サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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託される人

 一週間。

 たった七日間のはずなのに、リュウジにはひどく長く感じられた。

 

 ペルシアの所在は掴めない。宇宙管理局は口を閉ざし、公式発表は「記事に基づき、関係局員に対し厳格な処罰を行った」という、硬い文言だけを繰り返す。

 その言葉が真実を言っているのか、真実の一部だけを切り取っているのか――それすら分からない。

 

 マリにも当たった。

 けれど彼女は「上から何も降りてきていない」と言い、困ったように眉を下げた。内部でも伏せられている。そういう“空気”だけが強くなっていく、と。

 宇宙管理局という巨大な組織の中で、情報が遮断される時の静けさ。

 それが一番、不気味だった。

 

 ルナはルナで、知り合いのツテを辿り続けた。

 メノリはメノリで、家庭の力を使うことを躊躇いながらも根回しを試みた。

 シンゴはネットワークや公開情報を洗い直し、チャコはラスぺランツァの伝手にあたり、ベルとシャアラも自分たちにできる範囲で動いた。

 

 それでも、何も出ない。

 

 まるで最初から“ペルシアという存在”が、世界のどこにもいなかったみたいに。

 そんな感覚が、リュウジの胸を蝕んでいった。

 

 眠れない夜が増えた。

 端末の通知音が鳴った気がして、何度も手が伸びる。

 だが画面は冷たく暗いまま。

 何度も、何度も。

 

 ――あの電話が最後になったら。

 

 考えたくないのに、思考が勝手にそこへ向かう。

 ペルシアの声。少しだけ震えていた“満足よ”という言葉。

 耳の奥に焼き付いて、消えてくれない。

 

 だから今日、リュウジはロカA2にある喫茶店に来ていた。

 「来なさい」と、エリンから短いメッセージが届いたからだ。

 

 ロカA2の街は、ソーラ・デッラ・ルーナの整った区画とは違う。

 どこか生活の匂いが濃く、雑多で、人の息遣いが近い。

 喫茶店の窓には雨の跡が残り、ガラス越しにぼんやりと街灯が滲んでいた。

 

 店内に入った瞬間、コーヒーの香りが鼻を刺した。

 焙煎の匂いが、妙に現実的で――リュウジは一瞬だけ、肩の力が抜けるのを感じた。

 

 奥の席。

 柔らかな笑みを浮かべたエリンが、すでに座っていた。

 

 いつも通りの落ち着いた姿。

 制服でもなく、乗務員の装いでもない。

 それなのに、背筋の伸びた座り方と視線の置き方だけで、彼女が“場を整える人間”だと分かる。

 

「リュウジ」

 

「……エリンさん。お忙しいところ、すみません」

 

 リュウジは敬語で頭を下げた。

 エリンは「いいのよ」と軽く手を振り、向かいの椅子を顎で示す。

 

「座って。温かいの飲みなさい」

 

「……はい」

 

 店員が運んできたのはブラックコーヒーだった。

 砂糖もミルクも置かれていない。エリンらしい、とリュウジは思う。

 “誤魔化す甘さ”を最初から用意しない人だ。

 

 湯気が上がるカップに手を添えた瞬間、リュウジは自分の指先が冷たいことに気付いた。

 一週間、ずっと神経を張っていたせいだろう。身体が休み方を忘れている。

 

 エリンは、コーヒーに口をつける前に言った。

 

「……もう十分よ」

 

 その言葉は柔らかな声音なのに、鋭かった。

 

 リュウジは目を上げる。

 

「何がですか」

 

「探すのをやめなさい」

 

 逃げ道のない言葉。

 リュウジの胸の奥が、カッと熱くなる。

 

「……やめられません。まだ何も分かってないんです」

 

「分からないから、よ」

 

 エリンは静かに言い切った。

 

「分からないものを、あなたが一人で背負って探して、削れていく。そういうの、見たくない」

 

 リュウジは唇を噛んだ。

 “見たくない”――その言い方が、まるで保護者みたいで悔しくなる。

 でもそれ以上に、その優しさが今の自分には痛かった。

 

「……エリンさんは、何か知ってるんですか」

 

 リュウジが絞り出すと、エリンは首を横に振った。

 

「本当に、何も知らない」

 

 断言。

 迷いのない目。

 その瞬間、リュウジは“期待してしまっていた自分”に気付いて、苦くなる。

 

「……すみません」

 

「謝らなくていい」

 

 エリンは淡々と言った。

 

「私も同じ。何度も連絡もした。でも繋がらなかった。」

 

 リュウジの胸が、ぎゅっと締め付けられる。

 エリンが先に絶望の端を触っていたことに気付いてしまう。

 

「それでも私は、仕事をした。笑った。乗務員たちを守った。そうしないと、私まで壊れるから」

 

 エリンは、静かに笑った。

 その笑みは柔らかいのに、どこか痛々しい。

 

 リュウジは拳を握る。机の下で。誰にも見えないところで。

 指先が震えた。

 

「……俺がS級のままだったら」

 

 思わず漏れた言葉に、リュウジ自身が眉をひそめた。

 言うつもりじゃなかった。言い訳だ。未練だ。

 それでも出てしまった。

 

「通れた。扉の前で止められなかった。少なくとも、今みたいに……何もできないってことは――」

 

「やめなさい」

 

 エリンの声が、少しだけ強くなる。

 

「あなたがS級を返上したのは、逃げたからじゃない。やりたい事を見つけたからでしょう」

 

 リュウジの喉が詰まる。

 自分で言った言葉を、他人に正面から返されると、こんなに重い。

 

「……はい」

 

「なら、その“区切り”を、あなた自身が踏みにじってどうするの」

 

 エリンは、そこでようやくコーヒーに口をつけた。

 一口。落ち着いた動作。

 それだけで店内の音が少し遠のく気がした。

 

「ペルシアもね、あなたがやりたい事の邪魔をしたくないって、きっと思ってる」

 

 リュウジの胸が、ぐっと締め付けられる。

 あの電話の最後にも、似たようなことを言っていた。

 “首を突っ込まなくていいことがある”

 “無茶しなくていい”

 優しさでもあり、別れの前置きみたいでもあった。

 

「……だったら尚更、放っておけないでしょう」

 

 リュウジは低く言った。

 敬語を崩しそうになって、必死に抑える。

 

「ペルシアは……自分一人で背負ってる。いつもそうだった。笑って、ふざけて、勝手に決めて……でも最後は全部、自分で抱えて持っていく」

 

 エリンは、目を伏せた。

 それが肯定にも見えて、リュウジは胸の奥が痛くなる。

 

「あなた、そんな顔してると怒るわよ」

 

 エリンが言った。

 意外なくらい、きっぱりとした口調だった。

 

「……怒る?」

 

「怒る。絶対怒る」

 

 エリンは言い切る。

 

「“いつまでもそんな顔してる暇があるなら、自分の人生を生きなさい”ってね。そういう人よ、ペルシアは」

 

 リュウジは、小さく笑ってしまった。

 笑いというより、喉の奥が鳴っただけ。

 

「……難しいこと言いますね」

 

「あなたにしか通じない言い方をしてるの」

 

 エリンは少しだけ肩をすくめた。

 

「リュウジ。私ね、あなたを怒るのは簡単。でもそれじゃ意味がない。あなたが自分で立ち上がらないと」

 

 リュウジは目を閉じた。

 頭の中に、ペルシアの声が蘇る。

 “ありがとう、リュウジ”

 最後に言ったあの言葉。

 

 ――俺は、何を返せる。

 

 リュウジが目を開けると、エリンはまっすぐに見ていた。

 逃げない目で。

 

「あなたがそこに飛び込んで、全部ひっくり返して、救える保証はない」

 

 エリンは静かに言った。

 

「むしろ、あなたが巻き込まれて、あなたの“やりたい事”まで壊れる可能性の方が高い。……それをペルシアは望まない」

 

 リュウジの喉が震えた。

 

「……俺は、冷たい奴だって言われてきました」

 

 リュウジはぽつりと告げた。

 自嘲ではない。ただ事実を並べるみたいに。

 

「距離を置く。関わらない。余計なことはしない。そうした方が……失わないから」

 

 ――失わないはずだった。

 なのに今、自分は失う前提で怯えている。

 

「……見捨てたくないんです」

 

 リュウジは絞り出すように言った。敬語に戻すのも忘れそうなほど必死で。

 

「助けたい。助けられるなら、助けたい。俺は……あの人に、色んなものを救われた」

 

 エリンは、ゆっくりと頷いた。

 否定しない。

 だけど同時に、“止める”という意志も揺らがない。

 

「分かるわ」

 

 エリンは言った。

 

「あなたがそういう人だって、私は知ってる。愛想もないし、すぐ黙るけど――本当は誰よりも、仲間のことを見てる優しい子」

 

 リュウジは視線を逸らした。

 見透かされるのが苦しい。

 

「でもね」

 

 エリンは続ける。

 

「“助ける”って、相手が望んでいない形で押し付けたら、それは支配よ」

 

 その言葉が、リュウジの胸の奥に沈む。

 重い。痛い。正しい。

 

「ペルシアは、あなたに助けられたいんじゃない。あなたに“生きてほしい”のよ」

 

 リュウジは小さく息を吐いた。

 反論できない。

 この一週間、自分は“探す”という行為に縋って呼吸していただけだ。

 

「あなたがやりたい事、見つけたんでしょう? その区切りとしてS級を返したんでしょう?」

 

「……はい」

 

「なら、それをやりなさい」

 

 エリンは真っ直ぐに言った。

 

「ペルシアに勝つなら、そこよ。ペルシアが守りたかったものを、あなたが“生き方”で証明するの」

 

 リュウジは、苦く笑った。

 

「……勝ち負けじゃない」

 

「そうね。でも、あなたには“勝つ”って言い方の方が効く」

 

 エリンの声に、少しだけ茶目っ気が混じる。

 その僅かな軽さが、息苦しい胸に小さな穴を開けてくれる。

 

 窓の外の雨が、少しだけ弱くなっていた。

 街灯の滲みが、さっきより輪郭を取り戻している。

 

 リュウジはカップを持ち上げ、温かさを掌に移した。

 胸の奥の痛みは消えない。

 けれど、痛みの中に――ほんの少しだけ、前へ進むための硬さが生まれた気がした。

 

「……エリンさん」

 

「なに?」

 

「俺のやりたい事……まだ言ってません」

 

 リュウジが言うと、エリンは首を横に振った。

 

「言わなくていい。あなたが決めたなら、それでいい」

 

 そして、少しだけ目を細める。

 

「でも、やるならちゃんとやりなさい。中途半端は許さないわよ」

 

 リュウジは小さく息を吐き、頷いた。

 

「……はい。ちゃんとやります」

 

 その返事を聞いて、エリンは満足そうに微笑んだ。

 まるで、ようやく“いつものリュウジ”が戻ってきたのを確認したみたいに。

 

 リュウジは視線を窓へ向ける。

 雨の向こうの街が、ぼんやりと続いている。

 

 ペルシアが今どこにいるのかは分からない。

 何が起きているのかも分からない。

 それでも――自分が壊れていい理由にはならない。

 

 助けたい。見捨てたくない。

 その気持ちを持ったまま、どう生きるか。

 

 リュウジはコーヒーを一口飲んだ。

 苦い。けれど、嫌いじゃない。

 

 その苦さが、今は現実の味だった。

 

ーーーー

 

 ルナの部屋は、いつもの“静かな基地”じゃなかった。

 

 テーブルの上にはタブレットが二枚、開きっぱなしの資料、走り書きのメモ、時系列に並べたニュースのスクリーンショット、そしてチャコが投影した簡易の相関図。

 誰がいつ、何を、どこまで知っていたのか。

 どの言葉が「公式」で、どの言葉が「推測」で、どの言葉が「感情」なのか。

 線で結んでは消し、また結び直す。

 

 窓の外は雨。コロニーの設定上、梅雨らしい湿った空気が壁に張り付いている。

 ルナは椅子に座ったまま、指先でこめかみを押さえた。

 

「……ねぇ、チャコ」

 

「なんや」

 

 チャコはルナの肩のあたりで、ちょこんと座りながら画面を覗き込んでいる。

 関西弁の声音はいつも通り軽いのに、耳の角度だけが少し硬い。

 

「私たち、これ以上調べても……同じところをぐるぐるしてる気がする」

 

「せやなぁ。宇宙管理局が情報止めとる時点で、一般の公開情報だけやと限界あるわ」

 

 チャコが投影した図が、ふっと揺れて消える。

 チャコは自分の肉球――じゃない、小さな金属の手をぽんとテーブルに置いた。

 

「やっぱり、内部に近い人間に当たるしか――」

 

 ルナはそこで、ふっと顔を上げた。

 

「……カラスさんに聞けば分かるんじゃない?」

 

 言った瞬間、自分の声の明るさにルナ自身が少し驚く。

 ずっと胸の奥に沈んでいた重さが、わずかに浮いた気がした。

 

「カラス……」

 

 チャコが一瞬だけ目を細めた。旧式のくせにやけに人間くさい動作だ。

 

「ほぉ〜……カラスやな」

 

「うん。管理局の中の人じゃないけど、情報の匂いを嗅ぎ分けるのが上手い。

 それに……ペルシアさんのこと、きっと放っておけない」

 

 チャコは小さくうなずいた。

 

「ええ考えや。ウチも賛成。あの人やったら“危ない情報”を扱う時の距離感も分かっとるしな」

 

 ルナはすぐに端末を手に取った。

 カラス――登録名を検索し、メッセージ画面を開き、短く打つ。

 

『急ぎで相談したいことがあるの。今、少し時間ある?』

 

 送信。

 画面には“送信済み”の文字が表示される。

 

 その瞬間だった。

 

 ピンポーン、と玄関のインターホンが鳴った。

 続いて、ドア越しに聞こえるはっきりした声。

 

「宅配便でーす」

 

 ルナとチャコは顔を見合わせた。

 

「今、頼んだっけ?」

 

「頼んでへんで」

 

 ルナは椅子を引き、玄関へ向かった。

 雨の日のコロニーは空気が重く、廊下の照明まで湿って見える。

 ドアの覗き穴に目を寄せる前に、ルナはもうドアノブに手をかけていた。

 

 ガチャ、と扉を開ける。

 

「どーも、ルナお姉ちゃん」

 

 そこに立っていたのは、配達員の帽子を被った男だった。

 濡れた前髪、制服の上着、肩にかけた配送バッグ。

 それでも、その目――真っ直ぐで、どこか人を安心させる目は、ルナが忘れるはずがない。

 

「……タツヤ……?」

 

 ルナの喉が震える。

 次の瞬間、ルナは目を大きく見開いた。

 

「タツヤ班長!?」

 

 タツヤは口元を少しだけ緩め、照れくさそうに頭を掻いた。

 

「班長ってのは、もう随分前だろ。今はただの配送員だよ」

 

 ルナの背後から、ぴょこっとチャコが顔を出す。

 

「タツヤ班長やないか! なんでここにおるん!?」

 

「だから班長はやめててってば」

 

 タツヤは苦笑しながら、配送バッグから小さな箱を取り出した。

 宛名には確かにルナの名前がある。

 でも、それは“届けるついで”じゃない。タツヤの目がそう言っていた。

 

「えっと……本当に宅配便なんですか?」

 

「まぁね」

 

 タツヤは玄関先で靴を揃えながら言った。

 

「ユイが林間学校で家にいなくてさ。

 ――そのついでにコロニーまで足を伸ばした」

 

 ルナは戸惑いながらも、タツヤを中へ招き入れる。

 

「え、えっと……どうぞ。上がってください」

 

「お邪魔します」

 

 タツヤが部屋に入った瞬間、テーブル上の“調査の残骸”が視界に入った。

 画面に映る「宇宙管理局」や「内部告発」や「処罰」――不穏な単語の並び。

 タツヤは一秒だけ目を細め、それから何も言わずに玄関口で上着の水滴を払った。

 

「……エリンに聞いて、ここまで来た」

 

 ルナはその言葉に、胸がぎゅっとなる。

 

「エリンさんが……?」

 

「ああ。エリンは、“ルナたちが動いてる”って教えてくれた。

 ただ、細かいことは何も言わなかった。あいつらしい」

 

 チャコがテーブルの前まで走るように移動した。

 

「……つまり、タツヤ班長も知っとるんか。ペルシアの件」

 

 タツヤは椅子に座らず、テーブルの端に手を置いたまま頷いた。

 

「知ってる。

 知ってるけど――俺も内部のことは分からない。

 ただな……」

 

 そこでタツヤは、ルナの目をまっすぐ見た。

 

「ルナお姉ちゃん。お前、今、ペルシアのこと探してるんだって?」

 

 ルナは一瞬だけ目を逸らした。

 隠しても無駄だ。テーブルが全部語っている。

 

「……うん」

 

 チャコがすぐに口を挟む。

 

「ウチらだけやない。メノリもシンゴもベルもシャアラも動いとる。

 リュウジも……」

 

 チャコは一拍置く。

 その名前を出すのが、どこか怖いみたいに。

 

「リュウジも、相当無茶しそうな空気や」

 

 タツヤは小さく息を吐いた。

 胸の奥に溜めていた言葉を、今ようやく吐き出すみたいに。

 

「……もう、やめていいんだよ」

 

 ルナの身体が固まる。

 

「え……?」

 

 チャコが反射的に声を上げる。

 

「なんでや! あれだけ世話になったんやぞ、ペルシアには!」

 

 タツヤはチャコの勢いを受け止めるように、掌を軽く上げた。

 

「分かる。分かるよ。

 俺だって、ペルシアに助けられたことは数え切れない」

 

 その声は静かで、どこか温かい。

 だから余計に、ルナは胸の奥が痛くなる。

 

「でもな、ルナお姉ちゃん。

 今のお前たちがやってるのは――“助けたい”じゃなくて、“失いたくない”なんだ」

 

 ルナの唇が震える。

 

「それの、何が悪いの……?」

 

「悪くない。悪くないよ。

 ただ、“失いたくない”って感情は、時々、相手の意思を見えなくする」

 

 タツヤはゆっくり言葉を選ぶ。

 

「ペルシアは、死んだわけじゃない」

 

 その一言で、ルナの胸がわずかに浮いた。

 同時に、すぐ沈む。

 

「……でも、どこにいるか分からない。

 連絡も、ほとんど繋がらない。

 情報も――全部遮断されて……」

 

「だからこそ」

 

 タツヤが言った。

 

「“今は会えない”ってだけだ。

 会えない時間があるのは、宇宙では珍しいことじゃない。

 それに……ペルシアは、必ず戻る。戻れないなら、戻れない理由を、あいつ自身がちゃんと選ぶ」

 

 ルナは息を呑む。

 

「選ぶ……?」

 

 タツヤは頷いた。

 

「ペルシアはな、誰かに命令されて動くタイプじゃない。

 正しいと思った道を、自分で選んで進む。

 それがどんなに危なくても、どんなに孤独でも」

 

 チャコが歯噛みするように言う。

 

「せやからこそ、放っとけへんやろ……」

 

「放っとけって言ってない」

 

 タツヤは優しく否定した。

 

「ただ、“お前たちが壊れるほど”探す必要はないって言ってる」

 

 ルナは拳を握った。

 爪が掌に食い込みそうなくらい。

 

「私、怖いんです。

 また……誰かが、勝手にいなくなるのが」

 

 声が震えた。

 認めたくなかった感情が、言葉になって溢れる。

 

「サヴァイヴの時もそうだった。

 何度も、死ぬかもしれないって思って……

 そのたびに、みんなの顔を見て、必死で……」

 

 チャコが、ルナの足元に寄り添う。

 小さな金属の体温が、ルナの足首に触れる。

 

 タツヤは、少しだけ目を細めた。

 

「ルナお姉ちゃんには、夢があるだろ」

 

 ルナは顔を上げた。

 

「……惑星開拓技師になる夢」

 

 タツヤが言う。

 その言葉は、強い。けれど押し付けじゃない。

 “思い出して”という合図みたいな声だった。

 

「ペルシアは、お前がその夢を追うのを邪魔したいと思うか?」

 

 ルナは首を横に振る。

 そんなはずがない。

 ペルシアはいつだって、誰かの“未来”を眩しそうに見ていた。

 

「なら、まずルナお姉ちゃんがやるべきは、夢を捨てないことだ」

 

 タツヤは続ける。

 

「夢を追ってる途中で、また会える日が来る。

 その時、胸張って言えるだろ。“私、前に進んでたよ”って」

 

 ルナは唇を噛んだ。

 涙が出そうになる。

 でも今、泣いたら、タツヤの言葉を“諦め”として受け取ってしまいそうで怖かった。

 

「……でも、リュウジは」

 

 ルナが言う。

 

「リュウジは、きっと止まらない。

 助けたいって言って、また無茶する。

 S級じゃないって、もどかしそうで……」

 

 タツヤの目が一瞬だけ、遠くを見るように揺れた。

 リュウジのことを思い出しているのだろう。

 あの男の不器用さを、痛いほど知っている目だ。

 

「リュウジはな……」

 

 タツヤはぽつりと言った。

 

「優しい。だから危ない」

 

 チャコがぼそっと呟く。

 

「エリンも同じこと言うとったわ……」

 

 タツヤは小さくうなずいた。

 

「だから、止めるのは“命令”じゃない。

 “居場所”を作ってやることだ」

 

 ルナは眉をひそめる。

 

「居場所……?」

 

「そう。帰ってこられる場所。

 怒られても、否定されてもいい。

 でも、帰ってきた時に“ひとりにしない”」

 

 タツヤはルナを見た。

 

「ルナお姉ちゃんはそういうのができる。

 サヴァイヴの時からずっとそうだったんでしょう」

 

 ルナの胸が、じんと熱くなる。

 誇らしさじゃない。

 “責任”とも違う。

 ただ、誰かの言葉で自分の役割を思い出した時の、静かな覚悟だ。

 

「……私、どうしたらいい?」

 

 ルナが小さく尋ねる。

 

 タツヤは、すぐには答えなかった。

 代わりに、テーブルの上に散らばった資料を見た。

 それから、ルナとチャコを交互に見て言う。

 

「調べるのをやめろとは言わない。

 でも、線を引け。

 “できること”と“できないこと”を、ちゃんと分けた方がいい」

 

 チャコが頷く。

 

「つまり、深入りしすぎるなってことやな」

 

「そう。で、どうしても必要な情報だけを、必要な人に頼る」

 

 タツヤはルナの端末をちらりと見て、画面に“送信済み”の文字があるのを確認した。

 

「……カラスに連絡したのか?」

 

 ルナは驚く。

 

「え、なんで分かったんですか?」

 

「そういう顔してた」

 

 タツヤは肩をすくめる。

 

「いい判断だ。

 あいつなら、境界線の引き方も知ってる。

 ただし――危ない橋を渡る時は、必ず誰かと一緒に渡れ。ひとりで行くな」

 

 ルナはゆっくり頷いた。

 

「はい、分かりました」

 

 チャコが少しだけ声を強める。

 

「ほな、タツヤ班長は何しに来たんや。説得だけか?」

 

 タツヤは苦笑して、配送バッグをぽんと叩いた。

 

「半分は宅配便って言っただろ。

 もう半分は……顔を見に来た。

 エリンから聞いて、嫌な予感がしたんだ」

 

 ルナの胸がきゅっとなる。

 

「嫌な予感……?」

 

「お前たちが、自分の人生を止めてまで誰かを探そうとしてる。

 それは――サヴァイヴの時に、お前たちが“生き残るために”やってたことと似てる」

 

 タツヤの声は穏やかだけど、内容は鋭い。

 

「でも今は違う。

 今は“生き残るため”じゃなくて、“生きるため”に動く時間だ」

 

 ルナは目を伏せた。

 雨音が少し大きく聞こえる。

 コロニーの人工雨は規則正しくて、現実の雨より冷たい。

 

「……私、怖いんだよね」

 

 ルナはもう一度言う。

 今度は、さっきより少しだけ落ち着いて。

 

「誰かが、勝手にいなくなるのが。

 勝手に“区切り”をつけて、私たちが追いつけない場所に行っちゃうのが」

 

 タツヤはルナの言葉を否定しない。

 ただ、静かに言う。

 

「怖いなら、怖いままでいい。

 でも怖いからって、夢まで手放すな」

 

 タツヤは立ち上がった。

 制服の裾を整え、配送バッグを肩にかけ直す。

 

「……俺はもう行く。

 配送の仕事、まだ残ってるからな」

 

「え、もう?」

 

 ルナが思わず言うと、タツヤは笑った。

 

「長居すると、説教くさくなるだろ」

 

 チャコが鼻で笑う。

 

「もう十分説教くさいで」

 

「手厳しいね」

 

 タツヤはチャコの頭――金属の頭を、軽くぽんと叩いた。

 それから玄関へ向かい、靴を履きながら振り返る。

 

「ルナお姉ちゃん」

 

「うん」

 

「ペルシアは死んでない。

 だから、お前たちも“死んだみたいな顔”するな」

 

 その言葉が、ルナの胸の奥にまっすぐ刺さった。

 痛いのに、温かい。

 

「……はい」

 

 ルナは頷いた。

 涙はまだ出なかった。

 代わりに、胸の奥で何かが静かに整っていく。

 

「ありがとうございます。タツヤ班長」

 

 タツヤは玄関の扉に手をかけ、少しだけ笑う。

 

「礼なら、会えた時にペルシアに言え。

 “勝手にいなくなるな”ってな」

 

 ルナは小さく笑った。

 

「ちゃんと言います」

 

 タツヤが扉を開ける。

 外の湿った空気が一瞬だけ流れ込む。

 

 そして、扉が閉まった。

 

 しばらく、ルナは玄関の前で立ち尽くしていた。

 チャコが小さく言う。

 

「……ええ人やなぁ、タツヤ班長」

 

「うん」

 

 ルナはゆっくり部屋に戻った。

 テーブルの上はまだ散らかっている。

 でも――さっきまでの“ただの混乱”とは違う。

 

「チャコ」

 

「なんや」

 

「私たち、線を引こう。

 できることと、できないこと。

 ……それでも、できることはちゃんとやる」

 

 チャコはにやっと笑った。

 

「おお。ルナ、ええ顔になったやん」

 

 その時、ルナの端末が震えた。

 メッセージの通知。

 

 ルナが画面を見る。

 送り主は――カラス。

 

『今、少しなら。場所は?』

 

 ルナは息を飲んで、チャコを見た。

 

「……来た」

 

 チャコが小さく頷いた。

 

「ほな、行こか。

 “必要な情報だけ”を、取りにいくんや」

 

 ルナは端末を握りしめ、雨の匂いの残る部屋で、深く息を吸った。

 怖さは消えない。

 でも、怖さを抱いたままでも――前へ進める。

 

 ペルシアに会える日を、ただ待つんじゃない。

 待ちながら、歩く。

 それが、ルナが選んだ“生き方”だった。

 

ーーーー

 

 ロカA2の空は、今日も湿っていた。

 コロニーの天候設定は梅雨――雨は降っていないのに、空気だけがじっとりと肌にまとわりつく。

 

 ルナは、駅前の小さな路地を抜けた先にある古い喫茶店の前で足を止めた。

 看板は控えめで、通りがかりの人間なら気づかずに通り過ぎてしまう程度。

 けれど、そこが「カラスが指定する場所」だというだけで、ルナの心臓は妙に落ち着かなくなる。

 

 チャコは同行しない。

 “誰かと一緒に渡れ”――タツヤの言葉が胸に残っていたが、ルナは今回は一人で来ると決めた。

 情報の匂いを嗅ぐ場所に、チャコを連れてくるのは危険すぎる。

 それが、ルナなりの線引きだった。

 

 ルナは扉を押した。

 

 カラン、と鈴の音が鳴る。

 店内は薄暗く、温かいコーヒーの匂いが漂っていた。

 客は少ない。会話も小さく、まるで音を吸い込む布が壁に貼ってあるかのように静かだ。

 

 奥の席。窓際でもない、入口からも遠い、視線の届きにくい場所。

 そこに“彼”はいた。

 

 黒いコート。手袋。テーブルに置かれた小さな端末。

 顔は半分ほど影に沈んでいるのに、目だけははっきりとルナを捉えた。

 

 カラスは立ち上がらない。

 代わりに、軽く顎を引いて会釈をした。

 

「……お久しぶりです、ルナさん。お時間を作っていただき、ありがとうございます」

 

 ルナは背筋を伸ばして、一礼する。

 

「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます、カラスさん」

 

 丁寧に。

 敬語を崩さない。

 “相手の土俵に上がらない”――それもまた、線引きの一つだ。

 

 ルナは椅子に座る。

 店員が近づいてくるより先に、カラスが低い声で言った。

 

「ご注文は、後で構いません。……話の内容が内容ですので」

 

 ルナは頷く。

 

「はい。私も、長居するつもりはありません」

 

 カラスの口元がわずかに歪んだ。笑いとも違う、ただの“理解”に近い表情。

 

「そういう所が、あなたらしいですね」

 

 ルナは息を整えた。

 ここからが本題だ。

 

 ルナは端末をテーブルの上に置かず、膝の上で握ったまま口を開く。

 

「カラスさん。早速ですが……お願いがあります」

 

「はい」

 

「ペルシアさんの情報を、集めていただけませんか」

 

 言葉にした瞬間、ルナは自分の胸が締め付けられるのを感じた。

 頼んではいけない相手かもしれない。

 でも、もう遠回りはできない。

 

 カラスは、視線を逸らさない。

 ただ一度、瞬きをして――静かに言った。

 

「それだけは、できませんね」

 

 ルナの喉が、小さく鳴った。

 

「……できません、ですか」

 

「はい」

 

 あまりにも即答だった。

 そこに迷いが一滴もないことが、逆にルナを不安にさせる。

 

「理由を……伺ってもよろしいでしょうか」

 

 ルナは声を硬くしないように努めた。

 相手は“人の裏側”で生きている。

 感情を見せた瞬間に、その隙を撫でるように利用するタイプだと、ルナは直感的に理解していた。

 

 カラスは、指先でカップの縁をなぞる。まだ何も入っていない、空のカップだ。

 

「率直に申し上げます。……ペルシアさんから、依頼を受けています」

 

 ルナは眉をひそめる。

 

「依頼……?」

 

「はい。『自身に関する情報は売らないように』と。かなりの高額で」

 

 空気がひやりとした。

 ルナの胸の奥で、何かが“音を立てずに崩れた”気がした。

 

「……ペルシアさんが、カラスさんに……?」

 

「ええ」

 

 カラスは淡々としている。

 それがむしろ、事実であることを強く感じさせた。

 

 ルナは唇を噛む。

 ――守るためだ。

 ペルシアは、自分の情報が漏れれば、誰かが傷つくことを知っている。

 だから、先に“鍵”を買った。

 それがペルシアらしすぎて、胸が痛い。

 

「……それは、いつ頃の話でしょうか」

 

 ルナは慎重に問う。

 

 カラスは首を傾げた。

 

「いつ頃、とは。正確な日付をお求めですか?」

 

「いえ……大体で構いません」

 

 カラスは一拍置いて答える。

 

「“この記事”が出る前からです」

 

 ルナの背筋が冷たくなる。

 記事が出る前から。

 つまりペルシアは、何かが起こることを予見していたのか。

 あるいは、すでに動いていたのか。

 

 ルナは息を吸い、吐いた。

 ここで怯んだら終わりだ。

 

「……カラスさん。では、別の形でも構いません。

 ペルシアさんに直接繋がる情報でなくてもいいです。

 例えば、宇宙管理局側の動き……」

 

 カラスは、ゆっくりと手を上げた。

 制止の合図。

 

「ルナさん」

 

「……はい」

 

「あなたは優しい方です。ですが、その優しさは時に、人を危険に近づけます」

 

 ルナは眉を寄せた。

 それは忠告なのか、脅しなのか。

 カラスはその境界を曖昧にしたまま続ける。

 

「そもそも、闇に生きる私に依頼するのは、お門違いです」

 

 ルナは静かに、しかし譲らずに返す。

 

「カラスさんは、闇に生きているからこそ……“光の外側”の情報を扱えるのではありませんか」

 

 カラスの目が細くなる。

 鋭い光が一瞬だけ走った。

 

「……言い回しがお上手ですね」

 

「事実を申し上げただけです」

 

 ルナは背筋を崩さない。

 拳は膝の上で握られている。

 でも、声は揺らさない。

 

 カラスは、軽く息を吐いた。

 

「私は、情報を売ります。必要な時に、必要な相手に。

 それが私の生き方です。

 しかし――『売らない』という契約もまた、私の生き方です」

 

 ルナは少しだけ前のめりになる。

 

「契約、ですか」

 

「はい。信頼は金で買えます。

 そして私は、信頼を売り物にしている」

 

 言い方は穏やかなのに、言葉は冷たい。

 ルナは、指先の感覚が少し薄くなるのを感じた。

 

「……それほどの高額、というのは」

 

 ルナは、尋ねてから後悔した。

 金額を聞いたところで、どうにもならない。

 ただ、ペルシアが“そこまでした”という現実が、ルナを追い詰める。

 

 カラスは首を振る。

 

「金額は申し上げられません。

 ただ……『高額』という言い方では足りないほどです」

 

 ルナは目を閉じた。

 ペルシアは、どれだけの覚悟で――自分自身を“売らない”ように買ったのだろう。

 

「……では、私がそれ以上の額を提示すれば」

 

 ルナが言いかけると、カラスは静かに否定した。

 

「無意味です」

 

「……なぜですか」

 

「契約は、金額の問題ではありません。

 一度結んだ線を、自分で踏み越えるような真似をすれば――私は私でなくなります」

 

 ルナは息を呑んだ。

 その言葉の硬さは、意外だった。

 カラスは“何でも売る”人間だと思っていた。

 だが違う。

 彼は、“売れるもの”と“売らないもの”を、誰よりも明確に分けている。

 

 ルナは喉の奥で、言葉を選ぶ。

 

「……カラスさん。

 ペルシアさんは、今……危険なのではありませんか」

 

 カラスの表情が変わらないまま、空気だけが少し重くなる。

 

「危険、という言葉の定義によります」

 

「……命の危険です」

 

 ルナは、はっきり言った。

 曖昧にしてはいけない。

 

 カラスは少しだけ目を伏せ、そして顔を上げた。

 

「ルナさん。私は、ペルシアさんの居場所を知っているとも、知らないとも言いません」

 

 ルナの胸が跳ねる。

 その言い方は、つまり――。

 

「ですが」

 

 カラスは続けた。

 

「あなたが求めているものは、情報ではなく“安心”です。

 そして安心は、情報で買えるものではありません」

 

 ルナは唇を噛んだ。

 

「……それでも、私は」

 

「その気持ちは分かります」

 

 カラスの声が、ほんの僅かに柔らかくなる。

 それが余計に、怖い。

 

「あなたはペルシアさんに救われた。

 あなたの仲間も、彼女に守られた。

 だから今、あなたは“返したい”。そう思っている」

 

 ルナは頷く。

 

「はい。

 ……返したいんです」

 

 カラスは、ルナをじっと見た。

 見透かすようで、でも責めるようではない。

 

「では逆に伺います。

 ペルシアさんが、あなたに何を望むと思いますか」

 

 ルナは口を開いて――すぐ閉じた。

 答えは、分かっている。

 分かっているから、苦しい。

 

「……私が、前に進むこと」

 

「ええ」

 

 カラスは静かに頷いた。

 

「あなたの夢を守ること。

 あなたが仲間を守ること。

 そして……あなたが、あなたの人生を生きること」

 

 ルナの目が潤む。

 涙を見せるのは嫌だった。

 でも、こみ上げるものを止められない。

 

「……それでも、私は、何もしないのが怖いんです」

 

 ルナの声が、わずかに震える。

 

「何もしないまま、手遅れになるのが」

 

 カラスは、空のカップを指で軽く叩いた。

 コツ、と小さな音がした。

 

「……怖いなら、できることをしましょう」

 

 ルナは顔を上げる。

 

「できること……?」

 

 カラスは淡々と言う。

 

「私はペルシアさんの情報を集めることはできません。

 しかし、あなたが“巻き込まれないため”の助言ならできます」

 

 ルナは息を呑んだ。

 それは情報ではない。

 でも、今のルナにはそれでも十分に価値がある。

 

「お願いします」

 

 ルナが頭を下げると、カラスは首を横に振った。

 

「いえ。頭を下げる必要はありません。

 これは“取引”ではなく、“忠告”です」

 

「……はい」

 

 カラスは指を折りながら、淡々と告げる。

 

「第一に。宇宙管理局に直接突撃するのはやめてください。

 あなた方は一般市民です。記録が残ります。

 残れば、後で利用されます」

 

 ルナは思わず、先日の管制棟を思い出した。

 警備員の硬い顔、クリスタルの“通せない”という言葉。

 あれは単なる拒否ではなかったのかもしれない。

 

「第二に。内部告発を探す行為は、あなた方にとって毒です。

 犯人探しは、心を壊します。

 証拠のない推測は、仲間同士を疑わせます」

 

 ルナは喉が詰まる。

 確かに、最近メノリの苛立ちも、チャコの焦りも、全員の疲れも増していた。

 

「第三に」

 

 カラスは少し言葉を切った。

 

「“あなたが一番守りたい人”を、孤立させないことです」

 

 ルナはハッとする。

 

「……リュウジ、ですか」

 

 カラスは答えない。

 しかし、その沈黙が肯定だった。

 

「彼は、責任感が強い。

 そして、己の価値を“能力”で測る癖があります。

 S級を返上したことで、今の彼は――」

 

 カラスは少しだけ眉を動かした。

 

「自分が守れる範囲を、見誤りやすい」

 

 ルナは、胸が痛くなった。

 

「……私に、できることは」

 

「そばにいることです」

 

 カラスは即答した。

 

「問い詰めるのではなく。

 止めるのでもなく。

 ただ、帰ってこられる場所を作ること」

 

 ルナは静かに頷いた。

 タツヤが言った“居場所”と同じだ。

 

 ルナは、もう一度、カラスに頭を下げた。

 

「ありがとうございます。

 ……でも、それでも私は、ペルシアさんのことを諦めたくありません」

 

 カラスは、少しだけ目を細める。

 

「諦める必要はありません。

 ただし、探す方法を変えなさい」

 

「方法……?」

 

「ペルシアさんを探すのではなく、“ペルシアさんが守ろうとしたもの”を守る」

 

 ルナは息を止めた。

 それは、まるで答えのようで、同時に謎でもある。

 

 カラスは立ち上がる。

 会話を終える合図だ。

 

「ルナさん。最後にひとつだけ」

 

「はい」

 

 カラスは、ルナを真っ直ぐ見た。

 

「あなたは、“闇”に頼りすぎてはいけない。

 あなたは光側の人間です。

 闇は、光のために存在しますが――光が闇に染まれば、闇はただの泥になります」

 

 ルナは、息を呑みながらも頷いた。

 

「……はい。忘れません」

 

 カラスは軽く会釈し、コートの襟を整えた。

 

「それでは。

 ……ペルシアさんの件は、お断りします。

 ただし、あなたが“あなたの人生”を守るための相談なら、いつでも乗ります」

 

 ルナは立ち上がり、深く一礼した。

 

「ありがとうございます、カラスさん」

 

「こちらこそ。……ご武運を」

 

 カラスは店の出口へ向かう。

 扉の鈴が、カラン、と鳴った。

 

 ルナは一人、椅子に残る。

 コーヒーを注文する気分にはなれなかった。

 それでも、胸の奥にあった“闇の霧”は、さっきより少し薄い。

 

 ペルシアの情報は得られなかった。

 でも――“何をすべきか”の輪郭は、確かに見えた。

 

 ルナは端末を握りしめ、静かに呟いた。

 

「……ペルシアさん。

 私、前に進む。

 でも、忘れないから」

 

 窓の外は湿った空。

 光も闇も、まだどちらにも転ぶ。

 それでもルナは、席を立った。

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