帰路の宇宙船は、行きよりも少しだけ静かだった。
木星での二泊三日は濃すぎるほどで、身体は疲れているはずなのに、頭の中だけが妙に冴えている。窓の外に広がる星々を見ても、どこか現実味が薄い。サヴァイヴで空を見上げていた頃とは違うはずなのに――同じ“宙”というだけで、脳の奥が昔の匂いを引っ張ってくる。
「……暑い」
リュウジは小さく呟き、シートベルトを外した。座席にずっと座っていると、肺の奥がもぞもぞする。単に気分の問題なのかは分からないが、こういう時は歩いた方がいい。
通路に出ると、エンジンの低い振動が足裏から伝わってくる。乗客は半分ほどが席に残り、残りは売店の方へ行ったり、窓際で写真を撮ったりしている。学生たちは、修学旅行の最後の勢いを捨てきれず、小声で笑ったり、記念のカードを見せ合ったりしていた。
リュウジはその横をすり抜け、フロアをゆっくり歩く。視線だけで周囲を確認する癖は、完全には抜けない。危険があるわけではないが、“見ておく”という動作が勝手に身体に馴染んでしまっている。
すると、前方から小走りの足音が近づいてきた。
乗務員だ。制服の色が、この便の航空会社のものとは少し違う。けれど、歩き方に覚えがある。あの、落ち着きがあるようで、どこか弾むような――。
「リュウジさん?」
声をかけられ、リュウジは自然に足を止めた。
「……ククルか」
燃えるような赤髪をポニーテールに結んだ、快活そうな女の子。近づいてきた彼女は、息を整えながらも目を輝かせていた。制服は確かに違うが、首元のバッジと仕草で分かる。応援乗務だ。
「お久しぶりです! えっと、驚きました。まさかこの便で会えるなんて……!」
「どうしたんだ。ここはハワード財閥系列の旅行会社じゃないだろ」
リュウジがそう言うと、ククルは「はい!」と勢いよく頷いた。
「そうなんですけど……この会社、ハワード財閥の旅行会社とパートナーシップを締結しているんです。それで、応援として何名か派遣されてて……私もその一人で」
「なるほど。それで応援に来たのか」
「はい!」
ククルは笑顔のまま、少しだけ首を傾げる。
「それにしても……リュウジさんが修学旅行って、なんか違和感ありますね」
言った直後、ククルの顔色が変わった。
「あっ、ち、違います! その……おかしいとか、馬鹿にしてるとかじゃなくて……!」
両手をわたわたと振って訂正しようとする。勢いが良すぎるところは相変わらずだ。
リュウジは、思わず口元に笑みを浮かべた。
「別に構わない」
「……す、すみません」
「俺も自分でそう思う」
ぽつりと付け足すと、ククルは一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。張り詰めていたものがほどけた笑いだ。
「ですよね。なんか……不思議です」
リュウジはククルの足元をちらりと見た。小走りで来た割に、今は落ち着いて立っている。呼吸も整えるのが早い。
「今回は走ってないんだな」
「へ?」
ククルが間抜けな声を出す。リュウジは淡々と続けた。
「昔、応援に行った便で走って、子どもとぶつかって……パニックになったことがあっただろ」
ククルの頬が少し赤くなった。思い出したらしい。
「……ありましたね。あの時は……本当に……」
ククルは小さく笑い、視線を落とす。
「ペルシアさんに助けられました」
「暴れてたけどな」
リュウジがそう言うと、ククルは「うっ」と詰まり、すぐに苦笑した。
「……暴れてましたね……。でも、私のために、あそこまで怒ってくれる人がいたの、嬉しかったんです」
その言葉は軽くない。ククルの声は、いつもの弾む調子のままなのに、芯がある。リュウジは一瞬だけ、昔の班の空気を思い出した。
タツヤ班長。エリン。ペルシア。
あの班は、厳しさと温かさが同居していた。誰かが転びそうになったら、叱るより先に手が伸びる。その手を伸ばした本人が、あとで「自分で立て」と言うような――そんな人間ばかりだった。
「タツヤ班長も、エリンさんも、ペルシアも……あの班は、みんな守ってくれたな」
リュウジが呟くと、ククルはすぐに頷いた。
「はい。本当に……あの班のメンバー、大好きでした」
“でした”という言い方が、ほんの少しだけ胸に引っかかる。過去形にするには、まだ近い。けれど、きっとククルなりに区切りをつけて進んでいるのだろう。
リュウジは、通路の先を見た。乗客が数人、窓側に寄って景色を見ている。修学旅行の学生たちが、写真を撮り合っている。普通の光景だ。
「……今の仕事はどうだ」
リュウジが聞くと、ククルは表情をぱっと明るくした。
「楽しいです! 大変なこともありますけど……前より落ち着いて対応できるようになった気がします。前は、何かあるたびに焦って、声も大きくなって……」
「自覚はあるんだな」
「ありますよ!」
ククルは胸を張る。
「ペルシアさん、口は悪いけど……ちゃんと見ててくれてたんだなって思います。怒られたのも、今なら分かります」
「……それならいい」
リュウジが淡々と言うと、ククルは少しだけ表情を柔らかくした。リュウジの言葉が褒め言葉に近いことを、ちゃんと理解している。
そして、ククルは思い出したように身を乗り出した。
「そういえば! 聞いてください!」
リュウジは眉を上げる。ククルは嬉しさを抑えきれない顔だ。
「エリンさん、副パーサーに上がったんですよ! たった数ヶ月なのに! すごくないですか!?」
その言い方は、誇らしげだった。まるで自分のことみたいに。ククルにとってエリンは、ただの上司ではなく“道しるべ”に近い存在なのだろう。
リュウジは即答した。
「エリンさんなら、不思議じゃないだろ」
「ですよね!」
ククルは何度も頷く。
「私、最初聞いた時、びっくりしたんですけど……でも考えたら、そりゃそうだって。あの人、現場の空気を読むのも早いし、困ってる人を見つけるのも早いし……何より、乗客を安心させる声があるんです。あれ、真似しようとしても真似できなくて……」
ククルの言葉が熱を帯びていく。リュウジはその熱量を聞きながら、静かに頷く。エリンの声は確かに、ただの技術ではない。経験が刻まれている声だ。危険を知っているから、怖がらせずに伝えられる。
「……お前も、いいところで学べてる」
リュウジがそう言うと、ククルは少し照れたように笑った。
「えへへ……。でも、私、まだまだです」
「その方がいい」
「はい!」
ククルは元気よく返事をし、ふと時計に目を落とした。勤務中なのを思い出したらしい。すぐに姿勢を正す。
「あっ、すみません! 私、そろそろ担当区画に戻らないと……」
「行け」
「はい!」
ククルは一歩下がり、丁寧に頭を下げた。前よりも“形”が整っている。さっきまでの小走りはどこへ行った、と思うほど、今は落ち着いた乗務員の動きだ。
「……リュウジさん」
去り際に、ククルがもう一度だけ呼びかけた。
リュウジが視線を向けると、ククルは少しだけ真面目な顔になった。
「修学旅行……変だって言っちゃいましたけど。……なんか、いいですね」
「何がだ」
「リュウジさんが、ちゃんと学生してるの。……それ、見れて良かったです」
その言葉は、褒めるための言葉ではない。安心した、という声に近かった。リュウジは一瞬だけ言葉に迷い、そして短く返した。
「……そうか」
ククルは満足そうに笑い、「失礼します!」と今度こそ職務モードで小走りに去っていった。
リュウジは、しばらくその背中を見送ってから、通路の窓に映る自分の顔を見た。
学生。修学旅行。
自分の口から出ると、やはりまだ違和感はある。
――けれど。
誰かがそれを「いい」と言った。
そして自分も、どこかでそう思い始めている。
リュウジは小さく息を吐き、歩き出した。席へ戻るために。
“普通”の帰路へ戻るために。
ーーーー
六月に入ると、ロカA2の空は妙に重たくなった。
コロニーの気象制御は本来、安定しているはずなのに、ここ最近は雨の日が続いている。窓の外に広がる空は薄い灰色で、ガラスに落ちる水滴が一定のリズムで流れていく。誰かが「梅雨の設定なんじゃない?」と笑っていたが、確かにそんな感じだった。
放課後、メノリは生徒会室の机に肘をついて、書類の束に赤ペンを入れていた。時計はもうすぐ十九時。外は雨のせいで薄暗く、廊下の灯りがやけに白く見える。
ふいに、端末が震えた。
表示された名前に、メノリは一瞬だけ目を細める。
「……ハワード」
通話ボタンを押す。
『メノリ! 今、いいか!?』
耳元に飛び込んできた声は、いつもより少し高い。テンションが高いようで、どこか息が浅い。興奮と不安が混ざった声――メノリは、すぐにそう判断した。
「落ち着け。どうしたんだ」
『いや、落ち着いてるよ!? 落ち着いてるんだけどさ! ……明日なんだよ、正式に“外”の人が来るの』
外。――演劇の学校の関係者か、父親の知り合いの元役者か。それとも、編入先の面接に近い何か。
メノリはペンを置き、背筋を伸ばした。
「……見せるのか」
『うん。僕の“今のやつ”を。……やばいよね?』
「やばくない」
即答すると、ハワードは一拍だけ黙った。
『……そういう即答、ずるい』
「ずるくない。お前が不安なのは、分かる。だが不安=駄目じゃない」
『……でもさ、笑われたらどうしようって』
「お前の演技を笑うやつは、見る目がない。以上だ」
『メノリってさ、ほんと強いよね……』
「強くない。必要なことを言ってるだけだ」
メノリは窓の外に視線をやった。雨粒がガラスを滑る。静かで、冷たくて、落ち着く音だ。
「それで、今日は何があった」
『あっ、それ! 聞いてよ!』
途端に声の色が変わる。ハワードらしい。
『テーブルマナー、褒められた!』
「……テーブルマナー?」
『うん! ほら、僕、財閥の家だからさ。そういうのだけは身体に染みついてるじゃん? で、今日の昼にさ、指導の人と一緒に食事する機会があって……』
メノリは「ふっ」と鼻で笑いそうになり、堪えた。
「それは“だけ”じゃないだろ」
『え?』
「お前が努力してるのを、私は知っている。礼儀だって、形だけじゃ身につかない」
電話の向こうで、ハワードが「……うっ」と詰まった気配がした。褒められるのに慣れているはずなのに、メノリから言われると照れる――それも、もう何度目だろう。
『でもさ、マナー褒められても、演技は別じゃん……。演技の方は、まだ“何か違う”って言われるんだよ』
「何が違うと言われた」
『……“守りに入る”って』
メノリの目が細くなる。
「当たっている」
『えっ、味方してくれるんじゃないの!?』
「味方だから言う。守りに入ると、声も身体も小さくなる。お前は普段、でかいのに」
『でかいって言うな!』
「事実だ」
メノリは机に指を軽く打ち、言葉を選ぶ。感情論ではなく、ハワードが“次に動ける言葉”を。
「守りに入るのは、失敗したくないからだろ」
『……うん』
「失敗しろ。演技の失敗は、命を失わない」
ハワードが小さく息を吸う音がした。
『……それ、リュウジみたいな言い方』
「私は私だ」
『でも、ちょっと救われた……』
メノリは続ける。
「お前は今、“評価される場”に立とうとしている。怖くて当然だ。けれど、怖いからこそ、やる意味がある」
『……メノリ、なんでそんなに分かるの』
「分かる。私も同じだったからだ」
ヴァイオリン。生徒会長。名家の娘としての期待。
“やりたい”と“求められる”の間で、何度も揺れた。
「お前は、お前の舞台に立つ。――それだけだ」
『……うん』
声が少し落ち着いた。呼吸も深くなっている。
『じゃあさ、明日……僕、やってくる。ちゃんと、守らないでやる』
「それでいい」
『メノリ、ありがと。……電話して良かった』
「くだらないことで折れるな」
『それ、励まし!?』
「励ましだ」
ハワードが笑う。雨音に混ざって、遠くなる緊張が分かる笑いだった。
『あ、そうだ。マナー褒められたからさ……今度、メノリにも見せてやるよ。ちゃんとナイフとフォーク使える僕を』
「今さらだ。私は知っている」
『え、いつ見た!?』
「ブライアンさんの壮行会の時だ。覚えてないか?」
『……覚えてない! なんで僕、肝心なとこ覚えてないんだよ!』
「そういうところだ」
メノリは小さく笑ってしまった。笑うつもりなどなかったのに、勝手に口元が緩む。
「ハワード」
『なに?』
「明日が終わったら、また連絡しろ。結果じゃない。お前がどう感じたかを聞かせろ」
『……うん。分かった。メノリ、約束ね』
「約束だ」
通話が切れる。
メノリは端末を机に置き、窓の外を見た。雨は相変わらず降っているのに、さっきより暗さが気にならない。
――背中を押す。
簡単な言葉じゃない。けれど、ハワードは押されるだけの価値がある。押された分だけ、踏み出せるやつだ。
メノリは赤ペンを取り直し、書類に視線を戻した。
雨音の向こうで、どこかのコロニーの誰かが、明日の舞台に向けて息を整えている。そんな気がした。
ーーーー
生徒会室の空気は、夜になると急に薄くなる。
蛍光灯の白い光が机の上の書類だけを照らして、窓の外の雨音が、やけに近く聞こえた。メノリは最後のチェック欄に赤ペンで印をつけると、書類を丁寧に揃え、クリップでまとめた。
「……よし。ここまでだな」
軽く背伸びをして、肩の力を抜く。端末の電源を落として帰り支度を――そう思った、その時だった。
画面の端に流れた“おすすめニュース”の見出しが、目に刺さった。
【宇宙管理局の闇――危険任務の裏に“民間組織”の影】
「……なんだ、これは?」
反射でタップする。
読み込みの円が回り、本文が表示された瞬間、メノリは息を止めた。
文字が、やけに具体的だった。
“任務統括官”“宇宙ハンター”“スターフォックス”“スターウルフ”“医療船や輸送船を最前線に派遣”――
どれも、表に出るはずがない。少なくとも、ここまでの粒度で出ていい話ではない。
「……っ」
ページをスクロールする指が止まる。
ある一文が目に入った瞬間、全身が冷えた。
――《元S級パイロットであったリュウジ氏に対し、要請に応じた責任を擦りつけようとした疑い》――
机の上の空気が、凍る。
「ふざけるな……」
メノリは端末を握りしめ、勢いよく通話履歴を開く。
リュウジの名を押す。
呼び出し音。
……繋がらない。
もう一度。
また、繋がらない。
「何故、あの男は電話に出ないんだ!」
喉の奥から怒りがせり上がる。けれど、ここで怒っても何も変わらない。メノリは深く息を吸い、吐き、心拍を落とす。
――次。
メノリは連絡先からルナを選び、通話をかけた。
『メノリ? どうしたの?』
すぐに出た。ルナの声にはいつもの柔らかさがある。でも、メノリの息遣いの硬さを感じ取ったのだろう、次の言葉が早い。
『……なにかあった?』
「ルナ、大変だ。すぐにネットニュースを見てくれ」
『分かったわ! チャコ!』
ルナの向こう側で、椅子の脚が鳴る音。すぐにチャコの声が割り込んできた。
『どないしたんや、ルナ』
『メノリが……ニュース見ろって。すぐに、ネットニュース』
『ちぃと待っとれ。……どれや?』
「“宇宙管理局の闇”だ。見出しにそう書いてある」
『……あ、出たわ。チャコ、それ』
しばらくの沈黙。
ページを開く指の音すら、こちらに届きそうなほど静かだった。
そして――
『なんやこれ!?』
チャコが叫んだ。
メノリの背筋が、さらに冷たくなる。
『……これって』
今度はルナの声。小さく、震えている。
「記事の内容、聞こえた。宇宙ハンターを集めてスターフォックスを設立、ブライアン捜索任務でスターウルフと関与、医療船や輸送船を最前線に……」
『ペルシアさん……』
ルナが呟いた瞬間、メノリの中で点と点が繋がった。
確かに、ペルシアがやった“現場判断”のいくつかは、外から見れば黒に寄る。
だが――“この精度”はおかしい。
チャコが画面を読み進めながら、怒鳴る。
『誰がこんな……! これ、内部の資料やないと書けへんやろ!』
『チャコ、落ち着いて』
ルナが言う。声は震えているのに、落ち着かせようとする言葉の形は、もう“リーダー”のそれだ。
「ルナ、どう思う?」
メノリが問うと、ルナは迷いなく答えた。
『おかしいわ』
『……どこが?』
『確かに、ペルシアさんがやったこと“自体”は書かれてる。だけど、正確すぎるの。時系列も、用語も、内部の呼び方まで。外の人が推測で書けるレベルじゃない』
ルナが息を吐き、続ける。
『それに……“リュウジに罪を擦りつけようとした”って一文。あれ、誰も知らないはずよ。少なくとも――私たちが知ってる範囲では』
「つまり、内部告発者がいる可能性が高い、ということだろ」
メノリが言うと、ルナは少し言葉を選んだ。
『……そこまでは断言できない。でも“内部の情報が外に出てる”のは確かだと思う』
『せやな。しかも、狙いが悪いわ。ペルシアの名前が出て、最後にリュウジに“擦りつけ”って――世論の矛先を、綺麗に作ってる』
チャコの声が低くなった。冗談を言う時の軽さが消えている。
『メノリ、リュウジには連絡したんか?』
「電話はしたが繋がらない。ルナからもかけてみてくれ。頼む』
『ええ、分かったわ』
ルナの端末の操作音。
呼び出し……しかし、同じだ。
『……出ない』
ルナの声が少し掠れた。
メノリは歯を食いしばり、冷静を装う。
「チャコ、ラスぺランツァのメンバーに確認できるか」
『任せぇ。ウチも聞くわ』
チャコの指が動く音。ルナの向こうで、メッセージ送信の小さな電子音が鳴った。
『……送った。エリンとマリとサツキ……あと、クリスタルにも飛ばした』
「……ペルシアさんは?」
『今んとこ、返事ない。てか、記事のせいで端末止めてる可能性もある』
『ペルシアさん……』
ルナが小さく言った。
その声に、メノリは思う。
ルナは優しい。だからこそ、余計に傷つく。
リュウジのことだけじゃない。ペルシアやエリン、タツヤ班長――“守ってくれた大人”が壊されるのを見るのは、きっと耐えがたい。
メノリは声を強くする。
「ルナ、今は感情を優先するな。やることを決める。まず、リュウジの居場所を確認する」
『……うん』
「次に、情報源がどこか。少なくとも“学生”が介入できる範囲じゃない。だが、放っておけばリュウジが巻き込まれる。あいつは――」
言いかけて、メノリは止めた。
あいつは“断る”男だ。
自分の正しさのために、平気で嫌われ役を引き受ける。
そんな男が、今このタイミングで端末を取らないなら――。
「……嫌な予感がする」
『メノリ?』
「リュウジが、何かを一人で抱え込んでる可能性がある」
ルナはすぐに言った。
『私、今からリュウジの家に行く』
「一人で行くな。危険だ。――私も行く」
『でも、もう夜も遅いし――』
「そんなもの、今は関係ない」
メノリは机の上の書類を一瞥した。整えた紙の束が、妙に無力に見える。
「ルナ、家から出る前にチャコと確認しろ。誰かが張っている可能性がある。ニュースになったなら、記者が動いてもおかしくない」
『……分かった。チャコ、外、見られる?』
『せやな。ちょい待ち。」
チャコが得意げに言って、すぐに真面目な声に切り替わる。
『……いま外の監視カメラ、覗く。……うん、今んとこ不審者なし。雨で人も少ないわ』
メノリは立ち上がり、鞄を掴む。
「私は今すぐ出る。ルナは玄関で待ってていてくれ。合流してから動く」
『了解』
その瞬間、チャコが短く息を呑んだ。
『……返事来たで』
「誰だ」
『エリンや。』
チャコが画面を読む。
『リュウジに繋がらないなら、こっちでも確認する。ペルシアには――私も連絡が取れてない”……やって』
ルナが小さく息を吸う音がした。
『エリンさんでも繋がらないの……?』
『せや。ほんで、マリも来た』
チャコが続ける。
『“宇宙管理局内も大騒ぎだ。だが、リュウジが動いているなら止めるな。あいつは止まらない”って』
メノリは眉をひそめる。
「マリさんがそう言ったのか」
『せや。……なんか、嫌な感じや』
チャコの声が少し低い。
『あの人、冗談言う時でも“止めるな”なんて言い方せぇへん』
メノリは、短く結論を出した。
「行くぞ」
『うん』
ルナの返事は短い。でも、その短さが決意を示している。
通話を切ろうとした、その直前――
ルナが、ふと思い出したように言った。
『メノリ……これ、リュウジのS級パイロットの返上と関係あると思う?』
――S級を返上したばかり。
宇宙管理局から距離を取った、その矢先にこのニュース。
偶然とは思えない。
メノリは、迷いなく答えた。
「関係ある可能性は高い。だからこそ、急ぐ」
『……うん。待ってるわ』
通話が切れる。
メノリは生徒会室の電気を消し、廊下に出た。
雨音が、外の世界の不穏さを増幅させる。
――電話に出ない男。
――精度が高すぎる記事。
――繋がらないペルシア。
――そして、“止めるな”というマリの言葉。
胸の奥が、嫌に冷たい。
メノリは走り出した。
雨に濡れるのも構わない。今は、一秒でも早く――リュウジの元へ。
その頃、ルナの家では――チャコがもう一度画面を更新し、低い声で呟いていた。
「……最悪や」
ルナが顔を上げる。
「なに?」
チャコは、画面の一行を見せる。
記事は、更新されていた。
【続報:関係者の匿名証言――“元S級パイロットは全てを知っていた”】【宇宙管理局、近日中に聞き取り開始か】
ルナの喉が鳴った。
「……リュウジ」
その名を口にした瞬間、胸の奥の何かが、音を立てて崩れた気がした。
ーーーー
雨の粒が、コロニーの夜景をぼやかしていた。
メノリと合流したルナは、チャコを抱えたまま小走りで住宅区画の通路を進む。湿った空気の匂いが、胸の奥にまとわりつくようで落ち着かない。
「……ここだ」
リュウジの部屋の前。ルナが息を整えるより先に、メノリがインターホンを押した。
反応はない。
もう一度。
――無音。
メノリの眉間がきつく寄る。
「……何をしているんだ、あの男は!」
「メノリ、口が悪いわよ……」
ルナが小さくたしなめると、チャコが腕の中でもぞりと動いた。
「しゃあない、ウチがジャックして開錠したろか?」
「やめなさい、泥棒じゃないのよ」
「せやけどなぁ……。電話にも出ぇへん、ニュースは燃えとる、本人の家の前でインターホン押しても出ぇへん。これ、普通に“ヤバい”やろ」
チャコの関西弁が、冗談みたいに軽く聞こえない。
ルナは玄関扉を見つめた。鍵がかかっているのが、妙に頑固な意思みたいで、胸がざわつく。
メノリが腕を組む。
「……もう少し待つ。無理矢理は最後だ」
「最後って言葉、今は聞きたくないなぁ」
チャコがぼそりと零す。
ルナは、その“最後”が何を指すのか分かってしまいそうで、口の中が乾いた。
――その時。
通路の奥から、靴音がした。規則正しく、濡れた床を踏む音。
3人は息を止めるように振り返る。
角から現れたのは、フードを被った男だった。
顔が見えた瞬間、ルナの肩がほっと落ちるのと同時に、怒りみたいな熱が喉元まで上がってくる。
「……ルナ?」
リュウジは平然とした声で言った。
その平然さが、逆に怖い。何も知らないのか、知っていて隠しているのか――どっちでも最悪だ。
「それにチャコと、メノリ……こんな時間に何かあったのか?」
ルナが説明しようと口を開いた、その瞬間。
「お前は今まで何をしていたんだ!!」
メノリの声が通路に響いた。
リュウジが一瞬、目を瞬かせる。メノリの続きがさらに鋭い。
「電話にも出ないで! ――どれだけ心配したと思ってる!」
「メノリ、落ち着いて。近所迷惑だから……!」
ルナが腕を伸ばして止めようとするが、メノリは一歩も引かない。
怒りと焦りが混ざった目が、リュウジを刺す。
リュウジは短く息を吐いた。
そして、玄関の鍵に手をかける。
「……とりあえず、中に入れ」
扉が開く。暖房の薄い熱が外の湿気と混ざり、ぬるい風が頬に触れた。
ルナは足を踏み入れながら、部屋の中の様子を一瞬で探る。乱れてはいない。荒れた気配もない。けれど、空気が妙に“静かすぎる”。
リュウジが扉を閉め、背を向けたまま言う。
「で。何があったんだ?」
その声は淡々としている。まるで“今起きている世界”と少し距離があるみたいに。
ルナは深呼吸し、言葉をまとめる。
「ネットニュース。『宇宙管理局の闇』って――」
チャコが言葉を継ぐ。
「ペルシアがやっとったこと、内部レベルの精度で全部書かれとる。ほんで最後に、リュウジに罪を擦りつけようとした、とか、そんな一文まである」
メノリが携帯端末をリュウジの前に突き出した。
「これを見ろ。……信じられないだろう? だが出ている」
リュウジが画面を受け取る。
読み進める目が、ほんの少しだけ鋭くなり――次の瞬間、彼の表情が割れた。
「……そんな事が起こっていたのか!?」
驚き。
それは演技の“驚き”ではなく、心底知らなかった人間の反射だ。
ルナは、胸の奥がぎゅっと締まるのを感じた。
――本当に、何も知らなかった。
だからこそ、なおさら怖い。知らない間に、巻き込まれていく。
「……どう思う?」
メノリが低く問う。
リュウジは画面を閉じ、端末をテーブルに置いた。
そして短く、断言する。
「誰かがペルシアを陥れようとしてる。……それは確かだ」
チャコの耳がぴくりと動く。
「やっぱり、そう思うか」
「この精度は異常だ。外の人間が書ける内容じゃない。内部から漏れてる」
リュウジが眉をひそめる。
その顔に、ほんのわずか“焦り”が滲む。
「こうなったら本人に聞くしかない」
そう言って、リュウジは携帯を取り出した。
指が迷いなく動く。表示された名前――ペルシア。
コール。
……繋がらない。
もう一度。
……繋がらない。
さらに。
……繋がらない。
呼び出し音が、部屋の静けさを削っていく。
ルナは、リュウジの横顔を見つめた。指先が、いつもより強く端末を握りしめている。
「……くそ」
低い声。
リュウジが、こんなふうに感情をこぼすのをルナはほとんど見たことがない。
メノリも息を呑む。
チャコが口を挟む。
「無理や。エリンが何回も電話しても出ぇへんのや」
リュウジの視線が跳ねた。
「……エリンさんが?」
「せや。ウチがさっき聞いた」
リュウジは一瞬、奥歯を噛むような顔をして――それから、急にルナを見た。
「ルナ。ペルシアに電話をかけてくれ」
「え……?」
「……頼む」
その“頼む”は、命令じゃなかった。
頼らない男が、追い詰められて、必死に差し出した言葉だった。
「う、うん……!」
ルナは端末を握り直し、ペルシアの連絡先を呼び出す。
チャコがぼそりと言う。
「いくらルナが好かれとる言うても、出ぇへんやろ……」
ルナは返事をせず、通話ボタンを押した。
コール。
コール。
コール。
――やっぱり、繋がらない。
そう思いかけた、その時。
『ルナちゃん、やっほー♪』
明るい声が、あまりにも“いつも通り”に耳へ飛び込んできた。
「ぺ、ペルシアさん!?」
ルナの声が裏返る。
チャコが目を丸くする。
「出たんか!?」
メノリも、信じられないものを見るように端末へ視線を寄せた。
『どうしたの? ルナちゃんが電話くれるなんて嬉しいわ。新学期どう? 元気にしてる?』
その軽さが、逆に胸を刺す。
――この人は本当に変わらない。
変わらないまま、どれだけのものを背負っているのだろう。
ルナが言葉を探していると、リュウジが堪えきれず口を挟んだ。
「おい、ペルシア。俺だ」
空気が変わる。
ペルシアが一瞬、息を止めたような間があって――それから、わざと明るく言った。
『あー、リュウジも一緒よね。声で分かったわ』
「どういうつもりだ。エリンさんや俺の電話にも出ないで!」
リュウジの語気が強い。
ルナは思わず、端末を持つ手に力が入る。
『電話に出ないのは、リュウジには言われたくないわね』
「……っ」
リュウジが口籠る。
ペルシアが、くすりと笑う。けれど、その笑いはどこか薄い。
「おい!」
『分かったわよ。少しだけ。私も忙しいんだから』
リュウジが、息を吐いて声を落とした。
「何があった。大丈夫なのか?」
返事がない。
沈黙が、数秒。
そしてペルシアが、急にトーンを下げた。
『……ネットニュース、見ちゃったのね』
「ああ。だから聞いてる。大丈夫なのか」
『ねぇ、リュウジ』
呼ばれた名前が、妙に遠い。
ペルシアの声が、静かに揺れる。
『最近、時々思うのよね。ドルトムント財閥にいた頃が、一番楽しかったなって』
リュウジの表情が、少しだけ緩む。
「……そうだな」
『タツヤ班長がいて、エリンがいて、あんたがいて。ククル、カイエ、エマがいて……』
ルナは、その名前の連なりに、胸が熱くなるのを感じた。
“仲間”と言える人たちの輪。その中心に、確かにペルシアはいた。
『あの時は毎日が幸せだった。……でも私は、ドルトムントの組織に嫌悪して。皆を守るために宇宙管理局に転職したの』
「そうだったな……俺も、そう思う事がある」
リュウジの声が、少し掠れる。
『あの時は楽しかったなぁ』
ペルシアの声が震えた。
“泣いている”のではない。泣くことすら許さないように、自分の声を押さえつけている震えだ。
『でもね。後悔はしてない』
リュウジが、焦るように言う。
「……ペルシアが、後悔したことがあったのか?」
『ないわね』
即答。
それが痛いほど強がりに聞こえる。
『最後に、エリンやリュウジ、タツヤ班長を救えたんだもん。もう満足よ』
その言葉に、ルナの背筋が冷えた。
“満足”――その言い方は、まるで終わりを決めているみたいで。
「ペルシア! 何とかしてやる! 何があった、どこにいる!」
リュウジの声が跳ねる。
彼の焦りが、部屋の温度を一気に下げる。
『ありがとう。でも、リュウジはやりたい事があるんでしょう?』
ペルシアが静かに言う。
『首を突っ込まなくていい事があるのよ』
「……しかし!」
『もうS級でもないんだから、無茶しなくていいのよ』
「ペルシア……!」
リュウジの声が、怒りと懇願の間で揺れる。
彼は今まで、誰かにこれほど必死になっただろうか。ルナは、胸の奥が痛くなった。
ペルシアが、少し笑う。
でも、その笑いは寂しさを隠すための薄い膜だ。
『そうだ。エリンに“ごめんね”って伝えて』
「おい!」
『じゃあ、もう時間だから』
「ペルシア!!」
リュウジの叫びが重なる。
しかしペルシアは、最後にだけ、ふっと柔らかい声を落とした。
『やっぱり……エリンの言うとおり、リュウジは優しいね』
その一言で、リュウジの喉が詰まったのが分かった。
強い男の声が、言葉にならない。
『ありがとう、リュウジ』
そして、ペルシアは――
『……ルナちゃんも。ありがと』
「ペルシアさん――!」
ルナが叫ぶより早く、通話は途切れた。
ツー、ツーという無機質な音だけが残る。
しばらく誰も動けない。
雨の音だけが、遠くで続いている。
「……」
リュウジは端末を見つめたまま、拳を握りしめていた。指の関節が白い。
それでも、彼は何も言わない。
ルナは震える息を吐き、端末を胸元に抱え込む。
あまりにも“いつも通り”で、あまりにも“終わりみたい”な声だった。
チャコが、低い声で呟いた。
「……これ、あかんやつや」
メノリが唇を噛む。
「……リュウジ」
リュウジはゆっくり顔を上げた。
その目は、さっきまでの平然さが嘘みたいに燃えている。怒りと恐怖と――それ以上に、守れなかった悔しさが混ざった目。
「……探す」
短い言葉。
でもそこに、決意が詰まっていた。
「俺は、もうS級じゃない。……だからこそ、“勝手に守られる側”にはならない」
ルナの胸が、熱くなる。
それは怖さではなく、胸の奥のどこかが奮い立つ熱だった。
「リュウジ……」
ルナが小さく呼ぶと、リュウジは一瞬だけ視線を揺らし、すぐに戻す。
「ルナ、チャコ。メノリ。……今夜は帰れ。危ない」
「嫌よ」
ルナは即答した。自分でも驚くほど迷いがない。
「私たちだって、仲間でしょう」
メノリも頷く。
「私も同意だ。放っておけると思うか?」
チャコが、ふっと笑った。
「ほな、決まりやな。ウチらで出来ること、全部やる」
リュウジは、ほんの少しだけ目を細めた。
その表情は“優しさ”よりも、覚悟に近い。
「……分かった」
彼は端末を握り直す。
もう一度、ペルシアの番号を開こうとして――指が止まった。
繋がらない。
分かっているのに、指先が勝手に“かける”方へ行く。
リュウジは歯を食いしばり、端末をテーブルに置いた。
「……くそ」
その声が、さっきよりずっと小さい。
怒りではなく、祈りに近い無力さだった。
ルナは、そっと一歩近づく。
何か言いたいのに、言葉が出ない。
代わりに、チャコが言った。
「リュウジ。ペルシア、ウチらのこと嫌いちゃう。せやから、ルナの電話だけは出た。……つまり、完全に切る気はない」
リュウジが、苦い顔のまま頷く。
「……だからこそ、余計に嫌な予感がする」
メノリが静かに言う。
「“時間だから”……あれは、何の時間だ」
誰も答えられない。
答えが、怖すぎるから。
雨音が、窓を叩く。
その規則性が、まるでカウントダウンみたいに感じられた。
リュウジは立ち上がった。
いつもより背筋がまっすぐで、目の奥が鋭い。
「……今から動く」
ルナは、頷いた。
「うん。私も行く」
チャコが小さく笑って、しっぽを揺らした。
「ウチもや。……今度は、置いてかれへんで」
メノリは短く言う。
「行こう。時間を奪われる前に」
そして三人は、リュウジの部屋の中で――確かに同じ方向を向いた。
誰かが仕組んだ“闇”に飲まれないために。
あのいつも明るい声を、二度と“最後”の声にしないために。
「……ペルシア」
リュウジが、祈るように名前を呼ぶ。
返事はない。
それでも、彼の目は折れなかった。
――静かな部屋の中で、ただ一つ。
端末の画面だけが、冷たい光を放っていた。