サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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カオル

 夏休みも、残りわずか。

 

 カーテン越しに差し込む朝の光が、いつもより少しだけ白く感じた。ルナは枕元の端末を見て、日付を確かめる。――明日はまた休み、でも今日は“一度だけ登校する日”。夏休みの途中で指定される、連絡事項の確認と簡単なホームルーム。それだけなのに、どこか胸がそわそわした。

 

「チャコ、起きてる?」

 

 返事はない。けれど、ベッドの足元で小さな機械音がして、ネコ型ロボットがぬるりと顔を上げた。

 

「……ウチ、起きとるで。夏休み終わるん早すぎへん?」

 

「ね。毎年思う」

 

 ルナは苦笑して、父の形見のリュックを背負う。肩紐が馴染む感触に、無意識に背筋が伸びた。サヴァイヴで過ごした時間を思えば、こうして洋服に袖を通して学校へ向かうことさえ、夢みたいなのに。

 

 朝食は軽く済ませて、家を出る。いつもの道。いつもの空気。なのに、夏の終わりが近づく匂いが混じっていて、季節がすこしだけ先を歩いているように感じる。

 

 ソリア学園へ向かう道すがら、ルナはぼんやりと空を見上げた。コロニーの空はいつだって整っているはずなのに、今日は妙に広く感じた。

 

 ――その時。

 

 前方に、見覚えのある背中があった。

 

 歩幅。肩の線。短い黒髪の揺れ方。どこか周りと距離を取るような立ち姿。

 

 ルナの身体が、ぴたりと固まった。

 

「……リュウジ?」

 

 声に出す前に、胸の奥がきゅっと鳴った。夏休みの間、何度も連絡した。通話も、メッセージも。返事が来なかったわけじゃないけれど、どこか薄い返答ばかりで、ちゃんと会えないまま時間だけが過ぎた。

 

 見間違いかもしれない、と一瞬思って――でも次の瞬間、確信に変わる。

 

 リュウジだ。

 

 ルナは息を吸い、勇気を絞るように喉を動かした。

 

「リュウジ!」

 

 背中が止まる。ゆっくり振り返る。

 

 そして、ルナの心臓が一度だけ強く跳ねた。

 

「……おはよう」

 

 リュウジは、軽く笑みを作った。

 

 作った、はずだった。

 

 その笑みを見た瞬間、ルナの胸の奥に、すっと冷たいものが落ちた。

 

 ――あれ?

 

 笑っているのに、どこか寂しさが混じっている。悲しみ、と言っていいのかもしれない。ほんの少しだけ、目の奥が遠い。いつもの無愛想とは違う。拒絶でもない。ただ、何かを抱えたまま、蓋をしている顔だ。

 

 ルナは一歩近づいて、思わず眉を寄せた。

 

「……リュウジ、どうしたの?」

 

「何がだ?」

 

「なんか……」

 

 言葉にしようとして、上手く形にならない。ルナは唇を噛み、結局、ストレートにぶつけた。

 

「夏休みの間、何してたの? 連絡も返さないで」

 

 責めるつもりじゃなかった。けれど、抑えていた気持ちが、言葉の端に出てしまう。

 

 リュウジは少しだけ目を伏せてから、空を見上げるように視線を逃がした。

 

「……ちょっと出かけていた」

 

「出かけてたって……どこに?」

 

「用事があっただけだ」

 

 いつものリュウジなら、そこで会話を切る。けれど今日は、その“切り方”が妙に柔らかい。切りたいのに、切りきれない。そんな曖昧さが、逆にルナを不安にさせた。

 

 ルナは躊躇いながらも、口にしてしまう。

 

「……ペルシアさんの件?」

 

 言った瞬間、胸が締まった。ペルシアの名前は、今でも皆の中で痛みの形をしている。話題にするだけで、空気が変わる。

 

 リュウジは、即座に首を横に振った。

 

「違う」

 

 短い否定。けれど、その声は怒っていなかった。

 

「別の目的だ」

 

「……そっか」

 

 ルナはそれ以上、追及しなかった。

 

 追及したい気持ちはある。けれど、リュウジが“違う”と言ったなら、それが彼の境界線なのだと分かってしまう。無理に踏み込めば、彼はまた遠くへ行ってしまう気がした。

 

 だからルナは、話題を変えるように笑ってみせた。

 

「じゃあ……私の話してもいい?」

 

「……ああ」

 

 リュウジは頷く。その返事だけで、ルナの胸が少し緩んだ。

 

 二人は並んで歩き出した。ソリア学園へ向かう道。今まで何度も歩いたはずなのに、“並んで歩く”という事実が、ルナの視界を少しだけ明るくした。

 

「夏休み、ね……色々あったよ」

 

 ルナはゆっくりと言葉を探しながら、ひとつずつ思い出していく。

 

「シャアラとメノリと、映画に行ったの。アクション映画」

 

「そうなのか」

 

「うん。面白かったけど、メノリがね、『大袈裟すぎる』って顎に手当てながら言ってて」

 

 ルナが真似してみせると、リュウジの口元がほんの少しだけ緩んだ。

 

「メノリらしいな」

 

「でしょ? でも、結局、私とシャアラがからかったら真っ赤になって怒って」

 

「想像できる」

 

 リュウジがそう言う。淡々としているのに、そこに“皆の顔”がちゃんと浮かんでいるのが分かる。ルナはそれが嬉しくて、つい話が弾む。

 

「それでね、勉強もした。……本当だよ? ちゃんとしたやつ」

 

「疑ってない」

 

 リュウジがすぐに返す。ルナは少しだけ頬を膨らませた。

 

「疑ってないのに、その言い方、なんか引っかかる」

 

「気のせいだ」

 

「気のせいじゃないと思う」

 

 小さなやり取り。こんな風に言い合えるのが、ルナは嬉しかった。サヴァイヴの時の緊張感も、帰還してからの忙しさも、全部が遠のいて、今はただ“朝の道”にいる。

 

 それなのに。

 

 ふとした拍子にリュウジの横顔を見ると、やっぱり目の奥がどこか遠い。

 

 ルナは歩きながら、そっと尋ねた。

 

「……リュウジ、大丈夫?」

 

「何が」

 

「ううん、なんでもない」

 

 ルナは慌てて首を横に振った。自分で言っておいて、急に怖くなった。もし「大丈夫じゃない」と言われたら、どうしたらいいか分からないから。

 

 けれどリュウジは、少しだけ沈黙してから言った。

 

「……お前は、変わらないな」

 

「え?」

 

「……いや、いい」

 

 それきり、リュウジは口を閉じた。

 

 ルナは胸の奥に、小さな棘が刺さった気がした。

 

 変わらない。いい意味にも、悪い意味にも聞こえる。けれど、リュウジの言い方は、どこか懐かしむようで、少し痛そうだった。

 

 その空気を紛らわすように、ルナは別の話題を出す。

 

「そうだ、カオルが帰ってきたの」

 

 言った瞬間、リュウジの視線がわずかに揺れた。反応が早い。

 

「……カオルが?」

 

「うん。夏休みなのに訓練で帰ってこないと思ってたけど、少しだけ顔出してくれて。皆でレストランでご飯食べた」

 

「そうか」

 

 リュウジが短く答えた。その声色に、ほんの少しだけ温度が戻る。

 

「カオルね、接客が苦手なんだって。養成学校で接客の授業があるんだってさ」

 

「……あいつが?」

 

 リュウジの眉が一瞬だけ動いた。驚きとも、呆れともつかない。

 

「でね、エリンさんが講師で来てて。カオルだけ特別に、旅行会社で指導してくれるみたいって」

 

 ルナが言うと、リュウジは「……そうか」とまた短く返した。けれど、その一言に、色々な感情が折り重なっているのが分かった。

 

 ――エリン。

 

 その名前に、ルナの胸も少しだけ揺れる。

 

 リュウジが少しだけ視線を落とし、歩調を変えずに言った。

 

「カオルとは……この後、ソリア学園で会う」

 

「え? そうなの?」

 

 ルナが驚いて顔を上げると、リュウジは小さく頷いた。

 

「ああ。呼ばれた」

 

「呼ばれたって……カオルに?」

 

 ルナの問いに、リュウジはほんの少しだけ口を開きかけ――そして、閉じた。

 

 言いたくないわけじゃない。でも、言っていいのか分からない。そんな迷いが見えた。

 

 ルナは、そこで気づく。

 

 今朝、リュウジが作っていた笑み。

 

 あの笑みは、“隠すための笑み”だったのかもしれない。

 

 ルナは、もう一度、勇気を出して言った。

 

「……リュウジ」

 

「ん?」

 

「もし、私にできることがあったら……言ってね」

 

 言い終えた瞬間、ルナは自分の言葉が幼い気がして、少しだけ恥ずかしくなった。けれど、言わずにはいられなかった。

 

 リュウジは、まっすぐ前を見たまま、小さく息を吐いた。

 

「……ああ」

 

 たったそれだけの返事なのに、ルナの胸の奥がじんわり熱くなる。

 

 やがて、学園の門が見えてきた。

 

 生徒たちがちらほらと歩いている。夏休みの途中の登校日だから、人は少ない。それが逆に、妙に静かで、空気が澄んでいるように感じた。

 

「ねぇ、リュウジ」

 

 ルナは歩きながら、少しだけ笑って言った。

 

「今日、時間ある? 久しぶりに、皆で――」

 

 言いかけて、ルナは言葉を止めた。

 

 リュウジが、ふっと小さく笑ったのが見えたからだ。

 

 今度の笑みは、さっきより自然で、さっきより少しだけ――痛そうだった。

 

「……分からない」

 

 リュウジは正直に言った。

 

「呼ばれた用事が、どれくらいかかるか」

 

「そっか」

 

 ルナは頷いて、無理に笑った。

 

「じゃあ、終わったら連絡して。待ってる」

 

「ああ」

 

 リュウジは短く答える。

 

 その返事は、いつも通りなのに。

 

 ルナは心の中で、もう一度だけ思った。

 

 ――やっぱり、今日のリュウジはどこか違う。

 

 彼が“区切り”をつけて、次の道へ歩き出したはずなのに。

 

 歩き出した先で、何かが引っかかっているような、そんな顔。

 

 ルナは学園の門をくぐりながら、そっと背中のリュックの肩紐を握りしめた。

 

 この夏の終わりが、ただの季節の終わりじゃない気がして。

 

 胸の奥で、静かな予感が鳴っていた。

 

ーーーー

 

 校門の前でルナと別れたあと、リュウジは一度だけ振り返った。

 

 ルナは、こちらを見ていない。友だちに呼ばれたのか、小さく手を振ってから校舎の方へ足を向けている。夏の終わりの光を背中に受けて、髪がふわりと揺れた。

 

 ――あいつは、ちゃんと前を向ける。

 

 その眩しさが、今の自分には少し痛かった。

 

 リュウジは視線を切り、端末の通知を確認する。画面には短いメッセージ。

 

『柔道場の脇。今すぐ来い。 カオル』

 

 相変わらず、必要最低限。命令口調。だが、あいつなりの“会いたい”の言い方なのだと、リュウジはもう分かっている。

 

「……呼び出し方が雑だな」

 

 独りごちて歩き出す。校舎裏へ回り、体育施設の方へ。夏休み中の登校日だから、部活の音もいつもより控えめだ。遠くでボールの弾む音、誰かの笑い声が、どこかに残っている。

 

 柔道場が見えてきた。扉の脇、日陰に近い場所。そこに、背中を壁に預けた男が立っていた。

 

 カオル。

 

 制服の襟元はきっちり整っているが、表情は相変わらず仏頂面。目だけが、静かに獣みたいな光を持っている。

 

 リュウジが近づくと、カオルはちらりと視線を上げた。

 

「……急に呼び出して悪かったな」

 

「いや、構わないが。どうした?」

 

 リュウジは立ち止まって、カオルの正面に立つ。どちらも挨拶らしい挨拶はない。昔からそうだ。必要なことだけ言う。

 

 カオルは腕を組んだまま、少しだけ間を置いて言った。

 

「……いや。お前の近況を、知りたくてな」

 

 その言い方に、リュウジは一瞬だけ息を止めた。

 

 “近況”。

 

 そんな言葉をカオルが口にするのは珍しい。こいつはいつも、必要な情報を必要なだけ抜き取る。情緒のために会話をしない。だが今日のカオルは、どこか――探るというより、確かめるような目をしていた。

 

「……俺の近況、か」

 

 リュウジは短く笑って、視線を逸らす。柔道場の扉の向こうから、畳の匂いがする。懐かしい匂いだ。サヴァイヴの泥の匂いとは違う、整った人間世界の匂い。

 

「大したことじゃない」

 

 口に出した瞬間、自分でも嘘だと分かる。

 

 カオルは、誤魔化しを許さない目で黙っている。だからリュウジは、ため息の代わりに言葉を足した。

 

「……S級は返上した。もう知ってるだろ」

 

「ああ」

 

「それで、やりたいことの準備をしてる。まだ形にはなってないがな」

 

 カオルは頷いた。そこまでは想定通りらしい。

 

 リュウジは少しだけ指を開閉してから、次の言葉を吐き出す。

 

「……ペルシアの件は、正直、進展なしだ」

 

 空気が、わずかに硬くなる。

 

 カオルは口を挟まない。代わりに、目だけが一瞬で鋭くなる。リュウジは続けた。

 

「俺たちは動いた。ルナも、チャコも、メノリも、シンゴも、ベルも、シャアラも。だが、何も掴めなかった」

 

 口にしてみると、改めて虚しい。

 

「宇宙管理局は情報を伏せた。中も外も。ニュースだけが走って、処罰だけが報じられた。ペルシアの所在は不明。……マリに聞いても、降りてこない」

 

 リュウジは拳を握り、すぐにほどく。握り続けたら、何かを壊してしまいそうだった。

 

「……俺は一度、管制棟に行った」

 

 カオルの眉がわずかに動く。

 

「止められた。警備員と、クリスタルに」

 

「クリスタルが?」

 

「ああ。“通せない”ってな。S級じゃないから、って言われた」

 

 リュウジは笑う。だがそれは笑いではなく、ただ口角が上がっただけだった。

 

「正しい判断だ。規則も、立場も。……それでも、腹が立った」

 

 カオルは視線を落とした。ほんの少しだけ、息を吐く。

 

「……お前が腹を立てるのは、珍しいな」

 

「俺だって人間だ」

 

「知ってる」

 

 カオルの一言は、奇妙に優しかった。リュウジはその優しさが怖くて、肩をすくめた。

 

「それから一週間。結局、俺たちは諦めた」

 

「諦めた、か」

 

 カオルが低く繰り返す。

 

「諦めたわけじゃない。……止めただけだ。皆にも夢がある。俺にも、ある。ペルシアもそれを望んでるって、エリンさんが言った」

 

 リュウジの声は、最後の方で少し掠れた。

 

 カオルは静かに頷き、視線を柔道場の扉に向けた。まるで、その向こうに答えがあるかのように。

 

「……なるほどな」

 

 短い言葉。だが、カオルが納得していないのは分かる。納得はしていないが、理解はした。そういう顔だった。

 

 沈黙が落ちる。

 

 風が通り、校舎の向こうから誰かの笑い声が聞こえた。その音が、二人の間の現実味を強めた。

 

 リュウジは、話題を変えるように顎を上げた。

 

「で。お前の近況は?」

 

 カオルは少しだけ首を傾げ、そこから淡々と語り始める。

 

「スパーツィオ養成学校で訓練の毎日だ」

 

「ブライアンのところだったな」

 

「ああ。訓練はきつい。だが……無駄はない」

 

 それだけで、カオルが“充実している”と感じているのが伝わった。カオルは自分を飾らない。良いものは良いと言い、嫌なものは嫌だと言う。

 

「操縦の癖は、少しずつ直してる。余計な力が入ると軌道が乱れる。ブライアンに何度も殴られた」

 

「殴られるのか」

 

「言葉で分からないなら身体で覚えろって言われた」

 

 カオルは平然としている。リュウジは呆れたように息を吐いた。

 

「相変わらず昭和だな」

 

「だが、効く」

 

 カオルは言い切る。リュウジは、それが羨ましくもあった。自分は今、“効く痛み”から離れてしまっている。痛みはあるのに、方向が見えない。

 

 カオルは続けた。

 

「それと……接客の授業がある」

 

「……ああ、聞いたよ。エリンさんが来たんだろ」

 

 一瞬、カオルの瞳が揺れた。ほんの小さな揺れ。でも見逃せない。

 

「あの人は、容赦がない」

 

「知ってる」

 

「笑えって言われた。……無理だ」

 

「無理だろうな」

 

 即答すると、カオルが少しだけ睨んだ。リュウジは肩をすくめる。

 

「事実だ」

 

「……」

 

 カオルは反論せず、視線を逸らした。照れ隠しのようにも見える。

 

「それで、今度はハワード財閥の旅行会社で指導を受けることになった。特別だと」

 

「特別扱いされるの、嫌いだろ」

 

「嫌いだ」

 

「じゃあ何で受ける」

 

 カオルは、少しだけ黙ってから答えた。

 

「……必要だからだ」

 

 短い言葉が、重い。

 

 必要だからやる。カオルらしい。意地でも、逃げない。

 

 リュウジは小さく笑って、目を細めた。

 

「いいじゃないか。成長してる」

 

「……誰に言ってる」

 

「カオルに言ってる」

 

 カオルはふっと鼻で息を吐いた。笑ったのかどうかは分からない。でも少なくとも、嫌がってはいない。

 

 そこでカオルが、唐突に言った。

 

「最近、新たにS級パイロットが選出された」

 

 リュウジのまぶたがわずかに動く。胸の奥が、ちくりとした。

 

「……そうか」

 

「名前は、ブルンクリンだ」

 

「ブルンクリン……」

 

 聞いたことがあるような、ないような。だが、どちらにせよ――その名前が“新しい時代”の匂いを運んでくる。

 

 リュウジは、表情を崩さないように努めた。努めたつもりだった。

 

 しかしカオルは、リュウジの僅かな揺れを見逃さない。

 

「……気になるか」

 

「別に」

 

 リュウジは即答する。するとカオルは、少しだけ口角を上げた。

 

「嘘だな」

 

「……お前が言うな」

 

「俺は、嘘が下手だ」

 

「自覚あるのかよ」

 

 リュウジが言うと、カオルは肩をすくめた。

 

「ブルンクリンは、今の流れだ。お前が降りて、ブライアンが復帰して、空いたところに新しい奴が入る。自然だ」

 

 自然。

 

 その言葉が、リュウジの胸をざらつかせる。

 

 自分が“降りた”ことは、自分で選んだ。やりたいことを見つけた。区切りとして返上した。後悔はない。――そう言い切れるはずなのに。

 

 リュウジは、柔道場の扉を見た。

 

 畳の匂いが、ふっと強くなる。

 

 カオルが言う。

 

「……来い」

 

「は?」

 

「来い」

 

 カオルはもう一度言い、足を柔道場へ向けた。迷いのない背中。

 

 リュウジは眉を寄せる。

 

「何だよ、急に」

 

「確認したい」

 

「何を」

 

 カオルは扉の前で振り返り、淡々と告げた。

 

「お前が、降りた理由が本物かどうか」

 

 リュウジの喉が、一瞬だけ詰まった。

 

 ――本物。

 

 選んだ道に、揺れがないか。

 

 自分の中の“宙”が、まだしがみついていないか。

 

 カオルは続ける。

 

「それと……俺も確認したい。お前がいなくても、俺が前に進めるか」

 

 その言葉は、驚くほど正直だった。

 

 リュウジは数秒、言葉を失う。カオルがそんな言い方をするなんて。

 

 だが、だからこそ、逃げられない。

 

 リュウジはゆっくりと息を吐き、扉へ向かった。

 

「……分かった」

 

 畳の上に足を踏み入れると、空気が変わる。柔道場の空気は、嘘を許さない。身体が勝手に、昔の癖を思い出す。

 

 カオルが先に歩き、中央で立ち止まる。そして振り返る。

 

「手を抜くな」

 

「抜かねぇよ」

 

 リュウジは制服の上着を脱ぎ、腕まくりをした。カオルも同じようにする。二人の間に、いつもの言葉はいらない。

 

 ただ、ここで確かめる。

 

 自分が“宙”から降りた男として、立っていられるのか。

 

 そしてカオルが、“次の宙”へ行けるのか。

 

 柔道場の静けさの中で、二人の足音だけが、畳に小さく響いた。

 

ーーーー

 

 連絡事項の確認と、簡単なホームルームが終わった瞬間だった。

 

 担任が「それじゃ解散」と言うより早く、ルナは机の中から携帯端末を取り出して画面を開く。指が自然に、いつもの相手の名前を探していた。

 

『終わったよ。今どこ?』

 

 短いメッセージを打って送信する。送った直後、既読の表示が付くかどうか、ルナはほんの一秒だけ画面を見つめた。

 

 ――付かない。

 

 もう一度、画面を見直す。送信は確かに完了している。けれど、そこから先が動かない。

 

(……忙しいのかな)

 

 夏休みの終わりに見た、あの笑みを思い出す。作っているはずなのに、寂しさと悲しみを含んだ顔。あれが胸の奥に引っかかったまま、取れない。

 

 ルナは端末を伏せ、深呼吸した。

 

 放課後のようにみんなが集まる時間でもない。今日は登校日で、午前で終わり。思った以上に早く解放されてしまったぶん、逆に落ち着かない。

 

(どこかで待ってようかな……)

 

 そう思ったけれど、待つ場所を決めるにも、時間が中途半端だった。いつもなら生徒会室に顔を出してメノリの手伝いをしたり、図書室に寄ってシャアラと話したりできる。でも今日は、なぜか足が止まらない。リュウジから返事が来ないことが、心の中で何度も波みたいに寄せてくる。

 

(……探しに行こう)

 

 待つより、自分が動いたほうがいい。そう思って、ルナは廊下へ出た。

 

 人の少ない校舎は、どこか静かで、いつもより足音が響く。窓の向こう、夏の名残りの光が白く床に落ちている。掲示板、部活のポスター、廊下の端の水飲み場――見慣れたはずの景色が、今日はやけに鮮明だった。

 

 ルナは、柔道場の方角へ向かうわけでもなく、なんとなく学園内を歩く。教室棟を抜け、渡り廊下を渡り、体育館側の通路へ。

 

 その途中で、ふと耳に入った。

 

 ――どん、という鈍い音。

 

 床を叩く音ではない。畳の上で身体がぶつかり合うような、重い衝撃。

 

 ルナは足を止めた。

 

(……今の、何?)

 

 もう一度、音がする。今度は短く、息の吐き出しも混じった。

 

 ――シュッ、という風切り音。

 ――バン、と畳が鳴る音。

 

 ルナはゆっくりと歩き出し、音のする方へ近づく。体育施設の裏手、柔道場。扉の向こうから、確かに何かが起きている。

 

 ルナは息を殺して、扉の隙間から中を覗いた。

 

 瞬間、全身が固まった。

 

 柔道場の中央。畳の上で、二人が殴り合っていた。

 

 ――カオルと、リュウジ。

 

 否、正確には“殴り合い”という言葉は当てはまらない。攻撃しているのは主にカオルで、防いでいるのがリュウジ。いや、防いでいるというより……受けている。

 

 カオルの拳が、鋭く、無駄なく伸びる。踏み込みの速さ、体重の乗せ方、間合いの詰め方。訓練された動きだ。養成学校で積み上げたものが、今、ここに出ている。

 

 リュウジは立ってはいる。倒れない。けれど、どこか――“薄い”。

 

 反応が遅いわけではない。身体だけは動く。避ける、捌く、立ち上がる。だが、その目が、妙だった。

 

 焦点が合っていない。

 視線が、カオルの拳に追いついていない。

 

(……リュウジ?)

 

 ルナは喉の奥が冷たくなるのを感じた。

 

 カオルが右を打つ。リュウジが左へ体を流す。だが、その流し方が半拍遅い。肩に拳がかすめ、リュウジの身体が揺れた。

 

 カオルが追う。間合いを詰める。畳を踏む足音が鋭い。

 

「――っ!」

 

 リュウジが息を吐く。構え直そうとするが、そこで一瞬、体が止まった。

 

 その“止まり”に、カオルの怒りが乗る。

 

 拳が伸びる。リュウジの腹に当たり、鈍い音が柔道場に響いた。リュウジが膝を折りそうになるのを、なんとか踏みとどまる。

 

 それを見たカオルの目が、氷みたいに冷えた。

 

「……この程度か」

 

 低い声。苛立ちが滲む。

 

 リュウジは口角を歪め、息を整えようとする。だが整わない。呼吸が浅い。胸の奥のどこかが、まだ別の場所にいるみたいに。

 

 カオルの拳がまた来る。今度は頬。リュウジの頭が横に弾け、汗が飛んだ。

 

 それでもリュウジは立ち上がる。

 

 まるで――仮面を被っているみたいに。

 

 倒れないことだけが目的の人間のように。

 

 ルナはその姿が怖かった。

 

 サヴァイヴの時のリュウジは、こんなふうに“薄く”なかった。冷たい口調でも、距離を取っていても、芯があった。命のために動く強さがあった。

 

 今、目の前のリュウジは――何かを置いてきている。

 

 カオルが、その違和感を誰より先に嗅ぎ取っているのが分かった。

 

 模擬戦闘として始めたはずなのに、カオルの動きは次第に“確認”から“叩き潰す”に変わっていく。

 

(……止めなきゃ)

 

 そう思うのに、身体が動かない。

 

 ルナの見る前で、カオルが一歩踏み込む。拳を振るうだけじゃない。体をぶつけ、崩し、倒し、また立たせる。まるで――逃げ場を潰していくみたいに。

 

「お前……」

 

 カオルの声が、低く震えた。

 

「……何を迷ってる」

 

 リュウジが息を吐き出し、唇を拭う。血の味がするのか、舌で口角をなぞった。

 

「迷ってねぇ」

 

「嘘だ」

 

 カオルの言葉は短い。だが刃物みたいに鋭い。

 

 リュウジが拳を握り、前へ出ようとする。出ようとしたのに、動きが半歩遅れる。その瞬間、カオルの拳が肩に落ちた。衝撃でリュウジの体が沈む。

 

「……目が死んでる」

 

 カオルが吐き捨てる。

 

 リュウジが顔を上げる。そこに怒りはある。けれど、その怒りが“自分自身”に向いているように見えた。

 

「……ほざけ!」

 

 リュウジが叫ぶ。叫んだ声は強いのに、足元が揺れている。

 

 カオルは緩めない。むしろ、その言葉で火がついた。

 

「お前がS級を降りた理由は、そんなものなのか」

 

 カオルの拳が、畳を割る勢いで伸びる。リュウジは避けきれず、頬に当たった。音が響き、ルナの胸が痛む。

 

「やりたい事を見つけたって言ったな」

 

 カオルの声は、怒りに濡れている。

 

「区切りだって言ったな」

 

 リュウジは息を荒くしながら立つ。立つだけはできる。だが、目が追わない。カオルの動きを見切れていない。

 

「それが……これか」

 

 カオルの言葉に、苛立ちというより“がっかり”が混じった。

 

 その“がっかり”が、ルナの背筋を凍らせる。

 

 カオルはリュウジを見上げていた。あのカオルが。サヴァイヴで、誰にも期待しないように見えたカオルが、今、リュウジに期待していた。

 

 だからこそ、怒っている。

 

 カオルは間合いを詰め、最後の一撃を狙うように体重を乗せた。拳が、まっすぐリュウジの顔へ向かう。

 

 ――危ない。

 

 その瞬間、ルナの身体が勝手に動いた。

 

 扉を押し開け、畳の上へ踏み込む。

 

「カオル!!」

 

 声が柔道場に響く。

 

 カオルの拳が止まる。止まったのは拳だけじゃない。空気そのものが、ぴたりと止まった。

 

 リュウジの呼吸音が、はっきり聞こえる。荒い、浅い呼吸。

 

 カオルが振り返る。目が鋭い。今の怒りが、そのまま残っている。

 

「……ルナ」

 

 カオルは名前を呼んだだけで、それ以上言わない。ルナは一歩前に出て、二人の間に立った。

 

「やめて。……それ以上は、やめて」

 

 自分でも声が震えているのが分かる。でも止まらない。

 

「模擬戦闘なんでしょ? なら、ここまででいいじゃない」

 

「……手を抜いてる」

 

 カオルの声が低い。

 

「抜いてない」

 

 リュウジが言う。けれど、その言葉はどこか弱い。言い切っていない。

 

 ルナはリュウジを見る。頬に赤い跡、唇の端の傷。汗が首筋を伝っている。けれどそれ以上に――目が、遠い。

 

「リュウジ……」

 

 名前を呼んだ瞬間、リュウジがわずかに視線を動かした。ルナを見た。ちゃんと見た。そこに、ほんの一瞬だけ“素”のリュウジがいた。

 

 それを見て、ルナの胸が締め付けられる。

 

 カオルが息を吐く。怒りを飲み込もうとしているみたいに。

 

「……俺は確認したかっただけだ」

 

「確認って……」

 

「お前が降りた理由が本物かどうか」

 

 カオルが言う。

 

「それと、俺が……お前がいなくても前に進めるか」

 

 その言葉は、ルナには重すぎた。カオルがそんなことを言うこと自体が、重い。リュウジも、言葉を失っている。

 

 ルナは、ぎゅっと拳を握った。

 

「なら、殴り倒さなくても確認できるでしょ」

 

 言いながら、心の中で祈る。

 

(お願い……二人とも、壊れないで)

 

 カオルは黙ったまま、視線を床へ落とした。拳が少しだけ震えている。怒りか、悔しさか、分からない。

 

 リュウジは息を吐き、ようやく構えを解いた。肩の力が抜けていく。抜けた瞬間、膝がわずかに揺れる。

 

 ルナが反射的に手を伸ばしかけた。

 

 でも、その手は止まった。

 

 今は、支えたい。でも、簡単に支えたら、リュウジがまた仮面を被る気がしたから。

 

 カオルがぽつりと言う。

 

「……お前は、強いと思ってた」

 

 それは責める言葉じゃない。だから余計に刺さる。

 

 リュウジの唇が、きゅっと結ばれる。目を逸らす。

 

「……俺は」

 

 言いかけて、止まった。

 

 柔道場の静けさの中、ルナは二人の間に立ったまま、ただ息をする。

 

 止められた。止めた。でも――ここからどうすればいいのか、分からない。

 

 カオルの怒りの理由も、リュウジの“薄さ”の理由も、全部が繋がっているようで、繋がっていない。

 

 ただ一つ確かなのは。

 

 このまま放っておいたら、二人とも、どこかで折れる。

 

 ルナは喉の奥の痛みを飲み込み、もう一度、はっきり言った。

 

「……カオル。今日はもう終わり。お願い」

 

 カオルは少しだけ目を細め、やがて――小さく頷いた。

 

「……分かった」

 

 その返事に、ルナの胸の中の氷が少しだけ溶ける。

 

 でも次の瞬間、ルナはリュウジの横顔を見て、また不安になる。

 

 リュウジは笑っていない。

 

 仮面を被っていない、裸の顔で――ただ、どこか遠い場所を見ていた。

 

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