「どうぞ」
黒子が病室の扉をノックすると、中から女性の声が入室を了承した。
黒子が先に、後から初春とカオリが中へと入る。
明らかに、先ほど訪れた佐天涙子の病室よりも開放的で、陽当りの良い部屋。部屋の主は、涙子とは異なり、ベッドに寝かされてはおらず、ベッド脇に置かれたデスクの前の椅子に腰かけ、こちらへと体の向きを変えた。
茶色味のあるウェーブがかかったセミロングの髪に、気怠い眼差し。目の下には、はっきりと隈が浮き出ている。幸薄そうな青白い肌の痩せた女性だった。傾きを増して橙色味を増す陽光が、背後の窓から差し込み、却って彼女の顔に影を作ることで、より儚げな印象を強めていた。患者衣を身に付けているが、一見目立った外傷や病を患っている様子はない。
「お初にお目にかかります、
黒子が頭を下げて挨拶した。
「お会いできて光栄です。先刻、連絡致しました、ジャッジメント一七七支部所属、白井黒子です」
「どうも。木山春生という。大脳生理学を研究している。専門は、AIM拡散力場……能力者が無自覚に周囲に放出している力の―――」
話の途中で、木山は黒子の制服姿に目を留め、小さく首を振った。
「―――君は常盤台だね。説明するまでもないか……」
どこか陰鬱そうなアルトの声は、長い前髪が影を落とす相貌にぴったりだった。
「大脳、生理学……」
「ん?ああ、大脳は動物の行動を支配する領域だ。その機能を研究している。私の場合、AIM拡散力場を専門とする以上、人間の潜在的な意識や、情緒といった面にも手を伸ばしているがね」
カオリの呟きに対して、木山が説明を加えた。
「ところで、君ら……常盤台の学生さんではないね?」
「あっ!申し遅れました―――」
木山が僅かに首を傾げたことで、初春とカオリも名乗る。
木山春生は、後に名乗ったカオリの顔を、なぜか興味深そうにしげしげと眺めた。
カオリは無性に不安になる。
「あの……」
「ん?ああ、いや、すまない。ジャッジメントではないのだね、君は」
木山の言葉に、カオリは咄嗟に頭を下げる。
「すみません。今日、この病院に友人が担ぎ込まれて……もしお邪魔でしたら、外で待ちます」
「いや、構わないさ。ジャッジメントのお二人に同行しているというなら、信頼がおけるということだろう」
木山からの予想外の誉め言葉に、カオリは僅かに頬を赤くした。
「あの、押しかけておいて失礼ですが、入院中、ということですよね?」
初春が言うと、木山は首を振った。
「ああ、気にしないでくれ」
ちらりと、不自然な膨らみのある左肩に目をやって、木山が答えた。
「銃弾の摘出は済んでいてね。まだ、思うようには動かないんだが」
「銃弾……」
黒子が僅かに息を呑んだ。
「その、噂に聞いているのですが……アーミーの部隊に襲われた研究者というのは……あなたが」
「まあ、アンチスキルは警備をしてくれているようだし、ジャッジメントたる君たちなら、まさかアーミーに口外することもあるまい。隠し立てしてもしょうがないか」
木山はふっと笑みを浮かべ、デスクの上に置かれたコンピューターに視線を向ける。
「どうも、奴らは作戦行動を行う階層をお間違えなさったようでね。とんだとばっちりだよ。私は予てからの研究に没頭していたいだけなんだ。幸い、ここの院長とは知り合いでね。こうして、絶賛テレワーク中なんだ」
そう言うと、木山は椅子を動かしてデスク上のコンピューターに向き直り、動く右手でキーボードを操作する。
その一方で、一切マウスに触れていないのに、画面上のポインタは忙しなく動き、幾つかのメールや添付のドキュメントを開いて表示していく。
その様子を見て、カオリは「どうやって……」と思わず声を漏らした。
驚いているカオリに気付いた木山は、ふっと口の端に笑みを浮かべ、手を止めた。
「オン・スクリーン・キーボードだよ」
木山の右手の指が、コンピューター・ディスプレイの下部に取り付けられている、横に細長いウェブカメラのような物を軽く突いた。
「目新しい技術じゃあない。今世紀初めにはゲーミングで分厚いメガネ様の物が出回り始めていた。これは、画面下に取り付けるだけで、視線の動きをトラッキングしてくれる。お陰で、ドライアイに拍車がかかったけれどもね」
初春とカオリは感心したように頷いた。
「この個室も用意してもらってね。研究機密に関わるデータをいじるには、オフィスのサーバーに直接アクセスしなければならないが……今どきは、セキュリティさえしっかり整えれば、基礎的な分析くらいクラウドでできるからね。ありがたいことだよ」
木山は少し首を伸ばし、黒子たちが今しがた入って来た出入口を見る。
「ところで、アーミーの連中は私を探しているだろう……この病院周辺に張り込んでいなかったかい?」
「いえ」
初春が答えた。
「彼らは、先日のデモ隊鎮圧の騒動で、指揮官の首が飛ぶことになって……てんてこまいしてるみたいです」
「そうか、指揮官は去るのか……」
木山は、初春の答えを聞きながら、出入口の方をしばらく見つめたままだった。
どこか遠い目をしていた。
「あの」
木山の態度が不服を表していると捉え、黒子が申し訳なさそうに言う。
「御加減が万全でない所に、お時間を取らせてしまい、すみません」
「いや、気にしないでくれ。白井君からの連絡は興味深い物だったし、実は今日、この病院の院長からも同じ件で相談を受けた所なんだ」
「本当ですか!?」
「ああ」
木山はそこで、ようやく黒子たち3人に視線を戻し、僅かに椅子に座る身を乗り出して来た。
「―――『帝国』というスキルアウトチームにまつわる、原因不明の昏睡患者の急増について、だろう?」
「なるほど、『
「今日、担ぎ込まれた佐天さん……私の友人なんですけど、どこかからそのデータを入手したらしく、携帯で聞いて、一瞬能力のレベルが上がったと思ったら、急に倒れたと」
初春が、沈痛な面持ちで語る。
「他に、火曜日に学生街で起きたテロ未遂事件の犯人……彼も帝国のメンバーの一人で、レベルアッパーを使用して能力を向上させていました。その彼も、つい最近昏睡状態に陥っています。他に何人も同様に昏睡し……彼らの共通点は、レベルアッパーと呼ばれる音声ファイルを自身の端末に保存していたこと。ジャッジメントやアンチスキルのもとに、いくつも報告が上がっていますの。」
黒子が語る内容に、木山は動く方の手を顎に当てて、考える素振りを見せた。
「今聞いた情報だけでは、不明な点が多い。能力を強化するということは、脳に影響を与える何らかのシステムが働いている筈だ。しかし、音声がそれを可能にするかと聞かれれば、困難だといえる」
木山の言葉に、黒子と初春、カオリの3人は聴き入る。
「短期間で、急激な能力の向上を実現する手段としては、例えば
「今は、アンチスキルにデータを提出しておりますが、あちらも専門的に分析する協力者を欲しています。近々、正式に木山先生の研究所へ依頼をさせて頂くかと」
「研究所経由でも結構だがね、些か遠回り過ぎる。私に直接連絡を寄越して構わない」
「……よろしいのですか?療養中のお身体で……」
「興味がある。寧ろ、こちらからお願いしたい位だよ。どうせ動かないのは片腕だけだからね。デスクワークに支障はない」
木山の言葉に、黒子と初春は顔を見合わせ、頬を僅かに緩ませる。
「ありがとうございます!……実の所、先生のご意見を伺いたいと思っていたのですわ」
「まあ、まずはそのデータを分析してみるのと……丁度、ここの院長からも依頼を受けていてね。私の研究チームが、もう間もなく、搬送された昏睡状態の患者さんたちを観察して、データを収集することになっている」
木山はそこで、初春とカオリへと視線を向けた。
「……君たちのお友達の状態も、調べさせてもらうが……」
「本当ですか!?」
「涙子ちゃんは……先生、良くなるんですか?」
初春とカオリが、咄嗟に目を輝かせる。
「私は医者じゃない」
二人の期待をよそに、木山の返事は冷静だった。
「治療はできないが……そのような状態になった原因を解明するのが仕事だ。それは決して、お友達の状態を改善することと無関係ではないと思う。力になれたら嬉しいよ」
初春とカオリは、木山の言葉を噛み締めると、真剣な面持ちで頷いた。
木山は頷き返すと、再び黒子の方を向いた。
「是非とも、そのレベルアッパーとやらのデータを提供してもらいたい。ウチの研究チームがこれから患者を観察するから、その結果とも照らし合わせて考えてみようじゃないか。よければ、明日のこのくらいの時間に、また来てくれないか。私は、断裂した筋肉が繋がるまで、もうしばらくここに詰められる予定だからね」
「分かりました。大変なところ、ご協力感謝申し上げます!」
「ありがとうございます」
黒子とカオリは礼を伝え、部屋を後にしようとする。
「あの、ひとつだけ、聞いてもよろしいですか?」
立ち上がった初春が言ったので、黒子とカオリは足を止め、彼女の方を見た。
「何だい?」
木山は、どこか沈んだ瞳で、初春を見上げた。
「私の友人……佐天さんは、昏睡状態に陥る直前、錯乱したようにうわ言を言っていたのですが……『アキラ』という名前を繰り返し口にしたそうです。急激な能力向上の副作用なのかどうか……何か心当たりは?」
「えっ」
カオリは思わず驚きの声を漏らした。
アキラ。
今日の午後、中学校の女子トイレで、いじめっ子のユミコもしきりに口走っていた名だ。
なぜ、接点のない二人が、昏睡に陥る前に、同じ名を?
木山春生は、初春の問い掛けに、視線を僅かに右上に向けて一瞬考え込んだ。
それから、一度瞬きをして、初春を見た。
「……いや、何とも言えないね」
木山の様子を見ていると、カオリはなぜか、不意に何とも言えない違和感を覚えた。
3人の女子生徒が部屋を去った後、一人だけになった室内で、木山はゆっくりとコンピューターの画面に向き直った。
木山は、3人の中でも、一番寡黙で控え目だった少女のことを思い浮かべていた。
「……偶然かな。どういう風の吹き回しだろうね、島君。君の想い人が、私のもとへ来るとはね」
独り言ちながら、木山はコンピューターを操作していき、あるファイルを開いた。
「……君のお陰だ。もうすぐ……あの子たちを救える」
木山の疲れた目は、画面上に表示された波形パターンを映していた。
それは虹色に輝き、険しい稜線のような波を止めどなく形づくり、円を描いて揺らめいていた。