―――第七学区、教員住宅街
「とうま、大丈夫かなぁ」
畳の部屋に座り、インデックスが今日何度目か分からないほど繰り返した台詞を口にした。
朝からテレビは特別編成のニュースを始終流している。その画面に、インデックスはかじりついていた。
「きっと大丈夫、だなんて言うつもりは、ないですよね?」
その様子を部屋の入り口で見守っていた家の主、月詠小萌が、子供のように幼い外見とは裏腹に厳しい言葉を囁く。
「あなたがたの教祖様は、全てお見通しなんでしょうけど、私たちは違うんです。あなたがたの都合で、上条ちゃんをあのような危険な場所に連れ出すというのは、担任として、看過し難いのです」
「……理解しているよ」
白装束にパーマのかかった金髪の少女、モズが小さな声で答える。小萌と同じように、離れた位置から、インデックスの小さな背中を見つめている。
「ただ、あなたを逆撫でするようなことを敢えて言うが、ミヤコ様のお言葉に従い、私たちは上条の力を借り、あの場へ―――戦場へ同行させた。そして、上条は無事に帰還する。断言できる」
「あの女の子―――インデックスちゃんは、今、上条ちゃんを一番の頼りとしているんです」
言い訳をとても鵜呑みにはできない、というように、小萌は唇を引き締め、鋭い視線をモズへとぶつける。
「ここで何か、彼が傷つくようなことがあれば……あの子がどれほど悲しむか。もちろん、それは私も同じです」
「心配してくれてありがとう、こもえ」
インデックスの声がはっきりと聞こえ、2人は意識を向ける。
いつの間にかインデックスはテレビではなく、2人へと体を向けている。エメラルド色の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。
「私は、モズのことを怒ったりしてないよ?」
「……どうして?」
モズが聞き返す。努めて平静を装ったつもりだが、小萌の言葉を受けた後では、不安が隠し切れない。声が僅かに震えてしまう。
「モズだって……心配でしょ?サカキやミキのこと」
図星だった。モズは唾を呑み込み、俯く。
上条を連れて行った2人の仲間は、一〇学区の原子力研究特区まではたどり着いた所までは連絡がとれた。そこから、アキラの眠る施設へと向かった筈だが、しばらく音沙汰が無い。
「……そうだね」
つい、口をついて出てしまった。
サカキやミキのように、任務のためだけを考え、冷徹になり切れない。そんな自分を痛感して、猶更モズの表情は曇った。
「それに、大きな異変が起きてるんだってこと、私にも分かるよ」
インデックスが、テレビ画面に目を向けて、静かに言った。
画面では、アンチスキルが派遣した無人ドローンによって撮影されたものだという、上空からのざらついた映像が繰り返し流れている。膨大な瓦礫の広がる荒野で、巨大な人型をした、形容しがたいものが、はいはいをする赤子のようにゆっくり動いている。
「私には、アレが一体なんなのか、見当もつかないのです。科学の産物だとはとても思えない」
小萌が不安げな表情を露にして言う。
「インデックスちゃんは、あれが、あなたの詳しい……魔術、的なものだと思います?」
インデックスは、僅かに首を傾げる。
「……アレが生物だとしたら、
インデックスはフードの金刺繍を煌めかせて、モズの方へと顔を向ける。
「ミヤコは、何て言ってるの?」
モズは、しばらく言葉を返すことができなかった。口をもごもごさせる。
「ミヤコ様は―――」
ここしばらく、主であるミヤコの“声”は聞こえてこない。自分が心を乱され集中できていないせいだと、モズは思った。自責の念が強まり、そしてインデックスの純粋な疑問に答えることができず、自然と目頭が熱くなる。
「誰にも完全には理解できないことが起きてるんだね。きっと」
インデックスの言葉に、モズは顔を上げる。
インデックスの顔を見て、まさに
「放っておいたら、大変な
インデックスは立ち上がると、モズの傍まで歩み寄る。修道服の裾がするすると畳に滑り、柔らかな音を立てる。
「みんな、ヒーローなんだね」
インデックスがはにかんだ。
「だから、心配だけど……信じて待つことにするよ。モズも、こもえも、そうしよう、ね?」
モズの隣で小萌が小さく頷く。
小萌に悟られないように、モズは必死に唇を噛みしめ、素早く装束の袖で目を何度も擦った。
――― とある病院
「待ってください!勝手に外に出ては―――あぁ、誰か、応援を!!」
看護師が複数人駆けつけ、患者衣をはだけさせた若者を引き留めようとする。若者は、涎を唇の端から垂らしながら、焦点の合っていない目でうわ言を叫び、酔っ払ったような足取りで進もうとするのを制止されている。
「あ、あ、あァぁァあァキっききっらぁ、あァぁァァァァっ――――」
「……これはまた、随分品の無いパーティーをおっぱじめやがったねえ」
階段を降りて来たチヨコは、曲がり角の陰からその様子を窺う。
「あれも、レベルアッパーって奴のお恵みかい?随分カルトだねぇ」
「この病院も、たくさんの患者が収容されてたみたいだから、大混乱だね」
その背後で、ケイが囁くように言う。
「アンチスキルの連中にライト当てられるのは御免だね、この隙に、早いとこ逃げ出すに越したことはないよ」
「おばさん、大丈夫なの?」
ケイの心配そうな視線を察したチヨコは、自分の脇腹に目をやる。職員の更衣室に忍び込んで拝借したTシャツの下は、帝国の鳥男に刺された傷がある。
チヨコは顔を上げて、ケイに向かって笑顔を作る。
「いい医者みたいだったからね。面と向かって礼が言えないのは残念さ……何、どうってことない、かすり傷だよ……」
それより、とチヨコは額から滴る汗を拭いてケイに問い返す。
「お前こそ、大丈夫なのかい……能力者に攻撃を受けたんだろ」
「私は、平気」
チヨコと同じく盗んだキャップの鍔に指先を触れ、ケイは答えた。
「出来た血栓は、ほんの小さなものだったし……御坂さんが、すぐ手当を手配してくれたみたいだから」
「……
やや思う所があるのか、チヨコは暫し目を閉じてから、再び廊下へと気を配る。
「仲間達が、ストを起こして立ち上がってるんだ。うたた寝しちゃらんない、行こうか」
うん、とケイは頷く。
そして、2人は怒号や悲鳴が飛び交う病棟を駆けて行った。
――― 第一〇学区、原子力実験特区、「石棺」跡
「私の―――耳というべきか、いや、違う……前頭葉に直接聞こえてきていたんだ、あのアキラという名がね。
「喋っちゃだめです!先生」
瓦礫にもたれかかりながら、熱に浮かされたように話す木山春生を前に、たまりかねたカオリは制止した。
「何か、傷口に、止血するものを―――」
「その必要はない」
「でも!」
「いや、本当なんだ」
木山は、肘から先を失った右腕を上げてみせる。
その切断面は、黒く焼け焦げていた。一部露出した骨も、焦げ茶色に変色している。
「覚悟していた筈なのに、怖くなったんだ……島君に敗れ、しかも
木山は、残っている左手の指先で、自身の片耳に触れる。そこには、白いワイヤレスイヤホンが付けられている。
「あの子たちを救う最後の望みを、私は自ら手放してしまったんだ。島君が、あのように変貌したのを目の当たりにしたら、私は、怖い。ああ、そうだ、怖くなって……」
カオリは唾をごくりと飲み込み、一度振り返って瓦礫の山の向こうを見る。「鉄雄君」だったものは、しばらく目立って動きを見せず、うずくまるような形で静止しているようだが、その表面は拡散を待ちわびているかのように、時折騒めいている。
カオリは再び木山へと視線を向ける。
「一体……」
聞きたいことは山ほどあった。しかし、目の前の木山も、背後の鉄雄も、どちらも長々とお喋りに興じる程余裕のある状態であるはずが無いことは想像がついた。
「どうして、そこまでして、あなたは戦っているんですか」
カオリが問いかけると、木山の瞳に影が差したように見えた。
「23回だ」
木山が口を僅かに開いて、囁くように語り出す。
「『
「じ、実験て」
木山から語られる言葉を呑み込み切れず、カオリは疑問を口にする。
「能力開発の一環なら、そんな犠牲が出るなんて、だって、いろいろな学校で行われているんじゃ―――」
「『
木山がカオリの声へ被せるように言った。
「私がかつていた研究施設は、身寄りのない子たちを集めた養護教育機関としての顔もあった……私はそこで、学級担任として児童の信頼を得ることで、能力の成長度合いを詳細に見取り、彼女たちが実験に協力的になるようにした。もちろん、私も研究員の一人として……」
ゴホッ、と木山がせき込んだので、カオリがその肩に手を置く。
木山は首を振った。
「AIM拡散力場の暴走を誘発させる実験などと……知っていたらあんなこと、しなかったんだ!なのに、私は気付けなかった。無理に暴走させた能力は、行使者の脳に深刻なダメージを負わせたんだ。私は、教え子を……彼女たちを、体のいいモルモットにした訳だ。救わなければ、あの子たちを……」
けれど、と木山は瓦礫の向こうの巨大な影へと視線を向ける。カオリもそれにつられて顔の向きを変えた。
「最早、それは叶わなくなったな」
そこへ、唐突に足音が近づいてきた。
「カオリさん!ダメじゃないですか、勝手に一人で―――って木山春生!?」
鉄装綴里だった。片腕をなくした状態の木山を目にして、腰を抜かし、口をぱくぱくさせている。
「こっ、これは一体、どういう」
「鉄装先生、すぐに動ける仲間をこちらに呼んでください。木山先生もですし、ほかにも倒れている人がいます。手当てが必要です」
カオリは、自分でも驚くほど、すらすらと冷静な言葉が口をついて出た。
鉄装が、ひゃいと返事をして、少し離れた所へ移動し通信機を操作し始める。
「木山先生」
言葉を失っている鉄装に構わず、カオリが言う。それは震えながらも、はっきりとした声だった。カオリは木山の顔を見る。
「あなたが教えてくれた、人を助けたいって気持ちには、全然及ばないかもしれませんけど……こんな私でも、鉄雄君を、助けたいんです。お願いです。どうすれば鉄雄君を止めて、元に戻せるのか―――レベルアッパーの生みの親であるあなたなら、この解決策が分かるんじゃないかって思うんです。教えてください」
カオリは一つ息を吸う。
「あなたから渡されたメモリーチップは、今、ジャッジメントの友達が、街中に流そうとしている所です。アレを流せば、レベルアッパーのつくったネットワークが崩れて、鉄雄君は止められる。そうですよね?」
カオリの真剣な表情に、木山は唇を噛みしめて、少しの間考え込んだ。
「その可能性はある」
木山が言った。
「解除プログラムの音声ファイルを聞けば、少なくとも、昏睡している人々は意識を取り戻すだろう。そしてあの巨大な存在は、『
「じゃあ!初春ちゃんがうまくやってくれれば―――」
しかし、と木山が、表情を明るくしたカオリを制する。
「本来、AIM拡散力場の集合体なんてものに自我は無いはずだ。しかし、アレにはまだ、島君の意思が残っていて、更には『アキラ』の存在に影響を受けて動き回っている。私の予想を超えたことが起こっている……解除プログラムでネットワークの破壊に成功したとして、あの怪物はネットワークからは既に独立しているかもしれないし、期待通りに停止するかは未知数だ。すまないが、私にも結局のところ、何が起こるかは分からないんだ」
カオリは、木山の説明を聞き、目を閉じて思案する。
「もしも、鉄雄君が、自分の意思であの変化を解くことができれば、それが一番いいですよね」
「それはそうだが」
木山はカオリの言葉に表情を一層曇らせる。
「島君自身にも、実体化した肉体をコントロールできていないようだし、君にとっては辛いだろうが、自我だってもしかすると既に―――」
「木山先生」
カオリが目を開き、膝をついて、木山とまっすぐ顔を向き合わせた。
「お願いがあります。その音楽プレイヤーを貸してください」
カオリの言葉の意図が分からず、木山は目を瞬かせる。
「どうするつもりだ?解除プログラムなら、君の友人が―――」
「いえ、解除の方じゃなくて」
カオリは一度、大きく息を吸った。
「
木山は目を見開いた。
「そんなことをしたら、君があっという間にネットワークに取り込まれるかもしれない。いや、アキラの虜になるか?どちらにしても、正気ではいられないぞ。それに、君の友人がネットワークを破壊すれば効果はない。それを待つ方が……」
「私、力になりたいんです、鉄雄君の」
わがままを言ってごめんなさい、とカオリは頭を下げた。
「それに……なんとなく、私の言うことが、届くような気がします」
カオリが差し出した手を、木山は見つめた。
カオリが駆けて行った先に目をやりながら、木山は息をついた。
「……島君。君があれほどまでに想われているというのは、きっと幸せなことだよ」
そう呟き、木山はふらつきながら立ち上がった。
「私も、まだ引き下がる訳にはいかないな」
「こんなに負傷者が多いなんて……戻ってくるのが遅くなっちゃった」
辺り一帯で怪我を負った者を把握し終えた鉄装が、仲間数人を引き連れて戻ってきた。
「木山春生が本当に?」
「ええ、重傷を負ってまともに動ける状態では―――」
仲間へ説明しながら鉄装は辺りを見回す。
「……アレ?木山……カオリさん?」
先ほど見かけた2人の姿は、そこにはなかった。
「鉄雄君は、今、とっても不安定な状態なんだ」
鉄雄の変異した巨体を制御しながら、
「この街の、たくさんの人の力を集めて、暴走している。しかも、アキラ君とお互いに刺激し合っているから。放っておいたり、無理に力を加えたりすれば、今度はアキラ君が暴走してしまう。そしたら、街全体が消えちゃう」
「待て、今、さらっととんでもないこと言わなかったか?」
上条が焦ったように言う。
「何なんだよ、そのアキラってのは。あの怪物以外にも何かいるのか?」
「アキラ君は、僕たちが
「だから、それは心配しないで」
「バランスが大事なの」
「時間は少ないけど、焦ってはダメ」
「この近くには、壊されると大変なことになる建物がいっぱいあるでしょ?」
「……原子力実験炉ね?」
マサルの言葉に、美琴が答えた。
「でも、奇跡的に被害は出てないって……」
「アキラ君のカプセルが現れて、建物が吹き飛ばされたとき、僕たちが瓦礫の落ちるのを防いだんだ」
マサルが言うと、美琴や上条が驚きの表情を浮かべる。
「でも、今度はそうはいかない。僕たちは3人とも、アキラ君に話しかけなきゃいけないから」
「だから、鉄雄君を引き留めてほしいの」
「頼んだよ」
キヨコとタカシが言った。
「なあ、待ってくれ!」
3人が去ることを予感して、金田が声をかける。
「鉄雄は……元に戻れるのか?お前たちがやろうとしてるのは、鉄雄を殺しちまうのか?」
3人は一度、顔を見合わせて、そして暗い表情を浮かべる。
「……鉄雄君には、早過ぎたの。あまりにも急に力を使い過ぎて」
キヨコが静かに、金田へ言った。
「でも、鉄雄君は、私たちの41番目の仲間だから」
「仲間?」
聞き返した金田に、3人のナンバーズは頷いた。
そして、飛び上がるように上空へかき消えた。
「待てよ!まだ聞きたいことが」
「集中して!」
大声を上げて空へと手を伸ばしている金田を、美琴が叱咤した。
「アイツ、来るよ!!」
ぎゃあああ、と悲鳴のような怒声を上げて、戒めを解かれた鉄雄がその身を起こした。
見上げていた空を鉄雄の蠢く巨体が埋め尽くし、金田はレーザー銃を握る手に力を込めた。
「畜生……」
「よく分かんねえけど、戦うのは間違いないみたいだな」
上条も、金田の隣に並び立って、右手を握りしめた。
「けど、これじゃ埒が明かない……!」
空中で錐揉みした後、磁力を操作してどうにか着地した美琴は、息をつきながら鉄雄の巨体を睨んだ。
変異した鉄雄の能力自体は、美琴にとってみればやはり単調だった。念動力による衝撃波は変わりがなく、寧ろ当たり散らすように狙いもなく乱打する様子もあった。
「厄介なのは……」
美琴はそう呟くと、危険を察知し飛び上がった。
美琴が立っていた地面に、鉄雄の体表から弾丸のように伸びてきた触手めいた肉塊が炸裂し、音を立てて亀裂をつくる。
この変化する肉体そのものだ。グロテスクで奇怪なそれは、絶えず細胞の創造と壊死を起こしているようで、饐えた臭いを辺りに撒き散らしながら、目やら腕やら指やら、体の各部位をてんでんばらばらに生やしたかと思うと、今のように刺突や殴打による攻撃を仕掛けてくる。
美琴は電撃を放って、触手を焼き切る。元は人間一人の肉体なのだと思うと、嫌悪感が胸を駆け上がったが、戦闘を続ける内に感覚が麻痺しかけていた。
ところが、焼き切られた触手の断面から、花が咲くように、更に細かな触手が枝分れして向かってきたことに、美琴は集中を乱される。思わず、顔を両手で覆った。
美琴の寸前まで迫った何本もの触手を、ズバッとコンクリートを破断しながら光線が縦方向に一閃し、跳ね除ける。
「余裕かましてンじゃねえぞレベル5!」
金田がレーザー銃を向けながら怒鳴った。
「そういうお前もな!」
上条は、金田の背後に迫っていた肉塊を右腕で殴りつけ、ひるませた。
美琴は、より広範囲に広がる電撃を放って、鉄雄の肉体を退かせた。そして、2人の近くへ駆け寄る。
「あの子たちはまだなの!?いつまで時間稼ぎをすれば……」
美琴は荒く息をつきながら言った。
「オイ、大丈夫か」
「……ちょっとしんどいかな」
気遣う上条に、美琴は珍しく弱音を吐く。
3人の中で、最大戦力は美琴だ。
「ねえ、アンタには悪いけど」
美琴は、金田へと視線を向けながら口を開いた。
「もしも、いよいよどん詰まりになったら……そうなったら手遅れだから。私、余力がある内に、
金田は表情を厳しくした。
「……お、俺は諦めねえぜ!何か、何か手が―――」
「あたしがいなきゃ、アンタあっという間にぺしゃんこでしょうが!」
「でも!アイツは俺の友達で!」
先ほどの電撃が堪えているのか、悶えるように肉塊を震わせている鉄雄を睨みつけながら、金田が言った。
「こんなことをしでかして、仲間にも頭を下げさせてやるんだ!それに、殺しちまったら、カオリちゃんだって悲しむ!」
「それはッ……!」
美琴も決意が揺らいだ。
そうだ。自分は元々、木山に連れ去られたカオリを救うためにここまで来たのだ。
島鉄雄は、カオリにとっての大切な人だ。鉄雄が「帝国」のリーダーとして悪行を重ねていると分かってなお、カオリは思いを断ち切れていないように見えた。
自分が、鉄雄を殺していいのか。
美琴は、唇を噛んだ。
「……おい、何であんなとこに、女の子……」
上条が唐突に声を上げ、美琴や金田の背後に指を差した。
2人は振り返る。
「……かっ」
「カオリさん!?」
美琴と金田は、同時に驚きの声を上げた。
「……鉄雄君」
上条を、美琴を、金田を追い越し、進み出たカオリは、前肢をついて、巨大な体を起こそうとしている鉄雄に向かい、その名を呼んだ。
艶めかしく肉塊が光沢を放つ中、一対の目が開かれ、カオリの姿を捉える。
「……か、おりィぃぃ……」
鉄雄の口から、掠れるような声が漏れた。
「私の声、聞こえる?」
風が辺りを吹き抜け、カオリのまとまりのない黒髪を揺らした。
耳元には、白いワイヤレスイヤホンが嵌められている。
カオリの脳裏には、数多の声が聞こえていた。
あまりにも声が多すぎて、気を失いそうだったが、それでも気持ちを確かに持とうと奮い立たせ、カオリはゆっくりと足を進めた。
能力者相手に、野球に対する情熱を失った男の人。
後輩からの陰口を耳にし、学園都市の能力評価に対する絶望感を深める女の子。
仲間を囚われ、泣きそうになりながら銀行へと踏み入っていく若い男。
たった一人の肉親の危機に、レベル向上へと切迫感を強めていく女の人。
セブンスミストで、アンチスキルに囲まれながら、諦めた表情で自分を見下ろす眼鏡をかけた少年。
「どんなに頑張っても、レベル0と上の人とじゃ、天と地ほどの差がある」
佐天涙子が、床に膝を抱えて蹲りながら呟いた。
「レベル0の私って、欠陥品なのかな」
「みんな、いつも目障りだったんだよ」
鉄雄が、忌々し気に顔を俯かせて言った。
「金田も、山形も……ジャッジメントもアンチスキルも。偉ぶって、俺を見下して……俺が、弱虫で、何の力も無いから」
「そんなこと、ないよ」
カオリは呟いた。
「鉄雄君も、涙子ちゃんも。苦しいでしょ。きっとこれは悪い夢だから、覚めるんだよ」
カオリの足元に、鉄雄の肉体から滴る体液が染みを作った。
「鉄雄君、いつか言ってくれたよね。二人で、どこか遠くへ行こうって。嬉しかったよ。ねえ、行こうよ。どこか楽しくって、わくわくする所へ。だから―――」
カオリは、巨大な鉄雄の顔へと、両手を差し出した。
「戻ってきてよ、鉄雄君……」
背後で見守っていた金田は、目を丸くした。
「鉄雄……!」
鉄雄の体が、煙を上げて収縮し始めた。
上条も美琴も、驚きの表情を浮かべた。
増殖していた細胞が一気に死んでいったことで、辺りに生暖かい熱がもたらされる。
カオリの額に、たちまち汗が浮かんだ。
そして、目の前には、膝をついて、弱弱し気な表情を浮かべる、元の鉄雄の姿があった。
「カオリ……」
鉄雄の目が潤んでいた。
「鉄雄ォ!」
金田がレーザー銃を投げ捨て、駆け寄ってきた。
「金田……」
鉄雄の表情も、緩んだものになる。
「俺……」
「大丈夫だよ、鉄雄君」
カオリが優しく語り掛ける。
「きっと、もう……」
カオリも、喉に熱い物がこみ上げていた。
鉄雄の体に触れようと、手を伸ばす。
「……なんだ、この音?」
「音?」
上条と美琴が、不思議そうに空を見上げる。
普段は広告やニュース映像を流している飛行船が、青空の中を、音楽を流しながらゆったりと飛んでいた。
「なんか……五感に訴えかけてくるような……」
美琴は、先ほどまで募っていた焦燥が解けていくのを感じていた。
「レベルアッパーの、解除プログラム……」
カオリもまた、空に浮かぶ飛行船を見上げていた。
初春ちゃん、やったんだね。
レベルアッパーのネットワークは、これで消え失せた。
カオリは頬を綻ばせた。
「やったよ、鉄雄君!もうこれで―――」
鉄雄へと顔を向けて、カオリは言葉を失った。
鉄雄は背中をのけ反らせ、カオリから距離を取ろうとしていた。
身体が、再び膨張している。
「……に、げ、ろ」
瞳をぐるりと回してカオリを見た鉄雄が、辛うじてそう言うのが聞こえた。
次の瞬間、けたたましく劈く悲鳴を上げて、鉄雄の体が噴火するように膨れ上がった。
「鉄雄ォォォォ!!!」
金田の叫び声が後ろから聞こえたその時、カオリの視界は既に肉塊で埋め尽くされていた。
どうして―――。
疑問を浮かべたカオリは、全身を熱で包まれ、あっという間に息ができなくなった。
「カオリさん!!」
美琴が悲痛に叫んだが、その声はもうカオリには聞こえない。
カオリは、鉄雄の体に呑み込まれた。