進路希望調査の紙は、朝のホームルームで配られた。
白い用紙に、いくつかの項目と締め切り日が印字されている。提出期限は「今週いっぱい」。教室のあちこちから「早くない?」「もうそんな時期?」という声が上がり、先生が「進路は早い方がいい」と淡々と返した。
ルナは隣の席のリュウジをちらりと見た。
リュウジは、頬の腫れを隠す気もないまま、紙を受け取り、必要事項をざっと目で追った。そのまま端末を取り出して何かを確認し、ペンを持つ。
迷いがない。
“考える”という動作を飛ばして、最初から決まっている人間の手つき。
その様子に、ルナの胸がまたざわついた。
――やりたいことを見つけた。
リュウジがS級を返した理由。あの時、どこか区切りをつけたような表情を浮かべていた。それなのに、最近の彼は薄い笑顔のままで、目の奥が笑っていない気がしてならない。
けれどルナは黙っていた。
今、ここで何か言えば、また「心配するな」で片づけられる気がして。
メノリが前から机を叩いた。
「おい、お前たち。提出は今週いっぱいだ。忘れるなよ」
「会長みたいだな」って誰かが笑い、メノリは「私は生徒会長だ」と真顔で返して、少しだけ教室が和んだ。
その中で、リュウジだけが淡々と紙に記入していく。
名前、学年、希望欄。
最後の欄にペン先が止まることもなく、すらすらと書き切った。
そして次の休み時間。
リュウジは進路希望調査用紙を折りたたまずに持ち、教室を出て行く。提出箱がある職員室前に向かったのだろう。
ルナはその背中を見送りながら、心の中で小さく呟いた。
(……早すぎるよ)
迷いのなさが、頼もしいはずなのに、今のルナには怖い。
まるで、もうここから離れる準備をしているみたいで。
*
放課後。
日が落ち始めた廊下は、昼間より静かだった。部活へ向かう生徒の声や足音が遠くに響き、窓の外の空が少しずつ橙色に染まっていく。
リュウジは鞄を肩にかけたまま、教室を出る。
頬の腫れは、朝より少しだけ引いた気もするが、まだ目立つ。廊下を歩くたびに、すれ違う生徒がちらりと見て、言葉を飲み込む。
――転んだだけ。
それで納得する者は少ない。けれど、本人がそれ以上言わないなら誰も踏み込めない。
リュウジは、そのまま帰るつもりだった。
玄関の方へ向かう曲がり角で、ちょうど反対側から歩いてきた影とぶつかりそうになって、足を止めた。
「……リュウジ」
メノリだった。
生徒会長の腕章は外しているが、背筋の真っすぐさは変わらない。手には端末といくつかの書類。眉間にわずかに皺が寄っている。
メノリはリュウジの顔を一目見て、口の端を引きつらせた。
「その顔のまま帰るつもりか?」
「大丈夫だ」
「怪我の話をしているんじゃない」
メノリはそう言い切り、顎で廊下の奥を示した。
「ちょっと付き合え」
「……は?」
リュウジが面倒くさそうに眉を上げると、メノリは一歩近づいて、低い声で言った。
「拒否権はない。生徒会長命令だ」
「横暴だな」
「今さら言うな」
言い切る強さに、リュウジは小さくため息を吐き、方向を変えた。
*
生徒会室の扉を開けると、段ボール箱がいくつも積まれていた。
机の脇にも、棚の前にも、廊下側の壁際にも。箱にはマジックで「書類」「備品」「式典用」「予備」と雑に書かれている。
リュウジは部屋に入った瞬間、思わず口にした。
「……なんだ、引っ越すのか?」
メノリは鞄を机に置きながら、淡々と答える。
「似たようなものだ。生徒会長もこの夏で終わりだからな」
その言葉に、リュウジは一瞬だけ目を細めた。
そういえば――と、思う。
メノリは上級生だ。卒業が近づけば、生徒会の引き継ぎが始まる。いつものように強くて頼もしい彼女にも、終わりの時期はちゃんと来る。
「……お前がいなくなったら、ここも静かになるな」
リュウジがぼそっと呟くと、メノリは手を止めて、リュウジを見る。
「今さら感傷的なことを言うな。気持ち悪い」
「悪いな」
「謝るな。余計に気持ち悪い」
そう言いながら、メノリは小さく息を吐いた。口は厳しいのに、視線はどこか落ち着いている。
メノリは段ボールの一つを軽く叩いた。
「……それより」
声が少しだけ低くなる。
「進路はどうした?」
リュウジは目を瞬かせた。
進路希望調査――あの紙のことだ。
「もう既に提出した」
淡々と答えると、メノリの眉がぴくりと動いた。
「早いな」
「決まってるからな」
「どうするんだ?」
メノリは単刀直入だった。遠回しに聞く気など最初からない。
リュウジは、少しだけ視線を逸らし、肩をすくめる。
「詮索はマナー違反だろ」
わざと軽く言った。これ以上踏み込ませないための壁を、冗談めかして立てる。
だが、メノリは引かなかった。
「バカを言うな」
机の縁を指先で叩き、まっすぐリュウジを睨む。
「仲間の進路を心配することのどこがマナー違反だ」
その言葉は、怒りというより――責任感に近かった。
“仲間”という言葉が、メノリの口から出るのは、昔なら考えられない。
サヴァイヴを経て、彼女は変わった。ひとりで背負うだけじゃなく、手を伸ばすようになった。厳しさの中に、確かな温度がある。
リュウジはその目を見て、少しだけ笑った。
いつもの薄い笑顔ではなく、ほんの僅かに本音が混じった笑い。
「……確かにな」
それから、リュウジは鞄を床に置き、段ボール箱の隙間に寄りかかる。
「まぁ、いずれ分かるさ」
「逃げるな」
「逃げてない」
「なら言え」
メノリの声が強くなる。けれどそれは、責めているというより、確かめたい声音だった。お前がどこへ行くのか、何をしようとしているのか――聞かせろ、と。
リュウジは少しだけ黙った。
ペルシアの件。
カオルの怒り。
ルナの目。
そして、自分の中の“やりたいこと”の輪郭。
それらを言葉にしたら、何かが変わってしまう気がする。
自分が決めた区切りが、揺らいでしまう気がする。
だから、口を開く代わりに、リュウジはメノリを見て言った。
「……お前はどうなんだ」
「私?」
「会長も終わりなんだろ。進路は、もう決めたのか」
話題を逸らすつもりではない。リュウジの中では、これは逃げではなく“交換”だった。自分だけが晒されるのは嫌だ、という子どもっぽさも少し混じっている。
メノリは一瞬だけ口を閉じ、それから鼻で笑った。
「私のことはいい」
「よくないだろ」
「……しつこいな」
メノリは言いつつも、どこか嬉しそうに眉を緩めた。ほんの一瞬、ルナたちが見るような柔らかい表情が出る。
「決めている。やるべきことがある」
「そうか」
「だからお前も、決めているなら言えばいい」
メノリは、逃がしてくれない。
リュウジは、段ボールの角を指でなぞりながら、しばらく沈黙した。
窓の外から部活の掛け声が聞こえる。夕方の風が、少し冷たくなってきている。
やがてリュウジは、短く言った。
「……まだ言わない」
メノリの眉が上がる。
「だが、逃げるつもりもない」
リュウジは言い切った。
「俺は、俺が決めたことをやる。そのために区切りをつけた。……それだけだ」
メノリは言葉を探すように唇を噛んだ。怒っているわけではない。ただ、納得しきれない。
それでも、彼女は最後に小さく頷く。
「……分かった」
そして、リュウジの腫れた頬を見て、眉を寄せた。
「だが、その顔は納得できない。転んだだけなら、今から保健室に行け。いいな」
「命令か」
「命令だ」
「……はいはい」
リュウジが立ち上がると、メノリは段ボールの間を歩きながら言った。
「リュウジ」
「なんだ」
「お前が何をやろうとしているか、私はまだ知らない」
メノリの声は、いつもの鋭さより少し低く、真剣だった。
「だが、仲間なら……必要な時に、ちゃんと頼れ」
その一言に、リュウジの胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。
頼る。
それは、彼が一番苦手なことだった。
リュウジは背中を向けたまま、短く返した。
「……気が向いたらな」
メノリは「バカ」と呟いたが、その声はどこか柔らかかった。
生徒会室の扉が閉まる。
廊下に出たリュウジは、腫れた頬を指で軽く触れ、痛みに小さく眉を動かした。
それでも、足取りは止まらない。
決めた道へ向かうために。
――そして、仲間からの“心配”が、思った以上に重く、温かいことを知りながら。
ーーーー
スパーツィオ養成学校――ブライアンが運営するその施設に、エリンが足を運ぶのは二、三ヶ月に一回程度だった。
本業はハワード財閥の旅行会社。現場は休む暇がない。だからこそ、こうして“外”に呼ばれる指導は、どこか特別な緊張を伴う。けれどブライアンからの要請は毎回、的確で、必要で、そして何より――彼の学校の空気は、エリンが知る「宇宙管理局」や「旅行会社」とは別の種類の熱を持っていた。
玄関ホールを抜け、実習用の廊下を歩くと、制服姿の訓練生たちが一礼してくる。
「おはようございます、エリン講師!」
「おはよう。声、いいわね。呼吸がちゃんと腹から出てる」
エリンが軽く返すと、訓練生たちの背筋がさらに伸びる。
“接客の授業”。
パイロット志望者が聞くと眉をひそめる言葉だ。だがエリンは迷いなく、教壇に立つ。
――注目される者ほど、言葉と態度が武器になる。
それを理解できるかどうかで、A級とS級の境界線は、思っているより簡単に割れる。
講義の内容はいつも、実践的だった。
「敬意」と「距離感」をどう取るか。
「相手の不安を増幅させない」視線の置き方。
“安全説明”を押しつけずに、相手に受け取らせる話し方。
そして何より、緊急時における「静けさの伝播」。
声を張り上げれば、恐怖は拡散する。
落ち着けば、落ち着きは感染する。
エリンはその原理を、現場で、何度も見てきた。
今日は実技中心だった。訓練生同士でペアになり、客役と乗務員役を交互に担当する。細かな所作――目線、距離、言葉の端――そこにエリンは容赦なくメスを入れる。
「あなた、“すみません”が多い。丁寧に見えるけど、責任から逃げてるようにも聞こえるわよ」
「君、質問の前に息を吸いすぎ。緊張が見える。相手も緊張する」
「その笑顔、口だけ。目が笑ってない」
言われた訓練生は苦笑し、頷き、もう一度やり直す。
そして、カオルの番になる。
カオルは相変わらず、表情の動きが少ない。目つきは鋭い。姿勢は崩れない。言葉も最低限。初対面に対して、特に“開かない”。
それでも――以前よりは、確実に変わっていた。
目の焦点が、相手の額のあたりで安定している。
距離を詰めすぎない。
相手の言葉を遮らない。
そして何より、“拒絶の無言”が薄れている。
「……荷物は、こちらでお預かりします」
カオルの声は硬い。それでも、前ほど刺々しくない。
エリンは内心で、ほっと胸を撫で下ろした。
(よかった。ちゃんと積み上がってる)
笑顔まではいかない。それは求めすぎだ。カオルの性格、過去、癖を考えれば、無理に笑わせる方が危険だ。薄い笑顔は、むしろ相手の不安を煽ることがある。
“自然なまま、相手を不安にさせない”。
それがカオルの到達すべき地点だと、エリンは思っていた。
授業を終えると、訓練生たちは一斉に礼をする。
「ありがとうございました!」
「お疲れ様。今日の注意点、端末に送っておくから読み返して」
エリンが荷物をまとめて帰ろうとした、その時だった。
廊下の奥から、重い足音。振り返るとブライアンが腕を組んで立っていた。相変わらず、体格だけで空気を変える男だ。
「帰るのか」
「はい。明日も本業がありますから」
「操縦も見ていけ」
「……操縦?」
エリンが眉を上げると、ブライアンは当然のように顎で別棟を示した。
「モニタリング室。今日はシュミレーションの日だ」
「私、操縦の専門家じゃありませんよ」
「専門家じゃなくていい。“現場”を知ってる奴の目だ」
エリンは一瞬迷い――結局、頷いた。
ブライアンに案内され、別室のモニタリングルームに入る。大きなガラス越しに、複数の操縦席が並ぶシュミレーター室が見える。壁面にはモニターがずらり。視界情報、速度、姿勢制御、推進系出力、回避ルート予測、機体ストレス値――数字と波形が、静かな海のように流れていた。
「これが……」
エリンは思わず息を飲む。
“乗客の安心”を扱ってきた自分にとって、操縦は別世界だ。だが同時に分かることがある。
ここにいる彼らの一挙手一投足が、数百、数千の命に直結する。
それは、客室での緊急対応と本質が同じだ。
まず、他の訓練生たちが順番に操縦する。想定は「長距離移動中の航路変更」。途中で小規模なデブリ帯が出現し、姿勢制御と推進のバランスを崩さずに迂回する――という内容だった。
エリンはモニターを見つめ、率直に思った。
(上手い)
操縦席の訓練生は、落ち着いた声で確認を入れ、手元の操作は滑らかで、航路の修正も合理的だ。危険域を避けながら、速度を落としすぎず、燃料効率も維持している。
どれも、十分に“上手い”。
けれど――胸がざわつかない。
訓練生が操縦を終えるたび、ブライアンが視線だけでエリンに「どうだ」と問う。
エリンは迷わず言った。
「上手いです。……でも、それ以上は、正直、分かりません」
ブライアンは鼻で笑った。
「それが正しい。褒めるだけなら誰でもできる」
そして、ぽつりと続ける。
「リュウジとは、やはり違うか」
エリンは少しだけ考え、慎重に答えた。
「……素人目ながら、全然違いますね」
「どこが」
「怖さの種類が違う、というか……」
エリンは自分の言葉を探しながら、モニターを見た。
「今の子たちは『正しく』動いてます。でも、リュウジは……“間違えない”んじゃなくて、“間違いが起きる前に空気が変わる”感じがしました」
ブライアンが口角を上げる。
「ほう」
「客室で言うと、パニックが起きる前に、乗客の呼吸の乱れを察知して席を回るような……あれに近いです。理屈じゃなくて、先に察知して、先に潰す」
ブライアンは何も言わないが、その沈黙が肯定に近いとエリンには分かった。
そして――カオルの番が回ってきた。
モニター内で、カオルが操縦席に腰を下ろす。背筋は真っすぐ。余計な動きがない。手袋越しの指が、必要最低限の角度でレバーに触れる。
開始のコールが入る。
航路表示が立ち上がり、機体の姿勢が安定する。推進系の出力が滑らかに上がり、機体が前へ進む。
最初の数十秒は、他の訓練生と変わらない。
エリンは静かに見守る。
だが、デブリ帯の警告が鳴った瞬間――空気が変わった。
カオルの目が、ほんのわずかに細くなる。
それだけ。
声は出さない。ため息もない。焦りの色もない。
けれど、操作が――“切り替わった”。
カオルは回避ルートを表示する前に、すでに機体の姿勢を微調整していた。まるで、危険域の“風”を肌で感じたかのように。
推進出力を落とさず、姿勢制御だけで、ほんの数度だけ機首をずらす。すると、デブリ帯の密度表示が僅かに薄くなる。
(……え? 今ので?)
エリンはモニターを見て目を見開いた。
回避というより、流れに乗る。
避けるというより、通る場所を“先に作る”。
次の瞬間、デブリの一つが想定より早く交差軌道に入った。通常なら、警告が鳴ってから回避操作で間に合う。
けれどカオルは、警告音が完全に鳴り切る前に、ほんの僅かな逆噴射を入れた。
速度を殺すのではない。
タイミングをずらしただけ。
その結果、デブリは機体の横を滑るように通り過ぎ、衝突危険域がふっと消える。
「……今の、なんですか」
エリンの声が漏れた。
ブライアンは笑っていない。
「“間”だ」
カオルの操縦は、モニターの数字が乱れない。通常、回避を繰り返すと姿勢制御の数値が上下し、推進系の出力も揺れる。揺れが積み重なると、機体ストレス値が上がり、最後は“安全な回避”の限界が来る。
だがカオルは違った。
回避をしているのに、安定している。
無駄な動きがない。無駄な補正がない。無駄な“恐怖”がない。
まるで宇宙空間そのものが、カオルの味方をしているように見えた。
(……冷静すぎる)
エリンは背筋が寒くなる。
彼の武器は、冷静さ。
それは以前、リュウジが言っていた“カオルの唯一の武器かもしれない”という言葉と重なる。
けれど今目の前にあるのは、ただの冷静さではない。
冷静さが研ぎ澄まされて、“刃”になっている。
デブリ帯の密度が上がる。回避ルートが複雑になる。普通ならどこかで焦りが出て、操作が荒れる。
カオルは、呼吸さえ乱れない。
画面の中で、機体が連続して軌道修正を行う。その動きは、逃げ回るというより、舞っている。
――一拍。
――半拍。
――三拍目で抜ける。
タイミングの選び方が、どこか格闘技の“間合い”に近い。攻め込む距離、引く距離、誘う距離。カオルはデブリの流れの“癖”を読むように、空間を捌いていた。
最後の関門。密度最大域。
ここで多くの訓練生が速度を大きく落とす。燃料効率は悪化し、時間も食うが安全策としては正しい。
カオルは――速度を落とさない。
代わりに、わずかに機体を傾けた。
姿勢制御を変えて、回避ではなく「抜け道」を作る。デブリの流れが一瞬途切れる“穴”に、機体を滑り込ませる。
すれ違う光点。機体の周囲を掠める影。ギリギリの距離なのに、警告は鳴らない。
いや、鳴らせないほど早い。
そして、デブリ帯を抜けた瞬間。
カオルは初めて、ほんの僅かに息を吐いた。
シミュレーション終了。
室内のモニターには「成功」と表示され、機体ストレス値も、燃料消費も、時間も――他の訓練生を大きく上回る数値が並んでいた。
エリンは、しばらく言葉が出なかった。
上手い。
その一言だけでは足りない。
“上手い”という言葉の中身が、別物すぎる。
ブライアンが、静かにエリンを見る。
「どうだ」
エリンはようやく、喉の奥から声を絞り出した。
「……上手い、です」
そして続ける。
「確かに、ブライアンさんが言うように……リュウジを超える力は、秘めているかもしれません」
ブライアンの目が細くなる。
「“かもしれない”か」
「はい」
エリンはモニターに映るカオルの背中を見つめながら、正直に言った。
「カオルは……“自分が崩れない”んです。周りがどれだけ危険でも、周囲の恐怖に引っ張られない。だから操縦が崩れない」
それはパイロットとして恐ろしく強い。
同時に、どこか危うい。
冷静さは刃であり、刃は自分も傷つけることがある。
ブライアンが低く笑った。
「そうだ。あいつは崩れない」
「……でも」
エリンは、言葉を選びながら続けた。
「リュウジは、“崩れない”だけじゃなくて……周りの人間を崩させない。操縦席に座っているだけで、乗務員も、周囲も、安心する。あれは技術というより……人間の在り方です」
ブライアンはしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
「それがS級だ」
そして、ガラス越しのシミュレーター室を見ながら、ぽつりと続ける。
「だが、次の時代は“別のS級”が必要になる」
エリンは黙って頷いた。
カオルは、これからもっと伸びる。
その伸び方は、他の操縦士とは違う。
他の訓練生が“正しさ”を積み重ねて強くなるのなら、カオルは“恐怖を切り捨てる”ことで強くなる。
躍動感の正体は、速度でも回転でもなく――決断の速さ。
迷わない刃が、宇宙を切り裂く。
エリンは胸の奥で、静かに息を吐いた。
(……リュウジ)
あなたが閉じた空を、別の形で開こうとしている子がいる。
それは嬉しいことのはずなのに。
なぜか、少しだけ切なかった。
ーーーー
モニタリングルームに残った余韻が、まだエリンの胸の奥で熱を持っていた。
カオルの操縦は――冷たいほど整っていて、鋭いほど迷いがなかった。数字の波形が乱れず、機体ストレス値が跳ねない。あの静けさは、宇宙で生き残る者だけが持つ、独特の気配だ。
エリンはガラス越しに、訓練生たちが操縦席から降りていくのを見つめながら、そっと息を吐く。
すると、横で腕を組んでいたブライアンが、何でもないことのように言った。
「新しいS級が選ばれた。ブルンクリンって奴だ」
エリンは視線を動かさずに頷いた。
「聞いています」
ブライアンが、わずかに眉を動かす。
「興味があるのか」
エリンは即答した。
「特には」
きっぱりとした声音だった。
ブライアンが鼻で笑う。
「相変わらずだな」
「どんな人か知りませんが」
エリンはようやくブライアンの方を見た。視線は冷静で、感情の揺れがない。
「乗務員を道具として扱わないのであれば、それでいいと思います」
その一言は、淡々としているようでいて、刃のような硬さがあった。
ブライアンの口角が少しだけ上がる。
「道具扱いされてきた口だ」
「ええ」
エリンは短く答えた。
“道具扱い”。
それは言葉より態度に滲む。視線の置き方、声のかけ方、呼び出し方、謝罪の仕方。相手を人間として見ていないと、どれだけ丁寧な言葉を並べても、匂いで分かる。
宇宙航行の現場では、特に顕著だ。
パイロットは英雄になりやすい。実績と肩書とファンが、その背中に積み上がる。すると、周囲は“自分のために働く装置”に見えやすくなる。
だからこそ、エリンは「肩書」そのものにあまり興味がない。
S級だろうがA級だろうが、現場で尊敬される人間は一種類しかいない。
――仲間を仲間として扱える人間。
ブライアンはエリンの視線の硬さを面白がるように、少し声を落とした。
「ブルンクリンは財閥の息子だ。自尊心が高い」
「……そうですか」
エリンの声は変わらない。
「だが、操縦の技術は確かにいい」
ブライアンの言い方には、珍しく慎重さが混じっていた。単なる好き嫌いで評価していない。現場の目で見て、能力を認めている。
エリンは思わず、モニターを見た。
カオルの数値が表示されていた画面は、すでに次の訓練メニューに切り替わっている。訓練生たちは各々、端末でログを確認していた。
「……技術がいい、というのは」
エリンは言葉を選ぶ。
「正確さですか? 判断の速さですか?」
ブライアンは肩をすくめた。
「両方だ。何より、“外面”がいい」
「外面?」
「映える操縦をする。観客が喜ぶ」
エリンは小さく息を吐いた。
(嫌な言い方)
だが、ブライアンが意地悪で言っているわけではないのも分かる。S級は強いだけでは足りない。注目を浴びる。広告にもなる。政治にも利用される。そういう世界だ。
そして――“財閥の息子”という言葉が、そこに重くのしかかる。
「……その人、ここにも来るんですか?」
「来る可能性は高い」
ブライアンは窓の外を見る。
「ブルンクリンは、宇宙管理局の“表”と繋がってる。あいつの家は、宇宙関連の投資をいくつも握ってるからな」
エリンは理解した。
S級の選出は実力だけではない。実力が“必要条件”であることは間違いないが、“十分条件”ではない。
資本、宣伝、政治的利害――それらが絡む。
だから、選ばれた人間は強い。
だが、強さの中身は均一ではない。
ブライアンは続ける。
「ブルンクリンは、操縦席に座ると“別人”だ。冷静。無駄がない。お前がさっき言った“間”も、持ってる」
「……それなら」
エリンは口にしかけて、止めた。
それなら、問題ないのでは?
技術がいい。冷静。無駄がない。
それだけなら――。
だが、“自尊心が高い”という評価は、技術とは別の危険を孕んでいる。
自尊心が高い人間は、壊れ方が派手だ。
誇りが折れたとき、他人のせいにする。
そして現場は、言い訳の余地がない場所だ。
エリンは、慎重に尋ねた。
「乗務員に対しては……どうなんですか」
ブライアンは一瞬、黙った。
その沈黙が答えだった。
「……悪いってほどじゃない」
ブライアンは言い訳するように続ける。
「だが、“同じ目線”じゃない。上からじゃないが、横でもない。あいつは……自分が中心だと信じてる」
エリンは、胸の奥が冷えるのを感じた。
“中心”。
それは危険だ。チームで宇宙を飛ぶ限り、中心は存在しない。全員が要であり、全員が穴だ。誰か一人が中心だと思った瞬間、必ず歪みが出る。
「……財閥の息子って、そういうところがあるのかもしれませんね」
エリンは、冷静に言った。
ブライアンが低く笑う。
「偏見か?」
「経験則です」
エリンは即答した。
旅行会社にも財閥の息子は来る。彼らは礼儀正しいことも多い。言葉も丁寧。微笑みも上手い。
けれど、ある瞬間に分かる。
――この人は、“客室乗務員”を人として見ていない。
手を払う仕草。
呼び止める指。
「ありがとう」の軽さ。
不具合が起きたときの目。
それらは言葉より雄弁だ。
エリンは、ブライアンを見た。
「ブルンクリンは、誰かを見下しますか」
ブライアンは眉を寄せた。
「見下す、というより……“評価する”」
エリンは、理解した。
見下すよりタチが悪い。
評価する人間は、常に相手を“採点”する。自分の基準で、勝手に点をつける。点が低ければ切り捨て、点が高ければ利用する。
それは――対等ではない。
エリンは、静かに言った。
「乗務員を道具として扱わないのであれば、それでいいって言いましたけど……」
自分の言葉を自分で咀嚼するように、一拍置く。
「道具扱いしないだけでは、足りないですね」
ブライアンが目を細める。
「ほう」
「仲間として扱えるかどうか。……それが一番です」
エリンの声は淡々としているのに、芯があった。
ブライアンはしばらく黙っていたが、やがて椅子に腰を下ろし、指で机を軽く叩いた。
「ブルンクリンの操縦を見たとき、俺は思った」
ブライアンは、遠い目をした。
「“こいつは負けない”ってな」
「……負けない?」
「勝つための操縦だ。安全のための操縦でも、守るための操縦でもない。勝つための操縦」
エリンは、背筋が伸びた。
勝つための操縦。
それは、スポーツとしての操縦に近い。
速さ、精密さ、派手さ、強さ。
観客が沸き、記録が残り、英雄が生まれる。
だが、宇宙の現場は違う。
勝っても、誰かが死んだら負けだ。
エリンは静かに言った。
「勝つために、誰かを切り捨てる操縦……?」
「そこまでは言っていない」
ブライアンは短く返す。
だが、その否定は弱かった。
「……ブルンクリンは、まだ若い」
ブライアンは言葉を選ぶように言った。
「財閥に守られて、称賛されて、期待されて……“自分が正しい”って空気の中で育った。だから、自尊心が高い」
エリンは頷いた。
「でも技術は確か。だからS級に上がった」
「そうだ」
ブライアンは重く頷く。
「問題は、S級になった後だ」
エリンは、ふとカオルの背中を思い出した。
冷静さを刃に変えた操縦。
恐怖を切り捨てる決断。
数字が乱れない世界。
カオルは“崩れない”。
ブルンクリンは“負けない”。
そして、リュウジは――“崩させない”。
三者三様。
同じS級という言葉で括っていいものではない。
「……もし」
エリンは、ぽつりと呟いた。
「ブルンクリンが現場に入るなら、乗務員が一番最初に試されますね」
ブライアンが目を細めた。
「どういう意味だ」
「乗務員は、現場で一番、無防備な位置にいます」
エリンは淡々と説明する。
「パイロットは操縦席にいる。機体は硬い殻に守られてる。でも乗務員は客室。人の感情の渦の中にいる。そこでパイロットの“空気”を一番最初に浴びる」
“中心だと信じている人間”の空気は強い。
押し付けるような静けさ。
支配するような落ち着き。
命令するような優しさ。
それらは、じわじわと人を削る。
ブライアンはエリンの言葉を黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「……お前が興味ないって言ったのは正しい」
「え?」
「ブルンクリンに興味を持つな。評価もするな。あいつに必要なのは、他人の評価じゃない」
ブライアンは、低い声で言う。
「現場で“誰を守るか”を覚えることだ」
エリンは静かに頷いた。
そして、もう一度だけ、はっきり言った。
「乗務員を道具として扱わないのであれば、それでいい。……でも、それ以上に」
エリンの瞳は、硬い。
「仲間を仲間として扱える人であってほしいです」
その瞬間、ブライアンがふっと笑った。
「お前、やっぱり現場の人間だな」
「ええ」
エリンは即答する。
称賛も、肩書も、財閥の血も。
現場で命を守ることの前では、どれも軽い。
エリンは窓の外――訓練生たちが歩く廊下を見た。
カオルは今、どこまで行けるのだろう。
ブルンクリンは、何を守れるのだろう。
そして――リュウジが閉じた空は、誰がどんな形で引き継ぐのだろう。
答えはまだ見えない。
だが、エリンは確信していた。
S級とは、技術の称号ではない。
――仲間を守れる者の名前だ。