サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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元S級

 通話が切れた瞬間、ペルシアはしばらく端末を耳に当てたまま動かなかった。

 ツー、ツー、と冷たい音だけが室内に残っているのに、胸の奥ではまだ、誰かの声が反響している気がした。

 

 ――リュウジ。

 ――ルナ。

 ――エリン。

 

 名を呼ぶたび、決めたはずの線が揺らぐ。だからこそ、ペルシアは自分の指先を戒めるように強く握り込んだ。

 

「……終わり」

 

 小さく呟き、ペルシアは歩き出す。

 宇宙管理局の局長室へ続く廊下は、夜間モードの照明に落とされ、白い壁が鈍い灰色に沈んでいた。人の気配はない。監視カメラの赤いランプだけが、規則正しく瞬いている。

 

 ――ここまで来たら、もう戻れない。

 

 扉の前で一度だけ呼吸を整え、ペルシアは静かにノックをした。

 

「……入れ」

 

 低い声。

 

 扉を開けると、局長室は薄暗かった。

 室内灯は半分しか点いておらず、机の上の書類と端末の画面だけが、淡く光っている。局長はいつも通り背筋を伸ばし、椅子に深く腰を下ろしていた。老練な男の目は、疲れと決意を同時に宿している。

 

 ペルシアは局長席の前まで進み、携帯端末をそっと机の上へ置いた。

 まるで、返せない借り物を返すみたいに。

 

 沈黙が落ちる。

 部屋の空調が低い音を立てる以外、何も聞こえない。

 

「……ありがとうございました」

 

 ペルシアは、先に言った。

 声音は落ち着いている。けれど、その奥に細い震えが潜んでいるのを、本人だけが知っていた。

 

 局長が、ゆっくりと目を細める。

 

「もう、いいのか?」

 

 問いは優しい。

 優しいが、それは「引き返せ」という甘さではなく、最後に確認するための硬い優しさだった。

 

「はい」

 

 ペルシアは即答した。

 

「これ以上、話したら……決心が鈍ります」

 

 局長の唇が、かすかに動いた。

 言葉にならない何かを飲み込む仕草。長い間、責任という鎧を着て生きてきた男ほど、こういう時に“言葉”が出ない。

 

 局長は机に置かれた端末に視線を落とし、低く告げた。

 

「今回の件……内部告発者がいるのは確かだ」

 

 ペルシアは、肩をすくめるように笑った。

 笑ったつもりだった。でも頬はひきつり、口角の上がり方が不自然になる。

 

「ええ。知ってる」

 

 局長が眉をひそめる。

 ペルシアは続けた。

 

「それに――」

 

 言いかけて一拍置く。

 薄暗い室内で、言葉の刃だけがやけに輝いて見えた。

 

「……誰がこんなことを仕組んだのか。犯人もね」

 

 局長が息を吸ったのが分かった。

 

「そこまで知っていて……動かないのか?」

 

 局長の声は、責めるものではない。

 むしろ逆だ。責任者として“動け”と言いたいのに、目の前の部下の覚悟を見て、言い切れない。

 

 ペルシアは局長を真っ直ぐ見た。

 そして、冷えた水みたいな声で答える。

 

「証拠がない」

 

 局長の顔が歪む。

 

「ここで私が出張っても、何も変わらない。……変えられるのは、証拠が揃った時だけです」

 

 局長は拳を握った。

 机の端に置かれたペンが、微かに震える。

 

「……私の責任だ」

 

 その言葉には、重さがあった。

 局長という肩書きに押し潰されそうになりながら、それでも言わずにいられない罪の重さ。

 

 ペルシアは首を横に振る。

 その動きは、強くはない。けれど確かだった。

 

「局長は悪くありません」

 

 ペルシアは、少しだけ柔らかく言った。

 

「私が望んで、宇宙管理局に入ったんですから」

 

 局長が目を伏せる。

 長い沈黙の後、絞り出すように言った。

 

「……すまない」

 

「謝らないでください」

 

 ペルシアは笑う。今度は、少しだけ自然な笑みだった。

 けれど目は笑っていない。目だけが、決めた線の上を歩いている。

 

 しばらくして、ペルシアは姿勢を正した。

 ここから先は、感情ではなく“手続き”だ。

 手続きに落とさなければ、覚悟が崩れる。

 

「最後に、お願いがあります」

 

 局長が顔を上げる。

 

「……何だ」

 

 ペルシアは一つ、息を吸う。

 喉の奥が熱い。胸の内側が、ざらつく。

 

「私がいなくなっても――」

 

 その言葉は、局長の瞳の奥を一瞬で凍らせた。

 だがペルシアは止まらない。止まったら、もう言えなくなる。

 

「スターフォックスを、よろしくお願いします」

 

 局長は、目を閉じた。

 まるで痛みをやり過ごすように。まるで、認めたくない現実を飲み込むように。

 

「……分かっている」

 

 たったそれだけ。

 けれど、その一言は誓約だった。局長という男が、口だけで言える言葉ではない。

 

 ペルシアは頷いた。

 そして、もう一つ。

 

「それと……」

 

 指先を軽く握り直す。

 このお願いは、局長の“善意”を利用するものだ。ペルシアはその事実に、胸がちくりと痛む。

 

「ソーラ・デッラ・ルーナに、リュウジが来ると思います」

 

 局長の眉が動く。

 

「……クリスタルに伝えてください。こちらの情報が漏れないように、追い返すように」

 

 局長は数秒、黙った。

 それは葛藤の時間だった。誰かを守るために、誰かを遠ざけるという選択。

 だが局長は、やがて短く頷く。

 

「分かった。約束しよう」

 

 ペルシアの口角が、ほんの少しだけ上がった。

 ああ、今だけは――この人の言葉を信じていい。

 そう思える瞬間が、救いだった。

 

「ありがとうございます」

 

 そう言ってペルシアは踵を返す。

 局長室の扉へ向かい、手を伸ばし――

 

 そこで、止まった。

 

 扉の取っ手に触れたまま、ペルシアは動けなくなる。

 自分でも分かる。これは“躊躇”だ。最後の最後で、心が抵抗している。

 

 局長が、背後から静かに問う。

 

「……ペルシア」

 

 名前を呼ばれただけで、胸がきゅっと縮む。

 ペルシアはそのまま振り返った。

 

 薄暗い局長室。

 机の端末の光が、局長の頬の皺を浮かび上がらせる。責任を刻んだ皺だ。

 その向こうで、局長の目が揺れていた。言いかけて、言えない目だ。

 

 ペルシアは、笑おうとした。

 いつもみたいに、明るく。軽く。

 だけど――

 

 笑えなかった。

 

 代わりに、ペルシアは深く息を吸い込み、背筋を伸ばした。

 そして、局長に向かって深々と頭を下げた。

 

「お世話になりました!!」

 

 声は、はっきりしていた。

 強い声だった。

 強い声にしないと、崩れてしまうから。

 

 その瞬間――

 

 ぽつり。

 

 床に、雫が落ちた。

 

 最初は一滴だけ。

 透明な粒が、暗い床に小さな点を作る。

 

 ぽつ、ぽつ。

 

 続いて、もう一滴。

 まるで、言葉にならなかった感情が、代わりに落ちていくみたいに。

 

 局長は立ち上がらない。

 立ち上がってしまえば、止めてしまうかもしれない。

 止めてしまえば、彼女の覚悟を否定することになる。

 

 だから局長は、ただ一言だけ呟いた。

 

「……達者でな」

 

 ペルシアは顔を上げなかった。

 顔を上げれば、視線が絡んでしまう。視線が絡めば、決心が揺らぐ。

 

「はい」

 

 その返事は小さかった。

 けれど、確かに聞こえた。

 

 ペルシアは扉を開け、局長室を出る。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 

 廊下の薄暗い光の中で、ペルシアは歩き出す。

 足音は静かだ。

 けれど一歩ごとに、胸の奥で何かが砕けていくような感覚がある。

 

 ――リュウジ。

 ――ルナ。

 ――エリン。

 

 もう一度、名前が心に浮かぶ。

 さっき電話で言った言葉が、刃のように自分に返ってくる。

 

 “もう時間だから”。

 

 ペルシアは唇を噛んだ。

 泣くまいと決めたのに、目の奥が熱い。

 だから前を見る。前だけを見る。

 

 この先にあるのが、救いか破滅かは分からない。

 でも、証拠のない戦いで味方を巻き込むより――

 自分一人が矢面に立つ方が、まだマシだ。

 

 背後の局長室はもう遠い。

 それでもペルシアの胸には、あの薄暗い部屋の静けさと、机の端末の光が焼き付いていた。

 

 そして何より――

 床に落ちた雫の音が、耳の奥にいつまでも残っていた。

 

ーーーー

 

 ソーラ・デッラ・ルーナのエアポートは、いつもなら整然としているはずだった。

 案内板の光、床に反射する照明、行き交う人々の足音――それらが規則正しく流れて、ここが「大きな仕組みの中にある安全な場所」だと誰にでも思わせる。

 

 けれど今、リュウジの目に映る景色は違った。

 

 管制棟の方向へ伸びる通路には、普段より多い警備員。

 通行の導線が、目に見えない壁で切り分けられている。

 ざわめきは抑え込まれ、代わりに、空気そのものが硬く張り詰めていた。

 

「……こっちだ!」

 

 先頭を走るリュウジの声が、短く鋭い。

 その後ろを、ルナ、チャコ、メノリが必死に追いかける。

 

「リュウジ、待って……!」とルナが息を切らしながら呼ぶ。

「ルナ、息整え。置いていかへんけど、今は急ぐで!」とチャコが肩を揺らして言う。

「止まるな。今のうちに――」メノリの声はきつい。だがその声音には、焦りと怒りが混じっていた。

 

 管制棟の入口が見えた。

 普段なら職員がカードをかざして出入りする、ごく当たり前の扉。

 しかし今日だけは、そこが「越えられない境界」に変わっていた。

 

 入口の前に立ちはだかる警備員が二人。

 さらに奥にも数名、視線を鋭く光らせている。

 

「止まってください。関係者以外立ち入り禁止です」

 

 警備員の声は冷たくはない。だが、揺らぐ余地もない声だった。

 

 リュウジは、足を止めない。

 胸の奥で渦巻くものを押し殺して、扉の正面に踏み込む。

 

「通せ」

 

 たった二文字。

 けれどそれは命令だった。かつて宇宙で何度も、仲間を守るために使ってきた声。

 

「許可がないと入れません」

 

「いいからどけ」

 

 リュウジの言葉が一段低くなる。

 警備員の眉がわずかに動いたが、足は引かない。

 

「規則です。申し訳ありません」

 

「申し訳ないで済む話じゃない」

 

 リュウジが一歩、さらに詰める。

 警備員が反射的に手を上げ、距離を保つ。

 

 その瞬間――横からチャコが割り込んだ。

 

「ええからどかんかい! ペルシアのことやろ!? あんたら、何を守っとるつもりや!」

 

 ネコ型ロボットの小さな身体から飛び出す関西弁が、場違いなくらい大きく響いた。

 警備員は一瞬だけ面食らった顔をし、すぐに視線を戻す。

 

「……あなたはロボットですね。余計に入れられません。システムへの干渉の恐れがあります」

 

「ウチのこと信用せえ言うとんのちゃう! 今は――」

 

「チャコ、落ち着いて」

 

 ルナがチャコの肩に手を置く。

 その手は震えていた。ルナ自身が、必死に落ち着こうとしている証拠だった。

 

「お願いします。私たちは……ただ、話を聞きたいだけなんです」

 

 ルナは、警備員に向かって頭を下げた。

 背負ったリュックの肩紐が少しずれて、父の形見が揺れる。

 

「私たちの大切な人が……巻き込まれているかもしれないんです」

 

 懇願に近い声。

 だが警備員は苦しそうに眉を寄せながらも、首を横に振った。

 

「申し訳ありません。ここは――」

 

「なら、別の方法を取る」

 

 メノリが前に出る。

 声は淡々としていた。怒鳴りはしない。だが、背筋が凍るほどに硬い。

 

「お父様に連絡する。連邦議員から根回しする。許可がない? なら作るまでだ」

 

 その言葉が落ちた瞬間、警備員の顔が歪んだ。

 権力の匂いを嗅いだ者の、反射的な表情。

 

 ――動いた。

 

 リュウジはその微かな揺らぎを見逃さなかった。

 あと一歩、押せば通るかもしれない。

 メノリの言葉で警備が怯んだ今なら――

 

 しかし、次の瞬間。

 

「やめなさい」

 

 可憐で、澄んだ声が割って入った。

 空気が一段冷えるような静けさが落ちる。

 

 振り向くと、そこにいたのはクリスタルだった。

 いつものように整った身だしなみ、青みがかったショートヘア。

 だけど瞳だけが、いつもより硬い。まるで“ここから先”を拒む鍵そのものみたいな視線。

 

「……クリスタル!」チャコが叫ぶ。

 

 リュウジの喉が詰まる。

 クリスタルは、ラスぺランツァの一員。

 自分たちと同じ側の人間――そう思っていた。

 

「リュウジ。諦めなさい」

 

 クリスタルはそう言って、入口の前に立った。

 警備員の前ではなく、リュウジの前に。

 

「どういうことだ!」

 

 リュウジの声が荒くなる。

 胸の奥が焼けるように熱い。

 

「何か知ってるのか!? ペルシアに何があった!」

 

 クリスタルは、首を横に振った。

 

「……いいえ」

 

 否定は短い。

 でも、続く言葉が刃だった。

 

「ただ、あなたを通すわけにはいかないってことよ」

 

「何言うとんねん!」

 

 チャコが噛みつくように言う。

 ルナも一歩前に出た。

 

「クリスタルさん……お願いします。私たち、ただ――」

 

「ごめんね」

 

 クリスタルはルナの言葉を遮る。

 その“ごめんね”が、やけに優しいから余計に苦しい。

 

「一般人のあなたたちに、言えることは何もないの」

 

「せやけどな!」チャコが食い下がる。

 

「仕方ないでしょう」

 

 クリスタルは視線を逸らさない。

 

「規則の問題じゃない。……今ここで、あなたたちが踏み込めば、もっと大きなものが壊れる」

 

 メノリが眉をひそめる。

 

「壊れる? 今壊れているのは、ペルシアさんの人生だ」

 

 メノリの声は冷え切っていた。

 ルナが一瞬、息をのむ。

 

 クリスタルは、わずかに唇を噛んだ。

 そして――追い打ちのように言った。

 

「それに、S級パイロットならまだしも……」

 

 その一言に、リュウジの肩がピクリと動いた。

 

「……リュウジも、もう違う」

 

 空気が凍った。

 

 リュウジは何も言えなかった。

 喉の奥に、鉄の塊を押し込まれたみたいに声が出ない。

 

 ――そうだ。違う。

 自分で返上した。

 “やりたい事”を見つけたから。

 そのための区切りとして、宙の世界に線を引いた。

 

 それは前向きな決断だったはずだ。

 逃げじゃない。

 過去から目を逸らすためでもない。

 自分の足で選んだ道だ。

 

 ……なのに。

 

 今、その決断が、手枷のように重くリュウジの手首に絡みつく。

 

 S級の肩書きがあった頃なら――

 この入口は、こんなに厚い壁じゃなかった。

 「貴方なら」と通される場所だった。

 少なくとも、立ち止まらされることはなかった。

 

 “仲間を守るために動く権利”が、最初から与えられていた。

 

 でも今は違う。

 

 ただの学生。

 ただの“元”S級。

 ただの一般人。

 

 宇宙を飛んでいた経験があっても。

 死線を何度も越えてきても。

 ネフェリスで操縦したことがあっても。

 

 ――この場所では、何の価値もない。

 

 リュウジは拳を握り締めた。

 指の関節が白くなる。

 悔しさが、痛みになって手のひらを刺す。

 

「……クリスタル」

 

 声がようやく出た。

 掠れている。自分でも情けなくなるほど。

 

「これだけは教えてくれ」

 

 クリスタルの瞳が、ほんの僅かに揺れた。

 

「ペルシアに……何があった」

 

 クリスタルは、また首を横に振る。

 

「ごめん。私もよく分からないの」

 

「……嘘だろ」

 

 リュウジの口から、低い笑いが漏れた。

 笑いというより、崩れる音。

 

「混乱してるのは、あなたたちだけじゃない」

 

 クリスタルの言葉は、慰めではない。

 “現実”の宣告だった。

 

「だから今日は帰りなさい」

 

 クリスタルは、最後にそう言った。

 扉の前に立つその姿は、優しいのに、頑丈だった。

 

 その背後で警備員が安堵したように息をつく。

 “話が片付いた”という空気が漂う。

 

 ――片付いた?

 

 ふざけるな。

 

 リュウジの胸の奥で、何かが暴れた。

 怒り。焦り。無力感。

 そして何より、ペルシアの声が――さっきの電話の声が、耳の奥で繰り返される。

 

『もう満足よ』

 

 あの言い方。

 あの震え。

 あの、最後の挨拶みたいな声。

 

 リュウジは、あの時からずっと、胸が嫌な予感で満ちている。

 “満足”なんて言葉を、ペルシアがこんなタイミングで使う理由が、悪い方にしか想像できない。

 

 ――なのに、ここで止められる。

 

 肩書きがないから。

 許可がないから。

 “大人の事情”があるから。

 

 リュウジは一歩踏み出しかけた。

 扉の向こうへではない。クリスタルの横へでもない。

 ただ、目の前の壁を壊すために。

 

「リュウジ……!」

 

 ルナの声が、必死に引き留める。

 

 ルナはリュウジの袖を掴んだ。

 その指が冷たい。震えている。

 ルナ自身も怖いのだ。リュウジがここで暴れて、取り返しのつかないことになるのが。

 

「落ち着こう。お願い」

 

 ルナは必死に言葉を選ぶ。

 叱るんじゃない。命令でもない。

 “一緒に”という言い方で、リュウジの足を地面に戻そうとしている。

 

 チャコも、歯を食いしばったまま言う。

 

「リュウジ……今ここで暴れたら、ますます遠のくで。ウチら、頭使わなあかん」

 

 メノリは唇を噛み、悔しそうに目を伏せた。

 

「……私たちが騒げば騒ぐほど、向こうは情報を閉じるだろ。分かっているだろ」

 

 分かっている。

 理屈は分かっている。

 

 でも――

 

 リュウジの中で、理屈は何の役にも立たなかった。

 守りたいものがある時、理屈は遅すぎる。

 

 自分はずっと、そういう場所で生きてきた。

 誰かの「今」が壊れそうな時に、先に身体が動く。

 それで何度も助けてきた。助けられてきた。

 

 なのに今、身体が動かない。

 

 いや、動けない。

 

 肩書きがないからではない。

 警備がいるからでもない。

 クリスタルが止めたからでもない。

 

 ――“自分で区切った線”があるからだ。

 

 リュウジは、いつの間にか、その線の内側で生きることに慣れ始めていた。

 そして今、その線が、仲間を守るための一歩を止めている。

 

 悔しくてたまらない。

 

 リュウジは歯を食いしばり、クリスタルを睨んだ。

 

「……クリスタル」

 

 声は低い。

 怒りというより、押し殺した痛み。

 

「お前は……ペルシアの仲間だろ」

 

 クリスタルの瞳が、ほんの僅かに細くなる。

 それが肯定なのか否定なのか、分からない。

 

「……だから止めてるのよ」

 

 クリスタルは静かに言った。

 

「あなたがここで踏み込んだら、ペルシアが守ろうとしたものまで壊れる。そういう匂いがするの」

 

「匂い……?」

 

「そう」

 

 クリスタルは、言葉を選ぶみたいに一拍置く。

 

「何が起きているのか、全部は言えない。……でもね、リュウジ。あなたが“動く”ことで、相手が喜ぶ状況がある」

 

 リュウジの胸が、ぞくりと冷える。

 相手――内部告発、宇宙管理局の闇、ペルシアを陥れる誰か。

 

「……俺が動けば、相手が喜ぶ?」

 

「そう」

 

 クリスタルは頷いた。

 

「あなたは目立つ。元S級だもの。あなたが暴れれば、“話題”が増える。余計な炎上が起きる。あなたはそれを止められない」

 

 リュウジの拳が、さらに強く握られる。

 悔しい。腹が立つ。

 でも、正しい。

 クリスタルの言うことが、正しく聞こえてしまう自分が、また悔しい。

 

 ルナが、かすれた声で言った。

 

「クリスタルさん……ペルシアさんは……大丈夫なんですか?」

 

 その一言に、クリスタルの表情がほんの少しだけ崩れた。

 見えない程度の、ほころび。

 

「……分からない」

 

 クリスタルは小さく言った。

 

「だけど、あなたたちがここでできることは少ない。今は――」

 

「少ないって、何だ」

 

 リュウジの言葉が漏れる。

 自分でも気づかないうちに、声が震えていた。

 

「少ないって言うな。俺は――」

 

 言いかけて、止まる。

 

 俺は何だ?

 俺は、S級じゃない。

 俺は、権限もない。

 俺は、ただの学生で。

 ただの男で――

 

 ただの“元”で。

 

 リュウジは、喉の奥が焼けるように痛くなる。

 涙じゃない。

 泣くわけがない。

 ただ、悔しさが身体の中で暴れて、出口を探しているだけだ。

 

 ルナの手が、袖を強く掴んだ。

 

「リュウジ……」

 

 ルナの声は、泣きそうだった。

 でもルナは泣かない。

 泣く代わりに、必死にまっすぐ見上げてくる。

 

「私たち、帰ろう。今は……クリスタルさんの言う通りにしよう」

 

 リュウジはルナを見た。

 ルナの瞳の中には恐怖もある。心配もある。

 でも、一番大きいのは“信じたい”という光だった。

 

 リュウジは、その光を折るわけにはいかなかった。

 

「……分かった」

 

 言葉は短い。

 でも、それは降参じゃない。

 “今は引く”という選択だ。

 

 チャコが、悔しそうに鼻を鳴らす。

 

「くそ……腹立つわ。ウチら、何もできへんのかい」

 

 メノリが、低い声で言った。

 

「できる。情報を集める。動くなら、そのために動く」

 

 メノリの言葉は強い。

 だがリュウジは、メノリの強さの奥にある震えも感じ取っていた。

 彼女だって怖い。彼女だって、仲間を失うのが怖い。

 

 クリスタルは、最後にだけ目を伏せた。

 

「……ごめんね」

 

 それはルナに向けた言葉にも聞こえたし、リュウジに向けた言葉にも聞こえた。

 もしかしたら、ペルシアに向けた言葉なのかもしれない。

 

 リュウジは、何も返さなかった。返せなかった。

 返した瞬間、ここで崩れてしまいそうだったから。

 

 四人は、管制棟から離れる。

 背中に、扉の存在が刺さる。

 扉の向こうにある真実が、遠ざかっていく感覚がする。

 

 エアポートの広い天井。

 人工の空。

 平和そうな照明。

 

 その全部が、今は薄っぺらく見えた。

 

 歩きながら、リュウジはふと、自分の手を見た。

 何度も操縦桿を握ってきた手。

 何度も誰かを引き上げてきた手。

 何度も血と汗に塗れてきた手。

 

 ――この手が、今は何も掴めない。

 

 胸の奥が、痛いほど締め付けられる。

 

 S級を返上した理由は、逃げじゃない。

 やりたい事を見つけた。

 そのための区切りだった。

 

 でも、その区切りが――

 こういう瞬間に、自分を“外側”へ追いやる。

 

 仲間が危ない時に、守れない。

 守るための扉の前で、立ち止まるしかない。

 

 それが、こんなに苦しいなんて知らなかった。

 

 ルナが、隣で小さく呟いた。

 

「……リュウジ」

 

 リュウジは答えない。

 答えたら、声が揺れる。

 

 チャコが、リュウジの足元を見上げる。

 

「リュウジ、ウチら、諦めへんで」

 

 メノリも言う。

 

「当然だろ。ここで終わるわけがない」

 

 リュウジは、ようやく息を吐いた。

 肺の奥に溜まった毒を吐き出すみたいに。

 

「……諦めない」

 

 声は低く、掠れていた。

 それでも、確かに言えた。

 

 ――S級じゃなくても。

 ――権限がなくても。

 ――“外側”に追いやられても。

 

 守れないなら、守れる形を作る。

 扉が閉じているなら、別の入口を探す。

 力が足りないなら、足りるところまで集める。

 

 リュウジは、胸の奥で固く決めた。

 

 ペルシアの声が、まだ耳に残っている。

 「満足よ」と言った、あの震える声。

 

 ――満足で終わらせるな。

 

 その思いだけが、今のリュウジの背骨になっていた。

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