サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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作り笑い

 柔道場の空気は、まだ熱を残していた。

 

 畳の上に落ちた汗が、じんわりと広がる匂い。拳がかすめた風の感触が、まだ頬に残っている気がする。ルナが間に入って止めたはずなのに、止まったのは“動き”だけで、感情は止まっていなかった。

 

 カオルは「分かった」と言ったあと、しばらく何も言わずに視線を床に落としていた。リュウジも、構えを解いたまま呼吸を整えようとしている。

 

 沈黙が長引きそうで――ルナは、息を吸った。

 

「……カオル、先に戻って」

 

 自分でも驚くくらい、声が落ち着いて出た。

 

 カオルが顔を上げる。目だけで問いかけてくる。

 

「私……リュウジと話すから」

 

 カオルの視線がリュウジへ移る。リュウジは何も言わない。否定も肯定もしない。ただ、いつもの“無関心”の仮面が薄く戻ってきているのが分かる。

 

 カオルは小さく舌打ちしそうな顔をしたけれど、それを飲み込んだ。

 

「……倒れるなよ」

 

 誰に言ったのか分からない言葉を残して、カオルは畳を踏んで出口へ向かった。扉が閉まる音がして、柔道場にはルナとリュウジだけが残る。

 

 静かだった。

 

 さっきまで拳が飛び、息がぶつかり、怒鳴り声が響いていたのが嘘みたいに。

 

 ルナは、ゆっくりとリュウジに向き直った。

 

 近くで見ると、痛々しい。頬の赤い跡、唇の端の切れ、襟元に滲む汗。なのに――ルナの胸を締め付けるのは、怪我の見た目じゃない。

 

 リュウジの目だった。

 

 焦点が合っていないわけじゃない。ルナのことは見ている。けれど、見ている“だけ”で、ここにいないみたいに感じる。

 

 ルナは、喉の奥がひりつくのを堪えて言った。

 

「……大丈夫なの?」

 

 言った瞬間、自分の声が少し震えた。ここで泣いたら駄目だ、と分かっている。泣いたら、リュウジはまた距離を取る。心配の形を“面倒”と切り捨てる。

 

 だからルナは、泣かないように息を細くした。

 

 リュウジは短く答えた。

 

「大丈夫だ」

 

 いつもの声。冷たいわけじゃないけれど、温度がない。自分の痛みにも、ルナの心配にも。

 

 ルナは首を横に振った。

 

「……怪我のことじゃない」

 

 その言葉で、リュウジの眉がほんの少しだけ動いた。ほんの少し。けれどルナは見逃さなかった。

 

 ルナは一歩近づいた。距離を詰めると、リュウジの汗の匂いがわずかに混じる。あの日、テーマパークでイルミネーションを見ていた時の匂いとは違う。今は、戦っている匂い。追い詰められている匂い。

 

「ねぇ、リュウジ」

 

 ルナの声は、柔道場の静けさに吸い込まれるみたいに小さかった。

 

「何か隠してることがあるよね」

 

 言ってしまった。

 

 言うつもりは、半分しかなかった。半分は、ただ“聞きたい”だけだった。確信が欲しいんじゃない。“違う”って言ってほしいだけだったのかもしれない。

 

 リュウジの表情が、ほんの少し固くなる。

 

「そんなものはない」

 

 即答だった。

 

「心配するな」

 

 その言葉が、ルナの胸に小さな棘みたいに刺さった。

 

(心配するな、って……)

 

 ルナは思う。

 

 リュウジは、心配されることを拒む。昔からそうだ。助けられるより、助ける側でいたい。弱さを見せたくない。見せたら、何かが終わる気がしているみたいに。

 

 けれど、ルナはもう知ってしまっている。

 

 サヴァイヴで、仲間が支え合わなければ生きられなかった夜を。

 一人で抱えた不安が、ほんの少しの言葉で救われた瞬間を。

 そして――リュウジが“強いまま”じゃいられない日があることを。

 

 ルナは、握り拳をほどいた。手のひらに爪の跡が残っている。気づかないくらい、さっきから力が入っていたのだ。

 

「……心配するよ」

 

 ルナは、静かに言った。

 

「だって、私たち……仲間でしょ」

 

 リュウジの視線が、わずかに揺れる。仲間。そう言われるのが苦手な顔をする時がある。距離を取るための言葉を探しているような、ほんの一瞬の沈黙。

 

 ルナは続けた。

 

「今日、カオルに殴られて……そんなこと、私が言うのも変だけど」

 

 言いながら、喉の奥がまた熱くなる。見てしまった。止めてしまった。止めたのに、何も終わっていない。

 

「リュウジ、いつもだったら……あんなふうに受けない」

 

 リュウジは目を逸らした。

 

「カオルが強くなっただけだろ」

 

 言い訳みたいに聞こえた。ルナは、それが苦しくて、唇を噛んだ。

 

「違う」

 

 ルナは首を横に振った。否定したいんじゃない。リュウジに“そうじゃない”って、気づいてほしい。

 

「カオルも強くなった。もちろん。すごいよ、あの動き。……でも」

 

 ルナは、言葉を選びながら、必死に繋ぐ。

 

「リュウジが……どこか、いなかった」

 

 言った瞬間、柔道場の空気が冷えた気がした。

 

 リュウジがルナを見る。

 

 その目が、鋭い――けれど、その鋭さの奥に、疲れがある。疲れているのに、疲れを見せない目。

 

「……いなかった、ってなんだ」

 

 声が低い。

 

 ルナは一瞬、息を止めた。怖いわけじゃない。ここで間違えたら、リュウジは心の扉を閉める。そう分かっているから、怖い。

 

 ルナは、胸の奥を押さえるように言った。

 

「……ここにいるのに、心がどこか遠くにあるみたいに」

 

 リュウジの表情が、ほんの少しだけ崩れる。

 

 その崩れ方が、ルナの心をさらに痛くした。

 

 リュウジは、すぐに戻そうとした。仮面を被り直すみたいに、口角をほんの僅かに上げようとする。でも上がらない。

 

 そのまま、リュウジは短く言った。

 

「……気のせいだ」

 

 ルナは笑えなかった。

 

「気のせいじゃない」

 

 ルナは、いつもみたいに明るく言えなかった。声が感傷的に沈む。自分でも分かる。弱い声だ。頼りない声だ。リーダーの声じゃない。

 

 でも今は、リーダーじゃなくていい。

 

 ルナは、ただ、ルナとしてここにいる。

 

「夏休みの間……連絡、返してくれなかった」

 

 リュウジは黙る。

 

「ちょっと出かけてたって言った」

 

 リュウジは黙る。

 

「ペルシアさんの件じゃないって言った」

 

 リュウジは黙る。

 

「……でも」

 

 ルナは息を吸い、吐きながら、言葉を落とす。

 

「笑ってたのに、悲しそうだった」

 

 その言葉で、リュウジの肩がわずかに落ちた。ほんの僅か。たったそれだけで、ルナは胸が締めつけられる。

 

 リュウジは、ゆっくりと畳に腰を下ろした。いつもなら立ったまま、話を終わらせようとするのに。

 

 ルナは、少し遅れて同じように畳に座った。距離は空けたまま。近づきすぎたら、逃げられる気がしたから。

 

 二人の間に、柔道場の静けさが広がる。

 

 ルナは、畳の縁の糸を指でなぞった。指先が少し震えている。

 

「リュウジ」

 

 名前を呼ぶと、リュウジが短く「ん」と返す。

 

 その返事が、今日一番優しく聞こえた。

 

「隠してることがあるなら……無理に言わなくてもいい」

 

 ルナは言った。

 

 リュウジが少しだけ顔を上げる。

 

「でも、私に嘘はつかないで」

 

 ルナは、まっすぐに言った。

 

「心配するな、って言われると……私、どこにも行けなくなる」

 

 リュウジの眉が少しだけ寄る。

 

「……どこにも行けなくなる?」

 

 ルナは、小さく頷いた。

 

「だって、心配しちゃいけないなら、私は何をすればいいの?」

 

 言いながら、喉が熱くなる。

 

「サヴァイヴの時、私たち……みんなで生きた」

 

 ルナは続ける。

 

「一人で背負わないって……私、あの時、学んだのに」

 

 それは自分に言い聞かせるみたいでもあった。ルナはずっと、強くあろうとしてきた。明るく、前向きで、みんなを引っ張るリーダーでいるために、不安を隠してきた。

 

 でも、隠したままじゃ壊れる。

 

 それを、サヴァイヴで知った。

 

 だから――リュウジが隠しているなら、同じ道を辿ってほしくない。

 

 リュウジはしばらく黙っていた。

 

 ルナは、その沈黙の間、何度も“余計なことを言ったかもしれない”と思う。けれど、もう止められなかった。

 

 リュウジが、低い声で言った。

 

「……俺は」

 

 言いかけて止まる。

 

 その止まり方が、ルナの胸を掴む。

 

「俺は……そんな器用じゃない」

 

 リュウジは言った。

 

「誰かに頼って、弱いところを見せて、慰めてもらって……そういうの」

 

 言いながら、リュウジは少し笑った。笑ったのに、苦い。

 

「向いてない」

 

 ルナは、首を横に振った。

 

「向いてるとか、向いてないとかじゃないよ」

 

 ルナは言った。

 

「……生きるって、そういうことだよ」

 

 リュウジがルナを見る。目が少しだけ揺れている。

 

 ルナは、そこで気づいてしまった。

 

 リュウジは、“言えない”のではなく、“言わない”のではなく――“言ったら終わる”と思っている。

 

 言葉にした瞬間、区切りをつけたはずのものが、また自分を縛り直す。

 やりたいことへ進むために切ったはずの線が、また後ろへ引き戻す。

 

 だから、言えない。

 

 ルナは、胸の奥が痛んだ。

 

「ねぇ」

 

 ルナは、声を落とした。

 

「私……リュウジがやりたいこと、聞かないって決めてた」

 

 リュウジが小さく目を見開く。

 

 ルナは続けた。

 

「だって、言い出せないことなら、無理に引きずり出したくないし」

 

 ルナは、少しだけ笑った。自分を落ち着かせるための笑み。

 

「でも……隠してるのが“やりたいこと”の話じゃなくて」

 

 笑みが消える。

 

「……もっと別のことなら、私は放っておけない」

 

 リュウジは、視線を畳に落とした。

 

 沈黙が落ちる。

 

 ルナは、その沈黙の中で、心の中の“恐怖”と向き合う。

 

(もし、リュウジが――また一人でどこかに行こうとしてるなら)

 

 ペルシアの件があってから、ルナは“取り返しのつかない別れ”の匂いに敏感になってしまった。

 

 誰かが遠くに行く気配。

 言葉の端に滲む諦め。

 笑っているのに、目が悲しい。

 

 全部が怖い。

 

 ルナは、そっと言った。

 

「……お願い」

 

 リュウジが顔を上げる。

 

「私を置いていかないで」

 

 言った瞬間、ルナは自分で驚いた。

 

 こんなこと、言うつもりじゃなかった。甘えるつもりはなかった。けれど、言葉が勝手に出てしまった。胸の奥の怖さが、そのまま。

 

 リュウジの目が、揺れる。

 

 そして、ほんの少しだけ、ルナが知っている“素”のリュウジが顔を出した。

 

 リュウジは、ゆっくり息を吐き、短く言った。

 

「……置いていかない」

 

 ルナの胸が、ふっと軽くなる。

 

 でも、同時に――その言葉が“約束”ではなく“願い”に聞こえてしまう自分がいて、また苦しくなる。

 

 ルナは、慎重に、もう一歩踏み込んだ。

 

「じゃあ……何も隠してないって言うのも、本当?」

 

 リュウジは、一瞬だけ黙った。

 

 その一瞬が、答えだった。

 

 ルナは、視線を落とした。涙が出そうになるのをこらえる。ここで泣いたら、リュウジはもっと黙る。だから泣かない。

 

 リュウジが低い声で言う。

 

「……心配するな」

 

 またその言葉。

 

 ルナは、ゆっくり首を横に振った。

 

「その言葉、嫌い」

 

 言い切ってしまった。自分でも驚く。けれど、止められない。

 

「心配するな、って言われると」

 

 ルナは息を吸う。

 

「私、置いていかれる気がする」

 

 リュウジの目が、ほんの少しだけ見開かれた。

 

 ルナは、畳の上で膝を抱えた。自分を小さくするみたいに。

 

「……私、怖いんだよ」

 

 ルナは小さく言った。

 

「大事な人が、黙ったまま遠くに行くのが」

 

 サヴァイヴで、何度も“いなくなるかもしれない”恐怖を味わった。帰還してからも、ペルシアの件でそれを突きつけられた。

 

 リュウジは、何か言おうとした。でも、言葉が出ない。

 

 ルナは、そこで少しだけ笑ってみせた。泣かないための笑い。

 

「……ごめん。重いよね」

 

 リュウジが、低く言う。

 

「……重くない」

 

 その否定が、ルナの胸をさらに締め付ける。優しさが痛い。

 

 ルナは、顔を上げた。

 

「じゃあ、約束して」

 

 リュウジが眉を寄せる。

 

「何を」

 

 ルナは、まっすぐ言った。

 

「隠してることがあるなら、今じゃなくていい」

 

 そして、言葉を選んで続ける。

 

「でも、私の前で“いなくなる顔”はしないで」

 

 リュウジが息を止める。

 

 ルナは続けた。

 

「笑うなら、ちゃんと笑って」

 

「……」

 

「悲しいなら、悲しいって言って」

 

 その瞬間、リュウジの肩が少しだけ震えた。

 

 ルナはそれを見て、胸の奥がきゅっとなる。泣きそうになる。けれど、耐えた。

 

 リュウジが、やっと言った。

 

「……そんなものはない」

 

 また同じ言葉。けれど、今度は声が少し違った。強がりの硬さの下に、ひびが入っている。

 

 ルナは、その“ひび”に希望を見た。

 

「じゃあ」

 

 ルナはそっと言う。

 

「心配するな、じゃなくて……大丈夫だって言って」

 

 リュウジが、少しだけ目を細める。

 

「大丈夫だ」

 

 同じ言葉なのに、さっきより優しく聞こえた。

 

 ルナは小さく頷いた。

 

「……うん」

 

 そして、ルナはゆっくり立ち上がった。畳の端に手をついて。足が少し震えている。自分でも分かる。怖かった。

 

 リュウジも立ち上がる。体がまだ重そうだ。怪我じゃない疲れが、身体の奥に残っている。

 

 ルナは言った。

 

「帰ろう。……このまま、ここにいたら」

 

 言葉が途切れる。胸が苦しい。

 

「私、また勝手に想像しちゃうから」

 

 リュウジは、短く「……ああ」と言った。

 

 柔道場の出口に向かいながら、ルナは最後にもう一度だけ振り返った。

 

 リュウジの横顔。

 

 さっきより少しだけ、悲しさが薄い気がした。

 

 それでもまだ――完全には晴れていない。

 

 ルナは心の中で、静かに思った。

 

(隠してることがある。……でも、今はそれでもいい)

 

(ただ、置いていかれないって信じたい)

 

 廊下に出ると、外の光が眩しかった。

 

 夏の終わりの匂いが、窓から流れ込む。

 

 ルナはその光の中で、胸の奥の痛みを抱えながら歩いた。

 

 リュウジの隣を、ちゃんと歩けるように。

 

ーーーー

 

 夏休みが終わっていた。

 

 終わった、という言い方は正しくないのかもしれない。けれどルナにとっては、あの柔道場の畳の匂いと、胸の奥に刺さったまま抜けない言葉の棘と一緒に、夏が唐突に切れてしまった感覚があった。

 

 ――あれ以来。

 

 リュウジとは会っていない。

 

 連絡を取ろうと思えば取れた。端末を開けば、メッセージ欄の上の方に彼の名前はいつだって残っている。指先を伸ばせば、簡単に呼び出し音を鳴らすこともできる。

 

 でも、ルナはしなかった。

 

 怖かったのだ。

 

 「心配するな」という言葉をもう一度投げられるのが怖いのではない。もっと怖いのは――返事が来ないこと、あるいは、返事が来てもどこか遠いこと。あの薄い笑顔で、何もないふりをされたまま、また“いなくなる顔”を見せられることだった。

 

 だからルナは、いつも通りを装った。

 

 いつも通りに朝を起き、父の形見のリュックを背負い、チャコのいない静かな玄関を抜け、ソリア学園へ向かう。歩く道の景色も、空気も、何ひとつ変わらないのに、胸の奥だけが少し重い。

 

 新学期の教室は、妙に明るかった。

 

 椅子を引く音、机を叩く音、久しぶりに会う者同士の声が重なって、空気が賑やかになる。夏休みの話題が飛び交うたび、ルナは口角を上げて頷き、相槌を打って、笑う。

 

 ――できる。

 

 笑うことはできる。リーダーの仮面は、昔から慣れている。

 

「ルナ、聞いてよ」

 

 シャアラがいつも通り、少し早口で話しかけてくる。

 

「夏休み、ベルと植物園行ったの。……桜、綺麗だった」

 

 言いながら、シャアラの頬がほんのり赤くなる。ルナはそれを見て、胸の重さの隙間に、柔らかい温度が差し込むのを感じた。

 

「いいなぁ。桜、もう少し見たかった」

 

 ルナが言うと、シャアラは照れくさそうに笑う。

 

「……ルナも一緒なら、もっと良かったのに」

 

「ふふ。今度、行こうね」

 

 そう言って笑いながら、ルナは横目でメノリを見る。

 

 メノリは、相変わらず背筋を伸ばして座り、手元の端末を確認していた。生徒会長としての癖なのか、登校初日ですら気が抜けない。

 

「メノリは? 夏休み、ちゃんと休めた?」

 

 ルナが聞くと、メノリは顎に手を当てて少し考え、淡々と言った。

 

「休んだと言えるほどの休みはなかったな。……だが、やることがあるのは悪くない」

 

 厳しい言い方なのに、口調の端に少しだけ柔らかさが混じる。ルナはそれに安心する。メノリがいると、教室の空気が少し整うのだ。

 

「相変わらずだね」

 

 シャアラが呆れたように笑うと、メノリは「お前たちがだらしないから私が動くんだろ」と言う。

 

 いつものやりとり。

 

 それだけで、心が少し軽くなる。

 

 ――その時だった。

 

 教室の入口が開く音がして、空気が一瞬だけ止まる。

 

 ルナは反射的に顔を上げた。

 

 入ってきたのはリュウジだった。

 

 背が高い。黒髪短髪。制服の着方も、歩き方も、いつも通り。視線も淡々としている。

 

 ただ――

 

 顔が、腫れていた。

 

 頬骨のあたりが赤く盛り上がり、口元にも薄い切れた跡がある。昨日の柔道場を思い出させるような、痛々しい痕。

 

 ルナの喉がひゅっと鳴った。

 

 心臓が一拍遅れて跳ねる。

 

 メノリの方が先に声を上げた。

 

「おい、どうしたんだその顔!?」

 

 教室中がざわめいた。リュウジの顔を見て、誰もが同じことを思ったのだろう。いつも無傷で、いつも平然としている男が、どうしてこんな……と。

 

 リュウジは、肩をすくめるようにして短く答えた。

 

「転んだだけだ」

 

「転んだだけで、そんなになるか?」

 

 メノリが眉を吊り上げる。疑いというより、怒りに近い。心配を怒りの形にするのが、メノリの癖だ。

 

 シャアラがすぐに身を乗り出した。

 

「大丈夫? 痛くない?」

 

 声が柔らかい。シャアラは心配をそのまま言葉にする。

 

 リュウジは一瞬だけ目を瞬かせ、それから軽く笑みを浮かべた。

 

「ああ、大丈夫だ」

 

 その笑みを見た瞬間、ルナの胸がきゅっと縮む。

 

 笑っている。確かに笑っている。

 

 でも――薄い。

 

 あの時、夏休みの終わりに道で見た笑顔と同じ。口角だけが上がり、目の奥が動かない、作られた薄い膜のような笑い。

 

 (……やっぱり)

 

 ルナは思う。

 

 思ってしまう。

 

 “いなくなる顔”を、またしている。

 

 でもルナは、その思いを口にできなかった。教室という場所で、皆の前で、「その笑顔作ってるよね」なんて言えるはずがない。

 

 リュウジがさらに遠くに行ってしまう気がした。

 

 だからルナは、胸にしまい込むように、いつも通りの挨拶を選ぶ。

 

「おはよう、リュウジ」

 

 声は思ったよりも普通に出た。自分でも驚くほど。

 

 リュウジがルナを見る。視線がほんの一瞬だけ止まる。何かを探るような、あるいは何かを隠すような。

 

「おはよう」

 

 返事は短い。いつも通り。

 

 それだけで、ルナの胸が妙に痛む。

 

 その時、ガタッと椅子が鳴る音がして、宇宙工学の本を抱えたシンゴが慌てて駆け寄ってきた。

 

「うわ!? リュウジ大丈夫!?」

 

 本を抱えたまま、目を丸くしている。心配の仕方が子どもっぽい。シンゴらしい。

 

 ベルも遅れて寄ってきた。穏やかな表情のまま、でも声は真剣だ。

 

「……本当に大丈夫?」

 

 リュウジは二人を見て、肩を落とすようにため息を吐いた。

 

「ちょっと転んだだけだ」

 

 何度も同じ言葉。何度も同じ線を引く。

 

 それ以上踏み込ませないための言葉。

 

 ルナは、胸の奥がざわざわして落ち着かなかった。

 

 メノリは納得していない顔だ。シャアラは不安げにリュウジを見ている。ベルは眉を寄せ、シンゴは眉と眉を近づけたまま心配している。

 

 その空気を切り替えるように、リュウジがシンゴに視線を向けた。

 

「それより、他に何か聞きたいことがあったのか?」

 

 質問の矛先を変える。これもリュウジの癖だ。感情の話を避け、用件に落とす。話題を“安全な場所”に移す。

 

「あ、うん……宇宙工学の件で」

 

 シンゴは「そうだった」と思い出したように本を開き、数ページをぱらぱらとめくった。ページの端が折れている。夏休みの間に何度も読み返したのだろう。

 

「ここなんだけどさ。推進剤の混合比の話、これってこの式で合ってる?」

 

 シンゴが指差すと、リュウジは椅子に腰を下ろし、淡々と本を覗き込む。いつも通りの姿勢。いつも通りの距離。いつも通りの冷たいほど落ち着いた声。

 

「……式の形は合ってる。ただ、ここ」

 

 リュウジが指を伸ばし、シンゴの式の一箇所を叩く。

 

「単位が揃ってない。ここの係数を合わせろ」

 

「え、ほんとだ!」

 

 シンゴが目を輝かせる。リュウジの説明は無駄がない。見せ方が上手い。だからシンゴはすぐ吸収する。

 

 ベルは「なるほど」と低く頷き、シャアラも「すごい……」と小さく声を漏らした。

 

 メノリは腕を組んで、少し納得いかない顔のまま見ているが、それでもリュウジの説明が理にかなっていることは理解しているようだった。

 

 教室のざわめきはいつの間にか落ち着き、リュウジの周りに小さな円ができていく。

 

 ――みんなが、リュウジに集まっている。

 

 それがいつもの光景で、変わらないはずなのに。

 

 ルナの目には、別のものが映ってしまう。

 

 リュウジの笑顔が薄いこと。

 頬の腫れが、ただの転倒ではない気がすること。

 そして何より、彼の言葉がどれも“表面”で止まっていること。

 

 リュウジは、いつも通りに見えるように振る舞っている。

 

 でもルナには――どうしても、作っているように見えてしまう。

 

 ルナは机の端をそっと握り、爪が当たるのを感じた。痛みがあると、今自分がここにいると確認できる。

 

(……私、どうすればいい?)

 

 心配するなと言われたくない。置いていかれたくない。でも、追い詰めたくもない。

 

 ルナは、リュウジの横顔を見つめる。

 

 式を指差しながら説明する声は淡々としていて、ぶれない。シンゴが頷くたび、ベルが納得するたび、シャアラが安心するたび、リュウジは軽く相槌を打つ。

 

 その動きは完璧だ。誰も不安にさせない。誰も困らせない。必要なものだけを与え、距離を保つ。

 

 まるで――乗務員のエリンの接客みたいに。

 

 “安心”を提供するための、丁寧な振る舞い。

 

 そして、その安心の裏に、自分自身の本音を隠す。

 

 ルナは、喉の奥が苦くなるのを感じた。

 

(……作ってる)

 

 そう思う自分が嫌だった。そんなふうに見るのは失礼だ。リュウジは自分なりに、皆を守っているのかもしれない。弱さを見せないことで、皆を不安にさせないようにしているのかもしれない。

 

 でも。

 

 ルナは、柔道場で言った言葉を思い出す。

 

 ――悲しいなら、悲しいって言って。

 

 その願いは、まだ彼に届いていない気がする。

 

 ホームルームのチャイムが鳴る前、メノリが小さく息を吐いた。

 

「……リュウジ。転んだだけなら、保健室に行け。腫れてる」

 

 メノリなりの優しさだ。いつもの口調で心配をする。

 

 リュウジは軽く頷いた。

 

「放課後にでも行く」

 

「“今”行け」

 

「授業に遅れる」

 

「そんなの知らん。顔が腫れている方が問題だ」

 

 メノリの区調が少し強くなる。シャアラが「メノリ、落ち着いて」と小声で言う。

 

 リュウジはそのやり取りを聞きながら、また薄い笑みを作った。

 

「大丈夫だって」

 

 ルナは、その笑顔を見て、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 

 笑っているのに、温かくない。

 安心させるための笑いで、自分のための笑いじゃない。

 

 ルナは、笑うことができなかった。

 

 けれど、何も言えない。

 

 HRが始まる。

 

 先生が入ってきて、出欠を取る声が響く。クラスの空気が授業モードに切り替わる。皆が前を向き、椅子が整い、静かになる。

 

 ルナも前を向いた。

 

 でも、視界の端で――リュウジの横顔がずっと気になって仕方がない。

 

 腫れた頬。

 薄い笑顔。

 淡々とした声。

 

 そして、その奥に隠された、どこか寂しい気配。

 

 ルナは胸の中で静かに呟いた。

 

(……今は言えない)

 

(でも、いつか言う)

 

 リュウジがまた遠くへ行ってしまわないように。

 

 ルナは、机の下でそっと拳を握りしめた。

 

 自分の不安を隠してリーダーでいる癖が、また顔を出しそうになる。それでも――今日は、それを少しだけ抑えた。

 

 胸の中にしまったままの思いは、重い。

 

 でも、それを抱えてでも、ルナはここにいる。

 

 リュウジの隣を、離れずに歩くために。

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