カオルが編入したブライアンが運営する宇宙飛行士養成学校"スパーツィオ。
スパーツィオ養成学校の訓練棟は、無駄のない直線と金属の光沢で構成されていた。廊下を歩く足音は乾いて響き、ガラス越しにはシミュレーターが並ぶ訓練室が見える。空気は常に少し冷たく、どこか“機械の匂い”がした。'
カオルはその環境が嫌いじゃなかった。むしろ落ち着く。感情や社交よりも、手順と結果で評価される場所。操縦という明確な言語で生きられる場所。
実際、カオルの操縦は飛び抜けていた。
初日から教官の目は変わり、二週間もすれば「次の教範はまだか」と言われるようになった。反射神経、状況判断、軌道の読み。どれもが異常なまでに冷静で、危機下ほど精度が上がる。
――ただ一点だけ。
授業表に「接客」という文字が見えた瞬間、カオルは小さく舌打ちした。
パイロットに接客?
冗談だろ。
だが、この学校はブライアンの色が濃い。
彼の口癖はこうだ。
『操縦だけじゃS級にはならん。人間を運ぶなら、人間を理解しろ』
理解、という言葉はまだいい。
だが“笑え”と言われるのは、別だ。
カオルは仲間の前では、最低限の柔らかさを出せる。ルナたちと過ごした時間で、必要な言葉の温度も覚えた。
けれど、初対面の相手――まして大勢の前となると、顔の筋肉が固まる。口角を上げようと意識すればするほど、笑いは“形”だけになってしまう。
それを見透かされるのが、何より嫌だった。
接客授業の教室は、訓練棟の中では珍しく、木目調の壁が使われていた。机の配置も対面型で、会話が起きるように作られている。
カオルは一番後ろの端に座り、目立たないように腕を組んだ。
周りの生徒たちは、操縦特化の連中だ。
訓練服のまま、腕に古い怪我の跡がある者もいれば、目の下にクマを作っている者もいる。
「接客なんて意味あるのか?」という雰囲気は、教室全体から滲み出ていた。
教室の前方に、ブライアンが立つ。
腰の骨折の痕はもう感じさせないが、立ち姿に無理のない重みがある。
「……今日は特別講師を呼んだ」
ブライアンの声は低い。
「お前らは操縦が出来る。だが“操縦できるだけ”の奴は、いずれ墜ちる。天才でもな」
ざわ、と小さく空気が揺れた。
カオルは顔を上げない。そういう話は、何度も聞いた。必要なのは理解じゃなく、実行だ。
「入れ」
ブライアンが扉の方を見た。
ガチャ、と静かな音がして、扉が開く。
足音は軽い。だが、無駄がない。
入ってきた女性は、制服でも訓練服でもない。
紺を基調とした端正なジャケット、胸元の控えめなバッジ。髪は緑色のロングで、まとめ方にも隙がない。
姿勢が、まず違った。背筋が伸びているというより、空間の中心を“安定させる”ような立ち方。
カオルの心臓が、一拍だけ強く鳴った。
――エリン。
見間違えるはずがない。
ラスぺランツァの中で、誰よりも柔らかく、誰よりも強い人間だった。
エリンは教室の前に立つと、自然な呼吸で一礼した。
「エリンです。よろしくお願いします」
その声は静かなのに、全員に届いた。
拡声器を使っているわけじゃない。声を張ってもいない。
なのに、耳が勝手に拾う。
カオルは驚きのあまり、目を見開いてしまっていた。
それに気づき、すぐに目を伏せる。
――余計な反応を見せたくない。
エリンは一瞬だけカオルに視線を向けた。
ほんの一瞥。確認するような、でも詮索しない、絶妙な短さ。
そして、何事もなかったようにクラス全体を見渡した。
「……まず、最初に言っておきます」
エリンの声は淡々としている。
「パイロットに接客は必要ない、と思う人がほとんどだと思います」
数人が小さく笑った。
ほら見ろ、わかってるじゃないか、という空気。
だがエリンは笑わない。否定もしない。
そのまま続けた。
「ですが、ここにいる皆さんはA級、S級を狙うクラスだと聞いています。そうなれば、必ず注目を浴びることがあります」
“注目”という言葉が出た瞬間、教室の空気がわずかに締まった。
ただ操縦が上手いだけなら、裏方で終わる。
だがA級、S級は違う。名前が出る。顔が出る。噂が走る。期待も憎しみも、同じ速度で追いかけてくる。
エリンは教卓に手を置かず、両手を軽く前で重ねた。
動作が少ない。けれど、それが余裕に見える。
「注目されると、起こることがあります」
エリンはゆっくり言った。
「勝手に写真を撮られる。勝手に噂を作られる。勝手に“正義”や“悪”の役を与えられる。――そして、勝手に怖がられたり、持ち上げられたりする」
教室の何人かが眉を寄せた。
カオルは、内側がざらついた。
それは理解できる。カオル自身、かつて“事故を起こしたパイロット”として噂の中で殺されたことがある。
エリンは続ける。
「そこで大切なのは、“操縦”だけではありません」
視線が教室の端から端へ、均等に流れる。
「皆さんの一挙手一投足が、周囲に安心を与えるか、不安を与えるか。その差が、結果として現場の安全を左右します」
「……接客で安全?」
誰かが小声で呟いた。半分、皮肉のように。
エリンはその声を拾った。
拾ったのに、刺さない。
「はい。安全です」
即答だった。
「例えば、皆さんが宇宙船の操縦席に向かう前、通路で乗客とすれ違うことがあります。その時に、目も合わせず、無表情で歩いたら、どう思われるでしょう」
静かに問いかける。
「『この人は機嫌が悪いのかな』『何かトラブルがあるのかな』って、不安になる人がいます。
不安は連鎖します。少しのざわめきが、すぐに“恐怖”に育つ。
恐怖が育つと、パニックが起きる。パニックが起きると、事故が起きる」
淡々とした声の中に、確かな重さがあった。
「皆さんは操縦で、危険を回避できます。
でも、危険を“起こさない”ためには、操縦以外の技術も必要です」
エリンは少しだけ間を置いた。
その間が、押し付けではなく、考えさせる余白になる。
「接客、と聞くと、笑顔で『いらっしゃいませ』と言うことだと思うかもしれません」
エリンは言った。
「でも本質は、“相手に安心を渡すこと”です。
そして、その安心は、相手のためだけじゃない。皆さん自身を守ります」
カオルは、ふと拳を握っていた。
エリンの言葉は、耳に優しいのに、核心だけを正確に刺してくる。
エリンは歩き、教室の中央で止まった。
「もう一つ。A級、S級になれば、企業や行政、現場の責任者とのやりとりが増えます」
エリンは淡々と告げる。
「そこで必要なのは、媚びることではありません。
“対等な会話”を成立させることです」
その言葉に、ブライアンがわずかに頷いた。
「皆さんの言葉が荒いと、相手は防御します。
相手が防御すると、必要な情報が出てこなくなる。
必要な情報が出てこないと、現場は危険になります」
エリンは生徒たちを見回し、穏やかに言った。
「つまり、接客マナーは“礼儀”ではなく、情報を引き出し、状況を安定させ、事故を防ぐための技術です」
教室の空気が、少し変わった。
まだ納得していない者もいる。
けれど、“意味がない”とは言えなくなっている。
エリンはさらに、実例を挙げた。
「例えば、私は客室乗務員として、エンジントラブルで船が揺れた時、乗客に説明しました。
その時、声が震えていたら、乗客はより怖がります。
こちらが落ち着いていれば、向こうも落ち着きます」
カオルは思い出した。
ブライアン捜索の危機でも、エリンはいつだって“落ち着き”を渡す側だった。
「それは才能じゃありません」
エリンは言った。
「技術です。練習できます。
そして、練習すれば、誰でも“相手に安心を渡せる人”になれます」
その瞬間、カオルの胸がほんの少しだけ軽くなった。
笑えないのは、欠陥じゃない。
練習で補える“技術”だと言われた気がした。
エリンは教室の端にいるカオルを、もう一度だけ見た。
今度は一瞥ではなく、ほんの短い“確認”の視線だった。
まるで、「大丈夫、やれる」と言うような。
カオルは視線を逸らさずに受け止め――そして、すぐに目を伏せた。
それでも、心の奥で何かが静かに動いた。
「じゃあ、ここから実践します」
エリンは手を軽く叩いた。音は小さいが、教室の集中が集まる。
「まずは“笑顔”から……と言いたいところですが、今日は違います。
皆さんがまず身につけるのは、これです」
エリンはゆっくりと言う。
「“第一声”の温度」
教室が静まり返った。
「笑顔は作れます。でも“温度”は、作れません。
だからこそ練習します。
相手が安心する第一声。状況が締まる第一声。相手が話しやすくなる第一声」
エリンは指を一本立てた。
「まず、名前を名乗る。
次に、相手を確認する言葉を入れる。
最後に、こちらの意図を短く言う。
――この三つだけで、会話の事故は激減します」
ブライアンが腕を組んだまま、満足そうに息を吐いた。
「それじゃ、ペアを組んでください」
エリンが言う。
「相手は“初対面の責任者”だと思って。
パイロットとして、必要な確認を取りに行く場面です」
ざわ、と生徒たちが動き出す。
カオルは――動かなかった。
誰かと組む、というだけで、胸の奥が冷える。
だが、隣の席の生徒が控えめに言った。
「……一緒に、やる?」
カオルは一瞬迷い、短く頷いた。
「……ああ」
声は硬かった。
けれど、拒絶ではない。
エリンはそれを見て、何も言わずに前を向いた。
余計な励ましはしない。
ただ、場を整える。
カオルは、自分の掌が少し汗ばんでいるのを感じた。
――操縦なら、こんなふうに緊張しないのに。
でも、エリンの言葉が残っている。
接客は礼儀じゃない。安全のための技術。
技術なら、磨ける。
カオルは小さく息を吸い、相手の目を見た。
そして、ぎこちなくも、言葉を選びながら口を開く。
「……俺はカオルだ。
……確認したいことがある」
たったそれだけなのに、教室の空気が少しだけ進んだ気がした。
エリンの授業は、まだ始まったばかりだった。
ーーーー
授業は、エリンの手で淡々と、しかし確実に前へ進んでいった。
教室の前に立つエリンは、声を張り上げるタイプじゃない。けれど、言葉の置き方が正確だった。何を求めているのか、どこが危険で、どこが改善点なのか――それを“短く、外さず”に伝える。受け手に余計な感情を抱かせない。だから反発が起きにくい。
「第一声の温度は、声量じゃなくて“速度”で変わります」
「早口は不安を煽る。遅すぎると相手は苛立つ。――ちょうどいい速さを覚えて」
「それから、視線。相手の目を見ないのは、敵意じゃなくても“拒絶”に見えることがある」
生徒たちはぎこちなく、何度も口を開き直しながら練習を繰り返す。最初は茶化していた連中も、エリンが一切笑わず、でも一切怒鳴らず、ただ改善点を積み上げていくのを見て、次第に真面目になっていった。
それは、操縦訓練に似ていた。
失敗を責めず、原因を特定して、修正して、再現性を持たせる。
エリンは教室の隅から隅まで視線を巡らせ、誰かに偏らないように声をかける。姿勢、手の位置、言葉の切り方。小さな癖を拾っては、短いフレーズで直していく。
「今のは“命令”に聞こえた。お願いじゃなくて、圧になる」
「語尾に力を入れない。力むと相手は身構える」
「笑顔じゃなくていい。まずは“拒絶しない顔”を作る」
ひとりの生徒が言い返しかけたが、エリンはそれすら怒らなかった。
「そう思うなら試して」とだけ返して、同じ場面を二通りでやらせる。
結果はすぐに出た。
言葉が柔らかい方が情報が出る。相手が安心すると、余計な質問が減る。場が落ち着く。
教室の空気は、少しずつ“訓練”に変わっていった。
――ただ一箇所だけ、空気が重いままの場所があった。
カオルだ。
カオルはペア練習でも、ロールプレイでも、必要最低限の言葉しか出さない。
それが“無愛想”というより、“他人に入ってこられたくない壁”として立っている。
目は鋭いのに、笑わない。
声は落ち着いているのに、温度がない。
受け答えは正しいのに、相手は「怒っているのかな」と不安になる。
エリンは、教室を見渡しながら指導を続ける合間に、ふとカオルを見た。
その瞬間、わずかに肩が落ちる。
はぁ、と吐息が漏れた。
「……苦手だとは思ってたけど、これほどまでとは」
声は自分にしか聞こえないくらい小さい。
それでも、エリンは表情を変えない。特別扱いもしない。
カオルにだけ優しくしたり、カオルにだけ厳しくしたりすれば、他の生徒が余計な空気を読む。カオルも、きっと余計に固くなる。
だから、エリンは“同じ温度”で、同じ回数、同じ言葉を渡す。
「カオル、今の第一声は情報が少ない。相手は不安になる」
「“何を確認したいか”を最初に言って」
「視線を落とさないで。相手の目を見るのは、喧嘩じゃない」
カオルは短く頷く。
「……分かりました」
それだけ。
そして、また固い。
それを見て、周りの生徒が少し笑いそうになる。
だがエリンの視線が一度動くと、笑いは消える。
視線に“刃”はないのに、空気が締まる。
授業の後半、エリンは実践的なケースを入れた。
「機体トラブルの報告を受けた後、責任者に状況を説明し、判断を仰ぐ」
「乗客へのアナウンス」
「記者に囲まれた時の対応」
生徒たちは顔色を変えた。
操縦は得意でも、“言葉の戦場”は別だ。
エリンは一つずつ、型を渡した。
「まず事実、次に見通し、最後に安心材料」
「断る時は、理由と代替案」
「煽られたら反応せず、繰り返す」
それは接客というより、戦術だった。
カオルも、少しずつ改善していく。
声の速度を落とし、語尾を尖らせない。
視線を上げる時間を増やす。
――だが“笑顔”だけは、最後まで形にならなかった。
授業の終盤、エリンは教室の前に戻り、全員を見回した。
「今日やったことは、操縦と同じです」
エリンは淡々と告げる。
「安全のために、再現性を作る。事故を起こさないために、相手を落ち着かせる。必要な情報を引き出す」
少し間を置いて、エリンは息を吸う。
「そして、最後に。私が知っているS級パイロットの――」
言いかけて、ふと口を止めた。
ほんのわずかな沈黙。
そして、エリンは訂正する。
「……リュウジ。元S級だね」
その名前が出た途端、何人かがざわっと反応した。
“英雄”として聞いたことがある者もいるのだろう。
最年少、悲劇のフライト、サヴァイヴからの帰還、ブライアンの捜索任務の完遂、噂だけが独り歩きする。
カオルは、胸の奥が小さく締まった。
リュウジの名前は、今でもどこか“熱”を持っている。
エリンは、静かに続けた。
「彼も、皆さんと同じように、接客がそこまで上手ではなかったわ」
意外そうな顔がいくつか浮かぶ。
S級の完璧さを想像していたのだろう。
「愛想がいいわけじゃない。話し方も、柔らかいとは言えない。
でも――」
エリンは、そこで一度言葉を選んだ。
自慢でも、擁護でもない。事実として語るために。
「彼は私たち、乗務員を道具ではなく、仲間として見てくれた」
教室が静まった。
「“運ぶ人”と“運ばれる人”の関係じゃない。
“操縦する人”と“支える人”の上下関係でもない」
エリンはゆっくり言った。
「危ない時、彼は私たちを先に守った。
判断が必要な時、彼は私たちの意見を聞いた。
命令ではなく、頼み方を選んだ。
――それは接客の技術じゃない。信頼の作り方よ」
生徒の中に、何かが落ちたような気配がした。
“接客”が“媚び”じゃないと理解した瞬間の、静かな納得。
エリンは視線をカオルの方へ向ける。
直接名指しはしない。けれど、伝える先は明確だった。
「笑顔が苦手でもいい、口数が少なくてもいい。でも、仲間として見ているなら、それは必ず伝わる」
カオルは、息を止めていた。
自分が“仲間”という言葉を、どれだけ怖がっているか。
それを見透かされた気がしたからだ。
エリンは続ける。
「パイロットは、孤独になりやすい職業です。注目されるほど、周りは距離を置く。
近づいてくるのは、称賛か、利用か、嫉妬か。
その中で“本当に支えてくれる人”を見分けるのは難しい」
エリンの声には、少しだけ温度が乗った。
「だからこそ、あなた達が先に“仲間”を作るの。地上のスタッフ、客室乗務員、整備士、管制、医療班。
その人たちを道具と思った瞬間に、あなたの世界は狭くなる」
教室の後ろの方で、誰かが小さく頷いた。
「リュウジは、それを本能で知っていた」
エリンは言った。
「上手い接客はできなかったけど、信頼の作り方だけは間違えなかった」
その言葉が、カオルの胸に刺さった。
リュウジは無愛想だ。
でも、仲間を“仲間”として扱う。
だから周囲は、最終的に彼を支える。
カオルは、自分がその逆をしていたことを思い出す。
事故の後、誰にも頼らず、誰も信じず、ただ操縦だけで証明しようとした。
――それでは、狭くなる。
エリンは最後に、全員へ向けて言った。
「今日のまとめ。接客は技術。安心を渡すための道具。
でも信頼は技術じゃない。姿勢です」
エリンは小さく一礼した。
「皆さんが操縦席に座る日、あなた達の背中を支える人が必ずいます。その人を“仲間”として見ること。
それができれば、接客が下手でも、あなた達は強い」
その言葉と同時に授業終わりを告げるチャイムが鳴りひびいた。
その音で教室の空気が一気にほどけた。
椅子が擦れる音、教科書を閉じる音、抑えきれなかった吐息。――さっきまで「接客」なんて、と斜に構えていた連中も、今は妙に真面目な顔をしている。エリンの言葉が、どこか“操縦訓練の延長”として腹に落ちたのだろう。
「以上。今日の授業は終わりです。……お疲れ様でした」
エリンが一礼すると、生徒たちも遅れて頭を下げた。雑な子もいれば、妙に丁寧な子もいる。そういう差が見えるのも、エリンにとっては“今後の伸びしろ”の目安になった。
中でも、最後まで固かったのは――カオルだ。
彼は席を立つのが遅かった。皆が帰り支度を始める中で、まだ何かを咀嚼しているみたいに、視線を机に落としたまま動かない。やがて立ち上がり、教室の出口へ向かう。その背中は相変わらずまっすぐで、けれど、ほんの少しだけ肩の力が抜けて見えた。
――気づけば、追いかけるように視線を向けている自分がいる。
エリンは心の中で小さく息を吐いた。
(大丈夫……大丈夫よ。私は特別扱いしないって決めたんだから)
“心配”と“介入”は似ている。近づきすぎれば、相手の世界を壊す。
だからエリンは、今日も、ただ“必要な言葉”だけを渡すつもりでいた。
教室が空になっていく。最後に残ったのは、エリンと、教室の後ろで腕を組んで見ていた特別講師の依頼主――ブライアンだけだった。
ブライアンは椅子から腰を上げると、足元を確かめるように一歩、二歩と踏み出した。腰の骨折は回復したと聞いていたが、完全に癖が消えるまでには時間がかかるのだろう。それでも、体幹のブレは小さい。さすが、というべきか。
「……今日、助かった。ありがとう」
ブライアンが、短く言った。
その言い方は、不器用だった。礼儀としての「感謝」というより、事実の確認に近い。けれど、エリンにはわかる。こういう男は、余計な飾りをつけない。だから言葉の重みがある。
「いえ。ブライアンさんから頼まれた時は驚きましたが……来れて良かったです」
エリンは鞄を整えながら答えた。心からの言葉だ。
接客を授業に組み込む方針自体、強引に見えるかもしれない。けれど、“A級・S級を狙う”という現実の前では、あまりにも正しい。
「これからパイロットになる子たちに、乗務員は道具ではなく、仲間だって伝える――そのきっかけになりましたから」
そう言いながら、エリンはふと思い出す。
かつて自分が、乗務員であることを誇りながらも、同時に“便利な人員”として扱われた場面が何度もあったことを。
そして、それを一度も感じさせない距離で――「仲間」として見てくれた存在がいたことを。
ブライアンは鼻で笑うような息を吐いた。
「……その為だけに来たわけではあるまい」
エリンの指が一瞬止まった。
図星を突かれた時の、ほんのわずかな動揺。隠したつもりでも、相手がブライアンなら拾われる。
「カオルを見に来たのだろう?」
ブライアンはそう言って、教室の出口を顎で示した。もうカオルの姿はない。それでも、話題にするには十分だった。
エリンは一度、視線を落としてから、静かに頷く。
「……それも、あります」
誤魔化さなかった。
誤魔化せば、逆に相手の警戒を招く。ブライアンはそういう男だ。
ブライアンは壁にもたれ、腕を組み直す。
「安心しろ。あいつは必ず――リュウジを超えるパイロットにしてやる」
断言。
誰かを励ますための言葉じゃない。自分が背負う覚悟の宣言だ。
エリンは、返事に迷った。
“超える”という言葉は、刃にもなる。
比較は成長を促す一方で、心を折ることもある。
しかも、リュウジという名は――彼にとっても、カオルにとっても、簡単に扱える軽さじゃない。
「……そうですか……」
エリンは、やっとそれだけ言った。肯定でも否定でもない。受け止めるだけの言葉。
ブライアンは、エリンの反応を見て口元を歪めた。笑ったわけではない。どこか、試すような顔だ。
「なぁ、エリン。リュウジの“やりたい事”については聞いているのか?」
その質問が来ることは、予想していなかったわけじゃない。
でも、心の準備はできていなかった。
エリンは胸の奥で小さく波立つものを感じる。
あの子が“S級を返上した理由”。
“区切り”だと、本人は言った。
そして「やりたい事を見つけた」と――あのいつも距離を置く男が、珍しくまっすぐに言った。
それだけで十分だった。
“何を”やりたいのかは、聞かなかった。聞けなかった。
「……いいえ。聞かないようにしています」
エリンは正直に答えた。
ブライアンは眉を上げる。
「ほぉ。お前が?」
意外だ、という声だった。
エリンは、少しだけ苦笑する。自分でも意外だから。
「……聞いてしまったら、口出ししてしまいそうで」
それは弱さの告白に近い。
元チーフパーサーとして、危険を見過ごすのは苦手だ。
宇宙の仕事に関わってきた人間として、“無謀”や“無茶”の匂いには敏感だ。
だから、もし彼のやりたい事が、少しでも危うい方向に見えたら――止めたくなる。手を伸ばしたくなる。理屈を並べたくなる。
でも、それは彼の人生のハンドルを奪う行為だ。
リュウジが“自分で進む”と決めたのなら、支える側がやるべきことは――支える距離を守ること。
それをエリンは、ようやく理解し始めていた。
「……お前らしい。いや、らしくない、か」
ブライアンは呟いた。
そして、少しだけ声のトーンを落とす。
「リュウジは、誰にも見せないところで決める。
決めたら、簡単に揺れない。
だからこそ――周りが勝手に心配して、勝手に口を出して、勝手に縛る」
言外に、誰のことを指しているのかが透ける。
エリンは、視線を上げた。
「……だから、私は聞かないんです」
エリンは自分に言い聞かせるように言った。
「彼が決めた区切りは、彼が作ったものです。
私が確認して、評価して、許可するものじゃない」
ブライアンは鼻で息を吐いた。
「だが、支える気はあるんだろ」
エリンは少し黙った。
“支える”という言葉の重みを、噛みしめる。
支えたい。
でも、支えるという名のもとに、相手の選択を誘導したくない。
ただ、困った時に“戻れる場所”として在りたい。
「……あります」
エリンは小さく頷いた。
「彼が転びそうな時、手を差し出す準備はしています。
でも、手を引っ張って進ませるつもりはありません」
ブライアンは一瞬だけ目を細めた。
その表情は、評価とも、理解ともつかない。
ただ、納得した時の沈黙に近かった。
「……今日の話、カオルにも効いたはずだ」
ブライアンは、教室の出口を見た。
もう誰もいない廊下。
けれど、確かに“残響”は残っている。
「俺は操縦を教える。
お前は――操縦以外で生き残る術を教えろ」
その言い方は乱暴だったが、頼みとしては真っすぐだ。
エリンは、少しだけ笑った。
「……命令口調ですね」
「悪い癖だ」
ブライアンはあっさり認める。
その瞬間だけ、二人の間に妙な軽さが生まれた。
エリンは鞄を肩にかけ、出口へ向かう。
教室を出る直前、エリンは足を止めた。
「ブライアンさん」
「ん?」
「……カオルのこと、お願いします」
エリンの声は、仕事の声ではなかった。
もっと個人的で、静かな願いだった。
ブライアンは、振り返らないまま片手を上げた。
「任せろ。……必ず、だ」
短い返事。
それだけで、十分だった。
廊下に出ると、遠くから訓練の機械音が聞こえる。
ここは未来のパイロットたちの場所だ。
そして、リュウジは――もうそこから別の道へ歩き出している。
(やりたい事……)
エリンは心の中で呟く。
聞かない。聞けない。
でも、願ってしまう。
どうか、その“やりたい事”が、彼を救うものでありますように。
悲劇のフライトの残り火を、静かに消してくれるものでありますように。
エリンは歩き出した。
風のない廊下を、まっすぐに。
――聞かない代わりに、いつでも帰って来られる場所を作る。
それが、今の自分にできる“信頼”の形だと信じながら。