数分前 ―――
「何やってんだよ、お前」
全身ミラーの前で、御坂美琴は目を丸くしてひどく赤面した。かわいらしいピンクや水色の花柄が添えられたドット模様のパジャマを自身に合わせている最中に、突然聞き覚えのある声がかかってきたからだ。
美琴はパジャマを後ろ手に隠しつつすぐさま振り返り、たった今声をかけてきた、スパイキーな黒髪の男に向かって振り返った。
「な、何でこんなとこいんのよ、アンタ!」
「いちゃワリぃかよ……通りすがっただけだって」
上条当麻は「声なんかかけるんじゃなかった」とでも言いたげに眉を顰め、通路の先を指差した。
「俺が用あんのは上のフロアだよ。階段があっちなんだから」
「階段?エレベーター使えばいいじゃん」
美琴が怪訝そうに言うと、上条は首を振った。
「今点検中なんだと……好きで女性物のフロアを通ってる訳じゃねーぞ」
そう言うと、上条は早々に立ち去ろうとする。
「ま、待ってよ!」
美琴が上条の背中に向かって言った。なぜか、自分の声が僅かに上擦っているのを感じた。
上条が怪訝そうに振り返る。その顔を見ると、美琴はなぜ待つように声をかけたのか、理由がないことに気付き、口をぱくぱくさせた。
「何だよ」
「アンタ……昨日の今日で、お金ある訳?ちゃんとカード使えたの?」
美琴は咄嗟に思いついたことを言う。上条が何度か素早く瞬きした。
「そりゃ……お前が心配することじゃないだろ。お陰様でね、こちとらカードが使えなくなって大変で―――」
「使えない?」
美琴が聞き返すと、上条はバツが悪そうに顎を引いた。
「だって、カードは無事に出て来たんじゃ……」
「いや、それは、お前があそこで
「じゃ、何で尚更服なんか買いに来たの」
「そりゃ、貧乏学生と言えど、穴のあいた服をいつまでも着る訳にはいかねーだろ」
「そうじゃなくて、お金はどっから?」
弱みを突かれたような上条の様子を見て、美琴は意地の悪い笑みを浮かべて詰め寄った。
「なんか、怪しくない?」
「―――ッか、関係ないだろ!」
上条が詰まりながらになって言い返した。
「お前こそ、あの騒ぎの後だし、コンビニのATMの修理代は当然弁償するんだよな!?」
「えっ」
今度は、美琴が虚を衝かれたように身を引いた。
「えっと……し、しなくていいって、店長が……」
「はァ?どういうことだよ」
上条が面食らった顔をした。
「そんなの、私に聞かれても!ただ、店長さんが、『元々明日にでも交換予定だったから、構わない』って、言ってくれたから……」
「いや、おかしくね?そんなうまい話あるか?」
理由を言い立てる美琴に、上条が腕組みして疑いの目を向けた。
「お前、白服のジャッジメントに事情聴かれてただろ?何もお咎めなしだってのか?」
「白服……ああ、この辺じゃ見ない制服だった。て言うか、何が言いたいの?」
上条が美琴の問いにすぐには答えず、じっと見つめたので、美琴は頬に熱が上るのを感じた。
「……やっぱりそうか」
暫くして、上条はひとり頷いた。
「やっぱりって、何?」
「何となく分かったぞ。あの雛祭りばーちゃん、手を回してたってことか」
「あのさァ!」
上条の様子が、一人で勝手に納得しているように見え、美琴が苛立ちながら言った。後ろでパジャマのハンガーを握る手が、微かに汗ばんでいた。
「何が言いたいのか、はっきりし……?」
美琴は、憤りの言葉を途中で遮った。上条の背後から、髪を振り乱した学生風の男が駆け抜けていったからだ。
「……なんだ?」
上条が呟いた。学生風の男は、辺りを忙しなく見渡してから方向を変えて、フロアの中心へ続く狭い通路を走っていく。
「おい、止まれ!」
今度は、防護服に身を包んだアンチスキルが2名、追い掛けて来た。
「……なんか、嫌な予感がする……」
胸騒ぎがした美琴が、ぽつりと呟いた次の瞬間、女性の悲鳴がはっきりと聞こえた。
フロアの中央寄りの売り場では、カオリが一人、美琴と同じように、商品を鏡の前で自分の体に合わせていた。
ぼさぼさの前髪が目にかかる、中学3年生にしては幼い顔と、夏の澄んだ空をそのまま垂らしたような水色の夏服とが、カオリの目にはひどくギャップを生んでいるように見えた。
「ワンピースかぁ……」
涙子や初春が、絶対似合うと言ってくれた、その言葉を反芻しながら、カオリは体を左右に少し揺らしてみた。
薄手の生地が、店内の照明を受けて、控えめにきらりと光った。
こんな風に、新しい服を選ぼうとするのはいつぶりだろうか。
小学校を卒業したころから、大して体格が変わっていないカオリには、久しぶりの感覚だった。
こんな機会を作ってくれた、涙子と初春には、感謝のきもちでいっぱいだった。そして、とても久しぶりに味わう友達という感覚に、胸がずっと温かく高鳴っていた。
それに、服を合わせている自分の姿を見ていると、それまでの高鳴りとは別の震えも感じる。
「鉄雄君、喜んでくれるかな……」
「せんぱーい?カオリせんぱーい!」
涙子の明るい声が聞こえ、カオリは商品を元に戻した。
「ああ、ごめん、今行くよ」
カオリも声を張り上げて、振り向いた所で、足が急に竦んだ。
目の前で、学生風の少年が息を荒げて立ちはだかっていたからだ。
「あっ、あの……」
「僕は悪くない……悪いのはみんなだ」
「え?」
聞き返したカオリに向かって、ギラリと、少年の手に握られた何かが煌めき、向けられた。
現在 ―――
「動くなって言ったんだ!」
口から唾を撒き散らし、介旅初矢が目を見開いて叫んだ。徹夜明けのように、奇妙に充血していた。
「アンチスキルも、ジャッジメントも!全員だ!」
「介旅君だね?―――待ちなよ。攻撃なんかしないじゃん」
何も持たない手を挙げて、黄泉川は敵意が無いことを知らせようとする。しかし、介旅は片腕の力を更に強くし、カオリの首を締め上げた。
「嘘だ!信じられるか!お前ら―――お前らは、今まで何度だって、僕を助けなかった癖に……」
カオリの両手が介旅の腕を掻きむしり、爪痕から血が滲んだが、介旅はまるで意に介していないようだった。
「オーケー、オーケー!」
黄泉川は自分の両膝を床に付き、正座する形になった。それから、周囲を見渡して叫んだ。
「みんな、一旦退いて!」
「でも、黄泉川先生―――」
「いいから!」
鉄装を始め、黄泉川と駆け付けた数名のアンチスキルの仲間は、黄泉川の指示を受けて、介旅から距離をとり、武器を持っていないことを示すために両手を空けた。
まずいな。黄泉川は急激に焦りを募らせた。介旅の様子は尋常ではない。『帝国』がバラ撒いているというドラッグでもやっているのか、まともな話ができる状態ではないと判断した。しかし、だからといって、介旅が爆発を引き起こす演算もできない、という保証にはならない。少なくとも、カオリの首筋に当てているのは、明らかにアルミ製のフォークだ。その気になれば、介旅はいつだって、重力子を加速させ、カオリはもちろん、このフロアの広範囲を吹き飛ばせるかもしれない。そうすれば、介旅自身も無事では済まないはずだが、最早彼は自暴自棄なのだと、黄泉川には分かった。
刺激しないことが最優先だが、彼はアンチスキルやジャッジメントを目の敵にしている。どうすればいいのか―――。
黄泉川は、何か解決策が無いかと、思考を必死に巡らせた。
「どうしよう、初春、どうしよう!―――先輩が!」
前触れもなく、急に人質に取られたカオリを見て、冷静さを失った涙子が何度もくり返して言った。初春は涙子の手を握るが、何も言えずにいた。
そんな2人の横から、黒子が進み出て、介旅をするどく見つめた。
「その人を放しなさい!」
黒子の凛とした声が響き、介旅も、初春と涙子も黒子の方を見た。周囲のアンチスキルも、俄かに体を動かした。
「なんだ、お前!」
介旅が叫んだ。
「お前も、僕の敵なんだろ!?」
「ジャッジメントですの!」
片腕に腕章は無くとも、黒子の声色は変わらなかった。
「あなた、帝国の手先ですわね。その人は関係ない、放しなさい」
「白井!やめるじゃん!」
黄泉川が焦りを含んだ声で呼びかけた。
「彼の狙いを分かってて!?私らに任せて!」
「ジャ、ジャッジメントだと!」
介旅が更に激昂する。
「な、なら、尚更、敵だ。僕を救わない、お前らが悪いんだ!!」
「ええ、あなたが、私たちジャッジメントを狙っているのは知っています」
黄泉川の呼びかけには敢えて答えず、黒子はゆっくりと介旅へと歩を詰めていく。
「なら、私が代わりますわ。その人を放しなさい」
「ダメ、白井さん!」
「黒子!やめて!」
初春が、切羽詰まった声で黒子の後ろから言い、それとほぼ同時に、別方向から駆け付けた美琴が叫んだ。美琴の後ろには、黒子もよく知るツンツン頭の少年が一緒だ。しかし、黒子には今、そちらに取り合う暇はなかった。
「そうだよ……白井さん」
介旅に捕まっているカオリが、息も絶え絶えに言った。顔が紅潮している。
「私なんかのために……みんなを連れて逃げて」
「大丈夫ですわ。カオリさん」
黒子は毅然と、しかし優しい声色で言った。
「もう誰も―――私の知っている人に、傷ついてほしくはないのです」
「お前、何を言ってる!今まで散々痛い目に遭ってきたんだ。この僕の気持ちなんか……」
介旅は言いかけて、急に言葉を止めた。充血した目を、まっすぐに黒子に向けている。
「……きみ、無事だったんだ……」
「ええ」
黒子が静かに答えた。
「あなた方、帝国の手に落ちる程、この白井黒子、ヤワじゃありませんの」
「そうか、そうだったんだ……」
何かを悟ったように、急に静かに介旅が言った。カオリの首筋に突きつけているフォークを持つ手がより大きく震えている。
「そうだもんな……知る訳ないよなァ、僕のことなんか」
「生憎と、帝国で働く爆弾魔さんのことなど、然程深く存じ上げませんわ」
黒子が、じりじりと歩み寄りながら言い放った。
「……なら、もう終わりだ」
黒子にさえ聞こえないくらいの声を、カオリは確かに聞いた。
自分を締め上げる介旅の腕に、ぽとり、と雫が落ちるのを、カオリは見た。
「全員、よく聞いて」
介旅が黒子と問答をしている間を見計らって、黄泉川が襟元のインカムをオンにし、口をほとんど動かさずに喋った。
「対象は薬物による興奮状態の可能性が高い。説得は断念。私が
「でも!音で人質が傷つく可能性は……」
「重力子の加速を始められたら、あたしら諸共みんな吹き飛ぶ!」
鉄装からの反論に、黄泉川は早口で答えた。
「一刻を争う。演算を始める前に、やるよ!」
黄泉川は言うが早いか、慎重に身を後退させた。
「潮騒、貰うよ」
「了解」
同僚の男性警備員の背嚢から、黄泉川は発音筒を静かに取り出した。
やっぱり、いつもこうなんだ。
カオリは、息苦しさの中でぼんやりと考えた。
恐怖よりも、今は妙にふわふわとした不気味な感覚が頭の多くを占めていた。足が床についているのかどうか、分からなかった。
自分は、いつも悪いことに巻き込まれる。
その度、誰かに助けてもらおうとする。
今だってそうだ。白井さんやアンチスキルの先生たちに助けてもらおうとしているし、涙子ちゃんや初春ちゃんを心配させている。
私って、ダメだなあ……
「何だよ、何言ってるんだよ」
別に。
ただ、自分はある日、流れで死んでしまうんだろうなって、何度も思ってきた。
苦しい思いもいっぱいしてきたし、嫌な思いもたくさん。
「……そうか、僕とおんなじか」
うん。
だから、あなたがここで私を殺したって、仕方ないのかも。
私が、死んじゃってもいいなんて、簡単に思ったから。
きっとバチが当たったんだ。
「どうなんだろうな……僕も、ひどいことをしてきたから、そうなのかも」
でもさ。
思っちゃったんだよ。
楽しかったなあ、幸せだなあって。
友達らしい友達ができて。
私を、ひとりの人間として見てくれて。
「……やっぱり、僕とちがうな、君は」
……でもね、ごめん。それでも、今は、死ぬのは怖い。
「ダメだ」
死にたくない。
「ダメだ!君も、僕も……みんなここで死ぬんだ!道連れにしてやる!」
生きたい。
もっと、いろいろなことをしたい。
楽しいこと、幸せなことに出会いたい。
助けて。
誰か。
助けて。
助けてほしい―――
……鉄雄君!
「まずい!」
空気を吸い込むようなシューッという音が聞こえ始め、美琴は嫌な直感を感じ、手を伸ばした。
なんとか、カオリを巻き込まない形で電撃を放ち、あの男を倒す。
上条はダッと駆け出した。
右手を精一杯、介旅に向けて伸ばす。
どこか上の空の呟きを続ける介旅を見て、「今だ!」と感じた黒子は、太腿に忍ばせた金属ピンに手を伸ばす。
間もなく訪れるであろう惨状を予想し、初春と涙子は息を呑む。
「五、四、さん―――」
能力を行使し始めたことを察した黄泉川は、できるだけ静かに、しかしはっきりと数えながら、発音筒のピンに指をかける。
突如、その誰もが、ぴたりと動きを止めた。
「ああああああ!!!」
介旅が苦悶の叫び声を上げながら、左手を顔の前に上げて驚愕の表情を浮かべていた。
手首から先が、あらぬ方向に折れ、すっかりと力なくぶら下がっている。
フォークが床にカツンと音を立てて落ちた。
ほかの誰もが、介旅のすぐ傍に突如現れた人影を凝視していた。
介旅に向かって、片腕を伸ばしている。
「……て、」
てつおくん。
カオリが声を漏らした先には、逆立った髪の、小柄な少年、島鉄雄が立っていた。