また彼らに会えることを願いながら。
Cinema staffの「さらば楽園よ」を聴きながら書きました。
─1─
『彼』が旅に出て、およそ3年が経過した。
あの少年と犬が入っていった木の洞を見つけるのは、困難を極めた。『彼』の視界に写っていたのは、あくまで少年と犬の周囲だけ。その木がどこにあるのか、標高高い山の上か、砂漠の中心の巨大なオアシスの中か、それとも何千キロも続く密林の、ほんの数メートル見逃せば果てまで通りすぎてしまうような場所なのか。光る板をつついてこの星の表面を覗き続けても、「カメラの着いた車両で撮影するには遠すぎる、あるいは憚られる場所」であること以外は分からなかった。
人に尋ねるために描いた図はあるものの、やはり朧気で、どこにでもあるような景色に見えた。固有の植物でもあればその原生地を訪れれば解決だが、残念ながら巨木以外の風景は鮮明に残すことは出来なかった。そして再度思いだそうにも、あの日以来、稲妻が全身を走ることは無かったのだから。
それに、あの少年と犬がいつ洞に入ったのかも分かっていない。『彼』が無数に見た記憶の渦は、『彼』の知り得ない未来の記憶と過去の記憶が交錯していたため、『彼』はあの一人と一匹が、すでに洞の中に入り時間が経ったのか、それともまだこれからなのか、はたまた今まさに入ろうとしているのかすら分かっていなかった。
『彼』がその答えを知ったのは、旅を始めて3年半の時。ある報道を荷物に入れていた衛星ラジオで仕入れてからである。
報道陣は発見した。木の根元に現れた巨大生物を。それは、肋骨のような突起が突き出た、巨大な肉の塊で、不定形で自重から立ち上がれず、その場から移動できずもがいていると、ノイズ混じりの音声は報告した。そのときだった。『彼』の脳裏に微弱な電撃が走った。電撃が言う。『そこへ向かえ』と。
『彼』がそこへ向かう日々に、道すがら手にした新聞では、その巨人はメディアのヘリに向かって、肉の触手を緩慢に伸ばしたと報告があった。近隣国の研究者を組み入れた学会が調査に入ったが、逆に追い返されているという。やむなく遠くから観察すれば、その巨大な肉塊は日につれて少しずつ肥大化しているというのだ。しかし奇妙なことに、死者は出ていない。
まるで、何かを待っているかのように。そして、後に続く一文が『彼』をその地に急がせた。
状況の停滞に痺れを切らしたのか、いずれかの先進国が介入を強行することを多発的に発表し、軍が向かっている、と。
『彼』が目的の場所たどり着いたのは、進軍の報道を目にして最寄りの大陸から船を出し、一週間漕ぎ続けた後のことだった。たどり着いたのは、鬱蒼とした森に包まれた無人の孤島。島からは鳥や獣の甲高い声が響いてくる。水深数十センチの浅瀬に着いたところで『彼』は船から降りた。
砂浜に船を固定しようと引きずっていたところ、島の奥の奥から、パラパラと反響音がする。花火に似た、弾ける音。続いて、ぐわあん、と大型の金属がひしゃげるような音。
銃声だった。数十人、あるいは数百人による射撃。
お互いの攻撃が開始されたのだ。
『彼』は船を捨て、表面に多くの擦り傷が付いたコンパスを片手に密林の中へ、走狗のごとく駆け出した。
走るに連れ、島の外へ飛んでいく鳥の群れ、地を掛けていく動物の群れとすれ違う。逃げ惑う群れの中には猛獣の類いもおり、『彼』にいつ襲いかかってもおかしくないのだが、捕食より逃走本能を刺激されているのかは知れないが、島の中心へ走る人間に立ち止まる生物はいなかった。崩れた直方体の群れ、それはまるで『彼』が旅立つ前に似たビル群によく似ていたが、経過した時間がもっと長い、もっと古くから存在していたかのように衰えていた。一機のヘリコプターが、『彼』と同じ方角を目指し、追い越していった。
密林の木々の上、その切れ間から見える空に目を細めた『彼』は、目指していた場所を走りながら視認する。
空には一本の巨大な木がそびえたつ。摩天楼も追い抜き空を貫かんとする程の高さを持つ大木。
そして、何本か空に伸びる赤みがかった肌色の触手が見えた。
(あれが件の……)
聞こえてくる銃声にくぐもりが無くなるくらいにまで、島の中心へ走ったところ、木と肉塊の全体像が見えた。
大樹を守るかのように、巨大な肉塊は周囲を囲っていた。そしてその間近に、三重の壁を彷彿とさせる作りの波状の土嚢と塹壕。さらにそこから数百メートル後退した箇所に、作戦指揮用の天幕が一つあった。
ドサッと何かが空から降ってきた。音からして、数十キログラムはある重量物。
人だ。軍帽、軍服に防弾着。島に送り込まれた軍人が、手足をあらぬ方向に捻じ曲げられて死んでいた。へし折れたもなおその手には、ショットガンが握られていた。
弔う猶予も躊躇う猶予も無さそうだった。『彼』はその軍人から装備を剥ぎ取り、身に纏う。目もとが見えにくいよう、軍帽を深く被り、作戦本部があるであろう天幕へ入った。そこには二人の上官がいた。一人は金髪の長身の七三の男で、無線で連絡を取っていた。もう一人は低身長の中分けの男で、軍用のナイフに錆がないか確認していた。
ごくふつうの軍人二人だったが、『彼』は全く似ていない二人の兵士を思い出さずにはいられなかった。口調も、外見も髪型以外には全く似ていないにも関わらず。
「なに!刺激したかだと!?わからんな!こちらからは仕掛けてない!沈黙が続いていたが、突如暴れ出した!」
「上官!通信の途中失礼します!」
「あ?総員配置に付かせたハズだろう!」
「知らねぇ。俺ぁ行軍指揮担当で戦闘はお前担当。んで、新兵、なにやってた?まさかクソでも長引いたか?」
「そんなことはありません!快便でしたけど!」
「通信切れ、拾われちゃ困る。・・・下品な冗談を言うものだな、新兵」
どうやら上官らの話から推測すれば、『彼』が上陸したのを皮切りにか、
あの肉塊は数百メートルはあろうその体躯を痙攣させ、触手を呼び出して暴れ始めたそうだ。
『彼』が上官からの説明を聞いている間、『彼』を追い越したメディアのヘリは肉塊が届かぬ高度を保ち撮影を続けていた。記者が身を乗り出し、マイクを握りしめる姿が見える。
真下の地表に転がる兵士の死体にはレンズが届くはずがなかった。
『彼』は、これまでの道程を思い出していた。
路銀を稼ぐ傍ら、さらにある資金は財布から出さず溜めていた。それは、立体機動装置を作るため。そのハズが、氷爆石も、黒鉄竹もこの世界には存在しなかった。その事実自体は旅立つ前の下調べで分かっている。とうに資源として使い果たされ、大地に埋もれていったか、そもそも存在しなかったかは分からない。この世界でいうカッターにあたる刀身。その等身大の再現を頼んだが叶わなかった。似通った技術は、既製品なら文具しかなく、鍛冶師を探す過程で自分のいた本国の職人に頼むことも一考したが、今日打たれているのは模造品。完全な再現は不可能だった。ガスも、アンカーもない。あるのはたった一つの刃だけ。だが、この身に染み付いた体運びなら、この程度の制約、なんてことはない。そして『彼』はひとつだけ、賭けをしていた。
この島に向かった軍が持つある技術が、この地に初投入される可能性を。
時には高山を走り、時には猛獣の皮を生きたまま剥ぎ、路銀のため酒樽を幾つも運んだ。この三年で鍛えられた身体は、訓練兵時代同様、不可能など無いような予感を馴染ませた。手にするのは恐らく始めてだろうが、今の自分なら使いこなせるはずだ。
『依然戦闘は膠着しております!!』
「もっとだ!もっと火力をもってこさせなければ!」
「唯一の水陸両用戦車は真っ先に潰されたぜ」
「銃創はたちどころに塞がる。仮にあれが生物だとして、既存の多細胞生物のように弱点はあるはずだ。アメーバのように不定形で人員の関係上、西部にしか配備できる兵はいなかった。一面への攻撃の有効度しか確認できていない。ならば……」
団長はデスクに置かれている、ジェットパックを眺める。背中に背負うエネルギータンクに、脳波をキャッチするための接着式の電極とそれを守護するヘルメット、タンクから繋がる配管が両腕を模した噴射器に接続されている。
「これでヤツの弱点を窺う外ないのか」
『彼』は賭けに勝った。航空、運搬技術が発展したこの世界で、ミクロな規模を、それも人ひとりを飛ばすことを発想しないことは無いだろうと『彼』は見込んでいた。世界全土の軍事技術の著作を漁っていたところに、そのような発想の雛型があったのだ。
『彼』は一歩前に進み出る。
「それを、私に使わせてください!」
「バカが。これが何かわかるか?銃火器がものをいうこの現代に、現場も知らねぇ夢見がちなバカが思いついた、白刃戦用同然の時代の遺物。両腕塞いで生身を空に晒す兵器など、ただの的だ。肘に付け直してノコノコ銃取り出してる間に脳みそぶちまけらぁ。小型かつ探査も射撃も出来るドローンの劣化版だぜ!ラボの野郎ども、『未知の生物に挑ませる勇気ある者へ贈ろう』とかのたまいやがって、あの痩躯を現場に蹴り込んでやろうと何度思ったことか!」
「俺がやる。所詮我々は使い捨てだ」
「おい、指揮官のお前が真っ先に戦闘放棄か。軍の恥部になるまえに俺がその両足を折るぞ」
「それならば猶更、一兵卒の私にやらせるべきです」
「駄目だ。我々が何のために、こうして軍を築いて今日まで生きて来たかわかるか。家族として生き残ることを固く誓った同志だからだ。君も入隊し、卒業する頃には自覚出来ている筈だろう」
団長であろう人物は、その言葉を実践するかのように、両手で『彼』の肩を優しく掴み、テーブルから遠ざける。
「難民だらけだ、この軍は。国家間の緊張が高まり続ける中で未知の生物の噴出だぞ?我先に手に入れようとするが、どの国の正規軍かが割れれば、勝国の顰蹙はとんでもないことになるだろう。だから俺達流れ者のごった煮を送り込んだんだ。敗残処理の中ドサクサであの生物の核を持ち帰り研究し尽くす、という魂胆だ。何年も我らに軍事技術を仕込んでな。この有事以外でもいつか用いるために。まあ、生き残れるとは思えねえけどな。撃ったそばから治りやがるし」
「それでも、『私』はやる」
「あ?」
『彼』はジェットパックを掴む。
「試作機だぞ!加えて優れた三半規管も持たない俺らの中で、使いこなしたヤツぁ一人もいなかった!学者さんの気まぐれで、上が遊びで組んだ専用の訓練で死人も出たんだ!てめぇのような一兵卒にできるものか!」
「出来るさ。死ぬまでやって来たんだから」
上官の次の台詞を待たず、『彼』は背嚢を前へずらし、ジェットパックを背負い、嘗て留めたものに近い、びっしり並ぶ留め具をものの数秒で身に付け、両腕に一本ずつ噴射器を握り、天幕から駆け出した。
どうやら両腕を突っ込んで操作するようだが、噴射器の内部にボタンが有るわけではなく、あくまで噴射口の角度の調節のために、直感的に腕で平衡を保てるように誂えてるだけのようだ。
(確かにこれでは実用に向かないな。人相手には)
戦地では兵士たちが盾を構えて触手と肉塊に射撃を続けていたが、触手の一撃で盾を引き剥され、もう一撃で叩きのめされて倒れていく。盾の上から体をへし折られる者もいた。重症と片付けるには、傷は明らかに深かった。
装着を終えた『彼』は、ジェットパックを起動し、一メートル空中に浮遊する。そして、浮遊しながら射線に入らぬ角度で、ランダムな触手の一本に近づく。
空中をホバー移動する程度の性能では、乱撃を亜音速で放つ触手を躱すに至らない。
全力を解禁することを除けば。
両腕に嵌められたジェットの出力、そのうち片方を半分程度の出力で噴射し、もう一方を左右に傾け、都度全力で噴かす。『彼』の体はジグザグの軌道を描き、触手の刺突を回避した。続く触手の連撃は、三年間錬られ続けた機動の幻惑を相手にただただ虚空を打つ。
兵士は舞いなにものであろうと届かない晴天へ手足を伸ばす。瞼を閉じても分かる自身の次の一挙手一投足を、かつて味わった風圧を、『彼』を包み込む緑青の円套を、もっと不自由だが、確かにその時空を跳べたあの感触を、そのすべてを、『彼』は思い出す。今ある形が昔よりどれほどかけ離れていようとも、
たった今一人の兵士が、翼を取り戻したのである。
軍隊の射撃は止まらないが、誰もが使用を諦めたその兵器を乗りこなす、所属不明の新兵がいることに、驚愕しない者はいなかった。
『彼』は高度を高く維持しつつ、大樹の根本を目指す。おそらくそこに少年と犬がいるはずだと仮定して。
(両腕を全力で噴かすことで最高速を出せるが、この体でそのGに耐えられるか?)
彼が急ぐか逡巡したその時、肉塊に動きがあった。天空に向かって、肉塊の両側から一対の骨が突き出した。くの字に折れた一対の骨はずるずる水音を立てながら伸びていき、千メートル近く伸びてから伸張を停止した。『彼』がその正体に気付いた時、通信機に、音声が入る。
『肉の巨体に変容を確認!!あれは、羽です!羽が生えようとしています!まさか、飛ぶつもりか、あれが!?』
『掃射を翼に変更!あれをこの地から飛び立たせてはならん!』
じゅくじゅくと音を立てながら、その骨格を覆うために下から肉が這い上がり始めている。
(いいや、直ぐには飛び立つまい。数百メートルの大きさを持つ肉塊を持ち上げるには、その何倍もの大きさを持つ翼が必要だ。……巨人の体のように、既存の物理法則が通用しないなら話は別だが)
ヒュンッ、と何かが、『彼』の頬を掠めた。触手ではないはずだ。この上空まで届く個体はなかった。確信した『彼』を嘲笑うかのように、ヒュン、ヒュンと次々に高速で何かが投げつけられる。『彼』の間近を飛んでいた鳥が翼を貫かれ、螺旋を描きながら落ちていった。
「!?」
『彼』は70%まで出力を上げ、加速する。地を見下ろすと、軍に向かって、『彼』と同量程度の赤い肉片がばら撒かれている。
(銃弾じゃない!いや、確かに銃弾かもしれないが、さっきの鳥を貫いた弾丸は、赤みがかっていた!肉だ!)
肉の弾丸。地に寝そべる肉塊が、兵士たちの射撃から学習したのだ。その動機は、肉塊が自分にとって脅威的な攻撃手段と捉えたからなのか、それともせめて人間相手には有用だと判断したからかなのかは不明だ。鳥の翼を貫くほどの威力だが、今の『彼』ならヘルメットの隙間を撃ち抜かれない限り即死には至らないだろう。地表の兵士も土嚢と塹壕があれば、しばらくはしのげるハズだ、と『彼』は踏む。
(しかし、無尽蔵に撃ち続けることは出来るのか?いや、翼膜の形成が僅かに遅れている。
そうか。肉の弾丸を放つには、翼膜の形成を中断しなければならないのか!)
しめたと思い、『彼』は出力を80%まで引き上げ、一直線に大樹の根本にまで着いた。木の洞は拍子抜けか地面が肉に覆われていても触手に守られておらず、『彼』は勇み足で侵入した。入るために一度頭を屈めたが、内部は縦横に広い空間になっていた。
洞の最奥には穴らしきものが肉でミチミチに塞がれており、どうやら肉はその穴から這い出てきているようだった。穴はぼんやりと青い光を放っており、そこに埋まる肉どもも、皮膚越しに青白く光る血管を浮かび上がらせていた。
(この中に、きっと少年がいる。止め方は分からないが、多分……これしかない)
『彼』は懐から日常的に用いていたマチェーテを取り出し、逆手に変え、もう一方で柄頭を押さえ、満身の力で下へ押し込む。嘗てアルミンがやったように。血が染み出すが、手ごたえはなかった。考えるだけでも恐ろしいが、人間を突いた感触が無かった。
(なぜだ!?確かに少年は木の洞に入っていった筈だ。なのに、あたかもそこにいないかのように感触が無かった!)
キーンと甲高い音が鳴り、『彼』の通信機に音声が入る。
『うわあああああ!!』
『応答せよ!事態の説明を!』
地上の兵士達は悲鳴を上げる。苦痛の類いではなく、明らかに恐怖に満ちた叫び。『彼』は急いで洞から飛び出し、両腕で飛行すべくマチェーテを背嚢にしまい、飛んだ。
『彼』は再来したその光景に、思わず目を背けたくなった。
巨人だ。
体の高さ二、三メートルはあろう肉の塊を寄せ集め、人間の形に変化させ、それを何体も形成したのだ。巨人どもの手は同一比の人間のそれよりも遥かに大きく、指に相当する位置には、孔のついた筒状の肉が五本付いていた。
巨人どもの中には腹にあたる組織が露出し、目も満足に形成されていない個体もいたが、全ての個体が一斉にその手をかざし、五指を広げて兵隊へ向けた。総員がその意味に戦慄した。
『防壁、展開!!』
上官が命令を発し終える頃には、すでに木っ端の兵隊は鋼鉄の壁を塹壕から突き上げていた。反撃の余地の無い、叩きつける肉の弾幕。夥しい肉の機関銃は、人間程度なら容易くミンチにするだろう。
「やらせるか!!」
軍の防御にかこつけ、『彼』は巨人に攻めいることにした。
兵隊が射撃を再開して蜂の巣にされる前に、『彼』は右肘の留め具に噴射器をスライドさせ、腿に納めていたショットガンを取り出す。下方に放物線を描きながら一体のうなじに照準を合わせ、通りすがりに至近距離で引き金を引いて、振り向く前に軍の射線を抜けた。
(やったか!?)
巨人のうなじは吹き飛び、傷は後頭部にまで達していたが、骨や脳の類いは見えず、ただめいっぱいに肉が詰められていただけだ。そして、うなじを吹き飛ばされてもなお、巨人は『彼』には目もくれず肉弾の射撃を止めていない。
(くッ、『戦槌』の時と同じか!)
巨人どもは目ではなく、能力で人を探知しているのだろう。そして、巨人どもは攻撃の優先順位をつけている。『彼』の方を向いた巨人はいない。代わりに触手の束が『彼』に向かって距離を詰めてくる。散弾で先端を吹き飛ばし、接いで伸びる先端を再び弾き飛ばす。さらに伸びてくる触手に抗するため、『彼』はあの刃を背嚢から抜き去り、叩き斬った。
(この刃もあの時と同じなら、斬れてもあと数回だ。本来使い捨てるだけの刃を、永らえさせようと研ぐことも考えたけど、これの切れ味にも、切り心地に匹敵する武器も見つからなかった)
肉塊は巨人の群れを生み出し終えたあと、翼の生成に戻ったようで、牛歩も同然だが付け根の肉は筋繊維を形成し出している。そして、手骨、尺骨、とう骨からは、萌芽のごとく肉の羽は生え始めていた。
(さっきは肉の弾丸を撃ちながらでは羽を生やせなかったのに!あの肉塊は、とてつもない勢いで進化している!早く元凶を見つけて叩かなければ、現生人類の選択肢が狭まる。『核』にまで伸びてしまう!!)
耳元で、傍受した通信がノイズにまじって聞こえてくる。
『もう、どうしようもないのか』
『援軍の要請は却下された。』
『……そうかよ。今日も生き残ると思ってたんだ。これまでの任務のために何人も死んだ。よその国の紛争解消のための秘密裏な武力介入。本国にとって友好を結びたがらない要人の脅迫。戦争の火種になりうる可能性の排除。あんなくそったれな任務の数々をこなしても、俺はせせら笑ってた。顔ぶれも変わりつつも、なんだこれからも生き残ると思ってたんだ。』
『今日も出来るはずだ。諦めるな』
『できねぇよ、団長。もう上が核のボタンに手を掛けてるんだってさ。抜け駆けすべく俺達を送り込んだくせして、上手くいこうが失敗しようが、俺達を生きて帰す気なんて無かったらしい。報道ヘリも飛んでるが、関与していた兵隊をまとめて滅却すれば、関与の証拠も残らない、ってさ。あのバケモンが死ななくても、俺達が消えれば国たっての非正規軍の存在は抹消される。万々歳だとさ』
『……』
『元より無茶な要求を無理やりこなしてきたんだ。たぶん上もそろそろ俺達の隠滅をしくじて誰かの恨みを買い、死神の鎌が首に掛かってんだろうぜ。……なあ、団長。俺達、なんのために生まれて来たんだろうな。雨のように弾丸が降る中で生まれ落ちて、大人になる頃には頭を吹き飛ばされた醜い親の顔ももう覚えてなくて、文字通り泥水飲んで仲間の肉まで喰って飢えを凌いで、寝首を掻かれることに怯えながら隈だらけの目で朝日を拝んで。……俺達はどんな大義があって、こうまでして生きることを望まれたんだ?なんのために?』
(……)
(『超大型』の爆発クラスの威力を、人類の手で開発したことに抱く感想に好感も嫌悪も無い。ただ、使わせるべきではない。ここにいる軍は、何者にも受け入れられず、明日を迎えても幸福とは限らず、ただ見限られて死ぬだけかもしれないと怯える者たちばかりだ。どこかの世界が、どこかの国がそう選んだ。彼らにそうあることを望んだ。だが『私』は、そうは望まない)
しかし、その元凶の在りかに、『彼』は確信を持てなかった。この数百メートルの長さを持つ肉塊から、一メートル程度の大きさの本体を探しあてることは不可能だった。
(もう誰も、自分たちが要らない人であると、切り捨てられる人であると絶望させてなるものか!あの時代のように、あの世界のように──)
『彼』の頭に、かすかに痛みが走る。
(私達が生きた時を、繰り返してたまるか!エレン達が生きた意味を、これ以上世界に忘れさせてたまるか!!!)
僅かな閃きが、眼前で瞬きを繰り返す。彼はその感覚を覚えている。何百分の一の威力だが、自分がマルコの立体機動装置に触れ、すべての記憶を思い出した時と同じものだった。
『彼』が向けた視界には、皮膜の下でぼんやりと光る点が見えた。『彼』が傍受していた通信の中でその光に言及する者はいなかった。その光は、『彼』にしか見えていなかった。ユミルの民の思念が移った体、そのただ一人の『彼』にしか見えていなかった。斬るならばそこだと、『彼』は確信した。
『彼』は向けるべき攻撃の地点を探るべく、飛行の安定を最優先事項として両腕を噴射器に突っ込んでいた。背中のエネルギータンクは残量わずかと悲鳴を上げ、高度の維持ももはや出来なくなっていた。
(攻撃対象は定まった。エネルギーは残されていない。ならばもう──)
『彼』は短い間隔で両腕の噴射を交互に繰り返しつつ、両方の噴射器を肘に装着、前に背負い直した背嚢から、ブレードを取り出し逆手に持ち、上体をギリギリと後ろへ捩じってゆく。あの日々に何度も繰り返して、反吐を吐いて身に付けたあの技を繰り出すために。今の『彼』に必要なのはそれだけだった。
「うおおおおおおおお!!!」
両肘の噴射器に、残存するエネルギーのすべてを込める。体は独楽のように激しく回転し、『彼』が生前では出せなかった速度で放つ渾身の回転切りは、阻む触手を何本も切り裂きながら、地を走り肉の大地を二十メートル程旋転した。
ミシン目のように途切れ途切れに刻み込まれた切り傷は一本の直線となり、その湯だつ中身を大きく開いて見せた。その中から、獣の吠え声がした。その声に呼応するように、『彼』は身を起こし、片腕を抱えて声の元に走り寄る。
「なんだ?犬だ!そうか、コイツが──」
その犬はある目的のために激しく吠え立てていた。子どもだ。犬の下敷きになり、子どもが両膝を抱えて横向きに肉塊の中に寝ていたのだ。
犬は『彼』が肉から露出した子どもに接近する『彼』の前に立ちふさがり、いっそう激しく吠える。
「落ち着いて。君を攻撃するつもりはない」
『彼』はとうに砕け散り柄だけとなった刃を置き、犬に手を差し伸べる。犬の近辺の肉塊が細長く形を変え、複数本の触手を生み出し、その先端を『彼』に近づけ、真近で規則的に「ピクピク……ピクピク……」とひくつかせる。まるで、敵意が無いか、匂いで確かめているかように。
「そうか。君は、この子を守っているんだね」
犬の目は、『彼』がもはや何者なのかを、すでに理解し終えていたようだった。
「大丈夫だ。そのためにここにいる」
『彼』は両ひざを付き、両手で子どもの頭を起こさぬよう甲斐甲斐しく持ち上げる。夏には蒸し暑くなる、極東のあの地のような熱を発する少年の額に、『彼』は自分の額を合わせた。
稲妻が流れ、視界は暗転し、無限とも、一瞬とも取れる時間が流れた。
─2─
どのくらい眠っていたのだろうか。『彼』は目を覚まし、辺りを見回す。
昼間の筈なのに、空には闇と星があふれていた。そして、手には砂の感触。
不完全ながら、どうやらここは道の世界のようだ。だが光の木は生えておらず、双葉のような形をした小さな光が、砂地の奥で静かに佇む。その砂地の真ん中で、一人子どもが膝を抱えて泣きじゃくっていた。
「ねえ、君」
『彼』は呼びかけてみる。少年はびくりと体を震わせ、涙を腕の包帯で拭って、『彼』を見やる。
「誰?」
「……そういえば、私はいったい、何者なんだろうか。そうだね、一人の兵士だよ。君とは違う国から来た、ごく普通の兵士だ」
「そうなの?」
「そうだ。ああ、怖がらないで。ちょっと、君に聞きたいことがあるだけだから。人を探してるんだ」
『彼』は背中のジェットパックを下ろそうとしたが、背中の重量感はすっかり無くなっており、軍服と軍靴だけになっていた。
『彼』はまさぐりやすくなったズボンのポケットからハンカチを差し出しながら、『彼』のよく知る三人の名前を挙げて、彼らの特徴も織り交ぜながら尋ねる。しかし、涙を包帯だらけの袖で拭った少年からの答えは、「知らない」の一言だった。
「本当かい?ここなら、幾らでも識れそうなものだけど」
「僕はそんな人たち知らない」
「そうか。じゃあ、もっと色々聞いてもいいかい?あいにく、探している人は山程いてね」
「兵士さんは、この場所を知ってるの?」
「うん。来た事があるからね」
「そうなんだ」
少年は肩を落とす。『彼』は訝しみ、他に自分のようく知る同期達のことも続けざまに聞いてみる。しかし、返事は「知らない」であった。
「それじゃあ、ハンジって人は知ってる?眼鏡を掛けていて、髪がギトギトで、男か、女か分からない風貌なんだけど」
「知らない。なんで名前まで聞くの?」
「ここには、いろーんな人間がいるような気がしてね。似たり寄ったりな人もいるかもしれないから」
「詳しいんだね。知らない」
「まあね。間近で見てきた人たちだから。えっと次は、中分けで目つきが鋭い男で、リヴァイって言うんだけど、知らない?」
「ねえ、もういいでしょ。僕はなにも知らないって」
「まだ分からないぞ。他にはエルヴィンやキースやザックレーやピクシス、リーブスやペトラ、オルオにグンタにエルド、モブリットにケイジにアーベルにニファ……」
『彼』が名前を羅列する間にも、少年はふるふると首を横に振り続け、否定し続ける。挙げた名前は百を超えた。それでも、少年の答えは変わらなかった。『彼』は喋る途中で少し疲れたのか、訊き終える頃には少年の隣に座り、両腕を後ろに砂地で体を支えていた。
「ね、わかるでしょ。僕は何も知らないって。ねえ、人探しならよそを探したら?」
「……駄目だ。出来ない」
「なんで」
「もうかなり時間をかけて探したんだ。もうここしかないと思うくらいに」
「そんなわけないでしょ。ここがどこかも分からないのに」
「……この世界を三年以上探したんだ。本も、人も、国も片っ端から尋ねた。高名な歴史家に科学者から木っ端の学生まで。探偵に密偵。首相や議員。裏社会の構成員やドンにも尋ねた。国家の機密に潜り込んでまで探した。もちろん死にかけたことも一度や二度じゃない」
『彼』は首を横に振った。
「でも、無かったんだよ。一つも。彼らの痕跡が一片たりとも。まあ、君のように全員分の名前を挙げるまで待った人は居なかったけど」
「それは、なんというか、凄いね。……すごくないけど」
思わず少年は苦笑した。
「だけども、ここってなんでも知れる場所じゃないのか?」
「いやあ、僕にとってここは、そんな場所じゃなかったよ」
「どうして。多分違うと思うよ。さっきはいっぱい質問して悪かったよ。できれば、君が見てきたものを話して欲しい。なんでもいいんだ。そこから逆に探し当てることも出来るかもしれない」
「何も無かったんだ。何も見えなかったんだもん」
「見えない?……それは、ホントに全く、何も見えない。例えば、ブラックホールの中とか、そんな感じ?」
「違う。なんでも見えて、それで、何にも見えない感じなんだ」
「見えるものが多すぎて、逆に分からない、か。それじゃあ、学校で分からないところが分からない、ってなっちゃう感じかい?」
「そう!そんな感じ!よく分かるね!」
少年は大の大人が喩えるあまりに身近な喩えに、思わず両手をパンッと叩いて指を指す。
「私もかつては子どもだったよ。今はこんなナリだけど、昔は算術が分からなくてうんうん唸ったり、歴史を勉強してへえと驚いてたりしてたんだよ。どうだい、気味が悪いだろう?」
「へえ」
「でもこの喩えが分かるってことは、君は学校には行ってるんだね。じゃあ、ここに来る前は多分こーんな大きな木下にいたと思うんだけど、なんでここにいるの?あそこには学校どころか、人すらいなかったと思うんだけど」
『彼』はめいっぱい両腕を広げて見せる。
「つまんないから」
「え?」
「つまんないから家出したんだ。学校はつまんないし、お父さんもお母さんもつまんないし、友達もつまんない。だから逃げ出すことにした。犬も一緒に」
少年は体育座りをし、交差した腕に、余った未熟な頬の肉を預けてみる。
「家出かい?なら近場の街やホテルで逃げ隠れしなよ。その方が見つけて貰いやすいだろう?」
「ううん、だめ」
「今はこの……まあ今持ってはいないけど、光る板でなんでも調べられるだろう?それで割と安全な所に隠れられれば充分じゃないのか?」
「だからダメなんだって」
「何がダメなのさ。なんでも調べられて、知ることができる今の何が──」
「だからそういうところがッ嫌いなんだよ!!」
気付けば『彼』の顔には、握りこぶしがめり込んでいた。対人格闘訓練と同じくらい、痛かった。それでも、『彼』はその不意打ちに怒りは抱かなかった。むしろぶしつけな言葉によく耐えていたな、と思った。『彼』は体を起こし、背中に少しこびりついた砂をむず痒いと思いつつも、少年から目を逸らさなかった。『彼』は途端に憎悪に満ちた少年の睨みに怯まず、少年の言葉に耳を傾ける。
「僕達は、なんでも見えてる。見ようと思えば幾らでも見られる。聞こうと思えばなんでも聞ける。大昔の人たちよりも、ずっと恵まれてるんだと思う。でも、届かないんだ」
「届かないって、どこにだい?」
「どこでもいい。僕の行きたいところに」
少年はぐずり、砂の雪原にぽたぽたと染みを作っていく。
「僕はここじゃないどこかに行きたかった。でも今じゃなんでも分かる。この光る板一枚でなんでも分かっちゃうんだ!学校の先生も僕が何をするべきなのかを教えるのは、これから何が起こるかを知ってるからで、まけいぬなじんせいを送らないために僕を進学させようとする。父さんも母さんも光る板が無いこども時代を生きたはずなのに退屈そうな顔をして、なんでもは知らないのに知らないどこかに行くことを諦めて、僕を産むことを選んだんだ!それが嫌だった。だから出て行ってやったんだ」
『彼』は言葉を返さない。少年の言葉を待ち続ける。
「最初は楽しかった。犬と一緒に、どこまでも散歩しているみたいに楽しかった。……でも、分かってくるんだ。似ているって。前に調べたどこそこに似ているな、この人は前に見たことがある気がする、って。どこも変わりがない。同じ場所に見えてきて、そして、ここにたどり着いた。本当にただの偶然で。木の洞にあった池に落ちたら、体が熱くなって、そして、ここにいた」
「その間に、全部が見えて、全部が見えなかった、と?」
少年は二度頷く。
「あまりに速すぎて、何が見えてるのかもわかんなかった。でも、なんだか訊かれた気がしたんだ。【何がしたいのか】って。僕は願ったんだ。どこか遠くに行きたい、って。ここじゃない、お父さんもお母さんも、この世界じゅうの誰も届かない、うんと遠いどこかに行きたいって。そしたら叶えてくれるはずだった。それなのに、長いんだ」
「長いって、なにが?」
「この砂、あるでしょ。これを使って、僕の願いを叶えるために、なにかを作らないといけなかったんだ。これがものすごく大きくて、もう、ずーーーーっと作ってるのに、終わらないんだ」
少年は双葉の切り株の方を見やる。『彼』が目線を向けたところ、そこには砂の土台があった。まるで、船の竜骨のような骨組みが、生物のような丸みや角ばりを持ちながら、船首にあたる部分を夜空へ掲げていた。
「どこに行ったって同じなら、僕はどこにも行かなくても同じなの?」
『彼』はその言葉に、絶望を見た。少年の言葉は幼稚で、幼くなければ抱けない全能感に支配されているかのように思えた。が、しかし、その言葉に、『彼』はあの呆れるほどおめでたい、理想の世界を夢見る者たちの面影を重ねずにはいられなかった。外の世界にあこがれ、絶望し、さらに大きななにかのために、命をなげうった一人の少年の姿を、思い出さずにはいられなかった。
(なんでも分かるはずなのに、人の調べることは本人の興味の延長からしか起因しない。私も同じだな。エレンたちを見つけるために、三年間を費やした。この世界のことを調べつくしたのもそのためだ。私の心は、あのシガンシナからなにひとつ動いていないのかもしれない。この子も、きっと同じだ。それなら、私にできることは──)
「ここの時間の流れは不思議でね。ここにいる間、外の世界の時間は止まってるんだ」
『彼』は立ち上がりながら砂を指先でつまみ、パッと空へ広げてみせる。
「君があの船のようなものを完成させるまで、多分、数百年はかかると思う。その間もあちらの世界は時が止まったままだし、いくらでも時間を掛けられる」
「じゃあ──」
「でも、あれを見るに君は、ほんの数日も取り組んでない。大急ぎで作っても何百年も掛かるのに、君は座って土いじりしていじけてる」
あの砂の船は、『彼』が先ほどまで戦っていた肉塊でこねるには小さすぎる。きっと数百倍の大きさを持つ船を作るハズが、少年は設計図を描いた段階で心が折れてしまったのだろう。そのあまりの大きさに。
「いじけてなんかない!僕にはいきたい場所があって───」
「ならばなぜそうしない。幾らでも時間はあるのだろう!父さんと母さんを、友達を、君の知る人たち全員を振り落としてでも叶えたい願いなんだろう!なぜそうしない!」
「ぼ、僕は……」
「私にこの力があれば、絶対に諦めない。君よりも前の持ち主がそうだったから。彼は諦めなかった。友のため。人類のため、愛する人のため。或いは己の愛の正しさと、愛する者との決別のために!私なら……」
ここで『彼』はこの世界で初めて、自分の願いを、両手を握りしめて口にした。
「エレン達がいた世界に、帰るため!!」
彼の言葉の末尾は、上ずっていた。大人の本気の剣幕に、少年は両肩を上げ、頭を沈めたままだ。少年が怒られるようなことをした時でも、両親はここまで感情をあらわにしなかった。これ程恐ろしいと思える感情の衝突は初めてだった。その感情に返報するように、少年は首を戻して、『彼』に聞く頃には、『彼』は元通り、静かな大人に戻っていた。
(絶望こそすれど、諦めない大人の姿を見せること、そして、そのあがきの過程を示すことが、私にできることだ)
「エレン達がいた世界?なんで世界なの?国じゃなくて」
「……聞きたいか?」
「うん。だって、時間は幾らでもあるんでしょう?」
「じゃあ、あの船をこねながら、だ」
「ええーっ、めんどくさい」
「不平を隠さなくなってきたな。その方がいい」
「なにそれ」
「いいから。組み立てながらでないと、喋るつもりはない」
「ちぇっ。分かったよ」
さて、どこから話そうか、と『彼』は一冊の本を取り出す。彼が訓練兵時代から書き記し、この世界で味わった稲妻の仔細を記した日誌を開いて、せっせと砂に水分を含ませ、ぺたぺたと骨組みにくっつける少年の背中に、その全てを語り聞かせた。
「今から百年以上前、人類にある天敵が現れた……」
『彼』は語り聞かせた。ことの始まりも、その道のりも、その果てに限りなく近い道のりも。
「……そして、この『天と地の戦い』と呼ばれる最後の戦いは、人類の全ての希望を背負った勇士達が……」
「その勇士たちが?」
「……終わり」
『彼』は優しく日誌を閉じた。
「え?」
「終わりなんだよ。私は、この戦いの結末を知らないんだ」
「ええーっ、そんなー!!」
少年は思わず、梯子から転がり落ち、砂地に頭を打ち付けた。痛みは無い。道の世界だから。
「それで、どのくらい経過したんだっけ?あれから」
「私の計算が正しければ、13年くらいか。私が言うのもなんだが、どうだい、かなり詳細に書き記したもんだ。声に出して読んで13年掛かる日誌を……いや、さすがにありえないな」
『彼』が外の世界で記した日誌は、ここまで詳しく書き連ねてはいなかった。せいぜい数日もあれば読み終えてしまう程の文量だったはずだ。
「さすがは道の世界だ。知りたい内容を、勝手に見せてくれていたらしい」
「こんな物語が、この道には沢山あるのかな?」
「きっとある。私達に読める、知ることが出来る物語がこれ一つなだけで、多分この中には、私達の知らない、無数の物語が砂の中に眠っているんだろう。……けど、この物語を君じゃなく、私に聞かせたということは、もしかすると道の世界の力は、君以外にもまだ渡せる状態なのだろう」
「本当!?」
「まだ君が船を作り終えていない。それは、この力が君に定着していない、って意味になるんじゃないかな?それで、暇潰しで私にも力を貸してくれたのかもしれない」
「13年も掛けたのに?まあ、感想を言い合って時間を潰したりしたけど」
「ああ。梯子を掛けてるが、今君が作ってるのは、実物の尺を正確に測り、再現する際に齟齬が無いが確かめるための、『模型』なんだから。本来の大きさは、これの何十倍も大きい。いや正直、天と地の戦いに出てくるあの骨の巨人より大きいな、これは」
ドザッと、わざと音が出るように少年は倒れ込んだ。
「……無理だよ、こんなの」
「無理だね。君でも、私でも。きっと誰にもやり遂げることは出来ないんだろう」
「怒る気はないけど、誰かこれをやり遂げた人はいるの?」
「いるよ。この力の前任者、そして、この本に出てくる始祖ユミル。彼女は二千年間、巨人を作り続けたんだ。たったひとりで」
「二千年も!?」
「現実時間に換算して、だからね。道の世界でなら、もしかすると数万年にものぼるかもしれない」
「に、二万…」
地面に寝そべったまま、少年は少年とは思えない程使い込まれた老練の両手を地面に放る。
「……負けだよ」
「んん?」
「僕の負け、って言ったんだ。多分、あの船っぽい生物を作るのに、始祖ユミルほどの時間は要らない。でも、そうまでして、僕が叶えたい望みが叶う気がしなくなったんだ。負け惜しみなんかじゃない。13年だけしかやってないと思ってたのに、この手が13年もよく頑張った、って言ってくれてる気がするんだ。」
「それなら、私からもありがとう、と言わせてほしい。正直、私はこの世界のことが好きだけど、君はそう思わないかもしれなかったし、長く聞いてくれて、感謝してる」
「うん。とても楽しかった。……でも、もう帰らないと。この力も置いて行くよ」
「ああ。」
「それで、その……」
少年は年季の入った手指を、手を洗うかのように擦り合わせながら、上目づかいで『彼』に頼む。
「その本、貰ってもいい?」
「ああ。いいとも。全て覚えてる」
この道の世界の13年間は、『彼』の記憶を完全に復活させた。この日誌は、『彼』には必要なかった。
「また冒険がしたくなったら、開くといい。もっとも、ここのように詳しくは書いてないし、ここでの記憶も無くなるかもしれない。そこまで過剰に期待はしていないが」
「うん。ありがとう。僕、忘れないよ。頑張るから」
「ああ。ここで13年粘ったんだ。その根性があれば、きっとなんだって出来るさ」
「違うよ」
少年は満面の笑みで、『彼』に宣言する。
「兵士さんのことを、だよ。僕は何も知らなかったんだよ。世界のことを全部知った気になっていた。知り尽くした世界に興味は失せたと思っていた。でも、兵士さんが教えてくれた。似通った世界でも、これほどまでに物語が広がっていたんだ」
捲し立てる少年の瞳に、純朴な光が宿っていた。
『彼』はその希望に満ちた視線に、思わずはち切れんばかりの笑顔になり、大声で笑った。
「はっはっは。そりゃあ予想外だった。嬉しいよ」
「名前!名前を教えてよ!」
「どうしようかな。戻るころには忘れてるかもしれないし」
「いいから!」
「分かった。私の名前は──」
『彼』はかつての自分をその少年に重ねながら、日誌に名前を記す。そして、少年に名前を告げる。この世界での名前ではなく、エレン達に名乗っていた、その名前を名乗る。自分の覚えている、自分たらしめるたった一つの名前を。
少年は記されたその本を抱き締めて、『彼』に宣言した。
「うん。ありがとう。僕、絶対忘れないから」
「ああ。元気でな」
少年は、双葉の光柱から離れてゆく。歩く最中、少年は振り返り、なるべく長く『彼』をじっと見つめていられるよう、めいっぱい手を振りながら、後ろ向きに歩いて、途中で転んだ。しかしそれも『彼』からは見えなくなり、少年は道から去った。
『彼』は少年を見送ったことを、体に流れる前例の無い力で確信し、双葉の光柱に向き直る。光柱の形は、灯火のような、掌に収まる程度の大きさの雫になっていた。その消えかけの蝋燭のような光に、『彼』は一人ごちる。
「さて、あとは、私だけだ。受け渡し出来て良かったよ、この力。あの肉塊が出現してから結構経ってたのに、あの子どもに定着していなかったのは運が良かった。」
(いや、過去も未来も存在しないのなら、この力はこうなることが決まっていたのかもしれない。……考えたところで仕方ないか。)
「あの少年は願った。そして応答があった、と言っていたっけか。なら同じ問い方をすれば答えられるだろう。誰に望むか分からないが、私を元居た世界に帰してくれ」
『彼』は夜空に向かって願った。しかし、返事は無かった。『彼』の持つ時間感覚は、少年との永きに渡る歓談で既に壊れていた。数日に渡り同じ願いを唱え続けたが、返事は無かった。唱える最中、『彼』の鼓動は何度も乱れたが、『彼』はそれを懸命に押さえつけた。組んだ両手を解く。
(やり方が違うのか?いや、しかし、あの少年が有耶無耶に起こした行動が、たまたますべて特定の儀式の必要条件を満たしていた、なんてありえない)
エレン達の顔が浮かぶ。
彼らは確かに、あの時代を強かに生き抜いた。だが、それで彼らは本当に幸せだったのだろうか。
エレンの言う通り、戦いは終わらなかった。血を流さずとも、言葉で、行動で世界に立ち向かい、平和のために戦い続け、生涯を捧げた彼らが幸福だったのか。
あの時代を生きた者達に、安寧は訪れたのか。
分からない。本人に訊いてみない限りは。
(……そうだな。
訊く方法もないのならば、ここは一つ、身勝手にも彼らの幸せを願ってみようか。)
同じく、数日に渡って願いを唱える。しかし、返事は無かった。
(具体的な方法すら示さない。なら、叶えられない、ということでいいのかもしれない)
エレン達かれらは、どこにもいない。
この木だけは存在するのに、彼らの残した足跡、それらは歴史の奔流に押し流された。もはや、跡形もなく。
しかし、この力だけは残っている。この道の力だけが、彼らの歩みを禍根のように現代にまで残している。皮肉にも今日こんにちに、再び争いの火種になって。
あの子どものように、その力の使い方を違えれば、何度でもその運命が繰り返されてしまう。人を変えて。場所を変えて。時代を変えて。尋常ならざる力を世に溢れさせる時代を産み出してしまう。
それならば、今この力が私に渡ったことで出来ることは、一つだけだ。それは、誰も手に出来ないようにすること、それ一つしかない。
過去までも操り、未来を一つの結末に還すことが出来るのならば、彼らがそもそも存在しなかった歴史に変える他ない。
巨人がいないとされている、ではなく、そもそも存在しなかった。歴史に名を残していないのではなく、そもそもこの星のどこにも居なかったとする他ない。
最初から未知の力など存在しなかった、という結末に還すためには。
出来るか、と『彼』は夜空に問う。
返事はすぐに心のうちに流れ込んでくる。はっきりとした言語によってではなく、意味が込められた念のように、『彼』の理解できる意味で明示する。『彼』の見知った、最も大切な仲間達を模した声が、混ざり合い多重に聞こえてくる。
【捧げよ】と。
何を、と『彼』は問う。
【望み】を捧げよ、と夜空は答える。
望みを捧げよ、と。始祖ユミルの時と同じだ、と『彼』は思った。
(しかし、代価を求めるなどとは知らなかった。願いが特殊なものだからか?)
今この身に有るもので叶えられるのか、出来なければ、一度ここを去る、と『彼』は問うてみる。
【今ここに有るもので叶えられる。そうでなくてはならない】と、夜空は答えた。
それはなんだ、何をすればよいのだ、と『彼』は問う。
【もっとも望んでやまないものを手放せ】
と、夜空は答えた。
「できない。いや、できる訳が無いだろう。私がなんのためにここまで来て、なんのために生きて来たのかわかるだろう!!」
『彼』は当然躊躇した。今ここに彼らはいなくとも、彼らが確かに存在したことを、『彼』の記憶と道の力だけだが証明できる。この星をくまなく探せば、子孫なり文献なり、痕跡を見つけることならかなうかもしれない。しかし、過去が変われば、その望みさえも潰えるのだから。『彼』は震えていた。仲間がもたらした温もりで止んでいた『彼』の震えが、再びぶり返した。
夜空は『彼』の内心を暴く。
【彼らにまた会うことを、『君』は求めてここまで進み続けて来たのだろう?】
数メートル先の地面に、『彼』は何かを視認した。何かが光っている。
近づき、砂地を手で払ってみる。目を近付け覗ける程度の大きさの鏡面が砂に埋まっていた。それは、『彼』がこの世界に来て始めて自分の顔を見て、あまりの違いに驚愕した、あの鏡にそっくりだった。しかし、そこに反射するのは、この世界で『彼』が得た、東洋の血族に似た顔ではなかった。
その顔は、『彼』の顔だった。巨人のいた世界での『彼』の顔が、鏡越しには戻ってきていたのだ。丁寧に、調査兵団の装いも身に付けて。
その姿に懐かしさを抱くのも束の間、鏡が光り始めた。
光の中に、無数の情報が現れては消えてゆく。
生命の原初にあたる存在から、海と陸が生まれ、木々がそびえ立ち、獣や巨大な爬虫類、『彼』が見てきた古代生物の数々が写り、そして瞬く間に死に、骨となっていく。そして、次の世代が現れる。哺乳類が支配する時代に。
そうして流転する何十億もの生命の隆盛と潰滅の光景、その中に『彼』は確かに、自由を求める少年の姿を見た。時間が静止したかのように、その少年を写した状態で、鏡面は映像の羅列を止め、等速でその姿を映し出す。
名乗るのも忘れ、『彼』はその少年の名を一心不乱に叫ぶ。この世界に来てから、何年も探し続け、ついには呼ぶことを諦めた名を。
「ここだ!ここにいる!私はここにいるんだ!!エレン!ミカサ!アルミン!!皆!…皆ぁ!!」
刹那、彼が『彼』に気付いたかのように鏡面の向こうを見つめた気がしたが、彼は鏡面に向かって走り、ぶつかるかと思えば通り過ぎ、向こうにいるであろう幼馴染み二人のもとへ走っていった。すぐさま、鏡面は光を失い、あの瞳のように、訓練地で見た死者の瞳のように澄んだ黒色に戻った。そしてその砂漠に作られた黒点も、砂の中へ沈んでいった。
「待て!待ってくれ!こ、こんな……まだ…」
レンズにかかる埃をブロワーで優しく拭い取るように、『彼』は恭しくふうふう息を吹きかける。鏡を傷付けたくないがために、手で掘ることはしなかった。また彼らの姿が写るかも知れなかったから。
「まだ『私』を見つけてくれてないじゃないか!!そこにいるんだろう!お願いだ…答えてくれ!!あと…ほんの…少し手を…伸ばせば…そこにっ!」
しかし、砂地に戻った平面に、ふたたび光が宿ることは無かった。『彼』は何度も、途方もない時間も一瞬に凝縮できる道の世界で息を吹き続けた。遅々として払われぬ砂に業を煮やし、それでも怒りをその手つきに顕さず、砂を掘り返した。しかし、網膜で踊った小さな巨人の世界は、二度と浮かび上がって来なかった。『彼』の吐息は無限に堆積する砂一色の地層の表面に、僅かに年輪を描くだけだった。
【見せることは可能だ。しかし、この道の世界の力で繋ぎ留められた二つの世界が交わることはない。どちらかが送り込まれるか、送られてくるか、だ。弾き出された君に、戻る手立ては無い】
「送り込まれる……それなら、元のこの身体の持ち主は?この身体があるのなら、その持ち主の精神はどこに行ったんだ!?」
【あの世界に。君とは違い、送り込まれた自覚のないまま、あらゆる帰結を迎え入れ、あの世界でその生を果てる。ある時は普通の市民として。ある時は富豪として。ある時は貧民として。あるいは、鎧の巨人に憎悪を抱く、悪魔として。】
『彼』は地面を見つめたままだ。
「なぜ、『私』なんだ。『私』以外に、巨人のいない世界を見て回りたかった者たちは大勢いた筈だ。戦いの中で死んでいった者たちだって、『私』より強い望みを持っていた者たちが沢山いたんだ。答えてくれ。……なぜ『私』なんだ!『私』だけを、あの世界から拐かされなければならなかったんだ!」
【分からない。君でなくてはならない理由などないのかもしれない。この力が、何度も生物に引き継がれ続けてきたように。君の祖にあたる一人の女が現れる前から、気まぐれにこの木の洞に迷い込む者はいた。渇きからか飢えからか理由は定かではないが、人でない生き物が大半だった。だが迷い込んだ全てが共通して、この力を拡げることを欲したのだ。君の望みと違って。その君の特異さが、ここに呼び寄せたのかもしれない】
「分からないよ。私はただ、彼らの所へ帰りたかっただけだ。鎧の巨人を倒せなかった時だって、軍港で兵士長に殺された時だって、天と地の戦いで死んだときだって、エレンとミカサが逃げ出して、壁外の世界全てが私の故郷を焦土に変えたときだって…!幾つも分かたれた私の運命の中で、私は彼らを恨んだことなんて一度も無かった!彼らのいた世界が、愛しかった。彼らがいたから、彼らが何度も私を求めてくれて、私が応え続けたから、私はあの世界を生きて来られたんだ!なぜ、なぜ帰してくれないんだ!!」
【あの少年の望みを叶えていれば、少年があれを完成させるくらい我慢強ければ、あるいは君は帰れたのかもしれない。少年の持つ自由への渇望は先に述べた極点を壊しうるほど多大なものだった。あの少年が完全に変異を終えれば、この道は裂け、この世界と向こうの世界の双方に生まれ落ち、等しく大殺戮を犯していた。地ならしが慈悲深く見えるほどに。
数千万に留まらない無数の巨人を産み落としながら大空を羽ばたき進むあれの後ろで、君は開かれた極点を潜り、大手を振って帰ることになる。あの少年を自由にさせて、何も知らないエレンを、ミカサを、アルミンを、マーレもその他人類をも、845年の段階で皆殺しにし、異なる世界から悪神を連れてきた悪魔と人類に呪われながらな】
『彼』は顔を上げないまま、問う。既に解を知っていてもなお。
夜空は答えた。
【出来ることは、この道の世界によって開けられた、この極点を閉じることだけだ。本来この星には、何もない。被せられた一枚の布のように、この星の表面を、この世界か君がいた世界、二つの内どちらかの歴史を内包し、包み込む。今度は一切の破綻なく。剥がれかけた布の表か裏にいる君が、どちらが真なる歴史かを、端を結わえ、定めるのだ。次こそは表と裏に極点が二度と開くことの無いように、綻びを防いだ主も、その役目を終えて消えねばならない。
君は、あの世界には決して帰れない。まして、その世界にいる筈の君は、この役目を請け負うことで、始めからあの世界に居なかったことになる。あの世界を生きて、君が今持つその肉体の主もそうなる。】
『彼』は壊れた。
彼は流した。滂沱の涙を。顔はぐしゃぐしゃに歪み、届かない星たちのために砂を掻き、両の手を砂に埋(うず)めて悔恨を慟哭する。道の世界一枚を隔てた彼らを、この星にいたかもしれないの彼らの道のりを、『彼』の記憶にしか存在しない、脳の頁に記した夢物語にしなくてはならないのだから。兵士として生きていた頃に、どんな時でも涙を流すことがなかった『彼』は、シガンシナで父と母を喪って以来の落涙を続け、この砂地は『彼』の気の済むまで、いつまでも、いつまでもそれを受け止め続けた。『彼』が望めば、道の世界はいつまでも『彼』に仲間達の幻影を見せ続けた。『彼』がこれから喪う悲哀は、この砂の雪原が全て水底になる程に涙を流しても、顕しきれなかった。
しかし、誰かがやらなければならなかった。
自由を求め進み続け、後年に悪魔と呼ばれた一人の少年は、自分を慕う僅かな友たちと一人の愛する人のために自らの命を捧げ、悪魔となった。次は『彼』の順番が回ってきたのだ。あの日、シガンシナで全てを失った『彼』に差しのべられた数多の手を抱いだいて、世界を救うために。砂地が見せた悠久の夢から覚めて、『彼』は力を込めて目元を拭い、立ち上がる。あの残酷で美しい世界で誰もがそうしたように。『彼』が知る者たちが、『彼』が知らぬ無数の『彼』らがそうしたように。
あの世界で誰一人たどり着けなかった未来の帰結に、導かれた者の責務を果たすために。一人の少年が下した結末に、意味を与えるために。
世界でたった一人の、時代の記憶にも、世界の記憶にも残らない、『最後の兵士』として。
「その証を示そう」
『彼』は一冊の本を取り出し、砂地に静かに置いた。そこには、『彼』が見てきた世界の全てが書き記されていた。これが、『彼』が捧ぐと決めたものだった。炎の水、氷の大地、砂の雪原。『彼』が直接見て描いた世界の全てを記したその一冊を。一人の夢見がちな少年に希望をもたらすためにしたためた一冊を。
【捧ぐものは定められた】
再び星々は揺らめき、『彼』の体は、足先、手先のあたりから、ポロポロと砂粒に変わり、道の中へと溶け合ってゆく。
(そうか。ウォール・シーナでの戦いで、鎧の巨人を殺すことを諦めて、エレンに日誌を託し、皆を守るために剣を取ったあの行動には、こんな意味があったんだな。
あの時死んだことに、意味があったのかは分からなかったけど、そうか。全ては、このためだったんだ。
それは、すべてを託すため。そして、もう一度出会うためだったんだ。何もかもが過ぎ去った後に、この力を知った誰かが、再び道を違たがえることが無いように)
砂となった膝は自重を支えきれず崩れ、『彼』は仰向けに倒れて、空を見上げる。『彼』の心臓の温もりが砂に満ち、『彼』はそれに包まれた。白と黒の翼に抱かれているかのように。
(ありがとう、みんな。
私を、慕ってくれて。私に力をくれて。私に、諦めさせる力をくれて)
夜空から最後の声が響いた。
【君が極点を失くし、一つの世界に結ぶことで、極点の維持のため閉じ込められていた廻天が動き出すようだ。あちらの世界にしか居られなかった者達が、こちらの世界を知ることが出来るようになる。本人らに記憶が無くとも、魂だけが、こちらとあちらを行き交うことができるだろう。体と魂を生半可に扱う【道の世界】と違って。君はそのいずれにもいられないが、私が覚えていよう。君の生きた証は、もはや誰も覚えていなくとも、誰も思い出せなくても、私だけが、君がここにいたという証を、忘れずにいよう】
『彼』の耳はもう塵となっていた。『彼』は『彼』の世界の中に沈んでいた。何も見えず、何も聞こえなくても、『彼』の目と耳には、いつもの彼らの姿が、声が現れ続けていた。
(私は君達を見ているよ、いつまでも)
『彼』の全てが塵となる頃には、星空も、砂の大地も一つに溶け合い、結わい合わされ、重なりあった白黒の繊維の交差となり、やがて、その繊維の集まりもどこか遠くへ揺蕩うがために、あるいはその揺蕩いをやめるために、その交差をほどいてどこへともなく霧散していった。
─3─
濛々と上がる煙から、一人の少年と犬が出てくる。どこにも傷は無く、一冊の本を大事そうに抱えていた。その時は誰にも、その本の中身を見せなかったそうだが。
軍に囲われ報道ヘリに乗った少年は、上空から自分が出てきたであろう根本を、そして木の全体像を見つめる。
「あの木、あんな形だったっけ?」
子どもの記憶では木は多少くじけながらも真っ直ぐそびえていたようにな気がしたらしいが、今眼前に移る大樹は、幾重にもねじれ、挫折を繰り返してきたかのように、いびつに空へと向かっていた。まるで、何かを受信するのを止めたかのように。
少年は鼻をヒンヒンと鳴らしてすり寄る犬を愛おしく撫でながら、自分を救ってくれた人の名を思い出そうとしていた。
木の洞は、完全に塞がっていた。後日報道陣が掘り返しても、そこには何も無かった。あの謎の肉塊との戦いの映像は世界を巻き込んだモキュメンタリーだとして報じられ、多くの激論を呼びながらも、世界は最終的にそれを虚構であると結論付けた。スクープを見事切り抜いた報道局は、世界有数の虚構を演じた報道局として歴史に残った。
あの巨大生物に立ち向かった非正規軍と少年は、モキュメンタリーにおける最大級の演者として称えられ、機密組織は再編成を余儀なくされた。それはいわば解雇であるため、それが後に彼らの幸福な人生を保証したかは、誰にも分からない。
いっときの心変わりか、少年も真相を暴くことに協力する姿勢を見せたものの、あらゆる現象を科学で紐解けるその時代では、『彼』の言葉も数年もすればやがて世間には忘れ去られていった。少年は恩人の名前を挙げようとしたが、その名はなぜか、極東の一国で行方不明になっているある者と合致していたが、少年はその名とは異なる誰かが自分を救ってくれた者なのだと、生涯に渡って否定し続けていた。
少年が大事そうに抱えていた本の表紙に、名前は書かれていなかった。
やがて、一人の作家によって、当時の衝撃を人類は銀幕にて思い出すのだが、それはまた、百年後のお話。きっと誰も気付かないのだろう。それが、過去に起きた本当のことであると。
かくして名もなき英雄は、二つの本を、別々の時代に託した。
名もなき一冊の本を、一人の夢見がちな子どもと犬に託し、外の世界の本を、道を通じ、外へ向かわんとする勇気ある少年の元に届けた。
【エピローグ】
「エレン!ここにいたんだ!」
「どうしたんだよ、アルミン?」
「これ…じいちゃんが隠し持っていたんだ!外の世界が書かれてる本だよ!」
「外の世界の本だって!?それっていけない物なんだろ!?憲兵団に捕まっちまうぞ!?」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだ!!この本によると、この世界の大半は『海』っていう水で覆われているんだって!!しかも『海』は全部塩水なんだって!!」
「……!!塩だって!?うっ嘘つけ!!塩なんて宝の山じゃねぇか。きっと商人がすぐに取り尽くしちまうよ!」
「いいや!取り尽くせないほど『海』は広いんだ!見てよ!この本、僕たちが書いてる文字とは逆さま・・・に書いてあるんだ!それも、一部の文字はなんだか丸みを帯びてたり、もっと複雑な文字も使われてて、なんだか暗号みたいなんだ!」
「逆さま?それに暗号?なんで?」
「きっと、とても大事な本なんだよ!僕のおじいちゃんは、おじいちゃんよりももっと昔に書かれた本かもしれないって言ってた!きっとこの本は、僕たちが読むために作られたに決まってる!」
「……んなわけ…」
「塩が山ほどあるだけじゃない!!炎の水!氷の大地!砂の雪原!きっと外の世界は、この壁の中の何倍も広いんだ!」
「外の世界…」
「エレン!いつか僕たちも……外の世界を探検できるといいね…」
843年、残酷さも知らぬ齢の一人の少年が、その本伝いに、外の世界の美しさを知った。
その本を書いた者は、彼らの世界から消えていたが、その本だけが、『エレン』の背中を押した。
一人の名もなき兵士の、誰にも知られない別離によって、エレンの物語が、もはや何者の手によって変わることなど無い、たった一つの結末に向かうべき運命として、始まったのである。
もしも、エレン達の物語に続きがあったら。エレン達の戦いの歴史から遥か未来の場所で、もう一度誰かが始祖ユミルのような原始的欲求に身を任せて、悲劇を繰り返しそうになったとしたら。もし少年と犬が入っていった大樹の洞に、またハルキゲニアが活気づいて宿主を待っていたとしたら、その悲劇の再生産を止められるのは誰なのか。
そういう妄想を膨らませる中で、進撃の巨人2のゲーム主人公のことが頭を過りました。
進撃の巨人2の主人公がなぜ生存でも死亡でもなく、『行方不明』扱いなのか。もし『彼』くんちゃんが原作の世界と何か関わりを持つことが出来たなら、エレンはゲーム主人公のことを恐らく快く思わないはず(だって原作のフラグバンバン折りまくるので)
おそらく名もなき英雄のムービーで、道の力を使ったエレンに遥か遠くの干渉されない時、場所にゲーム主人公は移動させられたんじゃないのか?さらにそこから、エレンの物語が確定するためのステークホルダーとしての役割を、ゲーム主人公が持てないか?
エレン達が紡いだ物語が、誰かによって揺らぐことの無いよう守る役割と、誰かが再び力を手にした時に、悲劇を繰り返さないよう守り、その力を永遠に手の届かない場所へ持っていける役割を持たせられないか、と考えた。
そんな多数のifを一つに纏め上げたものがこの作品です。