夏休みに入ったコロニーの街は、平日だというのにどこか浮き足立っていた。制服姿の学生は減り、軽装の家族連れが増え、ショッピングモールの通路は甘い香りと冷房の風で満ちている。外は設定上の“夏”――陽射しの明るさが人工の天蓋に反射して、空気まで白く見えた。
そんな中、ルナ、メノリ、シャアラの三人は、久しぶりに「何も考えずに遊ぶ」ためだけに外へ出ていた。生徒会の書類も、学園の課題も、ここのところ胸に引っかかっていた色々も、今日は一旦置いておく。
行先は映画館。ソーレ・デッラ・ルーナ内の複合施設のモール内にある、あのやたらと大きいスクリーンのシアターだ。
観終わって、真っ暗な通路から一気に明るいロビーへ出た瞬間、ルナは思わず「うわっ」と小さく声を漏らした。映画の中の爆音と暗闇に慣れた目が、白い照明を眩しく感じる。
「うーん、面白かった」
ルナは両腕を上に伸ばして背伸びをし、肩を回した。身体の中にまだアクションの余韻が残っていて、なぜか自分まで戦った後みたいな気分になる。
「面白かったね。アクションが凄かった」
シャアラは両手でパンフレットを抱え、目をきらきらさせている。普段は本の世界にいる彼女が、映像の派手さに素直に心を掴まれているのが分かって、ルナは少し嬉しくなった。
しかし隣で、メノリはすぐに別の空気を出した。顎に手を当て、いつものように考える顔でぽつりと呟く。
「……しかし、どこか大袈裟すぎる気もしたな」
「えー、また始まった」
ルナは笑いながらメノリの肘を軽くつつく。
「まあまあ映画なんだし、あれぐらい大袈裟にやらないと盛り上がらないんじゃない?」
「盛り上がるのと、やりすぎは別だろ」
メノリの言い方は厳しいのに、どこか楽しんでいる響きもある。本人は真顔のつもりでも、ほんの少し口元が緩んでいるのをルナは見逃さなかった。
「しかしなぁ、かえって集中できないんじゃないか?」
「手厳しいな、メノリは」
ルナが肩をすくめると、シャアラがくすっと笑って、話題をふわっと変えるように言った。
「メノリは……ハワードのために映画を勉強してるのよね」
「しゃ、シャアラ!?」
メノリの声が一段上がった。普段の「だろ」調が崩れて、思わず素の反応が漏れる。その瞬間、頬がほんのり赤くなるのが分かって、ルナは反射でニヤけそうになるのを堪えた。
「ほうほう。その話は詳しく聞かせて」
ルナはわざとらしく腕を組み、冗談っぽく言う。シャアラも乗っかるように笑っている。
「……うるさい!」
メノリが一喝し、パンフレット売り場の横をすたすたと歩き出した。背筋はいつも通り真っ直ぐなのに、耳が赤い。
「待ってよ、メノリ!」
シャアラが慌てて追いかけ、ルナも小走りになる。
「ごめんって」
ルナが笑いながら言うと、メノリは立ち止まらずに吐き捨てるように返した。
「まったく、お前たちは……」
赤らめた頬を隠そうともしない。隠す余裕がないのか、隠すつもりがないのか。どちらにせよ、その“らしくなさ”が可愛くて、ルナとシャアラは顔を見合わせてまたくすくす笑った。
映画館のロビーは涼しい。ポップコーンの甘い匂い、冷たいドリンクの結露、遠くで流れている次回予告のBGM。そんな中、三人は出口へ向かうエスカレーター付近でようやく足を止めた。
メノリは咳払いを一つして、反撃するみたいに話題を変える。
「そういうシャアラこそ……ベルとは上手くやっているのか?」
「……っ」
今度はシャアラの方が固まった。パンフレットを抱える腕にぎゅっと力が入るのが分かる。目が泳ぎ、頬がみるみる赤くなる。
「……う、うん」
小さな返事。声がひどく弱い。いつものシャアラだ。繊細で、正直で、隠し事が下手。
ルナはその様子を見て、胸の奥がふわっと温かくなった。シャアラが幸せそうで、嬉しい。
「ベルとは付き合ってるのよね」
ルナがさらっと言うと、メノリが目を丸くする。
「そうなのか!?」
メノリの驚きは大きかった。生徒会長として情報通のはずなのに、こういう“身近な幸福”には鈍いところがある。それがまた面白い。
「ルナ、何で知ってるのよ!?」
シャアラが焦ってルナを見た。声が少しだけ裏返る。
「う~ん……二人の雰囲気で、なんとなくかな」
ルナは首を傾げて笑う。
「でも誰にも言ってないわよ」
「別に隠すことでもないだろ」
メノリが真面目に言うと、シャアラはパンフレットを胸に押し当てて、小さく首をすくめた。
「だって……色々とバタバタしてたし。皆に報告するタイミングを逃したというか……」
“バタバタ”という言葉に、三人とも一瞬だけ黙った。
ペルシアのこと。宇宙管理局のニュース。探して、走って、追い払われて、何も分からないまま一週間が過ぎて、今は「止めよう」と決めた。決めたのに、胸の奥に残るざらつきは消えない。
その“止めた”という選択が、正しいのかどうかも分からない。
ルナは喉の奥にひっかかるものを、軽く飲み込む。
――今日は、映画の日。
そう、自分に言い聞かせるみたいに、ルナは明るい声を作った。
「ね、シャアラ。付き合ってるなら、隠すより言っちゃった方が気が楽だと思うけど」
「……それは、そうなんだけど」
シャアラは視線を落とした。指先がパンフレットの角をいじっている。迷いの癖だ。
「ベルって、優しいでしょ。優しいからこそ、こう……周りに気を遣っちゃうのよ」
「ベルが?」
メノリが聞き返す。
「うん。皆が忙しい時期だったし、リュウジも……色々あったし」
シャアラはそこまで言って、言葉を止めた。
ルナも、メノリも、その続きを無理に聞かない。聞いてしまえば、今日の軽さが壊れてしまうから。
メノリは一度、深く息を吐いた。代わりに、少しだけ柔らかい声音で言う。
「……なら、今度、皆が揃った時に言えばいいだろ。別に大げさな報告じゃなくてもいい」
「そうだよね」
シャアラは小さく頷く。その頬の赤みは、さっきより落ち着いている。
ルナはその二人のやり取りを見て、ふっと笑った。
「メノリ、意外と優しい」
「意外と言うな」
メノリが即座に返す。けれど、その返しもどこか照れている。
「優しいよ」
シャアラが言うと、メノリはそれ以上言い返せなくなった。ほんの少し視線を逸らし、いつもの“会長の顔”に戻ろうとするが、頬の赤みが残っていて隠しきれていない。
そのまま三人はモールの通路へ出た。外は夏の設定のまま眩しく、通路には涼しい風が流れる。映画館の出口近くの壁面には、次の上映作品のポスターがずらりと並び、派手な文字が踊っていた。
「次、何見る?」
ルナが軽い調子で言うと、シャアラがパンフレットを抱き直しながら笑う。
「恋愛もの……とか?」
「……私は勉強になるなら何でもいい」
メノリが言う。言った瞬間、ルナとシャアラの視線が一斉にメノリへ向いた。
「勉強?」
「誰のための勉強?」
二人が同時に言って、メノリが「……お前ら」と呆れたように眉を寄せる。
「別に、誰のためでもない。自分のためだ」
「へぇ~」
ルナがわざとらしく頷く。
「へぇ~」
シャアラも同じように頷く。
「……もういい、帰るぞ」
メノリがまた歩き出す。今度は逃げるというより、照れを隠すために足を動かしている感じだ。
「待ってよメノリ!」
「ほんとごめんって!」
ルナとシャアラが追いかける。
その背中を見ながら、ルナは思った。
こうやって笑って、からかって、追いかけて――それだけで救われる日がある。
心の底に残るモヤモヤは、完全には消えない。けれど、消えないままでも、前に進む方法はある。
夏休みはまだ始まったばかりだ。
きっと、また皆で笑える。
その時は、シャアラは堂々とベルのことを言えるといい。
メノリは……ハワードのための勉強だと素直に言えたら、それはそれで面白い。
ルナは小さく息を吐いて、二人の後を追った。
ーーーー
ソーラ・デッラ・ルーナのショッピングモールは、夏休みに入ってからというもの、平日でも人の流れが途切れない。家族連れ、友達同士、制服のまま寄り道している学生――どの顔にも、どこか「時間がある」余裕が浮かんでいた。
ルナ、メノリ、シャアラの三人は、映画館を出てからモール内を少し歩き、奥まった場所にある喫茶店へと入った。ガラス張りの店内は外の喧騒が嘘みたいに静かで、柔らかな照明と豆の香りが落ち着きを作っている。
ルナが先に席へ腰を下ろし、リュックを膝の横に置いた。父の形見のリュックはいつも通り、彼女の傍にあるだけで“いつもの自分”を保てる気がした。
メノリは座るなり背筋を伸ばし、メニューを一瞥してから淡々と注文を済ませる。シャアラは窓際の席に座り、外の人波をぼんやり眺めていたが、ふと何かを思い出したみたいに口を開いた。
「でもさ……ハワードのアクション演技って」
小さく、独り言みたいな呟き。ルナはカップに手を伸ばしかけて止め、メノリは眉をわずかに上げた。
「どうしたんだ?」
メノリの声はいつも通り落ち着いていたが、シャアラの言葉の続きを待つ“余白”があった。
「いや……サヴァイヴのころを知っているハワードだからこそ、笑っちゃいそうで……」
シャアラが気まずそうに笑う。悪口のつもりじゃない、と言い訳する前の顔だった。
メノリは一瞬だけ口元を引き結んだが、耐えきれずに鼻を鳴らす。
「……それは言えてるな」
吹き出しそうになって、咳払いで誤魔化す。けれど瞳が笑ってしまっていて、もう遅い。
それを見てルナも堪えきれずに笑った。
「私も……ハワードの出演作は見れないかも」
「だよね~」
シャアラが同意して、肩の力が抜けた。自分だけじゃない、と分かって安心したのだろう。
「本人には悪いが……仕方ないな」
メノリも笑いながら言う。いつもの厳格な口調なのに、今日だけは少し柔らかい。
「でも、ちょっとやそこらのアクションじゃ、私たちは満足しないわよ」
シャアラは冗談っぽく胸を張った。映画館で見た派手な戦闘シーンを思い出しているのか、表情が少しだけ生き生きする。
「まぁ……サヴァイヴでは毎日、生死をかけてきたからな」
メノリが当たり前のように言う。淡々とした言い方が逆に重い。けれど、三人の間ではもう“言っていい”記憶になっている。
「まぁね」
ルナも頷く。笑っていても、胸の奥にあるものは消えない。けれど、その奥に触れても崩れなくなった自分たちがいる。
「リュウジやカオルの動きと、どうしても比較しちゃいそう」
ルナが言うと、メノリは即座に首を横に振った。
「あの二人は次元が違うだろ」
それは否定ではなく、むしろ認めている言い方だった。
「それもそうね。流石にハワードが可哀想よ」
シャアラが苦笑いする。
「あはは……まぁ、それは個人的な感想として」
ルナは手をひらひらさせて、その話題を軽く畳んだ。ハワードを笑ってやりたいわけじゃない。ただ、昔を知っているからこそ、どうしても“ズレ”が面白くなってしまうだけだ。
店員が水を持ってきて、三人の前に静かに置いていく。グラスの氷が小さく鳴った。その音で、話題が一瞬途切れ――そこでメノリが、思い出したように言った。
「……そういえば、明日カオルがこっちに顔を出すって言っていたな」
「ええ」
ルナは頷く。
「向こうも夏休みって言ってたわね」
カオルは今、ブライアンの養成学校にいる。木星だか、どこか遠い場所。連絡はとれるけれど、簡単に会える距離じゃない。それでも“顔を出す”と言ったのは、きっと無理をしてでも来るつもりなのだろう。
「皆で集まるんだよね」
シャアラが嬉しそうに言う。声に少し弾みがある。ベルのことも、きっと話せる。
「ええ、場所も予約してあるわ」
ルナが言うと、メノリが少しだけ目を細めた。
「……リュウジは来るのか?」
その問いは、ただの確認なのに、店内の空気が少しだけ変わった気がした。ルナは頬の笑みを保ったまま、少し視線を落とす。
「ううん……連絡したけど、繋がらなかったわ」
ルナがそう答えると、シャアラの表情が曇る。
「リュウジ、何してるんだろ」
心配というより、“引っかかり”に近い。最近、そういうことが増えている。リュウジは昔から、必要な時にだけ突然現れて、いなくなる。けれど最近は、その“いなくなる”の影が少し濃い。
メノリは黙ったまま、テーブルの縁に指先を置いた。指が一度だけ、小さく鳴る。
「……あいつは」
言いかけて、止める。続きの言葉が出ない。出しても意味がないと思ったのか、それとも、出したくないのか。
ルナは水のグラスを両手で包み込むように持った。冷たさが手のひらに心地よい。
「きっと……忙しいんだと思う」
自分に言い聞かせるような言い方になったのを、ルナ自身が分かっていた。
シャアラが口を開きかける。
「でも――」
「シャアラ」
メノリが静かに遮った。強い声ではない。ただ、止める必要があるという判断だけが込められていた。
シャアラは口を閉じ、代わりに小さく息を吐く。
店員が注文を取りに来たことで、会話は自然に“日常”に戻った。ルナは甘いラテ、シャアラは紅茶、メノリはブラックコーヒー。注文が決まると、三人はまた少しだけ笑い合える空気を取り戻した。
けれど、ルナの胸の奥に残るものは消えない。
“繋がらない”
それはただの不在ではない。どこかで“距離”を作られているような感覚。リュウジは意図して連絡を断つことがある。必要以上に誰かを巻き込みたくない時――あるいは、自分の弱さを見せたくない時。
ルナはふと、映画のアクションシーンよりもずっと現実味のある記憶を思い出す。サヴァイヴの夜の冷えた空気。火の揺らぎ。リュウジが何も言わずに外を警戒していた背中。
あの時も、彼は“言わない”ことで守っていたのだ。
それが優しさだと分かっているのに、優しさは時に、孤独を作る。
「……明日、カオルが来たらさ」
ルナはなるべく明るく言った。
「皆で、楽しいことだけ話そう。せっかく集まるんだし」
シャアラが少しだけ笑う。
「うん……そうだね」
メノリも小さく頷いた。
「そうだな。余計な心配で空気を重くする必要はない」
“余計な心配”と言いながら、メノリの目はどこか遠かった。彼女もまた、リュウジの“繋がらなさ”に慣れているようで慣れていない。
飲み物が届く。湯気と香りが立ち上がり、三人の間に温かな空気を作る。
ルナはカップを両手で持ち、口をつけた。甘さが舌に広がり、喉を通っていく。
今日のこの時間は、確かに幸せだ。
けれど、幸せの端っこに、小さな影がついてくる。
――明日、リュウジにも繋がるといい。
ルナは心の中だけでそう呟いて、もう一口、カップを傾けた。
ーーーー
スパーツィオ養成学校にも夏休みが訪れた――といっても、カオルが「休み」と言われて大人しく休む姿なんて、誰も想像していなかった。
だからこそ、ソーラ・デッラ・ルーナの小さなレストランの扉が開いて、見慣れた無愛想な顔が現れた瞬間、ルナは一拍遅れてから息をのんだ。
テーブルには、ルナとチャコ、メノリ、シャアラ、ベル、シンゴ。皆で集まる、と決めたのはルナだった。夏休みの最初の週末。少しだけでも“いつもの顔ぶれ”を取り戻したくて――その気持ちは皆同じだったはずなのに。
「……カオル?」
ルナが呼ぶと、カオルは軽く顎を引いた。返事の代わりみたいな仕草だ。前みたいな刺々しさは薄れているのに、笑い方が分からない、という感じの表情は変わっていない。
「久しぶり」
シャアラが先に言った。柔らかい声。ベルは椅子から立ち上がり、嬉しそうに大きな手を軽く振る。
「元気そうで何よりだ」
「僕も! だってカオル、夏休みも訓練で帰ってこないって言いそうじゃん」
シンゴが身を乗り出す。瞳がキラキラしている。こういう時のシンゴは、サヴァイヴの頃の“少年”の顔に戻る。
メノリは腕を組んだまま、ふっと鼻を鳴らした。
「まったくだ。お前が自分から“帰ってくる”なんて言うとは思わなかっただろ」
口調は相変わらず厳しめなのに、声の端に安心が混じっている。
カオルは視線を少しだけ逸らしてから、空いていた席へ腰を下ろした。椅子が音を立てる。彼はその音さえ気にするみたいに、一瞬だけ肩を固くした。
「……俺も、帰るつもりはなかった」
その一言に、チャコが「ほなやっぱりな」と言いたげに口角を上げる。
「ほら見ぃ。やっぱりや。カオルはそういうやつやもん。ウチ、分かっとったで」
チャコは胸を張った。妙に得意げで、ルナは思わず笑ってしまう。
「じゃあ、なんで帰ってきたの?」
ルナが尋ねると、カオルは短く息を吐いた。どこか照れ臭そうでもある。
「……エリンさんに呼ばれてる」
「え?」
シャアラが目を丸くした。ベルも「エリンさん?」と小さく繰り返す。メノリの眉がわずかに上がった。
「ハワード財閥の旅行会社の……エリンさんだな」
「そう」
カオルは頷いた。
ルナの胸の奥が、ちくりとした。エリンの名前は、嫌いじゃない。むしろ尊敬している。けれど最近は、名前を聞くだけで“遠い世界”の気配がしてしまう。ペルシアのことがあって以来、なおさらだった。
カオルはテーブルの上のメニューを一度も見ずに、指先を組んで言った。言いにくいことを説明する時の癖だ。
「養成学校の訓練項目で“接客”がある」
「……接客?」
シンゴが声を裏返した。
「パイロットに接客って、いるの!?」
思わず大きくなった声に、ベルが「シンゴ、声」と穏やかに注意する。シンゴは慌てて口を押さえた。
カオルは苦笑した――と言っても、口元がほんの少し歪む程度だ。
「俺も最初はそう思った。でも、S級を狙うクラスは注目される。取材も、乗客の前に出る場面も、増える。……そういう理由だ」
「なるほどな」
メノリが顎に手を当て、納得したように頷く。
「確かに、目立つ立場になれば、言葉ひとつで誤解が生まれるだろ。パイロットだろうが何だろうが、“人の前に立つ”以上、最低限の礼儀は必要だ」
「そういうこと」
カオルは淡々と答えたが、次の言葉が少し詰まった。
「……で、その接客が、俺は……酷いらしい」
一瞬、沈黙。
そして――チャコが爆発した。
「ぶはっ! そらそうやろ!」
チャコの関西弁の笑い声が店内に響き、ルナは慌てて口元を押さえた。シャアラも「ちょ、チャコ……!」と言いながら笑いを堪えきれない。ベルは困ったように笑い、シンゴも肩を震わせた。メノリだけは必死に真顔を保っていたが、口元がわずかに緩んでいる。
「カオル、仏頂面だったんもんなぁ」
チャコが言い切ると、カオルは眉間に皺を寄せた。
「……仏頂面は関係ない」
「関係あるわ! 愛想って、顔に出るんやで!」
「俺は……笑えって言われても、分からない」
カオルが低い声で言った。その言葉は、どこか自嘲みたいでもあった。
ルナは笑いを飲み込んで、ゆっくりと頷いた。
「うん……分かる気がする」
サヴァイヴの頃、カオルはずっと“生きる”ために必要なことだけをしていた。無駄な会話も、無駄な表情も、削ぎ落として。あれは冷たいからじゃない。余裕がなかったからだ。
「それで、エリンさんが講師で来てくれてるんだけど……公平な立場で指導してるはずなのに」
カオルはそこで少しだけ視線を落とす。
「俺だけ、“特別”で、ハワード財閥の旅行会社で指導してくれるみたいだ」
「……特別指導」
メノリが繰り返す。
「お前、相当だな」
「うるさい」
カオルの返しが早い。少しだけ、昔より刺が減っている。
シンゴが興味津々で身を乗り出した。
「ハワード財閥の旅行会社って、すっごい本格的だよね? 宇宙船の客室乗務員の訓練とか、緊急時対応とか……」
「エリンさん、厳しそう」
シャアラが小さく言うと、ベルが頷いた。
「俺、前に見たことあるけど……優しいのに、怖いんだよな」
「“優しいのに怖い”って何それ」
ルナが笑うと、ベルは真面目な顔で言った。
「優しいから、ちゃんと“できるようにさせる”んだよ」
その言葉が妙に核心を突いていて、ルナは少しだけ胸が温かくなった。ベルは本当に、守る側の人間になったのだと改めて思う。
注文を取りに来た店員が近づき、全員がそれぞれ料理を頼む。カオルは一瞬迷った末、無難に日替わりを選んだ。そういうところは相変わらずだ。
店員が去ると、チャコが腕組みしてニヤニヤする。
「で? カオル。練習すんの? その……にこーってやつ」
「やらない」
「即答やめぇや!」
「できないって言ってるだろ」
「できへんのと、やらへんのは違う!」
チャコの勢いに、ルナは肩を揺らして笑った。メノリは「くだらない」と言いつつ、目は柔らかい。シャアラは口元を押さえ、シンゴは「接客って大変だねぇ」と他人事みたいに呟く。
カオルは、皆の反応を見てほんの少しだけ、肩の力を抜いたように見えた。
「……お前らは変わらないな」
ぽつり、と言ってから、すぐに「悪い意味じゃない」と付け足すように喉を鳴らす。
「変わってないって、いいことだよ」
ルナがそう言うと、カオルは一瞬だけ目を細めた。笑顔ではない。でも、拒絶の表情でもない。
料理が運ばれてくる。湯気が立ち、香りが広がる。フォークの音、皿の音、店内の小さなざわめき――その全部が、どこか懐かしい。
食べながら、話は自然と近況になった。
シンゴは夏休みの研究計画を語り、ベルはそれを「無茶しすぎるな」と穏やかに止める。シャアラはベルとのことを皆にちゃんと言うタイミングを逃していたことを照れながら話し、メノリが「別に隠すことでもないだろ」と言ってシャアラが赤くなる。チャコは相変わらず茶々を入れて、ルナが「チャコ、言い過ぎ」と叱る――その流れまで含めて、全部が“いつもの”だった。
けれど、ふとした瞬間に、ルナの視線が空席へ向かってしまう。
リュウジもいない。ハワードもいない。
それぞれの道へ進んだのだと分かっている。分かっているのに、心の隙間は埋まらない。
カオルもそれに気づいたのか、食べる手を止めてぽつりと言った。
「……リュウジは?」
その質問に、ルナは一瞬だけ言葉を詰まらせた。メノリが代わりに答える。
「最近、連絡が繋がりにくい。忙しいんだろ」
「ふうん」
カオルはそれ以上、追及しなかった。ただ、目の奥が少しだけ硬くなる。
ルナは無理に明るく、話題を戻した。
「カオルは、こっちに何日いるの?」
「二、三日」
「短っ!」
シンゴが思わず突っ込む。
「呼ばれてるって言ってたけど、そんな短期間で接客がどうにかなるの?」
「どうにかする」
カオルは即答した。そこだけはブレない。やると決めたら、やる。
メノリが小さく笑う。
「お前らしいな。……でも、覚えておけ。接客は“技術”だ。才能じゃない。練習すれば上手くなるだろ」
「メノリが言うと説得力あるね」
シャアラが言うと、メノリは「当然だろ」と返しつつ、少しだけ頬が赤い。褒められるのは得意じゃないのだ。
チャコがまたニヤリとした。
「ほな、カオル。今、練習してみぃや。店員さん呼んで、ちゃんと笑うて『すみません』言う練習」
「……やめろ」
「ええやん! 今なら失敗しても、ウチらしかおらへんし!」
「……」
カオルの視線が彷徨う。逃げ道を探している顔だ。
ルナが助け舟を出すように言った。
「無理に笑わなくても、言葉だけでもいいんじゃない? 丁寧に、相手の目を見て、ありがとうって言うだけでも」
カオルはルナを見た。少し意外そうに。
「……それでいいのか」
「うん。少なくとも私は、それで十分だと思う」
ベルが頷く。
「俺も。カオルは、無理に作った笑顔より……ちゃんと“相手を見てる”ほうが伝わると思う」
シンゴも頷いて、「分かる分かる」と笑う。
「だってカオル、口は悪くないし。単に表情が固いだけだよね」
「お前、悪口を言うな」
「えっ? 褒めたつもり!」
そのやり取りに皆が笑う。カオルも、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑顔というほどではない。でも、“場”の中にいる表情だった。
ルナはそれを見て、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
皆それぞれ、違う場所で、違う悩みを抱えている。カオルは接客、ハワードは演技、リュウジは――きっと、もっと別の大きな何か。離れていくのは寂しい。でも、戻ってきた時にこうして笑えるなら、それは“終わり”じゃない。
「ねぇ、カオル」
ルナはフォークを置いて、少しだけ真面目に言った。
「エリンさんのところで指導受けるなら……無理しすぎないでね。ちゃんと、休むのも訓練だよ」
「……分かってる」
カオルは短く答えたが、いつもより素直だった。
チャコがすかさず割り込む。
「ほなカオル。帰る前に、ベルとシャアラの話もちゃんと聞いときぃ。ここは重要イベントやで」
「チャコ!」
シャアラが真っ赤になる。ベルは照れくさそうに頭を掻いた。
ルナは笑いながら、窓の外に目をやった。
夏の光が、ガラスに反射して眩しい。
――この眩しさの中で、皆がそれぞれの道を歩いている。
そして、たまにこうして戻ってきて、同じテーブルを囲める。
その当たり前が、奇跡みたいに大切だと、ルナは静かに思った。