深山幽谷、朝靄がかかる景色と薄い空気の中で、二つの人影が向かい合っていた。
油断なく拳を構え身構える二人。一方は髪で二つ団子を作った幼い少女、もう一方は身の丈六尺を超える屈強な男である。
先に仕掛けたのは男の方だった。
力強く地を蹴り、一瞬で少女に肉薄していくと、その薄い体に向けて拳の一撃を叩き込んでいく。
轟、と風を切る音がし、大木すらも叩き折れるのではという錯覚までしそうな凄まじい拳風を伴った一撃。
しかし少女は慌てる事も無く足を動かすと、半身になっただけで軽々といなしてしまう。
男の方もそれを予測していたのか、その動きは止まりはしなかった。
更に左拳を、引き寄せた右足を、そして後ろ回しに左の蹴撃と、四肢の全てを使い次々と攻撃を繰り出し、少女へと向かっていく。
しかしそのどれもが掠る事も、体勢を崩す事すらなく軽々といなされてしまい、次の瞬間には少女が反撃の掌打を見舞っていた。
少女と比べて倍近くは体格差のある男が、彼女の一撃を受けて後方に弾き飛ばされてしまい、そのまま後ろにあった木の幹をへこませていった。
「ぐあっ!?」
「まだまだ動きが荒いのう小鳳。朝の鍛錬はこれまで。わしは朝餉を作ってくるゆえ、後は好きにせい」
少女が口元に指をあてると、クスクスと笑う。
「はっ、はい蓮花様……あいたっ!」
「たわけ。師父と呼べと言っておるじゃろうが」
小鳳と言われた男がそう返事をすると、今度は蓮花と呼ばれた少女から木の実が投げられて、彼は頭に当たった痛みに呻いてしまった。
見た目だけで言えば兄と妹、あるいは父と娘だろうという二人。しかし、どうやらそうでは無いらしく、少女が男の師であろう事が窺えるやりとりだ。
そうして蓮花と呼ばれた少女は、男──小鳳をその場に残し、言葉通り朝食を作るためかその場を後にしていった。
「ふぅ、相変わらずの強さだ。まだまだ届きそうにも無いな」
その言葉には悔しさや焦燥は見えなかったが、少なからず自身の未熟さを感じての呟きだった。
だからなのだろうか、師である少女の言葉通りに、小鳳は一人、技を磨く事に集中していく。
何年経ようとも、未だに届かぬ師へ少しでも近づくために。
そして、それこそが自身にとっての喜びだと考えているかの如く、迷いなく拳打と蹴撃を放っていく。
その間も彼の脳裏に思い浮かべられているのは、師である蓮花ただ一人の姿なのだった。
§§§
小鳳が蓮花に弟子入りしたのはおよそ十年ほど前。彼がまだ十歳になるかならないかくらいの子供の頃だった。
母の行商に付き従い各地を回っていた時、賊に襲撃されていた所を偶然蓮花が通りがかり、小鳳を助けたのが二人の出会いだった。
小鳳は蓮花の姿を認めた瞬間、逃げろと叫んでいた。当然の反応だった。
母は己を庇って命を落とし、自身も殺されるか奴婢になるかと諦めかけていたのだ。
己と変わらぬ幼い少女など新たな被害者にしかなりえまいと考えたのは、なんら不思議な事ではなかった。
しかしそれに反し、蓮花がからからと笑って賊に近づいていくと、瞬きする内にその全てを叩きのめしてしまったのだ。
彼の目に映るのは、幼くも美しい少女が軽々と屈強な賊たちをあしらっていく光景。
拳を振るえば大の大人が吹き飛び、舞う様に空中へ跳躍し足を一振りすれば、悪党はその体を地に沈めていく。
小鳳は目の前の出来事が現実とは、到底思えなかった。
そしてあまりの事に呆然としている間に事態は収束し、気付けば辺りは倒れ付した賊たちで埋め尽くされていた。
叩きのめされた賊の中心には一人佇む可憐で儚げな美しさを放つ少女。
それが小鳳の初めて見惚れた師の姿だった。
母の死を目の当たりにした時は悲しかった。賊に襲われた事が恐ろしかった。
そんな自分を救ってくれた蓮花の佇まいは、彼の中で女神の様に輝いて見えた。
母の躯をその場で弔い、親切にも町へ送ると言われた道中、小鳳は思わず彼女に申し出ていた。
貴女の弟子にしてください、と。
己と変わらぬか、下手をしたら年下の相手に武術を教わろうなどと、以前の小鳳からすれば馬鹿な話と笑っていただろう。
だが小鳳の中では、目の前の存在は少女である前に圧倒的な力の持ち主になっていた。
何よりその戦う姿は美しく気品があり、そしてどこか優雅な物。
まるで天女が舞うかのようなそれに、小鳳の胸中に今まで感じた事の無い憧れが去来するのも当然だった。
その一方で、蓮花の胸中にあった物は困惑だった。
成り行きで助けた相手から思いがけず真摯な頼みをされてしまったのだから、こちらも当然と言えた。
武技を修めた身として弱きを助け悪を挫くのは当然であり、感謝はされる程の事でもないとすら考えていた蓮花。
こんな幼い男児が母を亡くし、自暴自棄になったか或いは狂気に落ちたのかとも思ったが、しかし小鳳の瞳に宿る意思を見れば、それは早計だとすぐさま思い直す。
そして真っ直ぐに己を見つめてくる瞳の輝きを好ましく感じ、ならば自身も真摯に向かい合わなくてどうすると彼女の内が囁いていた。
『こうしているのも何かの縁であろう。そなたがそれでよいのならばわしは構わぬが、師事するというならば手加減をせぬ。そなたにわしの修行は辛いと思うぞ? それでもよいか?』
『はいっ!』
『そうか……ならばそなたの心意気はしかと受け取った。その想い、このわしが叶えてやろうではないか』
その時の小鳳からすれば、蓮花の言葉はどこか演技染みた物に見えていた。
鈴を転がす様な声と年頃にそぐわない古風な喋りも相まって、芝居を見ているかのようではあったものの、それ以上の安心と信頼を彼の心中に抱かせた。
しかしその次に伝えられた言葉で彼は混乱し、思わず叫ぶ羽目になる。
『ちなみにわしは二百を超える婆じゃ、其処のところは早う理解せい。よいな?』
『……にっ、二百ぅーっ!?』
§§§
そんな師弟のやりとりがあった事を思い出しながら小鳳が一人鍛錬に打ち込んでいると、やがて蓮花が朝食を作り終えて戻って来ていた。
「出来たぞ小鳳。冷める前に……って、いつまでやっておるんじゃおぬしは」
小さな身体で小首を傾げる仕草をする少女は見た目に違わぬ幼さを見せてくるようでもある。
「はい、蓮花様。もう少しで切り上げますので」
「だめじゃ。さっさと食えい。おぬしへの薬膳が冷めてしまうではないか!」
蓮花がどことなく母親じみた叱るような仕草をすると、小鳳の目の前まで近寄ってその鼻をつまんでいた。
「わかりました、わかりました師父。今着替えて来ますから」
「そのままで良いから早うせい」
「ですが汗臭いままでは……」
「わしがよいと言っておる。その汗もおぬしが努力した証じゃ」
「分かりました、では」
蓮花に押し切られ、背を押されながら小鳳も庵へ戻っていく。
背中には師である蓮花が何故かくっつくように張りつき、当たってくる体の柔らかさと感じられる体温、そして花の様な香しい匂いが小鳳の中に届いていった。
「今日はいつもより濃い匂いじゃのう……よく頑張っとるの、小鳳や」
「……恐れ入ります」
小鳳の言葉のさなか、蓮花が鼻を鳴らしているのに気が付いた。
匂いを嗅がれていると認識した時、心なしか恥ずかしくなり小鳳は顔を赤らめてしまう。
「ふふっ、何を照れておるのだ小鳳よ。これしきで顔を染めるなどまだまだ可愛いところもあるではないか」
「臭いを嗅がれるなどと誰だって恥ずかしいと思うのですが……」
「可愛い弟子の匂いなど臭くはなかろうよ」
「あれから幾年経とうとも、"小"鳳呼ばわりは変わりないのですね……」
愚痴の様な言葉を零す小鳳だが、しかしどこかに嬉しさも滲み出ている。
出会った頃こそまだ年少の子供で、その扱いは当然の事だと彼にも理解していた。
しかし成長するに従い、小鳳が十五を超える頃には蓮花はおろか、大人も目線を上にする背丈になり、周りを圧倒させるほどに育っていたのだ。
それからも鍛錬を重ねて二十を超え、無駄なく鍛え続けられた体は一回り大きくなり、並みの者では彼に比することすら難しいほどだ。加えて彼の顔つきは凛々しく、精悍さと若々しさを兼ね揃えてもいた。
時折町に下りれば、女達は小鳳を見かける度、我こそはと群がっていく程の男ぶりに成長していた。もっともその熱狂ぶりを小鳳は何故?と首を傾げ続けていたが。
にも関わらず、蓮花は未だに弟子を"小"鳳と呼ぶ。まだ彼が童だった当時のままに。
いくら成長した所で彼女からすれば未熟な弟子で、あるいは弟や息子のようにしか見えていないのだろう。
それも当然と言えば当然なのかもしれないが、小鳳からすれば不思議と心地の良い物ではあった。
「…………すぅーーっ、はぁーーっ」
蓮花が鼻から大きく息を吸っては吐いているのが小鳳の耳にも届く。
「ふふっ、今日は一段とよいぞ、おぬしの匂いは」
「……蓮花様」
その言葉をどう受けとめればいいのか、小鳳は困惑した。しかし、当の蓮花は気にせず言葉を続ける。
「師父と呼ばんか、師父と。呼ばんなら……こうじゃ! くすぐったかろう、わっはっはっ!」
「ふふっ、はははっ!やめて下さい蓮花様!分かりました師父!降参です!」
師から弟子に仕掛けてくるくすぐりの応酬。共に笑顔になりながら、しかし何処か恥ずかし気な様子を互いに隠すように二人は笑い声を上げていた。
蓮花の用意した薬膳を受け取り二人で食卓につくと、小鳳が粥を口に運び、その様子を蓮花が眺めていく。
「あの、何か……?」
「くふふ、何もありゃせん。おぬしが美味しそうに食う姿は見ておると心地よくてのう……立派に育ってきたものよ」
見つめてくる師の目線の先は何故だろうか、顔ではなく体に向かっている気がする。
しかしそれは勘違いだろうと小鳳は考え、目の前の薬膳へと集中していった。
「あの時はすぐに音を上げるだろうと思うておったが……立派に成長してくれたわ」
そう語る蓮花だが、小鳳からしてみれば蓮花との生活に幸福を感じていたので、それに対して何か不服があった事はない。
母を喪ってからというもの、身寄りも何も無くなった自分に対し、まさに師の如く父の如く、親代わりに接してくれる存在で、時には姉の様に優しく育ててくれたのだ。
武の修行と言えばそれまでかもしれないが、だからこそ此処まで技を磨きあげるまでやってこれたのも、蓮花のそんな優しさや厳しさのおかげだと常々感じていた。
「いえ、それも師父がここまで私を指南してくれたからでしょう。それに私こそこうして師父と共に暮らせて良かったと思っています」
「そうかそうか、……もうそろそろ頃合かもしれんと思えてならぬなぁ……。小鳳よ、おぬしもそろそろ妻の一人でも娶りたいと思わんのか?」
「えっ?いえ……私などまだまだ未熟者です。そのような事は」
蓮花から出た思わぬ提案を否定し、しかしそれ以上何も言わぬまま小鳳。
膳を食べ終え後片付けをした後、すぐさま己のみで鍛錬していく。
師より教わった基本となる術は既に修め、後は鍛え方次第。それを知っているからか蓮花もそれ以上は声をかける事なく、好ましく微笑みながら自身の部屋へと入っていった。
──蓮花様が用意する食事は少し変わっただろうか、と小鳳はそんな事を考えながら站樁に打ち込んでいく。
普段は決まって粥に野菜や魚、それに山で採れる薬草や香草を効かせたものが出されていた。
だが、昨晩や今日の朝食と言った食卓では獣肉が多めになり、しかし、それ以上に使われているだろう香草や薬の味と匂いに戸惑っていたのだ。
とはいえ小鳳の舌に合わない訳ではなく、むしろご馳走とも思えるくらいには美味な為、あまり気には留めずそのまま食べていた。
が、どうにも体が火照り気分的には高揚としてしまう。小鳳はそんな感覚を覚えていた。
「すぅ……ふぅー……」
浅く長く呼吸をしながらも、時折鍛錬とは別の感覚が吐息と共に小鳳の身体に流れていく。
(落ち着け……精神を落ち着かせるんだ。これも修行と思え)
己の身体に起こる感覚を落ち着かせるよう意識し、心を穏やかにしようとするもそれは上手くいかなかった。
站樁から套路に移り、拳打と型を繰り出していく。だが打ち込めば打ち込む程、頭の片隅にちらつく何かを振り払うことが出来ない。
焦燥にも似た感情を振り払おうと拳に力を乗せれば乗せる程、それはより一層鮮明になり、小鳳は自らの内心でそれに負けぬようにと更に力を込めた。
「ふんっ! はっ! はあぁっ!」
「なんじゃ、今日は荒ぶっとるなぁ小鳳」
「はっ!?蓮……師父、如何なさったのですか?」
小鳳の前に蓮花が姿を現すと、その可憐で美麗な姿に思わず息を止めてしまった。しかし直ぐに我に返り平静を装っていく。
「なぁに、おぬしが随分頑張っておるから、ちと労ってやろうかと思ってのぅ」
「ありがとうございます。ですがまだ疲れてはいませんので、もう少し鍛錬させて頂きとうございます」
蓮花から労われる事は嬉しく、だがしかし、修行はまだ不充分と思っていた小鳳がそう伝える。
それでも蓮花は首を振ると彼を呼び寄せた。
「小鳳や、少し休むことも必要ではないか? ほれ、腕も脚もおぬしが思ってる以上に硬くなりすぎているではないか。……ふむ、だがこの熱、血の巡り……ふふふ」
少女らしい白い細指が、筋骨逞しい小鳳の腕や太ももに当たり優しく撫で回してくると、見た目は十程度にしか見えない美しい師からの接触は小鳳の中の何かに火をつけてしまう。
それを表面上に出さぬよう堪えつつ、しかし触れられる手から伝わる彼女の体温を感じれば感じる程に小鳳の中の男は昂ぶっていった。
「中に戻って体でも揉んでやろうかの。普段とは逆じゃな」
「えっ、いや、それは……」
「おや、わしが揉んでもおぬしの疲れが取れるとも思えんか……? わしなんぞでは駄目か……?」
「い、いえっ!ありがたくお受けします師父!」
眉尻を下げる蓮花の寂し気な声に、慌てた様に返事をしていく小鳳。
それを聞くと、蓮花は彼に見えぬ様にニヤリとした笑みを浮かべ、その手を引いて中へ連れこんで行くのだった。
リハビリと三人称とバトル練習