手の力が抜ける。握っていたはずのフォークが手から離れた。
「わ、私のじゃがバタ⋯⋯」
今にも泣き出しそうな顔。
「そ、そんな目で見ても何も⋯⋯」
潤んだ瞳で訴えかけてくる。まるで捨てられた子犬。何も出来ない私に救いの手を求めるような。無言の圧力。
「仕方ないわね⋯⋯隙を見て上手いこと食べさせてあげるから待ってなさい」
「!! 紅葉ぃ〜ありがとぉぉぉ」
ある疑問が浮かぶ。もしかして私は青葉に甘いのではないかと。何でもかんでもしてしまう事を青葉は分かって行動しているのはないかと。
「ちょ、わかったから離れなさいよ⋯⋯」
「いいじゃないか〜ほれほれ〜」
今も無駄にくっ付いて来ては顔を擦り付けてきた。引き剥がそうとしても磁石みたいに離れない。やめろとは口で言いつつも本気では拒まない私を青葉は見透かしてるのかも知れない。
「ふぅ完成〜夏にキッチンは暑いわね。先食べてて〜私はエアコンの下で涼んでるから〜」
山盛りになった蒸かしたじゃがいも。圧巻と言う他ない。辺り一面に湯気が立ち上る。端にはクリーム色とは一変暖色の黄色が目に入る。
「は〜い。じゃあ早速いただきま⋯⋯」
「へっへっへ!!」
先程まで椅子に座っていたはずなのに⋯⋯地べたに手をついて座りこんでいる。息荒く。赤い舌先を露出させ唾液が光り輝く。
「⋯⋯気のせいかしら貴方からしっぽのようなものが生えてる気がするのだけど⋯⋯」
「へっへ⋯⋯!! そんな事いいから早く!!」
気のせい⋯⋯ではない。今私の目にははっきりと写ってる。左右に揺れるしっぽが。
「犬かな⋯⋯? まぁいいわ。ほら食べなさい駄犬」
フォークが簡単にじゃがいもに突き刺さった。まだかまだかと期待の顔。目が釘付けだ。
口元まで運ぶと、すぐにフォークだけが取り残された。
「わお〜ん!!あっふぃ⋯⋯ん〜〜!! おいひぃ!」
まるで餌やり。
暑さに悶えていても口角は上がったまま。
「そう、なら良かった。それじゃ私も⋯⋯
うん美味しい。たまに食べたくなる味ね」
素朴な味。卓上に手を伸ばす。
「うん。塩はやっぱり安定の美味しさね。貴方も食べ⋯⋯」
「ハッハッ⋯⋯!!」
犬はしっぽの動きでテンションがわかると聞いたことがある。だが、これはいくらなんでも⋯⋯
残像。風が顔に伝わる。目に見えないほどの動き。おまけに口から滝のように流れ出るよだれ。
「というかお母さん見てないんだから座って食べなさいよ⋯⋯」
「分かっていなぁ〜飼い主よ。それではノンノン。犬は主人が食べてる物を食べたくなるもの。そして主人は自分の手で飼い犬に食事をあげるものなのよー?」
犬だった青葉は二足歩行に戻って説明を始めた。何やらよく分からない理論を問いかけてくる。
「だから早く!! ハッハッ⋯⋯!!」
と思ったらまた犬に。どういう原理なのだろう。とにかく、こいつは犬になっても中身は変態のままのようだ。
「自分の手で? そう⋯⋯それじゃあ⋯⋯
あちっ⋯⋯ほら駄犬?飼い主の手で食べさせてあげる早く食べなさい?」
まだまだ湯気が溢れ出る。私は息をふきかけた。手を変えながら何度も。最後、手のひらの上に塩を振る。熱さに溶け粒たちが光り輝く。
「!?!? も、もも、紅葉さん!!?」
「あら、青葉に戻っちゃったのね。それじゃあこれは上げられないわね。せっかく作ったけど、私が食べてしまいましょうか⋯⋯」
さすがの青葉も素に戻る。ただ残念。今は犬用に用意したもの。人間にはあげられない。
「!!」
「ワン!! ワオーン!」
下手な芝居。遠吠えなんか真似ちゃって。ただ合格。
「ふふ⋯⋯いい子なわんちゃんだ事。ほら食べていいわよ?」
「わおーーん! むちゃうまだワン!!」
むしゃむしゃと。私の手のひらのじゃがいもを貪《むさぼ》り食う。
青葉はもう私のペット。私の命令に動く犬。今まではいいようにやられたけどこれからは⋯⋯
「あらそう? ならよかっ⋯⋯」
初めての感触。なんとも言えない気持ち悪さと熱さ。
「ちょ、なにやってんの! やめなさいよバカ犬!」
「何言ってるのワン? 犬の役目は飼い主を舐め回す事だワン。だから飼い主の手を舐めてるだけワン」
「ちょ⋯⋯だからってそんな⋯⋯」
犯される。指の一本一本。這われたように。時より硬い物に当たる。
「ふーー涼んだぜ〜紅葉食べてるか〜? お少しは減ったな。ん? 紅葉⋯⋯とうもろこしも食べろ〜? 今の時期は美味しいんだぞ〜?」
「ん⋯⋯わ、わかっ⋯⋯た⋯⋯」
お母さんの前なのに。不快感に気を取られる。私の全てを舐めとるような⋯⋯
「んっ//⋯⋯」
「ん?紅葉何か言ったか?」
「な、何も⋯⋯//」
余った手で口を塞ぐ。声が漏れぬように。
青葉は話してる最中、より激しく私の反応を見ながら⋯⋯
鋭利な、ゴツゴツした歯。唾液まみれな私の指を見せつけながらゆっくりと⋯⋯少しずつ口を閉じた。
「そうか〜? なら私は少し寝るな〜おやすみ〜
あ、食べ終わったら冷蔵庫にしまっといてな〜そんじゃ」
お母さんはそれだけ言って部屋を出た。
「青葉、貴方ねぇ⋯⋯」
怒り混じりの声を発しながら青葉を睨む。
「へへーんだ。そっちが始めたんだからお互い様でしょー?」
まるで反省⋯⋯それどころか悪いと思ってない、軽い発言。
「それにさ⋯⋯」
「ん!ちょっと⋯⋯//」
「気持ちいいならいいじゃんか?」
目が合う。気味の悪い無表情。
立ち位置はこちらが高いのにこちらを覗き込む仰向けの青葉の目は完全に私を下に見ていた。
「そ、そんな訳ないでしょ!!」
無理やり手を離す。
「あーー残念⋯⋯もっと紅葉にイタズラしたかったのに⋯⋯」
完全な棒読み。思ってもないような表だけの言葉。そんな声とは裏腹に狙い済ました⋯⋯こちらの全てを見通すような顔。
「あ――洗わないと――」
そんな顔から逃れるように背を向ける。
糸を引く。光に照らされ露《あらわ》になる噛み跡と光沢《こうたく》。水道に手を伸ばす。
「なーにしてるの」
突然両手首を掴まれ無理やり引っぱられる。
「⋯⋯なにするの離しなさいよ」
ビクともしない。強い力で締め付けられる。
「えー? だってせっかくマーキングしたのにそれ洗い流そうとしたでしょ〜?」
「⋯⋯当たり前じゃない。貴方のせいで手が汚れたんだし。だから早く離しなさ⋯⋯んあ⋯⋯ちょ⋯⋯貴方何して⋯⋯」
背筋が疼いた。耳元で聞こえる吐息と⋯⋯少しの痛さと暖かさ。青葉が息をする度に身体全体に広がる震え。
「まったく⋯⋯紅葉も酷いよね〜犬になれって言われたからなったのに〜」
噛まれて吸われて⋯⋯おかしくなる⋯⋯
「や⋯⋯お願い離して⋯⋯」
「嫌だよ〜せっかく紅葉の体好きに出来る状況なんだから。それに⋯⋯嫌って言う割には本気で思ってないでしょ? ほんとに嫌だったら全力で逃げるはずだし?」
出来るならそうしてる。やらせないくせに何を言って⋯⋯
「はぁ⋯⋯♡」
「ん⋯⋯あ⋯⋯////」
不意打ちに反対の耳まで。唇を噛んでも無駄だった。勝手に声が漏れ出て我慢出来ない。
「紅葉はほんとにやめて欲しいの?本気で嫌だったら辞めるけど。もし、そんなに嫌じゃなかったら――」
「
力が抜ける。立ってさえ居られない。私は床に倒れた。
「⋯⋯あははw腰抜けちゃった? 紅葉にはまだ早かったかな? ほら紅葉⋯⋯立ちなよ? 立てないなら手を貸すけど?」
「⋯⋯」
やられてばかり。やり返したい。でも⋯⋯今の私は目で訴えるしか出来ない。下から見ることしか許されない。
「ふふっ⋯⋯紅葉? 私から見たら君が犬みたいだよ。ほら、紅葉わんちゃん? お手でもしてみな?」
小動物。憐れむような目で私の頭を優しく撫でる。
「青葉⋯⋯お前覚えとけよ⋯⋯」
「これが負け犬の遠吠えってやつ? いつも強気のくせに責められたら弱い⋯⋯そんな紅葉が私は好きだよ?」
「うるさい⋯⋯私は今のお前が嫌いだ⋯⋯」
「いいよ〜今は嫌いでも。だって紅葉は私を本気で嫌いになんてなれないんだから。ほら紅葉いつまで座ってるの? そろそろ花火しにいこう? それとも⋯⋯首輪付けて外で散歩でもする? 私はそれでもいいけど⋯⋯」
「外出ろ⋯⋯絶対泣かしてやるから⋯⋯」
出来るわけない。一方的にやられて。でも私のプライドが許さない。このまま奴の言いなりになることが。
「そっか⋯⋯それは楽しみだな♡」
子供扱い。私の捨て台詞に笑顔を見せた。見え透いた私の嘘を見透かすように。