いざ来ませ、異邦人よ   作:川に揺蕩う論理の箱

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その二

 

 

 俺が、前世の記憶を思い出したのは、ちょうど6歳の誕生日をむかえたときだった。

 雪かきをしている途中、唐突にその記憶を取り戻した。どうやら俺はダンテが言ったような地獄にも、煉獄にも行かなかったようだ。

 

 俺が生まれたのは、狼がすみつく山の麓に位置する、深雪(みゆき)村と呼ばれる処だった。名が示す通り、雪が多い土地で狼が生息していた。夜になると、山から狼が啼く声が聞こえ、畑が荒らされていることが多かった。そして、冬になると、この土地はおびただしい雪に覆われる。俺は、雪に覆われた平原の上を、狼の群れがひとつの生命体のように、鹿を狩った姿を鮮明に覚えている。

 

 俺の家は、そんな村の端の丘の上に、ぽつりとあった。祖父が建てたのだと云う。あの家で死んだのは祖父だけだった。祖母は戦争のときに亡くした、と父は語った。家のなかには囲炉裏のある土間、外に積まれた割り薪があって、それらのおかげで冬の寒さを凌ぐことができた。よく父は酔うと、その囲炉裏で、繰り返し俺が生まれた日を喋っていた。

 

「その日はよ、こう、流星群が降っていくる日でよ、ブワァってほうき星が流れてきたんだよ。まあ、ずいぶん綺麗な光景だったもんだ。だけど、何か厄災のようで、怖かったな、俺さ、家を飛び出して、この村周辺で隕石が落ちてこないかドキドキしてたんだよ」

 

 そして話は、そのとき父と母が何をしていたのかへと切り替わり、際限なく広がっていくのだ。

 

 流星群が前世の因果かは知らない。おそらく、偶然だろう。父は村の東側にある高校の教員で、母は村唯一の病院で看護師をしていた。両親に魔術を使える才能はなかった。というか、村で魔術をつかえるものはいなかった。だから、俺は本から魔術というものは知っていたが、魔術というものを見たことがなく、半信半疑だった。

 

 あの日まで。

 

 俺はこの村を高校を卒業した年で出ていった。家を出る条件として、家族は月に一度手紙を寄越すことを求めた。出発の夜、父は居間でひとり、泣いていた。母は生まれたばかりの弟を抱え、目を赤くして俺を見送った。

 

 それから俺はバイトで生活費を稼ぎながら、都市で大学生として生活を送っていた。友人ができた。恋人はつくらなかった。そんな資格なんてない、と思ったからだ。俺は、この人生は親に迷惑をかけずに平凡に生きようとしていた。とくに、誰かを救おうとは当時は考えてはなかった。

 

 その当時、よく都市で魔術による通り魔事件が起きていて、大学内でも夜道は気をつけろ、と言われていた。友人とともに食事をしているときに聞かれたことだった。

 

 ある日の夜、俺はその殺人鬼に出会い、ひとりの女性に救われた。それがあの日だった。俺が魔術という存在を受け入れた日だった。

 

 それは俺はバイト帰りで、夜道を歩いていたことだった。突然、うしろから魔術で背中を貫かれ、犯人は誰かを確認する間も無く倒れた。

 

 俺は流れていく血を見ながら、自身の二度目の人生はこんな呆気なく失うのか、と思っていたところ、「おい、青年、生きているかい、生きているならこの契約書にサインしてくれ」と、声をかけられた。

 

 ───それが、俺と青島さんの出会いだった。そして、その日から俺はそれまでの自分を捨てた。

 

 

 ──────────────────────────────

 

 

『君に次の依頼がきた、事務所へ来てくれ、三十分以内に来れないなら、減給するぞ』

 

 電話ベルで起きた俺は、つなぎに出ていた彼女に代わると、挨拶もなしにこう言われた。

 

 そしてプー、プー、という電話が切れた音。

 

 俺は、しばらく電話を手に持ったまま、呆然と立っていたが、やがてため息をつき、電話を置いた。いつもの青島さんだった。俺の事情なんて気にしたことがなく、ただ用件だけを伝える。時刻を確認した。10時半。それからほぼ物置の場所になっている部屋から服を取り出して、シャワーを浴びた。タオルで乱雑に頭を拭き、水分をとる。そして居間に戻って、ローテーブルに置かれた財布を取って、部屋を出た。彼女はついてきた。

 

「ついてくるな」

「いいじゃん、青島さんもいつでもきていいって言ってたんだもん」

「……そうですか」

「何か私がいると君は困るの?」

「困ることはないが」

「なら、いいじゃん、ほら、はやくいこ。遅刻したら、減給されるんでしょ」

 

 十五分後、俺らは地下につながる階段についた。その横には『BARBER 北参道 理容・ヘアカット(予約優先) 短時間で決まる、清潔感ある仕上がり 平日 11:00〜21:00/日祝 10:00〜19:00』と書かれた看板があった。事務所はこの美容院の先にある。

 

 俺たちは階段を下り、ドアを開ける。からんからん、とドアのベルが鳴り、タバコを吸っている鼻ピアスをした受付が顔をあげ、

 

「はーい、おはようございます、予約はされていますか、って、あなたたちか」と、いい、灰皿にタバコを押しつけた。

「ああ、おはよう、アマラさん。あと十五分以内に事務所いかないと減給されるんだが、はやく開けてくれないか」

「おはようございます、アマラさん、今日も客が来ないですね」

「うん、全然来ないんだよ〜。なんでだろう」

「そりゃ、こんな場所だ、誰がここを美容院だと思う」

「まあ、そうなんだけどさ、こう、それでもじゃん」

「腕はたしかなんですけどね……」

 

 彼女は、むむと、顎に手を当てて、思案した。

 その楚々な姿を見て、何かを思いついたのかアマラは受付のテーブルから身を乗り出して、彼女の手をつかむと、

 

「ねえ、沙耶(さや)さん、あなたがよかったなら、ここの看板娘にならない」と、いった。

「へ? 看板娘」

「うん、看板娘、この店が繁盛しないのは、きっと可愛い子ちゃんがいないからよ」

「それならアマラさんだって、十分綺麗ですが」

「まあね、でも、わたしは、ほら、刺青をしてるし、髪も青く染めてるしさ、可愛いって感じじゃないの」

 

 そういうと、アマラは、骸骨と十字架の絵をプリントされた黒のシャツの袖をめくり、上腕に書かれている刺青をみせた。その刺青には、翼を開いたカラスが骸骨を掴んでいる絵が描かれていた。

 

「ほら、こんな刺青。ピアスもしている可愛い子ちゃんはいないでしょう?」

「まあ、そうだな、メタルコンセプトのバンドのメンバーにいそうだ」

「そうでしょう? ね、だからお願い、沙耶さん。今なら、お金が弾むよ! やめたくなったらいつでもやめていいから! ね お願い!」

「え、えええ、で、でも」

「お願い!」

 

 合わせた手を、頭の高さまであげて、片目をつぶってアマラはお願いをした。サヤは腕を組み、首をかしげ、悩んでいた。

 

 俺は時計をみる。十時五十分。時刻であった。

 

「時間だ、そろそろ開けてくれ」

「え〜、せめて沙耶さんの返事が聴きたいな」

「だ、そうだ。サヤ、答えてやれ」

「うん、わかってるけどさ………」

 俺は肩をすくめた。「なら、保留にしろ、それでも構わないか、アマラ」

「まあ、保留でも構わないけど、できたら、いま返事が欲しいな」

「来週、来週までに返事を絶対にします」

「ほんと? 来週?」

「はい」

「おけい〜、じゃあカレンダーに書いておくね、来なかったら、電話するからね〜」

「おい、アマラさん」

「へいへい、わかっているよ、開けるって」

 

 アマラは立ち上がり、灰皿から数本ある、火を消したタバコを無造作に一個、手に取り、受付から離れていく。そしてアマラは、写真が飾ってある壁で止まった。写真には麦わら帽子をかぶった黒人の女性が微笑んでいる。壁の隅に観葉植物が置かれていた。

 

 アマラはタバコを吸い、自分に言い聞かせるように何かを呟きながら、紫煙を吐き出す。すると、タバコの灰になりかけの先がじわり、とオレンジ色の明かりが点り、火がふたたびついた。それからアマラは写真にタバコを突きつけ、「開け」と、いった。

 

 その瞬間、壁はにわかに消え、レンガが敷き詰められた廊下が開かれた。廊下の壁には壁掛け燭台が並んでいた。ろうそくの火は壁が消えると、ゆらりと揺れ、またすぐに戻った。廊下は蝋燭しか光源がないのに薄明るかった。アマラはふうと息を深く吐き、見返り、

 

「ほら、開けたよ」と、いった

「ああ、いつも感謝する」

「なに、私しかこの壁を開けることができないんだから、いいってことよ」

「ありがとうございます、それでは」

「ええ、また」

 

 俺らは美容院を出て、廊下へ入った。背後へ振り返る。壁がそこにあった。さきほどまであった閑散とした美容院は見えなかった。壁には、天使が小さな龍に槍を突き刺す絵画が、飾られていた。

 

 俺たちは長い廊下を進む。今は夏だというのに、この廊下では肌寒さを感じた。

 

 事務所の曇りガラスがついた戸口には門番のように中身のない西洋式甲冑が二体、立っていた。俺は取手を回し、ドアを開けた。中にはストッキングを身につけ、紅いヒールを履いた両足を組んで机の上にあげたポニーテールの茶髪の女性───青島さんがいた。回転椅子に座り、萎んだ花のように垂れ下がったパイプたばこを吸っていた。カタカタ、と誰かがタイプを打つ音がした。

 

 青島さんはニヤリと笑い、「ああ、おはよう、なかなか来ないから減給しようとしたところだったよ、それと沙耶ちゃん、いらっしゃい。よくきたね」

「お邪魔してます。コーヒー入れてきますね」

「うん、ありがとうね、いつも」

 サヤがコーヒーを入れにいくと、俺は唸って「勘弁してください、労基に報告したら、一発アウトの給料でやってるんですから」

「ああ、たしか、そうだったな、これは失敬、冗談だ」

「冗談、ですか、どうだか」

「なんだ、上司が言うことを信じられないか」

「ええ、そりゃ、あなたって、へそで茶を沸かす、といったら、本当にしようとする人じゃないですか」

「あ? そんなことあったか」

「ええ、盗人がここに来たとき、あなたが捕まえたときですよ」

「……ああ、そんなことあったな」

「ええ、そしたら、あなた、いきなりへそで茶をわかす、ってことわざを知っているかと言い始めて、やかんを持ちはじめたと思ったら……」

 

 俺は首を横に振った。青島さんはあったときから、このような常識を疑うような行動をしていた。

 

「まあ、いいじゃないか、その話は。それに給料については、前回の依頼、ずいぶんもらったんじゃないか。それで、チャラだ」

「……………」

「やれやれ、きみはほんと冗談が通じないな」

「ええ、そうですね、俺には冗談が通じないんですよ、あなたみたいにウィットに富んだ方になりたいものですよ」

「ほう? 言うようになったじゃないか」

「これでももう長いことここにいるものですからね」

「ふうん、───たしかもう2年が経ったのか」

「ええ、2年もすれば、あなたのことをよくわかるようになりますよ」

「たとえば?」

「今日、小説を書くのが楽しくて、寝不足になっているところとかどうですか。───化粧で誤魔化しているようですけど、クマが目立ちますよ」

「ふむ、当たっているな、見事だ、インスピレーションが降りてきたもんでね、どうも筆が止まることができなかったんだ」

「それより、依頼が来たんですよね、はやくその依頼について教えてくださいよ」

「ん、ああ、そうだな、依頼。そうだな、依頼だ、それについて話そう、───スザンナ! 依頼書をくれ」

 

 スザンナ、という声が部屋に響き、青島さんは手を二度叩いた。すると、左手側の本棚のまえに置かれた木製の机に山のように積まれた紙から青白い手がのぞいてきた。それがスザンナだった。

 

 スザンナはタイプライティングマシンを打っていたが、青島さんの命令でやめ、トントンとゆっくりと、歩き出した。人差し指と中指を足のようにして。スザンナは手以外の部位はなく、妙齢の男性なのかシワが手にはできていた。手首には金色のリングをつけていた。

 

 スザンナは机から落ち、猫のように衝撃を指を瞬間に曲げることで逃した。そして移動式ホワイトボードと近づき、その支柱にしゃがみつくと、俊敏に上へ上へいく。そしてとうとうホワイトボードに磁石で止めてあった依頼書へ飛び上がり、掴んだ。スザンナはぶら下がって、自重に任せて、その依頼書を取った。べちゃり、とスザンナは床に叩きつけられるが、気にした様子はなく、体勢を立て直し、小指と親指を足にして俺の方へ向かっていた。

 

 ぺたりぺたりと歩いていたスザンナは止まり、俺へくしゃくしゃになった依頼書を渡した。俺はしゃがんでその依頼書を受け取り、礼をいう。スザンナは、ピースと指を立てて、ふたたびタイプライティングマシンの元へ歩き出した。この奇妙な光景にいまだに俺は慣れない。

 

「見てみろ」青島さんは両足を下ろし、いった。

 

 言われるがままに、俺はスザンナから受け取った依頼書をみた。そこには、包帯で巻かれた箱の写真があり、その下に、この箱を1週間預かって欲しい、と書いてあった。サヤが肩を叩いてきたので、振り返る。彼女はコーヒーが入ったマグカップをわたしてきた。俺は受け取り、黒のソファーに身を沈めた。そしてコーヒーをひと口のみ、

 

「これだけですか?」

 サヤからコーヒーを受け取り、礼を言った青島さんは輪っかの煙を吐いて「ああ、これだけだ」

「俺はホテルスタッフではないんですけど」

「あるいは銀行員と勘違いされたのかもしれない」

 俺は眉を顰め「………簡単すぎて、逆に怪しいですね」

「そうだな、べつに知り合いに預けてもいいぐらいの依頼だ」

「ええ、それにこれはぜんぜん魔術関連ではありませんよ」

「一見な」

「一見?」

「ああ、ただ箱を預かる依頼のようだが、どうやら」青島さんは抽斗から写真に書かれていた小型の箱を取り出した。「この箱はなにか魔術を施してある」

「どんな魔術ですか」

「わからん、ただ魔力の残穢があるだけだ、なにか魔術を仕掛けたような痕はない。かなり巧妙に隠しているようだ」

「それ、見せてくれませんか」

「ああ、構わないさ」

 

 青島さんは箱を俺に下投げで渡した。俺は受け取り、箱を仔細にみた。

 

 手元に納まるほどの4センチの大きさをした立方体だった。巻かれている包帯にはところどころにコーヒーをこぼしたのか茶色のシミができていて、薄汚れていた。俺は目を凝らし、魔術の残穢を見通そうをした。視界のあらゆる対象の色彩が消える。そして青白い揺らぎというものが箱の包帯の隙間から洩れでていた。

 

「変な箱だね、なにか大切なものでも保管しているのかな」と、俺に横に座ったサヤ。

「景行、君の結論は?」

「……まだ、何も言えないですね、だけど、たしかに魔術を施してある痕跡はあります」

「君の『眼』でもなんの魔術か看破できないのか?」

「ええ」

「なら、ここにいる誰もわからないか」

「まあ、この包帯を取れば箱に施された痕跡がわかると思いますけど、……ダメですよね」

「ああ、依頼者はこの包帯は絶対に取るな、と言っている」

「ですよね、………そうですね、依頼者はどんな方でしたか」

「依頼者か?」

「ええ」

「そうだな、まあ、変なやつだったよ、性別はわからない。体型はオーバーサイズのトレンチコートを着ていたからわからないし、身長も男でも女でもいそうぐらいだったな。それに、声もボイスチェンジャーを使っていたよ。サングラスもかけていたし、よくわからないやつだった」

「つまり、身をバレたくないということですね」

「ああ、そういうことになる」

「それほどの身分がある方ですか………その人が、預かってほしいと頼むもの……はあ、頭が痛くなる。これかなりの厄介事ですよ」

 青島さんはコーヒーを飲んで肩をすくめ「だろうな」

「これって、なにかの犯罪に関わってませんか」

「いや、そいつはない」

「それは青島さんの魔術で?」

「ああ、確認した。君も知っているだろう、私が依頼を受けるモットーを」

「ええ、わかってます」

「なら、安心してほしい、今回の依頼者も犯罪者ではない。どっちかというと、巻き込まれた側だろう。どうだ、私たちの得意分野だろう?」

「ええ、そうですね、俺たちが扱う分野です」

「だろう、それで受ける気になったか?」

「ええ、っていっても、あなたが受けると承諾した時点で拒否権はないんですけどね」

 わざとらしく青島さんは首を傾げ、「おっと、そうだったかな」

「ええ、そうですよ、契約書にも、あとで見返したらそうやって書いたあったじゃないですか」

「だけど、よく見ないでサインした君も悪くはないか」

「あなた、……それ本当に言ってますか?」俺はあのとき死にかけていたのだから、契約書を見るなんて無理な話だ。

「もちろん、冗談だ」

「そのセンスに俺は感服しましたよ、まったく」

 青島さんはその言葉を無視し、「依頼者は来週、ここにまた来ると言っていた。それまで君がその箱を無くさず、ここに持ってきたら依頼は成功だ」

「無くしたら?」

「さあ? まあ、その日から安心して夜を眠ることはできなくなりそうだな」

 俺はため息をついた。「まったく、とんだ厄介事ですよ」

「でも、君ならいけるだろ?」

 

 そして青島さんは信頼に満ちた眼差しを、俺にむけた。失敗することなど頭の隅でも考えていない視線。俺は思わずその視線にたじろいだ。俺はサヤに視線をやると、気づいた彼女は嬉しそうに微笑んだ。仕事のとき、彼女は口を挟むことはない。邪魔になると思っているのだろう。俺はコーヒーを飲んだ。俺が好きな豆を使っていた。そして目を閉じた。

 

(……いける、ね。青島さんは俺のことを買い被りすぎだよ)

 

 だが、俺は目を開け、頷いた。それが俺の役割だからだ。

 

 青島さんは笑みをうかべ、「ありがとう、これで依頼の話は終わりだ」

「ええ、わかりました」

「さて、と。それじゃあ、堅苦しい話はこれで終わりだ」と、青島さんは話は終わりという感じで手を一回叩くと、ニヤニヤと笑い、サヤを手招いた。「さ、沙耶ちゃん、女子会だ、おいで、おいで。お姉さんが相談に乗ってあげるよ」

 サヤは笑顔を浮かべ「はい、青島さん、聞いてくださいよ」と、いってソファーから立ち上がって彼女の元へいった。

 

 そして彼女は青島さんの耳元まで行くと、囁き声で何かを伝えた。そのたびに青島さんは、

 

「なに? なんだって、そいつはひどい。ああ、それは彼が悪いね」と、相槌を打ち、何かアドバイスを求められたのか、「ほうほう、それはね、まずは酒を飲ませて、酔わせるんだ。そしてこうやって、谷間を見せて……」

「青島さん、変なことをサヤに教えてこまないでください」と、口を挟んだ。

 青島さんは眉間に皺を寄せた。「そんな君こそ、こんな可愛くて健気な子にまだ手を出さないのなんて、頭がおかしいと言わざるを得ない。君は山奥で修行する僧侶か? 神に貞操を誓った神父かね? いや、待って、それではおかしいな。何しろこの子は神父が神に中指を立てて、求婚をするほどの美女だ。これでは君の不能さが説明がつかない。ならば」そこで一度言葉を区切って、「()()()()趣味なのかい?」

 俺は目を細め「いえ、まったく」

 サヤは腕を組んで何度か頷き、「うん、カゲユキは男色じゃないよ」

「ほう? それはまたなぜそんなことを言えるんだ」

「それはですね───」

 

 と、またごにょごにょと秘密会議が始まった。長くなりそうだった。俺はそっくり返り、天井に吊るされたシーリングファンが回転するさまを、彼女たちが話を終えるまで何気なくみつめた。

 

 

 ────魔術師殺し、それが俺の仕事だ。

 とはいっても、そんな物騒な名前をしながら、実態は何でも屋に近い。魔術に関連した依頼はなんでもやるという感じだ。基本の給料は、雀の涙ほど。

 

 だが、歩合制があるため、前回の依頼のように依頼者の懐が暖かければ一晩でまとまった金が手に入ることもある。

 

 ここで、俺は魔術とは何かということを言わないとならないだろう。

 

 魔術というのは、昔語りに出てくるような奇跡ではない。むしろそれは一種の境界線だ。と、青島さんはいう。自然に触れうるものと、観念の領域──意識や存在、認知といったもの──を分かつ線である。ただし、断っておくが、カントが言ったような理性の暴走により発生するナンセンスな命題も、魔術では行使できる。あるいは、もっと言うなら、ウィトゲンシュタインの有名な格言「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」の語り得ぬものが魔術の分野だ。

 

 もしその現象が実験で再現できるなら、それは科学の領分だ。彼女はいつもの冷えた声で言った。「科学は因果を組み立てる道具だ。実験で引き出せない『認識』や『存在』を解き明かすのは無理に近い」と。

 

 女子高校生を強姦しようと男が使っていた魔術はまさしく、被害者の意識そのものを歪ませる類のものだった。アマルの場合、壁という存在を認識させないことで、壁を消した。認識ができないのなら、それは存在しないと同然という論理だ。

 

 小難しいことなので、敷衍すると、要するに、いくら科学でも万能ではないよね、魔術ってすげぇもの扱うよ、ということだ。

 

 一方で、物理法則を無視して目に見える奇跡を起こすだけのトリックを「魔術」と呼ぶ向きもあるが、青島はそれを魔術とは認めない。彼女の言葉を借りれば、それは「マジック」に過ぎないのだという。青島さんには悪いが、俺には前世の記憶があるので、前者もまた魔術だと呼んでいるのだが。

 

 さて、話を戻そう。俺たちはそんな何でも屋の中でも、護衛や行方不明となった人探しを行う。殺人はできればしない。どうしようもない悪人なら殺すことはあるが、気絶までだ。

 

 では、ここで思うのが、この魔術師殺しは公認なのかという疑問だ。答えとしては、グレー。一応この仕事は公認されているが、たとえば、ある魔術師殺しがあまりに法律を犯すと、非合法と認定され、執行人に殺されることになっている。黒に白にもなり得る仕事ということだ。ずいぶん、物騒な世界だが、そういうものなのだ。

 

 そして俺はいま大学を辞めて、この仕事について2年が経っていた。

 

 

 

「ねえ……ねえ、起きて、カゲユキ、青島さんが仕事について話したいことができたってさ」

 

 その声で目覚めると、目の前にはサヤがいた。あとちょっと起き上がったら、唇が触れ合うような距離だった。いつの間にか寝ていたらしい。

 

「どいてくれ、起き上がれない」

「ええ、どうしようかな? もうすこし君のことをみたいな」

「あとでいくらでも見ればいいさ」

「あ、言ったね? あとで、って言ったよね」

「ああ、言った」

「やった」

 

 そして彼女はどいてくれたので、俺は起き上がった。凝り固まった首を曲げようとすると、痛みが走った。どうやら寝違えたようだ。

 

「それで、どうしたんです、青島さん。さっきですべて話したんじゃないですか?」

「ああ、話した。どっちかというと、連絡事項だな」

「連絡事項?」

「ああ、そうだ、連絡事項だ。さっき依頼人から突然電話がかかってきたんだ」

 

 そして青島さんはパイプを深く吸い、吐いた。立ち昇る紫煙をみながら、

 

「二日後に依頼人がくると言っていた。どうやら、話したいことがあるらしい」

 

 と、いった。

 

 

 その後、俺たちは昼ごはんを食べに事務所へ出ようと決めた。青島さんは、カップラーメンを人形の召使に作ってもらって、それを食べていた。サヤが、「一緒にご飯食べましょう」と、誘ったが、首を横に振った。外へ出る元気はないということだった。

 

 俺らはコーヒーを流しに置いて、戸口まで歩いた。そして手をかけた瞬間、後ろから青島さんが、

 

「君のその腕、調子はどうだい」と、訊いてきた。

 俺は取手に離し、その黒い手袋をつけてある手を眺めた。2回ほど握り開けの動作を繰り返し、「これ以上ないぐらい絶好調ですね」と、答えた。

 青島さんは間を置いて、「────そうか。ならいい」と、いった。それから黙った。

 

 俺は改めて扉を開き、扉を押さえたままサヤを先に廊下へ出させた。

 

「なにか異常が生まれたら、すぐに私に頼れ、なにせ、その腕をつくったのは私だ。忘れてはないだろうが、いつでも幻肢痛が襲ってくるように鏡を用意はしておけ」

「わかってます」

「………いいか、私たちの魂というのは脳や心臓に宿るんじゃない、体全体に宿るんだ。一部が切断されたとき、それはすなわち魂が削り取られることだ。まあ、魂がすこしばかり削れても、本来なら何も問題がないが、君のそれは、特殊なケースだ。軽んじるな、わかったな」

「ええ、ではまた」

「ああ、また明後日」

 

 その言葉を聞き、俺は事務所を出た。扉を閉まる直前、俺はちらりと後ろへむくと、青島さんが目を落とし、机へ来たスザンナを撫でているのをみた。憂いたその目は退廃的で、なにか見てはいけないものを見たようで、俺はすぐに視線を前へむいた。それから俺のことを待っているサヤの元へ歩き出した。

 




う〜ん。魔術の説明、自分で自分の首を絞めている予感がある……
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