「やめろ!鉄雄!!やめろよ畜生!!―――やめてくれ……」
金田が後ずさりながら必死に叫ぶ。
「金田あああああァァァァ」
鉄雄の叫びが木霊する。
「カオリがああああァァァたぁァすけてぇぇぇぇ」
「退がって!!」
血相を変えて美琴が体表から光を迸らせる。
「カオリさんを―――」
「ダメだ!」
上条が美琴の肩を右腕で掴んで制止する。美琴が放とうとしていた電撃は霧散し、美琴は目を見開いて上条を振り返る。
「どうして!!」
「中にあの子が閉じ込められてる!力任せにやったら危ねえだろ!!」
「だって!このままじゃ」
美琴が泣きそうに顔を歪めて、上条の腕を振り払う。それから再び鉄雄の方を見るが、攻撃を躊躇わざるを得ない。
それは金田も同じだった。地面のレーザー銃を拾って構えるが、曲がりなりにも人の形をしていた以前と異なり、鉄雄の体は捉えどころがなく、カオリがどこに囚われているのか判断がつかない。
「鉄雄!聞こえるか!今すぐ放しやがれ!てめえの彼女だろォがおいこらァ!!」
金田は唾を飛ばすほどに必死に呼びかけるが、鉄雄の声はやがてくぐもり、ぐにゃぐにゃぺちゃぺちゃと、瓦礫の上を肉が蠢き、這いずり回る音だけがやらた響くようになる。
美琴も金田も焦りを募らせる中、上条が右手を握りしめ、短く呟いた。
「俺がやる」
「……え」
美琴が聞き返そうとしたその時には、上条は疾風のように駆け出していた。
金田の隣を全速力で駆け抜け、一直線に鉄雄の巨体へと向かっていく。
「上条!!」
金田が叫んだその時、上条の足首を鉄雄から伸ばされた触手が掴む。
うおっ、と上条が声を上げたとき、その体は引き倒され、素早く鉄雄の体へと引き寄せられていく。
背中が地面に刷られ、シャツが破れるのが分かった。刺さるような痛みがする。それに構わず、上条はいよいよ覚悟を決め、口を開いた。
「その子を、放しやがれええ!!」
目の前に鉄雄の体が迫り、上条は右の拳を振り上げた。
熱い。
それに息苦しい。息ができない。
カオリは体中にのしかかる高熱と圧力に、急速に意識を薄れさせられていた。
あまりに息苦しいので、口を何とか開くと、口腔にまで弾力のある生臭いものが押し入ってくる。
おかしいな。レベルアッパーの解除プログラムが流れた筈なのに、どうして―――。
木山の語った言葉を、途切れがちな思考でカオリは思い起こす。
ああ、アキラってやつの影響か……
鉄雄君の体は、レベルアッパーから切り離されても変異をし続ける。
「カオリ!!カオリ!!逃げろ、逃げてくれぇ、頼む」
あれ。レベルアッパーのネットワークが壊れたなら、もう声は聞こえない筈なのに……。
まあ、今となっては、そんなことどうでもいい。とにかく、鉄雄君にも、もう全然コントロールできていない。
肩甲骨と背骨と肋骨がくしゃくしゃに丸められようとしている。体のどこだかの内臓に刺さるような痛みが、苦しい。それは、もうすぐ自分を引き裂いていくんだろう。
鉄雄君。ごめん。
助けられると思ってたのにな……
目玉が飛び出そうなくらい頭も痛かったが、カオリはずっと目を閉じていようと決めた。
そうすれば、ほんの少しでも、この苦しみが楽になると思った。
意識が飛んでいく。
閉じた瞼の向こうが、急激に白んできた。
繰り返し、繰り返し。上条の右手は、がむしゃらに鉄雄の肉塊を殴りつけ、こじ開け、分け入っていく。
際限なく再構成を続ける鉄雄に対し、それでも前へ進む。
そして、右手の指先が、細い華奢な腕を探し当てた。
「く、おおおおおおっっ!!!」
沸騰したように熱い空間で、上条は掴んだ腕を思い切り引っ張り上げる。
力を失い、重さをもった人間の体を担ぎ、背負う。鉄雄の肉塊が行く手を阻もうとする。それを右手で押しのけ、上条は日の光が差す方へと泥泥にぬかるんだような足場を駆けていく。
「カオリさん!!」
「鉄雄ォ!!」
美琴と金田がほぼ同時に叫ぶ。
上条は、カオリを背負って、息も絶え絶えに帰還する。
その後を縋ってくる鉄雄の体を、金田のレーザーが引き裂き、美琴の電撃が焼き切っていく。
鉄雄の肉体が、悲鳴を上げた。
「カオリさん!」
上条が困憊して倒れこみ、美琴がカオリの体を何とか引き取る。
「しっかり!」
カオリは唐突に口を開け、ゲホゲホとせき込んだ。
ここから逃がさないと。と美琴が辺りを見回した時、アンチスキルの防護服を着た一団が駆け寄ってくるのが見えた。
「みんな、無事!?」
鉄装綴里が、一団の中から切羽詰まって声をかける。 先程、ドローンで攻撃を仕掛けて、反撃によって壊滅した者たちとは別部隊のようだ。
「先生!早くカオリさんを―――」
美琴が、意識を朦朧とさせているカオリの肩を抱いて訴える。
「おい、鉄雄……様子がおかしいぜ」
両手をついて息を整える上条に、金田が不安げに言った。額からは汗が滴っている。
鉄雄は、脚が異常に増えた蛸のような形状を取っている。蛸でいうところの胴体部分にはぽっかりと口のようながらんどうの空洞が生まれ、そこから叫び声が轟いている。断末魔の悲鳴のように、時折甲高い音を交えた声が続いている。
その口の上部に、ぎょろりと二つの大きな目が唐突に浮き出た。口との位置関係は歪んでいて、福笑いのようだ。その目が、脚の一つを凝視している。
金田や美琴に攻撃を受けた部位だ。切断された断面からは、黄色や赤みを帯びた体液が、脈打つように吹き出ている。
「アイツ、再生しないのか……?」
上条が疑問を声に出す。そこへ、鉄装が振り返った。
「さっき、レベルアッパーの解除プログラムを、この街中に流しまくったんです!」
早口に、鉄装がそうまくし立てる。
「あのデカブツも、力を失うはず……さぁ、みなさん、今の内に!」
ところが、鉄装に呼びかけられた一行がその場を退却しようとした瞬間、猛然と鉄雄は幾つもの触手のような肉塊を高速でしならせ、鞭のごとく辺りを所構わず破壊し始める。凄まじい地鳴りと振動が一行を襲い、立つこともままならなくなる。弾みで金属片や建材が飛び交い、降り注ぐ。
「往生際が悪いったら!!」
自分たちの頭上に降りかかる配管の類を磁力操作や電撃による破壊で跳ね除けながら、美琴が叫んだ。
「さっさとくたばんなさいよあのバケモノ!!」
美琴が叫んだ瞬間、ひと際激しく地面が揺れたかと思うと、突如自分の体が宙に浮くような不思議な感覚を覚える。
美琴だけではない。金田や上条、鉄装、その場の全員が同じ感覚を抱いていた。
考える間もなく、地面の砂や芥、瓦礫の数々は、巨大な蟻地獄に捕まったかのように、鉄雄の巨体目掛けて滑り落ちていく。鉄雄の体から伸ばされる触手は一層数を増し、狂ったように辺りを破壊していく。よく見ると、鉄雄自身もその巨体を地下へと沈めていくようだ。
鉄装たちアンチスキルは、力を失ったカオリの体を守りながら、崩壊を免れようと遠ざかる。
「やば―――」
上条は、つい先ほどまで踏みしめていた地面が無くなり、臍の辺りが冷える感覚を覚える。辛うじて這い出し、巨大な陥没穴の淵の部分で体を支えた。
ああああ、と叫ぶ声に、上条は顔を向ける。
「金田ああ!!」
上条が懸命に名を呼んだ。
金田が、レーザー銃を手放して、滑るように落ちていくのが見えた。その目は見開かれ、下には上条の予想外に、がらんどうの空洞がぽっかりと口を開けていた。
あ、俺死ぬんだ。
金田は僅かの間、宙に投げ出されたことによる奇妙な感覚に対して、そう思った。
その時、不意に体に何かがしなりながら巻き付く感覚があり、金田は急激に胴体を引っ張り上げられ、内臓全てを吐き出してしまうかのような苦しさを覚える。
息が詰まったあと、金田はやっと咳き込み、自分の体を掬い上げようとしているものを見た。黒光りする塗装が施された、腕の太さ程のケーブルだ。千切れた先端からは銅線のような細い金属が何本もしなっているのが見えた。自分の腰から胸の辺りを何周もして、上へと伸びている。金田はケーブルの元を辿ろうと顔を上げた。
「じっとしてて!!」
苦し気な表情を浮かべて、美琴が上から叫ぶのが辛うじて聞こえた。
「ただでさえ、疲れてんのに、さっきから妙な電波が飛んでてキツいんだから!!」
ケーブルが美琴によって操作され、金田の体がクレーンのように引き上げられていく。
かつてアキラの冷凍カプセルが隠されていた広大な地下スペースを引き上げられながら、金田は鉄雄の巨体を見た。
並みのビルならすっぽり収まりそうな地下に身を落としてなお、AIMバーストの巨体は残骸や土を這い上がり、地上に顔を覗かせていた。金田は、辛うじてそれが元々人間だったことに気付ける両の目を見た。その視線は、青空を背景とした一点へ向けられている。
陥没穴の縁、鉄骨が地面から露出して、ちょうどバンジージャンプの出発点のようになった場所に、人影が一つ見え、金田は目を疑う。
「アイツは……」
呟いた瞬間、金田は体を回転させられ、乱暴に地面へと投げ出された。
「おい、金田!」
土の上を、2、3度簀巻きのように転がった金田へ、上条が駆け寄り、すぐに穴から引き離そうとかレ体を抱え上げる。
「お前、大丈夫か―――」
「アタシの心配はしてくんないの!?」
頭を片手で押さえながら、制服を土と埃に汚した美琴が、やや不安定な足取りでやって来る。
「あぁ、もうなんなのこれ……頭、いたっ」
「すまねえ、助かった」
上条の手を借りながら、金田は立ち上がり、美琴に礼を言う。
「何で急にどでかい穴が空いたか知らねえけど、とにかくアイツは自滅だ」
上条が、地中から触手をゆらめかせる鉄雄を睨んで言った。
「美琴ももう限界だ―――逃げよう」
「ああ、でも」
金田は先程垣間見た人影を再び見つけ、指を差す。
「アイツ……なんであんなとこに?」
金田の怪訝な声に、美琴と上条もそちらの方向を見る。
「……あの人」
美琴は、遠くに見える姿に目を凝らした。見覚えがあった。
汚れ切った白衣をまとった木山春生が、断崖に立ち、鉄雄を見つめて立っていた。
「お姉様!お姉様!……ダメですわ、通じない……」
風紀委員の一七七支部のオフィスでは、コンピュータに向かった黒子が、端末を操作しながら美琴へ必死に通信を試みるが、全く繋がらず、切羽詰まった表情を浮かべていた。
「監視ドローンも映像が途切れたっきり」
コンピュータとテレビの画面とを交互に見ながら、固法美偉も不安そうに言った。テレビの臨時ニュースでは、キャスターが困惑した顔で何事かを喋っている。つい先ほど、大きく土煙が上がったかと思うと、空撮の中継映像が突如途切れてしまい、それきり現地の状況は不明になっていた。
「初春は、確かにレベルアッパーの解除に成功したのですよね!?」
黒子は、固法を振り返り叫ぶように念を押す。
それに対して、固法は小刻みに頷いた。
「それは、確か……各地の病院や街中で、錯乱を起こしていた患者が一斉に鎮静して、快方に向かっているらしいから」
黒子はツインテールの髪を乱暴に掻き毟り、肘をデスクについて頭を抱えた。
「ならば、お姉様……無事なんでしょう?ねえ……」
消え入るような声を洩らす黒子の小さな背中に、固法はかけるべき言葉を見つけられずにいた。
「島君」
体を伸長させ、どうにか地上へと顔を覗かせようとしているAIMバーストへ向かって、木山は呟いた。
「レベルアッパーのネットワークを破壊され、再生能力を衰えさせているとはいえ、やはり君は、独立した活動のエネルギー源をもっているようだね」
地上へ晒された肉塊がぐるりと向きを変え、胎児のような両の目が、木山を捉える。
強烈な異臭を放つ肉塊が、木山を見つめ、距離を詰めてくる。
「アキラか、それとも『虚数学区』の為せる業か……」
もうすぐ、手を伸ばせば触れられるであろう位置にまで、鉄雄の目が近づいてきた。
木山の半身を収める程の直径がある淀んで巨大な瞳には、片腕をなくし、やつれた自身の姿が映っているのを認める。
「私の目的は潰えた。あの子たちを救うことは、できない、だろうね……」
木山は、スカートの内側に忍ばせておいた拳銃を、ゆっくりと無事な左手で取り出し、銃口を鉄雄の瞳に向ける。
鏡写しのように、自分自身と銃を向け合っている形になった。
「……許してくれ」
僅かな声を洩らし、木山は引き鉄を引く。
パアンと乾いた音が響いた瞬間、ぎやああああ、とけたたましい悲鳴を上げ、鉄雄が体を仰け反らせる。
「
木山は、発砲した反動で、左手に痛みを感じ、思わず胸の方へ手を引き寄せる。
拳銃が、かん、と足元の鉄骨に当たって軽い音を立てた後、暗い地の底へと吸い込まれて消えていく。
は、はは。と木山は乾いた笑いを洩らす。
撃ったこともないのに、素人だな、私は―――。
自嘲した木山が顔を上げると、目前に幾つもの手が迫っていた。
珊瑚に潜むウツボのように、鉄雄の肉塊は、木山の体を素早く掠め取り、その身の内に呑み込んだ。
「木山、はる、み……!」
美琴は驚愕に目を見開いた。
自分が追い求めていた相手。垣間見た姿はボロボロに傷ついていて、そして、簡単に怪物に喰われてしまった。
「鉄雄……」
金田が、仲間の名を呼ぶ。
「まだ、何か狙ってるみたいじゃねえか?」
金田達の立つ位置からは、陥没穴からその身を這い出しつつある鉄雄の姿がよく見える。
その肉塊が、小高い山を形成した瓦礫の方へと伸びていく。
そこでは、3つの小さな人影が、じっと地面に座り込んでいた。
「あの、ガキたち……!」
ナンバーズだ。すぐ背後に鉄雄が迫っているというのに、気付いていないのか、全く動こうとしていないように見えた。
「あんな所で何を!」
「おーい!逃げろぉ!!」
美琴と上条も気付き、必死に叫ぶ。
しかし、3人のナンバーズはそれでも動かない。鉄雄の触手が、3人の小さな体に、肩に、脚に、髪に、体を這わせつつあった。
「ありがとう」
金田はその時、はっきりと声を聴いた。
あどけない、男の子の声。
26番目のナンバーズ、タカシの声だ。
「君たちのおかげで、間に合ったよ」
「えっ?」
金田は、突如頭の中に聞こえてきた声に驚き、隣の上条と美琴を見る。
2人は相変わらず、ナンバーズに呼びかけている。聞こえていないのだろうか。
「あの、さっき―――」
そう金田が言いかけた瞬間、ナンバーズが座っている辺りから、空から降り注ぐ夏の日差しよりも、ずっと眩い、強烈な光が放たれ、金田達は思わず顔を覆った。
ナンバーズの3人が座り、目を閉じて一心不乱に祈る先には、うず高く積まれ、ちょうど玉座のようになった構造物の残骸があった。
その上には、かつて冷凍カプセルに収められていた、瓶詰の
逃げろ。
上条の声が辛うじて聞こえたとき、タカシは、胸の中に温かいものが溢れるのを感じた。
優しい人だな。
ほんの短い間ではあったが、ラボから逃げ出して街中を歩いた時、守ってくれた人。
そんな人が暮らすこの世界を、めちゃめちゃにされたくはない。
タカシとマサル、キヨコは顔を上げた。3人の思念が、ガラス標本へ届く。
ガラスにひびが入り、くすんだ黄色をしたホルマリンが溢れ出す。と同時に、標本が輝きを放ち始め、3人のナンバーズは手を翳し、目を細める。
懐かしい、友人との再会に、目元を緩める。
やあ。
久しぶり。
光の中に立ち上がった少年へ、ナンバーズがそれぞれ声をかける。
眩い光が、辺りを包み込んでいった。