「うーん、、、」
内地から取り寄せた新聞と睨めっこしていた田中頼三は、艦橋の椅子に深く腰を沈めたまま、新聞の紙面を指でなぞるようにして読んだ。ポートモレスビー沖での勝利は、半年前のMO作戦失敗の未練を晴らしたはずだ。大本営発表は「空母〈祥鳳〉の仇ここに討たれたり」とドラマ性を持たせて大々的に報道するつもりだったろう。だが、どの紙面も歯切れが悪い。見出しは小さく、本文も事実を淡々と並べるばかりで、祝杯を挙げるような熱狂がない。
それもそのはずだった。五月の珊瑚海海戦で行われた大本営発表が、誇張した虚偽のものであったために、今更プロパガンダを行うための前提が崩れてしまっていたのだ。当時は「敵空母二隻撃沈、我方損害軽微」と喧伝されたが、実際には〈祥鳳〉を失い、ポートモレスビー攻略は頓挫した。米側はこれを「大勝利」として喧伝し、日本国内でも「勝った」という認識が曖昧になっていた。今更「仇討ち」を強調すれば、過去の発表の嘘が浮き彫りになる。軍報道部も、その点を危惧して筆を鈍らせているのだろう。
先の海戦後、功績をたたえられた第二水雷戦隊は、残存艦に加えて第四駆逐隊の〈嵐〉及び〈夕暮〉を追加した艦隊で再度の輸送作戦を実施した。揚陸作業に時間がかかったものの、もはや日本の制空権下となったポートモレスビーで恐れることは何一つなかった。敵航空基地は、先に行われた第一次輸送作戦準備として行われた航空攻撃によって壊滅済みだ。ラバウル及びブナから発進した爆撃隊は、ポートモレスビーからほぼ真東に移動したところに位置するミルン湾沿岸の航空基地を数度にわたって攻撃した。この攻撃は単なる連合国航空兵力の削減だけでなく、日本軍の上陸がニューギニア南岸方面のどこから行われてもおかしくないという過剰な危機感を持たせ、戦力を分散させる目的もあった。作戦開始の四日目には重巡〈鈴谷〉〈熊野〉などによる艦砲射撃でこれを支援し、基地機能の喪失に成功した。以後は小規模の航空隊で破壊状態の維持に努めていたのだ。
しかし、米軍というのは戦訓の反映が極めて早い組織である。狭い海峡に巡洋艦を投入することを危険視した彼らは、この次の第三次輸送のタイミングで魚雷艇を投入してきた。激しい妨害にあった艦隊は揚陸作業を断念。続く第四次輸送も同様の妨害を受けて、揚陸に失敗した。現地に上陸した兵士からは「補給物資が少ないので、どんな方法でもいいからもう少し物資が欲しい」とする不満も出つつある。
「ここまで米軍の対応が早いとは想定していなかったのでしょうね」
地上の司令部施設で彼の参謀は湯吞に茶を注ぐと田中の元へゆっくりと運んだ。田中はおや、ありがとうと礼を言うと新聞を畳んで口をつけた。その熱さに一瞬驚くが、どうやら慣れたらしくずずずと落ち着いた様子で啜った。
「奴さん、こちらより柔軟だからな。向こうも陸海が対立してくれていたのは不幸中の幸いだよ」
国家内の組織が対立しているというのは何も日本だけの特権ではない。同盟国のドイツでも空軍と海軍の対立は激しい。そして敵対しているアメリカでもこれは同様にあったのだ。
「そもそも、輸送の絶対数も足りないていないんだよ。空輸でもなんでもやればいいのに」
「甲型以後の駆逐艦を全て輸送作戦も可能な汎用型に設計したというのに、まだ足りないと司令官はお考えですか」
田中は欲張りかね、と笑いながら参謀に対して首をかしげて見せる。参謀は黙ってしまった。別に肯定したところで怒りも左遷もしはせんよと笑いながら彼に自分の意見を言うように促した。恐れ多いながら、出し惜しみをする今の群の方針ではとても非現実的だと彼は意見をはっきりとと述べた。
「出し惜しみか、、、君もそう考えていたか」
田中は残りのお茶を一気に飲み干す。残量が少なくなっていたこともあって、緑茶は冷めており比較的飲みやすくなっていた。
「多少の損耗はやむを得ないものとして輸送作戦は要綱背にゃならないものだ。沈められそうなら擱座させてでも島に届ける。人はご飯を食べなければ死んでしまうのだから、食糧は命がけで届けねばならないんだよ」
「現地調達に努めるよう耕作を進めているそうですが、なにも作物は飢えた瞬間に食べられる、といった促成技ではありませんからね。しかも完全な自給はそう簡単じゃありません」
参謀の言葉に田中は苦笑を浮かべた。どうやらラバウルに新しく着任した陸軍の新司令官の下で現地でも可能な自給の方法に関するマニュアルが出回っており、輸送網の枯渇に備えて各地で準備が次々と行なわれているらしい。それ自体はいいのだがもっと早くからやれなかったものかな、と田中はひげを弄りながらため息をつくのであった。
「やっぱり、無茶が祟ってきてるね」
「ええ、いくら米軍が弱まっているとはいえ欲張って二正面作戦をやるからこんなことに」
「大本営はインド洋方面に注力しています。陸上部隊も今後は当面そっちにまわすつもりだとか」
「こっちがいつまでも米軍の反撃を食らわない保証はないんだぞ。だいたい、大本営の予測は甘すぎる。ガダルカナルも元々は来年からの反撃だなんて甘ったれた予測だったそうじゃないか。松田君がたいそう不満な様子だったよ」
大本営の予測の甘さはポートモレスビー沖海戦を共にした〈大和〉艦長の松田が田中としばしば行った雑談で愚痴として漏らしていた。総力戦研究所、第二次近衛内閣における閣議決定で組織された研究機関だが松田はそこの所員でもあった。そこではあらゆる可能性を考慮しながら机上演習で戦争の行方を予測しとるべき戦略を助言する組織なのだが、複数回にわたる検証の結果は日本の敗戦であった。尤も、これは長期戦になった場合を想定したものであり、短期戦の場合はその限りではないと注釈されているが、既に日本は長期戦に陥っている。松田はそこの所員の一人であり、日米戦争に対してはかなりシビアな目を向けていた。アメリカの駐在武官の経験がある軍人にしては珍しい反米派の松田だが、アメリカの国力に関しては人一倍理解していたのだ。
「真珠湾で戦艦を、ソロモンで空母を壊滅させたからといっても彼らは今に修理と新造をあっという間に終わらせる。その時、日本は防戦一方になるが彼らの物量の前に勝てるとは思えない。いや、一度勝ったとしても彼らは一年ちょっとでまた同じ物量で攻めてくる。その時に一度目の勝利の代償に損傷を受けた日本海軍は敵を跳ね返すことができるのか?」
松田は特に米軍の新造艦を警戒していた。米軍で建造が進んでいる大型空母。排水量からして日本で言うところの〈翔鶴〉型に相当するそうだが、それを少なくとも十隻以上建造しているそうだ。更に、戦艦についても量産を進めているらしい。日本海軍とソロモン諸島で激闘を繰り広げた〈サウスダコタ〉級はもちろんのこと、それを上回る排水量と速力を持つ〈アイオワ〉級の量産を進めているということだ。更に、ここからは諜報員も詳しい話までは掴み切れてはいないが、それを上回る戦艦も起工したとの話もある。
尤も、新造艦については日本海軍もある程度は調査しており、この〈アイオワ〉級というのが特に厄介だと分析していた。資料から分析する当級は機動部隊の護衛を想定して建造された戦艦である。これは1936年に日本海軍が〈金剛〉型を機動部隊の護衛として使用するという構想を脅威と見做していたためだ。当時のアメリカ海軍は機動部隊の護衛として速力、火力、機動性が丁度いい重巡洋艦を当てていたのだが、幾ら旧式とはいえ相手が戦艦では一溜まりもない。そこで、艦隊決戦の前哨たる航空決戦での優位を確実なものにすべく護衛戦艦として〈アイオワ〉級を設計したという訳ならしい。
「砲火力でも装甲でもこれでは〈金剛〉型に勝ち目はない。基本的に我々の発想は対米七割、それを前提として兵器の質を上回らせることで本来不利な状況をひっくり返すというものなのに数も質も負けては漸減作戦もクソもない」
数の暴力の前では航空攻撃は通じない。当然ながら、相手の国力が上である以上航空機の数は相手の方が多いに決まっているからだ。潜水艦も駆逐艦による哨戒網で嬲り殺し似合うのは目に見えている。漸減作戦は守りに回っている不利な状態では通じない戦法なのだ。
「だいたい、ポートモレスビーを取れたくらいでぬか喜びだ。近くの支那も制圧できないというのに豪州丸ごと制圧なんてことができるのか?」
そもそもとして松田はオーストラリア攻略の方針に根本的な疑問を抱いていた。確かに米軍は豪州を拠点として反撃を企図している。だが、広大な大陸を完全に制圧するには、膨大な兵力と補給が必要だ。現在の日本の国力では、ソロモンやニューギニアの島嶼部を確保するだけで精一杯ではないか。更に、日本は豪州を占領したところでアメリカの反撃を防げるという消極的な利点しかなく、そこの為に20万の兵を将来的に用意するつもりというのは馬鹿らしい。これならまだ、全戦力をもってハワイに上陸を仕掛ける方がアメリカに対して勝利するという点においては現実的だとさえ思っていたのだ。
そんなことを一艦長が考えているなど思いもよらずに山本五十六は今日もトラックの司令部施設で業務をこなしていた。彼は連合艦隊の長官であるために海軍のトップと見られがちだが、このような遠方作戦となっては大本営と各艦隊の間を取り繕う中間管理職的な仕事でもあった。
「とりあえず、アメリカが一度怯んだおかげでインド洋方面をやる余裕が出てきたのは良かったよ」
「独伊からもB作戦の中断・延期で不満が溢れてましたからね」
彼の横に立つのは宇垣纒、連合艦隊参謀長である。太平洋戦争開戦時こそ山本とは冷ややかな対立をしていたが、単純接触のおかげか今では山本はすっかり彼を信頼していた。
「利己主義と言われてもね、、、アメリカと正面衝突したことがないからあんなこと言えたものだよ」
インド洋における作戦展開は元々8月に予定されていたが、米軍のガ島上陸で中止となった。そのことを独伊が連名シテ自国の都合しか考えていない利己主義的な行動として残念がっていたのだ。
「しかし、三川らの気持ちも理解できます。にもかかわらず、何故インド洋を主眼に?」
宇垣の疑問に山本は一瞬意図を理解しかねるとばかりの反応をしたあとああ、と声に漏らすと彼に向き直って説明を始めた。
「そもそも、私の意図を勘違いしている者が多いように感じるな」
「勘違い?」
「そうだ」
山本は静かに頷く。
「インドが連合国の一角であるイギリスの植民地であることは常識だと思うが、あそこは植民地支配によるイギリスの覇権を確立させている重要な土地だ。あそこを切り崩せばイギリスは今次大戦からの離脱を余儀なくされる」
既に多くの者が認識している通り、この作戦でドイツを間接的に援助するというのが目的の一つだ。この結末を用いれば、それこそアメリカがフランスに大規模な上陸作戦でも仕掛けない限りはドイツは二正面作戦の苦から解放されるだろう。
「それも以前から大本営内で飛び交っていましたな」
「そしてだが、この作戦には政治的な意味も大きい」
「政治?」
この戦いについて、日本は再三「大東亞戰爭」とアジア解放の為の聖戦だと内外へ必死に宣伝している。先ほども述べた通り、イギリスによる植民地支配の象徴的な場所でありそれを解放せしむるというのは大義名分の大きな裏付けとなることから、軍部に留まらず内閣や議会全体においてもインド方面の作戦を推す声が広まっているのだ。
「歪んだ民主主義、ここに極まれりですな」
そもそも満州事変の頃からこの傾向はみられた。財閥と癒着する政党、それに愛想を尽かした臣民。そこに石原莞爾の満州事変の報が入った。熱狂、支持、期待。軍は民主的な意見に答える。火種がくすぶった状態、そんな中で何者かが放った一発の弾は支那大陸全土へと燃え広がったのだ。
「そうは言ってもね、一般兵はみんな聖戦を信じているんだ」
「閣下は建前を本音にしてしまうおつもりだと?」
だが、冗談半分で言ったであろう宇垣の疑問に山本は真顔で頷いたのだ。
「そういう訳だ。皆が望んでいるのだろう?そして軍は臣民に答えてしまった。ならば、最後まで答えるというのが政治組織として誠実な在り方ではないかね?」
そう、そもそも軍というのは日本において最も民主的な組織である。志願兵で構成されるためにエリート意識のある海軍とは異なり、徴兵で成り立つ陸軍は幅広い階級で構成されており貧しい農村出身であろうと都市出身のそれなりの家生まれでも同じ一兵士として扱われる。その一般兵はほとんどがその建前を信じて今日も死地に臨んでいる。そして、銃後はそれを支持している。つまり、「政策」を実施するのに盤石な体制が整っているのだ。
「あなたという人は、、、」
「頃合いだな。南雲君にそろそろ命令を下すとしよう」
1942年10月26日、第三艦隊にアンダマン・ニコバル諸島への進出が命じられた。