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7月7日 夕方―――第七学区
走れ。走れ。
荒く呼吸をする度に、肺が鞭打たれるように痛む。肺が、あばら骨を今にも突き破ろうとしている。
だが、ここで止まる訳にはいかない。
もうすぐだ。もうすぐの筈だ。
曲がり角を、体を傾けて曲がろうとしたところで、外側の足が濡れていた路面にとられ、体を強かに打ち付けた。
「ホラァ、遊んでんじゃね~ぞ~!!」
嘲り声が、けたたましい排気音と共に迫って来る。
すぐ横で、ガラス瓶がパリンとひしゃげる音を聞き、顔を上げた。
「ッ畜生!!!」
両の掌を地面について立ち上がろうとすると、ピリッとした静電気のような痛みが走った。猫の爪痕のように縦方向にいくつもの裂傷ができていたが、構っていられない。
鉛のように重たい自信の体を無理やり起こして、日陰の路地裏を再び走り出した。
「クソックソッ―――なんでこんな―――」
ビルとビルの間、長方形に穿たれた空は、オレンジ色に染め上げられていたが、陽の暖かい光はまるで浜面のいる路地には届かない。
重たくエンジンを鳴らしながら、数台のバイクが、浜面の両側を塞いでいる。
「お願いだよォ!勘弁してくれ―――仕方なかったんだ、あいつらに脅されて……」
「弱ェなあ。ちょっと押さえつけられただけで、ペラペラ喋りやがって」
そうせせら笑って言うのは、パツパツに張ったタンクトップを着た、肥満体の浅黒い肌の男。
筍のように排気口をいくつも後ろから伸ばした、巨大なバイクを駆っている。
「お陰でこっちは、一人ビョーイン送りだ……逃がすかよテメェ」
唸るような男の声を合図に、浜面を挟撃するバイク達が、轟音を高めていく。
数日前、こいつらと対立するチームの奴らに脅されたときが、自分の人生最悪の危機だと思っていた。
たった数日で、浜面にとっての人生最悪の日は、今まさに更新されていた。
浜面の背後にいた2台のバイクが、唸りを上げて突進してくる。
ただでさえ狭い路地を、横に広がってくる。浜面の逃げ場はない。
目指すべき場所へは辿り着いたのだろうか。―――確証が持てないまま、浜面は、自分に襲い掛かる暴力の嵐を予感して、頭を抱えるしかなかった。
その時。
けたたましい音を立てて、上から何かが降って来た。
「なんだァ!?」
悲鳴が聞こえるや否や、甲高いブレーキ音と衝突音が、不調和にアンサンブルを鳴らした。
浜面は、自分の身体がひとまず無事なことを感じると、顔を上げて周りの状況を窺った。
降って来たのは、エアコンの室外機だったらしく、バイクの1台に見事にヒットしてひしゃげていた。浜面を襲おうとした2人の内、1人は頭から血を流して、路地の真ん中にうつぶせに倒れていた。もう1人は、コントロールを失ったのか、ビルの外壁に摩耗の跡を残して倒れ、呻いていた。
「ジョーカー!上だ!!」
誰かが叫び、浜面も上を見上げた。
浜面は、安堵の笑みを洩らさずにはいられなかった。
「……駒場さん……!」
「……ここはサーカスのテントじゃない……ピエロ共」
低く、いやに無機質な声が聞こえた。
3階ほどの高さだろうか。ビルの非常階段の1画に誰かが立っている。夕焼けのオレンジを頭上に立っているその貌は窺いしれないが、遠目にも大柄な男だと分かった。
「なんだ、てめぇ!」
邪魔をしてきた何者かへの敵意を剥き出しにして、肥満体の男や、その取り巻きたちが、工具やバット等の得物を手に、バイクから降り立った。
「助かった……」
浜面は誰に言うでもなく、つい口から言葉が漏れていた。
高所に現れて、弱者の危機を救ってくれる、ありふれたヒーローのように、大柄な男のことを見ていた。
次の瞬間、その男は、手すりに手をかけると、ふわっと体を浮かせて、空中に躍り出た。
「え―――」
馬鹿か。戦隊のレッドでもないヤツが、本気でそんな高さから飛び降りたら、ただじゃすまない―――。
確かに、ただではすまなかった。
男が着地した途端、舗装された地面が、地鳴りを上げて煎餅のように砕け散った。バラバラと土くれが辺りに飛び散り、浜面は顔を覆いながら後ずさった。
「バカ野郎、なんてヤツだ―――」
道化のように、鼻に丸く赤い飾りをぶら下げた男が、半ば放心した声で言った。
「ジャンキーに言われたなら、誉め言葉と受け取ろう……」
煙幕の中から、ぬっ、と男の身体が姿を現した。
でかい。浜面はまずそう思った。
2mを優に超えているであろう、タンクトップの男よりも更に背の高いその巨躯は、安物の暗褐色のジャケットを羽織って、割れた地面の上に聳え立っていた。さながら、ジャングルの茂みから姿を現したゴリラのようだ。
10mはあっただろう高さから落下したにも関わらず、2本の幹のような足で立つその姿は、まるで怪我をしているようには見えない。
「……お前らが
レシートを吐き出すように、男が言う。
「ここは第七学区だ。いつから、『クラウン』は他人の領分でラッパを鳴らすようになった?ジョーカー……」
「駒場、テメェ―――!」
ジョーカーと呼ばれたタンクトップの男が歯噛みして唸った。
「野郎ども!タタキにしちまえ!」
「達磨の耳は遠いのか……もう一度だけ警告する」
大男がやや声色を強めて言うと、周囲から別の物音がした。
「ここは、我々の領分だ」
浜面やジョーカー達が見回すと、いつの間にか、いくつもの黒い人影が、あちらこちらのビルの窓やベランダから、こちらを向いているのが分かった。皆、銃やボウガンらしき物を構え、いつでもこちらを攻撃できる。
いつの間にか、クラウンのメンバーは、狙われる立場に落とされていた。
「きっかけさえくれれば、お前達の体はネズミに食われたチーズになる……」
そう言う大男も、銃を右手に、淀みなくジョーカー達を見据えている。
「チッ、野郎ども―――退くぞ」
ジョーカーが吐き捨てると、クラウンのメンバーはバイクに飛び乗り、まだ明るさの残る通りへと急発進して消えていった。
尻餅をついていた浜面は、大きくため息をつくと、立ち上がった。
「ほ、ほんと助かったっ……!駒場さん、悪ィ、ヘマしちまって……この恩は一生……!」
浜面はほっとして礼を言いかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。
大男が、大股にこちらに歩み寄って来たからだ。
脚が地面を踏みしめる度、石が砂粒にすり潰される音が聞こえる。ただの人間が立てる足音とは思えない。
上から狙っていた、他の仲間もいつの間にか降りてきていて、階段やそこかしこの扉から姿を現し、浜面を取り囲んでいた。
「あの―――」
浜面は、首筋に冷や汗が流れるのを感じた。
「お前は……」
自分よりも、頭二つ分以上は高い大男が、ほとんど口を動かさずに見下ろして喋るのを、浜面は黙って見るのが精一杯だった。
明らかに、無償の愛を賜るような状況ではない。暗がりの中で光る男の目がそれを証明している。
何か答えようとするが、喉が干上がっていた。
大木のように眼前に塞がる男の表情の中で、黒い瞳を宿した目だけがはっきりと見える。
「騒ぎを持ち込んだからには、見返りを要求する……浜面仕上」
自分にとっての本来のリーダーであり、第七学区の