今日の目覚めも爽快だった。
枕元の携帯に手を伸ばしてみれば時刻は六時半。習性で設定しているアラームが鳴り出すよりも少し早い。ここのところは毎日そうだが、それでもなんとなくアラームの設定を止める気にもなれなかった。今となってはあくせく向かう職場もないのだけれど。
単に八鍔がこの何をするにも軽い体に浮かれているだけの可能性も決して低くはないが。
フローリングの床の上に勉強机とベッドとクローゼット。クローゼットは開くと全身を映せる鏡がついている。慣れると楽だったのでそのまま使っているワンピース型のパジャマを脱ぎ、適当に引っ張り出したシャツとズボンに着替える。広がったままの赤い髪を適当にまとめてゴムで縛る。邪魔に思えたので短くしようかとも思ったのだが、ありとあらゆる関係者から微妙そうなリアクションをもらい髪の長さはそのままになっている。唯一、
暮らし始めて二週間が過ぎる部屋の内装や天井はそろそろ見慣れ始めたが、この触れれば火傷してしまいそうな赤い髪には未だ慣れない。別に拒否感を覚えるわけではないのだけれど、今でもどこか自分の体とは別の服や飾りの様に思えてしまう。少女の体にも段々と慣れ始めている自分がいるので、いずれはこの違和感もなくなっていくのだろうけれど。
八鍔が魔法少女となって既に半月が経っていた。
性別が変わることによる戸惑いは驚くほど少なかった。それ以外に変わり過ぎた事、気にすべき事が多かったともいう。何より、元の八鍔との乖離が大きかったのは年齢と体格だったのだ。ただ歩くだけ、扉を開くだけ、物を取るだけでもこの小さな体は思わぬ不便を被る。知っている道を歩いてみても視点が違い過ぎてともすれば道に迷いそうになる。男女の肉体の差よりもそちらの方が余程八鍔を戸惑わせていた。
あるいは、この体がもっと成熟した女性の肉体であれば違ったのかもしれないが。今のところ生理が来る様子もない。性の分化も小さい肉体では、差異など精々が股の間にものがあるかないかくらいでしかないのだった。八鍔はそれに関してはさして不便を感じなかった。
かつての体よりも手を伸ばしてドアノブを掴む。全身を傾ける様にして開いた扉の先では横長のテーブルに三人の少女が座り朝食をとっていた。
「おはよう」
「おー、やっちゃんおはー!今日も素敵に
「おはようございます、八鍔さん」
「……」
挨拶を口にした八鍔にそれぞれ挨拶を返してくれる。
行く当てのない魔法少女、どこへも行きたくない魔法少女。そんな少女たちが暮らしていくための施設がここ星屑文庫である。とはいえ、"図書館"は基本的に魔法少女たちの軸足を一般社会に置くことを推奨しているため、ここで暮らす魔法少女はそこまで多くはないのだけれど。大抵は親元、そうでなくても親戚や他の施設で暮らしている。
八鍔としては、見てくれはともかく中身はいい歳をした男なので他の少女たちが暮らす寮はまずいのではと思ったのだが。魔法少女になった時点でそういった問題はクリアされているのだと"図書館"のトップに言い切られて入寮を勧められた。寮で暮らしていた他魔法少女たちとも顔合わせをして問題ないとの返答ももらったため、最終的にはありがたく衣食住の恩恵を預かることにしたのだった。
「他のみんなは……まだ寝てるか」
「
「……何故庭?」
「さあ?」
コーヒーを啜っていたさざみと向かい合って首を傾げる。
黒髪をひとつの三つ編みにし丸眼鏡をかけたさざみはそれだけであれば文学少女といった雰囲気なのだが、左右の耳にバチバチに開けられたピアスたちがその印象を上書きしていた。今は高校二年生との話で、八鍔は自分の頃を思いだして学校にそのピアスはまずいのではないかと思ったりしたのだが特に問題ないらしい。そういう時代か、と価値観の変遷に八鍔は感心した。隣で妃万里が首を横に振っていたのはよくわからない。
余談であるがさざみは高校では王と呼ばれているらしい。詳細は不明である。
「んも、みふちゃんはねー磯辺餅が食べたくなったって言ってたよー」
「庭で焼く必要はないだろう」
「ロマンでしょ」
「ロマンか」
大量のレタスを頬張っていた妃万里の答えに一応の納得をする。外で物を焼くのはワクワクする。八鍔にもそれくらいはわかる。平日の朝っぱらからそれをやろうとは思えないけれど。
多舟妃万里。魔法少女シーエクレア。彼女には意識の戻ったあの日から度々検診で世話になっていた。彼女は魔力を目で
そんな彼女の姿は、魔法少女の時には水色だった髪はやや灰色がかった黒髪に、星の散っていた瞳も代わり映えのない黒色になっている。変身してもしなくても真っ赤な髪と真っ赤な瞳の八鍔は、それが少しうらやましかった。中学二年生だが、歳の割にかなり小柄で、そこは魔法少女の時と変わりない。今の八鍔と比べても多少大きいくらいでは、ランドセルを背負ってもまるで違和感がないだろう。
「狂人の奇行を理解しようとしたって時間の無駄よ」
さざみのあんまりと言えばあんまりの言いぐさに苦笑する。
彼女はこれで悪意がないのが質が悪い。口が悪いと言うよりは思ったことをそのまま言う性格のようだった。八鍔も妃万里もその辺りはわかっているので特に咎めることもなく聞き流す。何より話題の
「八鍔ちゃん、おはよ。朝はいつものでいいかい?」
そんな風に話しているとテーブルの向こうのカウンター越しにふくよかな女性が声をかけてきた。この寮の寮母である。魔法少女たちの事情に理解があり、踏み込みすぎず、さりとて遠慮することもない人物だった。
「おはようございます。はい、お願いします」
八鍔もすっかり世話になってしまっており、日々の感謝と共に頭を下げる。
そんなことをしていると、ふと視界の端でツインテールの先が横切り部屋を出て行くのが見えた。会話に参加せずに食事を終えた小夜のものだった。
その背中に八鍔は声をかける。
「ああ、今日は午後よろしく」
「……別に」
振り返ることなくそれだけ返すと小夜は去って行った。
「やっちゃん楽しそうだね」
「そうか?……最近は返事を返してもらえるようになったからかもしれないな」
初めて会った時は本当に一切口をきいてもらえなかったから。今の反応は外町小夜のものとしてはかなりの好感触だった。
「うわぁ、たらしだ。悪い男だー。そうやって女の子引っかけて泣かせてるんだ」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ……警察が怖い」
「ええー平気平気。今のやっちゃんは誰がどう見てもプリティ幼女だから。女の子ホテルに連れ込み放題だよ」
「幼女がホテルに入ってくのがアウトだ」
「そだね~」
ケラケラ笑う妃万里を相手にしながら、つま先立ちになって寮母から朝食を受け取る。踏み台は使いたくない。この体になって僅かに生まれた八鍔のプライドだった。
白米と味噌汁。大豆の佃煮とレタスとキュウリのサラダ。量は以前に比べれば半分くらいか。この体ではそれでも十分すぎるくらいだ。
「八鍔さんは今日もこの後はお散歩?」
「ああ、魔力制御と創作魔法の練習がてらな」
「学校ないのいいなぁ。私もそういう生活したぁい」
「別に……ん、なんか魚の……サンマの匂いがしないか?」
「餅を焼くのに飽きたんじゃない?」
「米を食べてる時にこれはテロだろ」
「旬でもないのによくやるなぁ」
同じテーブルについているさざみと妃万里と他愛ない会話をしながら八鍔は味噌汁をすする。
起きて挨拶して、談笑しながら朝食を食べて、部屋を軽く掃除したら朝の散歩へ。魔法少女になる前、独り暮らしをしていた頃は朝食なんて取る方が珍しく、人と話す機会など会社に出るまで皆無だった。それを思うと驚く程に健全な生活を送っているように思えた。
高二や中二の少女たちの中に違和感なく溶け込んでいる己に時折疑問を覚えないでもないけれど。魔法少女になってしまった事に比べれば些細な事だ。
一度は死んだつもりだったのだが。まあ、今は決して悪い生活ではなかった。
###
「さて」
あれから庭でサンマをわけてもらって朝食を終えた八鍔は"図書館"の本館にやってきていた。星屑文庫から徒歩五分の距離だ。
それでも、町中を歩けば八鍔の姿は目立つはずなのだが。もう一週間以上同じ道を行き来しているが騒ぎになることはなかった。「やっちゃんボディは特別っぽいからなぁ」と妃万里は言っていたがまだ具体的な話は聞けていない。何があるというのか。医者が思わせぶりな事を言うこと程、タチの悪いこともないというのに。
"図書館"の本館は都心から少し離れたベッドタウンにある。歴史ある華族の屋敷を改修した図書館。それを更に魔法少女のための拠点として改築したものが現在の"図書館”本館である。少し聞いた話では、かつてここがまだこの町のいち図書館であった頃に魔法少女たちが集会場として用いていたのが"図書館"という組織の始まりであるとか。
「おや、八鍔さん。おはようございます」
庭の手入れをしていた好好爺然とした老人が建物へ入る八鍔を見かけて声をかけた。
「おはようございます、
「今日も魔法の練習かい」
「そんなところです」
簡単な挨拶をして建物の中へ。
建物を管理する人間など"図書館"には大人の姿も決してないわけではない。それでも、"図書館"の中核を担うのは魔法少女たち当人であるようだった。あくまで互助組織であるため、あまり組織だって何かをするわけでもないのだが。
魔法少女が黒兎と戦う事をお互いにサポートする。その為に必要な知識や力を蓄え共有する。"図書館”の理念であると
極論、魔法少女は必ずしも"図書館”を頼る必要はないのだという。所属させるための強制力も存在しない。実際"図書館"と距離を置く魔法少女というのもいるのだと聞いた。
それでも、"図書館"が魔法少女にとって大きな存在である理由の一端が八鍔の目の前にあった。
本館の地下一階にある一室。かつてはワインセラーに使われていたらしい石造りの部屋は今は棚も家具もなくがらんとしている。
その中央。
宙に浮くピンクのポールのような物体。"栞"と呼ばれるそれを前に八鍔は意識を集中させていた。
「
自分の内側、まだうとうとしているトーチに少しだけ詫びながら変身言葉を口にする。赤火が八鍔の体を覆い、それがはれる頃には赤いラインの走る白いドレスを身に纏った魔法少女───ジャックタルトの姿がそこにあった。
『ん~……おさんぽの時間なのー?』
「ああ、今日も跳ぶぞ」
『にあーあれ慣れないのー』
手にしたステッキから響く気の抜けた声にもすっかり慣れた。トーチに意識を向けると白いステッキが赤い光に変換され、それが手のひらに収まるくらいの球体へと形を変えて光を散らした。八鍔の手のひらの上に現れたのは、所謂コンパクトと呼ばれる手鏡の一種だ。二つ折りになっており、開くと内側に鏡が張られている。
これも"図書館"が伝える技術のひとつである。
『んぬー……』
コンパクトからトーチの座り心地の悪そうな呻き声が聞こえる。
魔法少女の杖の形態変化。"図書館"で最初に教えられたこれはトーチからは不評なものの、通信、索敵、隠匿などまるでスマホの様な多機能魔法性能を発揮する現代の魔法少女にとっての必須の技能であった。妙にデザインが少女趣味チックになってしまうのは魔法少女の仕様らしい。それでもまだ八鍔のものはシンプルなデザインだとホットミルクは言っていた。
これも広義の創作魔法と言えるのか。妙に多彩なトーチの呻き声を聞き流し、最近覚えた概念を脳裏に思い浮かべて八鍔はそんな事をぼんやりと考えていた。
魔法少女はそう
それに対して、ある天才が考案し組み上げたものが創作魔法と呼ばれる魔法少女なら誰でも扱える魔法である。セイラピューレが八鍔と戦うために使ったハミングもそのひとつ。
そして、これから八鍔が使用するものもまた───
「
眼前の"栞"と重なる様に存在する幾つもの"栞"を意識する。魔力を細く伸ばし繋げるようなイメージ。その魔力の先端が"栞"に触れたと感じた瞬間にそれを一気に引き寄せる。
幾度も他の魔法少女たちからレクチャーされた工程を反復する。小さな自分の体がへそ下あたりを起点にギュッと引きずられる感覚。八鍔の視認する世界がバグのように横に引き伸ばされパチンと弾ける。
「………………ふぅ」
緊張をほぐす様に息を吐いた八鍔が立っているのは石造りの地下室ではなく、白っぽい壁の古びたビルの一室だった。元の居場所と共通しているのは部屋の中央にピンクのポールが浮かんでいる事だけ。
『跳べたのー』
余程窮屈だったのか言葉と共に手のひらのコンパクトが白いステッキに姿を戻す。
「魔法自体は成功したけど……さて、ちゃんと狙った場所に移動できてるのやら」
"リープ"は特定の地点に設置されている"栞"と呼ばれる魔法道具を頼りに距離を跳躍する創作魔法である。言ってしまえば瞬間移動で、これがあるからこそ魔法少女は突発的に出現する黒兎の事件に対してもすぐに討伐へ向かうことができる。呪文単独で成立しているわけではなく、点在する"栞"と魔法少女たちのステッキを変化させたコンパクトがセットになったかなり複雑な魔法なのだという。その分効果も絶大だ。
"栞"は日本各地、だけではなく世界中に設置されているらしい。罷り間違って海の向こうなどに跳んでいたら帰りが面倒になりそうだ。
ステッキを肩に担ぎ、八鍔は部屋を出て最近日課の散歩に向かうのだった。
リープの練習に"栞"の設置箇所周囲の把握。それから気晴らし。一石三鳥の日課である。
『シロがこっちに来るのー。ここで待ってるのー』
「へ……?シロってホットミルクの?」
『待機ー!とにかく待機なの。トーチは請求権を行使するのー』
「えぇ……」
意図した場所には跳べていたが、そこで思わぬ出会いがあったのはまた別の話であった。
###
「タルトちゃん、朝ぶりだね」
その日の午後、"図書館"本館のロビーで本を読みながら待ち合わせをしていた八鍔に魔法少女に変身した
トップの千子がその辺守る気がない様で、八鍔も割となあなあにしてしまっている。八鍔の場合は普段の見た目が見た目な事もあって変身せずともスルーされやすいのもあった。
「……来たわね」
「あ、えっと……チェリーも。今日はよろしく、ね」
「……」
もうひとり。八鍔と共にロビーで待ち合わせていた魔法少女にホットミルクが恐る恐る声をかける。だが、呼びかけられた彼女───魔法少女ザイルチェリーから返事はなかった。
変身前と同じく左右で髪を結んだツインテールにはメッシュのように幾筋も赤い髪が混ざっている。顔の下半分が黒い布で覆われており、纏う服装は和風の要素の取り入れられた黒ベースのゴスロリ。初めてその姿を見た時に八鍔の脳裏を呼びったのはゴスロリ忍者というワードだった。
魔法少女ザイルチェリー。本名、外町小夜。最近八鍔とホットミルクの訓練に混ざるようになった魔法少女だ。誰に対してもツンケンとした態度を取りがちだが、どうもホットミルクに対しては特に当たりが強い様に思えた。
「……さっさと始めるわよ。ジャックタルトはまだ覚えてないし、私がやる」
差し出された手を八鍔は握る。本当ならホットミルクへも差し出されるはずなのだが、頑なにそれをしないので代わりに八鍔が彼女の手を握る。ホットミルクは眉尻を下げて「ごめんね」と目線で訴えかけてくる。
八鍔に手を握られたザイルチェリーは、目を閉じてしばらく集中する。
やがて静かに力ある言葉を口にした。
「───
そして世界は反転する。