サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第9話

ルナの叫びは、岩の窪みの中に反響していた。

「バカ! もっと自分の身体心配してよ‼」

その声は鋭さよりも、むしろ悲痛な響きを持っていた。彼女の頬を伝う涙は止まることを知らず、シートに落ちて小さな水の跡をつくっていく。

 

リュウジは目を逸らした。

叱られることには慣れていた。教官にも、仲間にも、かつての自分自身にも。だが――こうして涙を流しながら必死に叱ってくれる相手など、今までいなかった。

 

「……俺は……」

口を開きかけるが、言葉が続かない。

心の奥に隠していた罪悪感や後悔が、彼女の涙によって次々と掘り起こされていくようで、胸の奥が重く締めつけられた。

 

ルナは嗚咽をこらえながら、震える声で続ける。

「怖かったのよ……リュウジが倒れていて、本当に死んじゃったじゃないかって、胸が痛くなって……もう二度と話してくれないんじゃないかって思った……! だから……お願い。もう、一人で無茶なんてしないで」

 

彼女の声は、雪よりも澄んでいた。

その必死な願いに、リュウジは初めて真正面からルナの瞳を見た。涙に濡れて揺れるその瞳は、恐怖も怒りも、すべてを包み込んでいた。

 

「……俺なんかのために、どうして……」

かすれた声がもれる。

「罪を背負ってる人間に、そこまで……」

 

「関係ない!」

ルナは言葉を遮った。両手でリュウジの肩を押さえ、今にも崩れそうな彼の心を繋ぎ止めるように。

「リュウジはここにいてくれるだけでいいの! どんな過去があったって……私にとって、今のリュウジは仲間で、大事な人なの!」

 

その言葉に、リュウジの胸に刺さっていた棘が、一瞬だけ和らぐ。

大事な人――。その響きは、彼が長い間避け続けてきた温もりそのものだった。

 

沈黙が流れた。

吹雪の音は遠ざかり、焚き火の炎がパチパチと弾ける音だけが響く。

 

ルナは涙を拭い、少し落ち着いた声で言った。

「約束して。もう一人で無茶しないって。私を……みんなを信じてって」

 

リュウジは目を閉じ、深く息を吐いた。

いつもなら、軽くあしらって終わらせるはずだった。だが今は違った。

ルナの声が、涙が、真っすぐに自分の中へ届いてしまった。

 

⬜︎

 

焚き火の炎がかすかに揺れ、岩の窪みに映る二人の影を濃く、そして長く伸ばしていた。

外では吹雪が唸りをあげ、まるで遠い世界で怪物が暴れているかのようだった。だが、この小さな空間の中だけは、二人きりの密やかな時間が流れていた。

 

リュウジはふっと笑った。

それは嘲りでも、皮肉でもなく、心の奥から自然にこぼれた、わずかばかりの笑みだった。

「お前は、本当に不思議な奴だ」

 

ルナは驚いたように瞬きをした。リュウジが笑う姿を見ることは滅多になかったからだ。その笑みはすぐに掻き消えてしまったが、それでも彼が一瞬でも心の鎧を緩めたことに、ルナの胸は少しだけ温かくなった。

 

「俺からしてみれば、お前の方が無茶をしているように見える」

リュウジは炎を見つめたまま、淡々と続ける。

「できもしないシャトルの操縦、大いなる木の上に家を建てるなんて馬鹿げた計画……普通なら誰もやろうとしない。けど、お前はやり遂げた」

 

ルナは視線を落とし、肩から手を離した。小さな体を守るように、自分の膝を抱え込む。

「……皆んながいたからだよ」

 

「確かにな。適材な人間がいたから成り立っただけだ。そうじゃなければ……もうこの世には、お前も、他の皆もいなかっただろう。だがルナには生き抜くという力強さも感じた」

その声は、諦めと悔恨を抱えた男の吐息のように重く落ちた。

 

ルナの唇が小さく震える。少しの沈黙ののち、彼女はぽつりと呟いた。

「……私ね、八歳のときにお父さんが亡くなったの」

 

リュウジの目がわずかに動いた。ルナに両親がいないことはチャコから聞いていた。ルナの声は、焚き火の炎よりも静かに、だが胸を締めつけるほど強く響いた。

 

「コロニーの爆破事故に巻き込まれてね。たまたま遊びに来ていた私とチャコを避難カプセルに押し込んで……」

ルナの声は震え、記憶の重さが言葉に絡みついていた。

「『この先、どんなに苦しいことがあっても生きるんだ』って、最後に言い残して……お父さんは死んじゃった」

 

彼女は俯いたまま、さらに膝を強く抱きしめた。

「だから、私は絶対に諦めたくない。どんなに苦しくても、生きるって約束したから。それに……大切な仲間を、死なせたくないのよ」

 

その声には、確かな力が宿っていた。

だがリュウジの返答は冷たかった。

「だが、全てを救うことはできない。そんなのただの詭弁だ」

 

ルナは顔を上げ、彼を真っ直ぐに見つめた。

「分かってるわ。それでも、せめて……私の手の届く範囲だけでも、救いたい」

 

小さな息を吐き、震える瞳で言葉を結ぶ。

「リュウジのことも……だよ」

 

その名を呼ぶ声は、雪解け水のように澄んでいた。

 

リュウジの顔に影が落ちた。炎のせいではなかった。彼の表情は、まるで心の奥底から闇が湧き上がるかのように暗く沈んでいく。

 

「……俺に関わるな」

突き放すような言葉が投げられる。

 

ルナの胸が痛んだ。

「なんで……そんなこと言うの?」

 

「俺は罪人だ」

リュウジの声は低く、抑制されていたが、その奥には深い傷が刻まれていた。

「大勢の人間を死なせた……悪人なんだ」

 

「そんなのかんけ――」

「お前が俺の何を知っている!」

 

冷たい視線がルナを射抜いた。彼の声は鋭く、ルナの言葉を無理やりねじ伏せた。

 

だがルナは怯まなかった。涙をにじませながらも、真剣で真っ直ぐな瞳を彼に向ける。

「知ってるわ」

 

リュウジの眉がかすかに動く。

 

「リュウジが皆のことを思って行動していることを。食料を探してくれたことも、家を建てるのを手伝ってくれたことも、拠点づくりを支えてくれたことも……全部見てきた」

ルナは震えながらも言葉を続ける。

「誰よりも危険を背負って、それでも誰にも弱さを見せない。冷静で、時に厳しいことも言うけど……誰一人、見捨てたりしなかった」

 

リュウジの胸に、思いもよらぬ衝撃が走った。

(そんな風に……俺を見ていたのか?)

 

ルナは微笑んだ。涙で濡れた頬のまま、やわらかな笑みを浮かべていた。

「協力してるだけって、あなたは言うけど……私は、優しい心を持った人だと思ってる」

 

炎の光が彼女の横顔を照らした。その表情は揺るぎなく、真実を語る者のように澄んでいた。

 

リュウジは心の奥でかすかな動揺を覚える。

だが、かろうじて言葉を吐き出す。

「それは……サバイバルだったからだ」

 

ルナは首を振り、ふっと笑った。

「だから、私はリュウジのことを教えてって言ったのよ」

 

リュウジは言葉を失った。

いつもなら軽くあしらって終わらせる。気まぐれで聞いているのだろう、と突っぱねてきた。だが今、この状況でその言葉は違って響いた。ルナは本気で、彼を知りたいと願っている。

 

――心が、静かに揺さぶられていく。

 

リュウジは長く息を吐き、ついに重い口を開いた。

「……ルナは、『悲劇のフライト』を知っているだろう?」

 

ルナは少し困惑し、唇を結んだ後、静かに答えた。

「……実はね、ここに来るまでは知らなかったの。私も両親を亡くして……色々あったから。でも、メノリとシャアラに聞いて、初めて知ったの」

 

彼女の声は痛みを含んでいた。

 

「……ドルトムント財閥の旅客機。火星から木星に向かっていた長距離便。エンジンの故障や隕石群の直撃で、大惨事になった……」

ルナはかすかに声を震わせながら、知っている限りを語った。

「最終的に、緊急用のエアシップに止まることすらできなくて……乗客の八割が命を落とした。あれは……コロニー史に残る大事故だって」

 

リュウジは目を伏せた。炎の光が瞳に映り込み、その影をさらに濃くした。

 

ルナは続けた。

「……リュウジは、英雄だって呼ばれてた。でも同時に、多くの人を殺した張本人だって、糾弾もされた……」

彼女は申し訳なさそうに視線を落とす。

「それは、社会的な処刑みたいなものだったって……」

 

重苦しい沈黙が流れる。

 

リュウジは俯き、低く呟いた。

「ルナが信じるかどうかは知らない……だが、あの時、何があったのか……教えてやる」

 

彼の声は震えていた。だがそれは恐怖ではなかった。

ずっと心の奥に押し込め、誰にも語ることのなかった過去。

その扉を、今まさに開こうとしている。

 

炎の揺らめきが、リュウジの瞳に赤く燃え上がる。

そして、彼は重く、ゆっくりと――口を開いた。

 

⬜︎

 

アストロノーツ養成学校――全コロニーから一万人以上の少年少女の中から選抜された、未来の宇宙飛行士を育てるための最難関の教育機関。

 そこに入学できる時点で、すでに人類の頂点に立つ資質を持っていると言われていた。しかし、入学したからといって保証されるものは何もない。五年間の過酷なカリキュラムを経て、最終的に「宇宙飛行士」として羽ばたけるのは、ほんの一握り――数名だけだ。

 

 当時八歳のリュウジも、その養成学校に入学していた。

 幼さを残す年齢でありながら、彼の瞳はすでに冷たく鋭く、他の同年代の子供たちとは明らかに異なる雰囲気を纏っていた。

 

 入学式の時点で、同学年の生徒はおよそ百六十名。だが、そのうちの半数以上が一年を終える前に去っていく。脱落か、辞退か――どちらにせよ「ふるい」に耐えられなかったのだ。

 それはリュウジにとっても決して楽なことではなかった。だが、彼には生来の冷静さと粘り強さがあった。課題がどれほど過酷でも、「できない」という発想がなかった。越えられない壁に見えても、いつか必ず超える。そう信じて努力を続けるだけの強さを持っていた。

 

 養成学校のカリキュラムは徹底的だった。

 座学は高校から大学、場合によっては専門課程に踏み込むものまで幅広く含まれていた。量子物理学、宇宙航行システム、天体観測、異常環境下での生理学、さらには心理学まで――宇宙飛行士が単独でも仲間とでも生き延びられるように、あらゆる知識が詰め込まれた。

 

 実技面も苛烈だった。

 重力を操作したトレーニングルームでの耐久走。酸素濃度を通常より低くした環境での二十キロマラソン。無重力空間での器具操作、救助訓練。さらにはエアシューズを履いての競技「バスケット」など、遊びのように見えてもすべてが身体能力と適応力を試す課題だった。

 

 子供にしては異常ともいえる過酷さだった。

 それでもリュウジにとっては――地獄の中の地獄ではなかった。

 彼は「やれるかどうか」ではなく「やる」と決めて動いていた。泣き出す生徒がいる中でも、彼は無言で汗を流し、必ず課題を達成した。だからこそ、自然と周囲から頭一つ抜け出していったのだ。

 

 学年を上げるごとに人数は減り、雰囲気はどんどん殺伐としていった。

 ライバルが減るということは、残った者同士の競争がさらに激化するということだった。互いを蹴落とすような視線が飛び交い、協力よりも敵視が当たり前となる。

 

 ――だが、そんな中でも例外があった。

 リュウジとルイの存在だ。

 

 昼休みの食堂。

 「またリュウジに負けたな」と笑顔で話しかける少年がいた。ルイ。シルバーの髪を揺らし、どこか人懐っこい雰囲気を漂わせた少年だった。

 「お前が俺に勝ったことがあったか?」

 リュウジは悪戯っぽく笑いながら返す。そのやり取りは軽口のようでありながら、周囲の緊張を和らげるものでもあった。

 

 二人は常に成績トップを争っていた。筆記も実技も、互いに譲らず、わずかな差で勝ったり負けたり。いや、正確には――リュウジが勝つことがほとんどだった。

 ルイもそれを自覚していた。悔しい気持ちはある。だが、同時にリュウジの存在は刺激であり、誇りでもあった。

 

 「正直、今回は勝ったと思ったのになぁ」

 ルイが悔しそうにスプーンをかじりながら呟く。

 「宇宙工学は俺もあんまり得意じゃないがな」

 「よく言うよ! 満点だったくせに!」

 悔しさ半分、笑い半分。二人のやり取りは、殺伐とした養成学校の中で唯一「子供らしさ」を感じさせるものだった。

 

 そこにもう一人、影のように存在していたのがカオルだった。

 黒髪を短く整え、いつも冷たい表情を崩さない少年。訓練以外で人と交わることを好まず、孤独を選んでいた。だが、その成績は常に三位以内。特に身体能力は群を抜いており、努力を怠らない姿勢も教員たちから高く評価されていた。

 

 リュウジとカオルは、他の生徒が思っているほど仲が悪いわけではなかった。

 「宇宙工学、満点だったよ。ありがとうな」

 リュウジが食堂で何気なく礼を言うと、カオルは「……当然だ」と短く答える。

 「まさか、カオルが教えたから満点取ったの?」

 隣でルイが驚いて声を上げた。リュウジが勉強を他人に頼るなんて想像していなかったのだ。

 だが事実はその通りだった。リュウジは自分の得意分野――特に身体能力と戦術訓練――を惜しみなくカオルに教え、その代わりにカオルから宇宙工学を学んでいたのだ。

 

 競い合い、支え合い、ときに反発しながらも三人は不思議な均衡を保っていた。

 リュウジは常に先頭を走り、ルイは明るさで皆を和ませ、カオルは黙々と努力を積み重ねる。

 

 そんなある日のことだった。

 養成学校のスピーカーが鳴り響く。

 「リュウジ。至急、校長室に来るように」

 無機質なアナウンスに、食堂の生徒たちがざわめいた。

 

 「何か悪さでもしたのか?」

 ルイが首を傾げる。

 「身に覚えはないな」

 リュウジは短く答え、食事を切り上げて立ち上がった。

 

 彼の背中を見送りながら、ルイとカオルは無言で顔を見合わせた。

 「……飛び級かもしれないな」

 カオルが低く呟く。

 ルイは黙って頷いた。正直、その可能性は十分にあった。リュウジの知識も体力も、すでに上級生のレベルを凌駕していたからだ。

 

 だが二人の表情に喜びはなかった。

 もしそうなれば――リュウジはもう、自分たちの手の届かない場所へ行ってしまう。ライバルが減れば、自分の宇宙飛行士になる可能性は広がるはずなのに。

 それでも、心の奥に空白が広がっていく感覚を、二人はどうしても否定できなかった

 

⬜︎

 

リュウジは理由も分からず、校長室に呼ばれた。

深く一つ呼吸を整え、扉の前に立つと「コン、コン、コン」と二、三度ノックをした。

 

「どうぞ」

扉の向こうから重々しい声が響く。

 

リュウジは光沢のある木目の扉のノブを握りしめ、「失礼します」と言いながら中へと足を踏み入れた。

校長室の空気は、外の訓練場や廊下とはまるで異なっていた。壁に飾られた惑星の写真、深い色合いの重厚なカーテン、整然と並ぶ書類と本棚。まるでこの空間だけ時間の流れが違っているかのように静かで、圧があった。

 

部屋の奥には、見慣れた教官の姿と、初めてアストロノーツ養成学校に来た時に一度だけ見かけた校長の姿があった。威厳を帯びたその姿は、まさに「この学校の頂点」と呼ぶにふさわしかった。

 

「そこにかけなさい」

校長が指先で示したのは、来客用と思しき黒革張りの高級椅子だった。

 

「失礼します」

リュウジは小さく一礼し、腰を下ろす。

 

妙な緊張感が全身を包んでいた。普段は滅多に顔を見せない校長。その校長に呼び出されるなど、どんな理由があるのか想像もつかない。悪いことをした覚えはない。だが、それでも頭の中では様々な可能性が渦巻いていた。

 

「そんなに構えなくてもよい」

校長が口を開く。その一言で、少なくとも叱責や処罰ではないのだと理解できた。リュウジの胸の奥で張り詰めていた糸が、わずかに緩んだ。

 

校長は対面に腰を据え、一息吐く。

 

「君は、このアストロノーツ養成学校が狭いと感じてはいるかね?」

 

意外な問いだった。

狭い? 広い? そんなことを考えたことはなかった。外の世界を知らない以上、比べようがない。だが今の環境に不満はなく、むしろ仲間と共に刺激し合える日々に充実を感じていた。

 

「狭いか広いかは分かりませんが、刺激し合える仲間がいますので、現状には満足しています」

リュウジは淡々と答える。

 

「フム」

校長が軽く相槌を打った。

 

「君は量子物理学、宇宙航行システム、天体観測、異常環境下での生理学、心理学の成績もいい。それに加えて、身体能力も他の生徒と比べて桁外れだ。――訓練は辛いかね?」

 

問いは核心を突いてきた。リュウジは一瞬だけ考え、正直に口を開いた。

 

「最初は厳しいと感じましたが、今では辛いとか厳しいなどということはありません」

 

むしろ物足りなさを覚えることもあったが、それは言葉にせず、心の内でだけ付け加える。トレーニングで自分を追い込めば、それは解消される。

 

校長はその答えを「やはりか」と言わんばかりの無表情で受け止めると、「なるほど」と呟き、本題へと切り込んできた。

 

「先月、宇宙船航行システムによるシミュレーション訓練を行ったじゃろう」

 

その瞬間、リュウジの脳裏にあの日の映像が蘇った。火星から土星までの航路を往復するシミュレーション。仲間のルイやカオルを大きく引き離した圧倒的なスコア。

「はい。火星から土星までの航路を往復する訓練だったと記憶しています」

 

「その訓練を視察に来ていた宇宙連邦連盟の方から、推薦があってな」

そう言って校長は胸元から一枚の封筒を取り出し、机越しに差し出した。

 

「宇宙連邦連盟ライセンス試験の推薦状じゃ」

 

受け取った瞬間、リュウジの瞳が大きく見開かれた。

手の中にあるのは、宇宙飛行士としての階級を決定づける試験への挑戦権――。

 

「推薦状……つまり……」

 

「そうじゃ。おめでとう。君は宇宙連邦連盟ライセンス試験への挑戦権を手にしたのじゃよ」

校長は初めて柔らかい笑みを浮かべた。

 

胸の奥から熱いものが込み上げてくる。鼓動が速くなる。リュウジは思わず拳を握りしめた。

 

「受ける気はあるかね?」

 

「はい! お願いします!」

リュウジの声は力強く、はっきりと響いた。

 

校長は満足そうに頷く。

「試験まで一ヶ月。調整は君に任せる。試験日と同日に、君はアストロノーツ養成学校を卒業扱いとする。これは、この学校以来の快挙じゃ」

 

快挙――その言葉が胸の奥で反響する。

 

リュウジはしばらく校長や教官の話を真剣に聞き、校長室を後にした。

廊下に出た瞬間、抑えきれない高揚感が全身を駆け巡る。拳を固く握りしめ、心の中で叫んだ。

 

「――カオル、ルイ……俺は一足先に行かせてもらうぜ」

 

胸の鼓動はまだ収まらなかった。

 

◇◇◇

 

リュウジが宇宙連邦連盟ライセンス試験の挑戦権を得たことは、瞬く間に同学年の仲間の間でも話題となった。

特にルイとカオルに伝えたとき、二人の反応は対照的だった。

 

「おめでとう!やっぱりリュウジは凄いや」

無邪気な笑顔を浮かべて祝福するルイ。その声色には心からの尊敬と憧れが滲んでいた。

 

一方のカオルは、感情を大きく表に出すことはなかった。だがその瞳には炎のような光が宿っていた。

「……俺もすぐ行く」

その一言に、静かな闘志がはっきりと表れていた。

リュウジは二人の反応を胸に刻み、心の奥で「必ず結果を出す」と決意を固めた。

 

――宇宙飛行士にはライセンス制度が設けられている。

C級、B級、そしてA級。

多くの宇宙飛行士はC級に留まり、B級ともなれば「まあまあ優秀」と評される。だがA級取得者はほんの一握りしか存在しない。A級を持つ者は任務も給料も格段に違い、まさにエリート中のエリートと呼ばれていた。

 

試験は年に四度行われる。だが受験者の多くは更新目的であり、自ら階級を上げようと挑む者は稀だ。無理に挑めば、落第し、場合によっては階級が下がることさえある。リスクが高すぎるのだ。

だからこそ、卒業前に挑戦権を得たリュウジの存在は異例であり、校長が「快挙」と呼んだ理由もそこにあった。

 

そして、試験当日。

リュウジはついにライセンス会場――宇宙ステーションに設けられた巨大エアポートへと足を踏み入れた。

 

「いよいよか……」

見上げるほどのゲート。その向こうに待つ舞台を前に、胸の鼓動が高鳴るのを手で押さえつつ、一歩ずつゆっくりと中へ進んでいった。

 

会場の内部は熱気に包まれていた。

試験を受けに来た者たちが緊張に表情を強ばらせる一方で、周囲にはカメラやマイクを構えたマスコミの姿も多く見られる。フラッシュの光が瞬き、どこか祭典めいた雰囲気さえあった。

リュウジはその喧騒を横目に受け流し、受付へと歩み寄った。

 

「ライセンス試験を受けに来ました」

落ち着いた声で告げ、推薦状を差し出す。

 

「確認しました。こちらへどうぞ」

係員の案内に従い、リュウジは奥の部屋へと通された。

彼の場合、座学はすでに免除が決まっている。行うのは実技試験のみ――すべては己の技量にかかっていた。

 

ロッカールームに入り、ゆっくりと宇宙服へ着替えていく。

ヘルメットのバイザーを手に取り、磨かれたガラスに自分の顔が映る。そこにはまだ宇宙飛行士と呼ばれるに足りぬ、一人の挑戦者の姿があった。

「まだ浮かれてる場合じゃない……」

自らを戒めるように呟き、緩みかけた気持ちを引き締める。

 

だが――。

控室に移ったリュウジは、モニターに映し出された試験の様子を見て、首をかしげた。

 

画面には先に挑戦している者の操縦が映っていた。

宇宙船がふらつき、重力制御ユニットを多用して姿勢を立て直している。

「……重力制御ユニットに頼りすぎだ」

リュウジは心の中で呟く。

 

確かに船体のバランスは取れている。だがその分、燃料消費が異常に激しくなっていた。これは基本中の基本。通常なら初歩の段階で叩き込まれる常識のはずだ。

 

「緊張しているのか……?」

そう考えざるを得ないほど、操縦はお粗末だった。

 

だが、違和感はそれだけでは終わらなかった。

次に挑んだ者も、その次の者も――大差ない。

みな同じように重力制御ユニットに依存し、燃料効率を無視した操縦を繰り返していたのだ。

 

「……この程度でいいのか? 本当にこれで宇宙飛行士になれるのか?」

 

胸の奥で、疑問が膨れ上がっていく。

自分が学んできた知識、積み重ねてきた訓練、それらと比べてあまりにも水準が低い。もしかしたら、この試験自体に何か裏があるのでは――そんな考えすら浮かび始めていた。

 

だが同時に、リュウジは自分に言い聞かせた。

「今は他人に惑わされるな……俺は俺の操縦に集中するんだ」

 

呼吸を整え、背筋を伸ばす。

やがて試験官の声が響き、次の順番が告げられた。

リュウジは静かに立ち上がり、拳を握る。

 

「――行くか」

 

控室を後にした彼の足取りは、迷いを振り切った者のそれだった。

目指すは、エアポートの試験場。

リュウジにとって決して後戻りの効かない、本当の戦いが始まろうとしていた。

 

◇◇◇

 

リュウジの名が呼ばれると、控室の空気が一瞬にして張りつめた。

先ほどまで緊張に駆られた受験者たちのざわめきは止み、彼を一瞥しては小声で囁き合う者もいた。推薦状を持ってきた少年――それだけで周囲の注目を集めていた。

 

「次は君だ。準備はいいか?」

試験官の低い声に、リュウジは小さく頷いた。

「はい」

 

エアポートの自動扉が開き、リュウジは足を踏み入れた。

そこは広大な試験場。まるで小型宇宙港を模したかのような空間に、艦船シミュレーターが静かに鎮座している。

観客席のような場所にはマスコミと試験関係者が集まり、何十もの目が彼の一挙手一投足を見逃すまいと注がれていた。

 

「――宇宙連邦連盟ライセンス試験、実技課題。小惑星帯を抜け、木星軌道上の補給ステーションに安全にドッキングせよ」

試験官が告げる。

 

「制限時間は二時間。途中で燃料が尽きる、あるいは航行不能と判断された場合、その時点で失格となる」

 

「……了解しました」

リュウジは返事をすると、深く息を吐き、シートに腰を下ろした。

座り慣れた感覚。アストロノーツ養成学校で幾度も模擬したコックピットに近い配置だが、機体は最新鋭で、パネル配置や操作性は微妙に異なる。

だがリュウジの眼差しは一点の曇りもなかった。

 

ヘルメットを被り、シートベルトを固定。

指先がタッチパネルを軽やかに走り、機体のシステムチェックを始める。

「重力制御ユニット、良好。姿勢制御ユニット、異常なし。燃料残量オールグリーン」

一つ一つ確認を口に出す。無意識にやっているのではない。言葉にすることで、緊張で乱れがちな思考を整えているのだ。

 

――試験開始の合図が響いた。

 

「こちら、訓練機ユニット05。発進します」

冷静な声で告げると、コックピットの中で軽い振動が走り、機体はシミュレーション空間へと飛び出した。

 

目の前に広がるのは無数の岩塊――小惑星帯。

画面上ではあるが、その動き、質感は現実とほとんど変わらない。リュウジは瞬時にセンサーを確認し、進行方向の軌道を計算する。

 

「……正面突破は燃料効率が悪すぎる。迂回ルートをとる」

操縦桿をわずかに倒すと、機体は滑るように姿勢を変える。

次の瞬間、目前を巨大な岩塊がかすめた。もしほんのコンマ数秒でも判断が遅れていれば直撃していたに違いない。

 

会場のモニターに映し出される映像を見ていた観客から、小さなどよめきが漏れる。

だがリュウジの表情は変わらなかった。

 

小惑星帯の奥では、ランダムに飛来する岩石が航路を阻む。

先ほどの受験者たちはここで制御ユニットに頼り、姿勢を無理やり立て直していた。

だがリュウジは、舵とスラスターを絶妙に使い分け、機体をあえて「滑らせる」ように操作した。

無駄な噴射を避け、慣性を利用して最小限の燃料で進む。

 

「……やっぱり、雑すぎるんだよ」

心の中で、先ほどの操縦を思い返しながら小さく呟いた。

 

数分後――リュウジの機体は小惑星帯を抜け、広がる木星の巨大な姿が視界に現れた。

その壮大な景色に、胸の奥がわずかに震える。だがすぐに意識を戻す。

「次は補給ステーションへのドッキング……」

 

ここからが本当の正念場だった。

わずかな誤差も許されない。速度を落とし、ステーションとの相対速度をゼロに近づける。

モニターには正方形のドッキングポートが映し出される。

 

――息を整え、スラスターを細かく操作。

機体がポートにぴたりと重なった瞬間、リュウジは操縦桿を軽く引いた。

 

「……ドッキング完了」

 

静寂の後、試験官の声が響いた。

「……実技課題、終了。採点に入る」

 

会場の空気が一気に揺れ動く。

それまで張り詰めていた緊張が解け、観客席からざわめきが広がった。

「ほとんど完璧じゃないか……」「燃料残量も余裕があるぞ……」と驚きの声が漏れる。

 

リュウジは深く息を吐き、背もたれに身を預けた。

胸の奥で鼓動が早鐘を打っていた。

だが、顔には一切の油断を見せない。

 

「――これが俺の全力だ」

 

彼の瞳は、すでに次の高みを見据えていた。

 

◇◇◇

 

実技試験の緊張が解けぬまま、リュウジは控室に戻されていた。

外では採点会議が行われ、試験官たちが映像とデータを細かく検証している。

――燃料効率、機体制御、判断速度、冷静さ。

どれをとっても非の打ち所がなく、むしろ「歴代最高の完成度」とまで囁かれていた。

 

「これほどの操縦を見せられるとはな……」

「年齢を考えれば、奇跡と言うしかない」

試験官たちの低い声が交わされる。

 

そして――。

 

場内に再びアナウンスが響いた。

「受験番号37番、リュウジ。前へ」

 

リュウジは深く息を吐き、立ち上がった。

扉が開き、光に照らされたステージへと歩み出る。

試験官席には重鎮たちが並び、その中央に立つのは審査委員長。

 

「結果を発表する」

重々しい声が、会場全体を震わせた。

 

「受験者リュウジ――すべての試験において規定を大きく上回る成績を収めた。よって、A級ライセンスを飛び越え……」

 

一瞬、静寂。誰もが息を呑んだ。

 

「――S級ライセンスを授与する」

 

その言葉が放たれた瞬間、会場は爆発するようなどよめきに包まれた。

「S級だと!?」「馬鹿な、そんな……」「12歳だぞ!?」

人々の驚愕が渦を巻く。

 

S級ライセンス――。

それは宇宙連邦連盟が定める最高位の資格。

A級のさらに上、もはや「人類の至宝」とさえ呼ばれる存在にしか与えられない。

 

現在の保持者は二人しかいない。

一人は、かつて数々の航行で名を馳せた伝説の古参「アルベルト」。

そしてもう一人は、十年前に昇格したばかりの怪物的パイロット「ブライアン・クラフォート」。

 

その二人の名は、宇宙を旅する者なら知らぬ者はいない。

しかし今、その二人に並ぶ新たな名前が刻まれたのだ。

 

「リュウジ。君を史上最年少、12歳でのS級ライセンス取得者としてここに認定する」

審査委員長が証書を掲げた。

 

スポットライトがリュウジを照らす。

カメラのフラッシュが一斉に焚かれ、報道陣が押し寄せる。

 

「信じられない……」「英雄が誕生した……」

誰かの呟きが、やがて大きな波となって広がっていく。

 

マスコミ各社はこぞって彼を「新時代の英雄」と報じ始めた。

見出しには「奇跡の12歳S級保持者」「伝説に並び立つ少年」と踊り、彼の姿は瞬く間にコロニー全域へと流れていった。

 

◇◇◇

 

S級ライセンスを取得してから一年。

 リュウジの暮らしは、少年時代に夢見た「宇宙飛行士」としての栄光に包まれながらも、その裏側で重い鎖に縛られる日々となっていた。

 

 宇宙連邦連盟から派遣される任務は確かに充実していた。未知の航路を切り拓く三ヶ月間の調査飛行。深宇宙に漂う未確認の小惑星群の調査。誰も行ったことのない宙域に足跡を刻むことは、他の誰にも代えがたい経験であり誇りでもあった。

 多くのS級取得者がそうするように、リュウジも大手財閥との業務提携をしていた。

 

 リュウジの契約先は、悪名高き「ドルトムント財閥」。

 宇宙開発から観光事業までを牛耳る巨大企業であり、莫大な利益を上げる一方で、その体質は古臭く専制的。社長リョクの独裁は徹底しており、都合が悪ければ古参社員すら即刻解雇される。

 悪い噂は絶えなかった。ライバル企業を裏で潰した話。異論を唱えた社員が解雇された話。だが、それでもドルトムント財閥は巨大過ぎて誰も逆らえない。

 

 さらにリュウジを苛立たせる存在がもう一人いた。

 社長リョクの一人息子、ナッシュ・ドルトムント。C級ライセンス保持者を名乗るが、操縦技術は三流以下。訓練課程をどうやって突破したのか、誰もが首をかしげるレベルだ。だが財閥の御曹司という地位だけで、彼は旅客船の副操縦席に座る。

 リュウジは、その指導を任されていた。

 

 ――正直、我慢の連続だった。

 

 この一年間で、ナッシュは数え切れないほどの問題行動を起こした。操縦室に見学者を入れる。自動操縦を切り、自分で舵を握る。危険航路に無謀なコースを取ろうとする。リュウジがいなければ、すでに数度の事故が起きていたかもしれない。

 適当に選んだ自分が悪いのだが、ここまで腐った企業がいるのかと腸は煮えくり返っている。

 

 その日も、リュウジの怒りはついに頂点に達していた。

 

「タツヤ班長!」

 

 旅行会社のオフィスに踏み込み、リュウジは上司のデスクに詰め寄った。

 班長席に腰を掛けていたのは、タツヤ。四十代半ば、気の抜けたような雰囲気を纏い、耳を指でほじりながら書類に目を通していた。だが、この会社で唯一のA級ライセンスパイロットであり、現場を統括する立場にある。

 

「どうした~、そんな怖い顔して」

 耳くそをつまみ取り、ふぅっと息で吹き飛ばしながら、のらりくらりとした声を返す。

 

「ナッシュのやつ……そろそろぶっ飛ばしても良いですか」

 冷静に言い放ちながらも、語尾には怒気が滲んでいた。

 

「それは流石にマズイよ~」

 タツヤは大げさに肩を竦めた。

「今度は何があったの?」

 

「操縦室に勝手に乗客を入れました。それだけじゃない、自動操縦を解除して、自分で運転を始めたんです。このままじゃ、いつか本当に事故を起こしますよ!」

 

 ドンッ――!

 リュウジの拳がデスクを叩き、金属製の書類立てが震えた。周囲にいたB級、C級のパイロットたちがちらりと顔を上げ、また始まったと冷笑する。

 

「まぁまぁ……」

 タツヤは手のひらをひらひらさせて宥める。

「リュウジの言ってることは正しいさ。正しいけど、相手はドルムント財閥の御曹司だ。僕や君でどうこう出来る相手じゃない」

 

「ですが……!」

 リュウジの声は強まり、目は怒りに燃えていた。

「宇宙航行はいつ事故が起きるか分からないんです!俺たちは乗客の命を預かっているんですよ!」

 

 その必死な叫びにも、周囲の空気は冷ややかだった。

 「また正論を吐いてる」

 「正しいけど通じないんだよな」

 そんな笑みを浮かべる同僚たち。彼らは既に諦めていた。大財閥に逆らえるはずがないのだと。

 

 その時、柔らかな声が割って入った。

 

「班長の気持ちも分かりますが……本当に事故が起きてしまいますよ?」

 

 長い緑の髪を揺らしながら、女性が近づいてくる。チーフパーサーのエリンだ。機内サービスの責任者であり、冷静沈着な判断力で乗務員からの信頼も厚い。

 彼女はリュウジの隣に立ち、真剣な眼差しで班長を見据えた。

 

「エリンまで言うのか」

 タツヤは頭を掻いた。

 

「ええ。ナッシュの振る舞いは常軌を逸しています。このまま黙認していたら、いつか取り返しのつかないことに……」

 

「……分かっているさ」

 タツヤは深く溜息を吐いた。その顔には、責任者としての苦悩が滲んでいた。

「だが、君たちも分かっているだろう。この会社にいる以上、彼に逆らうことは許されないんだ」

 

「しかし班長……」

 エリンが食い下がろうとするが、タツヤは手を上げて制した。

 

「分かっている。だからこそリュウジがいるんだ。リュウジなら彼のミスをカバーしながらでも、何とかしてくれるだろう」

 

 困ったように笑う班長。その裏に隠された無力感は、リュウジもエリンも痛いほど理解できた。

 結局、二人は言葉を飲み込み、深いため息を吐いて背を向けた。

 

「……分かりました」

 リュウジはかすれた声で応じるしかなかった。

 

 立ち去ろうとしたその背に、タツヤが声をかける。

 

「リュウジ、次のフライトは火星から木星だ。旅客機の運航な。フライトプランはこれだ」

 

 手渡された紙を受け取り、リュウジは小さく呟いた。

 

「……分かりました」

 

 拳を握る。その爪が掌に食い込むほど強く。

 彼はまだ十三歳に過ぎない。だが、宇宙と人命を背負うその責任感は、誰よりも重く彼の胸を圧迫していた。

 

◇◇◇

 

 火星―木星間フライトを目前に控えたある朝、リュウジの耳に信じ難い報せが飛び込んできた。アストロノーツ養成学校で、最終選抜試験の最中に死亡事故が起きたというのだ。しかも犠牲者は、かつての仲間「ルイ」。その操縦席に座っていたのは「カオル」だという。

 

 衝撃のあまり、リュウジは一瞬、呼吸を忘れた。ルイは生真面目で、どんな訓練にも真剣に臨む少年だった。彼の真っ直ぐな眼差しと無垢な笑顔は、多くの訓練生たちの心を照らしていた。なぜそんな彼が――。

 

 報道によれば、試験航路が偶然ダストチューブの軌道と交差してしまい、その衝突によって機体に穴が空き、生徒1名が宇宙空間に投げ出されたとのこと。操縦していたカオルは回避操作を行っていたが、レーダーにも反応しない小さい隕石に気づかず機体は激しく揺さぶられ、シャトルの天井に穴が空いたのだ。公式の説明はそうだった。しかし、リュウジはすぐに胸の奥から込み上げる怒りを抑えきれなかった。

 

 ――なぜそんな危険な航路を、最終試験で飛ばせたのか。

 

 カオルは決して悪くない。むしろ、あの状況で機体を必死に立て直そうとした彼の姿が目に浮かぶ。だが、その後の彼は消息を絶ってしまった。自主退学という形を取り、どこにいるのかも分からない。きっと、己を責め続けているのだろう。

 リュウジは決意した。このフライトが終わったら、必ず養成学校に足を運び、事故の詳細を調べる。そして、ルイの墓に花を手向ける。さらにカオルを探し出し、彼を責めるのではなく、救うのだ。彼は悪くないのだから。責任を取るべきは、訓練生たちを危険に晒した学校側だ。

 

 胸の奥で、静かだが強い炎が燃え続けていた。

 

◇◇◇

 

 その日、リュウジが所属するドルトムント財閥の旅行会社が主催するフライトは、政財界の要人たちを乗せた特別航行だった。火星コロニーから木星圏へと向かう豪華旅客便――表向きは宇宙旅行を楽しむ企画だが、実際には財閥の失墜した評判を回復させ、各方面への根回しを兼ねた接待の場でもあった。

 

 リュウジは黙々と宇宙服を着込み、機体の点検を進めていた。手順書に沿った点検は彼にとって儀式のようなもので、決して省略することはない。たとえ何百回同じ手順を繰り返しても、確認を怠れば、それが乗客百人以上の命を奪うことに直結する。

 それに、ルイの死の知らせがリュウジの心を揺さぶっていたせいか、彼はいつも以上に集中し、隅々まで目を光らせていた。機体のエンジン出力、生命維持装置の数値、冷却循環系統、酸素供給ライン――わずかな異常でも見逃すまいと、指先に神経を尖らせている。

 

「リュウジ、点検お疲れ様」

 

 背後から声を掛けられ、振り返るとエリンが立っていた。いつもは腰まで伸ばした緑髪を下ろしている彼女だが、今日は客室乗務員としての制服姿に合わせて、髪を団子状にまとめている。その姿は普段の柔らかさとは違い、どこか妖艶さすら漂わせていた。

 

「ええ。乗客の命がかかってますから」

 

 リュウジは手を止めず、計器を確認しながら答える。

 エリンはそんな彼を見つめ、ふっと優しく笑んだ。

 

「立派だね……」

 

 いつもと違いトーンの低い言葉に、リュウジは一瞬だけ視線を上げた。彼女の瞳は真剣だった。

 

「何かありましたか?」

「……勘違いだと思うけど、少し嫌な胸騒ぎがするの」

 

 エリンは唇を噛み、低く呟いた。その表情にリュウジの胸もざわつく。

 

「……エリンさんもですか。実は俺もなんです」

 

 抑えていた不安を打ち明けると、彼女の眉が僅かに動いた。最初はルイの死のせいで神経質になっているのだと思っていた。だが、エリンが同じ感覚を抱いていると知り、それは単なる心の影響ではなく、何か現実に迫る危険の前触れではないかと確信に変わった。

 

「大丈夫だよね?」

 不安げに問うエリン。その声は震えていた。

 

 リュウジは力強く答える。

「俺がいます。絶対に大丈夫です」

 

 操縦士である自分が弱音を吐けば、彼女だけでなく乗客全員を不安にさせてしまう。だからこそ、彼はいつも以上に毅然とした態度を見せた。

 その表情に安心したのか、エリンは小さく笑みを浮かべた。

 

「そうだね……ありがとう、リュウジ。じゃあ、また後で」

 

 そう告げると彼女は踵を返し、客室の方へ歩いていった。彼女の背中を見送り、リュウジは息をつき、点検作業へ戻った。

 

 

 

 だがその直後、船内を歩いていたエリンの足が不意にぐらついた。

「……え?」

 

 視線を落とすと、履いていたハイヒールの片方が根元から折れていた。

 航宙士の世界では、こうした突発的な破損や不具合を「凶兆」と呼ぶ者がいる。些細なことでも、後に大きな事故の前触れとなることがあるからだ。

 

 エリンも一瞬、胸の奥に冷たいものを感じた。

「……まさかね」

 

自分の考えすぎだと首を振る。

 だが、リュウジと同じ胸騒ぎを抱えている以上、この偶然を無視できなかった。

 

 ◇◇◇

 

 その頃、格納庫の奥では乗客たちが続々と搭乗を始めていた。彼らは政財界の要人ばかりで、どの顔もどこか傲慢で冷笑的。

 「やはりドルトムント財閥の企画は一味違うな」

 「これでマスコミも黙るだろう」

 そんな会話があちこちで飛び交い、まるで宇宙旅行が政治と権力の道具であるかのようだった。

 

 操縦席に座るリュウジの手は冷たくなっていた。計器の灯りは正常を示している。機体のコンディションも問題ない。それでも彼の胸に渦巻く不安は消えなかった。

 

 ――何かが起きる。

 

 根拠はない。ただ、訓練と実戦で培われた感覚が、確実にそう告げていた。

 ルイの死の知らせ、カオルの行方不明、エリンの胸騒ぎ、そして折れたヒール。偶然の積み重ねにしては、あまりに不気味だった。

 

 「……俺が守る」

 

 小さく呟いた言葉は、誰に向けたものだったのか。乗客か、仲間か、それとも、遠くに眠るルイに対してか。

 

避けられぬ運命へ

 

 こうして、後に「悲劇のフライト」と呼ばれることになる航行の幕は静かに開こうとしていた。

 その時はまだ、誰一人として想像できなかった。これから起きる出来事が、ただの一企業の不祥事を超え、コロニー史に残る大惨事となることを。

 

 リュウジの胸騒ぎも、エリンの折れたヒールも、すべては運命の警鐘だったのかもしれない。

 だが、すでに航路は定められていた。

 

 冷たく青い宇宙の闇へと、巨大な旅客船は間もなく出発に入ろうとしていた。

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