俺たちは車に乗り、指定された場所へむかっていた。運転するのは青島さんだった。俺は助手席に座っていた。助けてと言ってきた男はぶるぶると体を震わせながら、後ろの席に座っていた。
冷たい雨が降っていた。フロントガラスに雨粒が打ち、丸く潰れ、ワイパーで端へ連れていかれいく。フロントガラスの両端には絶えず小さな水の滝ができていた。
「それで」青島さんが口を開いた。「聞かせてもらおうか」
「な、なな何をですか」
「そりゃ、君のことさ」
「あ、ああ。な、なるほど。───えっと、その私の名前は、本多武夫です。松枝家に仕える使用人です」
「ほう、松枝家? これはまた奇妙な巡り合わせだな」
「巡り合わせ、ですか?」
「ああ、つい最近、そのお嬢さんの護衛をしていたもんだ、な、景行」
俺は頷いた。前回の依頼で護衛した松枝聡子だ。殺人予告を出されていたが、どうやらほんとうに殺しに来たらしい。
「な、なら話がはやい。じつは今日、わたしはもともとあなたたちの元へ行く予定だったんです。その一昨日、連絡があったでしょう。くるって」
「待って、君、なんと言った」
「え、もしかして連絡が来てませんでしたか?」
「いや、来ていたが、………つまり、君は箱を預かってほしい、と伝えた依頼人あるいはその代行人であるということか」
「そうです、ああ、理解が早くて助かります」
「で、なんでこんなことになっているんだ」
「な、なんでって」
「君はバカなのかね。ここにきて、情報は教えられないとかふざけたことを言うんじゃない」
「で、ですが」
「言え、言うしかないんだ」
本多は体を震わせながら、目を泳がせた。そして深呼吸をすると、言った。
「まず、どこから言ったらいいのか」
「………………」
「そうですね、なぜお嬢さまが襲われているのか、ということですよね。えっと、知っていると思うのですが、松枝家はたいへん由緒正しい家でございまして、多くの事業に携わっております。ケムニシという企業に聞き覚えはあるでしょうか?」
俺たちは頷いた。
「ありますか? なるほど、ありがとうございます。知っての通り、松枝家がオーナーの魔術基盤を作る企業です。魔術基盤はさまざまな場面に使われています。この車にだって搭載されていますし、テレビにだって使われています。とにかく、魔術基盤を使ってない機械を探すのが難しいぐらいでしょう。そんな便利なものですから、競合企業はたくさんいます。そのなかで、私たちをライバル視しているのが、クルップ社です。彼らの力は強大で、すでに他の多くの事業でブランド化に成功しています。そこで終わりなら、よかったですが、それに飽き割らず彼らは事業拡大を目指していました。そこで、目につけたのがこの魔術基盤なわけで、私たちを潰そうと考えたわけです。そしてこれらは彼らのやり方なんですが、徹底的にライバル企業を吸収する、つまり買収をするのがまずはじめの手です。大抵は、それで陥ちるのですが、私たちは財力がありましたし、優秀な方々がいたので、買収されなくても済みました。そこで、次の手が、懐柔です。彼らは───」
堪え忍ぶことができなくなった青島さんは声を荒げて、「わかった、わかった。長い説明はいい、結論だけを言ってくれ。その話を聞いていると、お嬢さんが死ぬ前に、私たちが死にそうだ」
「……わかりました。では、一言で言いますと、クルップ社はあらゆる手を使っても、そのライバル企業が落とせない場合、………暴力に走ります」
「そしていまその最中だと」
本多は頷いた。「ええ」
「……なるほど、お嬢さまが襲われる理由は見当がついた。なら、預かってほしい、と言われた箱はなんだ」
「それは────」
「なんだ、今さら、言い淀むのか」
俺は首だけ後ろへむけた。本多は目線を落とし、貧乏ゆすりをしていた。なにやら言いにくいことがある様子。彼は咳払いをひとつして、答えた。
「───その、すいません、私も知りません」
「なんだって?」
「知らないんです、ほんとうに」
「……そうきたか」
「すいませんすいません」
「いや、お前からすべてを知ることができるとは思ってなかった、むしろ十分だ」
「……………ああ! すいません、黙っていると、お嬢さまが無事かどうかばかり考えてしまう。すいません、お嬢さまのことを話させてください。きっと彼女の笑顔を浮かべる姿なら、大丈夫のはずですから」
「……景行はどう思う?」
「いいじゃないですか」俺は答えた。話をして不安が紛れるのなら、それでいいだろう。
「だそうだ、勝手に話してみろ」
俺たちは黙って、本多が松枝聡子のことを語るのに耳を傾けた。彼女がいかに明瞭とした頭をしているのか、その仕草のひとつ、ひとつの美しさについて、娘でありながらいかに立派なことなのか。それが本多の話した内容だった。
いつしか狭い家並みの景色は広い土地を持った家が立ち並ぶ景色へと変わった。人の気配もすくなった。歩道には急いで家へ帰るロングスカートをした女性や自転車で走る学生がいた。歩道の端には小さな濁った緑いろの雨の流れができていた。俺は義手を撫でながら、その光景を飽きずに見ていた。
つくまでの間、話を終えた本多は、「お嬢さま、お嬢さま、無事でありますように、無事でありますように、ああ、神さま、仏さま」と、ぶつぶつと永遠に繰り返していた。
「ここで、止めてください」と、突然言われて、俺たちはスピードを緩め、止めた。そこはホテルであった。隣にはカフェがあった。閉店中のカフェのドアに雨やどりをしている男がタバコを吸って、ぼうとがらんとした広場を眺めていた。
「ここから真っ直ぐいったところに松枝家の屋敷があります」
俺はドアを開けて、外を出た。冷たい雨が俺の頬を打つ。砂利を詰めたどこまでも伸びる道を眺めた。誰もいない。静かだった。俺は足を振り出すと、後ろからドアが開く音がした。
「景行」
俺は振り返る。青島さんが手のひらを向けてきた。
「箱」
「箱ですか?」
「ああ、箱をくれ、襲撃者はその箱が目的だろう」
「……………」俺はポケットから箱を取り出し、眺めた。薄汚れた包帯は雨で濡れ、青くなる。
「景行」
道理だ。俺はそう思った。この箱を相手を狙っているのは、明らかだった。それでも俺は聞きたいことがあった。
「青島さんはどうするんですか」
「私か」
「ええ」
「私もあとで行くよ、準備することがある」
その言葉を聞いて俺は決まった。
「渡せません」
「なぜだ」
「きっと、あなたならこの箱をもらったら、引き上げていくでしょう?」
「まさか」
「なら、
俺は首を指差した。何もないように見えるが、その首に何かがとぐろを巻いている。ぬらぬらとした感触が首を這う。俺は眼を凝らす。首に巻いている何かの青白く輪郭が浮かぶ。深海魚のような悍ましい蛇に似た化け物だった。化け物は俺の耳のすぐ下に牙をむき出し、食い破らんとみつめていた。
「気づいていたか」
青島さんはとくに驚いた様子もみせずいった。
「ええ、これって死なないですよね」
「ああ、死なない。眠るだけだ」
「最近、睡眠不足だったんで、助かります」
「わかっただろう、箱を返せ」
「だから、箱は渡せないですよ」
「景行、これが最善な行動なんだ」
「最善」
俺はその言葉をぽつりとおうむ返しをした。空虚に思えた。
「ああ、あそこの嬢さんを殺されることはしない。少なくとも箱を手にいれるまでは。それに、無駄に刺激を気を加えてみろ。それこそ、嬢さんを殺しかねない」
「反論の余地もない、正論ですね」
「なら、はやく渡せ」
「でも、できないです」
青島さんは後頭部を乱暴にかいた。
「返せ」
「……こいつを放したら、返します」
「放したら、おまえはどうするんだ」
「彼女を助けます」
「その義理はないはずだ」
「アイスをもらった義理ならあります。それも高いアイスを」
「助けるほどの義理じゃないな、それは」
「いえ、助けるほどです」
青島さんは眼を細め、指がぴくりと動いた。そしてポケットに片方の手を突っ込み、歩き出した。黙ったまま。俺は彼女を視線で追う。広場の噴水まで歩くとくるりと踵を返し、車へと歩き出したとき、
「噛め」と、いった。
化け物は叫び声を上げ、首へ噛みつこうとしてきた。
喉元へ迫る牙。
触れる前に俺はその首を義手で掴んだ。化け物はもがき、手を噛んできた。牙は通らない。ガリガリ、と滑るだけだ。それからさらに力を込めて、その化け物の首を握りつぶした。透明だが粘着性がある体液が義手に張り付いた。俺は手を振って、その体液を振り払い、首に巻いてきた体を引き剥がした。
青島さんは苦笑いを浮かべた。
「呆れた、そいつの噛みつきよりも早いやつなんてそうそういないぞ」
「まあ、俺のことをそんな舐めないでほしいですね」
「それなら最初からその手でいったらよかったんじゃないか」
「こいつ作るのコストかかりそうだなと思ったので」
「なんだそれ」
青島さんはため息をつき、首を横へ気だるげに振る。
「いけ、いけよ」と、ぶっきらぼうにいった。
俺は何も言わず、立っていた。そして青島さんが車のドアを開けて、入ろうとすると、俺は、「青島さん」と、いった。彼女はぴたりと止まったのを確認してから俺は箱を投げた。彼女は受け取った。受け取ったものを確認し、それが箱だとわかると、彼女は笑った。
「こいつを放したら、返しますって約束したんで」
彼女は返事をせず、そのまま車に乗った。そして席を倒し、足をフロントガラス前にあげ、眼を閉じた。ここで待つということだろう。
俺は足を振り出した。道を歩き、松枝邸の長屋門につき、そこを抜ける。和洋折衷の建物が屹立していた。俺は玄関に着くとベルを鳴らした。返事はなかった。音もしなかった。俺は静寂が包む松枝邸の玄関で待つ。もう一度鳴らすと、人影が曇りガラス戸の先から現れ、開けた。
筋肉質の男が俺をちらりと見て、俺の背後の長屋門をみつめた。まるで誰かがいないか、と見極めるかのように。
「誰もいないぜ」
と、俺はいった。
「俺ひとりだ」
「何のようだ」
男はポケットに手を突っ込み、何かを掴んでいた。妙な真似をしたらその『特別なものが』が飛び出て、俺の額に小さな穴が開けるつもりなのだろう。
「なに、聡子お嬢さまに会いにきたんだ」
「聡子お嬢さまだと?」男は眉をひそめた。
「ああ、そうだ、個人的な面識があってな、ここで会おうと約束があったんだ」
「悪いが、聡子お嬢さまはいまはいない。あとで来てくれ」
そして男は曇りガラス戸を閉めようとしたが、俺は足を差し、阻止した。
「おい、その足をどけろ」
「いるはずだ」
「いや、いない」
「なら、どうしておまえの右肩に長い髪があるんだ」
男は肩をみた。そして何もないことをわかると、俺を睨んだ。
「いるんだな」
「ああ、いる。だが、彼女はいま大事なお客さんが来ているんだ。いまは無理だ」
「そのお客さんっていうのはクルップ社だろ? いやもっというなら、その手先というべきか、そうだろうおっさん。クルップ社の手下か?」
「……きさま、どこまで知っている」
「あんたたちが知りたがっていることまでだ」
男は俺を睨み、一度ドアを閉じた。しばらくすると、ふたたびドアが開き、「入れ」と、いった。
そして俺は家に入った。死体が転がる廊下を通り、応接間に通される。強い血の匂いが鼻につき、俺はまぶたが一瞬、痙攣した。聡子はソファにいて、毅然と長い髪をした男を睨んでいた。それからその男は俺に視線をむけた。部屋には彼の手下と思われる部隊が左側で佇んでいた。聡子はその部下に武器がないか確認をとらえている俺に気付き、「なぜここに」と、いったが、俺は肩をすくめる以外、何も言わなかった。
「はじめまして、名前をなんていうのですか」上品な声だった。
「さあ、忘れてしまった」
「それは気の毒に、大丈夫ですか、今からでも家に帰ってもいいのですよ」
「いや、いいさ」
「いいんですか?」
「ああ」
男は微笑んだ。
「座ってください、いいでしょう、松枝お嬢さま」
聡子は俺を見ていたが、その言葉で視線を戻し、「ええ、大丈夫です」と、いった。
俺は彼女の隣に座ることにした。男は手をあげる。部下たちは応接間を出ていき、襖を閉じた。血の匂いが充満する部屋で残ったのは、俺含めて三人だった。
「さてと、どこまで話しましたっけ」
男は仮面のように微笑みを貼りつけたままそういった。俺は義手の腕を撫でた。冷たく硬い感触がした。
───────
その男の名は、トマス・シュタインと、自身の名前を語った。長い茶けた金髪をかきあげ、銀色のシガレットケースから葉巻を取り出した。そしてカッターを取り出した。葉巻の頭を刃に当てて、
「この国はいいところです」と、いい、葉巻を切った。流暢な日本語だった。
ぼとりと葉巻の頭が落ちる。聡子はそれを見て、先ほどの光景が甦り、吐き気を覚えた。トマス・シュタインはマッチに火をつけて、葉巻に火をつけようとしながら、
「綺麗な道、綺麗なトイレ、すべてがクリーンで、秩序が保たれている。なにより死体がない。いい国の証拠です。もちろん、いわゆるスラム地帯と呼ばれるところにいったら、まあ死体、クスリぐらいはあるでしょうが、それでも他の国と比べたらマシです。どうです? あなたたちも、そう思いまいせんか」
「トイレが綺麗という点には賛成できるな」
聡子の横にいる景行が答えた。
トマス・シュタインは火をつけた葉巻を口にくわえ、嬉しそうに言った。
「でしょう、でしょう。じつにいい国だと思います。私の社長はこの国をきらいだ、と吐き捨てていましたが、私はこの国が好きです。一度この国に住もうか、とも考えたぐらいには好きです。もしかしたら私が派遣された理由はそのせいかもしれませんね」
「なんだ、さっきまで日本の良さでも喋ったのか、それがここに来た理由か? それにしては──」
ずいぶん、派手なことをするものだ、と景行は視線を周囲に回して言った。
「いえいえ、まさか。もちろん、ここに来たのは商談です。ビジネスですよ、ビジネス。ですが、彼女はまあ、こんなショッキングの様子を見せたせいで、全然口を開いてくれないんです。そこで、アイスブレイクということで、この話を振ってみた、という感じです。ああ、そうそう、だからあなたが来てくれて助かりましたよ、なにしろ話が進みます」
「ふうん」
「そうですね、ここに長くいるのも失礼でしょう。話ははやく済ませたほうがいい、そうでしょう?」
景行はちらりと聡子をみた。聡子は自身の手ばっかり見ていたので、俯き、髪は帷のように彼女の表情を隠していた。だが、それでも聡子はその視線に気付き、力なく、頷いた。
「俺もそう思うよ」
トマス・シュタインは一度煙を吐き、間を開けた。そして、
「箱の場所を教えてください」と、いった。
「箱か? 箱ならここにいくらでもあるのだろう。ここじゃなくても、百貨店にいっても買える」
「たしかに箱ならそれで買えますね、ただ私が欲しいその箱は店に売ってないんですよ」
「へぇ、そうかい。そいつは悲しいもんだな」
「ええ、悲劇的と言ってもいいです」
「それで、その箱はなんなんだ。俺はあんたと長年添い遂げ来た妻でも夫でもないんだ、アレだ、アレ、と言われてもわからないんだよ」
「おしゃる通りですね、そうですね、その箱はとても特別なもので、魔術が施されています。その魔術こそがその箱の本質、つまり一番大切な部分であるのです。私たちはその箱を手にすることができれば、私たちがいま目標としているものを達成することは可能なのです」
「そいつはまた大層なものだな」
「ええ、そうですね、大層。ええ、大層なものです。あれにはひとりの魔術師だけではなく、多大なる魔術師が集まって作り出した技術です。あの箱に詰まった魔術は、ある種の革命です。あれをものにした人はまさしく、この魔術技術の革命児になれるのです。わかりましたか? これが私が求めている箱なんです。そしてあなたたちはその箱の場所を知っている。そうでしょう?」
「さて、どうだが。俺は最近、忘れっぽいところがあるんだ」
「ほう、それは、それは」
トマス・シュタインはまた仮面のように微笑みをはりつけた。葉巻を口から離し、腕をだらりと脱力させた。そして唐突に、
「今日は冷えますね」と、いった。
「は? まあそうですね」
「ええ、冷えます、とても寒いです。こんな日には、幽霊が出るとは思いませんか」
「幽霊は信じないタチなんだ」
「それは残念。松枝お嬢さまはどうですか?」
吐き気が治った彼女は顔を上げた。そして口を開き、「わたくしも信じません」と、いった。
「あなたたちは幽霊を信じない方たちなんですね。なるほど、わかりました。では、ここで、私の実話を交えた怪談をひとつしましょう。どうでしょうか、もしかしたら、何気ない会話が忘れたことが思い出すきっかけになるかもしれません」
景行たちは黙って、相手が話すのを待った。
「それは、そうですね、まさしくこんな雨が降って、夏なのに寒い日でした。私はその当時は日本に旅行中でした。旅行していたのは東京です。私は友達と一緒にホテルに泊まっていた。名前は覚えていません。たしか、ホワイトレインとかそんな名前だったような気がします。とにかく、私たちは酒をひどく飲んでいたので、ふらふらと千鳥足でした。私たちはそのホテルのチェックアウトを済まして、自分たちの部屋へそれぞれ行きました。それから無事にとくに何もなく自分が予約していた部屋につき、そこでベッドで寝ました。
ここまでくると、何の変哲のない話ですが、ここから話はおかしくなってきます。それは私が吐き気に襲われて、目覚め、トイレで嘔吐したときでした。吐瀉物がたまったトイレを流し、酸っぱい口をミネラルウォーターでゆすぎました。それからトイレを出ました。すると、まず気づいていたのは、部屋の配置が変わっているということでした。ものが置かれている場所が変わったという次元ではありません。たしかにクローゼットがあった場所にはベッドがあって、ベッドがあった場所にはバロコニーにつながる硝子戸があります。そんな感じで、そもそも部屋の構造そのものが変わった、という感じです。気が狂ったわけではないと思います。私はこれ以上ないぐらい意識が明瞭としていましたので。
さて、私は最初、魔術の仕業か考えました。でも、魔術が使われたという痕跡はない。はて、そうなるとおかしいな、ならこれはなんだと思い、怖くなってきました。私は玄関をなんとか見つけて、カードを手に取って、外に出ました。ふと、この部屋番号が何か確認しましたが、たしかにそれは私が予約した部屋番号でした。
私はいよいよ恐怖に気が狂いそうになり、カチカチと歯が音を立ててながら廊下を走り、友人の部屋を行こうとしました。そこで、気づいたのが、このホテルの部屋番号が、普通のようにきっちりと一から順番に数えられていなく、バラバラだったのです。私がいたのは5階だったのに、6号室の部屋や2号室の部屋、などとにかくバラバラでした。おかげで私は友人の部屋を探すのにひどく苦労しました。十五分ぐらいは探した気がします。もしかしたら、それ以上かもしれませんし、それ以下かもしません。それでも体感としてそのぐらいでした。
私は乱暴に友達の部屋のドアを狂ったように叩きました。しかし友人は出ません。躍起になって私はドアノブに手をかけると、そのドアには鍵がかかっていませんでした。カード式なのに、ですよ。しかし、私はそんなことを気にせず、友人の部屋へ入りました。そして私は叫びました。なぜだと思いますか? それは、その部屋に友人はいなく、バルコニーにつながる硝子戸にはまたひとつドアがあるのです。私はもうどうすることもできないので、私はその文字も書かれていないオークのドアを開けると、また同じような構造をした部屋がありました。もちろん、オークのドアはありました。また開けました。再び同じような構造をした部屋があります。いよいよ埒があかない。
私は諦めました。たしかに怪奇現象というべきものは発生してますが、それは私の命に関わるものではありません、幸い、どうやら建物そのもの構造は変わっていないので、ここに永遠にいるというわけではありません。私はこの状況に恐怖をしなくなって、踵を返し、自室へ戻りました。そしてドアへ手をかけようとした瞬間、ふと視線を感じて、そこへ視線を向けました。そこには友人がいました。私は声をかけました。しかし、返事はありません。私は彼に近づき、声をかけました。肩に触りました。そして私はそこで悟ったのです。彼がここでじっと立っているのは、ずいぶん前に死んでいたからでした。
私はこのホテルを逃げました。どうやって私は逃げられたのはわかりません。ただ、あとにそのホテルについて調べましたが、たしかに存在してましたし、とくに殺人事件が起きたわけではありませんでした。私の友人が行方不明となった。それだけが事実でした。───思い返してみたら、あれは何か幽霊のような超自然的なものが襲ったのではないか、と私はいまでも強く信じています」
トマス・シュタインは葉巻をくゆらせた。
「これで、話は終わりです、どうです、怖いものでしょう」
「怖いというより奇妙だな」
「そうですかね、まあ、いいです。この話をしたのは、ある話をする前ふりですから」
「ある話?」
「ええ、とはいっても短い話です。教訓と言っていいでしょう」
「この話がどんな教訓につながるか見ものですわね」聡子が言った。
「まあ、そんな高尚なものではないです。話の根本はなぜ、私はこんな恐ろしい目にあったのか、という点です。ホテルに入ったから? 違います。酒をえらく飲んだから? 違います。私がこんな恐ろしい目に遭ったのは、私が部屋の構造に気づいたからにほかにならないです。いいですか、世の中には、知らぬが仏とことわざがありますが、もし私はこのようなことに気づかず、寝ていたのなら、私はこんな目に合わなかったのです」
「……あなたが言いたいのは、世の中には気づかない方がいいということなんですか?」
聡子は理解ができないという感じでトマス・シュタインをみた。
「ええ、そうです、まさしくおしゃる通りです。さて、どうでしょうか? あなたたちは何か思い出しましたか? いいですか、世の中には『気づかない方がいいもの』があるのです」
景行たちは答えなかった。
景行は席から立ち上がり、ガラス戸の先の庭をみた。トマス・シュタインを見下ろした。心底気に入らない、と目が歪んでいた。
「いいや、まったく」
「なるほど、松枝お嬢さまはどうですか」
「残念ながら」
トマス・シュタインは背を椅子へもたれさせた。
「そうですか、それは残念です」
そしてトマス・シュタインはふたたび腕を上げ、静かに振り下ろそうとしたとき、
「俺がおまえのことが気に入れない点がふたつある」と、景行がいった。
トマス・シュタインが途中でやめ、微笑んだ。
「なんでしょうか?」
「一つめ、自分こそが一番正しいと思ってるその態度。二つめ、これが何よりのことだが」
そこで、間を置いて、景行はいった。
────おれはおめぇみたいな地獄もお断りのクズが大嫌いなんだよ。
トマス・シュタインは微笑みを保ったままいった。
「それだけですか」
景行は笑った。
「殺してやるよ、ナルシスト」
その瞬間、銃声がバン! と部屋のなか、聞こえた。