二日目の朝は、宿舎の廊下に流れる起床アナウンスで始まった。
柔らかな電子音のあとに、淡々とした女性の声が「本日の体験プログラムは七時三十分より開始します」と告げる。窓の外には、木星の巨大な縞模様がゆっくりと流れていて、まるで空そのものが生き物みたいだった。
ルナはベッドから起き上がり、軽く伸びをした。
昨夜は眠れた。……眠れたはずなのに、胸の奥が落ち着かない。こういう場所に来ると、去年の記憶がふと手を伸ばしてくる。
「ルナ、起きてる?」
シャアラが髪をゆるく結びながら、顔を出した。いつもより少し眠そうで、でも目はしっかりしている。
「起きてるよ。シャアラは?」
「私も起きた。……なんかさ、昨日のこと思い出して寝つき悪かった」
シャアラは苦笑して、肩をすくめた。
ルナは頷いた。
「分かる。ここ、安心なはずなのにね」
廊下を出ると、メノリが既に制服の上に防寒ベストを着て立っていた。手にはタブレット。いつもの“生徒会長”の顔だ。
「遅いぞ」
メノリが言う。
「体験だからといって気を抜くな。集合時間は守るべきだろ」
「ごめんごめん」
ルナが笑うと、メノリは「謝るなら次からだ」と軽く釘を刺す。
その背後から、のんびりした声が聞こえた。
「俺はまだ眠いな……」
ベルが欠伸を噛み殺しながら歩いてくる。大きな体が揺れているのに足音は静かで、相変わらず気配が優しい。
「ベル、ちゃんと寝た?」
「寝たけど、木星の光って落ち着かないんだよね……」
「分かる! 僕、あの縞模様見てると、時間の感覚がずれる気がする」
シンゴが元気よく混ざった。すでに髪は整っていて、目がきらきらしている。こういう“新しい設備”のある場所に来ると、興奮が勝つのだろう。
「シンゴ、今日は機械室に近づきすぎないでよ」
ルナが言うと、シンゴは笑って手を上げた。
「大丈夫! 今日は“正式に”触れる時間があるって案内に書いてあったからね!」
「……案内にないところには触るなよ」
低い声が最後に加わる。
振り向くと、リュウジが廊下の影から現れた。目の下に僅かな隈。昨夜の読書のせいだと、ルナはすぐ分かった。
でも姿勢は崩れていなくて、いつもの距離感のまま、皆の輪の端に自然に入る。
「おはよ、リュウジ」
ルナが言うと、リュウジは小さく頷いた。
「……おはよう」
――この“おはよう”だけで、妙に安心してしまう自分がいる。
ルナはそんな自分に気づいて、少しだけ頬の内側を噛んだ。
◇
朝食は宿舎併設の食堂だった。
栄養バーに近い簡易食かと思っていたら、ちゃんと温かいスープと焼き立てパンが出る。バターの匂いがして、シンゴは感激し、ベルは静かにおかわりをした。メノリは「食事は集中力に直結する」と真面目に言い、シャアラは「でもおいしいのは正義」と笑った。
食堂を出ると、開拓体験センターのスタッフが広場で待っていた。
今日は“開拓二日目:基盤整備と危機対応”というメニューらしい。
「午前は居住ドームの環境維持と資材管理、午後は外縁エリアでの探査・設営模擬、最後に緊急対応訓練を行います」
スタッフが説明し、タブレットで各班に作業内容が配られる。
ルナたちの班は、午前が「居住ドームの環境モニタリング+水循環ライン点検」、午後が「小型ローバーでの地形スキャン+簡易アンテナ設置」、そして最後が「気密トラブル対応訓練」だった。
「……最後、嫌な予感がする」
シャアラがぼそっと言う。
「訓練だ。嫌な予感がするなら、備えればいいだろ」
メノリはいつもの調子で言うが、目は少しだけ硬い。
去年の“気密”がどれだけ怖かったか、皆が知っている。
リュウジが短く言った。
「訓練の方がいい。実際に起きるより百倍マシだ」
ルナは頷いた。
「うん。だから、今日こそ“ちゃんと”やろう」
◇
午前の作業は、ドーム内の管理室から始まった。
壁面には空気循環、水循環、温度、湿度、二酸化炭素濃度などのグラフが並び、淡い緑色の照明が作業空間を落ち着かせている。
「見て、これ。水循環ラインの圧がちょっとだけ変動してる」
シンゴが指を滑らせ、グラフを拡大する。
「ほんとだ。……でも規定範囲内だね」
ルナが確認すると、メノリが腕を組んで頷いた。
「規定範囲内でも、原因を見逃すな。小さな異常が大きな事故につながるだろ」
「じゃあ、実際に配管の接続部を見に行こう」
ルナが言うと、ベルが一歩前に出た。
「俺が行く。」
「僕も行く!」
シンゴが即答する。
「シンゴは手元をよく見ろ」
リュウジが釘を刺すと、シンゴは「分かってる!」と口では言いながら、少しだけ背筋を正した。
ルナは配役を決めた。
「ベルとシンゴとリュウジが配管ライン。私はモニター側で数値を見て、メノリはチェックリストと記録。シャアラは工具と備品管理お願い」
「了解」
シャアラは軽く手を振った。
「私も動こう」
メノリは言って、記録用のタブレットを操作する。
昔なら「私が全部やる」と言っていたはずだ。でも今は、頼ることを覚えている。それが分かって、ルナは少しだけ嬉しかった。
配管ラインの点検は、思ったより地味だった。
透明なカバーの奥を通る細い水路、接続部のパッキン、圧力調整バルブ。ベルがカバーを外し、シンゴが小型センサーで漏れや歪みを探る。
「ここ、微妙に結露がある」
シンゴが言う。
「温度差か?」
リュウジが覗き込む。
「たぶん。断熱材の張り方が甘い」
シンゴが言い、ベルが「貼り直そう」と呟いた。
ルナはモニターで圧の変動と同期する箇所を照合しながら、指示を出す。
「その接続部、断熱材の固定を追加してみて。圧のグラフ、今少し落ち着いてきた」
「了解!」
シンゴは嬉しそうに声を上げ、ベルは黙って作業を進めた。
シャアラは工具を渡しながら、ふっと笑う。
「こういうの、サヴァイヴでもやった気がするね」
「やったね」
ベルが優しく返した。
「でも、あの時は“やらなきゃ死ぬ”だった。今日は“やれば安全”だ」
「……言い方、ベルらしい」
シャアラは少し照れたように笑った。
ルナは胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
同じ作業でも、意味が違う。
“生き延びる”ための必死さじゃなく、“暮らす”ための積み重ね。
それを、今、皆でやっている。
◇
午後は外縁エリアへ移動した。
ドームの外は、実際の木星圏の環境を模した“開拓フィールド”。薄い装甲壁の向こうに人工重力と遮蔽が整えられ、地面は灰色のレゴリスを再現した素材で覆われている。
全員、軽量の作業スーツを着用し、ヘルメットのバイザーを下ろす。
空気はある。けれど“外”の空気の匂いは少し違う。乾いていて、機械的で、どこか冷たい。
「……思い出すなぁ」
ルナが小さく呟くと、リュウジが横目で見た。
「思い出すのは勝手だ。でも、今は今だ」
「分かってる」
ルナは短く返す。
リュウジの言葉は冷たいのに、不思議と突き放してはいない。ルナはそれを知っている。
ローバーは小型で、六輪。シンゴが目を輝かせて操作端末を握る。
「僕が操縦担当でいい?」
「暴走させるなよ」
メノリが言う。
「暴走しないよ! ちゃんとルート計算するから!」
シンゴはむしろ嬉しそうだ。
ルートは“地形スキャンポイント”を三か所回り、最後に簡易アンテナを立てる。
ベルがアンテナ支柱を肩に担ぎ、シャアラが固定具を抱える。メノリがチェック表を読み上げ、ルナが全体の歩調を合わせる。
リュウジは最後尾で、周囲を静かに見ていた。歩き方が、どうしても“外”のそれだ。
最初のスキャンポイントでは、シンゴがローバーを止め、地面にセンサーを下ろした。
タブレットの画面に、地中の密度と空洞の有無が表示される。
「ここ、地中が均一だ。基礎に向いてる」
シンゴが言うと、メノリが頷いた。
「なら、アンテナ設置予定地として妥当だろ」
二つ目のポイントでは、逆に空洞が見つかった。
「……この下、空間がある」
シンゴの声が少し硬くなる。
「危ないね」
シャアラが言い、ベルがさりげなくシャアラの近くに立った。
その動きに、ルナは小さく目を瞬かせる。
――ベル、自然に守る側になってる。
リュウジが地面を軽く踏み、音の響きを確かめた。
「避けろ。ここは踏むな。設営するなら補強前提だ」
「分かった」
ルナはすぐに指示を変える。
「スキャン結果は記録して、ここは立ち入り注意に。三つ目のポイントへ行こう」
三つ目のポイントでアンテナ設置に入った。
ベルが支柱を立て、シャアラが固定具を渡し、シンゴが角度を測り、メノリがチェックを読み上げる。
「固定ボルト、締結確認」
「確認」
「水平、許容範囲」
「確認」
「通信テスト、送信」
「……受信、OK!」
シンゴが嬉しそうに叫び、皆の緊張が少し解けた。
「やったね」
ルナが笑うと、メノリも口元だけ緩めた。
「まあ、当然だろ」
シャアラが小さく拍手する。
「こういうの、いいね。ちゃんと“開拓”って感じ」
「俺もそう思う」
ベルが静かに言った。
――去年は、“生きる場所”を自分たちで作るしかなかった。
今日は、“未来の場所”を作る練習をしている。
同じ“作る”でも、涙が出るほど違う。
◇
最後のプログラムは緊急対応訓練だった。
宿舎に戻る途中、スタッフが全員をホールに集め、簡単に説明をする。
「今回の訓練は、居住区画での気密異常を想定します。警報が鳴ったら、班ごとに手順に従って対応してください。焦りが一番の敵です」
その言葉に、ルナの喉が少しだけ乾いた。
去年、警報の音は“終わり”の音だった。
でも今は違う。違うはずだ。
……そのはずなのに、警報が鳴った瞬間、心臓が跳ねた。
キィィィン、と鋭い音。
赤いランプ。
壁面モニターに「気密低下」の表示。
ルナは呼吸を整え、声を出した。
「みんな、手順通り! ヘルメット確認、バイザー下ろして!」
「了解」
ベルがすぐに答え、シャアラも頷く。
「僕、気密センサー確認する!」
シンゴが端末を操作する。
「落ち着け。走るな」
リュウジが低く言い、シンゴは一拍おいて速度を落とした。
メノリがチェック表を開く。
「まず、区画の隔壁を閉じる。次に漏洩箇所の推定だろ。ルナ、指揮を続けろ」
「うん」
ルナは頷き、目を動かす。モニターの数値、警報音の種類、空気圧の落ち方。
……知ってる。こういう時に必要なのは、“恐怖に飲まれないこと”。
シンゴが叫ぶ。
「漏洩推定、北側通路! 圧の落ちがそこからだ!」
「ベル、シャアラ、隔壁閉鎖確認!」
「俺が行く」
ベルが大きく頷き、シャアラもついていく。
メノリが言う。
「私はここで記録と、次の指示をまとめる。ルナ、行け」
ルナは一瞬だけ迷った。
去年の自分なら、全部自分でやろうとした。
でも今は――頼れる。
「リュウジ、一緒に来て」
ルナが言うと、リュウジは当たり前のように頷いた。
「ああ」
二人は北側通路へ向かう。
途中、通路の壁面に貼られた“応急パッチ”と“泡状シーラント”のラックを確認し、ルナが必要な物を掴む。
「……冷静だな」
リュウジがぽつりと言う。
「怖いよ。でも、怖いまま動けるって、サヴァイヴで覚えた」
ルナは短く返した。
通路の角で、微かな風の流れを感じる。
音は小さい。でも確かに、空気が抜けている。
ルナが指で示す。
「ここ……!」
リュウジは一瞬で状況を見て、ルナの手元を確認した。
「パッチ貼る。泡はその上から。焦るな」
「分かってる」
ルナは頷き、パッチを当て、密着させる。泡状シーラントを上から塗布し、表面をならす。
手が震えそうになるのを、歯を食いしばって抑えた。
――大丈夫。訓練だ。
――今は、守れる。
数値が少しずつ落ち着く。
モニターの赤が、黄色に変わり、そして緑に戻った。
警報が止まった。
その瞬間、ルナは息を吐き、膝が少しだけ笑うのを感じた。
リュウジが横から支えるように立っていて、当たり前のように言った。
「……よくやった」
「リュウジもね」
ルナは小さく笑った。
そこへベルとシャアラが駆け――いや、駆けそうになって止まり、近づいてくる。
「閉鎖完了!」とベル。
「隔壁、問題なし!」とシャアラ。
少し遅れて、シンゴとメノリも合流した。
メノリは一瞬、皆の顔を見てから、短く言う。
「……全員無事。なら合格だろ」
その声が、少しだけ震えていたのを、ルナは見逃さなかった。
◇
訓練終了後、ホールに戻ると、スタッフが拍手をした。
「非常に良い対応でした。特に、班内の役割分担と指揮が明確でしたね」
ルナは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
サヴァイヴの時、褒められる余裕なんてなかった。
でも今は、“成長した”って言ってもらえる。
夕食は昨日より少し豪華だった。
小さなデザートまでついていて、シンゴが歓声を上げ、シャアラが「今日はぐっすり寝れそう」と笑った。
ベルは静かに「訓練のときのルナ、すごいと思った」と言い、ルナは照れて「やめてよ」と返した。
メノリは「当然だろ」と言いながら、箸の動きが少しだけ軽い。
リュウジは多くを語らなかった。
でも、食卓の端で、皆の様子を見ている眼差しが、いつもより柔らかい気がした。
自由時間になり、部屋へ戻る廊下で、ルナはふと足を止めた。
窓の向こうに、木星の光。
巨大で、怖いほど美しい。
「……ねえ、リュウジ」
ルナは隣を歩く彼に言った。
「何だ」
「今日、ちゃんと“今”を感じられた」
ルナは小さく笑う。
「去年のこと、忘れられないけど。……でも、今年は今年って思えた」
リュウジは少しだけ黙り、やがて短く答えた。
「それでいい」
その言葉は、励ましでも慰めでもない。
ただ、肯定だった。
ルナはそれが嬉しくて、胸の奥がふわっと軽くなった。
二日目は終わる。
明日は三日目。帰る日。
けれど今夜だけは、この木星の夜が、少しだけ優しく感じられた。
ーーー
夕食を終えた宿舎のロビーは、昼間の訓練の張り詰めた空気が嘘みたいに、ゆるやかな賑わいに包まれていた。壁際の自販機のランプが控えめに瞬き、天井の照明は暖色で、ソファに腰を落ち着ける生徒たちの声が、波のように行き来している。
ルナは紙コップのホットミルクを両手で包み、ふう、と息を吐いた。
訓練の最後、警報が止まった瞬間の胸の震えが、まだ奥に残っている。だけどそれは、怖さだけじゃない。ちゃんとやれた、という安堵と、皆が一緒にいてくれたという実感が混ざっている。
「……ねぇ、トランプやろう」
唐突に言い出したのはシャアラだった。
シャアラはソファの背に腕をかけ、少しだけ上機嫌な顔をしていた。昼間の訓練で怖かった分、今は何か、軽いことをしたいのだろう。
普段なら読書に潜る時間のはずなのに――そんな変化が、ルナにはなんだか嬉しかった。
「トランプ?」
ルナが聞き返すと、シャアラは小さく頷いた。
「うん。こういう時って、みんなでワイワイした方がいいと思うの」
言って、シャアラはポケットから小さなトランプの箱を取り出した。宿舎の備品らしく、端が少し擦れている。
「……準備いいね」
ルナが笑うと、シャアラは少しだけ照れて「たまたま、部屋の引き出しに入ってた」と言い訳する。
「やるなら、私も参加する」
メノリが椅子を引いて座った。相変わらず背筋が伸びていて、言葉も硬いけれど、目は嫌がっていない。むしろ、どこか「負けないぞ」という光がある。
「僕もやりたい!」
シンゴがすぐに手を挙げる。
「こういうゲームって、頭使うから好きなんだ」
「俺も」
ベルが短く言って、ゆっくりと席に着いた。
ベルの声は落ち着いていて、こういう時でも周りを安心させる温度がある。
最後に、ソファの端で本を読んでいたリュウジに視線が集まる。
「……リュウジもやる?」
ルナが声をかけると、リュウジは本を閉じて、淡々と頷いた。
「ああ。暇だしな」
そう言いながら、椅子を引く動きだけは無駄がない。
――この人、何をしても“慣れてる”感じがする。
シャアラがトランプを切りながら言った。
「じゃあ、何にしよう。大富豪でもいいけど……」
「……ババ抜きが無難じゃないかな」
ベルが言う。
「うん、ババ抜きにしよう!」
ルナが賛成すると、シャアラも頷いた。
「じゃあ、ババ抜きね」
カードが配られる。
それぞれが手札を整理し、同じ数字を捨てていく。最初は皆、軽い笑い声で始まった。シャアラが「はい、どうぞ」と丁寧に差し出し、シンゴが「え、どれだろ」と目を輝かせ、メノリは「ふん」と短く鼻を鳴らしながらも、指先は迷いがない。
――ただ。
数分後、空気が変わった。
「……え?」
シンゴが目を丸くした。
メノリが一気に手札を減らし、ベルも続けて「上がり」を宣言する。シャアラが「私も……え、もう?」と驚いた声を上げる。ルナも気づけば手札が残り二枚。
そして、リュウジだけが――まだ余裕そうだった。
「……何でそうなるの?」
ルナが思わず呟く。
リュウジは淡々とカードを引かせ、引かせ、引かせる。
相手が欲しいカードを避けるように、でも自然に。手元の動きに迷いがなく、視線も泳がない。
ルナがカードを引く。
はずれ。
シャアラが引く。
はずれ。
メノリが引く。
……はずれ。
「……ちょっと待て」
メノリが眉を寄せた。
「今、明らかに偏っているだろ。リュウジ、お前、何かしてるのか?」
「してない」
リュウジは即答した。
「カードは普通に差し出してる」
「でも、絶対ババ持ってるのリュウジじゃない気がする……」
シャアラが不安そうに言う。
ベルも首を傾げた。
「俺もそう思う。……なんか、引く方が“引かされてる”感じがする」
「引かされてるって何それ!」
シンゴが笑う。
笑い声が上がる中、ルナが最後の一枚を引いた。
そして――。
「……あ」
ルナは固まった。
手元に残ったのは、ジョーカー。
「えっ、ルナがババ!?」
シャアラが声を上げ、シンゴが「まさか!」と身を乗り出す。
ルナは唇を尖らせて、リュウジを見る。
「リュウジ……!」
「何だ」
リュウジは涼しい顔だ。
「絶対、誘導したでしょ!」
ルナが抗議すると、リュウジは小さく肩をすくめた。
「誘導っていうか……心理だ」
そして、どこか淡く笑った。
「心理学を一応、学んでるから。こういう心理戦なら負けない」
「心理学って……そんな実践的なの!?」
シンゴが目を輝かせる。
「すごい! 授業でやるの?」
「授業というか、独学だ」
リュウジは平然と言う。
「相手の癖と、反応と、選び方を見るだけだ」
「癖?」
ベルが聞き返す。
リュウジは、手元のカードを軽く揃えながら言った。
「人は迷うと視線が動く。引く前に指先が止まる。『この辺かな』って当たりをつけると、息が一回だけ浅くなる。そういうのが積み重なると、相手が何を引きたいか、逆に何を引きたくないかが分かる」
「……こわ」
シャアラが小声で呟いた。
「怖いって言うな」
リュウジは淡々と返す。
「別に、悪用してない」
メノリが腕を組んで言った。
「……悪用の基準が怪しいだろ」
ルナは拗ねたふりをして、頬を膨らませた。
「次は負けないからね」
「そう言う奴ほど、分かりやすい」
リュウジが言うと、ルナは「もう!」と声を上げる。
シンゴが笑い、ベルも「楽しそうだな」と小さく笑った。
シャアラがカードをもう一度切りながら言う。
「じゃあ、もう一回やろう。今度は負けた人が……えっと、飲み物取りに行くとか」
「いいね!」
シンゴが賛成する。
メノリも「合理的だ」と頷く。
ベルは「俺、飲み物は任せろ」と言いそうになって、シャアラに「それじゃ意味ないでしょ」と突っ込まれていた。
そして二回戦。
――結果は、ほとんど同じだった。
リュウジが淡々と勝ち続け、ルナが悔しがり、シャアラが「また!?」と驚き、シンゴが「なんでそんなに強いの!」と笑い、メノリが「納得いかん」と言いながらも目だけは真剣で、ベルは「俺、引き方変えたはずなんだけどな」と首を傾げる。
五回目くらいで、とうとうベルが我慢できなくなったように聞いた。
「リュウジ」
ベルは穏やかな声のまま、真剣な目で言った。
「リュウジより強い人、いるのか?」
その質問に、ルナもシャアラもシンゴも、メノリさえも、視線を向ける。
リュウジは一瞬、考えるように目を伏せ――そして、口元にほんの少し笑みを浮かべた。
「……一度も勝てなかったのは、エリンさんぐらいだな」
「えっ」
ルナが声を漏らす。
シャアラも「エリンさん……?」と目を丸くし、シンゴは「やっぱりすごいんだ!」と興奮する。
「エリンさん、強いの?」
ルナが聞くと、リュウジは頷いた。
「強い。相手の癖を見抜くのが早い」
リュウジは淡々と語るのに、どこか懐かしそうな響きが混じる。
「俺が自分で気づいてない癖まで把握してた。指の癖、目線の癖、呼吸の癖。……それを全部使ってくる。圧倒的だった」
「自分で気づいてない癖って……何それ」
ルナは半分呆れ、半分感心した。
メノリが眉を寄せる。
「お前、そんなに癖があるのか?」
「あるみたいだ」
リュウジはさらっと返す。
「誰だってある」
ベルが穏やかに言った。
「……エリンさん、怖いな」
「怖いって言うな」
リュウジはさっきと同じように言い、でも今回はほんの少し、柔らかく笑った。
「別に、怖い人じゃない。……ただ、観察が鋭いだけだ」
ルナはその言い方に、心のどこかが引っかかった。
“ただ鋭いだけ”という言葉の裏に、エリンへの信頼と、少しの敬意が見えたからだ。
ルナは何も言わず、トランプを握り直す。
「よし、次こそ勝つ!」
シンゴが拳を握る。
「無理だろ」
メノリが即答する。
「そんなこと言わないでよ、メノリ!」
ルナが笑うと、メノリは「私は事実を言っただけだ」と返す。
シャアラが「でも、楽しいからいいじゃない」と微笑む。
その瞬間、ルナは思った。
こういう時間が、今の自分たちには必要なんだと。
怖い訓練をして、昔の記憶が胸を刺しても。
笑える時間があることで、“今”をちゃんと繋げていける。
六回戦、七回戦。
リュウジの勝ちは揺るがない。
ルナは悔しがり、シャアラは「この人、本当に人間?」と半分本気で言い、シンゴは「分析して倒す!」と燃え、メノリは冷静に見えて目だけが闘志で光り、ベルは「俺、次は絶対引かされない」と静かに宣言する。
そんな中で、リュウジはいつもと同じ表情でカードを差し出しながら、ふっと小さく言った。
「……こういうの、悪くないな」
その言葉は独り言みたいだった。
でも、ルナは聞き逃さなかった。
「うん」
ルナは笑う。
「悪くないよ。ね、明日も一緒に帰ろうね」
リュウジは一瞬だけ目を細め、短く頷いた。
「ああ」
ロビーの時計が静かに進み、外の木星の光は変わらず巨大で、ゆっくりと流れていく。
その夜、トランプの札の音と、皆の笑い声が、宿舎の空気を柔らかく満たしていた。