帝都東京の霞が関には赤煉瓦で出来た威厳のある建物がそびえている。といっても、コンクリートの100尺の建物が群雄割拠するようになったこの時代ではやや小ぶりに見えるかもしれないが、明治期の輝きというのは半世紀たったこの時代でも消えないものだ。だが、その美しい文明美とは対照的に、その地下にはじめじめとした薄暗い地下会議室があった。そして、そこでは夏特有の嫌な湿度を更に増さんとばかりに緊張した空気が張りつめていた。壁には大型の作戦図が何枚も貼られ、南西太平洋からインド洋にかけての海域が赤い矢印と青い破線で埋め尽くされている。
ソロモン諸島を巡る激闘は、九月下旬に日本軍の戦略的優位で決着を見た。ガダルカナル島とその周辺を完全に確保したことで、連合軍の反攻は一時的に頓挫した。この勝利を如何に活かすか、それがこの会議の議題であった。会議の主宰は、参謀総長である杉山元帥と軍令部総長 永野修身大将の連名で行われた。陸軍側からは東条英機首相兼陸軍大臣、畑俊六大将(中国派遣軍総司令官代理出席)、および作戦課長の真田穣一郎大佐。左川に座る海軍側からは永野修身海軍軍令部総長、嶋田繁太郎海軍大臣、そして連合艦隊司令長官・山本五十六大将の代理として宇垣纏参謀長が出席していた。海軍の航空戦力再建を急ぐ源田実中佐も補佐役として末席に控えていた。
東條が重い口を開いた。
「諸君、ソロモン堅持の成果は大きい。しかし我が帝国の国力は有限である。次の一手は慎重に選ばねばならん。選択肢は二つに絞られた。オーストラリアへの積極攻撃による米豪分断か、あるいはインド洋への本格的攻勢か。まず各自の所見を述べよ」
最初に発言したのは杉山参謀総長であった。
「陸軍としては、インド方面を主眼とすべきと考えます。オーストラリア攻撃は確かに魅力的ですが、補給線が長大に過ぎる点、豪大陸東海岸を完全封鎖するのは極めて困難であるという点から反対であります。それよりは支那事変を目下の課題として、国民党への支援の拠点となっているビルマ方面、さらにそこからもう一足ばかり足を延ばしてインドを攻略したほうが良いでしょう。何も、我々が全面制圧せずともチャンドラ・ボースらの独立運動を利用すれば英印軍の崩壊を誘発できる可能性が高い」
これに対して永野が即座に反論した。
「そうは言っても、オーストラリアを叩くべきだろう。ポート=モレスビーさえ完全に抑えればそこから発進する攻撃隊は豪本土への直接脅威となり、降伏することは間違いない。また、これは従来のFS作戦を流用できるので細かい変更を行い次第直ちに実行に移せるだろう。第一、インド洋は遠すぎる。杉山参謀総長、あなたはさっき『補給船が長い』といったがそれはお宅の事情しか考えていないのではないかな?」
杉山が眉をひそめる。そんなことに構わず永野は主張を続ける。
「確かにあなた方にとって豪州方面というのは支那とは別方面、全く縁のない土地といっても間違いではないだろう。だが、我々にとってはむしろそっち方面の方が島伝いで輸送網を確保できる南洋方面の作戦の方が極めてやりやすいのだよ。それこそインド洋方面の方が飛び地で極めてやりにくい。既に第六艦隊で潜水艦を展開しているのだからそれでご満足いただけないものかな?」
会議は一時間近く膠着した。地図を前に、双方が補給計算と予想損耗率を突きつけ合う。午後九時半、宇垣が静かに手を挙げた。
「ここで決着をつけましょう。山本長官からも極秘の意見具申が来ております」
一同の視線が集中した。
「なぜ早く言わん」
「すみません。如何せんおニ方がずいぶんと熱が入られていた様子だったもので、どこで発言しようか迷ってしまい、、、」
彼の不愉快な冗談を快く思わない二人の視線を尻目に、宇垣は一通の書簡を読み上げた。
「『ソロモンを死守し得た今こそ、ドイツとの連携を最大化せよ。インド洋を制圧し、セイロン島を奪取すれば、ペルシア湾経由の対ソ連レンドリースを断ち切ることができる。英国の背骨を折る最短ルートである』……以上だ」
この山本の言葉が決め手となった。
「陸海軍一致して、インド洋方面を主作戦とする。オーストラリアへの圧力は副次的としつつも可能な範囲で妨害を継続する。作戦名は『い号作戦』、大東亜共栄圏の理想を体現し英国の植民地支配を終わらせる聖戦とする。異論はないか?」
「異論なし」
杉山元帥がこれを追認、会議はここに決定を見た。陸海軍連絡会議が終了したわずか四時間後、海軍軍令部作戦課の灯りは依然として消えていなかった。永野修身軍令部総長の直裁によって作戦命令「大本営海軍部指示二八〇号」が発令された。
一、帝国海軍ハ当分ノ間、インド洋方面ヲ主作戦方向トス
二、連合艦隊ハ印度洋ニ於ケル英国海上交通破壊ヲ主眼トシ、セイロン島攻略準備ニ着手スベシ
三、オーストラリア方面ハ之ヲ補助的ニ圧迫スルモノトス
四、詳細ハ別途指示ス
〈大和〉の長官公室で、山本五十六長官は宇垣から届けられた暗号電文の解読文を受け取っていた。
「私の要望が通ったか。ありがとう」
山本はそう言うと、一式陸攻で急いでトラックまで帰還した宇垣が内地からわざわざ持ってきたキャラメルを一粒口に放り込む。君もどうかね、と差し出す山本に対し宇垣は丁重に断りを入れた。こんなにもおいしいのにもったいない、と二粒目を手に取ろうとしたところで、しばらくは手に入らないかもしれないと思ったのかその手を下した。
「セイロン島攻略には向こう方面での戦闘経験がある南雲長官の第三艦隊を中心とした艦隊を編成、派遣する予定ということであります」
午後三時、連合艦隊司令部は直ちに「連合艦隊命令作第一号」を発令。各艦隊司令官に対して作戦の概要を通達するとともに、十月上旬までにトラックで実施予定の「印度洋方面作戦研究会議」への出席を命じた。無線室では、暗号電文が次々と打電され続けていた。雨の上がったトラック環礁の空に、艦隊の信号旗が次々と翻った。帝国海軍は紅茶でお高く留まっている大英帝国に再び土をつけるべく、その艦隊を半年ぶりにインド洋へ向けつつあったのだ。
後日、作戦研究会議が予定通りトラックで開かれた。既に概要は耳にしていたこともあり、山本から改めて聞かされても驚く様子ではなかった。
「インド洋、、、」
南雲中将が英海軍相手に大勝利を収めたあの海戦も思えば半年も前のことになっていた。だが、それ以上のことは聞かされていない。
「本作戦の最終目標はここだ」
山本が地図で指をさした場所を見て多くの艦隊司令官が目を細める。
「セイロン島、ですか?」
「左様」
出席している将校は次々と周りを見渡す。
「すでに第六艦隊の潜水艦が展開していることは諸君らも知っていよう。現に、連合国の輸送船に対してそれなりの戦果は出しているが、せいぜい『それなり』だ。そこで、我々は決定打を打つ必要がある」
半分以上の艦隊司令官は明らかに納得していない顔であったが、それを承知か否か、山本は説明を続ける。
「インド洋平定には大きな意味がある。一つは陸軍だ。彼らが戦っている国民党はインド洋を経由したビルマからの陸路で連合国から支援を受けている。ここの制海権を奪取することによって国民党軍の弱体化が可能になり、重慶に日の丸がはためくことだろう」
そう言っても彼らは喜ぶ顔をしない。正直な話、山本にとってもこれは想定内の反応である。海軍の者にとって支那方面は大きな作戦を行なっていない地域であり、最新の記憶を地獄が凝縮されたこの対米戦で塗り重ねているうちにすっかり他人事になってしまっていたのである。
「もう一つは我々の同盟国、ドイツの支援だ。彼らはソ連と戦っているわけだが、そのソ連へのレンドリースもこのインド洋を経由して行われているという噂だ」
事実、アメリカはインド洋からペルシャ方面を経由してソ連へのレンドリースを行っていた。これはアリューシャンを経由したものの半分の輸送量にすぎなかったが、ソ連の旗を堂々と掲げている彼らに比べれば、こちらの撃沈の方が国際法的には極めてやりやすかった。尤も、いずれは中立条約を破棄して本格的な挟撃を行うことも必要だろうが今は対米対中で精いっぱいであり、どうにもなりそうにはなかった。
「しかし、それではガ島を防衛しきった意味がないではないですか!」
「そうです!陸軍の尻を拭くために我々の努力を無駄にしろと仰るのですか!」
それに反論したのは三川であった。彼こそ第一次ソロモン海戦をはじめとして最前線で数々の戦いを経験してきたものだ。それに続くのは近藤、彼もまた同じソロモンでの死闘に参加した男である。ここで進撃する方面を変更するということはすなわち、彼らにとって部下を徒に死なせたも同然ということになる。それを受け入れるというのは晒し首を都の真ん中に飾られるに等しい気分であった。
「あくまで我々はインド洋に主力を寄せるだけだ」
山本の濁した言い方に対して、ほとんどの艦隊司令が頭に疑問符を浮かべていた。
「ん、、、?話の真意が見えませんが」
「我々の主力は空母だ。無論、ポートモレスビーやオーストラリア方面の作戦も行う」
二方面での作戦展開を行おうというのである。当然ながら
「二正面作戦!?」「そんな無茶な」
と次々に声が上がった。ざわついた部屋を宇垣が静かにせんか、とまるで教師のように注意して回る。
「インド方面には南雲中将の第三艦隊を中心とした艦隊を向かわせる。そして、ポートモレスビー方面は、戦艦を中心とした水上打撃部隊が制圧する」
その瞬間に先ほどまでと打って変わって、明らかに多くの将校の顔色が輝いていた。彼らは戦艦不要論さえも唱えられてしまう現代を生きるとはいえ、若き日は戦艦を海の男の憧れとして生きてきた者たちだ。戦艦が多数展開するということにどれほど頼もしさを感じたことだろうか。
作戦の要旨は決まった。第三艦隊を中核とした機動部隊はセイロン占領後にインド洋での輸送船の撃滅を徹底的に行い、然るべき時期になれば陸軍の別動隊の上陸を支援する。一方、戦艦を中心とした打撃部隊はガ島を拠点にポートモレスビーへの最後の一押しを行い占領。その後、オーストラリア侵攻の拠点とするというものであった。無茶な二正面作戦、しかしアメリカがある程度怯んでいる今しかこれをやれるタイミングはないのだ。
「しかして、山本長官はどうされるおつもりで?」
「私はここに残るよ。豪州方面の作戦に〈大和〉も従事するつもりだが、サブの作戦に連合艦隊司令長官がついていっては取り回しが悪いというものだろう。それともなんだ、何なら〈翔鶴〉に司令部施設を移設するのも悪くはないかな?」
そう山本がにやりと南雲の方に視線をやると、南雲は明らかに目をそらしてかすかに低い唸り声をあげていた。その様子を見て山本の目はさらに細まる。
「はは、そんな露骨に嫌そうな顔をするものじゃないな。私でも少し傷ついてしまうな」
「い、いえ、、、そんなつもりは」
必死に否定する南雲を見て山本はいよいよ吹き出してしまった。
「ふっ、冗談だ。万一にも戦死させるようなことがあっては見せる顔がないから不安だ、というのが本音だろう?」
「申し訳ありません」
「いやいや、気にするな。私も君の立場だったら躊躇すると思うよ。ともかく、ここで吉報を待っている」
それから間もなくMO作戦の再開が命ぜられた。無論、以前のものとは作戦の細かい変更はなされている。まず、オーストラリア北東部に駐留する連合国の中大型機の破壊。これは元々のMO作戦においては機動部隊によって行われる予定であったが、先の米軍によるルンガ飛行場砲撃を鑑みてここに戦艦部隊の投入を試みることにした。また、サマライ島やナウルに向けられる予定の上陸部隊の輸送方法についても議論がなされた。
「しかし、輸送船の消耗は抑えたいものだな」
メインはあくまでもセイロン島方面、それまでに作戦に投入する戦力をわずかにでも消費するのは惜しいというのが上の意向ならしい。そこで、日本側は先のソロモン諸島の戦い末期において米具が採用していた駆逐艦による逐次輸送、通称「鼠輸送」を実施することにした。尤も、最新鋭の夕雲型駆逐艦はその鼠輸送に抜擢されたのは田中頼三少将率いる第三十一駆逐隊である。
「物資はドラム缶換算およそ1980個分。これを〈涼風〉〈江風〉を除いた全甲型駆逐艦に搭載、発動艇を用いたピストン輸送での兵力動員を図る」
田中少将はその役を快く受け入れたがどうも彼のタイの駆逐艦長からはお気に召さないかのような批評が零れ出た。
「それはいいが、、、それだけ物資を輸送していては魚雷を撃てないと思うのだが、どうするおつもりか」
「戦闘は警戒用の戦艦がやってくれる。荷物を下ろし終わったら諸君らは存分に戦ってくれればよい」
「まるで運送屋ですな。これじゃ、将兵からも不満が出ると思いますよ」
「不満を出すのは、君じゃあないのかね?」
田中少将の的確な指摘に艦長は苦笑いをしながら口を噤む。
「といっても、どの戦艦です?高速化されたあの扶桑ですか、それとも長門です?」
「ああ、それなんだが」
田中少将が周囲の目を軽く憚ったあと、いつもより声を抑えてその艦の名を告げる。それは、艦名すらも機密として扱われているあの新造戦艦であった。
「なんと!?」
巨艦が、目を覚ます。