そこがどこであるかは定かではない。
だから微かな記憶の残滓を拾い上げて、浚ってみようと思う。
そうすればなにかがわかるかもしれないから。
独特な匂いが鼻腔を擽る。それから潮鳴りが聞こえた。
月明かりの中その潮音に導かれて砂浜に行き着く。音で分かるようにそこには遥か彼方まで海が広がっていた。
海面には丸く大きな満月が映し出されている。
人気はまったくなく生き物の気配も感じられない。どこか浮世離れした雰囲気も相まって幻想的な光景に目を惹かれる。けどそれだけだ。
視線の先にはそれ以外に何もなく時折柔らかな風が頬を撫でるばかり。
一見するとここには自分が求めるものはない。そう思っても初めて訪れた場所である。好奇心は到底抑えられるものではない。
気分は未開の地を開拓する冒険家だ。手近にあった木の枝を剣に見立てて、海に沿うように砂の大地を探検する。
寄せては返す波。その波が退いたタイミングで一歩海に近づき、波が帰ってくれば一歩退く。
理屈も理由もわからないスリルを味わいながら歩いているとポツンと一人座っている女の人がいることに気付く。
誰一人としていないと思っていただけに興が削がれた気分になり、引き返すそうかとも思った。
けれども、同時にこんなところにいる女の人に妙な親近感を抱いたのでそのまま進んで話しかけてみることにした。
「こんばんは」
努めて元気よく挨拶をする。
女の人は海に向けていた顔をこちらに向けて薄く微笑む。とても美人な人でその微笑だけで心臓が跳ねた。
「こんばんは、坊や」
「お姉さん、変わった服装だね」
本来であれば何の用で来たのかとかどこから来たとかそういった質問する場面だけど口を突いて出てきたのはそんな内容だった。
というのもこの女の人、格好が変なのだ。
和服、なのは見た目でなんとなくわかる。着物に近いけど、とても分厚い。いや、それは正しい表現ではない。
近づいたことでようやくそれがわかった。どうやら色とりどりの衣を内に何枚も重ねているようだ。
その格好に1つ思い当たるものがあった。それは歴史の授業でみた昔の偉い女の人が着ていたやつだ。何故女の人はそんなものを着ているのか。
それを着られるということはとても高貴な立場にあるのではないか。俄然興味が湧いてくる。
女の人は期待に膨らんだ顔を見て苦笑を溢す。
「これはね、五衣唐衣裳というの。……ごめんなさい坊やには難しいかしらね」
「む、難しくないしっ」
予想と外れた答えに度肝を抜かす。慌てて否定したが強がりのは見え見えだ。
なのに女の人は否定も笑いもしなかった。
「あら、賢しいのね。それはごめんなさい」
「わ、わかればいいんだ、許す!」
「ふふっ、可愛い坊やね」
「か、かわっ!?」
普段言われてない言葉に面食らう。
「おいで」
女の人が手招きする。
常日頃から親に知らない人に話しかけられても相手をしてはいけないといい包められている。
理由もなく近づいてくるものは皆悪い人間なのだとも言っていた。
だから、今こうして女の人と話しているのも本来ならいけないこと。
なのに足は女の人を向いていて、気づけば後ろから抱きしめられていた。
不思議だ。初めて会った人なのにこうして触れられることを自然と許している。緊張はない、むしろ心地よさすらある。
そうして女の人と顔を合わせずにただ海を眺める。
「あれ……」
目の錯覚だろうか。目のあたりをこすって瞬きを繰り返す。
しかし、いくら瞬きをしようとそれが消えることはない。
小舟だ。それが視線の先に浮いていた。砂浜からそう遠くない距離にある。
それだけだったら少し驚くだけで済んだだろう。だけど明らかにおかしい点があった。
全くと言っていいほどに流されていない。波が寄せても引いても微動だにしていない。
「あんなところにお舟があるよ」
「そうね」
「お姉さんのなの?」
「そう、私はあれでやってきた。というよりあれでしか来られないのよ」
「……どうしてこんなところにいるの?」
出会った時から気になって、でもそれ以上に気になるところがあったがゆえに先送りにしていた話題。
ようやくといった形で口にした質問の解を女の人は口を噤んで、話そうとはしない。
「もう半分を」
「え?」
「欠けてしまったもう半分を探しに来たの」
「それは見つかったの?」
女の人の声音に隠れた真意に気付くことなく無邪気に尋ねる。
抱きしめるその手に僅かではあるが力が込められた。
「いいえ、会えなかったわ」
「そうなんだ……。ならぼく手伝うよ!」
どうやら女の人が悲しそうにしているとわかったのでそう申し出てみる。
「ありがとう。でも、もういいの。気持ちだけ頂くわね」
「えー、そんなのないよ。僕も頑張るからさ、もうちょっと探してみようよ」
「本当にもう十分なの。間に合わなかったけど夢は少しだけ叶ったから。だから、もういいの」
「そっか、ならいいんだけど」
余計なことを言ってしまっただろうかと落ち込んでいると、それを察したのか女の人が頭を優しく撫でてくれた。
それがどうにも気持ちよくて、きっと実の親なら恥ずかしさからとっくに跳ね除けているだろうにこの女の人の前ではそんなこともなくその手に頭を委ねた。
「坊やは本当に優しいのね。ねぇ、坊や、お名前はなんていうのかしら」
「ゆうまだよ!」
「ゆうま、いい名前ね。ねえ、ゆうま、私から1つお願いがあるのだけど聞いてくれる?」
「うん、なんでもいってよ!」
女の人の助けになるのならと力強く応じる構えを見せる。
「どうか、その名前を大事にしてほしいの。それだけが私からあなたに贈る最後のお願い、約束してくれるかしら」
「名前を大事に、ってどういう――」
何でもと豪語しあらゆるお願いを聞き入れる。そのぐらいのつもりだったのに女の人がいうお願い、その意味がわからず聞き返そうとしてそれは聞こえた。
「結真ー!」「どこにいるのー!?」
男性と女性の声。お父さんとお母さんの声だ!
「どうやらお迎えが来てしまったようね」
女の人がギュッと一度抱きしめると腕の中の小さな体ごと立ち上がって、声のする方へその背を押した。
「お行きなさい結真。願わくば末永くお生きなさい」
確かに行かなければいけない。だって自分を探す声がするのだから。
でも、と思って振り向く。まだ、女の人の名前を聞いていない。また会いたい。そのためには知らなきゃいけない。
そうして振り返った先には何もなかった。
どこまでも続く砂浜には自分の足音と座り込んだ痕跡を残すのみ。
女の人がそこにいた証拠を残すものはない。
後ろ髪を引かれる思いで、それでも戻らなければいけないと意を決して来た道を引き返す。
月光にその身を照らされながら。