サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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スパーツィオ養成学校

 カオルが編入したブライアンが運営する宇宙飛行士養成学校"スパーツィオ。

 スパーツィオ養成学校の訓練棟は、無駄のない直線と金属の光沢で構成されていた。廊下を歩く足音は乾いて響き、ガラス越しにはシミュレーターが並ぶ訓練室が見える。空気は常に少し冷たく、どこか“機械の匂い”がした。'

 

 カオルはその環境が嫌いじゃなかった。むしろ落ち着く。感情や社交よりも、手順と結果で評価される場所。操縦という明確な言語で生きられる場所。

 

 実際、カオルの操縦は飛び抜けていた。

 初日から教官の目は変わり、二週間もすれば「次の教範はまだか」と言われるようになった。反射神経、状況判断、軌道の読み。どれもが異常なまでに冷静で、危機下ほど精度が上がる。

 

 ――ただ一点だけ。

 

 授業表に「接客」という文字が見えた瞬間、カオルは小さく舌打ちした。

 

 パイロットに接客?

 冗談だろ。

 

 だが、この学校はブライアンの色が濃い。

 彼の口癖はこうだ。

 

『操縦だけじゃS級にはならん。人間を運ぶなら、人間を理解しろ』

 

 理解、という言葉はまだいい。

 だが“笑え”と言われるのは、別だ。

 

 カオルは仲間の前では、最低限の柔らかさを出せる。ルナたちと過ごした時間で、必要な言葉の温度も覚えた。

 けれど、初対面の相手――まして大勢の前となると、顔の筋肉が固まる。口角を上げようと意識すればするほど、笑いは“形”だけになってしまう。

 それを見透かされるのが、何より嫌だった。

 

 接客授業の教室は、訓練棟の中では珍しく、木目調の壁が使われていた。机の配置も対面型で、会話が起きるように作られている。

 カオルは一番後ろの端に座り、目立たないように腕を組んだ。

 

 周りの生徒たちは、操縦特化の連中だ。

 訓練服のまま、腕に古い怪我の跡がある者もいれば、目の下にクマを作っている者もいる。

 「接客なんて意味あるのか?」という雰囲気は、教室全体から滲み出ていた。

 

 教室の前方に、ブライアンが立つ。

 腰の骨折の痕はもう感じさせないが、立ち姿に無理のない重みがある。

 

「……今日は特別講師を呼んだ」

 ブライアンの声は低い。

「お前らは操縦が出来る。だが“操縦できるだけ”の奴は、いずれ墜ちる。天才でもな」

 

 ざわ、と小さく空気が揺れた。

 カオルは顔を上げない。そういう話は、何度も聞いた。必要なのは理解じゃなく、実行だ。

 

「入れ」

 

 ブライアンが扉の方を見た。

 

 ガチャ、と静かな音がして、扉が開く。

 足音は軽い。だが、無駄がない。

 

 入ってきた女性は、制服でも訓練服でもない。

 紺を基調とした端正なジャケット、胸元の控えめなバッジ。髪は緑色のロングで、まとめ方にも隙がない。

 姿勢が、まず違った。背筋が伸びているというより、空間の中心を“安定させる”ような立ち方。

 

 カオルの心臓が、一拍だけ強く鳴った。

 

 ――エリン。

 

 見間違えるはずがない。

 ラスぺランツァの中で、誰よりも柔らかく、誰よりも強い人間だった。

 

 エリンは教室の前に立つと、自然な呼吸で一礼した。

 

「エリンです。よろしくお願いします」

 

 その声は静かなのに、全員に届いた。

 拡声器を使っているわけじゃない。声を張ってもいない。

 なのに、耳が勝手に拾う。

 

 カオルは驚きのあまり、目を見開いてしまっていた。

 それに気づき、すぐに目を伏せる。

 ――余計な反応を見せたくない。

 

 エリンは一瞬だけカオルに視線を向けた。

 ほんの一瞥。確認するような、でも詮索しない、絶妙な短さ。

 

 そして、何事もなかったようにクラス全体を見渡した。

 

「……まず、最初に言っておきます」

 エリンの声は淡々としている。

「パイロットに接客は必要ない、と思う人がほとんどだと思います」

 

 数人が小さく笑った。

 ほら見ろ、わかってるじゃないか、という空気。

 

 だがエリンは笑わない。否定もしない。

 そのまま続けた。

 

「ですが、ここにいる皆さんはA級、S級を狙うクラスだと聞いています。そうなれば、必ず注目を浴びることがあります」

 

 “注目”という言葉が出た瞬間、教室の空気がわずかに締まった。

 ただ操縦が上手いだけなら、裏方で終わる。

 だがA級、S級は違う。名前が出る。顔が出る。噂が走る。期待も憎しみも、同じ速度で追いかけてくる。

 

 エリンは教卓に手を置かず、両手を軽く前で重ねた。

 動作が少ない。けれど、それが余裕に見える。

 

「注目されると、起こることがあります」

 エリンはゆっくり言った。

「勝手に写真を撮られる。勝手に噂を作られる。勝手に“正義”や“悪”の役を与えられる。――そして、勝手に怖がられたり、持ち上げられたりする」

 

 教室の何人かが眉を寄せた。

 カオルは、内側がざらついた。

 それは理解できる。カオル自身、かつて“事故を起こしたパイロット”として噂の中で殺されたことがある。

 

 エリンは続ける。

 

「そこで大切なのは、“操縦”だけではありません」

 視線が教室の端から端へ、均等に流れる。

「皆さんの一挙手一投足が、周囲に安心を与えるか、不安を与えるか。その差が、結果として現場の安全を左右します」

 

「……接客で安全?」

 誰かが小声で呟いた。半分、皮肉のように。

 

 エリンはその声を拾った。

 拾ったのに、刺さない。

 

「はい。安全です」

 即答だった。

「例えば、皆さんが宇宙船の操縦席に向かう前、通路で乗客とすれ違うことがあります。その時に、目も合わせず、無表情で歩いたら、どう思われるでしょう」

 

 静かに問いかける。

 

「『この人は機嫌が悪いのかな』『何かトラブルがあるのかな』って、不安になる人がいます。

 不安は連鎖します。少しのざわめきが、すぐに“恐怖”に育つ。

 恐怖が育つと、パニックが起きる。パニックが起きると、事故が起きる」

 

 淡々とした声の中に、確かな重さがあった。

 

「皆さんは操縦で、危険を回避できます。

 でも、危険を“起こさない”ためには、操縦以外の技術も必要です」

 

 エリンは少しだけ間を置いた。

 その間が、押し付けではなく、考えさせる余白になる。

 

「接客、と聞くと、笑顔で『いらっしゃいませ』と言うことだと思うかもしれません」

 エリンは言った。

「でも本質は、“相手に安心を渡すこと”です。

 そして、その安心は、相手のためだけじゃない。皆さん自身を守ります」

 

 カオルは、ふと拳を握っていた。

 エリンの言葉は、耳に優しいのに、核心だけを正確に刺してくる。

 

 エリンは歩き、教室の中央で止まった。

 

「もう一つ。A級、S級になれば、企業や行政、現場の責任者とのやりとりが増えます」

 エリンは淡々と告げる。

「そこで必要なのは、媚びることではありません。

 “対等な会話”を成立させることです」

 

 その言葉に、ブライアンがわずかに頷いた。

 

「皆さんの言葉が荒いと、相手は防御します。

 相手が防御すると、必要な情報が出てこなくなる。

 必要な情報が出てこないと、現場は危険になります」

 

 エリンは生徒たちを見回し、穏やかに言った。

 

「つまり、接客マナーは“礼儀”ではなく、情報を引き出し、状況を安定させ、事故を防ぐための技術です」

 

 教室の空気が、少し変わった。

 まだ納得していない者もいる。

 けれど、“意味がない”とは言えなくなっている。

 

 エリンはさらに、実例を挙げた。

 

「例えば、私は客室乗務員として、エンジントラブルで船が揺れた時、乗客に説明しました。

 その時、声が震えていたら、乗客はより怖がります。

 こちらが落ち着いていれば、向こうも落ち着きます」

 

 カオルは思い出した。

 ブライアン捜索の危機でも、エリンはいつだって“落ち着き”を渡す側だった。

 

「それは才能じゃありません」

 エリンは言った。

「技術です。練習できます。

 そして、練習すれば、誰でも“相手に安心を渡せる人”になれます」

 

 その瞬間、カオルの胸がほんの少しだけ軽くなった。

 笑えないのは、欠陥じゃない。

 練習で補える“技術”だと言われた気がした。

 

 エリンは教室の端にいるカオルを、もう一度だけ見た。

 今度は一瞥ではなく、ほんの短い“確認”の視線だった。

 まるで、「大丈夫、やれる」と言うような。

 

 カオルは視線を逸らさずに受け止め――そして、すぐに目を伏せた。

 それでも、心の奥で何かが静かに動いた。

 

「じゃあ、ここから実践します」

 エリンは手を軽く叩いた。音は小さいが、教室の集中が集まる。

「まずは“笑顔”から……と言いたいところですが、今日は違います。

 皆さんがまず身につけるのは、これです」

 

 エリンはゆっくりと言う。

 

「“第一声”の温度」

 

 教室が静まり返った。

 

「笑顔は作れます。でも“温度”は、作れません。

 だからこそ練習します。

 相手が安心する第一声。状況が締まる第一声。相手が話しやすくなる第一声」

 

 エリンは指を一本立てた。

 

「まず、名前を名乗る。

 次に、相手を確認する言葉を入れる。

 最後に、こちらの意図を短く言う。

 ――この三つだけで、会話の事故は激減します」

 

 ブライアンが腕を組んだまま、満足そうに息を吐いた。

 

「それじゃ、ペアを組んでください」

 エリンが言う。

「相手は“初対面の責任者”だと思って。

 パイロットとして、必要な確認を取りに行く場面です」

 

 ざわ、と生徒たちが動き出す。

 

 カオルは――動かなかった。

 誰かと組む、というだけで、胸の奥が冷える。

 

 だが、隣の席の生徒が控えめに言った。

「……一緒に、やる?」

 

 カオルは一瞬迷い、短く頷いた。

 

「……ああ」

 

 声は硬かった。

 けれど、拒絶ではない。

 

 エリンはそれを見て、何も言わずに前を向いた。

 余計な励ましはしない。

 ただ、場を整える。

 

 カオルは、自分の掌が少し汗ばんでいるのを感じた。

 

 ――操縦なら、こんなふうに緊張しないのに。

 

 でも、エリンの言葉が残っている。

 接客は礼儀じゃない。安全のための技術。

 技術なら、磨ける。

 

 カオルは小さく息を吸い、相手の目を見た。

 そして、ぎこちなくも、言葉を選びながら口を開く。

 

「……俺はカオルだ。

 ……確認したいことがある」

 

 たったそれだけなのに、教室の空気が少しだけ進んだ気がした。

 エリンの授業は、まだ始まったばかりだった。

 

ーーーー

 

 授業は、エリンの手で淡々と、しかし確実に前へ進んでいった。

 

 教室の前に立つエリンは、声を張り上げるタイプじゃない。けれど、言葉の置き方が正確だった。何を求めているのか、どこが危険で、どこが改善点なのか――それを“短く、外さず”に伝える。受け手に余計な感情を抱かせない。だから反発が起きにくい。

 

「第一声の温度は、声量じゃなくて“速度”で変わります」

「早口は不安を煽る。遅すぎると相手は苛立つ。――ちょうどいい速さを覚えて」

「それから、視線。相手の目を見ないのは、敵意じゃなくても“拒絶”に見えることがある」

 

 生徒たちはぎこちなく、何度も口を開き直しながら練習を繰り返す。最初は茶化していた連中も、エリンが一切笑わず、でも一切怒鳴らず、ただ改善点を積み上げていくのを見て、次第に真面目になっていった。

 

 それは、操縦訓練に似ていた。

 失敗を責めず、原因を特定して、修正して、再現性を持たせる。

 

 エリンは教室の隅から隅まで視線を巡らせ、誰かに偏らないように声をかける。姿勢、手の位置、言葉の切り方。小さな癖を拾っては、短いフレーズで直していく。

 

「今のは“命令”に聞こえた。お願いじゃなくて、圧になる」

「語尾に力を入れない。力むと相手は身構える」

「笑顔じゃなくていい。まずは“拒絶しない顔”を作る」

 

 ひとりの生徒が言い返しかけたが、エリンはそれすら怒らなかった。

 「そう思うなら試して」とだけ返して、同じ場面を二通りでやらせる。

 

 結果はすぐに出た。

 言葉が柔らかい方が情報が出る。相手が安心すると、余計な質問が減る。場が落ち着く。

 教室の空気は、少しずつ“訓練”に変わっていった。

 

 ――ただ一箇所だけ、空気が重いままの場所があった。

 

 カオルだ。

 

 カオルはペア練習でも、ロールプレイでも、必要最低限の言葉しか出さない。

 それが“無愛想”というより、“他人に入ってこられたくない壁”として立っている。

 

 目は鋭いのに、笑わない。

 声は落ち着いているのに、温度がない。

 受け答えは正しいのに、相手は「怒っているのかな」と不安になる。

 

 エリンは、教室を見渡しながら指導を続ける合間に、ふとカオルを見た。

 その瞬間、わずかに肩が落ちる。

 

 はぁ、と吐息が漏れた。

 

「……苦手だとは思ってたけど、これほどまでとは」

 

 声は自分にしか聞こえないくらい小さい。

 それでも、エリンは表情を変えない。特別扱いもしない。

 

 カオルにだけ優しくしたり、カオルにだけ厳しくしたりすれば、他の生徒が余計な空気を読む。カオルも、きっと余計に固くなる。

 だから、エリンは“同じ温度”で、同じ回数、同じ言葉を渡す。

 

「カオル、今の第一声は情報が少ない。相手は不安になる」

「“何を確認したいか”を最初に言って」

「視線を落とさないで。相手の目を見るのは、喧嘩じゃない」

 

 カオルは短く頷く。

 「……分かりました」

 それだけ。

 

 そして、また固い。

 

 それを見て、周りの生徒が少し笑いそうになる。

 だがエリンの視線が一度動くと、笑いは消える。

 視線に“刃”はないのに、空気が締まる。

 

 授業の後半、エリンは実践的なケースを入れた。

 「機体トラブルの報告を受けた後、責任者に状況を説明し、判断を仰ぐ」

 「乗客へのアナウンス」

 「記者に囲まれた時の対応」

 

 生徒たちは顔色を変えた。

 操縦は得意でも、“言葉の戦場”は別だ。

 

 エリンは一つずつ、型を渡した。

 「まず事実、次に見通し、最後に安心材料」

 「断る時は、理由と代替案」

 「煽られたら反応せず、繰り返す」

 

 それは接客というより、戦術だった。

 

 カオルも、少しずつ改善していく。

 声の速度を落とし、語尾を尖らせない。

 視線を上げる時間を増やす。

 ――だが“笑顔”だけは、最後まで形にならなかった。

 

 授業の終盤、エリンは教室の前に戻り、全員を見回した。

 

「今日やったことは、操縦と同じです」

 エリンは淡々と告げる。

「安全のために、再現性を作る。事故を起こさないために、相手を落ち着かせる。必要な情報を引き出す」

 

 少し間を置いて、エリンは息を吸う。

 

「そして、最後に。私が知っているS級パイロットの――」

 

 言いかけて、ふと口を止めた。

 ほんのわずかな沈黙。

 そして、エリンは訂正する。

 

「……リュウジ。元S級だね」

 

 その名前が出た途端、何人かがざわっと反応した。

 “英雄”として聞いたことがある者もいるのだろう。

 最年少、悲劇のフライト、サヴァイヴからの帰還、ブライアンの捜索任務の完遂、噂だけが独り歩きする。

 

 カオルは、胸の奥が小さく締まった。

 リュウジの名前は、今でもどこか“熱”を持っている。

 

 エリンは、静かに続けた。

 

「彼も、皆さんと同じように、接客がそこまで上手ではなかったわ」

 

 意外そうな顔がいくつか浮かぶ。

 S級の完璧さを想像していたのだろう。

 

「愛想がいいわけじゃない。話し方も、柔らかいとは言えない。

 でも――」

 

 エリンは、そこで一度言葉を選んだ。

 自慢でも、擁護でもない。事実として語るために。

 

「彼は私たち、乗務員を道具ではなく、仲間として見てくれた」

 

 教室が静まった。

 

「“運ぶ人”と“運ばれる人”の関係じゃない。

 “操縦する人”と“支える人”の上下関係でもない」

 

 エリンはゆっくり言った。

 

「危ない時、彼は私たちを先に守った。

 判断が必要な時、彼は私たちの意見を聞いた。

 命令ではなく、頼み方を選んだ。

 ――それは接客の技術じゃない。信頼の作り方よ」

 

 生徒の中に、何かが落ちたような気配がした。

 “接客”が“媚び”じゃないと理解した瞬間の、静かな納得。

 

 エリンは視線をカオルの方へ向ける。

 直接名指しはしない。けれど、伝える先は明確だった。

 

「笑顔が苦手でもいい、口数が少なくてもいい。でも、仲間として見ているなら、それは必ず伝わる」

 

 カオルは、息を止めていた。

 自分が“仲間”という言葉を、どれだけ怖がっているか。

 それを見透かされた気がしたからだ。

 

 エリンは続ける。

 

「パイロットは、孤独になりやすい職業です。注目されるほど、周りは距離を置く。

 近づいてくるのは、称賛か、利用か、嫉妬か。

 その中で“本当に支えてくれる人”を見分けるのは難しい」

 

 エリンの声には、少しだけ温度が乗った。

 

「だからこそ、あなた達が先に“仲間”を作るの。地上のスタッフ、客室乗務員、整備士、管制、医療班。

 その人たちを道具と思った瞬間に、あなたの世界は狭くなる」

 

 教室の後ろの方で、誰かが小さく頷いた。

 

「リュウジは、それを本能で知っていた」

 エリンは言った。

「上手い接客はできなかったけど、信頼の作り方だけは間違えなかった」

 

 その言葉が、カオルの胸に刺さった。

 リュウジは無愛想だ。

 でも、仲間を“仲間”として扱う。

 だから周囲は、最終的に彼を支える。

 

 カオルは、自分がその逆をしていたことを思い出す。

 事故の後、誰にも頼らず、誰も信じず、ただ操縦だけで証明しようとした。

 

 ――それでは、狭くなる。

 

 エリンは最後に、全員へ向けて言った。

 

「今日のまとめ。接客は技術。安心を渡すための道具。

 でも信頼は技術じゃない。姿勢です」

 

 エリンは小さく一礼した。

 

「皆さんが操縦席に座る日、あなた達の背中を支える人が必ずいます。その人を“仲間”として見ること。

 それができれば、接客が下手でも、あなた達は強い」

 

 その言葉と同時に授業終わりを告げるチャイムが鳴りひびいた。

 その音で教室の空気が一気にほどけた。

 

 椅子が擦れる音、教科書を閉じる音、抑えきれなかった吐息。――さっきまで「接客」なんて、と斜に構えていた連中も、今は妙に真面目な顔をしている。エリンの言葉が、どこか“操縦訓練の延長”として腹に落ちたのだろう。

 

「以上。今日の授業は終わりです。……お疲れ様でした」

 

 エリンが一礼すると、生徒たちも遅れて頭を下げた。雑な子もいれば、妙に丁寧な子もいる。そういう差が見えるのも、エリンにとっては“今後の伸びしろ”の目安になった。

 

 中でも、最後まで固かったのは――カオルだ。

 

 彼は席を立つのが遅かった。皆が帰り支度を始める中で、まだ何かを咀嚼しているみたいに、視線を机に落としたまま動かない。やがて立ち上がり、教室の出口へ向かう。その背中は相変わらずまっすぐで、けれど、ほんの少しだけ肩の力が抜けて見えた。

 

 ――気づけば、追いかけるように視線を向けている自分がいる。

 

 エリンは心の中で小さく息を吐いた。

 

(大丈夫……大丈夫よ。私は特別扱いしないって決めたんだから)

 

 “心配”と“介入”は似ている。近づきすぎれば、相手の世界を壊す。

 だからエリンは、今日も、ただ“必要な言葉”だけを渡すつもりでいた。

 

 教室が空になっていく。最後に残ったのは、エリンと、教室の後ろで腕を組んで見ていた特別講師の依頼主――ブライアンだけだった。

 

 ブライアンは椅子から腰を上げると、足元を確かめるように一歩、二歩と踏み出した。腰の骨折は回復したと聞いていたが、完全に癖が消えるまでには時間がかかるのだろう。それでも、体幹のブレは小さい。さすが、というべきか。

 

「……今日、助かった。ありがとう」

 

 ブライアンが、短く言った。

 

 その言い方は、不器用だった。礼儀としての「感謝」というより、事実の確認に近い。けれど、エリンにはわかる。こういう男は、余計な飾りをつけない。だから言葉の重みがある。

 

「いえ。ブライアンさんから頼まれた時は驚きましたが……来れて良かったです」

 

 エリンは鞄を整えながら答えた。心からの言葉だ。

 接客を授業に組み込む方針自体、強引に見えるかもしれない。けれど、“A級・S級を狙う”という現実の前では、あまりにも正しい。

 

「これからパイロットになる子たちに、乗務員は道具ではなく、仲間だって伝える――そのきっかけになりましたから」

 

 そう言いながら、エリンはふと思い出す。

 かつて自分が、乗務員であることを誇りながらも、同時に“便利な人員”として扱われた場面が何度もあったことを。

 そして、それを一度も感じさせない距離で――「仲間」として見てくれた存在がいたことを。

 

 ブライアンは鼻で笑うような息を吐いた。

 

「……その為だけに来たわけではあるまい」

 

 エリンの指が一瞬止まった。

 図星を突かれた時の、ほんのわずかな動揺。隠したつもりでも、相手がブライアンなら拾われる。

 

「カオルを見に来たのだろう?」

 

 ブライアンはそう言って、教室の出口を顎で示した。もうカオルの姿はない。それでも、話題にするには十分だった。

 

 エリンは一度、視線を落としてから、静かに頷く。

 

「……それも、あります」

 

 誤魔化さなかった。

 誤魔化せば、逆に相手の警戒を招く。ブライアンはそういう男だ。

 

 ブライアンは壁にもたれ、腕を組み直す。

 

「安心しろ。あいつは必ず――リュウジを超えるパイロットにしてやる」

 

 断言。

 誰かを励ますための言葉じゃない。自分が背負う覚悟の宣言だ。

 

 エリンは、返事に迷った。

 

 “超える”という言葉は、刃にもなる。

 比較は成長を促す一方で、心を折ることもある。

 しかも、リュウジという名は――彼にとっても、カオルにとっても、簡単に扱える軽さじゃない。

 

「……そうですか……」

 

 エリンは、やっとそれだけ言った。肯定でも否定でもない。受け止めるだけの言葉。

 

 ブライアンは、エリンの反応を見て口元を歪めた。笑ったわけではない。どこか、試すような顔だ。

 

「なぁ、エリン。リュウジの“やりたい事”については聞いているのか?」

 

 その質問が来ることは、予想していなかったわけじゃない。

 でも、心の準備はできていなかった。

 

 エリンは胸の奥で小さく波立つものを感じる。

 あの子が“S級を返上した理由”。

 “区切り”だと、本人は言った。

 そして「やりたい事を見つけた」と――あのいつも距離を置く男が、珍しくまっすぐに言った。

 

 それだけで十分だった。

 “何を”やりたいのかは、聞かなかった。聞けなかった。

 

「……いいえ。聞かないようにしています」

 

 エリンは正直に答えた。

 

 ブライアンは眉を上げる。

 

「ほぉ。お前が?」

 

 意外だ、という声だった。

 

 エリンは、少しだけ苦笑する。自分でも意外だから。

 

「……聞いてしまったら、口出ししてしまいそうで」

 

 それは弱さの告白に近い。

 元チーフパーサーとして、危険を見過ごすのは苦手だ。

 宇宙の仕事に関わってきた人間として、“無謀”や“無茶”の匂いには敏感だ。

 だから、もし彼のやりたい事が、少しでも危うい方向に見えたら――止めたくなる。手を伸ばしたくなる。理屈を並べたくなる。

 

 でも、それは彼の人生のハンドルを奪う行為だ。

 

 リュウジが“自分で進む”と決めたのなら、支える側がやるべきことは――支える距離を守ること。

 それをエリンは、ようやく理解し始めていた。

 

「……お前らしい。いや、らしくない、か」

 

 ブライアンは呟いた。

 そして、少しだけ声のトーンを落とす。

 

「リュウジは、誰にも見せないところで決める。

 決めたら、簡単に揺れない。

 だからこそ――周りが勝手に心配して、勝手に口を出して、勝手に縛る」

 

 言外に、誰のことを指しているのかが透ける。

 エリンは、視線を上げた。

 

「……だから、私は聞かないんです」

 

 エリンは自分に言い聞かせるように言った。

 

「彼が決めた区切りは、彼が作ったものです。

 私が確認して、評価して、許可するものじゃない」

 

 ブライアンは鼻で息を吐いた。

 

「だが、支える気はあるんだろ」

 

 エリンは少し黙った。

 “支える”という言葉の重みを、噛みしめる。

 

 支えたい。

 でも、支えるという名のもとに、相手の選択を誘導したくない。

 ただ、困った時に“戻れる場所”として在りたい。

 

「……あります」

 

 エリンは小さく頷いた。

 

「彼が転びそうな時、手を差し出す準備はしています。

 でも、手を引っ張って進ませるつもりはありません」

 

 ブライアンは一瞬だけ目を細めた。

 その表情は、評価とも、理解ともつかない。

 ただ、納得した時の沈黙に近かった。

 

「……今日の話、カオルにも効いたはずだ」

 

 ブライアンは、教室の出口を見た。

 もう誰もいない廊下。

 けれど、確かに“残響”は残っている。

 

「俺は操縦を教える。

 お前は――操縦以外で生き残る術を教えろ」

 

 その言い方は乱暴だったが、頼みとしては真っすぐだ。

 

 エリンは、少しだけ笑った。

 

「……命令口調ですね」

 

「悪い癖だ」

 

 ブライアンはあっさり認める。

 その瞬間だけ、二人の間に妙な軽さが生まれた。

 

 エリンは鞄を肩にかけ、出口へ向かう。

 教室を出る直前、エリンは足を止めた。

 

「ブライアンさん」

 

「ん?」

 

「……カオルのこと、お願いします」

 

 エリンの声は、仕事の声ではなかった。

 もっと個人的で、静かな願いだった。

 

 ブライアンは、振り返らないまま片手を上げた。

 

「任せろ。……必ず、だ」

 

 短い返事。

 それだけで、十分だった。

 

 廊下に出ると、遠くから訓練の機械音が聞こえる。

 ここは未来のパイロットたちの場所だ。

 そして、リュウジは――もうそこから別の道へ歩き出している。

 

(やりたい事……)

 

 エリンは心の中で呟く。

 聞かない。聞けない。

 でも、願ってしまう。

 

 どうか、その“やりたい事”が、彼を救うものでありますように。

 悲劇のフライトの残り火を、静かに消してくれるものでありますように。

 

 エリンは歩き出した。

 風のない廊下を、まっすぐに。

 

 ――聞かない代わりに、いつでも帰って来られる場所を作る。

 それが、今の自分にできる“信頼”の形だと信じながら。

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