耳元で誰がやたらうるさく息をしているのかと思ったら、それは自分の物だった。それと共に、否応なく早鐘を打つ鼓動が頭にぐわんぐわんと響く。ワイシャツの下の肌着がじっとりと汗ばんでいて、真夏だからこそ汗をかいている筈なのに、かえってひどく寒く感じた。そして両手を抱えると、震えている。止まってほしいが、止まらない。
自分の今の様子は、周りから見たら不審、奇天烈そのものだ。いや、自分は何もおかしな所はない。少なくとも、小一時間前まではそうだった筈だ。何故こんな醜態を晒しているのかと思い返せば、あの憎たらしい帝国の連中のせいだ。奴らの嘲笑が目に焼き付いている。今度会ったら、最大出力をもって吹き飛ばして、その四肢がペンキのように飛び散る様を眺めてやる。ちょうど、自分の寮の部屋の扉に書かれた脅迫の落書きと同じだ。僕にはその力がある。そんな力をもった自分を、皆が見ている。異物を見る目、好奇の目だ。噂話をしている。きっと悪い噂だ。皆の話し声がハウリングを起こし、エコーを響かせて脳を脅かしている。そして、目。いくつもの目。どうしてそんな目で僕を見るのか。
いつの間にか、腕の震えは全身へと毒のように回り、青虫が這いずっているかのようだ。小学校の時の勉強の中でも、理科が特に好きだった。モンシロチョウの幼虫の観察日記をつける時、学校の菜園に行っては、キャベツの軟らかい新葉を選んで、毎日飼育籠に加えてやった。そして、虫眼鏡で、のそりのそりと動く青虫が静かに葉をこそぎ取る様子を眺めているだけで、心が落ち着いた。なぜクラスメートが、気持ち悪いと敬遠するのか分からなかった。虫がかわいそうだった。
―――今の自分の置かれた状況から目を逸らすために、必死で違うことを考えようとしている。でなければ、本気で自分は気が狂ってしまうだろうから。自分を見ている誰も彼もが、あの青虫を遠目に嫌々見ていたクラスメートと同じなのだ。今の自分は、忌み嫌われる青虫だ。
大人に、助けを求めようか……ダメだ、やめた。自分のことを探している。僕を捕まえようとしている。この僕を。
誰も助けにはなってくれない。僕を救おうとしない学園都市など、くその山だ。見ていろ。
僕には、力がある。
みんな、僕の敵だ。
―――第七学区、学生街 アパレルショップ 「セブンスミスト」
「まず、カオリ先輩、スカート絶対似合いますって!勇気出して、履いてみましょうよ、ね?」
「そうかなあ……なんか足元が落ち着かなくって……」
「じゃあ、こんなのはどうです?……膝丈のワンピでひらひらさせつつ、デニムのパンツでビシっと―――」
「あっ、いいんじゃない、初春?でもさ、この暑さにちょっち合わないっていうか……こっちならどうでしょう、先輩?」
「そうだね……うん、この明るめの方がいいかな、えへへ……」
「なるほどね、あの人がバイカーズに襲われたところをね……」
御坂美琴は、店内の休憩スペースに置かれたベンチに座って、白井黒子と話していた。
二人から見える、少し離れた展示フロアでは、3人の同じ制服を着た少女たちが、様々な商品を手に取り、体に合わせてみては、和気藹々と話している。
「ええ。ひどい怪我だった上に、状況が状況でしたから……心にも、きっと深い傷を負ったのでしょうけど……あの様子を見ると、思った以上に、お強い方だったのかもしれませんね」
活発な後輩2人に、次々に着せ替えられながら、戸惑いつつも控えめに笑顔を見せるカオリの姿を見て、美琴は顔が綻んだ。
「ま、それも、アンタが風紀委員として、あの子を助けたお陰じゃん、黒子」
「私だけの力ではありませんわ」
少し照れ臭そうな顔をしながら、黒子が答えた。
「あの二人……初春と佐天さんがあの場に居合わせて、そして、彼女のために行動してくれたこと。そうして、今日もこうして友達のように連れ立っていること。特に、初春はジャッジメントとしては私の後輩ですが……なんだか、誇らしいですの」
「……うん!そうだね」
温かな表情をしている黒子を見て、美琴は気持ちが安らいだ。ここ数日、美琴から見た黒子は、ジャッジメントとしての責務を果たそうと、張り詰めていることばかりだった。そのため、ほんのひと時でも、ここに一緒に来て、3人の少女と出会えて、良かったと思えた。
「一七七支部の、白井じゃん?」
威勢のいい声に、黒子は背筋がピンと伸びた。美琴も声をかけた主を見た。
胸に白色の横縞と、三又の鉾の紋章。紺色の重厚なアーマーに身を包んだ女性のアンチスキルが立っていた。
「黄泉川先生!」
「元気にしてたかい?今月の初めに、バイカーズの取り締まりに当たった時以来だっけ?」
「ハイ。あの時は、アーミーの横槍で大変でした」
「アーミーねぇ……連中も大変だし、帝国も……そうだ白井!帝国に襲われたって聞いたじゃん?大丈夫なのかい?」
「
胸に拳を置き、黒子が元気よく言った。
「あんなダサい者共に、簡単にやられる白井黒子ではありませんの!」
「私が助けたんだけどねー……」
ぼそっと呟いた美琴の方へ、黄泉川が顔を向けて微笑んだ。
「ああ、
「あっ、いえ……当然のことをしたまでです」
「謙虚だねぇ」
感慨深そうに黄泉川が頷いた。
「レベル5とは思えないくらい……ところで、白井も初春も。随分楽しそうなパトロールだねぇ」
「いえ、これは、その……」
「ハハ、冗談じゃん」
しどろもどろになる黒子に、悪戯っぽく黄泉川が笑った。そして、やや顔を黒子たちに近づけ、声のトーンを落とした。
「本来、君らが校外の警備にあたることはないんじゃん。ましてや、
「いえ、そんなことは」
「ま、少なくとも、一般の子どもには、今日は早く帰ってほしいってのは本当だよ。物騒だからね」
黄泉川は、はしゃぐ涙子たちの方を見た。
「最近は息苦しい雰囲気だし、羽根を伸ばしたい気持ちは分からんでもないけど……白井からも言ってやってほしいじゃん。用が済んだらまっすぐ帰宅するように」
「は、ハイ、すみません」
ぺこりと恐縮して頭を下げる白井と美琴を見て、黄泉川は更に近付き、声を潜めて言った。
「……柵川中学のカオリちゃん、だね?」
「ええ……初春たちが連れて来たそうです。前々から約束していたんだって」
黒子も声を小さくして答えると、黄泉川は「そっか」と小さく頷いた。
「元気そうじゃん、よかった……」
黄泉川は少しの間目を細めて、それから屈めていた腰を上げた。
「ここ数日、
「分かりました」
「重力子の急激な加速が検知されたら、私らも動くし、君らの携帯にも速報がいく。そしたら、まずはその現場を確認して、周りと、自分たちの身を守りなさい。腕章はつけなくていいから。いいね?」
ハイ、と返事する黒子と美琴の様子を見て、黄泉川は満足げに頷き、その場を去っていった。
「銀行強盗がお縄になったと思ったら、帝国に爆破魔に、アーミーの暴走、おまけにデモと来たか……」
「全くですわ。ここはよく学び、よく遊ぶ、健全な学生の街ではありませんの?」
「白井さーん、御坂さーん!」
一緒になってため息をつく美琴と黒子へ、鬱々とした気分を吹き飛ばすような明るい声が届いた。
「私たち、もう少し奥を見てみますけど、お二人はどうしますー?」
「初春ったら、すっかりショッピング気分ですわね……」
まあ、たまにはいいでしょう、と付け加えた黒子の顔は、満更でもなさそうだった。
「……あっちのコーナーには、寝間着が……」
そういえば、パジャマ、最近縮んじゃったっけ。
そう思い出し、美琴は黒子から少し遅れて腰を上げた。
黄泉川は、4ビートのエレクトロポップが流れる店内を歩きながら考えていた。
カオリ。職業訓練校の生徒で、アーミーのラボへと連れていかれ、今は「帝国」のリーダーを務めていると疑われる、島鉄雄の交際相手。あの楽し気な様子では、彼氏がバイカーズ絡みの殺人事件の容疑者として名前を挙げられていることなど、知らないようだったが……。
それとなく、後で探りを入れてみようと、黄泉川が考えていると、血相を変えた様子の相方が走ってきた。
「黄泉川先生!」
「どうしたじゃん?鉄装」
片手を膝について鉄装が立ち止まり、息を切らしながら口を開いた。
「1階のフロアで―――
「何!?」
黄泉川の表情が一気に引き締まる。重力子の異変を、衛星が感知したという情報は、まだ無かったはずだ。
「奴の所在は?」
「それが―――」
鉄装が何か言いかけた瞬間、黄泉川の背後から、甲高い悲鳴が聞こえた。黄泉川は、背中に悪寒がぞくりと走るのを感じた。
――― 第七学区、病院前交差点付近 雑居ビル
「協力、感謝する……同志」
神妙な面持ちで頭を下げる竜作に対して、初老の男が顔を俯かせた。
「……まさか、ゲリラに協力する日が来るなんて思わなかったよ」
静かに、男が語った。
「このビルの1階に入ってる古書店の本はな、弟が東京でやってたのをそのまま譲り受けて来たんだ。検閲が入ったもんで、随分苦労したよ……政府が強行しやがった税制の改変、あんたならよく知ってるだろう?出版業界だって無関係じゃなかった。本ってのはな、一度にどでかい数を刷るもんだから、税抜きで価格表示するのが業界の常識だ。そうだろう?食べ物とは訳が違うんだ。総額のシールを全部一から貼れって押し付けられたら、俺たち零細の出版社はたまったもんじゃないんだ。それを……弟は、アイツは、ただ、考え直してくれって、署名の発起人に名を連ねただけなのに……特務警察に連れてかれちまった。それで、もう長い間、会わせてもくれねえんだ。この国はいつからこうなっちまったんだ?」
「……あなたのお気持ちは、痛いほどに分かります」
竜作は、ゆっくりと言った。
「あなたのような市民が抱える耐え難い痛みを、権力に胡坐をかく奴らへの一矢として必ず報いとして、放ちます。お力を貸していただき、感謝に堪えません」
「……どのような結果になろうと、確かなのは、俺はこのまま黙り込む訳にはいかないってことなんだ」
拳を握り、男が言った。
「外で大勢の人が声を上げているように、これが俺なりの叫び方だと思ってくれ。頼んだよアンタ」
男はそう言うと、自分の背後にある2つのスーツケースを指差した。
竜作は今一度、自分が今いる雑居ビルの主に向かって一礼すると、スーツケースを両手に階段を昇り、上階の書庫へと入った。そこでは、うず高く積まれた書籍の数々や、それらが押し込められた段ボール箱、古い印刷機などで溢れ、部屋に置かれた物、床、空気までもが薄く埃をまとっているようだった。
竜作は、紙片が散らばった床を進み、軋む重い窓を僅かに横へ開けた。
巨大な白い建物―――学園都市のアーミー駐屯部隊のトップがこれから訪れるという、病院が見渡せた。駐車場に向かって飛び出した正面玄関が、はっきり見える。駐車場から手前のゲート前には、複数の車線同士が交わるT字型の交差点があり、竜作がいる雑居ビルの側には、既に大勢のデモ隊が横断幕を掲げ、司令官を待ち構えていた。その相向かい、病院側の歩道に人通りは少ないが、病院の警備員や少ない人数のアーミーの哨戒兵が、困惑した表情で立っていた。デモの事前情報は伝わっていないようだ。
竜作は、スーツケースを2つ、床に置くと、それぞれの中身を取り出した。
ゴトリ、と重たい金属の音が、僅かに埃の積もった床に伝わる。
片方のケース入っていたいくつかの部品を組み立て、塗装が至る所剥げたデスクを窓の前に移動させ、組み立てた物を、三脚を使ってデスクの上に設置する。人間の足首くらいの金属製の筒に、更に4つの金属製の箱が、一見規則性なく取り付けられている。黒色の箱型であるその上部にはそれぞれいくつかつまみが付いていて、ストリートライブで使うポータブルアンプリファーのようだった。
竜作は、一際太いケーブルを、もう1つのスーツケースに収められたバッテリーに接続した。
統括理事会のあるメンバーの配下だという人物から支給された、学園都市で開発中の、プロトタイプの狙撃銃。銃というよりは、
竜作は、そっとその銃身に触れた。咽返るような部屋の空気の中、無機質な冷たさがはっきりと竜作の指に伝わって来た。
――― セブンスミスト 店内、2階
佐天涙子が悲鳴を上げ、初春飾利が泣きそうな顔をして口に手を当て、白井黒子がその隣に警戒心を露わにしながら空間移動した。パジャマの展示の前で、なぜかこの場で出くわした顔見知りの男と口論していた御坂美琴も、振り返った。黄泉川愛穂が、仲間と共に駆け寄って来た。ほかの客も、固唾を呑んで状況を見守っていた。
「誰も動くな!!」
茶色がかった長い髪を振り乱した、眼鏡姿の学生風の男が、叫んだ。片手に銀色のフォークを握り締め、その切っ先を一人の少女の首元へ当てている。そして、もう片方の腕で、少女を抱え込んでいる。
「動くなってば……お前ら、みんな僕の敵だ……!」
ひどく汗ばんだ腕で締め付けられ、カオリは息が苦しくなった。
視線を上にして見えた男の顔は、目が飛び出そうなほどに必死の形相で、どこか泣きそうにも見えた。
この人、どこかで会ったような。
息苦しさと恐怖、戸惑いに混ざって、そんな場違いに冷静な感想が、カオリの頭をよぎった。
原作設定を、『禁書目録』から『超電磁砲』に変更すべきか悩んでいます。
『超電磁砲』自体が『禁書目録』のスピンオフという位置づけである以上、原作は『禁書目録』のままでもいいかと考える反面、時系列が『超電磁砲』に沿っている以上、やはり原作設定を変えるべきか、迷います。