元気よく返事をした。
最初は栽培区画。
温室のようなエリアに入ると、そこは緑がぎっしり詰まっていた。土の匂い、葉の匂い、微かな水の匂い。
水耕栽培のラックが並び、根の部分が透明な管の中を流れる養液に浸かっている。
壁面にはモニターがあり、温度・湿度・二酸化炭素濃度・光量がリアルタイムで表示されていた。
「うわ……」
シャアラが目を丸くする。
「本当に、ちゃんと畑だ」
「畑というより工場だね」
ベルが呟く。
「でも、俺はこういうの、好きだ」
「“好き”?」
ルナが笑うと、ベルは少し照れたように頷いた。
「俺、サヴァイヴで畑やってた時……嬉しかったんだ。芽が出た時」
ルナは胸がきゅっとなる。
「うん……分かる」
イサナが説明を続ける。
「ここでは、作物の生育状態を確認し、異常があれば調整します。今日は体験なので、皆さんには簡単なチェックだけしてもらいます。葉の色、根の状態、水の流れ。異常があれば報告。――では、班ごとに分かれて」
ルナ班はラックの一角を任された。
シンゴがすぐにモニターを覗き込む。
「温度は適正。湿度も……二酸化炭素が少し低い? でも許容範囲内……」
「勝手に弄るなよ」
メノリがすかさず言う。
「分かってるって!」
シンゴは苦笑した。
「報告だけだよ。報告!」
ルナは葉の裏をそっと覗き、シャアラは根の状態を真剣に見つめ、ベルは水の流れる音に耳を澄ませている。
リュウジは少し離れて全体を眺め、そしてルナたちが触る手元を静かに見守っていた。
「……問題なさそうだな」
リュウジが言う。
「リュウジ、こういうのも分かるの?」
ルナが聞くと、
「分かるってほどじゃない」
リュウジは肩をすくめる。
「ただ、異常は“雰囲気”で分かる。機械の音、風の流れ、人の動き。……サヴァイヴで嫌でも身についた」
「それ、すごいことだよ」
ルナが素直に言うと、リュウジは少しだけ目を逸らした。
チェックを終え、報告を出す。
イサナは満足そうに頷いた。
「よし。次は点検ルート。外縁に出ます。スーツの装着へ」
更衣室のような区画に移動し、簡易スーツが配られる。
宇宙服ほど重装備ではないが、密閉性能と耐圧、気温調整、通信機能が備わっている。
ヘルメットを被ると、内側にHUDが薄く浮かび、心拍と酸素量の数値が表示された。
「これ……かっこいい」
シャアラが小さく言う。
ルナも同意した。
「うん。なんか……ちゃんと“宇宙”って感じ」
「お前ら、浮かれて転ぶなよ」
メノリが言い、でも自分もヘルメットを触って確認している。
外縁ルートへ出ると、床の感触が変わった。金属の足場。
透明な厚いパネルの向こうには、宇宙の闇と、遠くに見える木星の縞模様。
その景色だけで、胸がぎゅっとなる。
――サヴァイヴとは違う。ここは安全に作られた場所だ。
でも、それでも宇宙は宇宙だ。
「……木星、近いな」
ベルが呟いた。
「怖い?」
ルナが聞くと、ベルは首を横に振る。
「怖いっていうより……圧がある。俺たち、小さいなって」
「そう思えるのは大事だろ」
リュウジが静かに言う。
「宇宙で一番怖いのは、“自分が大丈夫だと思い込むこと”だ」
ルナはその言葉を胸にしまった。
点検体験は、パネルの固定部の目視確認、圧力ゲージのチェック、緊急扉の位置確認。
イサナが一つずつ説明し、ルナたちは指差し確認のように声を出して復唱する。
「固定部、異常なし」
「圧力ゲージ、正常範囲」
「緊急扉、位置確認」
メノリは規律の人だけあって、一番丁寧にやっていた。
シンゴもふざけず真面目に、ベルは静かに確実に、シャアラは慎重に、ルナは全員の動きを見ながら確認していく。
リュウジは、その一歩後ろで全体の安全を見張るように歩いていた。
点検ルートを終え、最後は資源処理施設。
そこで見たのは、“捨てない”ための仕組みだった。
生ゴミを分解し、肥料に変え、水を再利用し、金属やプラスチックを分類して再加工する。
サヴァイヴで必死にやっていたことが、ここでは巨大な設備で、効率的に、安定して行われている。
「すごい……」
ルナが呟くと、シンゴが興奮した声で補足する。
「これ、分解菌の管理がポイントなんだよ。」
見学が終わり、班ごとに簡単な振り返りをする時間になった。
イサナが端末を手に言う。
「今日の体験で、印象に残ったことを一人ずつ。短くでいいですよ」
ベルが先に言った。
「俺は……“守られてる自然”って感じがした。サヴァイヴの自然は、優しくもあったけど、容赦なかった。ここは……守るための仕組みがある」
「いい感想です」
イサナが頷く。
シャアラは少し考えてから言った。
「私は……宇宙の中に春があるのが、不思議で……でも、ちょっと安心しました」
シンゴはすぐに言う。
「僕は全部! 特に資源処理! あれ、もっと詳しく――」
「短く」
メノリが即座に言うと、シンゴは「はい!」と縮めた。
「……“仕組み”があるってすごい!」
メノリは少し間を置き、言葉を選ぶ。
「私は……規律があるから安全がある、と改めて思った。サヴァイヴでは私たちが規律を作る側だった。ここでは、作った人の意志が残っている」
ルナ。
ルナは胸の前で手を握り、ゆっくり言った。
「私は……“ちゃんとした修学旅行”ができて、嬉しいです。去年のことは忘れないけど、今年は今年の思い出を作りたい」
イサナは優しく笑った。
「いいですね。――じゃあ最後に、君」
イサナはリュウジを見た。
リュウジは少しだけ目を細め、短く答えた。
「……こういう場所があるなら、宇宙で暮らすのも悪くない」
それは感想というより、ぽつりと漏れた本音に近かった。
ルナはその横顔を見て、胸が少しだけ熱くなる。
リュウジが“暮らす”という言葉を使ったことが、嬉しかった。
その日の夜、宿舎に移動する通路で、ルナはリュウジの隣を歩きながら小声で言った。
「今日、楽しかった?」
リュウジは一瞬だけ黙り、そして短く頷いた。
「ああ」
ルナはその一言だけで十分だった。
去年とは違う旅。
怖さはゼロじゃない。でも、今は仲間がいて、ルールがあって、春の匂いがする。
――この二泊三日が、ちゃんとした“新しい思い出”になりますように。
ーーーー
宿舎の食堂は、木星の衛星圏にあるとは思えないほど暖かく、にぎやかだった。
昼間の体験で身体がほどよく疲れているからか、皆の箸はよく進む。大きなトレーに並ぶのは、栄養バランス重視の“開拓食”。けれど味気ないわけじゃなく、むしろ素朴で、どこか懐かしい。
「……これ、美味しいね」
ベルがぽつりと言うと、シンゴが勢いよく頷いた。
「でしょ!? たぶんドーム栽培の野菜が使われてる。食感がしっかりしてるんだよ。」
「食事中だ、静かにしろ」
メノリがいつものように遮る。
けれど、その表情は険しくない。むしろ、普段より柔らかい。
「ごめん……でも、やっぱり気になる」
シンゴは苦笑しながらもスプーンを動かす。
ルナは皆の顔を見渡して、ふっと笑った。
サヴァイヴの時も、こうやって食卓を囲めるだけで、すごく幸せだった。
今は、それが“普通”にある。嬉しいはずなのに、心のどこかで、妙に落ち着かない感覚もあった。
――今年は今年の思い出を作ろう。
そう決めたのに、ふとした瞬間、去年の影が足元に伸びる。
食べ終えると、それぞれ自由時間になった。
シンゴは「施設の案内パネル見てくる!」と言って走りそうになり、ルナに「走らない!」と止められた。
ベルは「俺、外縁の夜景もう一回見てくる」と言って、ゆっくり立ち上がる。
メノリは「私は部屋で少し勉強する」と言い、食器を丁寧に片付けてから去っていった。
ルナは一瞬だけこちらを見て、何か言いかけた。
でもすぐに目を逸らして、「……ちょっとね」とだけ残し、食堂を出ていった。
リュウジはその背中を見送るでもなく、黙って立ち上がり、エントランスへ向かった。
宿舎のエントランスは広く、窓の外には木星の光が淡く滲んでいる。
人の気配はあるのに、騒がしくはない。ソファとテーブルがいくつも置かれ、談笑する班もいれば、静かに端末をいじる生徒もいる。
リュウジはその端の席に座り、鞄から一冊の本を取り出した。
表紙には、簡潔な文字でこう書かれている。
『人体の仕組み 基礎編』
ページをめくりながら、リュウジの目は淡々と文章を追う。
筋肉と骨格、呼吸器、循環器。
宇宙で生活する上で、身体がどう反応するか。
圧の変化、酸素濃度、疲労の蓄積。
――誰かを守るには、まず自分の身体の限界を知っておけ。
昔、どこかで聞いた言葉が、頭の奥で反響した。
「……ふぁ」
小さな欠伸が聞こえた。
リュウジが視線を上げると、エントランスの入口にシャアラが立っていた。
いつもより髪がゆるく、寝間着の上にカーディガンを羽織ったような格好で、目の端が少し潤んでいる。
「起きてたのか」
リュウジが言うと、シャアラは小さく頷きながら近づいた。
「うん……なんか、寝つけなくて」
そう言いながら、もう一度小さく欠伸をする。
シャアラはそのままリュウジの向かいに座り、テーブルの上の本を覗き込んだ。
「なに、それ。難しそうな本」
「人体の仕組みだ」
「……へぇ。リュウジがそういうの読むの、意外」
「意外って言うな」
リュウジは本を閉じもせず、ページの端を指で押さえたまま淡々と返す。
シャアラは苦笑し、頬杖をついてリュウジの顔を見た。
「ねえ、何の本読んでるの、って聞いてるのに、タイトルしか答えてくれないんだね」
「それで十分だろ」
「十分じゃないよ」
シャアラはわざとらしく拗ねた顔をする。
それでも声は柔らかかった。
リュウジは返事をしない。
しないけれど、ページをめくる指の動きが少しだけゆっくりになった。
「他のみんなは?」
リュウジが尋ねると、シャアラは指折り数えた。
「メノリは部屋で勉強」
「……らしいな」
「シンゴはパネル見に行った。ベルは外縁の夜景」
「ああ」
「で、ルナは……ちょっとね」
シャアラは曖昧に言って、目を伏せた。
リュウジの視線が、ページからほんの少しだけ上がる。
「ちょっと?」
「他のクラスメイトに呼ばれてた」
シャアラは、眠気を誤魔化すように目尻を擦った。
「……たぶん告白されてる。そういう雰囲気だった」
「そうか」
リュウジは、それだけ言って、また本に視線を落とした。
シャアラは、しばらく沈黙したまま彼を見つめる。
その沈黙に、リュウジは気づいていないふりをしている。
けれど、シャアラは知っている。リュウジは“気づかない”んじゃない。“気づいても動かない”ことがある。
「……気にならないの?」
シャアラが小さく言う。
「別に」
短い答え。
切り捨てるようでいて、どこか曖昧な響きもあった。
「ふぅん……」
シャアラはため息をついた。
そして、少し意地悪な顔で続ける。
「ルナ、結構モテるんだけどな」
「知ってる」
リュウジはページをめくりながら言った。
シャアラは目を丸くする。
「知ってるんだ?」
「……周りが騒がしいからな」
リュウジは淡々と答える。
でも、ほんのわずかに、声のトーンが硬い。
シャアラはその変化を聞き逃さなかった。
眠気の奥に、妙な確信が生まれる。
「じゃあ、なんで何もしないの」
シャアラは言った。
いつもの彼女なら、こんな突っ込み方はしない。
けれど今日は、空気が少しだけ揺れている。木星の夜のせいか、宿舎の静けさのせいか。
それとも――ルナのことを思うと、黙っていられなくなったせいか。
リュウジの指がページを止めた。
しばらくして、彼は本を閉じ、表紙に視線を落としたまま言う。
「……何もしないって、何だ」
「分かってるでしょ」
シャアラは真っ直ぐ見た。
「ルナ、あなたのこと……」
「言うな」
リュウジの声が、少しだけ低くなる。
シャアラは驚き、口を閉じた。
リュウジは顔を上げないまま、続ける。
「……俺は、あいつに余計なものを背負わせたくない」
「余計なもの?」
「俺みたいなやつと関わると――面倒が増える」
リュウジは言葉を選ぶように、ゆっくり言った。
「注目される。噂される。勝手な期待を押し付けられる。……そういうのを、あいつに背負わせたくない」
シャアラは息を呑んだ。
リュウジが“自分のせいでルナが傷つく”ことを恐れているのは分かる。
でもそれは、優しさの形をした、臆病さにも見える。
「でもね」
シャアラは静かに言った。
「ルナは、背負わされるのが嫌な子じゃないよ。ルナは……自分で背負うって決めちゃう子」
声が少しだけ震える。
「だから、リュウジが離れると……ルナは、もっと一人で抱え込む」
リュウジの瞳が、わずかに揺れた。
シャアラは続ける。
「サヴァイヴの時も、そうだったでしょ。ルナ、いつも笑ってたけど、怖かったはずなのに、怖いって言わなかった」
「……」
「あなたがそばにいると、ルナは少しだけ、素直になれる。……私、そう思う」
シャアラがそこまで言ったところで、エントランスの向こうから声がした。
遠くの談笑の中に混じって、明るい女子生徒の声。
そして、少し遅れて聞こえる、ルナの声。
「……ありがとう。でも、ごめんね」
柔らかい、けれどはっきりした断り方。
ルナらしい、相手を傷つけないようにする言い方。
シャアラは思わず立ち上がりそうになり、リュウジの様子を見て止まった。
リュウジは座ったまま、動かない。
でも、肩の筋肉が僅かに固まっている。
「……ほら」
シャアラが小さく言う。
「ちゃんと断ってる。ルナ、やっぱり強い」
リュウジはしばらく黙り、やがて低く言った。
「強いからって、何でも一人でやらせていい理由にはならない」
シャアラは、少し驚いた。
今の言葉は、まるで――リュウジが“自分のこと”を責めているみたいだったから。
その時、ルナの足音が近づいてきた。
エントランスの照明に照らされ、ルナがこちらへ歩いてくる。
顔は笑っているのに、目の奥にほんの少し疲れが見えた。
「あ、シャアラ。起きてたの?」
「うん。寝れなくて」
シャアラは誤魔化すように笑う。
ルナはリュウジの前に立ち、少し首を傾げた。
「リュウジ、本読んでたの?」
「ああ」
リュウジは短く答える。
「なに読んでるの?」
「身体の仕組み」
「……真面目だね」
ルナがクスッと笑う。
シャアラは、二人の間に流れる空気を感じて、少しだけ安心した。
さっきまでの沈黙は、怖い沈黙じゃない。
でも、ぎこちない温度がある。
「ねえ、ルナ」
シャアラがわざと軽い声で言う。
「ルナ、モテるんだよ」
「えっ?」
ルナが目を丸くする。
「な、なに急に……」
「さっき呼ばれてたでしょ」
シャアラが言うと、ルナは頬を少し赤くした。
「……うん。でも、違うよ。別に、そういうのじゃ――」
「告白だったんだろ」
リュウジが淡々と言う。
ルナが固まった。
「え、なんで分かるの……?」
「シャアラが言った」
リュウジは視線を逸らし、少しだけ不機嫌そうに言う。
ルナは、驚きと戸惑いの間で瞬きをした。
そして、ゆっくりと笑った。
「でも断ったよ」
ルナは少しだけ胸の前で手を握る。
「だって、私は……」
言いかけて、ルナは口を止めた。
“私はリュウジが——”
その言葉を、今ここで口にするのは怖かった。
シャアラは、その続きを察して、そっと視線を外した。
今はまだ、言わなくていい。
言わなくても、伝わる時がある。
リュウジは立ち上がり、本を鞄にしまう。
「……遅い。部屋に戻れ」
「リュウジ、あなたも寝てよ」
ルナが言うと、リュウジは「分かってる」と短く返した。
シャアラは立ち上がりながら、二人を見て、心の中で小さく呟く。
――やっぱり、ちゃんと気にしてるじゃない。
眠気が戻ってきた。
だけど、それは悪い眠気じゃない。
木星の夜は静かで、春を閉じ込めたドームは遠くで柔らかく光っている。
三人は並んで廊下を歩き、宿舎の部屋へ向かった。
その背中を見ながら、シャアラは思う。
モテるのは、ルナだけじゃない。
リュウジだって、きっとそう。
でも――二人が互いを見つけてしまったのなら、もう逃げられない。
木星の夜は長い。
その長さが、今夜は少しだけ味方に思えた。