第16話「幕開けの前夜」
大本営が次に楔を打ち込むのはインド方面だとする話は、うわさ程度に中国大陸で泥臭い地上戦を繰り広げる兵士の耳にも届いていた。薄暗いテントの中で、九七式中戦車の乗員たちが焚き火を囲んでいた。飯盒の芋汁をすすりながら、今日も補給の遅れをぼやく声が飛び交う。彼らは戦車第十二連隊所属である。
「おい、聞いたか? 本国で大将連中がまたでかい話決めたらしいぞ」
そう話題をふるのは曹長の石田。かれこれ満州事変前後から大陸で戦っているかなりの古株にして第一小隊の小隊長である。そろそろ内地の土を踏みたいとは言うが、なかなかその機会が訪れそうにはなかった。そんな彼の発言にいち早く耳を傾けたのは、彼の小隊を構成する戦車のうちのある一台の車長である荒川伍長であった。
「なんです? いよいよ重慶に総攻撃でもかけるんですか?」
「それがどうも、インドの方ならしいんだ」
「インド?」
予想だにしない地名を聞かされることになった荒川は思わず間抜けな顔を浮かべてしまう。
「援蒋ルートだよ。ローズベルトやらチャーチルやらが国民党を支援してるだろ? あそこを断ち切るらしい。重慶への本格的な圧力はそれからだろうな」
その話に真っ先に目を輝かせたのは荒川の車の操縦手を務める小林一等兵であった。
「それって、この面倒な対ゲリラ戦から抜けられるってことですよね? しかも、インドってあのカレーの発祥の地でしょう?」
「もう少し考えた発言が欲しいものだな。カレーの代わりに俺たちが食うことになるのは鉛玉だよ。特進もののな」
石田が呆れたように小林を細めで見ながら指摘する。そこから「あ、そうだ」と思い立ったような顔をすると内容を付け足した。
「しかも、インドってことはその前にビルマがあるわけだからな。熱帯ってことはここどころじゃない、本気のゲリラ戦かもしれないというわけだ」
「戦車はジャングルじゃ足が遅いからな……とんでもない作戦になりそうな気がしてなりませんね」
荒川がぼそりと呟く。石田は歴戦の戦士らしくため息をつきながら同意した。
「しかし、『インド解放』ねえ……目標が大きいのは結構なことだが、そもそも可能なのか? 支那の攻略すらままならないってのに、インドってのはもっと遠いんだろう」
「どっちにしろ、この戦争は長くなるってことでしょう」
「まあ、細かいことは気にしないのが一番だろうな。今日を生き延びねば明日はない、明日を生き延びねば明後日はないぞ」
これが大陸で10年生き抜いた男の最大の学びであった。中国大陸の夜は乾いていて、冷たい風が吹きつけるばかりであった。それは石田の冷めた目にそっくりな気温であった。
「これは俺の予想にすぎないから話半分にしておいてもらいたいが、近々正式な命令が出るらしい。もしかしたら俺たちもインドに行く可能性があるんだとか。一応の準備はしておいた方がいいぞ」
果たして、石田の予想がおよそ当たっている者と思わせる前兆のような命令が彼らに降りた。それは薄暗い朝霧が黄河の支流を覆っていたある朝のことである。戦車第十二連隊第6中隊の露営地ではチハ戦車が次々とエンジンを低く唸らせていた。その中には荒川らが乗る九七式中戦車「白虎」号も含まれていた。
「白虎」号は九七式中戦車の標準型ながら、履帯を強化しており前面装甲に鉄板を追加したある種の現地改修仕様であった。エンジンの調子は悪く、部品不足でいつも修理に追われていた。虎などと大層なあだ名をつけた割にその実態はバカ猫というわけである。そんな大げさなあだ名をつけたのは、荒川の戦車乗りの中で比較的年少である小林が会津出身であり、会津のために戦い散っていったあの白虎隊にあこがれていたからというしごく単純な理由であった。荒川は車長らしく砲塔ハッチから上半身を出して双眼鏡で前方土手を睨んだ。十月の河南は朝晩冷え込み、戦車兵の薄い軍服に霜が降りる季節になっていた。
そんな中、〇五三〇に第十二軍司令部(内山英太郎中将)から前夜に届いた命令が中隊長の谷口大尉を通じて伝達された。内容は以下のとおりである。
一、目下ノ戦略転換ニ伴イ、ビルマ方面連絡強化及援蒋ルート遮断準備ヲ優先ス
二、中国戦線ニ於ケル大規模攻勢ハコノ一月ハ控エ、補給路ノ警備、航空基地拡張、鉄道施設ノ補強ニ専念セヨ
三、戦車部隊ハ歩兵トノ協同ニテ黄河流域ノ補給路遮断企図ヲ粉砕セヨ
「そういう訳だ。今日の任務は、西方の村落を経由する補給路の警戒と敵游撃隊の排除だ。無駄な突撃はするな、消耗の時はいまではない」
谷口の言葉に石田が敬礼を返す。つまり、この命令の意図は「諸君らもビルマ・インド方面への作戦に参加する可能性があるので今、無駄に死なれるのは困る」ということである。
次第に谷口は石田の視線の後ろへと流れていく。石田の第一小隊が動き出したからだ。当然ながら谷口も中隊長である以上、戦車で指揮を執るのだが先陣を切っては全体を把握できたものではないので隊の中央や後方に位置するのが常だ。第3中隊は洛陽西方の重要補給路と新設航空基地周辺の警戒任務に就いていた。荒川は乗員に声をかけた。
「小林、エンジン暖気急げ。田中、徹甲弾と榴弾を交互に積め。鈴木、機銃の弾帯確認。今日は霧が濃い。視界不良だぞ」
操縦手の小林一等兵は緊張した面持ちで頷いた。砲手の田中上等兵は黙々と弾薬を整理し、新入りの機銃手・鈴木二等兵は手がわずかに震えていた。田中はともかくとして、荒川から見れば子供にも思えた。午前六時十五分、中隊は歩兵一個小隊を乗せて出発した。小隊の連中はどうもわがままな連中ばかりで狭いだのなんだの文句を抜かす。比較的若くて鈴木よりも血気盛んな小林が危うく胸ぐらを掴みかけたところで荒川がどうにか制止した。「白虎」は三番車として行軍序列の中央を進む。泥濘の道は九七式の履帯を苦しめる。更にはエンジンが不機嫌な唸りを上げていたが、いつものことなので気にする必要はなかった。そんな道をかれこれ進むと、石田曹長の先頭車より無線が入った。
「前方二キロ、村落に敵影。民兵程度か、迫撃砲あり」
荒川は即座に応答した。
「了解、三番は右翼へ展開する。歩兵は戦車後方で待機」
そう言うと荒川は歩兵を戦車から降ろす。小林が最後に戦車から降りた歩兵の背中に悪態をつくものだから荒川はため息をついてしまった。まだ朝なのもあって、そのため息は白い。それから間もなくして霧の中から中国軍の小部隊が姿を現した。推測するに彼らは援蒋ルートへの物資輸送を支援する游撃隊であり、軽機関銃と迫撃砲を装備していた。彼らは日本軍の補給路を撹乱し、将来的なビルマ方面への圧力を弱めようとしていた。
「戦車、前進! 五七ミリ装甲榴弾! 目標、村落東端の土塀!ぶち破るぞ!」
最初の砲声が響いた。中国側の九二式歩兵砲が土手を越えて飛来し、近くの木立を吹き飛ばした。破片が「白虎」の装甲に金属音を立てて弾ける。
「どこを狙っている。次弾装填急げ。操縦手、もっと近づいてやらんと当てるのは少し厳しいぞ」
荒川の号令で「白虎」が泥を跳ね上げて加速した。小林が巧みに操り、岩や穴を避けながら接近する。履帯がぬかるみを抉り、車体が左右に揺れる。田中が照準眼鏡に顔を押しつけ、距離を測る。発射。轟音とともに砲塔がわずかに跳ね、土塀が粉々に崩れ、敵の影が散った。土煙が上がり、視界が一瞬白くなる。機銃手の鈴木が
「敵機銃、右前方!」
と叫ぶ。荒川は旋回ハンドルを回し、車体を向けさせた。九七式の七・七ミリ機銃が火を噴き、短い連射音が車内に反響する。トレーサー弾が霧を切り裂き、中国兵の姿勢を崩していく。しかし敵も粘った。迫撃砲弾が「白虎」の近くに着弾し、車体に土砂が降りかかる。衝撃で一瞬視界が揺れ、計器盤の針が振れる。
「被弾なれど損害なし! 前進続け! 小林、右に寄れ。土手の陰を使え」
荒川が冷静に指示を飛ばす。小林がハンドルを切り、車体を斜めに進める。泥水が履帯から飛び散り、フロントガラスを汚す。田中が次弾を装填し、再び照準を合わせる。今度は村落内の低い建物。榴弾が炸裂し、壁が内側に倒れ込む。煙の中から敵兵が転がり出るのを、鈴木の機銃が追う。弾帯が空になりかけ、鈴木が慌てて予備を繋ぐ。指が滑り、弾が床に落ちる音がする。石田の先頭車からも砲声が続き、左翼の二番車が側面から回り込む気配が無線で伝わる。敵の迫撃砲がさらに二発、中隊の後方に落ちる。歩兵小隊が戦車の影から小銃を撃ち始め、弾が土塀を打つ乾いた音が混じる。中国側の軽機関銃が応射し、弾が「白虎」の側面装甲を弾く。金属の打音が車内に響くが、貫通はない。
「距離詰まった。徹甲弾に替えろ。建物の中にいるやつを潰せ」
荒川の指示で田中が弾薬を入れ替える。装填の音が鋭く、砲尾が閉じる。発射。建物の一部が崩壊し、中から人が転げ落ちる。鈴木が機銃を抑え込むとひたすらに短いバーストを繰り返す。弾が尽きかけたのでまた弾帯を交換する。車内は火薬の匂いと油の臭い、それに泥の湿った匂いが混じり合う。エンジンの熱が徐々に上がり、操縦席の小林が袖で額を拭う。
戦闘は約四十分で終了した。中国軍は十数名の死傷者を残して撤退。日本側は戦車二両に軽微な損傷、歩兵に三名の負傷者を出した。「白虎」の前面装甲に浅い弾痕が二箇所ばかり履帯に泥が厚く絡みついている。戦闘後、処理を終えた荒川は戦車の履帯を点検しながら石田曹長と煙草を回した。
「しかし、いつまでこんな地味な戦いを続けるんでしょうね」
「おお、言うね。今に見ていろ、そう呑気なことを思いもできないほど忙しい作戦が始まるんだから、今のうちに羽を伸ばしておいた方がいいぞ」
負っと風が吹いて石田は煙草を落としてしまう。
「俺たちの戦いは地味だが大事だからな。この河南の鉄道と補給路を安定させるそれが京漢鉄道全線掌握も夢じゃなくなるってわけだ。沿線のゲリラ共の殲滅は必要不可欠ってわけよ」
そんなころにすっかり日は空高く上がっていた。太陽の光が彼らの煙草の煙を銀色に照らしていた。午後二時、中隊は谷口中隊長の指揮で合同訓練を実施した。歩兵との協同突撃訓練と航空基地拡張工事現場の警戒ならしい。近隣に建設中の滑走路は将来の航空優勢を支える重要な拠点だった。将来的には陸軍の戦闘機や重爆が次々とここに駐機されるというのだから楽しみでたまらない。その様子を見ている小林はどこか楽しげな様子であった。
「やっぱ空っていいですね。何が来るんでしょう隼と百式はきっと見られるとして、、、もっと凄い新型も来たりするもんですかね?」
「じゃあ、なんであんたはここにいるんだよ」
石田の方を向いた小林はツチノコでも見たかのような表情であった。
「無茶言わないでください。だって50倍ですよ?倍率だけ見れば帝大に入る方が簡単なくらいですってば」
「ああ、なるほどな。いかんせん俺はそういうエリートさんの道に詳しくないものでね。いやすまんな」
これが大陸に長く務める歴戦の兵士の玉に瑕なところ。世間の話に少し鈍くなってしまうのだ。そんなこんなで任務を終了した夕刻、負傷した歩兵の後送を戦車で援護しながら帰還する途中で小雨が降り始めた。打ち付ける水滴が「白虎」に愉快な歌を歌わせる。同中隊の戦車も同じような様子で、すっかり小学生の下校未知のような様子であった。だが、そうも呑気なことを言ってはいられない雰囲気があった。何やら、谷口中隊長から重要な作戦通達が夜に控えているというのだ。いつもに増して改まった様子だったので、皆で何を伝えられるのか警戒していた。
夜八時、駐屯地の一角に中隊の将校・下士官が集められた。谷口中隊長がやってきたので皆敬礼する。谷口は皆がいつもに増して引き締まった雰囲気なのでどうしたものかと不思議そうな顔をした。そう、彼には「いつもに増して改まった様子」だという自覚はなかったのである。気まずい沈黙が一瞬とはいえ流れたので谷口は咳払いをして幕を切り替えると、新たに大陸の地図を展開させて現在の自身らの位置を指さした。
「明日以降も同様の警戒任務を継続。敵の游撃活動が活発化している。ビルマ方面の動きはまだ国民党に走られていない。大本営の決定はまだ前線に完全には浸透していないが、徐々に兵士の士気は上がっている。補給物資も少しずつ改善の見込みだ」
ビルマ方面。まだ詳しい話は聞いていないが石田から噂に聞く大攻勢はどうやら本当のようだ。
「だが、ビルマ方面への作戦遂行に当たってはまだ不十分な点がある。それがここ、支那大陸におけるビルマ方面への連絡だ。諸君も知っている通り、未だに沿岸部にはゲリラが点在しており、鉄道の破壊などが行われいている状況だ。これでは補給もままならない」
そこで、と谷口は中国沿岸を大きくなぞる動作をして見せる。これを見た荒川はさすがだ、と石田の方を見る。彼の予想は見事に当たっていたからだ。石田もやはりそう来たか、とばかりの顔をしていた。
「ついに我々は支那事変開始以来の大攻勢を試みる。上はどうも『大陸打通作戦』と名付けているらしい。作戦目標を伝える。第一目標、京漢鉄道周辺の完全な掌握。第二目標、インドシナ及びビルマ方面との完全な接続。作戦開始は2か月後だ、心しておいてくれ」