その男は、機会を伺っていた。
闇につつまれた路地裏に潜み、男は襤褸な衣を身にまとって、血走った目で夜道を歩く人々をひとり、ひとり確認していく。
仕事帰りのサラリーマン。酔っている様子はないよう。───違う、この男相手には無理だ
夕飯を食べたあとの家族。屈強の男と穏やかな女、そして子供づれ。───違う、人が多すぎる。
酔っ払った大学生。電柱に倒れ込み、いびきをかいている。───この男はどうだろう。カモだ、今日を生き延びるだけの金は手に入りそうだ。仮に、抵抗されても、『とっておき』がある。それなら、なんとかカネは奪うこともできるし、逃げることはできる。どうだろう、なかなかどうして完璧な計画じゃないじゃないか。
よし、と獲物を決めつけた男は路地裏から夜道へ一歩見出そうとする。しかし遅すぎた。その酔っぱらいに介護がついたのだ。警察だった。腰に拳銃をもった、二人組の警察は、しゃがみ、頬をやさしく数回叩いていた。「おーい、起きなさい、こんなところにいたら、迷惑なんだよ」
男はうなり、再び路地裏で潜んだ。そして男はこの夜道の通行人の吟味をはじめた。
幾度の通行人たちがこの夜道を通った。しかし、その誰もが男が求めるような条件を満たしていた。男の腹が鳴った。もう三日は何も口に食べ物を入れていない。
男はポケットから小瓶に詰まった安いウィスキーを手にし、ラッパ飲みした。熱が腹に満たされて、わずかに空腹感は紛れる。男は、唇からこぼれたウィスキーを乱暴にぬぐって、顔に噴き出す脂汗をごしごしと拭いた。
────そうだ、ラーメンにしよう。豚骨ラーメンがいい。湯気が、ふわふわと立ちのぼる、白濁した液体に細い麺が浮かんでいて、麺の上にはチャーシュが3枚並んでいる。そしてそばには海苔があり、メンマとひたひたに浸かった半熟の味たまごが置いてある。オレはまずはスープから口へ運んで………
男は口の端からいつの間にか垂れてきた唾を啜った。いかんいかん、こんな妄想だけでは生きていけない。集中しないと。男は道へ視線をむけた。
そのとき、夜道には、ひとりの高校生がいた。性別は女性。制服を着ていて、短めのスカートが歩くたびに、揺れる。男は、周囲に誰かの人影が、または気配がないかを、確認する。誰もいない。男はニヤリと笑った。
───ようし、今度こそあいつにしよう。それに、どうだ。あの女はどうも、体調が悪いのかふらふらとしている。いくら、学生だろうが、一食分の金ぐらいはもっているだろう。よし、ならば、行こう! さあ、今すぐに!
男は、どくどく、と脈打つ心臓を聴きながら、スキップをしたくなるのをなんとか我慢し、ゆっくりと歩いていく。
一歩。まだ遠い。
十歩。まだまだ。
三十歩。手を伸ばしてもまだ届かない。
男はだんだんと足を振り出す速度が上がってきた。が、それが不味かった。その女子高校生は、ふと何やら急ぎの用があるのか早足で歩いてくる音が聞こえ、後ろへ振り返ると、そこにはぼろぼろの服を着たホームレスの男が焦点が合わない目で彼女へ向かってくるのをみとめた。
「え?」
と、彼女は困惑した。しかし、荒い息を吐きながら、走っていく不潔な男に恐怖心を覚え、「うわあああああ」と、可愛らしくない叫び声をあげ、走り出した。
「だ、誰か! 誰か助けて」
男はこの声を聞いて、焦った。しまったな、オレ、冷静を失ってしまった。このままでは、あいつは人通りが多いところに行ってしまう。みろ、実際、彼女は、無我夢中に商店道へ行こうとしている。それだけはなんとか防がないといけない。ならば、『とっておき』しかないだろう。
そして男は祈祷師のように両手を合わせ、天へ掲げると、その手から、どういうわけかピンク色の霧がもれ出てきた。それから男は彼女を指差すと、そのピンク色の霧は意志をもった蛇のように、彼女へ迫り出す。
ピンク色の霧は彼女へ追いつき、足から胴から頭へ這っていき、頭を覆った。すると、彼女はさっきまで走っていたが、唐突にマラソンを走り終えたのように、速度を落とし、佇んだ。そして彼女は膝に手を当てて息を整えながら、
「よ、よかった、お願いします、変な人に追いかけられていて……その……」
と、ぶつぶつと呟きはじめた。虚空へ話していた。男は、くつくつと笑った。うまくいった。その『とっておき』は1ヶ月に数回しか使えなかった。そしてこれが最後の一回だった。
それは幻覚をみせる魔術だった。彼が唯一誇る特技。男は少女に追いつき、
「なあ、そこの可愛い人」
と、声をかけると、パッと振り返った。男は全力で腕を振り、拳を顔にぶつけた。鼻血を出し、女子高校生は気絶した。五秒数え、動き出さないと確認をとると、男は女子高生校の鞄を奪い取り、開けてそこから財布を探した。みつけた。見た目はシンプルの黒を下地にしたものだった。
財布を開け、そこから金を取り出す。紙幣が5枚。それだけだったが、男にとってそれが十分だった。その金をポケットにしまって、逃げようとした。が、彼女の厚ぼったい唇に目を引いた。男はぴたり、と足を止め、考えた。
「いつ、『処理』したっけ……」と、平然と独りごちた。
大丈夫、まだ目覚めないはずだ、と結論をづけ、男はベルトに手をかけて、彼女にのしかかった。そして彼女の制服を破り捨てようとした、その瞬間、男の視界が空を映した。電線が、揺れていた。雲は、ひとつもなかった。───なぜこうなっているのか、ということを思考する前に、喉に圧迫感を感じた。
男は倒れた。
感じたのは、アスファルトの硬い感覚ではなく、温かみを帯びた弾力がありながらも硬いものに触れる感覚。誰かが、彼の背を取り、首を絞めている。そのことを理解した男ははげしく踠き、絞めてくる腕を掴んで、足をばたつかせ、地面を何度も蹴った。水泳をするように。その足は、女子高校生の太ももにぶつかった。と、ばたつかせた足が絡め取られた。もがくことが許されなくなった。ぶくぶく、と泡ぶくが口から出た。
喉を「──か、が」と、鳴らし、意識が落ちていくのを感じた。
さらに首を絞める力がこもった。そして、完璧な計画だったはずなのに、なんで、と後悔をしていたが、驚くほど冷静になった思考によって、締めつけてくる腕がやけに冷たく、硬いことに気づいた。それはそう、まるで、金属のようで───そこまで考えて、男は意識を落とした。
─────────────
ゆだるような暑さが続く夜、助けた少女を交番に預け、アイスと保冷剤が入った袋を片手に俺は、マンションにつき、魔術基盤で動くというエレベーターに乗った。4階を押し、俺は壁に寄りかかって、待った。
エレベーターが止まり、ドアは開いた。俺は、エレベータから降りて、背後からドアが閉まる音を聞きながら廊下を歩き出す。レンガでつくられた整然と並べた石床に革靴の踵が当たると、こつり、こつり、と音が響く。俺の部屋は402号室。そこが、俺の住んでいる部屋だった。
(それにしても、魔術、か)
この世界に絶対的な根本、法則としてあるものであり、あの世界では決してなかったもの。
事務所からマンションへ帰っている途中、女子高校生を強姦しようとした男が、使ったのをそれだった。
横を視線をむけると、眼下には、星空のように点々と光る建造物が隙間なく立ち並び、薄雲が泳いでいる空にはいつだって青白く光る月がぽつりとあった。俺が前世にいた世界と同じようで、どこか違う世界。
掠れた文字で番号が書かれたパネルがつけた玄関前まで着き、開ける。わずかに空いた隙間に入り込み、ドアを閉め鍵を閉めると、明かりがついていおり、誰かの靴が乱雑と脱がれている。一方の靴は左へ倒れ、もう一方の靴は斜めに立っていた。彼女がきたのだろう。
俺はブーツの靴紐を解き、脱ぐと、右手にトイレが設置されている短い廊下を歩く。靴下の下で床がきしむ。設置された時計が時を刻む音が聞こえた。
寝室、居間を兼用をした広間に着くと、黒い絨毯がひかれたローテーブルの傍に座る、ひとりの少女がテレビをみていた。パーカーを羽織り、黒髪だった。彼女は17歳。俺は20歳だった。俺はネクタイをゆるめ、冷蔵庫に足を振り出した。俺が帰ってきたことに気づいた彼女は、バラエティ番組を流していたテレビを消すと、俺に視線をむけ、
「ダメだよ、鍵を開けっぱなしなのは、最近物騒なの知っているでしょ」
と、いった。
俺は歩きながら袋に入っているアイスを一個取り出し、彼女に放り投げた。
「わあ、アイス……! それも高いやつの。いいの? これ貴重じゃないの?」
「別に」
「別にって、これ、なかなか買うことができないんだよ」
「渡してもらった」
「誰に?」
「どこか知らない酔ったおっさんに」
「ふうん、嘘だよね、それ」
「俺って嘘を言ったことってあるかな」
「うん、たくさん」
「そうか」
「そうだよ」
ため息をついた俺は残ったアイスを冷蔵庫に入れながら「誰だっていいだろう、めんどくさい」
「ああ! めんどくさいっていった。こんな可愛い彼女がいるのに、そんなことをいっていいの?」
「んなこと言ったって、おまえは俺のガールフレンドじゃないだろう」
「同棲を許しているのに?」
「おまえが勝手に来ているだけだ、許した覚えはない」
「ダメ?」
「好きにしろ」
彼女はころころと笑った。「ははは、許してないのに来ていいって面白いこと言うね」
「同棲は許さんが、ここに来るのはどうでもいいだけ」
「よくわからない」
「わからなくていいんだよ」冷蔵庫にアイスを全部入れ、立ち上がった俺はシンクに片足を当てて、いった。
「うん、そうだね、わからなくてもいいかな、わたしはここでいれるならいいや。あ、そうそう、そうだった、忘れてたけど、ご飯作っておいたよ、冷蔵庫に保存しているから。どうせ、君ご飯食べてきてないんでしょ」
「ご名答、じゃあ遠慮なくもらうぞ」
「どうぞ、どうぞ〜。今日はオムライスにしてみたよ」
俺は冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、ガラスのコップに注ぐと、とくとく音を奏でながら満たされていく。そして俺は充たされたカップを手に取り、一口を飲み、オムライスを片手に、ローテーブルに座った。彼女との距離をある程度離して。が、彼女はすぐに距離をつめてきた。膝同士で軽くふれる。沈丁花に似た甘い香りが漂ってきた。
「おい、おまえな」と、言いたくなったが、どうせこの女になにを言っても、ああ言えばこう言うという具合にのらりくらりと避けられるのがオチだ。顔を顰めながら俺は黙って、折れた。
そんな俺を横目でみた彼女は、嬉しそうに微笑んだ。
その後、俺は胡座をし、レンジで温め直したオムライスを食べていると、彼女は両手で顎を支えるようにして、
「ねえ、言ってよ」
「いやだ。なにしろ疲れてる」
「じゃあ、明日」
「おまえ、泊まるのか」
「うん」
「どこで寝るんだ」
「君のベッド」
「ダメだ」
「なんでよ」
「狭い」
「狭い方がいいじゃん」
「猫か、おまえは」
「あ、そうかも、前世は猫だったのかも、にゃーんって、そこらへんの家歩いて甘えてたのかも」
「ずいぶん、したたかな猫もいるものだな」
「猫って全部そんなものじゃない」
「どうだか」
「ほら、また、そうやってはぐらかす」
「これが、俺のタチなんだ、簡単に変えることはできないさ」
「……………」彼女は頬を膨らませ、半目で俺をみつめてきた。
俺はため息をついた。「ああ、わかった、わかったよ、言ったらいいだろ、いうから」
「ふふん、ありがとう」
「仕事で護衛をしたお嬢さんにもらった」
「お嬢さん?」
「ああ、あるだろう、あのバカみたいにデカいビル。あそこに住んでいる嬢さん」
「ああ、あそこの……でも、お嬢さん、ねぇ。──ね、その人って可愛い」
「さあな、客観的にみたら可愛いんじゃないか」
「君はどうなの」
「まあ、可愛いんじゃないか」
「可愛いって思うんだ」
「まあ、悪いか」
「悪いとは言わないけど、私はいやだな」
「なんで」
「だって私が目の前にいるのに、そんなことを言われるのは気分が悪いなって」
俺はその言葉に呆れて、彼女を睨んだ。「おまえが聞いてきたことじゃないか」
「そうだけどさぁ、いざ言われるといやじゃない?」
「まあ、そうかもな」
「あ、適当に返事をしたでしょ」
「これ以上ないぐらい、真剣に答えたつもりだ」
「ふうん、ま、いいか。ねえ、とりあえずその話の続き、お願い」
「その話ってどれ」
「そのお嬢さんになんでこんな高級そうなアイスをもらったのか」
彼女はアイスの蓋を開け、スプーンを手に取り、雪に似た純白のアイスをスプーンに乗せて、口に運んだ。目を輝かせ、美味しい〜、と彼女はいった。
「たいしたことじゃない」
「たいしたことじゃないなら、お金のついてでにアイスは貰わないよね」
「……まあ、そんな詳しくは言えないが、それでもいいか」
「いいよ、あとで青島さんに聞くだけだもん」
青島さんは俺が働く事務所の上司だった。
「………おまえ、性格悪いって言われないか」
「いや、全然。天使って呼ばれているぐらい」
「皮肉という言葉を知っているか」
「知っているけど、ほんとうに友達はそう言っていると思うよ」
「ああ、そう。わかったよ、いっそのこと全部話すか」
アイスをまた一口食べて、「そうこなくちゃ」
「今回依頼された任務は、殺害予告を出された嬢さんを守ることだった。ま、普通はそういうのは十中八九、いたずらに決まっているんだが、一応というわけでその社長から、まあ嬢さんの父さんに頼もれたんだ。とくにあやしいところもないし、引き受けた、そんな感じだ」
「それで? 続けて」
「俺もいたずらだと思ったんだが、まあその殺人予告を出されたときからぽんぽんと暗殺者が来た。巣から湧き出る蟻みたいにな」
「へぇ、そんな」
「ああ、で、まあ守りきることができて、そのお礼にアイスをもらった」
「アイスだけ?」
「いや、金も入ったが、お嬢さんがお礼をしたいとのことで、ついでにもらった」
「ふうん」
彼女はその言葉を聞くと、不可解そうに眉間に皺を寄せ、わずかに溶けたアイスの液体が付着したスプーンを口に咥え、頬杖をした。片方のテーブルに置いた腕。彼女はトントンと指でテーブルを叩き、
「ねえ、それだけなの?」と、訊いた。
「それだけって」
「ほんとうにそれだけでこんなアイスをもらったの?」
「まあ、お優しい方だったんだよ、こんなしがない男に高級アイスを賜るぐらいには」
「いや、絶対おかしいよ、もっとちゃんと思い出してよ、なんでお礼をわざわざもらったのか」
俺はしばらく顔を伏せ、考えた。
「……多分だが、1日目、少々厄介な魔術を使うやつがいてな、お嬢さんが一度捕まったんだよ、そこを助けたことに恩を感じているのかもしれないな」
「捕まった? 君がいるのに」
「買い被りすぎだが、そうだな。とにかく捕まったんだよ」
「…………」
「それ以外は思いつかん」
彼女は俺の瞳をじっとみつめ、黙った。彼女の瞳は、氷のように冷たく凍っていて、石のように硬い。
彼女は立ち上がった。それからベッドに寝て、「………わかった、これ以上追求するのはやめる。寝よ」
「おい、誰が───」
「疲れているんでしょ」
「え? まあ」
「ほら、なら一緒に寝ようよ、ほら、おいで」
「………いや、俺はここで寝る」
「ダメだよ、そんなところじゃあ」
「いや、俺はここで寝るさ」
「明日も仕事あるんじゃないの?」
「さあ、それは青島さんが振り分けることだからな。じゃあおやすみ」
「……仕方がないな、おやすみ」
そして明かりを消して、俺は絨毯に横へ寝転がった。彼女は俺の背後のベッドで寝た。目を閉じ、意識が落ちるの待つ。エアコンが起動している音と時が刻む音が聞こえる。と、首周辺を覆うようにひやりと冷たく、柔らかい感触がした。彼女の指だった。
「ねえ、起きてる」彼女は小声で言った。
俺は返事をしなかった。
「どっちでもいいけど、できれば、起きて欲しいな」
俺は返事をした。「なんだ、寝ようとしているのに、おまえは泊まりではしゃぐガキか」
「いや、違うの、ただ忘れてないのかな、って思って」
何を、とは俺は言わなかった。彼女が何を言っているのかわかっていた。
「忘れてないさ」
「本当?」
「ああ」
「なら、いいの、最近またこの家に帰ってこないから心配したんだよ」
「それはすまない、と思ってる」
「ううん、………ただ君は本当に来る者は拒まず、去る者は追わずだね、と思って」
「…………」
「ねえ、覚えているよね」
「ああ、覚えているさ」
「わたしはいつでもいいよ、待っているから、君が決心がついたら、言ってね」
俺は黙っていた。そして俺の首を絞めるように彼女の手が覆ってきた。後ろから布が擦れる音が聞こえ、首を包んでいた手はゆっくりと胸の方へ移動し、彼女は俺を抱きついた。沈丁花の匂いがさらに強く匂った。そして愛おしそうに、
「カゲユキ」
と、彼女は言った。
「私は君の───」
その先の言葉を彼女は言わないで、彼女は俺の腕を触った。上腕から二の腕に下ろしていき、肘をこえた瞬間、柔らかい感覚が消えた。俺の片腕は、義手だった。というのも、彼女を守るとき、敵の鋭い刃に切断されたからだ。義手は金属製だった。
彼女はその腕を撫でていた。二度ともとに取り戻せないものへ手を伸ばすように。
───翌日、一本の電話がかかってきた。