黒子が、逃げた男を追いかけて行った先では、アイドリング状態の白色のバンが、路肩に雑に停められていた。
「おい!追いつかれてるぞ!」
助手席の窓から、頭にバンドを巻いた男が顔を出し、唾を飛ばして怒鳴った。
「気を付けろ!ハァッハアッ―――アイツ、
黒子から逃げていた男が、車の横に立ち、息を切らしながら仲間へ警戒を促す。
「
足を肩幅より広めに開き、黒子は地面を踏みしめ、腕の腕章を示して言った。
「仲間を傷つけたこと……許しませんわよ」
「ハア?……なんだ、ガキ一匹じゃねえかよ……」
助手席からはバンドの男が降りた。バンドには、『帝国』と乱雑に黒のインクで書かれている。運転席からは、腹の突き出た、無精ひげを蓄えた男が降りてくる。
「おい、てめえ―――運転代われ」
「え?なんで」
息を切らすフードの男に対して、無精ひげの男が言い放つ。
「あのボーズを、『隊長』のとこに送んなきゃなンねえだろ。それに―――」
ひげの男とバンドの男は、ニヤニヤ笑いながら黒子の前に立ちはだかった。
「……強くなった、この力―――試してみてえしな。ジャッジメントのおチビちゃんよ」
ひげの男が、懐からナイフを取り出した。それを掌で弄んでから、刃の背を舌で舐め上げてみせた。
「……
バンが急発進するのを見て、黒子は車を停めるべく、釘をエンジンに転移させようと足を探る。
「おっとォ」
その時、黒子の頬のすぐ脇を、直線的な軌道でナイフが掠める。黒子は、自分の髪が、はらりと風圧で揺れるのを感じた。
「おいたはいけねェよなァ」
二人の男が笑い声をあげる。気を逸らされている間に、バンは甲高くブレーキを鳴かせて、狭い角を曲がって見えなくなっていった。
「そいつァ―――俺の脳ミソでどうとでも動く。俺様の
髭の男がせせら笑いながら指差した方を、黒子は一瞥した。
地面から3、4mほどの高さの位置に、ナイフが浮いている。
「さあて、どこを切り刻んでほしいか言ってみろよォ」
黒子に向けられた切っ先が、真っ青な空を背景に、光をギラリと反射した。
「首か?胸か?
「ッ……貴方たち―――『帝国』の方?」
下卑た男の声に対してはっきりと舌打ちをしてから、黒子は努めて平静を装って言った。
「おぉ!?ジャッジメント様にも知られてるたァ!俺らも有名人、てか?」
バンドの男が笑いながら答えた。
「帝国の民は……どうしようもなく知能が低いようですわね?この
黒子は嫌悪感を滲ませ、歯を見せて笑い返した。
「ンだとこらァ!」
髭の男が腕を振ると、ナイフが黒子目掛けて、空気を切り裂いて一直線に向かってきた。。
黒子はそちらを見ることもなく、軽く地面を蹴る。
ナイフはカンと音を立てて、地面を滑った。
「あれ……」
二人は辺りを見回す。黒子の姿は無い。
ふと、髭の男の顔に影が差す。
「え?」
男が上を見上げた瞬間、黒子のローファーの底が、男の鼻面を思い切り踏み締めた。
男は顔を歪めてよろける。
黒子は男の顔面をバネのように蹴り、体を思い切り捻った。そして、もう一方の足をしならせて、男の後頭部に蹴りを食らわせた。
肥満体はぼてっと路地に転がり、動かなくなった。
「げえッ!」
仲間が一瞬で倒されたのを見て、バンドを巻いた男が後ずさりし、ちょうどマンホールの上に尻餅をついた。
黒子は、地面に落とされたナイフを拾い上げる。
「先ほど、お仲間が教えて差し上げたのを、もう忘れましたか?」
黒子が、怯えた表情のバンドの男に向かって言った。
「伊達にジャッジメントを務めている訳ではなくてよ?」
「ま、待てよ……」
男は片手を突き出して黒子に制止を促したが、黒子はナイフをひらひらと振った。
「先ほどの下劣な発言……仲間を傷つけられたこと……私、怒ってましてよ?
たとえばこれを、……あなたの腹ン中に移動させたくなるくらいには?」
「わ、分かったよ……抵抗しねえ、降参だ」
バンドの男が、冷や汗をだらだら流しながら言った。突き出していた片手を下げて、自分が尻餅をついているマンホールの蓋を2、3度叩いた。
「アンタ、強ェんだな……ヘヘ、参ったぜ」
黒子は油断なく、男に視線を送り続けた。
「動かないでくださいまし―――」
「白井さん!」
その時、黒子の背後から、固法が駆け寄って来た。
「先輩?」
「大通りの現場は、アンチスキルが抑えたから大丈夫!それよりこいつらが―――」
固法は、地面に伸びている太った男と、座り込んでいるバンドを巻いた男を見やった。
「―――流石、白井さんね、……そのナイフで脅している訳じゃないよね?」
固法が、ちらりと黒子の片手に握られた得物を見ると、黒子は首をぶんぶん振った。
「や、嫌ですわ先輩!そんな物騒な所業、この黒子がする訳ありませんの!」
「でもね、私もちょっと手荒にやりたい気分なの」
「え?」
固法は、黒子の横に立って、バンドの男を見つめた。
「仲間をやられて怒ってるのは、あなた一人じゃないの、白井さん」
固法の声は静かだったが、確かな怒気が感じ取れた。
「私もよ」
二人のジャッジメントが、並び立って、相手を見据えた。
一陣の風が吹き抜けた。
「あ、ああ……二人もいるんじゃ、抵抗なんかしねェさ……」
声を詰まらせながら、男が言った。
固法が、男の様子を見て眉を上げた。
「なら、両手を頭の上に、腹這いになりなさい」
黒子は有無を言わせない調子で言う。
「オーケイ、オーケイ、分かったよ」
男が、またマンホールの蓋を叩いた。
「白井さん。あいつの下。用心して」
固法が急に囁いた言葉に、黒子が緊張する。
「先輩、
「あいつは―――下がって!」
それまで怯えていた男が、ニヤリと笑い、体を急に横へと転がした。
固法が黒子を突如後ろへ突き飛ばした瞬間、マンホールの蓋が吹っ飛び、ゴパアッと轟音を立てて水が空へと吹き上がった。
「察しがいいなァ!てめェ!」
高く上がる水の壁の向こうから、男が勝ち誇ったように叫んだ。
「俺の手にした能力は
「あっ―――」
固法が、水塊に体を巻かれた。苦悶の表情を浮かべる固法の顔が、黒子に見えた。
「先輩!!」
黒子が叫んで近付くと、固法は両手を突き出した。
「え……」
黒子は足を止めたが、遅かった。水塊が形を変え、黒子の体も覆う。
息をするためにもがくが、顔が空気に触れる度に、水が形を変え、鼻と口を塞いでくる。辛うじて地面に着いている足を進めようと蹴るが、抜け出せない。
水に巻かれた自分の体は重かった。
肺に水が流れ込むのを感じ、黒子は頭がくらくらした。水流は、黒子の体を毬のように上下左右から弄ぶ。テレポートで脱出しようと演算を試みるが、苦しさで上手く集中できない。
「水道ってのは便利だよなァ!水がぜェんぶ繋がってんだからよ!てめェらジャッジメントを、二人も始末したってなりゃァ、俺の株も上がる!ボスのお眼鏡に適うってモンよ!」
水の向こうで、男が何事か叫んでいるのが辛うじて見えたが、黒子にはそれを気にする余裕はない。
(まずい、このままじゃ……)
黒子は、パニックになりながらも、必死に思考を巡らせた。
勝ち誇っているバンドの男の背後から、一人近づく者がいた。
小石が蹴飛ばされ、男の足元に転がる。
気配を感じた男は、右手を水塊へ向けたまま、振り返った。
「なんだよ、てめェ―――今、いいとこなんだから、ジャマすんな」
現れた少女―――ケイは、身を屈めて、男の懐に飛びこんだ。
「あっ」
男が声を上げた時、ケイは男の片脚の腿を抱え上げた所だった。
男が集中を乱されたことで、操作されていた水塊は力を失い、重力に従って滝のように地面へ降り注いだ。黒子と固法がその場に手を着き、激しく咳込んで水を吐いた。
男がたまらず背中を地面に打ち付ける。
「てめェ!」
がむしゃらに男が蹴りを放つが、空を切る。逆にケイは、男の股間を思い切り蹴り上げた。
男が情けない空気が抜けるような悲鳴を上げた。
そしてケイは、男の横へ体を滑り込ませると、体重を乗せた片肘を、男の顔面へ見舞った。
追撃を食らった男は、その場に四肢を投げ出した。
「……あなたは」
息を整えて黒子は、現れた人物を見上げる。
「無事、かな?白井黒子さん」
ケイが、膝をつく黒子へと手を差し延べた。