深夜。
蹉跎家の道場に一定の間隔で床を踏み込む音が響いていた。
「ふっ!」
鋭い正拳。
拳が空気を穿つ。
すぐさま腰を捻り、
「はっ!」
回し蹴り。
着地と同時に重心を落とし、再び構える。
桜の身を包んでいるのは、見慣れつつある牛装狩衣だった。
牛柄ビキニに、牛柄アームカバー、牛柄ニーハイソックス。
頭には牛耳と角付きカチューシャ。
最初の頃なら、鏡に映った自分を見ただけで動きが止まっていた。
だが今夜の桜に、そんな様子はない。
「……次です」
踏み込み
拳。
肘。
蹴り。
一連の動きを止めることなく繋げていく。
牛装狩衣によって増幅された力に振り回されることも、負担もずいぶん少なくなった。
「ふぅ……」
桜は構えを解いた。
額の汗を拭いながら、自分の手を見る。
「だいぶ馴染んできましたね」
まだ完璧ではない。
それでも最初とは雲泥の差だった。
この姿への抵抗も、少しずつ薄れている。
もちろん、人前で堂々と着られるかと問われれば。
「…………それは別の話ですね」
誰もいない道場で、一人赤くなる。
しかし、それでも修行は続けてきた。
一日。
また一日。
誰に褒められるわけでもない。
誰に見られるわけでもない。
それでも桜は、牛装狩衣を自分の力として扱えるようになるため、毎夜拳を振るった。
その時だった。
「……?」
桜が眉を寄せる。
胸元から淡い光が漏れている。
「え?え?これは……?」
牛装狩衣が光っていた。
それも一部分ではない。
胸から腰、腕、脚。
さらに頭の牛耳と角まで。
牛装狩衣全体が白い光に包まれていた
「え……?」
桜が目を見開く。
こんな反応は初めてだった。
「これは、もしかして……」
牛装狩衣が、光の粒となり、光が桜の胸元に吸収されるように消える
何十夜も修行してきた。
恥ずかしさを堪え、ようやく使いこなせる兆しが見えてきた。
実戦で使おうとまで思い始めていた。
それが突然、消えた。
静寂。
桜は呆然と立ち尽くした。
「…………消え……ました」
自分の身体を見る。
生まれたままの姿が窓から入る月明かりに照らされていた。
その言葉を漏らした瞬間だった。
ドクン。
「……!」
胸の奥で、何かが脈打った。
心臓とは違う。
もっと深い場所。
魂そのものに触れるような感覚。
桜は胸に手を当てる。
「何……ですか……?」
目を閉じる。
意識を内側へ向ける。
すると。
頭の中へ、言葉ではない何かが流れ込んできた。
長い修練。
羞恥に負けず、力と向き合い続けた精神。
そして何より。
力そのものに溺れず、誰かを守るための力として使おうとした意志。
そのすべてを。
牛装狩衣は、見ていた。
「…………」
桜が目を見開く。
消滅したのではない。
牛装狩衣が桜を認めたのだ。
蹉跎家の女当主とし、一人の陰陽師として。
自らを纏うに相応しい陰陽師として。
「……私を……認めてくれたのですか?」
返事はない、けれど。
胸の奥から伝わってくる温かな霊力が、その答えだった。
桜はしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少し微笑む。
「……ありがとうございます」
そして静かに構える。
自分の内側にある力へ手を伸ばす。
「では……改めてお願いします」
息を吸う。
その瞬間。
桜の身体そのものから光が溢れ、それが形を得ていく。
脚。
腰。
腕。
胸。
そして最後に牛角と耳。
光が弾ける。
そこには再び、牛装狩衣を纏った桜が立っていた。
だが。
「……軽い」
桜が拳を握る。
身体のどこにも違和感がない。
呪力が流しているという感覚すら薄い。
拳を軽く突き出す。
バンッ!
離れた場所の巻藁が、衝撃だけで激しく揺れた。
桜はしばらくそれを見つめる。
そして自分の拳を見る。
「……ふふ」
小さく笑う。
「消えた時は、本当に焦りましたよ」
当然、牛装狩衣から返事はない。
それでも桜は、どこか相棒へ話しかけるように続けた。
「でも……認めてもらえたのなら」
構える。
その表情から、先ほどまでの動揺は消えていた。
「私も、あなたの力をちゃんと使えるようにならないといけませんね」
床を踏み締める。
今までより自然に。
今までより力強く。
そして何より、自信を持って。
「もう少しだけ、付き合ってください」
再び拳が夜を切り裂く。
この夜。
牛装狩衣は、蹉跎家女当主に受け継がれた。
それは正式に桜を装者として認め、魂と完全に一体化した。
そして桜自身もまた、初めて牛装狩衣を、
「蹉跎家当主として受け継がなきゃいけない物」ではなく「蹉跎家当主である自分の物」として受け入れたのだった。