サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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ブルンクリン

 進路希望調査の紙は、朝のホームルームで配られた。

 

 白い用紙に、いくつかの項目と締め切り日が印字されている。提出期限は「今週いっぱい」。教室のあちこちから「早くない?」「もうそんな時期?」という声が上がり、先生が「進路は早い方がいい」と淡々と返した。

 

 ルナは隣の席のリュウジをちらりと見た。

 

 リュウジは、頬の腫れを隠す気もないまま、紙を受け取り、必要事項をざっと目で追った。そのまま端末を取り出して何かを確認し、ペンを持つ。

 

 迷いがない。

 

 “考える”という動作を飛ばして、最初から決まっている人間の手つき。

 

 その様子に、ルナの胸がまたざわついた。

 

 ――やりたいことを見つけた。

 

 リュウジがS級を返した理由。あの時、どこか区切りをつけたような表情を浮かべていた。それなのに、最近の彼は薄い笑顔のままで、目の奥が笑っていない気がしてならない。

 

 けれどルナは黙っていた。

 

 今、ここで何か言えば、また「心配するな」で片づけられる気がして。

 

 メノリが前から机を叩いた。

 

「おい、お前たち。提出は今週いっぱいだ。忘れるなよ」

 

「会長みたいだな」って誰かが笑い、メノリは「私は生徒会長だ」と真顔で返して、少しだけ教室が和んだ。

 

 その中で、リュウジだけが淡々と紙に記入していく。

 

 名前、学年、希望欄。

 

 最後の欄にペン先が止まることもなく、すらすらと書き切った。

 

 そして次の休み時間。

 

 リュウジは進路希望調査用紙を折りたたまずに持ち、教室を出て行く。提出箱がある職員室前に向かったのだろう。

 

 ルナはその背中を見送りながら、心の中で小さく呟いた。

 

(……早すぎるよ)

 

 迷いのなさが、頼もしいはずなのに、今のルナには怖い。

 

 まるで、もうここから離れる準備をしているみたいで。

 

 *

 

 放課後。

 

 日が落ち始めた廊下は、昼間より静かだった。部活へ向かう生徒の声や足音が遠くに響き、窓の外の空が少しずつ橙色に染まっていく。

 

 リュウジは鞄を肩にかけたまま、教室を出る。

 

 頬の腫れは、朝より少しだけ引いた気もするが、まだ目立つ。廊下を歩くたびに、すれ違う生徒がちらりと見て、言葉を飲み込む。

 

 ――転んだだけ。

 

 それで納得する者は少ない。けれど、本人がそれ以上言わないなら誰も踏み込めない。

 

 リュウジは、そのまま帰るつもりだった。

 

 玄関の方へ向かう曲がり角で、ちょうど反対側から歩いてきた影とぶつかりそうになって、足を止めた。

 

「……リュウジ」

 

 メノリだった。

 

 生徒会長の腕章は外しているが、背筋の真っすぐさは変わらない。手には端末といくつかの書類。眉間にわずかに皺が寄っている。

 

 メノリはリュウジの顔を一目見て、口の端を引きつらせた。

 

「その顔のまま帰るつもりか?」

 

「大丈夫だ」

 

「怪我の話をしているんじゃない」

 

 メノリはそう言い切り、顎で廊下の奥を示した。

 

「ちょっと付き合え」

 

「……は?」

 

 リュウジが面倒くさそうに眉を上げると、メノリは一歩近づいて、低い声で言った。

 

「拒否権はない。生徒会長命令だ」

 

「横暴だな」

 

「今さら言うな」

 

 言い切る強さに、リュウジは小さくため息を吐き、方向を変えた。

 

 *

 

 生徒会室の扉を開けると、段ボール箱がいくつも積まれていた。

 

 机の脇にも、棚の前にも、廊下側の壁際にも。箱にはマジックで「書類」「備品」「式典用」「予備」と雑に書かれている。

 

 リュウジは部屋に入った瞬間、思わず口にした。

 

「……なんだ、引っ越すのか?」

 

 メノリは鞄を机に置きながら、淡々と答える。

 

「似たようなものだ。生徒会長もこの夏で終わりだからな」

 

 その言葉に、リュウジは一瞬だけ目を細めた。

 

 そういえば――と、思う。

 

 メノリは上級生だ。卒業が近づけば、生徒会の引き継ぎが始まる。いつものように強くて頼もしい彼女にも、終わりの時期はちゃんと来る。

 

「……お前がいなくなったら、ここも静かになるな」

 

 リュウジがぼそっと呟くと、メノリは手を止めて、リュウジを見る。

 

「今さら感傷的なことを言うな。気持ち悪い」

 

「悪いな」

 

「謝るな。余計に気持ち悪い」

 

 そう言いながら、メノリは小さく息を吐いた。口は厳しいのに、視線はどこか落ち着いている。

 

 メノリは段ボールの一つを軽く叩いた。

 

「……それより」

 

 声が少しだけ低くなる。

 

「進路はどうした?」

 

 リュウジは目を瞬かせた。

 

 進路希望調査――あの紙のことだ。

 

「もう既に提出した」

 

 淡々と答えると、メノリの眉がぴくりと動いた。

 

「早いな」

 

「決まってるからな」

 

「どうするんだ?」

 

 メノリは単刀直入だった。遠回しに聞く気など最初からない。

 

 リュウジは、少しだけ視線を逸らし、肩をすくめる。

 

「詮索はマナー違反だろ」

 

 わざと軽く言った。これ以上踏み込ませないための壁を、冗談めかして立てる。

 

 だが、メノリは引かなかった。

 

「バカを言うな」

 

 机の縁を指先で叩き、まっすぐリュウジを睨む。

 

「仲間の進路を心配することのどこがマナー違反だ」

 

 その言葉は、怒りというより――責任感に近かった。

 

 “仲間”という言葉が、メノリの口から出るのは、昔なら考えられない。

 

 サヴァイヴを経て、彼女は変わった。ひとりで背負うだけじゃなく、手を伸ばすようになった。厳しさの中に、確かな温度がある。

 

 リュウジはその目を見て、少しだけ笑った。

 

 いつもの薄い笑顔ではなく、ほんの僅かに本音が混じった笑い。

 

「……確かにな」

 

 それから、リュウジは鞄を床に置き、段ボール箱の隙間に寄りかかる。

 

「まぁ、いずれ分かるさ」

 

「逃げるな」

 

「逃げてない」

 

「なら言え」

 

 メノリの声が強くなる。けれどそれは、責めているというより、確かめたい声音だった。お前がどこへ行くのか、何をしようとしているのか――聞かせろ、と。

 

 リュウジは少しだけ黙った。

 

 ペルシアの件。

 カオルの怒り。

 ルナの目。

 そして、自分の中の“やりたいこと”の輪郭。

 

 それらを言葉にしたら、何かが変わってしまう気がする。

 

 自分が決めた区切りが、揺らいでしまう気がする。

 

 だから、口を開く代わりに、リュウジはメノリを見て言った。

 

「……お前はどうなんだ」

 

「私?」

 

「会長も終わりなんだろ。進路は、もう決めたのか」

 

 話題を逸らすつもりではない。リュウジの中では、これは逃げではなく“交換”だった。自分だけが晒されるのは嫌だ、という子どもっぽさも少し混じっている。

 

 メノリは一瞬だけ口を閉じ、それから鼻で笑った。

 

「私のことはいい」

 

「よくないだろ」

 

「……しつこいな」

 

 メノリは言いつつも、どこか嬉しそうに眉を緩めた。ほんの一瞬、ルナたちが見るような柔らかい表情が出る。

 

「決めている。やるべきことがある」

 

「そうか」

 

「だからお前も、決めているなら言えばいい」

 

 メノリは、逃がしてくれない。

 

 リュウジは、段ボールの角を指でなぞりながら、しばらく沈黙した。

 

 窓の外から部活の掛け声が聞こえる。夕方の風が、少し冷たくなってきている。

 

 やがてリュウジは、短く言った。

 

「……まだ言わない」

 

 メノリの眉が上がる。

 

「だが、逃げるつもりもない」

 

 リュウジは言い切った。

 

「俺は、俺が決めたことをやる。そのために区切りをつけた。……それだけだ」

 

 メノリは言葉を探すように唇を噛んだ。怒っているわけではない。ただ、納得しきれない。

 

 それでも、彼女は最後に小さく頷く。

 

「……分かった」

 

 そして、リュウジの腫れた頬を見て、眉を寄せた。

 

「だが、その顔は納得できない。転んだだけなら、今から保健室に行け。いいな」

 

「命令か」

 

「命令だ」

 

「……はいはい」

 

 リュウジが立ち上がると、メノリは段ボールの間を歩きながら言った。

 

「リュウジ」

 

「なんだ」

 

「お前が何をやろうとしているか、私はまだ知らない」

 

 メノリの声は、いつもの鋭さより少し低く、真剣だった。

 

「だが、仲間なら……必要な時に、ちゃんと頼れ」

 

 その一言に、リュウジの胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。

 

 頼る。

 

 それは、彼が一番苦手なことだった。

 

 リュウジは背中を向けたまま、短く返した。

 

「……気が向いたらな」

 

 メノリは「バカ」と呟いたが、その声はどこか柔らかかった。

 

 生徒会室の扉が閉まる。

 

 廊下に出たリュウジは、腫れた頬を指で軽く触れ、痛みに小さく眉を動かした。

 

 それでも、足取りは止まらない。

 

 決めた道へ向かうために。

 

 ――そして、仲間からの“心配”が、思った以上に重く、温かいことを知りながら。

 

ーーーー

 

 スパーツィオ養成学校――ブライアンが運営するその施設に、エリンが足を運ぶのは二、三ヶ月に一回程度だった。

 

 本業はハワード財閥の旅行会社。現場は休む暇がない。だからこそ、こうして“外”に呼ばれる指導は、どこか特別な緊張を伴う。けれどブライアンからの要請は毎回、的確で、必要で、そして何より――彼の学校の空気は、エリンが知る「宇宙管理局」や「旅行会社」とは別の種類の熱を持っていた。

 

 玄関ホールを抜け、実習用の廊下を歩くと、制服姿の訓練生たちが一礼してくる。

 

「おはようございます、エリン講師!」

 

「おはよう。声、いいわね。呼吸がちゃんと腹から出てる」

 

 エリンが軽く返すと、訓練生たちの背筋がさらに伸びる。

 

 “接客の授業”。

 

 パイロット志望者が聞くと眉をひそめる言葉だ。だがエリンは迷いなく、教壇に立つ。

 

 ――注目される者ほど、言葉と態度が武器になる。

 

 それを理解できるかどうかで、A級とS級の境界線は、思っているより簡単に割れる。

 

 講義の内容はいつも、実践的だった。

 

 「敬意」と「距離感」をどう取るか。

 「相手の不安を増幅させない」視線の置き方。

 “安全説明”を押しつけずに、相手に受け取らせる話し方。

 そして何より、緊急時における「静けさの伝播」。

 

 声を張り上げれば、恐怖は拡散する。

 落ち着けば、落ち着きは感染する。

 

 エリンはその原理を、現場で、何度も見てきた。

 

 今日は実技中心だった。訓練生同士でペアになり、客役と乗務員役を交互に担当する。細かな所作――目線、距離、言葉の端――そこにエリンは容赦なくメスを入れる。

 

「あなた、“すみません”が多い。丁寧に見えるけど、責任から逃げてるようにも聞こえるわよ」

「君、質問の前に息を吸いすぎ。緊張が見える。相手も緊張する」

「その笑顔、口だけ。目が笑ってない」

 

 言われた訓練生は苦笑し、頷き、もう一度やり直す。

 

 そして、カオルの番になる。

 

 カオルは相変わらず、表情の動きが少ない。目つきは鋭い。姿勢は崩れない。言葉も最低限。初対面に対して、特に“開かない”。

 

 それでも――以前よりは、確実に変わっていた。

 

 目の焦点が、相手の額のあたりで安定している。

 距離を詰めすぎない。

 相手の言葉を遮らない。

 そして何より、“拒絶の無言”が薄れている。

 

「……荷物は、こちらでお預かりします」

 

 カオルの声は硬い。それでも、前ほど刺々しくない。

 

 エリンは内心で、ほっと胸を撫で下ろした。

 

(よかった。ちゃんと積み上がってる)

 

 笑顔まではいかない。それは求めすぎだ。カオルの性格、過去、癖を考えれば、無理に笑わせる方が危険だ。薄い笑顔は、むしろ相手の不安を煽ることがある。

 

 “自然なまま、相手を不安にさせない”。

 

 それがカオルの到達すべき地点だと、エリンは思っていた。

 

 授業を終えると、訓練生たちは一斉に礼をする。

 

「ありがとうございました!」

 

「お疲れ様。今日の注意点、端末に送っておくから読み返して」

 

 エリンが荷物をまとめて帰ろうとした、その時だった。

 

 廊下の奥から、重い足音。振り返るとブライアンが腕を組んで立っていた。相変わらず、体格だけで空気を変える男だ。

 

「帰るのか」

 

「はい。明日も本業がありますから」

 

「操縦も見ていけ」

 

「……操縦?」

 

 エリンが眉を上げると、ブライアンは当然のように顎で別棟を示した。

 

「モニタリング室。今日はシュミレーションの日だ」

 

「私、操縦の専門家じゃありませんよ」

 

「専門家じゃなくていい。“現場”を知ってる奴の目だ」

 

 エリンは一瞬迷い――結局、頷いた。

 

 ブライアンに案内され、別室のモニタリングルームに入る。大きなガラス越しに、複数の操縦席が並ぶシュミレーター室が見える。壁面にはモニターがずらり。視界情報、速度、姿勢制御、推進系出力、回避ルート予測、機体ストレス値――数字と波形が、静かな海のように流れていた。

 

「これが……」

 

 エリンは思わず息を飲む。

 

 “乗客の安心”を扱ってきた自分にとって、操縦は別世界だ。だが同時に分かることがある。

 

 ここにいる彼らの一挙手一投足が、数百、数千の命に直結する。

 

 それは、客室での緊急対応と本質が同じだ。

 

 まず、他の訓練生たちが順番に操縦する。想定は「長距離移動中の航路変更」。途中で小規模なデブリ帯が出現し、姿勢制御と推進のバランスを崩さずに迂回する――という内容だった。

 

 エリンはモニターを見つめ、率直に思った。

 

(上手い)

 

 操縦席の訓練生は、落ち着いた声で確認を入れ、手元の操作は滑らかで、航路の修正も合理的だ。危険域を避けながら、速度を落としすぎず、燃料効率も維持している。

 

 どれも、十分に“上手い”。

 

 けれど――胸がざわつかない。

 

 訓練生が操縦を終えるたび、ブライアンが視線だけでエリンに「どうだ」と問う。

 

 エリンは迷わず言った。

 

「上手いです。……でも、それ以上は、正直、分かりません」

 

 ブライアンは鼻で笑った。

 

「それが正しい。褒めるだけなら誰でもできる」

 

 そして、ぽつりと続ける。

 

「リュウジとは、やはり違うか」

 

 エリンは少しだけ考え、慎重に答えた。

 

「……素人目ながら、全然違いますね」

 

「どこが」

 

「怖さの種類が違う、というか……」

 

 エリンは自分の言葉を探しながら、モニターを見た。

 

「今の子たちは『正しく』動いてます。でも、リュウジは……“間違えない”んじゃなくて、“間違いが起きる前に空気が変わる”感じがしました」

 

 ブライアンが口角を上げる。

 

「ほう」

 

「客室で言うと、パニックが起きる前に、乗客の呼吸の乱れを察知して席を回るような……あれに近いです。理屈じゃなくて、先に察知して、先に潰す」

 

 ブライアンは何も言わないが、その沈黙が肯定に近いとエリンには分かった。

 

 そして――カオルの番が回ってきた。

 

 モニター内で、カオルが操縦席に腰を下ろす。背筋は真っすぐ。余計な動きがない。手袋越しの指が、必要最低限の角度でレバーに触れる。

 

 開始のコールが入る。

 

 航路表示が立ち上がり、機体の姿勢が安定する。推進系の出力が滑らかに上がり、機体が前へ進む。

 

 最初の数十秒は、他の訓練生と変わらない。

 

 エリンは静かに見守る。

 

 だが、デブリ帯の警告が鳴った瞬間――空気が変わった。

 

 カオルの目が、ほんのわずかに細くなる。

 

 それだけ。

 

 声は出さない。ため息もない。焦りの色もない。

 

 けれど、操作が――“切り替わった”。

 

 カオルは回避ルートを表示する前に、すでに機体の姿勢を微調整していた。まるで、危険域の“風”を肌で感じたかのように。

 

 推進出力を落とさず、姿勢制御だけで、ほんの数度だけ機首をずらす。すると、デブリ帯の密度表示が僅かに薄くなる。

 

(……え? 今ので?)

 

 エリンはモニターを見て目を見開いた。

 

 回避というより、流れに乗る。

 

 避けるというより、通る場所を“先に作る”。

 

 次の瞬間、デブリの一つが想定より早く交差軌道に入った。通常なら、警告が鳴ってから回避操作で間に合う。

 

 けれどカオルは、警告音が完全に鳴り切る前に、ほんの僅かな逆噴射を入れた。

 

 速度を殺すのではない。

 

 タイミングをずらしただけ。

 

 その結果、デブリは機体の横を滑るように通り過ぎ、衝突危険域がふっと消える。

 

「……今の、なんですか」

 

 エリンの声が漏れた。

 

 ブライアンは笑っていない。

 

「“間”だ」

 

 カオルの操縦は、モニターの数字が乱れない。通常、回避を繰り返すと姿勢制御の数値が上下し、推進系の出力も揺れる。揺れが積み重なると、機体ストレス値が上がり、最後は“安全な回避”の限界が来る。

 

 だがカオルは違った。

 

 回避をしているのに、安定している。

 

 無駄な動きがない。無駄な補正がない。無駄な“恐怖”がない。

 

 まるで宇宙空間そのものが、カオルの味方をしているように見えた。

 

(……冷静すぎる)

 

 エリンは背筋が寒くなる。

 

 彼の武器は、冷静さ。

 

 それは以前、リュウジが言っていた“カオルの唯一の武器かもしれない”という言葉と重なる。

 

 けれど今目の前にあるのは、ただの冷静さではない。

 

 冷静さが研ぎ澄まされて、“刃”になっている。

 

 デブリ帯の密度が上がる。回避ルートが複雑になる。普通ならどこかで焦りが出て、操作が荒れる。

 

 カオルは、呼吸さえ乱れない。

 

 画面の中で、機体が連続して軌道修正を行う。その動きは、逃げ回るというより、舞っている。

 

 ――一拍。

 

 ――半拍。

 

 ――三拍目で抜ける。

 

 タイミングの選び方が、どこか格闘技の“間合い”に近い。攻め込む距離、引く距離、誘う距離。カオルはデブリの流れの“癖”を読むように、空間を捌いていた。

 

 最後の関門。密度最大域。

 

 ここで多くの訓練生が速度を大きく落とす。燃料効率は悪化し、時間も食うが安全策としては正しい。

 

 カオルは――速度を落とさない。

 

 代わりに、わずかに機体を傾けた。

 

 姿勢制御を変えて、回避ではなく「抜け道」を作る。デブリの流れが一瞬途切れる“穴”に、機体を滑り込ませる。

 

 すれ違う光点。機体の周囲を掠める影。ギリギリの距離なのに、警告は鳴らない。

 

 いや、鳴らせないほど早い。

 

 そして、デブリ帯を抜けた瞬間。

 

 カオルは初めて、ほんの僅かに息を吐いた。

 

 シミュレーション終了。

 

 室内のモニターには「成功」と表示され、機体ストレス値も、燃料消費も、時間も――他の訓練生を大きく上回る数値が並んでいた。

 

 エリンは、しばらく言葉が出なかった。

 

 上手い。

 

 その一言だけでは足りない。

 

 “上手い”という言葉の中身が、別物すぎる。

 

 ブライアンが、静かにエリンを見る。

 

「どうだ」

 

 エリンはようやく、喉の奥から声を絞り出した。

 

「……上手い、です」

 

 そして続ける。

 

「確かに、ブライアンさんが言うように……リュウジを超える力は、秘めているかもしれません」

 

 ブライアンの目が細くなる。

 

「“かもしれない”か」

 

「はい」

 

 エリンはモニターに映るカオルの背中を見つめながら、正直に言った。

 

「カオルは……“自分が崩れない”んです。周りがどれだけ危険でも、周囲の恐怖に引っ張られない。だから操縦が崩れない」

 

 それはパイロットとして恐ろしく強い。

 

 同時に、どこか危うい。

 

 冷静さは刃であり、刃は自分も傷つけることがある。

 

 ブライアンが低く笑った。

 

「そうだ。あいつは崩れない」

 

「……でも」

 

 エリンは、言葉を選びながら続けた。

 

「リュウジは、“崩れない”だけじゃなくて……周りの人間を崩させない。操縦席に座っているだけで、乗務員も、周囲も、安心する。あれは技術というより……人間の在り方です」

 

 ブライアンはしばらく黙っていたが、やがて短く言った。

 

「それがS級だ」

 

 そして、ガラス越しのシミュレーター室を見ながら、ぽつりと続ける。

 

「だが、次の時代は“別のS級”が必要になる」

 

 エリンは黙って頷いた。

 

 カオルは、これからもっと伸びる。

 

 その伸び方は、他の操縦士とは違う。

 

 他の訓練生が“正しさ”を積み重ねて強くなるのなら、カオルは“恐怖を切り捨てる”ことで強くなる。

 

 躍動感の正体は、速度でも回転でもなく――決断の速さ。

 

 迷わない刃が、宇宙を切り裂く。

 

 エリンは胸の奥で、静かに息を吐いた。

 

(……リュウジ)

 

 あなたが閉じた空を、別の形で開こうとしている子がいる。

 

 それは嬉しいことのはずなのに。

 

 なぜか、少しだけ切なかった。

 

ーーーー

 

 モニタリングルームに残った余韻が、まだエリンの胸の奥で熱を持っていた。

 

 カオルの操縦は――冷たいほど整っていて、鋭いほど迷いがなかった。数字の波形が乱れず、機体ストレス値が跳ねない。あの静けさは、宇宙で生き残る者だけが持つ、独特の気配だ。

 

 エリンはガラス越しに、訓練生たちが操縦席から降りていくのを見つめながら、そっと息を吐く。

 

 すると、横で腕を組んでいたブライアンが、何でもないことのように言った。

 

「新しいS級が選ばれた。ブルンクリンって奴だ」

 

 エリンは視線を動かさずに頷いた。

 

「聞いています」

 

 ブライアンが、わずかに眉を動かす。

 

「興味があるのか」

 

 エリンは即答した。

 

「特には」

 

 きっぱりとした声音だった。

 

 ブライアンが鼻で笑う。

 

「相変わらずだな」

 

「どんな人か知りませんが」

 

 エリンはようやくブライアンの方を見た。視線は冷静で、感情の揺れがない。

 

「乗務員を道具として扱わないのであれば、それでいいと思います」

 

 その一言は、淡々としているようでいて、刃のような硬さがあった。

 

 ブライアンの口角が少しだけ上がる。

 

「道具扱いされてきた口だ」

 

「ええ」

 

 エリンは短く答えた。

 

 “道具扱い”。

 

 それは言葉より態度に滲む。視線の置き方、声のかけ方、呼び出し方、謝罪の仕方。相手を人間として見ていないと、どれだけ丁寧な言葉を並べても、匂いで分かる。

 

 宇宙航行の現場では、特に顕著だ。

 

 パイロットは英雄になりやすい。実績と肩書とファンが、その背中に積み上がる。すると、周囲は“自分のために働く装置”に見えやすくなる。

 

 だからこそ、エリンは「肩書」そのものにあまり興味がない。

 

 S級だろうがA級だろうが、現場で尊敬される人間は一種類しかいない。

 

 ――仲間を仲間として扱える人間。

 

 ブライアンはエリンの視線の硬さを面白がるように、少し声を落とした。

 

「ブルンクリンは財閥の息子だ。自尊心が高い」

 

「……そうですか」

 

 エリンの声は変わらない。

 

「だが、操縦の技術は確かにいい」

 

 ブライアンの言い方には、珍しく慎重さが混じっていた。単なる好き嫌いで評価していない。現場の目で見て、能力を認めている。

 

 エリンは思わず、モニターを見た。

 

 カオルの数値が表示されていた画面は、すでに次の訓練メニューに切り替わっている。訓練生たちは各々、端末でログを確認していた。

 

「……技術がいい、というのは」

 

 エリンは言葉を選ぶ。

 

「正確さですか? 判断の速さですか?」

 

 ブライアンは肩をすくめた。

 

「両方だ。何より、“外面”がいい」

 

「外面?」

 

「映える操縦をする。観客が喜ぶ」

 

 エリンは小さく息を吐いた。

 

(嫌な言い方)

 

 だが、ブライアンが意地悪で言っているわけではないのも分かる。S級は強いだけでは足りない。注目を浴びる。広告にもなる。政治にも利用される。そういう世界だ。

 

 そして――“財閥の息子”という言葉が、そこに重くのしかかる。

 

「……その人、ここにも来るんですか?」

 

「来る可能性は高い」

 

 ブライアンは窓の外を見る。

 

「ブルンクリンは、宇宙管理局の“表”と繋がってる。あいつの家は、宇宙関連の投資をいくつも握ってるからな」

 

 エリンは理解した。

 

 S級の選出は実力だけではない。実力が“必要条件”であることは間違いないが、“十分条件”ではない。

 

 資本、宣伝、政治的利害――それらが絡む。

 

 だから、選ばれた人間は強い。

 

 だが、強さの中身は均一ではない。

 

 ブライアンは続ける。

 

「ブルンクリンは、操縦席に座ると“別人”だ。冷静。無駄がない。お前がさっき言った“間”も、持ってる」

 

「……それなら」

 

 エリンは口にしかけて、止めた。

 

 それなら、問題ないのでは?

 

 技術がいい。冷静。無駄がない。

 

 それだけなら――。

 

 だが、“自尊心が高い”という評価は、技術とは別の危険を孕んでいる。

 

 自尊心が高い人間は、壊れ方が派手だ。

 

 誇りが折れたとき、他人のせいにする。

 

 そして現場は、言い訳の余地がない場所だ。

 

 エリンは、慎重に尋ねた。

 

「乗務員に対しては……どうなんですか」

 

 ブライアンは一瞬、黙った。

 

 その沈黙が答えだった。

 

「……悪いってほどじゃない」

 

 ブライアンは言い訳するように続ける。

 

「だが、“同じ目線”じゃない。上からじゃないが、横でもない。あいつは……自分が中心だと信じてる」

 

 エリンは、胸の奥が冷えるのを感じた。

 

 “中心”。

 

 それは危険だ。チームで宇宙を飛ぶ限り、中心は存在しない。全員が要であり、全員が穴だ。誰か一人が中心だと思った瞬間、必ず歪みが出る。

 

「……財閥の息子って、そういうところがあるのかもしれませんね」

 

 エリンは、冷静に言った。

 

 ブライアンが低く笑う。

 

「偏見か?」

 

「経験則です」

 

 エリンは即答した。

 

 旅行会社にも財閥の息子は来る。彼らは礼儀正しいことも多い。言葉も丁寧。微笑みも上手い。

 

 けれど、ある瞬間に分かる。

 

 ――この人は、“客室乗務員”を人として見ていない。

 

 手を払う仕草。

 呼び止める指。

 「ありがとう」の軽さ。

 不具合が起きたときの目。

 

 それらは言葉より雄弁だ。

 

 エリンは、ブライアンを見た。

 

「ブルンクリンは、誰かを見下しますか」

 

 ブライアンは眉を寄せた。

 

「見下す、というより……“評価する”」

 

 エリンは、理解した。

 

 見下すよりタチが悪い。

 

 評価する人間は、常に相手を“採点”する。自分の基準で、勝手に点をつける。点が低ければ切り捨て、点が高ければ利用する。

 

 それは――対等ではない。

 

 エリンは、静かに言った。

 

「乗務員を道具として扱わないのであれば、それでいいって言いましたけど……」

 

 自分の言葉を自分で咀嚼するように、一拍置く。

 

「道具扱いしないだけでは、足りないですね」

 

 ブライアンが目を細める。

 

「ほう」

 

「仲間として扱えるかどうか。……それが一番です」

 

 エリンの声は淡々としているのに、芯があった。

 

 ブライアンはしばらく黙っていたが、やがて椅子に腰を下ろし、指で机を軽く叩いた。

 

「ブルンクリンの操縦を見たとき、俺は思った」

 

 ブライアンは、遠い目をした。

 

「“こいつは負けない”ってな」

 

「……負けない?」

 

「勝つための操縦だ。安全のための操縦でも、守るための操縦でもない。勝つための操縦」

 

 エリンは、背筋が伸びた。

 

 勝つための操縦。

 

 それは、スポーツとしての操縦に近い。

 

 速さ、精密さ、派手さ、強さ。

 

 観客が沸き、記録が残り、英雄が生まれる。

 

 だが、宇宙の現場は違う。

 

 勝っても、誰かが死んだら負けだ。

 

 エリンは静かに言った。

 

「勝つために、誰かを切り捨てる操縦……?」

 

「そこまでは言っていない」

 

 ブライアンは短く返す。

 

 だが、その否定は弱かった。

 

「……ブルンクリンは、まだ若い」

 

 ブライアンは言葉を選ぶように言った。

 

「財閥に守られて、称賛されて、期待されて……“自分が正しい”って空気の中で育った。だから、自尊心が高い」

 

 エリンは頷いた。

 

「でも技術は確か。だからS級に上がった」

 

「そうだ」

 

 ブライアンは重く頷く。

 

「問題は、S級になった後だ」

 

 エリンは、ふとカオルの背中を思い出した。

 

 冷静さを刃に変えた操縦。

 恐怖を切り捨てる決断。

 数字が乱れない世界。

 

 カオルは“崩れない”。

 

 ブルンクリンは“負けない”。

 

 そして、リュウジは――“崩させない”。

 

 三者三様。

 

 同じS級という言葉で括っていいものではない。

 

「……もし」

 

 エリンは、ぽつりと呟いた。

 

「ブルンクリンが現場に入るなら、乗務員が一番最初に試されますね」

 

 ブライアンが目を細めた。

 

「どういう意味だ」

 

「乗務員は、現場で一番、無防備な位置にいます」

 

 エリンは淡々と説明する。

 

「パイロットは操縦席にいる。機体は硬い殻に守られてる。でも乗務員は客室。人の感情の渦の中にいる。そこでパイロットの“空気”を一番最初に浴びる」

 

 “中心だと信じている人間”の空気は強い。

 

 押し付けるような静けさ。

 支配するような落ち着き。

 命令するような優しさ。

 

 それらは、じわじわと人を削る。

 

 ブライアンはエリンの言葉を黙って聞いていたが、やがて口を開いた。

 

「……お前が興味ないって言ったのは正しい」

 

「え?」

 

「ブルンクリンに興味を持つな。評価もするな。あいつに必要なのは、他人の評価じゃない」

 

 ブライアンは、低い声で言う。

 

「現場で“誰を守るか”を覚えることだ」

 

 エリンは静かに頷いた。

 

 そして、もう一度だけ、はっきり言った。

 

「乗務員を道具として扱わないのであれば、それでいい。……でも、それ以上に」

 

 エリンの瞳は、硬い。

 

「仲間を仲間として扱える人であってほしいです」

 

 その瞬間、ブライアンがふっと笑った。

 

「お前、やっぱり現場の人間だな」

 

「ええ」

 

 エリンは即答する。

 

 称賛も、肩書も、財閥の血も。

 

 現場で命を守ることの前では、どれも軽い。

 

 エリンは窓の外――訓練生たちが歩く廊下を見た。

 

 カオルは今、どこまで行けるのだろう。

 

 ブルンクリンは、何を守れるのだろう。

 

 そして――リュウジが閉じた空は、誰がどんな形で引き継ぐのだろう。

 

 答えはまだ見えない。

 

 だが、エリンは確信していた。

 

 S級とは、技術の称号ではない。

 

 ――仲間を守れる者の名前だ。

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