歯磨き。口の汚れと秘めた緊張を洗い流す。
「紅葉〜そろそろ時間だぞ〜? 準備出来たか〜?」
洗面所を覗く。髪を梳《と》かし、鏡とにらめっこする後ろ姿。
「ど、どうかしら? 変じゃない?」
私の声に反応して少しずつ体を向けた。毛先をいじりながら自信なさげな顔。
「おお〜“いい”じゃん! 完璧にキマってるぜ!」
少しでも。その不安を打ち消すように親指を立て手を突き出した。
「そっか⋯⋯じゃあ行きましょ」
その言葉に胸を撫で下ろしたのか、強ばった顔も少しは落ち着きを見せた。
「準備できたか〜?」
洗面所を出ると玄関のお母さんと目が合う。
「うん、どう?」
手を広げて全身を見せる。すると壁によりかかっていたお母さんが背筋を立てた。
目を凝らして隅々まで。上から下まで首を動かして私を観察した。
「⋯⋯うん、いいと思うぜ〜!」
目に力の入った顔が優しくなる。
「そっか⋯⋯なら良かった。
⋯⋯それじゃそろそろ時間だから」
母の横を通り過ぎて靴を履いた。
「それじゃ、いってきま⋯⋯」
ドアノブに手をかけた、その時。
「紅葉!」
「ん? なに?」
母が私を止めた。後ろへ振り向こうと首を回す。その時突然、髪に触れた。
「行ってらっしゃい⋯⋯頑張ってな」
一言。母の手が私を撫でた。とても優しく。
「うん⋯⋯」
突然の事。久しぶりに撫でられて、少しの戸惑いと気恥しさで思わず下を向いた。ただ私はその手を大人しく、受け入れた。
「うし! それじゃ頑張ってこい! 気をつけてな〜」
それほど長くなかった。すると突然頭から手を離して背中を叩いた。
「私もこれから仕事行くからそれじゃ〜」
しかもそれだけ言って背を向けて。
廊下を歩きながら後ろ背に手を振る。
「行ってきます!」
背中に残る母の手。絶対聞こえるはず距離。
ただ私は母を越し、廊下が響くほどの声を出した。
扉を開けると太陽が体を照らす。熱に体を包まれながら一歩。外の光へ歩き出した。
「行ってらっしゃい紅葉⋯⋯」
「紅葉ママ嬉しそうだったね〜」
「そうね⋯⋯」
「紅葉も嬉しそうにしてたよ?」
「気のせいじゃないかしら」
いつもの道。つい最近まで毎日通ってたのに、随分懐かしく感じる。
青葉。今は私の服を着ているけど、昔の制服姿が目に浮かぶ。
「えーー? 絶対嬉しそうにしてたよぉー
ほれほれ〜いつもより頬が上がっておるぞ〜?」
「気のせいよ」
いつものちょっかい。私のほっぺを指で突く。それなのに、なんだろうこの胸の鼓動は。
「ほんとかなぁ? 私の勘違い〜? それにしても⋯⋯」
自転車が横をすぎる。ペダルやベルの音。私を抜かす。
「⋯⋯生徒多くなってきたね」
「そうね⋯⋯」
自転車だけではない。歩きの制服姿も見え始める。
「緊張してる?」
「⋯⋯」
「大丈夫⋯⋯私が居るから安心して?」
励ましと強い温もり。
「ぜったぃ⋯⋯絶対離さないでね⋯⋯」
「大丈夫⋯⋯絶対離さないから」
涙目の私に優しい声で。見せつけるように手を握り締めた。
「はい、おはよーはい、おはよー」
校門前の先生の声が聞こえる。
「紅葉もう着くよ⋯⋯」
「うん、大丈夫⋯⋯」
「はいおはよー、はいおはよー」
次第に大きくなる声。
「次だよ紅葉⋯⋯」
手に力が入る。
一歩、一歩。私は学校に足を踏み入れた。
「はいおはよー」
「おはようございます⋯⋯」
「はいおはよー⋯⋯」
後ろから聞こえる声。どんどん遠ざかっていく。
「紅葉⋯⋯おめでとう! 学校に入れたよ!!」
「うん⋯⋯」
手が震え、口が乾く。あまり前が見えない。そんな中、青葉の一言でやっと自覚した。顔をあげると校舎がデカデカと見えた。
「大丈夫紅葉! 私が居る! この調子で教室まで行こ!! あ、後外で喋ってると変なやつに思われるから気をつけてね!」
そうだ。他から見れば、この場には私一人⋯⋯
(って思ってるんだろうなー紅葉⋯⋯
手の震え酷くなってるし、目見開いてるし、緊張して忘れてたなこりゃ)
「紅葉? 別に喋れなくても私は居るから安心してね?」
その言葉に小さく頷いた。
「久しぶりだねぇ〜数ヶ月振りの学校〜」
上履きに着替える。歩き出すと甲高い音が響く。
「さてさて〜教室へ向かいますか〜
少し変わった?気がするようなしないような⋯⋯?
前はどんなんだったっけ?」
「⋯⋯」
「んぉ! 教室が見えて来ましたなぁ〜」
「⋯⋯」
組の表札に顔がひきつる。廊下で喋ってる生徒たちの声も、私を嘲笑うかのように聞こえてくる。
「大丈夫⋯⋯! 誰も紅葉の事見てないよ! ほれほれ」
それに気づいて、メガネ越しに手を被った。
「ほら見えないでしょ? これであんしん⋯⋯痛ぁぁい!?」
目が見えない、物理的に。私は青葉の足をおもっきし踏んだ。広い廊下に悲鳴が反響する。
頼りになるのかならないのか。青葉を睨みつける。
「あ、ごっめ〜ん♡」
作った笑顔。やらかした顔をごまかした。
「教室に着いたぞ〜! さてさて紅葉の机は〜?
⋯⋯な、なんじゃこりゃぁぁぁ!?
紅葉の机に知らない人⋯⋯見たことない席順⋯⋯
もしかして⋯⋯これ席替えしてやがる!!?」