魑魅魍魎が巣食い、そして仙人と龍が住まうと謳われる龍輝山とその天険を望む町、龍門。
行き交う人々の喧騒に包まれた市場は、今日も変わらず活気に満ちていた。
人の波をすり抜けていくのは黒髪を後ろに流した一人の総髪の男。
周囲の人間よりも頭一つ抜け出た長身に、鍛えに鍛えられた鋼の様な、しかし無駄に太くない絞られた肉体も手伝い、ただそこにあるだけで威圧感を放っている。
その偉丈夫の名は小鳳。彼の本来の名は黄元鳳であったが、師からはいつまで経っても小鳳と呼ばれ、いつしか彼自身もそう名乗るようになってしまっていた。
「さぁさぁ、うちの饅頭は美味しいよぉ!」
「出来たてだよ!そこのお姉さん!寄ってって!!」
「こっちの魚は取れたて新鮮だよ!買って損無し!いや、買わないと損だ!!」
屋台や行商が軒を連ね、呼び込みの声が至るところから聞こえてきては、様々な場所から届いたのであろう品物を求める者で溢れていた。
(……今日は思ったより混んでいるか。さっさと買い出しを済ませなければ)
小鳳は人混みの中を少しだけ顔を顰めながら歩いていた。
人より一歩引いたところで暮らしてきた者にとって、人ごみというものは苦痛以外の何でもない。しかし彼にとってはそう言った事は無く、それ自体はどうと言うことも無かった。
ただ一つ厄介と言うのであれば──。
「ねえお兄さん!うちの野菜買ってきなよ!」
「いーや!そんな店よりこっちの方がずっといいよ!おまけだってしてあげる!」
「こらあんたら!小鳳に付きまとうんじゃないよ!……ねぇ?こんな煩い所よりウチの店に来て一杯どうだい?」
(知らなければよかった事というのは本当にあるのだな……)
市場の活気とは別に、小鳳へと熱烈に声を投げかけていく若い娘達。それだけではなく、それなりに年を食った既婚と思しき女も混ざっている。
小鳳の脳裏に過ったのは、師である蓮花から教えられたこの世の理。
男が女を見初め褒めそやすのではなく、女こそ男を見初め求めるのだと彼女は語っていた。
だがそれを未だに半信半疑で捉えており、そんな事はないだろうといつもの様に町に買い出しに山を下りてみれば、小鳳はその光景に唖然となってしまっていた。
小鳳が通れば、どこに居ても見目麗しき町娘や商売女、或いは人妻ですら彼を見るなり色めき立ち、その身に宿す匂いを全身から撒き散らしながら誘い込んでくるではないか。
知る前であれば煩わしいと思いつつも気に留めていなかったその態度。ただの客引きと思い、柳の如く流していたのもあって囲まれる事もなかった。
だが、常識であると教えられた今では、その全ての意味を察することが出来てしまう。
今やそれらの誘惑に対して、小鳳はどう対応すればよいのかと頭の中でぐるぐると考えるばかりであった。
「い、いや、私は用事を済ませなければならなく……」
「そんな事言わないでさぁ」
「そうそう!ちょっとだけでも寄ってっておくれよ!」
「ほーらぁ……うちの店は涼しいから多少激しくても……ね?」
龍門の町だけに限らず、この世界のどこに行こうともこうした事が繰り返されているのが現実だった。
無論、他に男の姿が無い訳でもなければ、同様に声を掛けられる男がいない訳でもないのだが、それを差し置いても小鳳に投げ掛けられる色欲の視線の数は凄まじく、また彼へと近づこうと動いていく娘の数はそれ以上の物があったのだ。
実に悲しきは小鳳の生真面目さか。真面目の文字の上に汚い一文字が付け足せる程度には彼の性根は誠実だった。
それ故に彼はこの状況でも逃避するわけでも、突っぱねるわけでもなく、ただ相手を不快にさせない様にと言葉を選びながら真摯に対応しようと考えていた。
その態度がまた新たな娘の好意と欲望を引き寄せてしまうとの考えにも至らずに。
「だ、だからですね皆さん……近っ、近いですって!」
「良いじゃない減るものじゃなし、ちょっとくらいさぁ~」
「うひひ……いいねえ……。前みたいな澄ました顔も良かったけど、照れてる小鳳さんも素敵じゃないか」
「あーもぉ!あんたらどきなって!小鳳は私が見つけたんだからね!」
そうして動きを止めた小鳳に群がる様に集っていく若き乙女達。年齢こそ様々で未だ幼子と見まごうばかりの少女が混じっているのは、見る人が見ればどう思うのだろうか。
しかし、そんな事など知らぬ存ぜぬと、彼女達は滅多に姿を見せぬ美男子へと、己の好奇心と欲望に忠実な姿勢で接し、手を握ったり抱きついたりと実力行使を行っている姿があった。
本気で逃げ出さないとならないか。小鳳がそう考え始めた時、彼らの人だかりよりも少し離れた先で騒ぎがあった。
悲鳴に似た声と共に、大きな破砕音と何かがぶつかる鈍重な音。
剣呑な音に小鳳が目を向ければ、視線の先では酒飯店から一人の女が転がるように店から出てくるところであった。その顔に恐怖を色濃くした表情を浮かべ、体を引き摺りながら。
それを追うように店の中から机と思しき残骸が飛び、それと共に現れた大きな女の姿に周囲は静まり返っていく。
身の丈六尺に届こうかと言う程に高い背に、荒事で鍛えたのだろう魅せる物ではなく戦う為の肉体。整った顔立ちながらも、体同様に荒々しい物を醸し出す雰囲気がその女を包み込んでいた。
「こんな不味い酒で金を取ろうなんぞ、ふざけんのも大概にするんだね。おまけに文句を言ったら警吏を呼ぶだ?はんっ!」
店から出てきた女の吐き捨てた言葉と同時に踏み抜かれた轟音に、周囲からも悲鳴があがる。
地面に打ち付けられた踵で砕けた砂利が舞うと、それが止む頃には女を止める者など誰も居なかった。周囲の者は皆その様子をただ眺めるだけしか出来ないでいる。
「おまけにこの店の娘共の態度は何だ?客に酒を持ってくるのは遅ければ男の客に尻を振りに行く。なっちゃいないんだよ!どう落とし前付けるってんだい!?」
「そそ、そんな……代金をいただくのは商売で……」
「ああ!?」
「ひいいいいい!!」
怒号一発に、店主か従業員であろう中年女は震えながら後ずさる事しか出来ない有様。
その様子を見れば、流石に小鳳としては看過できずに一歩踏み出す。
「そこまでだ。あまりにも無体ではないのか」
「あん?なんだいあんた」
「誰でもいい。店に失礼な行いがあったとしてこれほどの事をする謂れがあろうか」
「へっ、生意気な口聞いてくれるじゃないか兄さん。どこのどいつだか知らないけどね、邪魔すると──へぇ……?中々どうして、いい男じゃないか」
「む?」
怒髪天を突くと言った風情だった彼女であったが、一拍間を開けるとその目を小鳳へ舐るように向けていく。
それに小鳳が疑問の声を出すものの、すぐさま女が口元に浮かぶ薄笑いの意味に気づくと、溜め息を零しながら僅かに首を振る。
「庇うってんならあんたが落とし前付けてくれればいいさ。なーに簡単な事だ。あんたが今夜あたしに付き合うだけでいいよ」
「……そうか」
「ちょっと寝てくれればそれでいい。酒だって奢ってやるよ、こんな不味い店じゃなくね」
女から出てきた言葉を聞きつつ小鳳が周りの人々に視線を配らせていくと、恐れの表情を浮かべながらもどこか羨ましがるような、かこつけやがってずるい、とでも言いたそうな顔の女達がそこに居た。
それにも胸中で嘆きを吐き出すと、小鳳は女の目を見て話しかける。
「断る。その様な気もなければ、それ以上の暴虐も見逃す訳にはいかない」
「あん?そりゃどう言うことだい?」
「去れ、と言っている。お前に付き合うつもりなどないし、お前の振る舞いは目に余る。とっとと失せるといい」
「……このあたしにそこまで言っておいて、どういうつもりなのかわかってるんだろうね」
荒くれ女が剣呑な気配を身に纏うと、その拳を構えていく。
何かの門派に学んだとは言えないそれだったが、それでも構えた手はそれまでの物に裏打ちされた自信と力強さが感じられた。しかし、それを前に小鳳は動かなかった。
「ほう?男の癖に随分と余裕があるみたいじゃないかい。後悔しても知らないよ?」
女の言葉の通り、この世では女人の方が強い事が多々有った。
只人であれば大した違いは無いものの、この世界に通じる理である『気功』と呼ばれる生命の根源ともいうべき力に精通すればするほど、その差異は顕著となっていく。
そして気功を上手く操り、己が物と出来る者は圧倒的に女が多かった。彼女もそう云った者の一人だ。
気を纏って殴る事で重い木机を宙に舞わせ、硬い石畳を踏み抜きその破片を飛礫と成す。
それこそが己が持つ力だと自慢げに見せ付けており、今もまた小鳳へと繰り出そうとしていた。
「後悔する事などない。来い、もはや言葉は不要」
腰を落とし片手を軽く突き出す様に構える小鳳。その姿を前に、一度鼻を鳴らした女が動き出す。
「そんなに怪我がしたいなら、そうしてあげるよっ!」
その地面を軽く陥没させ勢い良く跳躍すると、僅かに残った足下の砂利を舞い散らせる。そしてその勢いを乗せる様に右拳を振り上げていた。
小鳳の眼前には間近に迫った女の姿があったが、しかし彼は避けようとも、ましてや受けようともしていなかった。
「──え?」
女の拳が当たると思われた瞬間、その拳はまるで幻か蜃気楼を相手にしたかの様に空を切り、女の見る景色が流れていく。
そして己の失敗を理解するよりも早く、小鳳に掌底を打ち込まれた女はその意識を遠ざける事になっていった。
§§§
「ありがとう……。本当にありがとうございました……!」
「いえ、後はお願いしてもいいでしょうか?私は早く使いを済ませなければいけないので」
涙ながらに店の女主人から礼を言われる小鳳だったが、その周囲には彼女を含め店の店員であろう女達が彼を中心として円を作って取り囲んでおり、その顔は喜色と欲に彩られていた。
「そんな事言わないでどうか一服して行ってくださいな!」
「そうですよ、沢山ご馳走させて頂きますので!」
「ささっ、お酒もありますからどうぞ飲んで行ってください!お休みできる部屋もありますから、どうか一晩ゆっくりと!!」
「いえ、私は急いでおり……あ、おい……ちょっと!?」
強引に店内へと引っ張られて行きそうになるのを抵抗する小鳳だったが、一体どこにそんな力があるのやら、女達は構わずに彼を店内へと引き入れ始める。もっともそれは小鳳が怪我をさせない様に本気で力を振るっていない事も要因だが。
(まずい、この流れでは今日中に戻れないぞ)
このままだとまた蓮花にどんな目に遭わされるか。いや、それ以前に彼女達にどんな目に遭わされるか分かったものではない。かと言って下手に抵抗して傷でも負わせたらと思うと、必至に穏便な対策を考えようとするも、こればかりは良い方法などは何一つ思い浮かばず。
結局、食事をご馳走して貰ってから急ぎで買い出しを済ませると、目で追えぬ程の早さで山へと戻って行く事になっていた。
当然の事ながら酒は固辞していた。貞操の危機を覚えたからである。
そして険しい山道を駆け、ついでとばかりに道中で山菜や茸も採りながら帰りつくと、また蓮花の庵での日常へと戻っていく。
ただ、それも今日は少々変わっていた。
「あの、師父……?いい加減離れていただけませんか?飯の支度の邪魔なのですが」
「いやじゃ。雌猫共の臭いを上書きするから、暫く我慢せい」
「…………」
後ろから覆い被さる様にしがみ付いた蓮花が、そのしなやかな両手足でがっちりと小鳳を抱きかかえていた。
「何もありませんでしたって……いつもと大して変わらぬ一日でしたよ」
「いーや、違っとる。連中の臭いが前よりずっと濃いわ。大方女人の事を教えてやったせいでたじろいで振りきれんかったんじゃろ?臭いでようわかる」
「どんな鼻をしているんですか……」
呆れた様子の小鳳に蓮花は気にする事もなく、ぐりぐりと顔を後ろから押し付けてくる。
その様子はむしろ蓮花こそが猫のような態度であり、小鳳からすると溜息をつきたくなるばかりだ。
しかしそれ以上何を言っても無駄だろうと、諦めの境地になり食事の支度を再開していく。
結局、小鳳が眠りに付くまで蓮花はずっとそんな調子であり、寝台にまでそのまま潜り込もうとした辺りでようやく振り払われるのであった。
多分続きません