7月8日 昼―――第一〇学区、ストレンジ
「……暑い……」
週末の土曜日。学園都市の中でも、一際治安が悪いスラム街を、浜面仕上は、額から流れる汗をひっきりなしにぬぐいながら歩いていた。
他の学区に比べ、より古い年代に建てられたビル群と、その足元に、サルノコシカケのように折り重なって軒を連ねる木造家屋。それらの間を縫うように道が張り巡らされ、人通りは第七学区の学生街などと比べると格段に少ない。時折すれ違う人は、派手な色に髪を染めたり、耳や鼻、舌にピアスを通したりしながら、大声で喚くように会話したり、或いは押し黙ったまま鋭い眼光を放ったりと、不穏な雰囲気を漂わせている。両脇の建物の入り口は大抵薄暗く、違法か脱法か分からないような獣を扱うペットショップ、紛い物であろうアパレルブランド、無国籍な料理、狭苦しいカラオケ、地下へと誘うバーなど、その手の物や娯楽を欲する人々へ静かに口を開けていた。そしてそれぞれの店やその隙間の路地からは、タバコともハーブともとれない匂いが交代に漂い、この街独特の空気を作り出していた。
浜面は辺りを見回しながら、何度目か分からないが、金髪に被ったキャップのツバを摘んで、そっと下げた。
クラウンの連中に見つからないようにするためだ。
連中から命からがら逃げ出して、まさか昨日の今日で、このストレンジを再び訪れることになるとは思っていなかった。眉間に皺を寄せて、浜面は昨日のことを思い返した。
「
「待ってくれよリーダー!俺はあいつらにもう少しで腕を折られるところだったんだぜ!?それに、どこにいるかなんて分かんねぇ!!友達でも何でもねえんだ!」
「屋台尖塔辺りを根城にしているんだろう……第一〇学区なら、お前もよく知っている筈だ……」
「だって、あそこに行ったら、今度こそ俺、叩きのめされちまう……」
「お使い途中で事故にあったなら、それまでだ。また別の手段をとるまでだ
……ただし、逃げ出せば……察しろ」
「……諜報なんて、やっぱ俺の柄じゃねぇよなぁ」
浜面はぼやいた。
クラウンから這う這うの体で逃げ、浜面は何とか、自分たち第七学区のスキルアウトチームの縄張りまで無事に戻ることができた。しかし、
事前に、プリペイド式の携帯電話を渡されており、仲間へ定期的に連絡を入れなければいけないことになっていた。連絡を途切れさせる訳にはいかないと分かっていながらも、今回の仕事は先行きが余りに暗く、浜面はため息が絶えなかった。
「……アシがあればなぁ……」
免許こそ取っていなかったが、駒場のもとで、スキルアウトとして培った経験が、浜面にそれなりの運転の技術を与えていた。しかし、今回は車もバイクもない。自分を狙う敵の縄張りを堂々と徒歩で横切るのは、全く気が進まないものだった。
狭い裏道を使っていこうかとも考えたが、どうせならいざという時逃げられる余地があった方がいい。浜面はそう考え、なるべく目立たないように意識しながら、足早に、道の先に聳える、巨大な立体駐車場を目指した。
「……なんとかここまで来たか……」
幸運なことに、これといったトラブルもなく、屋台尖塔の一角までたどり着いた。
浜面がこれまでに耳にしていた情報が正しければ、金田達のチームの拠点は、屋台のひしめく中心のビルよりも、より外側の低層階だったはずだ。
屋台尖塔特有のスロープをいくつか上がり、いよいよ人の姿が見当たらない、廃駐車場のフロアまで来た。
駐車場内は日陰のためか、外部よりもひんやりとしている。ビルとビルの間をすり抜ける街風が、浜面の首筋の汗を急速に冷やしていく。カツン、カツン。と、浜面の靴音が反響を伴って響いていく。
「静かだな……ん?」
人の気配がせず、空振りかと思っていた矢先に、人の声が聞こえた。
男と、女の声だ。
バイカーズに女も入っていたのだろうか。浜面は、声のする方へ角を曲がって進んだ。
「―――いいから、早く、それちょうだいよ!!」
「ただでやる訳にァいかねェな……分かんだろ?」
何やら穏やかではない場面のようだ。
柱の陰から様子を伺うと、みるからに柄の悪い男が二人と、長い黒髪の女が一人。
「お金?幾らいるの!?」
女の方は、相当切羽詰まっているらしく、急き立てて話しながら自分のハンドバッグを漁っている。
「そうだな……金もいいんだけどよ」
男の一人が、片腕を女の腰に回した。
「やっぱ……色々楽しませてくれよな……」
そう言いながら、もう片方の手を、女の尻へと近づける。
「……チッ、お取込み中かよ……」
今は面倒ごとに巻き込まれると厄介だ。浜面はそっと元来た方へ戻ろうとした。
「触るなぁあああああ!!!」
突如、甲高くつんざく怒声が響き渡り、浜面は思わず背筋を震わせた。
カラン
空き缶が転がるような音がしたかと思うと、バアン!!!と破裂音がした。
「ックショウ!!」
「いてえええええ!!」
男二人の悲鳴が聞こえると同時に、サイレンが響き渡った。
「なんだ……なんだよ!?」
浜面が慌てふためくと、鼻をつん、と金属の溶ける匂いが刺した。
冷たさを感じて上を見上げると、消火用のスプリンクラーが、このフロア一帯で作動したらしく、浜面は濡れないように身を縮こませた。すると、バシャバシャと足音が近付いてきた。浜面はとりあえず、手近にあった清掃用具だか何かが入っている物置の陰に飛び込んだ。
先ほど、女にからんでいた男2人が、顔を覆ったり、脚を引きずったりしながら、這う這うの体でスロープを駆け下りて行った。
「………こんなボロビルでも、スプリンクラーは作動するのな」
30秒ほどたっただろうか。耳を澄ますと、サァーッという散水の音だけが静かに響いている。
金属の匂いは失せ、辺りは急に湿っぽくなってきた。他に気配はしない。
「……空振りだろうな」
金田達はいない。そう判断して、浜面が物陰から出たとこだった。
黒髪をぐっしょりと水に濡らした女が、目の前にぬっと現れた。
浜面は「ヒッ」と思わず声を上げ、尻餅をついた。
「……ぴーなっつ」
「え?」
女が、水の音にかき消されそうな声で何か呟いたのを、浜面は聞き返した。
心臓が、早馬のように鳴っている。
「ピーナッツ……クスリ!!」
女が、へたり込んでいる浜面の襟元にギュッと掴みかかってきた。
「な、なんだよいきなり……」
「レベルを上げるっていうクスリ!!持ってない!?ちょうだいよ!!今すぐほしいの!!」
女は切れ長の目をしていた。恐らく、学生だろうか。多分そう年は変わらないのだろうが、濡れた前髪が色白の顔にへばりつき、恐ろしい剣幕で浜面に縋ってきている。目はこちらを射貫いているが、妙に焦点が合っていない。
ああ、こいつは―――。浜面は、この女が、もう戻れないところに行ってしまっているのだと、首を揺らされながら不思議と冷静になって考えることができた。
刺激しない方が無難だ。
「俺はさ!持ってねェけどよ―――」
浜面は、自分の首元に迫る女の手を掴み、引き離すと、なるべく呼吸を落ち着かせて言った。
「―――どうしても欲しいってなら、屋台尖塔の地下街なんかへ行ってみろよ……お前みたいな女でも、相手にしてくれるかもしんねェ」
「……ほんと?」
空気の抜けるような声で、女が聞いた。
「いや、俺はやってねえから知らねえけど、あんまおススメは……」
浜面が言うが早いか、女はハンドバッグを抱え、ばっと立ち上がると、水音を撥ねさせてスロープを駆け降りて行った。
「……世も末だな」
誰に言うでもなく、独り言ちた。
「……今度こそ、誰も居なくなったな」
さっきまで掴まれていたシャツの襟元を探ると、じっとりと濡れていた。
疲れた。
浜面が再びゆっくり立ち上がった所で、懐の駒場から与えられた携帯がヴヴヴと震えた。
浜面はため息をつきながら、「非通知」と表示されたその着信に出た。
「……別にさぼっちゃいねぇよ」
「知ってるぜ!随分災難だったな、お前」
能天気な男の声が聞こえてくる。
「……ああ、半蔵」
駒場とは全く気質の異なる、陽気さの塊のような仲間だ。浜面は辺りを見回した。
「……見てんのか?」
「はじめてのおつかいだもんな!!カメラを回しとかなきゃあ視聴率はとれねーだろ!」
「いや、こんな罰則紛いの仕事してる奴を被写体にするの、やめてもらえないすかね」
「それよりさ、お前。実は、金田って奴のチーム、こっちで見つけたんだよね?来てくんない?」
「はァ?そんな」
浜面は肩透かしを食らった。こっちが神経すり減らして探したというのに。
とぼとぼと歩きながら、浜面は聞いた。
「どこに行けばいいんだよ?」
「あーあー。バイクはねえ。ナンパもうまくいかねえ。おまけに鉄雄の手がかりもなーんもねえ!」
「どーすんだよォ、金田ァ!」
甲斐と山形が不満を垂れた。
屋台尖塔のセンタービルと隣の建物とを結ぶ中央デッキに、金田達は居た。
先日、鉄雄がクラウンに襲撃された日以来、バイクは警備員に没収されたままである上、鉄雄は行方不明のままで、特に進展もなく、金田達は怠惰な土曜日を過ごしていた。
眼下には、休日の屋台尖塔特有の雑踏が見える。
金田は眉間に皺を寄せて黙っていた。甲斐や山形の言うように、現状では打つ手なしだ。
「おっ、見てみろよォ」
全然見てほしくなさそうな口調で、甲斐が手すりに顎を乗せて言った。
「世直し・一揆・打ち壊しってヤツだぜえ……」
眼下の、ストレンジの中でもメインストリートと呼ばれる通りの奥から、行列がシュプレヒコールを上げながらやって来るところだった。
『税制改悪断固撃滅』『無能力庶民こそ誉れ高き労働者』『中止だ中止』等と書かれたのぼりを掲げ、或いは叫びながら進んでくる。
そこから少し離れた所では、最近伸張しているという、白い衣装に身を包んだ宗教団体が、火を焚きながら何やら法話をかましている。
「あー、もしもし?」
金田は、甲斐でも山形でもない男の呼びかけに、振り向いた。
「あっ、てめえ―――」
山形が指さしたその先には、先日、鉄雄とカオリが襲われた日に捕まえた、クラウンの下っ端が、バツの悪そうな顔をして立っていた。
「確かてめえ!……ハナヅラ、だったっけ?」
「浜面だよ!……ちょっと声落とせよ」
名を呼び間違える山形に、浜面が疲れた顔をして言った。
「なんだよ今度は!てめえらが絡んだせいで、俺たちの仲間はだな……!」
「ちょっと待て、ストップ!頼むから静かにしてくれって!騒いだら見つかっちまう」
金田が詰め寄ると、浜面は帽子で顔を隠すようにして、慌てている。どうも挙動不審だ。
「俺はもう、クラウンから足を洗った。てか、初めから奴らの仲間だったことなんてねえんだ」
「調子いいことばっかこいてンじゃねえぞ!」
「いや、マジなんだって、聞けよ人の話!」
両手を組み合わせてぼきぼき骨を鳴らしながら迫る金田に、浜面は汗を浮かべて言った。
「むしろ今は―――追われてんだ。見つかったら、ひどい目に合わされちまう」
「へえ、そりゃ仲がよろしいことで」
背の高い山形が、顔を寄せて威圧するように言った。
「かくれんぼの最中に、何の用だよ」
「いや、俺も全部を知ってる訳じゃねえけど、多分リーダーが知りたいのは、お前らの―――」
「ちょっと顔を貸してほしーんだな!金田くん?」
いやに快活な声で、別の男が金田の背後から現れた。
気配もなくいきなりだったので、金田は目を丸くした。
男は黒地に白のポイントを入れたバンダナをまいていた。山形と同じくらい背が高く、女子受けのしそうな整った顔立ちだ。
「なにあんた……知り合い?」
「いや、知り合いっていうか……」
甲斐が浜面に聞くと、浜面はどもった。
「水臭いな~、いつもお前には世話になってますってば!運転手さん!」
バンダナの男が浜面と肩を強引に組み、浜面は迷惑そうな顔をしている。
「……で、その仲良しさんが何の用だ?」
金田が静かに聞くと、男がにまっと笑った。
「ちょーっち話があるんだな。そう……鉄雄クンのことで」
何!?と、金田達3人が一様に顔を険しくする。
ああ、やっぱりそうだよな、と浜面は内心合点する。
「てめえ、一体ナニモンだ……」
「まあ、そう怒んなって……そうだな、ここで立ち話もなんだから、どっかでお茶でもしながら喋ろうや」
金田達の怒気を一顧だにせず、男はからからと笑いながら話を進める。
金田は余裕綽綽の優男の顔をじっと睨みつけた。
「そうか、いいぜ」
「おい、金田。こいつ怪しくねぇか?」
甲斐が引き留めたが、金田は了承した。
何となく、聞いておかなければならない情報が得られると、金田の直感が働いていた。
「おう、物分かりがいい奴は嫌いじゃないぜ……俺は
「そういうことなら」
訝しむ甲斐や山形、不安げにしている浜面を後目に、金田が不敵な笑みを浮かべて答えた。
「心当たりがあるぜ。ちょうどいい待ち合わせ場所をよ」