魔法少女ジャックタルト   作:富野倒去

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【3-12】時計の針は重ならない

 熱くて赤いここはどこだろう。少し狭くて、どこまでも広い。天地の区別がうまくつかなくて。自分の居場所もはっきりしない。

 

 金属の擦れあう音がする。

 耳障りで、不快で、何より音が鳴る度体の奥に嫌な振動が走る。

 完璧に噛み合った部品を後から強引に動かす様な。ギシギシと軋む。パーツとパーツを歪める程の強い力。本当に金属部品ならそうして負荷を重ねていけば、いつしか耐え切れず砕けてしまうのかもしれない。

 けれど。

 己を構成するパーツは段々とその力のかかり具合を覚えて、歪みを受け入れて、形を変えていく。隙間が空く、余白ができる。かけられた力に応じて稼働する。力がかかる前提の形に少しだけ変形していく。馴染んでいく。受け入れていく。許容していく。

 慣れていく。

 変化していく。

 最適化していく。

 

「本当に?」

 

 誰かの声が聞こえた気がした。知らない声だった。

 問いに返す言葉はない。

 返せる答えもなければ、発する為の口もない。そもそも自分は今どの様な姿をしているのだろう。

 

 金属の擦りあう音がする。

 今は身じろぎの様にわずかに揺れるだけ。嵐が過ぎ去った後の秋風の様に。やがてはそれも静まるのだろう。

 

 金属の擦れあう音がする。

 熱と共に、火の粉と共に。振動し反響し拡散し世界を揺らす。

 擦れあう、音。

 

 

###

 

 

 八鍔(やつば)が目を覚ますとそこには見覚えのある天井があった。

 

「ここ、は……」

 

 見慣れてはいない。けれど、半月ほど前に同じものを見た記憶はあった。八鍔が初めて魔法少女になった後、"図書館”に連れてこられて目を覚ました部屋だ。

 起き上がってあたりを見渡す。今回は部屋に八鍔以外に誰もいないようだ。しんと静まり返った静寂が起き抜けの八鍔には少しだけ耳に痛い。寮生活では毎朝目が覚めるたびにどこかで物音が聞こえていたから。それに軒下に巣でも作られているのか八鍔の部屋は鳥の鳴き声もよく聞こえる。あるいは、こうなる以前には電車や踏切の音が家の中にいても壁を越えて耳に届いていた。八鍔の今いるこの部屋はそういった世界の雑音から切り抜かれて、虚空の海を漂っているかの様に感じられた。

 錯覚だ。ベッドから飛び降りカーテンを引けば、黒い空の下にぽつぽつと光の灯る夜の街並みが見える。この部屋は確かに世界の中に存在している。

 夜。携帯を取り出せば時刻は二十時を過ぎた頃だった。日付は黒兎の討伐に飛び出した時から変わらず。前回よりは早い目覚めだったらしい。

 

「っ……」

 

 半身を襲う痛みに体が強張った。カーテンを引いた手をよく見れば指先から肩のあたりまで隙間なく包帯が巻かれていた。むしろこの状態でよく動かせたなと驚く。

 痛みは記憶を呼び覚ます。巻かれた包帯の意味。己の炎で焦がした黒く炭化した腕。そんな手段を選ばなければならなかった理由()。生地越しに染み渡るのが感じ取れた生暖かい血の感触。こちらを見下ろす魔法少女の目。その足元に倒れる───

 

「ザイルチェリー、は……っ」

 

 どこか夢心地だった意識がはっきりとする。

 戦いの記憶と共に血を流して倒れる魔法少女の姿を思い出す。

 

『どーどー、なの』

 

 窓から身を翻した八鍔の目の前に逆さまになったオレンジの小鳥の姿が飛び込んでくる。

 

「トーチ……!」

 

 それは八鍔のパートナー、魔法少女としての半身。逆さまに飽きたのか宙でくるりと回転してから餅の様にまん丸としたトーチは言葉を続けた

 

『ヤツバはせっかちさんなの。トーチのこと忘れちゃだめなのー。こういう時はまずはトーチに聞けばいいのー、のー』

「そう、だったな……悪い」

『ヤツバはがんばってたから許してあげるの』

 

 頑張っていた。

 トーチの言葉に渋い苦笑いを浮かべながら八鍔はベッドに腰かけた。体に対して少しベッドの位置が高いので後ろに飛び上がるような動作になる。この半月でそういった動作にも慣れたものだった。だが、心まで子供になったつもりはない。八鍔は八鍔のまま今の体になったはずだ。けれど、思い返す今日の記憶は苦いものばかりで。ずっと浮き足立っていた様に思える。もっと冷静になれたのではと。もっと考えることができたのではと。その結果がザイルチェリーに庇われる結果だったのではと。己の至らなさにうんざりする。

 トーチもまた、いつものように八鍔の頭頂部に着地した。

 

『チェリーは助かったのー』

 

 まずは端的に、トーチは八鍔が一番知りたがっていたことを教えてくれる。その言葉にほうっと安堵のため息が漏れた。

 腹部の風穴、あれはおそらく普通の人間ならまず助からない傷だった。それでも生還できたのはやはり魔法少女だからなのだろう。

 

「そうか……よかった。…………後遺症、みたいな話は?」

『んー、聞いてないからわからないのー。けど、エクレアが嬉しそうにミルクのおかげで助かったって言ってたからきっと大丈夫なの』

「ミルク……在奈が?」

 

 何故という疑問に、かすかに記憶の端に残る意識を失う直前の声が被さる。あれは果たしてホットミルクのものだったのか。

 その後いくつか質問を投げてみたもののトーチも詳しいところまでは知らない様だった。

 八鍔とザイルチェリーは駆けつけた魔法少女に助けられ、現在は"図書館"病棟に入院。ふたりを襲った魔法少女はそのまま逃走したらしい。三箇所で出現した黒兎はそれぞれ討伐済み。死者は一般人に三名、魔法少女側はゼロ。八鍔の戦った現場で死者が出たかどうかはわからない。トーチから聞けた話は概ねそんなところであった。

 ザイルチェリーの様子を確認するか迷ったが、ひとまず部屋で大人しくしておくことにした。

 夜に様子を見に行き、それから未だ目を覚まさない愛維(あい)の事が脳裏を過ったわけではない。わけではないが、無事と言うなら顔を見るのは明日でもいいはずだ。

 

「"図書館"に所属していない魔法少女……いるとは聞いてたけどあそこまで物騒なものなんてな」

『なんか殺し屋って話を聞いたのー。殺し屋って日本にいるものなの?』

「気にするところが違う気もするが……魔法少女の殺し屋、な。実際、これだけの力があればいくらでも仕事はありそうだけど……」

 

 そんな話は初めて聞いた。隠されているのかもしれないけれど。思えば魔法少女が大規模な人同士の争いに関わったり、大量殺人のような大きな事件を起こしたという話は八鍔は聞いたことがなかった。

 そんなことをしないだけの倫理観や自制心を持つ少女が選ばれているのか。魔法少女になる人間にとってはそんなことにさしたる価値がないというのか。

 未だ半月程度の交流しかないがどの魔法少女も関心は、世の中の何かではなく人を襲う黒兎に向いているように感じた。当然と言えば当然なのかもしれないけれど。

 薄ぼんやりとした世界の膜の向こう、魔法少女たちは黒兎と対峙している。

 

『ヤツバも殺し屋やるのー?』

「はぁ!?……なんでだよ」

 

 脈絡もないトーチの言葉に思わずといった声が上がる。時折あるトーチのとんちんかんな物言いに呆れ混じりの声音になる。

 

『だってあの時、ころしてやるーってそう思ってたの』

「……」

 

 その感情が、言葉が、トーチの答えに凍りついた。

 

「……そんな風に思ってたか、俺?」

『背中に斬りかかる時、そういう気持ちがぶわって大きくなってたの』

「…………そうか」

 

 それだけ、口にして。しばらく八鍔は何も言えず、身を屈めて窓の外、斑らの月をじっと見上げた。自分の感情を思い出そうとして、うまくいかない。ただただ必死だった事は確かで。けれど、自分がそんな事を考えていたのかはわからない。ただ、あの魔法少女に殺意を抱いていたとしても不思議じゃない。むしろ、そういう感情を抱いている方が自然だっただろう。別に驚く様なことでもないはずで、なのに人に対して殺す気で魔法を放ったことに思いの外動揺していた。

 人殺しなんて自分はしないと思っていたか?否、人殺しなんて自分はできないと思っていたから。

 頭の中で繰り返しその考えをなぞる。あまり楽しい行為ではなかった。

 頭上ではトーチがきまり悪そうに時折身じろぎしているしているのを感じた。思わぬ形で八鍔を傷つけたと思って謝ろうか、けれど謝ることがまた八鍔に嫌な思いをさせないか、そんな風に考えている様だった。

 互いに感情をわかりあえても、それだけで完璧なコミュニケーションなどできないらしい。

 そんなことを思うと僅かに肩の力が抜け、口元に笑みが浮かぶ。

 

「俺は殺し屋にはならないよ」

 

 だから、時間をかけてようやく口にした言葉は優し気な声音になっていた。

 

「俺がなるって決めたのは魔法少女だからな」

 

 口にすると滑稽だけれど。二十九のおっさんが何になるというのか。まだ殺し屋と言った方が格好はつくだろう。

 それでも、魔法少女をやると決めた。あの夜、今と同じ病棟で。生きていたあの子の顔を見てそうしようと決められたのだ。

 それを思い出した。

 

『トーチもそれがいいと思うの!』

 

 頭の上でトーチが羽を広げて喜びを表現しているのがわかる。先程までの申し訳なさも忘れてころりと機嫌をよくしたトーチに苦笑が漏れる。同じ苦笑でも、それはベッドに腰かけた時のものよりも柔らかく穏やかな表情だった。

 本当は目が覚めたことを人に知らせるべきなのだろうけれど。

 もう少しだけ今の気持ちでいたかったから。

 

「寝るか」

 

 八鍔は体を投げ出すようにベッドに横たえた。

 省みること、考えること、悩むべきこと。いくつもあるけれど。今はただこのまま眠ってしまいたかった。

 じっと目を閉じれば体の内にまだ熱が残っているのが感じ取れた。温かな、なんてものではなくて苦しくて不快な八鍔をいつも苛む荒れ狂う炎。戦いの残り火。いつもより盛大に炎を振りまいたその余波かもしれない。

 多分、少し前までならこの熱に苛まれてうまく眠ることもままならなかったと思う。

 けれど今は平気な気がした。

 

『おやすみなのー』

「ああ、おやすみ」

 

 やがて病室は再び静けさを取り戻す。そこには少女の穏やかな寝息だけがいつまでも聞こえていた。

 

 

###

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 今日の夕食はロールキャベツだった。ぎゅっとつまったキャベツの中の肉が噛みしめるとコンソメスープと共にほろほろとほぐれて口の中を幸せにしてくれた。

 食べ終えた在奈(ありな)はいつものように手を合わせ食器を洗面台へ運んでいく。

 

「今日はクラブも遅かったですし、疲れてませんか?」

「洗い物くらい平気だよー」

 

 夕飯の食器洗いはいつも在奈の仕事だった。母も兄も仕事や学業で夜は疲れていることが多い。そんなふたりを見て、いつからか在奈が自分から受け持つようになっていた。蛇口をひねりたらいに水を溜めていく。

 

「……帰るの遅くなってごめんなさい」

「もう何度も聞きましたよ。事情があるなら仕方ないですけど、今度からはきちんと先に連絡してくださいね」

「うん」

 

 流れる水を見ながらぽつりとつぶやいた今日何度目かになる在奈の言葉に母親も同じ言葉を返してくれる。

 "図書館"でザイルチェリーの治療の為に魔法を繰り返して倒れた在奈が目を覚ましたのは十九時になる頃だった。窓の外が暗くなっていることに驚いて、今日は泊って行けと引き留める真弓たちを半ば強引に振り払って慌てて帰ってきたのが少し前。ほっとした顔の母に少しお説教をされて、兄からはいつもの嫌味を言われながらも、いつも通りに夕食をとることができた。

 なお、在奈があわてて帰る前に"図書館"から家に連絡はいっていたらしい。気をまわしてくれたのだろう真弓には今度会った時に礼を言っておかなければならないだろう。

 今日の出来事、魔法の感触、そういうものを頭の中で思い描きながらも手は止まることなく泡を起こしたスポンジで食器たちを擦っていく。

 最後に残ったロールキャベツをタッパーに移して鍋を洗えば今日の在奈の仕事は完了だ。

 

「在奈、お風呂に入りなさいねー」

「はーい」

 

 自室に上がる途中、背中に母の声がかかり間延びした返事を返す。とはいえ、食べてすぐというのも忙しないので少し一息つこうと考える。

 扉を開け、部屋に入る。灯りをつける気力もわかずに顔からベッドに倒れこんだ。

 

『ありな……!』

 

 実体化して心配そうに寄ってくるシロを撫でながら在奈は布団の中へ大きく熱い息を吐いた。

 体の内が熱い。ザイルチェリーから魔力を掬いだす中で感じた熱さが今も収まらずに体を苛んでいる。風邪のような、それとも少し違うような。気だるさと気持ち悪さを伴う不快な熱だった。漠然とした感覚で今晩中はこの状態が続きそうだなとぼんやりと思う。

 一度倒れると起き上がるのがとても億劫だ。"図書館"で目が覚めた時もそうだった。

 それでも、家族には心配をかけたくなくて頑張ったけれど。

 

「どうしよう……お風呂まで行ける気がしない」

『どうする?』

「簡易変身で多少マシになる、かも。動くくらいは」

『シロもなるべくありなのぐあいがよくなるようにおせわするー』

「ふふ、ありがとう」

 

 話しながらも、顔を布団の上から上げることができない。結構重症なのだろうかとも思う。体の内側へ意識を向ければ過剰に取り込み続けた魔力が今も元の状態を思い出せない様に暴れまわっているのがわかった。魔力の過剰暴走。体の熱はこれが原因なのだろう。

 

「ヤツバちゃんが戦いの後だるそうにするの、たぶんこれが原因、なんだよね…………すごいなぁ」

 

 自分のかわいい後輩の顔を思い出し、布団に隠したままの顔に笑みを浮かべる。

 魔法を使い過ぎれば意識を失い、そうでなくとも数度の魔法の使用で大きく疲弊する。今までは何か不調がある程度の事しかわかっていなかったけれど。

 自分でこの状態を体験してようやく察しがついた。八鍔の状態は、きっと自分のこれをもっとひどくしたものなのだ。そう思うともう何度目かと思うくらいに彼女への尊敬の念がわく。すごいなという感情。えらいなという感情。

 それから、守ってあげたいなという感情。

 あの日、初めて彼女に出会った日から元がどうであれ八鍔は在奈にとって小さな女の子だ。そう思うと決めた。

 だからこそ、彼女に頼られるような先輩でありたいと思う。彼女を守れるような先輩でありたいと思う。かつて自分がそうしてもらえたように。

 八鍔は格好良くて、つい寄りかかってしまう時もあるけれど。

 

「……」

 

 帰り際に顔を見た.、少し血色がよくなったザイルチェリーの顔を思い出す。彼女の傷の状態を聞いて在奈はすぐに彼女が八鍔を───ジャックタルトを庇ったのだと考えた。何か証拠や誰かの話を聞いたわけではない。それでも、自分が駆け付けた時のふたりの様子と、ザイルチェリーの状態を考えればそうなのだろうと在奈は確信していた。

 彼女は優しくて、頼りになるから。

 

「…………」

 

 結局あの寝顔に対しても在奈は何も話せずに帰ってきてしまった。

 いつかは、何か。彼女へきちんとした言葉を伝えることができるだろうか。

 自分の考え、自分の思い。彼女のそれに答えられるだけの何か。

 何もない在奈でも、いつかは。

 

「…………ん~~、えい!」

 

 このままふさぎ込んでいるといつまでも起き上がれない。気合を入れて体を起こす。と同時に階下から母親の催促の声が飛んできた。時計を見れば既に三十分近くもベッドに顔を押し付けていたらしい。

 

「考え事するにしてもお風呂で!うん、そうしよう!」

『おふろすきー』

「わたしも好き」

 

 いえーとしょうもない事でシロと声を合わせる。シロとトーチがやっているのを見かけて少し羨ましかったのだ。

 簡易変身。その手首には白いカフスが巻かれていた。

 畳んであるパジャマを手に取り部屋を後にする。最後まで暗いままだった部屋は、ぱたんと扉を閉められてまた静けさを取り戻した。

 

 

###

 

 

「…………」

 

 朝、ベッドに横たわったままザイルチェリー───今は外町小夜(そとまちさよ)───はひどく複雑そうな表情を浮かべていた。意識を取り戻してすぐ、礼を言ったシーエクレアから自分の命を救った人物の名前を聞いたからだ。

 

「さーちゃんさぁ、流石にお礼くらいはいいなよ?」

「……無理」

「無理って」

「…………無理なものは無理なの」

 

 シーエクレアの言葉に唇を引き結んで膝を抱える。様々な感情が自分の中で渦巻いているのがわかる。顔をしかめたまま、どうしようと小夜はこれからの事に途方に暮れた。

 あの一撃を受けたのは明らかに自分の油断だった。もっと初めからきちんと警戒していれば、あの場面でジャックタルトと共に自分を下げることだってできたはずなのだ。あるいは、相手の動きを先に拘束する選択肢だってあったはずだ。

 相手が魔法少女だったから油断した。言い訳にもならない。

 そして、その油断から死にかけたのをふたりの魔法少女に救われた。

 

「……」

 

 情けない。

 

「そんな泣きそうな顔されるとエクちゃん困っちゃーう」

「泣いてない」

「はい」

 

 ふざけたことを言ってきたシーエクレアを渾身の殺気を込めて睨みつける。とはいえ彼女も命の恩人だ。本当はあまり失礼な態度はとりたくないのだけれど。

 

「……はぁ」

「あれじゃん。困ってるならとりあえず星屑文庫でやっちゃん捕まえて話を聞いてもらえば?多分向こうもさーちゃんとは話をしたいだろうし」

「…………そうね。そうするわ」

 

 頼りにもなる。同年代とは思えないくらいに尊敬できる魔法少女なのだけれど。

 

「きゃー素直なさーちゃんかわいいー!」

「天井から吊るしてやろうかしら?」

「吊るしてから言うのやめて……」

 

 本当に、尊敬できる魔法少女なのだけれど。

 

「はぁ」

 

 さわやかな朝日の差し込む病室に、怪我人の魔法少女の気だるげな溜息が響く。

 

 

###

 

 

 仁科蓮朗(にしなはすろう)は毎朝五キロのランニングを日課としていた。フリーランスのエンジニアである彼は自分の身体こそが最大の資本であると考えている。故に健康と体力を維持するこの毎朝のルーティンは社会人になってから一度も欠かしたことはなかった。同じ時間、同じ場所を走っていればその中で人間関係も生まれる。犬の散歩をしている少年や毎朝川で釣竿を垂らしている老人、開店準備に勤しむ花屋の女性や交番で仕事をしている巡査。通りがかりに挨拶をする程度だがそれも人間関係だ。

 その日も蓮朗はいつものペースで商店街から河原を遡り、橋を渡るルートを走っていた。

 すぐ隣に新しい橋が作られたからか、ランニングのルートに使っている橋は最近人通りが少ない。橋の上をひとり駆け抜けるのも気持ちいいものだった。

 

『おじさん、こっちにおいで』

 

 そんな蓮朗に声がかかる。挨拶をされることはあれど呼び止められることはめったにない。とはいえ、道を聞かれるようなことも時折ある。そういう話だろうかと足を止めて声の方を確認する。それは車道を挟んで反対側の歩道からだった。その時点でも異様だったが、その反対側の歩道に立っている声の主はことさらに奇妙であった。

 

『おじさん、こっちにおいで』

 

 黒い人型のシルエットに安っぽいお面。

 明らかに尋常なものではない。不気味な存在。だが、蓮朗は怯えを感じてもその場から逃げ出すのは気がとがめた。声をかけられたという事は何か用事があるはずなのだから。

 

「何か用ですか?」

 

 だから、向こうに聞こえるように声を張り尋ねる。

 だが、黒い人影はそれに答えることなく同じ言葉を繰り返した。

 

『おじさん、こっちにおいで。楽しいよ』

「何を───」

 

 

 私生活での人間関係が希薄な仁科蓮朗の行方不明が明らかになったのはそれから三日が経った後のことだった。毎朝見かけていた彼の姿が見られなくなった近隣の住民たちの話を聞いた交番の巡査が彼の行方を調べて発覚した。

 三日前、彼が河原をランニングしていた姿が目撃されたのを最後に彼の姿を見た者は誰もいなかった。

 




思ったより長くなってきたのでこの辺りで「時計の針は重ならない 上」として章で区切ろうかと思います。書いてる人間もどの話がどの話かこんがらがってきたのもあり。

この後、登場人物紹介と数話閑話を挟んで「時計の針は重ならない 下」として続けていければなと。ひとまず登場人物紹介は早めて出したいと思います。
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