戦車12連隊の面々と同様に、晩秋の空がまだ寝ぼけた色をしているほど早い時間のことである。荒川伍長は「白虎」の砲塔から半身を乗り出し、双眼鏡で前方の平原を睨んでいた。黄河を渡ってからまだ二日しか経っていない。あれから第十二軍主力はひたすら南下を続けていた。開封方面から進出している荒川ら戦車部隊は他部隊より先行する形で進軍しており、すでに鄭州近郊に到達しつつあった。作戦計画通りに進められれば、戦車第3師団の一部と協同して京漢鉄道沿いを一気に押し下げるといったところである。
「小林、エンジンは安定しているか」
「はい、伍長。昨夜の整備でなんとか持ちました。燃料は七割です」
操縦手の小林一等兵が奥から鋼板で反響して曇らせた声で返答する。
「よし、上々だ。田中の方はどうだ」
「徹甲弾十二発、榴弾八発、煙幕弾二発。装填済みは徹甲弾です」
「榴弾の方がいい。徹甲弾を使うほどの壁は今のところ遭遇していないぞ」
「ああ、確かに、、、すみません」
田中は頭を掻きながら急いで装填しなおす。口径五十七ミリの弾は当然ながら米俵のように重いが、田中は流石に装填主なだけあって思っていたよりも早く作業を終えた。
「全く、、、何回目だ?」
「いやあ、ついつい対戦車戦のことばかり考えてしまいまして、、、」
関東軍の叔父からノモンハンでの武勇伝をさんざん聞かされていた田中は対戦車戦を常に夢見ていた。
「支那に戦車があるものか、全く。鈴木は、、、済んでるな。詰まらせるなよ」
「了解!」
機銃手の鈴木二等兵がいつも通り九二式重機の弾帯を確認していた。乗員四人の息は白く、朝の冷え込みが車内にまで染み込んできており、いくら新兵とはいえようやく自身の役割に慣れてきた彼の手も少しばかりかじかんで手間取っている様子であった。いくら厚い鋼の装甲でもこういう不便なものばかりは跳ね返してくれないらしい。中隊長・谷口大尉からの無線が入った。
「全車注意。前方に中国軍第85軍の残存部隊が防御線を敷いている模様。対戦車砲の気配あり。航空支援は九七重爆が七時過ぎに来る予定なので、長い時間という訳ではないが油断はするな。それまで掩蔽前進で距離を詰めろ。損害を最小限に抑えて午後までに鄭州東郊を確保せよ」
この作戦は当然ながら大陸打通作戦の為の前座である。とはいっても、1942年11月現在に戦車第12連隊を隷下としている第12軍は作戦に直接は関わらない。あくまでも大陸打通作戦を主として実施するのは、第11軍や第23軍といった河南の中でも特に南部に拠点を置く部隊。作戦実施地域に比べてやや北に拠点を置く第12軍がやれることと言えばせいぜい京漢鉄道の北端を抑えて盤石にする程度のことであった。
荒川は石田曹長の乗るチハを確認した。隊長の彼は向こうの車から頭と手を出している。荒川が手信号で「準備完了」と送ると石田はハンドサインを送ってくる。
「よし。右翼をしっかり守っていくぞ。前進開始だ」
チハのディーゼル音が大陸の平原に響くこと1時間。午前六時二十分、敵の第一弾が飛来したのは中隊が開封南郊の低い土手を越えた直後だった。敵の野砲弾が石田車の前方三十メートルで炸裂し、黒い土塊と砂煙が二十メートル近く舞い上がる。石田車に損害はなく、煙を切り裂くように現れたかと思うとそのまま前進を続けた。続いて、村落東端の土塁から軽機関銃の連射が始まった。曳光弾が朝靄の中を白く筋を引いて飛び、歩兵小隊の先頭にいた二名が倒れた。
「距離八百! 目標、土塁右端の砲陣地!榴弾、撃て!」
荒川の号令と同時に田中が照準器を覗き込み、砲塔を右へ二度半旋回させた。五十七ミリ砲が短い沈黙のあと、鈍い衝撃とともに火を噴く。砲弾はほぼ水平に飛び、着弾と同時に土塁の一部が内側から崩れた。砲煙がまだ晴れないうちに田中は次弾を装填し、小林がエンジンを低速に保ったまま「白虎」を斜め前方へとハンドルを切る。履帯噛み込んでいるのは朝露でやや湿った土の上、車体はほとんど揺れなかった。一般的な車輪ではこうはいかないだろう。
こちらが戦車を狩りだしてきたということで敵の対戦車砲が反応した。砲弾が「白虎」の左側装甲をかすめ、鋭い金属音とともに火花が散った。車内にも衝撃が伝わり乗員がみな、一瞬ながらうめき声を上げる。荒川も一瞬体を沈めた。
「被弾なし! 右へ寄れ! 死角に入れ!」
いくら火力があるとはいえ所詮、相手は対戦車砲。小林は即座にハンドルを切り戦車は村落の土塀を利用するように右前方へ斜進した。鈴木二等兵が車体機銃を最大仰角近くまで上げて土塁上の中国兵を抑えにかかる。こういう時には機銃の方が取り回しがいい。幸い、鈴木は新兵ながら人が平気で倒れるさまを見ても反吐が出るといった性はなく、故に機銃手を任せていたのだ。尤も、あまり愉快そうな顔はしないがこれは当然だろう。
弾帯が軽やかな音を立てて流れ、土煙がさらに濃くなる。石田小隊が再び主砲を次々と撃ちながら接近戦を仕掛ける。今度は徹甲弾だった。土塁右端の砲架が直撃を受け、砲身が不自然な角度にねじ曲がって転倒した。
この攻防が三十分近く続いた。中隊の五両は互いに百メートル前後の間隔を保ちながら、歩兵小隊を影に従えてジグザグに前進した。敵の射撃は断続的で、組織だった十字砲火には至らない。それでも、村落中央の煉瓦家屋からは時折対戦車ライフルの乾いた銃声が聞こえた。
午前七時十分、空から低いエンジン音が近づいてきた。九七重爆四機、隼4機の航空編隊だった。まずは隼隊が村落東端を低空で通過して機銃掃射を開始する。続く九七重爆が小型爆弾を投下した。爆発の煙が上がり、敵の射撃が一瞬途切れた。
「今だ! 全車突撃!目標は対戦車砲、捕捉次第破壊せよ!」
谷口大尉の号令が無線を通じて飛んだ。荒川はハッチを閉め、車内に声を響かせる。中隊の戦車が次々とす方をくねらせて、幾十も並ぶ対戦車砲に睨みを利かせる。
「全速前進! 砲は徹甲弾だ、ぶち破るぞ!」
「了解、飛ばしていきます!」
以西のいい返事をする小林を笑いながら荒川は軽く咎める。
「突出はするなよ」
「白虎」のエンジンが唸りを上げ、車体が加速する。履帯が土を抉り車体を軽く跳ねさせながら前進を続ける。距離が五百、四百、三百と詰まる。敵の小銃弾が装甲に当たる音が雨のようだった。前方の村落から中国兵がばらばらに後退を始めるのが砲塔の展望孔からはっきりと見えた。
「右前方、敵が逃げている!鈴木、逃がすな!」
鈴木が機関銃で弾をばらまく。装甲にも土壁にも守られていない、生身の肉体というのは脆いもので手でつまめる程度の金属の弾を食らっただけでくたばってしまうのだ。総攻撃を伴う大決戦なら敗残兵をわざわざ撃つ必要はない。むしろ、それは弾の無駄であり慎むべき行為でもあるがゲリラ戦ともなれば話は別だ。一人でも二人でも残っていれば、それは新たな作戦単位となり様々な妨害を仕掛けてくる。そうなる前に大地への手向けにせねばならないのだ。
田中は砲塔をさらに右へ旋回させて土塁後方に残っていた最後の対戦車砲を捕捉した。
「撃て!」
荒川の命令で放たれた「白虎」の徹甲弾は発砲した直後の敵対戦車砲に直撃した。砲架が砕け散り、その破片が周辺の砲兵にさながら散弾のように刺さった。一方で、それと同時に左側で鈍い爆発音がした。何事かと荒川が目を見やると石田車が履帯を損傷し、車体を少し傾けて停止していた。先の対戦車砲が放った最後の一発が車体からわずかに狙いがずれて履帯を直撃していたのだ。
「曹長!大丈夫ですか!」
「履帯が完全にやられた、乗員は問題ない!下車して歩兵と合流する。お前達は先に進め!」
荒川は頷いて再び前進を続けた。午前八時半には村落の東半分を占領。降伏した中国兵が数十名、両手を上げて出てきた。敵は組織的な反撃をほとんど見せず、南の林の中へ退却していった。
荒木は頷き、前進を続けた。午前八時半には村落の一部を占領。捕虜が数十名出た。敵はこれ以上の組織的な反撃をほとんどすることなく南へ退却していった。その後は大きな抵抗もないまま村全体の制圧に成功。作戦は有無を言わせぬ成功であった。小休憩を挟んだのちに正午を過ぎてすぐに中隊は鄭州東郊の高台に仮陣地を構築した。荒川は損傷した石田車の修理を手伝っている。
そうこうしているうちに「白虎」の方から荒川を呼ぶ声が聞こえてくる。荒川がそっちの方を見ると、砲塔から鈴木が顔を出して呼んでいた。
「伍長、燃料と弾薬の補充が午後に来るそうです」
「ほう、そりゃありがたい」
するとどこからか、ひょこっとエンジンの整備口から田中が顔を出す。
「このペースならあっという間にいけますね」
「焦るな。ビルマは乾季と雨季がある。急いでも雨季が始まるまでに間に合わん。戦略は上に任せておけばいいさ」
荒川は水筒の水をぐいっと飲んだあと遠方の煙を見た。隼がまた飛び交い敵の退却路を叩いているらしい。
夕方には石田が修理を終えて荒川を軽く煙草に誘った。荒川が胸ぽkrっと~煙草を取り出そうとしたところで、石田が今日は俺の奢りだと一本差し出す。荒川は感謝してその一本を受け取ると、マッチで火を点けて煙を吐き出した。大陸と言うのはよく乾いているので、内地にいる時よりもマッチの利きがいい。
「おお、お疲れ」
「お疲れ様なのは小隊長の方ですよ」
「死にかけたことか」
さっきの履帯の損傷は確かに当たり所によっては負傷の危険もあったが死ぬまではいかないだろう。石田は大袈裟に言ったのだ。
「運が良かった。日頃の行いがいいからかもな」
「冗談がお上手で」
「おいおい、俺は悪人か?」
「まあ、善人ではないでしょうね」
荒川の指摘に石田は苦笑いする。
「ま、それはそれで結構だ。『いい奴ほど早く死ぬ』と言うしな」
「ははは、じゃあ自分の方が先に死んでしまうかもしれませんね」
「おいおい、縁起でもないことを言うなよ」
僅かに気まずい雰囲気が流れる。荒川がぼとっと煙草を落とす。火は残念なことに消えてしまった。
「どっちにしろ命はないもんだ、死んだら骨は頼むぜ」
その後、夕方にはいつも通りの谷口中尉による今後の作戦展開に関する集会が行われるわけだが、どうしたことかいつもより30分ほど早い集合を求められた。こういう時は、話こそそこまで長くはないが極めて重要なことを伝える傾向にある。
「本日の目標は達成した。鄭州の本格攻略は2日後にも始める見込みなので心するように。今回の作戦では上からの命令で試験的にマラヤの物真似を行う」
マレーと言えばあの「マレーの虎」、山下奉文大将だ。一体、中隊長は、いや、司令部はどのような大作戦を考えておられるのだ。
「と言っても、そんな大げさに構える必要はない。マネというのは戦車の使い方に関するところだ。従来では歩兵の支援として後方からの支援に徹してきた我が皇軍の戦車隊だが、山下大将は大胆にも先行させることでの機動戦をやってみせた」
「もう一つ、三国同盟もこの戦術の実施に拍車をかけたと言えるだろう。アルデンヌは知っているな?」
人並みに新聞を読んでいれば銃後の者でも知っている。ヒトラー率いるドイツがポーランドに宣戦布告後、返す刀でフランスに侵攻を仕掛けた際に行われた電撃戦のことだ。
「独仏国境にそびえるフランスの要塞、マジノ線。あれとの戦闘を避けるにはベネルクス方面からの侵攻に絞られるわけだが、そこには鬱蒼とした森が茂っている。そんなところで歩兵で進んでいてはあっという間にフランス軍が駆けつけて殲滅されてしまう。そこで彼らは戦車による電撃的な侵攻であっという間に国境を食い破り、パリのレストランでフランス料理をご馳走になった」
ここまでは誰もが知っている話だ。にしても、急な話なものなので集められた多くの兵が困惑している。
「さて、諸君はビルマでこんな作戦は無理だと思っているだろう。当然、泥に包まれたような土地であのような作戦は全くをもって無理だ。だが、乾季だとしたらどうかな?」
その瞬間、多くの兵が顔を見合わせてはざわついていた。谷口もこのようにざわめくことは予想しており5秒ほどの猶予を与えたのちに「静まれ」と喚起する。
「そう。参謀本部は来年のビルマ攻略で電撃戦を行うことを考えている。そこでの迅速かつ確実な作戦遂行の雛形として、今後の作戦では基本的にこの戦術を取り入れることにしたそうだ。しっかりした記録を残すためにも諸君の健闘に期待する、以上だ」
気を付け、敬礼とあたりに響き一糸乱れぬ敬礼を行う。完全に陽が沈むとゲリラの夜襲に対する警戒が強化された。今日の歩哨の一人は荒川であり、「白虎」の他の乗員が仮眠の準備を進める中その様子を眺めていた。星が浮かび始めた空の下で「白虎」もすっかり静まり返っている。皆が寝静まった後、荒川はふと「白虎」の方を振り向く。
「こいつは果たしてバカ猫から本物の虎になれるのか、、、」
そう呟いてもこの夜に答える者は誰もいなかった。