いざ来ませ、異邦人よ   作:川に揺蕩う論理の箱

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その三

 

 

 ………誰かにあとをつけられている。

 

 そう感じたのは外を出てしばらくしたあとだった。俺たちは、尾行者の存在を気づいていないのように、構わず歩き続ける。

 

「ねえ、君は、何がいい? 私、あなたが行きたいところなら、どこでもいいよ」

「ああ、そう、なら激辛ラーメンに行くか」

「え」

「どこでもいいって言っただろ」

「……うん、言った。………わかった、行こう。私、激辛すごく好きだから」

「バカ、間に受けるな」

「え?」

「だから、冗談だ」

「そうなの?」

「ああ」

「よかったあぁ、心臓に悪い冗談はやめてよ! 私が激辛嫌いなの知っているでしょ」

「そんな軽々しくどこでもいいっていうからだ」

「それはなんていうか言葉のアヤというか、そんな感じのやつじゃん」

「まあ、そうだな、で、どこがいい。俺は、中華料理を食べたい気分だ」

「いいじゃん、中華。どこの店がいい?」

「わからん」

「え〜食べたいって言ったのはそっちじゃん」

「俺は外食をしない派だ。基本、飯は自炊だ」

「でも、面倒くさいなぁって思うとき、ない?」

「あるな」

「ほら、そのときはどうするの」

「食わない」

「へ? 食わない?」

「そうだ」

「……なんという、その、君ってところどころ社会にうまく生きれなそうだなって思うことがあるよ」

「でも、実際生きているぞ」

「そうじゃなくて」

「───なあ、いっそのこと自炊にしないか」

「話を聞いてよ」

「面倒」

「また、そうやっていう」

 

 俺たちは十字路を進み、モダンな雰囲気をしたパン屋で左へ曲がる。人通りが多くなり、鋭い陽光が俺たちの目を突き刺す。車が走る音と話し声。目の前にいる、扇子を仰ぐ腹が出た会社員、遊びに出かけた、タピオカミルクティーを飲んでいる女子ふたり。

 

 俺たちはその間を斜めに体を横にして交し、右折する。人通りは少なくなり、料理店が立ち並ぶ。お好み焼きの匂いが漂う。尾行者の気配はまだする。

 

「いい匂い」

「お好み焼きか、いいな」

「中華料理もいいけど、お好み焼きもいいな」

「でも、自炊できるぞ」

「君って外食をするとき、自炊で、できちゃうか否で決めるの?」

「まあ、そうだな、どうせなら自炊では作るのは難しい料理を食べたい」

「…………」

「なんだよ」

「別に」

 

 俺たちは路地を抜け、ロータリーにつく。楕円形に道路があり、木の葉の影の中にバスが止まっている。歩道はそこを取り囲むようにあり、そこを人々が歩いている。バスのドアが開き、人を吐き出す。最初に降りたのは老婆だった。俺たちはそれに乗るかのように急いで走り出す。すぐさま、背後から慌ただしく走り出す音がきこえた。

 

 俺たちは木漏れ日が差すバスにつき、尾行者の死角へ入った。そしてそのバスには乗らず、バスの前の商店街へ足を振り出す。奇妙に思った通行人は俺たちをちらりとみてきたが、気にしない。商店街の入り口で足を緩め、人ごみに紛れる。

 

 そして俺たちはスーパーに入った。冷気が効いた風が俺たちを撫でる。サヤは積まれたカゴを手に取った。俺はショッピングカートを一個取り出し、見返る。尾行者の姿は見えなくなった。

 

 すぐに気づくだろうな、と思い俺は視線を元に戻し、カートを進めた。俺たちは野菜コーナーで値段を確認しながら、なんの野菜にするかを品定めしていく。

 

「それにしても、よく尾行されていると気づいたな」

 サヤはレタスを手に取り、「だって君、いつもより饒舌だったじゃない」

「言われてみれば、そうかもしれない」

「うん、いつもは言わない冗談も言ったじゃん、あれって、尾行者に油断していると思わせかったでしょ、───これ、どうかな?」

 

 レタスを俺に見せてきた。

 俺はレタスを受け取り、検分していく。

 

「いいじゃないか。サラダでも作るのか」

「うん、まあね」

「結局、自炊するのか」

「そうなっちゃいそうだね、ねえ、どうだった。あんまり手慣れではなさそうだけど」

「ああ、素人だな、というより、尾行者ではなさそうだな」

「ふうん、そうなんだ」サヤはレタスをカゴに入れる。

「そもそも、本当に尾行するなら、あんなバレバレに視線を向けてこないだろう」

「まあ、そうかも、じゃあなんだろう」

「あれはどっちかというと……」

 

 俺はしばらく考える。

 

「いま思ったら、話しかけようとしてくる感じだったな」

「ふうん、じゃあ、悪いことをしたかもね」

「そうだな、だが、どうせすぐくるだろうさ」

「そうなの?」

「ああ、撒くならもうすこし入れ組んだ道を選ぶ。ここに入ったのは、相手の姿を確認したかったからな」

「へぇ、それでいた?」

「いや、まだ」

「じゃあ、しばらくここでぶらつくしかないかぁ。───麻婆豆腐はどう?」

「辛いの苦手じゃないのか」

「まあ、そうだけど、自炊なら辛さを各々で調整できるじゃん」

「たしかに」

「じゃあ、それで決まり?」

「ああ、ありがとう」

「いえいえ」

 

 俺たちは麻婆豆腐の具材を選べながら、俺らのあとをつけてきた相手を待つ。そして具材をすべてカゴに入れ会計のために列を並んでいるとき、相手は現れた。それは女の子だった。歳はサヤと同じぐらいだろうか。肩まで伸ばした金髪で、目は黒かった。マスクを顎まで下げてた彼女は横に立ち、俺たちを見つめると、ネイルをした人差し指で俺を差し、

 

「あなたって沙耶のなんなんですか!」と、叫んだ。

「───な、なおみちゃん?!」

 

 サヤは目を見開き、驚いたように言った。

 

 サヤの親友、中田なおみ。

 

 それが俺たちをつけていた相手の正体だった。

 

 

 会計を済ませた俺たちはレストランにいた。窓際のテーブル席を選び、横へ視線をむけると、積乱雲が浮かぶ空の下、建物があり、向かい側には薬局屋があった。マスクをした人がそこへ入っていく。

 

 頬杖をついた俺は、サヤの友人──中田なおみへ目をやると、彼女は俺を睨んでいた。さながら、家族になったばかりの猫のようだった。彼女の手元には氷とコカ・コーラーに満たされたグラスカップがあった。噛み跡があるストローが差してあった。店員にもらって数十分しか経たないのに、彼女は半分も飲んでいた。彼女はカップの側面を引っ掻くように撫でて、指を戻し、また引っ掻くように撫でていた。彼女の指は水滴が付着し、窓際から差した乳いろの陽光を反射していた。

 

 サヤは俺の隣にいた。サヤはオレンジジュースを頼んでいた。なおみとは正反対で、ジュースを美味しそうに飲んでいた。サヤは俺の視線にきづき、視線をやった。こてん、と首を傾げた。可愛らしい、もっというならあざとさを感じさせるが、彼女なら、それもさまになっていた。

 

 そのさまを見て、さらになおみの視線は鋭くなった。

 

 見渡すと、家族づれだのカップルだの友人だのが楽しく食事をしている姿がある中、俺たちは、破局寸前のカップルが最後の食事をするように、鉛のような沈黙が守っていた。テーブル席に座る男子高校生は、俺を一瞥すると、なにやらこそ話をし、笑っていた。それから俺たちの成り行きを好奇心に溢れた目つきで眺めている。

 

(なるほど、はたからみると、これって浮気をしたクズ男が現場を発見されたって感じになっているのか。いわゆる、修羅場ってやつか。それに、俺は社会人で、彼女たちは女子高校生………)

 

 と、思い、ふむ、これはまずい、と察した俺は口を開いた。

 

「まず、君はとんでもない勘違いをしている」と、いったが、すぐに後悔した。ますます、浮気の言い訳をしている男のようだ。

「………なにが勘違いしているんですか」

「そうだな」俺は言葉をひとつひとつ慎重に選んだ。「一つ目として、君が思っているような関係ではないということだ」

「はい?」なおみは顔を顰め、眉間の皺が地獄の底にように深くなる。

「───それに、二つ目として君が考える最悪のパターンでもないということだ」

「………そうじゃなかったら、なんなんですか」

 

 そこで、店員が注文した品を渡してくれた。俺にハンバーグ、サヤに和食定食を、なおみに唐揚げ定食がきた。どうせ、外で食うなら、家で作れないものを食べたいと思っていたが、あいにくそんなものはこのメニュー表にはなかった。ちなみに、麻婆豆腐の具材が入った袋は俺のそばに置いてある。

 

 去る店員に一言「ありがとうございます」というと、俺はハンバーグを切った。そこから肉汁があふれ、熱した鉄板の上を踊るように跳ねた。肉汁は傍に置かれた黄金色のポテトフライまで流れ、先に触れた。俺は一口サイズに切ったハンバーグを食べ、

 

「どうだろう」と、独り言のようにいった。「わからない、というしかないな」

 なおみは野菜を先に食べ、眉をひそめ「はあ? もう、埒があかないです。沙耶、ね、その男とどういう関係なの、ほんとうにそんな関係じゃないんだよね、というかそんな関係であって欲しくないんだけど」

「うん」サヤは答えた。

「ほんと?」

「うん、そうだよ、……残念ながら」

「残念ながら? え、ねね、あんた、こんな男のことが好きなの?」

「そうだよ」躊躇なくそ答えた。「それより、カゲユキのことをこんな男って──」

「うわあー」と、手を顔で覆って、「やめてよ、やめてよ、まさか沙耶が男を見る目がない、とは思ってなかった。いい? こんな男はね、だいたい下でしか考えてないの。自身がムラついたときしかあなたのことを愛さないわよ」

「ずいぶんないいようだな」俺は口を挟んだ。

「あなたは黙ってください」

「む」

 サヤはその言葉に不愉快げに口を歪ませた。「ねえ、やめてよ、カゲユキのことをそんなくだらない男と一緒にしないで」

「私ね、友達に相談されたことあるのよ、深夜に私の家に駆け寄って、助けって。でも、彼女ったら、青く腫れた頬を痛そうに撫でてたんだけど、全然彼氏のことを悪く思ってないの。『ううん、私が悪いの、〇〇くんは悪いない』って一点張り。なんとか、わけを聞いたら、生理だからエッチはできないって言ったら、ブチギレて殴ったって言ったの。酷いと思わない? もちろん、その男は捕まったんだけど、私そのときの顔を見たら、ホントウにこんな感じの、闇がありそうな顔が整ったイケメンなの。わかる? 私が言いたいこと。こーゆう男は───」

「───ねえ、やめてよ!」

 

 サヤはとうとう耐え切れなくなって叫んだ。その叫び声でレストランにいる客たちの注目を浴び、「なんだなんだ」「修羅場じゃん、やば〜」と、いう野次馬が増えた。俺たちの成り行きを見ていた男子高校生は、この叫び声にビビったのか、「うわあ、こえぇ」と言っていた。

 

 俺も思わずこんな激情をぶつける彼女に初めて見たので、面喰らい、飲んでいた冷水から口をはなし、彼女をみた。

 

 彼女ははっと周りの異変に気づき、立ち上がって、「ごめんなさい、突然大声をあげて」と周囲の人に謝り、座った。

 

 そして店内全体に一瞬静寂が走ったが、すぐに活気が満ちた。

 

 なおみは言葉を失っていた。顔を青白く染まっていき、リップが塗られた唇が細かく震えていた。瞳孔は開き切って、なおみは、

 

「ご、ごめん。沙耶。そんな怒らせるつもりは───」と、言ったが、

 サヤは顔をうつむいて、「……ごめんね、なおみちゃん」と、いった。「でも、私の命を救ってくれた方にそんなことを酷いこと言わないで欲しい」

「え、いまなんて」

「カゲユキとは恋仲じゃないし、セフレでもないよ。これは本当。私は彼に恩を感じて、勝手に世話を焼いているだけだから」

 

 サヤは財布から数えず数枚紙幣を取り出し、テーブルに置いた。それから席を立った。

 

「いこ、カゲユキ」

「───ああ」

 

 俺はこの一連の出来事を、彼女たちと俺の間に限りなく透明に近い青白いガラスに隔たれているかのように、冷然とみていた。なおみがなにを心配しているのか、はっきりとわかったし、逆にサヤがなにに怒っているのかも手に取るようにわかっていた。どっちが悪いとは言い切れない。悪いとしたら、それは間だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。喧嘩の渦中にいるのは俺だというのに、皮肉なことだがそれが事実だった。

 

 俺はサヤの後ろ姿を一度見やった。そしてあることを決心すると、胸ポケットからペンを取り出し、ゴワゴワとした感触のティッシュに電話番号を書き、小さく折りたたんでなおみの目の前に滑らせた。なおみは俺を驚いたように見たが、その頃には俺は彼女に背をむけて、会計を済ましに歩いていた。

 

 外を出た。サヤは駅へむかって歩いていた。俺は急足で彼女に追いつき、

 

「麻婆豆腐は夕飯か」と、いった。

「………そうだね」

「楽しみだ」

「怒ってないんだね」

「…………」

「なんでなにも思ってないの」

「なんでって」

「君は、いつもそうだね、ひどく自罰的」

「一応、言い返しはしたが」

「でも、君は怒ってなかったよね」

「まあ、そうかもな」

「わからないよ」

「気にしてはないからな」

「嘘」

「え?」

「嘘をつかないで、私、そういう嘘嫌い」

「嘘なんてついていないさ」

 彼女は顔を顰めて、「なら、そんな辛そうな顔をしないで」

 

 ───俺は足を止め、前へ待つ不機嫌な彼女をみた。そして俺は、そのとき、前世の記憶がフィルムのように駆け巡った。

 

 風で揺れる濡羽色のつややかな長髪。浮かべる笑顔。誰よりも大切だった愛しき人。それから、彼女が出会ったころに言った『なら、そんな辛そうな顔をしないで』という言葉。不機嫌な顔。すべて一致していた。視界が、濁った。俺は目を閉じた。胸の奥から込み上げるものを飲み込み、表情には出さずにゆっくりと目を開け、

 

「とくに辛い顔なんてしてないと思うが」と、答えた。

 

 しかし、彼女は黙っていた。彼女は俺の瞳をつまらなそうに、憎々しげに、みつめていた。

 

 俺はまずいことをいったか、と思い、

 

「いや、まあ、正直に言ってさすがにあそこまで言われると、まあ気にするものはあるが、大丈夫だ。なんたって、お前の親友なんだ。いい子なんだろう。きっと彼女なりにサヤを心配して言ったんだろう。お前こそ、どうなんだ。なおみさん? と友達なんだろう、大丈夫か?」

 

 と、いった。

 

 返事は、なかった。

 

 彼女は俺をじっとみつめ、ぶっきらぼうに、「私、今日は家に帰るね」と、いい、くるりと踵を返した。俺はその背中を追いかけようとしたが、なぜかその背中を追ってはダメなような気がして、彼女が家へ帰るのを見送ることしかできなかった。

 

 彼女はやがて駅の群衆に紛れ、姿は見えなくなった。

 

 

 俺は家に帰り、麻婆豆腐を作りおえると、外は暗くなりはじめていた。空は動脈から吹き出した血のように赫く染まり、内臓のような雲の側の太陽は目を覆うほど眩しく光っていた。ローテーブルに茜いろのその夕陽の光がさし始め、それは、これから今日という世界が終わり、明日という世界へむけて、準備をはじめているのを予告しているようであった。

 

 ほどなくして夜になり、地へ太陽は隠れた。俺はベッドで横になった。預かってほしいと言われた包帯に巻かれた箱を眺めた。電球の光へかざし、何度か見る面を変えても、変わることはなかった。そこにはただ薄汚い包帯を隙間なく巻かれた箱の面があるだけだ。俺は手を下ろし、横の電話をみた。いつまでもたっても電話は鳴らなかった。かかるとも思っていなかった。ただ、彼女に自身の口で一度話したかっただけであった。そうやって眺めていると、いつしか俺は船を漕ぎ、眠った。

 

 

─────────────────────

 

 

 ………私は車の窓に頭を押しつながら、目を閉じ、考える。とりとめないことを。どうして、私はこんなことを考えているのだろう、と思う。車の車内は冷房が効いていて、わずかに感じるゆりかごのような心地よい揺れに、私は身をまかせた。すると、私に、

 

「お嬢さま、センチメンタルな雰囲気に出して、どうしたんですか、もしかして彼氏さんと喧嘩したんですか。もしかして、体の相性とか? うはははは」

 

 ゲラゲラと笑ってその運転手はいった。彼は私の専属の運転手で、名はエディという。

 

「別に、そんなじゃない。それにカゲユキは私の彼氏じゃない」

「へいへい、すいやせん。ま、お嬢さまって、考えてみたら毎回そんな陰気臭い顔をしているんですもんね。あれ、そうしたらいつも通りか。え? これって余計なお世話でしたか? お嬢さま」

「うるさい」

「おっと、怖い怖い。こいつは失礼、失言デシタ」

「クビにしてもいいのよ」

「クビかあ〜。クビは嫌だな、パチンコ打ってなくなちゃうぜ。でも、こいつもまた余計なお世話ってやつかもしれないですけど、『のよ』ですか? 口調が戻ってませんか、お嬢さま」

「……クビにしてやる」

「うははは、やっぱり合わないですね、その口調。いつもどーり、綺麗な綺麗な、丁寧語でしゃべらればいいのに」

 私は舌打ちをした。この男の軽薄なしゃべりは頭にくるものがある。「………おしゃべりなこと」

「ええ、おれはしゃべるのが好きですよ、無言で運転なんてあくびが出ちまう」

「そのまま寝て死んでしまなさい、畜生が」

「うへ、きっついなぁ、あ、そういえば、前から思ってたんデスけど、あなたって性格が悪いですよね」

「……少なくともあなたよりはいいと思うわ」

「うははは、そいつは間違いねぇ」

「…………………」

「それにしても、あの人と彼氏さんじゃないんっすね」

「………ええ」

「う〜ん、だけど、お嬢さまってほとんど通い妻じゃないですか」

「か、通い妻って」

「うは、照れるんっすか。いいじゃないですか、ラブラブじゃないですか」

「………口を慎みなさい」

「わかってますよ」

 

 そこで、エディは止まり、信号機が青になるのを待つ。そして見返った。ニヤリと軽薄な笑みを浮かべ。

 

「でも、そんな熱心に、アプローチしても靡かないんですよね」

「……あなた───はあ、もう、いいわ。好きなだけ話しなさい」

「ええ、ええ、させてもらいます。でも安心していいですよ、ひとつだけなんで」

「ああ、そう」私は諦めて適当に返事をした。

「で、おれが言いたいのは、そんなの寂しくないですかってことですよ、どうですか? お嬢さま」

 

 私は窓の景色を見ながら答えた。そして昼間の繰り返しのように。

 

「寂しくない。私は彼に恩を感じているから世話を焼いているの」

「───それと、彼のことが好きだから、でしょう? お嬢さま」

 

 私は黙った。が、沈黙こそがその質問の答えだった。

 

「うはははは、いいですね、青酢っぱいぜ、ほんと。………だけど、もし」エディは下卑た笑いを浮かべ、「寂しくなったら、おれが慰めてあげてもいいですよ? おれかなり夜は上手い自信ありますよ」

 

 沈黙が走った。私は彼を見つめていた。エディも爛々とかがやく黄金色の瞳で見つめ返してきた。エディは唇を舌で舐め、湿らせた。その瞬間、信号機は青になった。

 

「エディ、青」

 

 エディは残念そうに前へ向き直し、アクセルを踏み出す。

 

「へいへい。あ〜あ、おれの渾身の告白、フラレちゃったな」

「バカね」

「え〜おれはバカですよ。まあ、そのなかでも特別級のバカかもしれません」

「額でも書いておきなさい、バカって」

「ほおお、バカですか、なるほど、明日までに書いてみますわ、───でも、本当ですよ、お嬢さまがもし困っているなら、手助けをするのもやぶさかなじゃない」

 

 私は目を細めた。この男がここまで、しつこく同じことを言うことはない。もらえる金額以上のことはしない。それが、エディという男だった。

 

「何が目的? 金はこれ以上あげないわよ」

「いえいえ、金は満足ですわ、ジゼン活動というの? まあそうものですよ、お嬢さま。だってあなただって、()()()()()()、実現したいのでしょう?」

「…………」

 

 エディは全身を灰を被ったような男だ。スーツも髪も靴もグレーの色で統一されている。顔の造形はそこそこ整っているが、いささか軽薄さというのが抜けきれないゆるさを湛えていた。強い香水が肩あたりから漂ってくるのを感じた。品性としては欠けるところはある。しかし、それでも彼の運転技術は雇人の中でも随一であり、私たち一家に仕える忠誠心もある。だから、いまだにこの男はクビされていないのだ。

 

「ご当主さまの仇、取りたいですよね?」

 

 重ねてエディは言った。

 

「彼はきっと、いい剣になってくれますよ」

 

 その言葉に私は返事をできなくて。そんな私に苛立って。私は舌打ちをし、窓の景色をみた。立ち並ぶ一軒家が流れていく景色をみながら、私はなおみちゃんを思い浮かべた。

 

 彼女は、私のような穢らわしい金持ちであろうが、普通のように接してくれた最初の人。私に、こんな堅苦しい話し方をやめてもいい、と言ってくれた子。彼女のことは親友だと思っている。それはほんとうのことだった。

 

 ………明日、謝ろう、と私は思った。昨日、あんな態度をとってごめんって、謝ろう。私は目を閉じた。

 

 瞼の裏で浮かんだのは、彼のあのどこか遠くをみつめる眼差しだった。その視線先がいるのは、私ではない。私は唇を噛んだ。その視線先が、私であるならどれほどいいことか。私だけが見てくれたらどれほどいいか。そして冷たいものが心臓に流れ込み、全身に広がるのを感じた。

 

「ねえ、エディ」

 

 私は口を開いた。

 

「なんですか? お嬢さま」

「ほんとうに助けてくれるのよね?」

「ええ、だけど急にどうしたのですか、急に───」

「じゃあ、逃げたらダメだからね?」

 

 エディはバックミラーに映る私もみて、冷や汗を流していた。

 

「…う、うははは。あんた、いま最高の表情しているぜ」

「そう?」

「ええ、ええ、きっと彼もそんな表情されたらイチコロさ。───ああ、もちろん、あんたのためならなんだってしてやるさ」

「そう、それじゃあ、よろしくね」

 

 それがわたし、綾倉沙耶(あやくらさや)とエディの共犯関係の始まりだった。そして、胸の中で私ははっきりと気づいた。藤原景行に対するこの感情が、ただの好意ではないことを。

 

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