今更だが説明しよう。
俺が現在いる場所は姫駒町にある集合住宅の一室である。
拠点何て大層な名前がついているけど要は一般人が住まう場所の一部を隠れ蓑しているに過ぎない。
なので当然、各階には部屋を借りている人がいて空室でもなければお隣さんもいる。
というかお隣さんとはこの何日かの間に挨拶を交わしているので空室ではないのはわかり切っている。
だが、古河さんが言う隣の部屋とは居間だとかドアの向こうにある部屋のこと、ではない。
彼女が差す指は仕切りという壁の先にあるお隣さんの部屋のことだ。
何にも知らない一般人の部屋に上がり込んで暴れようと提案しているのと同義である。
だからこそ、俺は古河さんが隣の部屋だと言った時これは冗談なのだと思った。
「いやいや流石にそれは近所迷惑ですよ」
「心配はいらない。防音対策はバッチリだ」
「ん? なんだまた改築したのか?」
「ああ、昨夜のうちに頼んでおいた」
「なるほど、なら問題ないか。さっさと行こうぜ」
何やら佐々木さんが訳知り顔で話している。俺の知らないところで俺の知らないことが話されている。
会話に割って入ろうにも、話の流れを見切る前に2人は動き出した。
「ボサッとするなよ月深、置いていくぞ」
「は、はい」
「本当にここなんですか?」
口元を引きつらせて俺はそう尋ねた。
古河さんが横目で見やる。
「そうだが何か不満でも?」
「不満というか俺にはただのお隣さんの部屋にしか見えないんですけど」
「そりゃ、見かけはな」
古河さんはチャイムを押すでもなく玄関扉のドアノブを掴むと躊躇なく開け放った。
「ちょ、ちょっと!?」
「ほら、行くぞー」
いつの間にか背に回っていたのか、佐々木さんが俺の背中を押してきた。
抵抗するもなく押されるがままに足を踏み入れた。
「…………嘘だろ」
抜けた先には信じがたい光景が広がっていた。
とても集合住宅の一室とは思えないほどに広い空間があった。
お嬢様の屋敷地下にあるトレーニングルームほどではないがそれでも修行するにはうってつけの広さと言えよう。
「これ、どうやって……?」
明らかに尋常な方法によるものではない。
つい最近まで人がいたはずの部屋が改築されているなんて、それこそ魔法の所業だ。
「うちの遠野ってやつの神器だよ。仮初の虚空(ヴァーチャル・ディバイド・スペース)って言って指定した空間内のリソースを自在に操れる」
「リソースを操る?」
「そうだ。例えばこのマンション。マンションと言えば居住部分となる部屋がいくつも集合した1つの建築物だろう? 遠野はマンションという建築物が有する空間のリソースを自在に操ることで、例えばこんな感じで大きな部屋を作ったり、逆に誰にも見つからない秘密の小部屋を作ることもできる。外から見た時にバレないようにな。お前はずっとあの部屋にいたから気づかなかっただろうが俺たちが普段使っている部屋は一階分下がっている。だからお隣の一般人には何の影響もない」
「そんなことが……」
俺の気づかないうちに階が2階から1階に物理的に下がっているというわけか。
つくづく神器って無茶苦茶だ。
「とにかくそういう訳だからこの部屋なら十分な広さもあるし、魔術で強化もされてるから外に被害を出すことなく思う存分に修行に励めるってわけだ」
関係のない一般人を巻き込むことがないとわかり俺は安心した。
一時はどうなることかと思ったが確かにこれなら思う存分暴れられる。
「わかりました。そう言うことでしたら安心です。早速よろしくお願いします」
「ああ、じゃあ早速走りこんでくれ」
「……走り込み?」
さらりと口に出された言葉の意味を理解できず聞き返す。
「そうだ、今からお前にはここで限界まで走りこんでもらう」
「何のためにですか?」
「強くなるためだ」
「強くなることと走ることに何の関係があるんです?」
走れば強くなれるなんてとても思えないんだが、強くなると言えばやはり実戦形式の組み手だろう。
今までだって宗方さんとはそうしてやってきた。
だというのに走り込みとは一体どういう意図があるというのか。
「走れば体力がつく。そうしたら生き延びる確率があがる。生き残れば強くなれる、何度でも」
そう言い放った古河さんは途中から俺ではない何かを見ていた。
それからバツの悪そうな顔をするとため息を1つ吐いた。
「いまいちピンと来てないって感じだな、まぁ、何事も習うより慣れろってか。準備しろ月深」
「準備、ですか?」
「ああ、お望み通り手合わせをしてやる。お前が私に勝つようなことがあれば今すぐにでも前線に出られるように取り計らってやる。だがお前が負けるようなら私がいいというまで修行に励んでもらう、構わないな?」
「ええ、異論はありません」
ここで実力を発揮しさすれば認めてもらえるというのなら話が早い。
袖をまくり、軽く屈伸をする。
すると、少し離れたところから笑い声が聞こえた。
「何がおかしいんですか」
笑い声の主、佐々木さんへと顔を向ける。
「いや、なに少しだけ面白かったんでな。悪かったどうぞ続けてくれ」
口元に笑みをを張り付けながら集中しろと促す。
腑に落ちないものを感じつつ、古河さんへと意識を移す。
「準備万端です、いつでもどうぞ」
「そうか、じゃあ遠慮なく」
直後、視界が真っ黒になった。
「起きろ」
直ぐ近くで声がして瞼を開ける。
目の前には古河さんがいて襟元を掴んで俺を持ち上げている。
気づくと同時に激しい腹痛を覚えた。
痛みに顔をしかめ、何があったのか思い出そうとするがなにも記憶にない。
突然、時間が吹っ飛んでいて気づいたら古河さんに掴みかかられている。
全くもってわけがわからない。
とにかくおなかが痛すぎて思考が纏まらない。
胃がムカムカしてせり上がってくるものを留めるのに必死だった。
と、唐突に古河さんが手を放した。
まるで体に力が入らず重力に惹かれて頭から床に叩きつけられる。
「立て」
終わった、そう安堵しかけた瞬間頭上から無慈悲な声がした。
「立て」
もう一度繰り返される。
「無理です、立てない」
本当だ。落とされたときからずっと立ち上がろうと試みていたのに全く足に力が入らず立つことができずにいた。
「……手を貸してくれませんか」
「断る、立て。まだ終わっていないぞ」
「まだ、続けるんですか?」
「そうだ、どちらかが戦闘不能になるまでやるからな」
「何のために……?」
「お前が臨んだことだろう? さぁ、立て」
立てと言われてもどうにもならない。
降参を宣言したところでそれを聞き入れてもらえるとも思えないし、このまま回復するまで待つしかない。
そう思った矢先。
「そうか、立てないのか。なら、そのまま死ぬか?」
氷よりも冷たい言葉とともに腹部を蹴り上げられた。
「がぁっ!?」
ただでさえ痛む腹部に更なる衝撃を受けて吹き飛ぶ。
受け身を取ることもできずゴムボールのように飛んでいき壁にぶつかった。
猛烈な吐き気に襲われてその場に胃液交じりに吐瀉物をまき散らす。
「立て」
いつの間にか古河さんが傍に立って見下ろしていた。
「はぁはぁ……ぐっ」
無理だと言ったところで受け入れてはもらえないだろう。
四肢に力を込めて体を起こす。
同時に、右腕を体の後ろにさりげなく回して神器を発現させる。
情けないとは思うが、もはや古河さんを打倒するには不意打ちするしかない。
そのために一手である。
負けるにしてもせめて一矢くれてやる。
完全に立ち上がると間髪を置かず神器を纏った右手で無防備な古河さんの土手っ腹目掛けて思いっきり殴りつけた。
目を覚ますとトレーニングルームの天井が見えた。
最近こんなことばっかりだな、気だるい身体をなんとか起こす。
「もう起きたのか? 意外に打たれ強いんだな」
そう声をかけてきたのは古河さんだ。その背後には腕を組み壁に寄りかかっている佐々木さんの姿もある。
「お、寝坊助のお目覚めか」
「俺どれぐらい気絶していました?」
佐々木さんを無視して古河さんに質問を投げかける。
古河さんは腕時計に視線を落とした。
「ん、ざっと1時間くらいじゃないか」
「そうですか、そんなにも」
「かかっ、これが実戦じゃなくてよかったな、さもなくちゃ一瞬であの世行きだぜ?」
なんとも耳に痛い話である。
「佐々木ちょっと黙ってろ」
「へいへい」
「……まぁ、これでわかっただろ?」
古河さんが近くに腰を下ろすとジッと真っすぐにこちらを見てくる。
「今の俺じゃどうにも役には立てなそうですね」
まるで歯が立たなかった。いいように嬲られて、ただの一撃だって当てることもできず気絶してしまった。
言われなくてもそれがわかるし、古河さんとの間にはそれだけの大きな隔たりがあることを理解させられた。
端的に言って俺は弱い。相手は本気でもないのに赤子も同然だった。
「お前は弱い。弱いというのは単に腕っぷしってだけじゃねえ。お前は俺や佐々木と情報においても圧倒的な差がある。悪魔なりたてのお前は魔力の使い方もわかっていないし、何が弱点だとかそういうこともよくわかっていない。加えてこれだけの差がありながら本人は全く自覚がないと来ている」
放たれる言葉全てがあまりに正論過ぎて何も言い返せなかった。
「月深、まずは自分の弱さを認めろ、そして俺たちとの差を知れ」
「はい」
「焦る気持ちはわかるが、少し落ち着けよ。何もお前を置いてけぼりにしようっていうじゃねえ、雑用ばかり押し付けるのも今はまだそういう段階じゃないってだけだ」
「強くなれますか、あなたみたいに」
「なれるさ、こう見えても俺はこの中でも一番弱いからな。すぐに追いつける」
「そうと決まれば早速……ってあいたたた」
「無理すんな、手加減したとはいえもろにはいったからな。今日は安静にしとけ」
「すみません、明日からよろしくお願いします」
「じゃ、晩飯までゆっくりしてろ。ほらお前もいくぞ」
佐々木さんを小突くと揃って部屋を後にした。
その背を見送ると、ベッドに横なる。手を頭の後ろに回して天井を仰ぐ。
「ちょっとは強くなったと思ったんだけどな……」
早く認めてもらうために決闘をしてもらったのに結局この有様である。
脳裏には今日の戦いがまざまざと蘇る。
「俺もまだまだだな」
宗方さんやお嬢様、船堀さんとの死闘を通じてちょっとは成長していると思っていたんだが俺は井の中の蛙だったようだ。
自惚れていた。今となってはそれがわかる。
はぐれ悪魔に何て遅れは取らない。俺一人だって何とかなる、そう、お嬢様に啖呵を切ったというのに。
そういえば、本当に今更だけどあの人はお嬢様はどうしているだろうか。
ちょっと冷静になって今更ながらお嬢様のことを気にしているなんて少しばかり薄情だろうか。
色々あって気にする余裕がなかったというのも言い訳なんだろうな。
「俺のことを心配してくれてるのかな」
連絡の1つでも入れたいところだが生憎とスマホは手元にない。
隙に外に出られるわけではないし、連絡を取り合うことはほぼ不可能だろう。
こればかりは信じてもらうしかないだろう。
悪魔稼業を手伝えず滞ってしまっているのは本当に申し訳ないがはぐれ悪魔を一挙に検挙したとなれば帳消しになるだろう。それまでの辛抱だ。
横になっているせいか瞼が重い、なんとか起きていようと思っていたがいつの間にか睡魔が忍び寄ってきていつの間にか眠りに落ちていった。