氏名、
初めて見る書類に自分の名前が書かれている。不思議な気分、という程のものでもなくて。こういうものなのかと多少の物珍しさを感じるくらい。
実感というのなら自分はもうとっくに済ませていたのだと、八鍔は今になって悟った。
一応取り寄せたと
「気分のいいものではないかと思いますが……」
「見たいと言ったのは俺です。あまり気にしないで欲しい……というと変かもしれないけれど、元々あの時に死んだようなつもりだったので。気にしないでください」
こういう風に話すのも既に何度目かの気がする。
あの地獄、あの炎の中で八鍔は一度死んでいるのだ。今の身体はどちらかといえば生まれ変わりに近い体感だ。あくまで心情的な話ではあるけれど。
八鍔は自分を見つめる二人、チャコールフォンデュと永久春にそう言って笑い返した。
状況的にもどうしようもなかったのではなかろうか。後一日か二日早く目覚めていればあるいは、という事かもしれないが。それはそれで面倒な事になったのではないかと八鍔は思う。
「ああ……ただ、戸籍がなくなったのか」
それもまた面倒そうだ。
思ったことがそのまま口を突く。なんとなく二人を責めるような口ぶりになってしまった気がして八鍔は自分の言葉に後悔する。こんな事を言ってしまう程度には、それでも動揺していたのかもしれない。
「それについては、こちらで用意します」
「新しい戸籍を、という事ですか?」
「はい。少なくとも日常生活で困らない様には」
相変わらず大きな体を屈めながら、真剣な表情を向ける永久春の言葉に八鍔は目を丸くする。
確かに魔法少女は特別だ。現代で黒兎に唯一対抗できる存在。人類の希望。だからそう、戸籍の融通くらいきいてもおかしくはない。とはいえ、いちNPO団体がそんなことを当たり前に口にするのは。そもそも、戸籍にしろ現代の侵略者に唯一対抗できる魔法少女にしろ本来管理すべきは───
そこまで考えたところで、眼前の永遠春は苦笑しながら八鍔の思考を先回りした。
「お察しの通りです。我々の団体には政府から出向してきている人間もいます。政府機関との付き合いもそれなりにあります。戸籍の用意などもその伝手です。あまり魔法少女に対して言う言葉ではないですが、ことは国防に関わることですしね。ただ、我々は───
「永遠春さんたちが間に入ってくれるから、魔法少女自身が政府と直接に関わる機会はほとんどないの。困った時には兎に角綴人の会に相談!で間違いないくらいよ。もちろん、"図書館"を頼ってもらうのが一番だけれど。私たちは魔法少女互助組織。魔法少女が互いに助け合って目的を遂げるために存在してるのだから」
永遠春、チャコールフォンデュ。双方の言葉に八鍔は頭を下げる。
「ありがとう、ございます。心強い……です」
信頼というよりは彼らのスタンスを理解した、くらいの認識ではあるけれど。全てが言葉の通りかはわからない。それでも二人が真摯な言葉を掛けてくれていることは感じ取れた。
「……戸籍の話が出たから先に話を聞いておこうかしら。八鍔、あなたがこれからどうしたいのか」
「どうしたい……?」
「ええ、私たちが魔法少女である事は変えようのない事実。けれど、だからといって戦う義務があるわけじゃない。これからのあなたの選択によって、新しい身分や住居、どういう立ち位置にするかも変わることになるわ」
それは思ってもみない言葉だった。何故なら黒兎に唯一対抗できるのが魔法少女なのだ。彼女たちが、自分が戦わねば人は黒兎に喰われるばかりだ。
「あなたが望むのならば、それこそ十歳の子供としてもう一度人生をやり直す事も視野に入るわ」
「……そんな事が許されるのか?」
「確かに、私たちが戦わなければ人は死ぬ。戦うことで救える命もある。それでもね、戦うということは命懸けで、命を賭けるならそれに足る動機が必要なの。特に私たち魔法少女には絶対に必要。それは誰かに強制されるものではないし───誰にも、誰ひとりにも強制できはしない」
とても、とても強い眼差しだった。蜂蜜色の瞳が見返すのを躊躇いそうになる程の熱く鋭い光を湛えていた。決意があり、怒りがあり、誇りがあり、悲しみがあり、苦しみがあり、勇気があり、恐怖があり、意地があった。様々な感情が入り混じり、ともすれば飲み込まれてしまいそうな渦を巻く。
きっとそれが命を賭けて戦う者の眼なのだろう。
「……」
言葉に迷う。答えではない。それは、多分とっくに出ていて。それでも目の前のとても強い眼をした人へどう言うのが相応しいのか八鍔は迷った。
きっと、八鍔には自信がないのだ。今この時彼女の言葉に向き合って話す己に。だって決意などなかった。勇気を振り絞ったわけではなくて、生にしがみつこうとしたわけですらなかった。八鍔の始まりはありきたりでつまらない衝動がきっかけで。後は流されるばかりだ。勝手に力を押し付けられて、力を押し付けられたから戦った。今となっては激しく燃えた激情も冷めている。
───本当に?
「……」
問いは誰のものだったのだろうか。
わからない。それでも確かに八鍔はそれを聞いた。聞いて、思い出す。己の深いところにある熱を。未だ冷めることなく渦巻く炎を。確かにまだあるものを。
これは、なんなのだろうか。
多分、理由はこれなのだ。
八鍔自身理解し切れず、けれど目の前の魔法少女の瞳に宿る光にだって負けないもの。
これがわかれば───
「ごめんなさい……。少し急かす様な事を言ってしまったわ。今すぐに答えを出す必要はないの」
チャコールフォンデュが瞼を閉じる。八鍔を気圧していた蜂蜜色の光が遮られる。
その事にホッと安堵する己がいて。けれど、そこで立ち止まりたくないと急かす衝動があった。今すぐに答えを出せるだろうと訴える感情があった。
「会えますか?」
「え?」
だから、そのために必要な事を。
「俺と一緒にいた少女に……あの子に会うことはできますか?」
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ベッドに横たわり、目を閉じ眠る幼い少女の姿があった。
黒い髪はおろされ、顔半分には白いガーゼが当てられている。いくつか細い管が体から伸び周囲の機器に繋がれていた。少女から音はほとんど聞こえない。まるで時が止まった様な、静かな顔だった。
ふと、こんな顔をした少女だっただろうかと疑問に思う。八鍔の記憶の中の少女はずっと顔半分を炎に焼かれ、周囲の炎で赤く染まる虚ろな目であの地獄を映していたから。
それくらいの印象しかないのだ。
それでも、今の八鍔にとっては多分魔法少女になる前の最後の繋がりだった。
今も彼女がこうして息をして命を繋いでいることに嬉しく思う自分がいた。
「……」
手を伸ばしかけて、触れる前に拳を握り手を引く。
無茶を言ったつもりだったのだけれど、八鍔の希望はあっさりと通りこうして少女───
外はとっくに真っ暗で、部屋の中も暗い。引かれたカーテンの向こうがどんな風景か八鍔は知らない。
永久春は部屋の外で。チャコールフォンデュは部屋の中、扉の前で。八鍔が答えを出すのを待ってくれていた。
「俺は君の名前も知らなくて、声を聞いたこともなくて……あぁ、なんだろうな。どんな人間かも知らないんだ。それで、君は俺の事なんて存在することすら知らないだろうに。本当、こんな風に声をかけて……はは、事案だよな……あぁ、そうじゃなくて。なんだろう……はは、ははは…………何を言ってるんだろう」
自分は一体何を口走っているのだろうか。
少し前、
猛る炎の答えを出すのだと思った。自身の原点。原風景。その為に、彼女に会うべきだと。多分それは間違っていない。
ただ。
「違うんだ、俺がさ、俺が言いたかったのは……ただ、会って……言いたくて」
それよりも。優先されるべきものがあった。
先に胸を突くものがあった。
伝えたいことがあったのだと、その姿を見て気づいた。あの戦いの最期。腕に感じた耐えきれないほどの重みを思い出した。意識が果てる間際の感情を呼び覚ました。自己満足だと知っている。それでも、言わずにはいられなかった。
小さな体が恨めしい。震えが少しも隠せない。
彼女の生存を告げられた時も、今も。本当に子供に戻ってしまったようだ。
自分はいつからこんなにも情けない男になっていたのだろうか。後ろではチャコールフォンンデュも見ているというのに。本当に。
本当に。
「……生きててくれて、ありがとう」
救われた。
何度も。何度でも。八鍔は声も知らない少女に救われた。
今もこうして顔を見るだけで。
きっとずっと。彼女は八鍔の恩人なのだ。
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君は知らないだろう。
あの叫びを口にできた事がどれだけ救いだったか。
そんなものはきっと持ち合わせていないのだと、いい大人になっても拗ねていた男の全てがひっくり返された瞬間を。
誰も知らないだろう。
馬鹿な男が死に際に喚いた癇癪を。
魔法少女のみっともない癇癪を。
自分にそんなことできるだなんて、知らなかった人間の激情を。
感謝を。
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「……彼女はどうなりますか?」
愛維の眠る部屋を出て廊下で。
チャコールフォンデュと永久春に挟まれる形で、八鍔はどちらにともなく問いを投げた。
「彼女の保護者を探しているところです。両親は……あの場にいた様なので。他に親族を当たっているところです」
「しばらくはこちらで経過を見ることになるわ。ただ、ここはどちらかというと魔法少女の専門施設だから。経過が安定することになれば、別の医療施設に移されることになる可能性が高いわね」
永久春が愛維の社会的な状態を、チャコールフォンデュがこれからの施設での扱いをそれぞれ説明してくれる。
「もし、彼女の親族が見つからなければ俺が後見人になることはできますか?」
「……それは、即答はできないですね」
「あぁ、いえ。他にふさわしい人がいるのであれば、そちらであるべきだとは思うのだけれど……入院費を……いや、そういう話でもないのか」
「……思うに、あなたは彼女に対してとにかく何かをしたいと?」
「そう、ですね……そうなんだと思います」
結局、それが何かを定めることもしなくて。
それでも必要な言葉は決まっていた。
「八鍔にあの子に対してそこまでする理由があるのかしら?」
チャコールフォンデュの言葉はどこか慎重だった。あるいは彼女は八鍔の抱く感情をよく知っているのかもしれない。魔法少女をやってきた彼女であれば。それこそ何度も何度も経験したことがあるのかもしれない。
「彼女は恩人だから」
「それが理由になる?」
「あぁ、魔法少女を続けるのに十分なくらいには」
それでもきっと、今八鍔が抱くこの感覚は八鍔にしか理解できないのだ。
廊下に並ぶ窓の外を見る。愛維の眠る病室からは見えなかった夜の町並みが広がっていた。
幾つも連なり輝く町の光。それが人々の営みだとして。それを守る為に戦おうなんて、そんなに高潔な思いを八鍔は抱けなかった。理屈はわかるし共感もできる。けれど、それをあの蜂蜜色の輝きの問いの答えにできる気はしなかった。
けれど───
「あの子が当たり前に生きる場所を守る為なら、魔法少女として戦える」
これもあの問い掛けの前では欺瞞になるのだろうか。そうかもしれない。そもそもが、どうあれ答え自体は決まっていたのだから。ならば、どんな理由も後付になってしまうだろう。二十九年生きた程度で八鍔が口にできる言葉など薄っぺらなのだ。
チャコールフォンデュは目を細める。それは決して温かなものでは無かった。肯定的な感情ではないだろう。あるいは、どんな答えでも彼女はそういう目をしたのかもしれない。
それでも、彼女の目を見て真っ直ぐと答えることができる。
「俺は魔法少女である。魔法少女を続けて、黒兎と戦う」
「そう……。わかりました」
銀髪の少女はゆっくりと目をつぶる。重い物を呑み込むように息を吸う。
「先に話しておかなければいけなかったことがまだまだあるのだけれど───まずは歓迎しましょう。私たちの同胞。新しい魔法少女。……そちらの名前をまだ聞いていなかったわね」
「ああ───」
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どうしてこんなことになってしまったのだろう。
どれだけ理由を探しても、
朝起きて、髪をとかして朝食を手早く済ませて家を飛び出して。遅刻寸前の電車に飛び乗って。いつも通りの毎日だった。何も代わり映えなどしなかった。それなのに。
今、目の前には血に塗れた地獄が広がっていた。
横転した電車の、割れた窓ガラスの上。
体の至る所を切ってしまったのかズキズキと数もわからない痛みに苛まれる。目にも血が入って視界の半分が赤い。そんな世界の中心に黒くて大きく細長い何かが居座っていた。
人の身の丈ほどもある細長い指先で、由起の様に倒れた人を突き刺し持ち上げる。その様子が数日前教科書で見た百舌の早贄にそっくりで心がすくみ上がる。
黒い怪物が黒い舌を伸ばして獲物を嬲る
知っている。あれは。出会ってはいけないものだ。
人喰いの怪物。
平和を得た世界の侵略者。
人類の天敵。
戦うべき災厄。
自分もやがてああなるのだろうか。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。こんなこと、少しも想像なんてできなかった。もう逃げることもできないのだろうか。
絶望が由起の全てを塗り潰そうとした。
その時。
「───
ひどく場違いなものが視界を横切った。フワフワとした白いエプロン。
まだあどけなさの残る少女のメイド服。
『…………!?』
彼女の腕の中には先程まで黒兎の指先にあったはずの人の姿が。
「タルトちゃん!」
人ひとり抱えた着地と同時にメイド服の少女が声を上げる。
その時には既に彼女は
黒く細長い怪物の至近。炎がたなびいたと錯覚する。
ウェディングの様な白いドレスを纏った赤い髪の少女。現実離れした幻想の生き物の様な少女が白いステッキを黒兎に突きつけていた。
「
力ある言葉と共に一瞬、突きつけたステッキから炎の刃が吹き狂う。
それは瞬きの前に掻き消えたが、黒い怪物を両断するには十分だった。
抗いようのない絶望が目の前で千切れ倒れた。その光景を由起はただ呆然と見つめていた。今もどうしてこんなことになってしまったのか全くわからない。それでも、自分が助かったのだということをゆっくりと理解する。
黒兎を両断した赤髪の少女はしばらくその骸を見つめた後、由起の方へと歩いてきた。
近くで見るとその小ささが際立つように感じる。纏う衣装は歳に対してあまりに艶やかで、けれど彼女が着ていることがとても自然に感じられた。年の頃は小学生。三、四年生くらいだろうか。
自分よりも幾つも幼い少女が白い手袋に覆われた手を差し出した。
「生きてるな。……立てるか?」
「…………」
上手く声が出なくて、無言でその手を取った。
小さな体からは信じられない程の力で、グッと腕が引かれる。体は持ち上げられたけれど、脚が上手く動かなくて彼女の方へ倒れ込んでしまう。押しつぶすのではと慌てるが、少女は事も無げに由起の体を支え、両腕で抱き上げた。
「立てないならそう言え」
可憐な見た目に反してその口調はひどくぶっきらぼうで、男のようだった。
「……私、助かった……の」
少女の腕の中で、やっと由起は言葉を発することができた。
「ああ」
「あなたは……」
黒兎と同じ様に由起は彼女が何かを知っている。
魔法の力を持ち黒兎を単独で撃退しうる人類の希望。人々を守る可憐な少女たち。
「魔法、少女……?」
今朝父親が家を出る前に見ていたニュースでも彼女達の活躍が報じられていた───ような気がする。
由起のぼんやりとした問いに赤い少女は事も無げに答えた。
お姫様の様な見た目で由起をお姫様だっこする、どこまでもあべこべでなのに目が離せない程美しい少女。超然とした感情の浮かばぬ表情が僅かに笑みの形をとったきがした。
その姿を、その顔を、きっと由起は一生忘れない。
「あぁ、魔法少女ジャックタルトだ」
俺たちの戦いはこれからだ───!
というわけではないですが次回から新章予定です。
書き終わる直前くらいにここまでがプロローグだったなと。
次話登場人物紹介をやると思います。