夏休みも、残りわずか。
カーテン越しに差し込む朝の光が、いつもより少しだけ白く感じた。ルナは枕元の端末を見て、日付を確かめる。――明日はまた休み、でも今日は“一度だけ登校する日”。夏休みの途中で指定される、連絡事項の確認と簡単なホームルーム。それだけなのに、どこか胸がそわそわした。
「チャコ、起きてる?」
返事はない。けれど、ベッドの足元で小さな機械音がして、ネコ型ロボットがぬるりと顔を上げた。
「……ウチ、起きとるで。夏休み終わるん早すぎへん?」
「ね。毎年思う」
ルナは苦笑して、父の形見のリュックを背負う。肩紐が馴染む感触に、無意識に背筋が伸びた。サヴァイヴで過ごした時間を思えば、こうして洋服に袖を通して学校へ向かうことさえ、夢みたいなのに。
朝食は軽く済ませて、家を出る。いつもの道。いつもの空気。なのに、夏の終わりが近づく匂いが混じっていて、季節がすこしだけ先を歩いているように感じる。
ソリア学園へ向かう道すがら、ルナはぼんやりと空を見上げた。コロニーの空はいつだって整っているはずなのに、今日は妙に広く感じた。
――その時。
前方に、見覚えのある背中があった。
歩幅。肩の線。短い黒髪の揺れ方。どこか周りと距離を取るような立ち姿。
ルナの身体が、ぴたりと固まった。
「……リュウジ?」
声に出す前に、胸の奥がきゅっと鳴った。夏休みの間、何度も連絡した。通話も、メッセージも。返事が来なかったわけじゃないけれど、どこか薄い返答ばかりで、ちゃんと会えないまま時間だけが過ぎた。
見間違いかもしれない、と一瞬思って――でも次の瞬間、確信に変わる。
リュウジだ。
ルナは息を吸い、勇気を絞るように喉を動かした。
「リュウジ!」
背中が止まる。ゆっくり振り返る。
そして、ルナの心臓が一度だけ強く跳ねた。
「……おはよう」
リュウジは、軽く笑みを作った。
作った、はずだった。
その笑みを見た瞬間、ルナの胸の奥に、すっと冷たいものが落ちた。
――あれ?
笑っているのに、どこか寂しさが混じっている。悲しみ、と言っていいのかもしれない。ほんの少しだけ、目の奥が遠い。いつもの無愛想とは違う。拒絶でもない。ただ、何かを抱えたまま、蓋をしている顔だ。
ルナは一歩近づいて、思わず眉を寄せた。
「……リュウジ、どうしたの?」
「何がだ?」
「なんか……」
言葉にしようとして、上手く形にならない。ルナは唇を噛み、結局、ストレートにぶつけた。
「夏休みの間、何してたの? 連絡も返さないで」
責めるつもりじゃなかった。けれど、抑えていた気持ちが、言葉の端に出てしまう。
リュウジは少しだけ目を伏せてから、空を見上げるように視線を逃がした。
「……ちょっと出かけていた」
「出かけてたって……どこに?」
「用事があっただけだ」
いつものリュウジなら、そこで会話を切る。けれど今日は、その“切り方”が妙に柔らかい。切りたいのに、切りきれない。そんな曖昧さが、逆にルナを不安にさせた。
ルナは躊躇いながらも、口にしてしまう。
「……ペルシアさんの件?」
言った瞬間、胸が締まった。ペルシアの名前は、今でも皆の中で痛みの形をしている。話題にするだけで、空気が変わる。
リュウジは、即座に首を横に振った。
「違う」
短い否定。けれど、その声は怒っていなかった。
「別の目的だ」
「……そっか」
ルナはそれ以上、追及しなかった。
追及したい気持ちはある。けれど、リュウジが“違う”と言ったなら、それが彼の境界線なのだと分かってしまう。無理に踏み込めば、彼はまた遠くへ行ってしまう気がした。
だからルナは、話題を変えるように笑ってみせた。
「じゃあ……私の話してもいい?」
「……ああ」
リュウジは頷く。その返事だけで、ルナの胸が少し緩んだ。
二人は並んで歩き出した。ソリア学園へ向かう道。今まで何度も歩いたはずなのに、“並んで歩く”という事実が、ルナの視界を少しだけ明るくした。
「夏休み、ね……色々あったよ」
ルナはゆっくりと言葉を探しながら、ひとつずつ思い出していく。
「シャアラとメノリと、映画に行ったの。アクション映画」
「そうなのか」
「うん。面白かったけど、メノリがね、『大袈裟すぎる』って顎に手当てながら言ってて」
ルナが真似してみせると、リュウジの口元がほんの少しだけ緩んだ。
「メノリらしいな」
「でしょ? でも、結局、私とシャアラがからかったら真っ赤になって怒って」
「想像できる」
リュウジがそう言う。淡々としているのに、そこに“皆の顔”がちゃんと浮かんでいるのが分かる。ルナはそれが嬉しくて、つい話が弾む。
「それでね、勉強もした。……本当だよ? ちゃんとしたやつ」
「疑ってない」
リュウジがすぐに返す。ルナは少しだけ頬を膨らませた。
「疑ってないのに、その言い方、なんか引っかかる」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないと思う」
小さなやり取り。こんな風に言い合えるのが、ルナは嬉しかった。サヴァイヴの時の緊張感も、帰還してからの忙しさも、全部が遠のいて、今はただ“朝の道”にいる。
それなのに。
ふとした拍子にリュウジの横顔を見ると、やっぱり目の奥がどこか遠い。
ルナは歩きながら、そっと尋ねた。
「……リュウジ、大丈夫?」
「何が」
「ううん、なんでもない」
ルナは慌てて首を横に振った。自分で言っておいて、急に怖くなった。もし「大丈夫じゃない」と言われたら、どうしたらいいか分からないから。
けれどリュウジは、少しだけ沈黙してから言った。
「……お前は、変わらないな」
「え?」
「……いや、いい」
それきり、リュウジは口を閉じた。
ルナは胸の奥に、小さな棘が刺さった気がした。
変わらない。いい意味にも、悪い意味にも聞こえる。けれど、リュウジの言い方は、どこか懐かしむようで、少し痛そうだった。
その空気を紛らわすように、ルナは別の話題を出す。
「そうだ、カオルが帰ってきたの」
言った瞬間、リュウジの視線がわずかに揺れた。反応が早い。
「……カオルが?」
「うん。夏休みなのに訓練で帰ってこないと思ってたけど、少しだけ顔出してくれて。皆でレストランでご飯食べた」
「そうか」
リュウジが短く答えた。その声色に、ほんの少しだけ温度が戻る。
「カオルね、接客が苦手なんだって。養成学校で接客の授業があるんだってさ」
「……あいつが?」
リュウジの眉が一瞬だけ動いた。驚きとも、呆れともつかない。
「でね、エリンさんが講師で来てて。カオルだけ特別に、旅行会社で指導してくれるみたいって」
ルナが言うと、リュウジは「……そうか」とまた短く返した。けれど、その一言に、色々な感情が折り重なっているのが分かった。
――エリン。
その名前に、ルナの胸も少しだけ揺れる。
リュウジが少しだけ視線を落とし、歩調を変えずに言った。
「カオルとは……この後、ソリア学園で会う」
「え? そうなの?」
ルナが驚いて顔を上げると、リュウジは小さく頷いた。
「ああ。呼ばれた」
「呼ばれたって……カオルに?」
ルナの問いに、リュウジはほんの少しだけ口を開きかけ――そして、閉じた。
言いたくないわけじゃない。でも、言っていいのか分からない。そんな迷いが見えた。
ルナは、そこで気づく。
今朝、リュウジが作っていた笑み。
あの笑みは、“隠すための笑み”だったのかもしれない。
ルナは、もう一度、勇気を出して言った。
「……リュウジ」
「ん?」
「もし、私にできることがあったら……言ってね」
言い終えた瞬間、ルナは自分の言葉が幼い気がして、少しだけ恥ずかしくなった。けれど、言わずにはいられなかった。
リュウジは、まっすぐ前を見たまま、小さく息を吐いた。
「……ああ」
たったそれだけの返事なのに、ルナの胸の奥がじんわり熱くなる。
やがて、学園の門が見えてきた。
生徒たちがちらほらと歩いている。夏休みの途中の登校日だから、人は少ない。それが逆に、妙に静かで、空気が澄んでいるように感じた。
「ねぇ、リュウジ」
ルナは歩きながら、少しだけ笑って言った。
「今日、時間ある? 久しぶりに、皆で――」
言いかけて、ルナは言葉を止めた。
リュウジが、ふっと小さく笑ったのが見えたからだ。
今度の笑みは、さっきより自然で、さっきより少しだけ――痛そうだった。
「……分からない」
リュウジは正直に言った。
「呼ばれた用事が、どれくらいかかるか」
「そっか」
ルナは頷いて、無理に笑った。
「じゃあ、終わったら連絡して。待ってる」
「ああ」
リュウジは短く答える。
その返事は、いつも通りなのに。
ルナは心の中で、もう一度だけ思った。
――やっぱり、今日のリュウジはどこか違う。
彼が“区切り”をつけて、次の道へ歩き出したはずなのに。
歩き出した先で、何かが引っかかっているような、そんな顔。
ルナは学園の門をくぐりながら、そっと背中のリュックの肩紐を握りしめた。
この夏の終わりが、ただの季節の終わりじゃない気がして。
胸の奥で、静かな予感が鳴っていた。
ーーーー
校門の前でルナと別れたあと、リュウジは一度だけ振り返った。
ルナは、こちらを見ていない。友だちに呼ばれたのか、小さく手を振ってから校舎の方へ足を向けている。夏の終わりの光を背中に受けて、髪がふわりと揺れた。
――あいつは、ちゃんと前を向ける。
その眩しさが、今の自分には少し痛かった。
リュウジは視線を切り、端末の通知を確認する。画面には短いメッセージ。
『柔道場の脇。今すぐ来い。 カオル』
相変わらず、必要最低限。命令口調。だが、あいつなりの“会いたい”の言い方なのだと、リュウジはもう分かっている。
「……呼び出し方が雑だな」
独りごちて歩き出す。校舎裏へ回り、体育施設の方へ。夏休み中の登校日だから、部活の音もいつもより控えめだ。遠くでボールの弾む音、誰かの笑い声が、どこかに残っている。
柔道場が見えてきた。扉の脇、日陰に近い場所。そこに、背中を壁に預けた男が立っていた。
カオル。
制服の襟元はきっちり整っているが、表情は相変わらず仏頂面。目だけが、静かに獣みたいな光を持っている。
リュウジが近づくと、カオルはちらりと視線を上げた。
「……急に呼び出して悪かったな」
「いや、構わないが。どうした?」
リュウジは立ち止まって、カオルの正面に立つ。どちらも挨拶らしい挨拶はない。昔からそうだ。必要なことだけ言う。
カオルは腕を組んだまま、少しだけ間を置いて言った。
「……いや。お前の近況を、知りたくてな」
その言い方に、リュウジは一瞬だけ息を止めた。
“近況”。
そんな言葉をカオルが口にするのは珍しい。こいつはいつも、必要な情報を必要なだけ抜き取る。情緒のために会話をしない。だが今日のカオルは、どこか――探るというより、確かめるような目をしていた。
「……俺の近況、か」
リュウジは短く笑って、視線を逸らす。柔道場の扉の向こうから、畳の匂いがする。懐かしい匂いだ。サヴァイヴの泥の匂いとは違う、整った人間世界の匂い。
「大したことじゃない」
口に出した瞬間、自分でも嘘だと分かる。
カオルは、誤魔化しを許さない目で黙っている。だからリュウジは、ため息の代わりに言葉を足した。
「……S級は返上した。もう知ってるだろ」
「ああ」
「それで、やりたいことの準備をしてる。まだ形にはなってないがな」
カオルは頷いた。そこまでは想定通りらしい。
リュウジは少しだけ指を開閉してから、次の言葉を吐き出す。
「……ペルシアの件は、正直、進展なしだ」
空気が、わずかに硬くなる。
カオルは口を挟まない。代わりに、目だけが一瞬で鋭くなる。リュウジは続けた。
「俺たちは動いた。ルナも、チャコも、メノリも、シンゴも、ベルも、シャアラも。だが、何も掴めなかった」
口にしてみると、改めて虚しい。
「宇宙管理局は情報を伏せた。中も外も。ニュースだけが走って、処罰だけが報じられた。ペルシアの所在は不明。……マリに聞いても、降りてこない」
リュウジは拳を握り、すぐにほどく。握り続けたら、何かを壊してしまいそうだった。
「……俺は一度、管制棟に行った」
カオルの眉がわずかに動く。
「止められた。警備員と、クリスタルに」
「クリスタルが?」
「ああ。“通せない”ってな。S級じゃないから、って言われた」
リュウジは笑う。だがそれは笑いではなく、ただ口角が上がっただけだった。
「正しい判断だ。規則も、立場も。……それでも、腹が立った」
カオルは視線を落とした。ほんの少しだけ、息を吐く。
「……お前が腹を立てるのは、珍しいな」
「俺だって人間だ」
「知ってる」
カオルの一言は、奇妙に優しかった。リュウジはその優しさが怖くて、肩をすくめた。
「それから一週間。結局、俺たちは諦めた」
「諦めた、か」
カオルが低く繰り返す。
「諦めたわけじゃない。……止めただけだ。皆にも夢がある。俺にも、ある。ペルシアもそれを望んでるって、エリンさんが言った」
リュウジの声は、最後の方で少し掠れた。
カオルは静かに頷き、視線を柔道場の扉に向けた。まるで、その向こうに答えがあるかのように。
「……なるほどな」
短い言葉。だが、カオルが納得していないのは分かる。納得はしていないが、理解はした。そういう顔だった。
沈黙が落ちる。
風が通り、校舎の向こうから誰かの笑い声が聞こえた。その音が、二人の間の現実味を強めた。
リュウジは、話題を変えるように顎を上げた。
「で。お前の近況は?」
カオルは少しだけ首を傾げ、そこから淡々と語り始める。
「スパーツィオ養成学校で訓練の毎日だ」
「ブライアンのところだったな」
「ああ。訓練はきつい。だが……無駄はない」
それだけで、カオルが“充実している”と感じているのが伝わった。カオルは自分を飾らない。良いものは良いと言い、嫌なものは嫌だと言う。
「操縦の癖は、少しずつ直してる。余計な力が入ると軌道が乱れる。ブライアンに何度も殴られた」
「殴られるのか」
「言葉で分からないなら身体で覚えろって言われた」
カオルは平然としている。リュウジは呆れたように息を吐いた。
「相変わらず昭和だな」
「だが、効く」
カオルは言い切る。リュウジは、それが羨ましくもあった。自分は今、“効く痛み”から離れてしまっている。痛みはあるのに、方向が見えない。
カオルは続けた。
「それと……接客の授業がある」
「……ああ、聞いたよ。エリンさんが来たんだろ」
一瞬、カオルの瞳が揺れた。ほんの小さな揺れ。でも見逃せない。
「あの人は、容赦がない」
「知ってる」
「笑えって言われた。……無理だ」
「無理だろうな」
即答すると、カオルが少しだけ睨んだ。リュウジは肩をすくめる。
「事実だ」
「……」
カオルは反論せず、視線を逸らした。照れ隠しのようにも見える。
「それで、今度はハワード財閥の旅行会社で指導を受けることになった。特別だと」
「特別扱いされるの、嫌いだろ」
「嫌いだ」
「じゃあ何で受ける」
カオルは、少しだけ黙ってから答えた。
「……必要だからだ」
短い言葉が、重い。
必要だからやる。カオルらしい。意地でも、逃げない。
リュウジは小さく笑って、目を細めた。
「いいじゃないか。成長してる」
「……誰に言ってる」
「カオルに言ってる」
カオルはふっと鼻で息を吐いた。笑ったのかどうかは分からない。でも少なくとも、嫌がってはいない。
そこでカオルが、唐突に言った。
「最近、新たにS級パイロットが選出された」
リュウジのまぶたがわずかに動く。胸の奥が、ちくりとした。
「……そうか」
「名前は、ブルンクリンだ」
「ブルンクリン……」
聞いたことがあるような、ないような。だが、どちらにせよ――その名前が“新しい時代”の匂いを運んでくる。
リュウジは、表情を崩さないように努めた。努めたつもりだった。
しかしカオルは、リュウジの僅かな揺れを見逃さない。
「……気になるか」
「別に」
リュウジは即答する。するとカオルは、少しだけ口角を上げた。
「嘘だな」
「……お前が言うな」
「俺は、嘘が下手だ」
「自覚あるのかよ」
リュウジが言うと、カオルは肩をすくめた。
「ブルンクリンは、今の流れだ。お前が降りて、ブライアンが復帰して、空いたところに新しい奴が入る。自然だ」
自然。
その言葉が、リュウジの胸をざらつかせる。
自分が“降りた”ことは、自分で選んだ。やりたいことを見つけた。区切りとして返上した。後悔はない。――そう言い切れるはずなのに。
リュウジは、柔道場の扉を見た。
畳の匂いが、ふっと強くなる。
カオルが言う。
「……来い」
「は?」
「来い」
カオルはもう一度言い、足を柔道場へ向けた。迷いのない背中。
リュウジは眉を寄せる。
「何だよ、急に」
「確認したい」
「何を」
カオルは扉の前で振り返り、淡々と告げた。
「お前が、降りた理由が本物かどうか」
リュウジの喉が、一瞬だけ詰まった。
――本物。
選んだ道に、揺れがないか。
自分の中の“宙”が、まだしがみついていないか。
カオルは続ける。
「それと……俺も確認したい。お前がいなくても、俺が前に進めるか」
その言葉は、驚くほど正直だった。
リュウジは数秒、言葉を失う。カオルがそんな言い方をするなんて。
だが、だからこそ、逃げられない。
リュウジはゆっくりと息を吐き、扉へ向かった。
「……分かった」
畳の上に足を踏み入れると、空気が変わる。柔道場の空気は、嘘を許さない。身体が勝手に、昔の癖を思い出す。
カオルが先に歩き、中央で立ち止まる。そして振り返る。
「手を抜くな」
「抜かねぇよ」
リュウジは制服の上着を脱ぎ、腕まくりをした。カオルも同じようにする。二人の間に、いつもの言葉はいらない。
ただ、ここで確かめる。
自分が“宙”から降りた男として、立っていられるのか。
そしてカオルが、“次の宙”へ行けるのか。
柔道場の静けさの中で、二人の足音だけが、畳に小さく響いた。
ーーーー
連絡事項の確認と、簡単なホームルームが終わった瞬間だった。
担任が「それじゃ解散」と言うより早く、ルナは机の中から携帯端末を取り出して画面を開く。指が自然に、いつもの相手の名前を探していた。
『終わったよ。今どこ?』
短いメッセージを打って送信する。送った直後、既読の表示が付くかどうか、ルナはほんの一秒だけ画面を見つめた。
――付かない。
もう一度、画面を見直す。送信は確かに完了している。けれど、そこから先が動かない。
(……忙しいのかな)
夏休みの終わりに見た、あの笑みを思い出す。作っているはずなのに、寂しさと悲しみを含んだ顔。あれが胸の奥に引っかかったまま、取れない。
ルナは端末を伏せ、深呼吸した。
放課後のようにみんなが集まる時間でもない。今日は登校日で、午前で終わり。思った以上に早く解放されてしまったぶん、逆に落ち着かない。
(どこかで待ってようかな……)
そう思ったけれど、待つ場所を決めるにも、時間が中途半端だった。いつもなら生徒会室に顔を出してメノリの手伝いをしたり、図書室に寄ってシャアラと話したりできる。でも今日は、なぜか足が止まらない。リュウジから返事が来ないことが、心の中で何度も波みたいに寄せてくる。
(……探しに行こう)
待つより、自分が動いたほうがいい。そう思って、ルナは廊下へ出た。
人の少ない校舎は、どこか静かで、いつもより足音が響く。窓の向こう、夏の名残りの光が白く床に落ちている。掲示板、部活のポスター、廊下の端の水飲み場――見慣れたはずの景色が、今日はやけに鮮明だった。
ルナは、柔道場の方角へ向かうわけでもなく、なんとなく学園内を歩く。教室棟を抜け、渡り廊下を渡り、体育館側の通路へ。
その途中で、ふと耳に入った。
――どん、という鈍い音。
床を叩く音ではない。畳の上で身体がぶつかり合うような、重い衝撃。
ルナは足を止めた。
(……今の、何?)
もう一度、音がする。今度は短く、息の吐き出しも混じった。
――シュッ、という風切り音。
――バン、と畳が鳴る音。
ルナはゆっくりと歩き出し、音のする方へ近づく。体育施設の裏手、柔道場。扉の向こうから、確かに何かが起きている。
ルナは息を殺して、扉の隙間から中を覗いた。
瞬間、全身が固まった。
柔道場の中央。畳の上で、二人が殴り合っていた。
――カオルと、リュウジ。
否、正確には“殴り合い”という言葉は当てはまらない。攻撃しているのは主にカオルで、防いでいるのがリュウジ。いや、防いでいるというより……受けている。
カオルの拳が、鋭く、無駄なく伸びる。踏み込みの速さ、体重の乗せ方、間合いの詰め方。訓練された動きだ。養成学校で積み上げたものが、今、ここに出ている。
リュウジは立ってはいる。倒れない。けれど、どこか――“薄い”。
反応が遅いわけではない。身体だけは動く。避ける、捌く、立ち上がる。だが、その目が、妙だった。
焦点が合っていない。
視線が、カオルの拳に追いついていない。
(……リュウジ?)
ルナは喉の奥が冷たくなるのを感じた。
カオルが右を打つ。リュウジが左へ体を流す。だが、その流し方が半拍遅い。肩に拳がかすめ、リュウジの身体が揺れた。
カオルが追う。間合いを詰める。畳を踏む足音が鋭い。
「――っ!」
リュウジが息を吐く。構え直そうとするが、そこで一瞬、体が止まった。
その“止まり”に、カオルの怒りが乗る。
拳が伸びる。リュウジの腹に当たり、鈍い音が柔道場に響いた。リュウジが膝を折りそうになるのを、なんとか踏みとどまる。
それを見たカオルの目が、氷みたいに冷えた。
「……この程度か」
低い声。苛立ちが滲む。
リュウジは口角を歪め、息を整えようとする。だが整わない。呼吸が浅い。胸の奥のどこかが、まだ別の場所にいるみたいに。
カオルの拳がまた来る。今度は頬。リュウジの頭が横に弾け、汗が飛んだ。
それでもリュウジは立ち上がる。
まるで――仮面を被っているみたいに。
倒れないことだけが目的の人間のように。
ルナはその姿が怖かった。
サヴァイヴの時のリュウジは、こんなふうに“薄く”なかった。冷たい口調でも、距離を取っていても、芯があった。命のために動く強さがあった。
今、目の前のリュウジは――何かを置いてきている。
カオルが、その違和感を誰より先に嗅ぎ取っているのが分かった。
模擬戦闘として始めたはずなのに、カオルの動きは次第に“確認”から“叩き潰す”に変わっていく。
(……止めなきゃ)
そう思うのに、身体が動かない。
ルナの見る前で、カオルが一歩踏み込む。拳を振るうだけじゃない。体をぶつけ、崩し、倒し、また立たせる。まるで――逃げ場を潰していくみたいに。
「お前……」
カオルの声が、低く震えた。
「……何を迷ってる」
リュウジが息を吐き出し、唇を拭う。血の味がするのか、舌で口角をなぞった。
「迷ってねぇ」
「嘘だ」
カオルの言葉は短い。だが刃物みたいに鋭い。
リュウジが拳を握り、前へ出ようとする。出ようとしたのに、動きが半歩遅れる。その瞬間、カオルの拳が肩に落ちた。衝撃でリュウジの体が沈む。
「……目が死んでる」
カオルが吐き捨てる。
リュウジが顔を上げる。そこに怒りはある。けれど、その怒りが“自分自身”に向いているように見えた。
「……ほざけ!」
リュウジが叫ぶ。叫んだ声は強いのに、足元が揺れている。
カオルは緩めない。むしろ、その言葉で火がついた。
「お前がS級を降りた理由は、そんなものなのか」
カオルの拳が、畳を割る勢いで伸びる。リュウジは避けきれず、頬に当たった。音が響き、ルナの胸が痛む。
「やりたい事を見つけたって言ったな」
カオルの声は、怒りに濡れている。
「区切りだって言ったな」
リュウジは息を荒くしながら立つ。立つだけはできる。だが、目が追わない。カオルの動きを見切れていない。
「それが……これか」
カオルの言葉に、苛立ちというより“がっかり”が混じった。
その“がっかり”が、ルナの背筋を凍らせる。
カオルはリュウジを見上げていた。あのカオルが。サヴァイヴで、誰にも期待しないように見えたカオルが、今、リュウジに期待していた。
だからこそ、怒っている。
カオルは間合いを詰め、最後の一撃を狙うように体重を乗せた。拳が、まっすぐリュウジの顔へ向かう。
――危ない。
その瞬間、ルナの身体が勝手に動いた。
扉を押し開け、畳の上へ踏み込む。
「カオル!!」
声が柔道場に響く。
カオルの拳が止まる。止まったのは拳だけじゃない。空気そのものが、ぴたりと止まった。
リュウジの呼吸音が、はっきり聞こえる。荒い、浅い呼吸。
カオルが振り返る。目が鋭い。今の怒りが、そのまま残っている。
「……ルナ」
カオルは名前を呼んだだけで、それ以上言わない。ルナは一歩前に出て、二人の間に立った。
「やめて。……それ以上は、やめて」
自分でも声が震えているのが分かる。でも止まらない。
「模擬戦闘なんでしょ? なら、ここまででいいじゃない」
「……手を抜いてる」
カオルの声が低い。
「抜いてない」
リュウジが言う。けれど、その言葉はどこか弱い。言い切っていない。
ルナはリュウジを見る。頬に赤い跡、唇の端の傷。汗が首筋を伝っている。けれどそれ以上に――目が、遠い。
「リュウジ……」
名前を呼んだ瞬間、リュウジがわずかに視線を動かした。ルナを見た。ちゃんと見た。そこに、ほんの一瞬だけ“素”のリュウジがいた。
それを見て、ルナの胸が締め付けられる。
カオルが息を吐く。怒りを飲み込もうとしているみたいに。
「……俺は確認したかっただけだ」
「確認って……」
「お前が降りた理由が本物かどうか」
カオルが言う。
「それと、俺が……お前がいなくても前に進めるか」
その言葉は、ルナには重すぎた。カオルがそんなことを言うこと自体が、重い。リュウジも、言葉を失っている。
ルナは、ぎゅっと拳を握った。
「なら、殴り倒さなくても確認できるでしょ」
言いながら、心の中で祈る。
(お願い……二人とも、壊れないで)
カオルは黙ったまま、視線を床へ落とした。拳が少しだけ震えている。怒りか、悔しさか、分からない。
リュウジは息を吐き、ようやく構えを解いた。肩の力が抜けていく。抜けた瞬間、膝がわずかに揺れる。
ルナが反射的に手を伸ばしかけた。
でも、その手は止まった。
今は、支えたい。でも、簡単に支えたら、リュウジがまた仮面を被る気がしたから。
カオルがぽつりと言う。
「……お前は、強いと思ってた」
それは責める言葉じゃない。だから余計に刺さる。
リュウジの唇が、きゅっと結ばれる。目を逸らす。
「……俺は」
言いかけて、止まった。
柔道場の静けさの中、ルナは二人の間に立ったまま、ただ息をする。
止められた。止めた。でも――ここからどうすればいいのか、分からない。
カオルの怒りの理由も、リュウジの“薄さ”の理由も、全部が繋がっているようで、繋がっていない。
ただ一つ確かなのは。
このまま放っておいたら、二人とも、どこかで折れる。
ルナは喉の奥の痛みを飲み込み、もう一度、はっきり言った。
「……カオル。今日はもう終わり。お願い」
カオルは少しだけ目を細め、やがて――小さく頷いた。
「……分かった」
その返事に、ルナの胸の中の氷が少しだけ溶ける。
でも次の瞬間、ルナはリュウジの横顔を見て、また不安になる。
リュウジは笑っていない。
仮面を被っていない、裸の顔で――ただ、どこか遠い場所を見ていた。