2【改】
ライディングブーツが浄化槽の金属蓋の上を踏みしめた途端、排泄物と齧歯類の獣臭さを掻き混ぜて油漬けにしたような臭いがムワッと立ち込め、少年は思わず包帯を巻いた左腕を鼻の前に翳した。すり減ってほぼフラットになったブーツのソールがそこからいくつか歩みを進める度、日没前にひとしきり通り過ぎて行ったゲリラ豪雨の残滓であろう、ぴちゃりぴちゃりと水っぽい音が、雑踏の喧騒に負けじと聞こえる。少年が顰めた顔を幾らか上向かせると、数区画遠くに聳える複合施設のビル外壁に備え付けられた巨大なスクリーンの映像が、バラエティの予告編からニュース番組へと移り変わった所だった。今夜の主要な見出しが並列されている。来年に自国開催を控えたオリンピックで選手村として使われる予定の埋め立て地造成工事を巡る汚職疑惑、経済不況対策を巡る予算委員会での紛糾、東欧の黒海沿岸紛争地帯における
少年の感覚には、まだ浄化槽から立ち上る悪臭がこびり付いていた。ブーツの足首に纏わりつくようなそれを振り払おうと足を速めようとしたその時、ズボンの懐で携帯電話が震え、メッセージの受信を告げる。少年は内容を確認すると、ニヤリと口角を上げ、今度こそ歩くペースを上げた。
足音はいつの間にか乾いたものとなり、辺りに人影はまばらになる。数分前にニュースを映していたビルに近づいてきたが、少年がやってきたのは煌びやかな表通りとは裏側にあたる区域で、バラックをミルフィーユのように重ねた法規度外視の建造物群が、十二単の裾のように中心のビルの背後へ広がっている。巨大な足に踏みつけられたかのようにくしゃりとした廃車の傍を通り過ぎ、故障しているのか或いは一時停止を要求しているのか判別し難く不規則に赤色点滅をする信号を頭上に歩くと、バラックの一角にぽっかりと口を開ける出入口を前にした。ひび割れをガムテープで雑に補修された照明付き看板が、チチチと時折明るさを揺らめかせながら音を鳴らしている。下り階段の手前にはオレンジ色の生地をしたマットが申し訳程度に置かれているが、吐瀉物の染みと踏みつけられてから間もない吸い殻で汚れていた。
少年は、微かに感じたヤニの匂いに鼻を鳴らす。染みを踏みつけないよう、僅かに気を配って大股に歩き出し、それから地下への階段を一気に駆け降りる。ブーツが軽やかな8ビートを奏でた直後、少年はグローブで『先生方:当店は食品衛生基準法パス済み(去年)』と汚く張り紙がされたドアを睨みつけると、グローブを嵌めた手を突き出し、ドアノブを握り締めた。
山形の視界にまず入ったのは、弱弱しい照明の生気の無い暗緑色だ。正面には、カウンターで固まる男の背中とこちらを睨みつけるマスターの視線を捉えたが、山形は一顧だにせず右を、それから左へと首を振る。目当ての人物の姿を見つけると、山形は店内を歩き出す。
南国の雰囲気を感じさせる音色が自然と耳に忍び寄ってくる。ゴング、スリットドラム、レヨン、アンクルンを無造作にスローテンポで叩かせて、その一部分をループさせたような音楽だ。派手さも緻密さも無いが、不思議と心地は悪くない。BGMのループにアクセントを加えていくのは、酒に浸る人物共の立てる物音だ。傾けられるボトルとグラス、注がれる液体が立てる泡、鳴らされる喉、互いの身体を弄って起こる衣擦れ、潜められたり、急に笑ったりと忙しない話し声。それらの主である客人たちの背中は、こちらに関わるなと暗に告げている。
山形が歩を進める度に、小気味よくブーツが立てる足音は、それらの客人の不穏な雰囲気を跳ね除けていく。鋭い視線を背中へと向けるスキンヘッドのマスター、刺青と口紅を施したカップル、僅かに髭面を覗かせて机に突っ伏し鼾をかく男、山形が向かうのは彼らではない。
店のシンボルの一つである、古風なジュークボックス。弧状に並べられたCDは照明を受けて記録層を光らせていて、虹色に輝くびんざさらのようだ。その内の一枚を、カマキリの前肢のように細いアームが摘まみ上げ、軋みながら移動させていく。あらゆる技術が世界最先端の実験場となっているこの学園都市では、このような機械を表側に放り出せば、目を丸くする者が大半だろう。
光を放つジュークボックスの機体にやや体を預けて、山形と同年代の少年が立っている。山形がかなり長身であるのと比べると、幾分小柄に見える。真っ赤なジャンパーを着た背中には、赤と青のカプセルのイラストが大きくあしらわれている。顔をジュークボックスへ向けているため、表情は窺えない。山形はその少年の隣に立ち、肘を機体の操作面について口を開いた。
「クラウンの奴ら、ケツまくられて、環状5号で玉乗りし始めたってよ」
山形はたったそれだけを言うと、すぐ踵を返した。
赤い少年は特に頷きもしなかったが、盤面のボタンをいくつか人差し指で弾むように押す。クラブミュージックで使われるグリッドコントローラーのように、ボタンは一斉に煌びやかに光り、音楽の再生を終了する。
「おぉい、待ちやがれ、ドア開けるときは静かにって、最近の学校は脳ミソ弄ってばかりで基本の礼儀も教えねぇのかよクソガキィ?」
何故か襟元がびしょびしょに濡れている客の近くを山形が通り過ぎたとき、マスターがカウンターの向こうから苛立たしく悪態をついた。
山形はすかさずせせら笑った。
「そっちがビビり過ぎてンだよ!おくすりねんねの時間だったかよ!?」
山形のにやけた顔は、マスターよりも服を濡らした男の背中へと向けられていた。
山形の言葉を聞いた男が、襟元をおしぼりで拭う手をぴたりと止めた。
「言っとくけどよ」
山形が大げさに手を広げ、バシンと男の背中を叩いた。それから、男と顔を並べ、低く囁いた。
「最近『クラウン』の奴らがうっとおしいんだよ、新しいお菓子を売り始めて……おいまさか、俺らの縄張りで買ってねェよな?」
「いつからウチがお前らの便所になったってんだ、ここは俺の店だ、何売ろうが自由だろ」
縮こまっている男に代わるように、マスターが顎を突き出して言い返した。
「お前らこそいい加減少しは金を落とせ。ウチはハチ公前じゃねぇんだよ」
「お生憎様ァ、
赤い服の少年が自分を追い越し、先に出口へと向かった所で、山形はマスターへ言いながら出口へと向かう。
「
マスターが忌々し気に吐き捨てた。
ドアに手をかけていた山形は、店内へと振り返る。
顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「そりゃ誉め言葉だぜ!あの上澄みのサイコパス共と一緒にされるよりはなァ!」
思い切り金属のドアが引き閉められ、けたたましい音と衝撃が店の空気を揺り動かした。
マスターは暫く閉じられたドアを睨みつけていて、その右手には小包が握り締められていた。
春木屋からやや離れた別の区画にある駐車場の一フロアを、2人の若者は訪れた。この辺りは通称、屋台尖塔と呼ばれ、元々は巨大な立体駐車場だったのを無秩序に改築し、飲食店や雑貨店、何を生業としているのかも明らかでない怪しげな事務所などが所狭しと繋ぎ合わせられている。その姿は、かつて中国の一都市に存在していたという、城跡に築かれたスラム街に似ていた。
しかし、2人の若者は、客でごった返す屋台通りではなく、数少ない空フロアに目的があった。持ち主を失ってからどれだけの年月を経ているのだろうか、傷だらけで塗装の色を落とした様々な車両が、ぽつりぽつりと墓石のように動かないでいる。このフロアの明かりは機能していないが、街の明かりが差し込むことで、視界は案外良好だった。
朽ちつつある車両の脇をいくつか通り過ぎた角の一角に、それらとは明らかに異なる真っ赤な色彩の、巨大なバイクがあった。薄暗い一帯の中で、それは唐突に、レンブラントの絵画の人物のように、見る人の眼を釘付けにする。巨大な二輪と、跨ぐというより、カーレースのように乗り込むという表現が適しているであろう座席、極端に長いホイールベースと、それに伴う流線形のフォルム。紅の外装には、神社の護符や電子機器メーカーのロゴが書かれたステッカーがごてごてと貼り付けられていた。
極めて低いそのライディングポジションには、先客がいた。
「230……いや、40はいけるか?」
目の前の計器を弄り、ディスプレイに目を凝らしているのは、髪を短く刈り込んだ、あどけなさの残る少年だ。柔らかな青竹色のパーカーを着て、ブツブツと呟いている。ボタンを押すたびに、白や黄色、赤といった色とりどりの照明が、少年の顔を照らし、目を輝かせた。
「この障害物検知システムは……
「10,000じゃねえ」
赤いジャンパーを着た若者は、運転席を覆う程に大きいフロントガラスに手をつくや否や言った。
パーカーの少年は、肩をびくっと震わせて相手を見上げ、顔を顰めた。
「金田……」
「12,000だ。勝手に切り捨てちゃってさァ、パンの耳にしちゃあデカいだろうよ」
金田はパーカーの少年を見下ろして笑った。
「誰がチューンアップしたと思ってる?この俺だよ!お陰で、トんだじゃじゃ馬なんだよ、そいつァ」
笑いながら金田は急かすようにバシバシとガラスを叩く。短髪の少年は小さく舌打ちし、スイッチを操作して運転席を覆っていたガラスを開けた。その瞳は淀んでいる。
「乗りたいんだったらよ、もう一皮剥けなきゃァダメだぜ鉄雄ちゃんよ」
短く鳥が囀るような音を立てて、ガラスは完全に縦向きになる。
鉄雄がパーカーのポケットに手を突っ込んでその場を去るのと入れ替わりに、金田が自身のバイクへ乗り込む。
山形と鉄雄が、より奥まった場所にある自身のバイクへと歩み寄る。
「相変わらずイかれた野郎だぜ」
金田に呆れたのか、鉄雄を励ましているのか、山形が左手の包帯を摩り、笑みを浮かべながら言った。
鉄雄が、自身のパーカーと似た色のバイクの横に立ち、ハンドルを握り締めた。鉄雄のバイクは、他の2人の仲間に比べ、一回りも二回りも小さい。
「……乗ってみせるさ」
鉄雄が金田に向かって目を細めて言った。
「なら、まずは今夜、サーカスの猛獣を捕まえてみせな!あのドでかいゴリラをよ!」
ガラスが再び運転席を覆い、金田はバイクを始動する。
口径20インチはあるだろう、巨大な後輪が急回転すると、石礫が弾け、ヒビの目立つ壁面へパチパチと当たり、跳ね回る。金田のバイクは唐突にバックし、方向を整える。
金田が右手でアクセルを捻ると、前輪のコイルが超電導を起こし、金色のスパークが迸る。
次の瞬間、バイクの前半身は頭をもたげ、金田は満面の笑みを浮かべる。そして後輪が砂埃を巻き上げると同時に、金田のバイクは弾かれたように動き出した。
山形と鉄雄も後に続く。
3人の若者は、がらんどうのフロアにけたたましく排気とスキールのトリオを轟かせ、猛然とスロープを駆け降り、傾きかけた料金所をすり抜け、夜の街明かりの中へ飛び出していった。
バイクが駆け抜けた後には、ランプが赤や橙、白の軌跡を空気に垂らし、幻想的に尾を引いていく。信号、街灯、店舗やオフィスから膨れ上がっている明かりが、風と一体となってライダー達の頬を掠めていく。金田は目の前の盤面を操作し、仲間との無線回線を起動した。
「甲斐!ジョーカーは今どこだ?」
「駅前を過ぎたらしい!もうすぐ7号だ」
「乗らせるかよ、野獣は檻に入れねえとな」
他学区に逃げられては面倒だと、金田は日頃の抗争で嫌という程実感している。
「金田ァ!!」
先行する山形から通信が入る。
「見たか?さっき脇に
「ああ。今夜はいつも以上に客入りがいいな」
金田が応じた。学園都市一治安が良くないと評判のこの一〇学区内では、腕章を付けた学生自体が出歩くのも珍しい。たちまち不良に囲まれるのが関の山で、治安維持にあたるのはあくまで大人の役割だ。金田の覚えが確かなら、彼らは基本学校の中で活動するものだった筈だし、ましてやこのような夜中に街へ繰り出すジャッジメントには、遭遇したことがなかった。
「走ってる俺らを持ち物検査するッてンならおっかねーけどな」
お行儀よく七学区だとかその辺に帰れ、と金田は念じた。
金田は気合を入れ、アクセルを強くした。前輪が一瞬浮き上がり、更に唸りを上げて加速する。
金田は首を捻る。後ろには、金田に遅れまい、と何とか付いてくる鉄雄の姿があった。
「聞いたか、鉄雄!ジャンキー共を叩きのめすぞ!」
言われなくてもわあってるよ!と後続の鉄雄が叫ぶが、金田の耳にはっきりと届かない。
それでも、2人のバイクは猛然と一〇学区の街中を駆け抜けていった。
金田達は、最初の3人から、相手のチームを先に追っていた仲間と合流し、10人ほどに人数を増やしていた。途中で相手のグループのバイクを2、3人追い詰め、カフェテリアのガラスへ大分させたり、得物の鉄パイプで殴り倒したりしたが、一番の標的であるリーダーにはまだ追いつけていない。
「囮だな」
ゴミの山にひしゃげたバイクごと突っ込み、それきり動かないでいる、ピエロのフェイスマスクをした相手メンバーを見下ろして、金田は言った。
「ああ、奴ら、ここ2週間で頭数無駄に増やしやがってるからな」
山形が唸るように応じた。雨どいの一部を切り取ったような、釘を幾つも付けた鉄パイプを握り、地面にコツコツと打っている。
「こんなちんたら走るっきゃできないのによ」
相手の人数は、金田達のチームのほぼ倍だ。リーダーはきっと、別の場所にいる。こちらの襲撃は事前に察知されていて、多分既に高速に入っているのだろう。
金田は、チームを地上に残るグループと、高速のランプから追うグループとに分けた。
雑然とした市街を抜けて、金田達は高層ビルの合間を縫う高速を走っていく。既にここは第一〇学区ではない。直線的な高速の両脇は、整然とした街路樹が真っ黒に立ち並んでいた。
早めに蹴りをつけなければならない。金田達は、飛ばしに飛ばして、相手の先回りを試みる。
間もなく、他の仲間が追い立ててきた、奴らのリーダーと相対する筈だ。
前方から3つの明かりがこちらに近付いてくる。仲間のものではない。挟み撃ちにする筈の仲間は撒かれたか、やられたか。金田は回線を急いで繋いだ。
「山形、鉄雄!ここは俺にやらせろ!」
金田は仲間の2人を制した。山形と鉄雄は甲高くブレーキをかけ、金田は2人の間を、一人猛然と進んだ。
「ジョーカー!」
相手のリーダーの通り名を、金田は口にした。
ドラッグ塗れのチームを、高見から見物する、猿山のボス。自らは決してクスリに手を出さず、金を巻き上げる男。金田のハンドルを握る手に力が込もった。
どうやら相手も金田と同じタイマンを望んだようだ。金田の真正面に光源が煌めいている。
金田はバイクを白線に乗せる。
相手のランプが加速度的に近づき、3つのヘッドランプだと見分けられる。
エンジン音が後から追い重なってくる。
歯を食いしばった。
それでも、笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
怖いのか楽しいのかは分からないが、ただ高揚した。
真正面からあわやぶつかり合うという瞬間、金田は相手の光の向こうに、カマキリ型のハンドルと、顔に塗られた悪趣味な白いペイントを見た。
爆音が一瞬振り切れたように耳を叩きつけた。金田の体に思ったような衝撃はないが、耳鳴りが聴覚の全てを満たしている。すぐにブレーキをかけてバイクを横に倒した。両輪がアスファルトに摩擦し、けたたましい音と土埃を上げた。
今しがた走り抜けてきた方向を振り返ると、相手の男がバイクから投げ出され、起き上がろうとしている所だった。達磨のような膨らんだ身体だ。
しぶとい奴だ、追撃してやる。そう思い、再びバイクを立て直そうとした時だった。
「金田!」
山形と鉄雄が金田の側まで来て停まった。うずくまっている
「あー、こちら警機73、
「やっべ」
山形が思わず声を洩らした。
「ホルスタインだ」
「違ェよ」
金田にも覚えがあった。
「弁慶だ、ありゃ」
恵体の、
「どうするよ、金田?」
鉄雄が聞くと、金田はへっ、と笑い声を上げた。
「上等だ!」
声は僅かに震えていた。
「イリュージョンと行こうじゃねえか!あいつらからはドロンさ」
もう一度、先ほど相対した男の方を見ると、既にバイクを立て直し、後から寄ってきた向こうの仲間2人と共に、警備員の車両とは反対側へ走り去っていく所だった。
ぐずぐずしてはいられない。金田は再びバイクを駆り出した。
「行くぞぉ!鉄雄ぉ!山形ぁ!」
後の2人も雄叫びを上げた。3人は警備員を撒くべく、そしてクラウンのリーダーを倒すべく、摩天楼の谷間へと再び走り出していった。
AKIRA原作(特に映画版)の台詞は極めてシンボリックであり、二次創作を行う上で、そのプロットをなぞる場合に改変していいものか、投稿当初は大きな悩み所でした。
こちらの二次創作が完結し、時間も経過したところで、原作には遠く及ばずとも、思い切って自分なりに文を作るべきだと考えました。本話は、旧版の台詞のコピーを見直し、地の文の表現を練り直すこともも含めて、全面的に改稿したものです。
旧版は削除しました。